ヴィヴェーカナンダの言葉

(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「真の人と外見の人」より一部転載させてもらいました)





 ここにわれわれは立ち、将来のことを、ときにはず
いぶん先のことまで考えています。人は、考えること
をはじめたとき以来、それをしてきました。彼はつね
に、将来のことを考えています。自分のからだが解消
した後にどこへ行くのか、ということまで考えていま
す。説明を提供しようとして、さまざまの理論、さま
ざまの学説が提出されました。あるものはしりぞけら
れ、あるものはうけいれられました。こうして、人が
ここにいるかぎり、人がものを考えるかぎりはこのよ
うなことがつづくでしょう。これらの学説のおのおの
に、いくらかの真理はふくまれています。それらのす
べての中に、たくさんの、真理ではないものがふくま
れています。私は、インドでおこなわれたこの問題の
探求の要旨、その結果を、みなさんにおはなししてみ
ましょう。インドの哲学者たちの間に時代をおって生
まれた、この問題にかかわるさまざまの思想を、調和
させるようにしましょう。心理学者たちと形而上学者
たちを調和させるようにし、そしてもしできれば、そ
れらを現代の科学的思想家たちとも、調和させるよう
にしましょう。
 ヴェーダーンタ哲学の唯一のテーマは、単一性の追
求です。ヒンドゥの心は、個々のものには頓着しませ
ん。それはつねに、一般的なもの、いや、普遍的なも
のを求めています。「それを知ることによって他のあ
らゆるものを知ることのできるもの、それは何である
か」それが唯一のテーマです。一個の土のかたまりを
知ることによって土でできたすべてのものを知ること
ができるように、それを知ることによってこの全宇宙
そのものが知られる、それは何であるか。それが唯一
の探求です。ヒンドゥの哲学者たちによりますと、「こ
の宇宙の全体は、彼らがアーカーシャとよんでいる、
一つの要素に還元され得ます。われわれが自分のまわ
りに見たり、感じたり、ふれたり味わったりすること
のできるあらゆるものは、要するにこのアーカーシャ
のさまざまのあらわれなのです。それは一切所に遍満
しており、精妙です。われわれが固体とか、液体とか、
気体とか、すがたとか形とか、身体とか地球とか太陽
とか月とか星とかよんでいるすべてのもの、それらは
ことごとく、このアーカーシャからできています。
 このアーカーシャに働きかけてそれからこの宇宙を
つくりだすのは、どんな力なのでしょうか。アーカー
シャとともに、普遍的な力が存在します。力として、
または魅力として−いや、思いとしてさえ− あら
われている、宇宙間の力であるものすべては、ヒンドゥ
たちがプラーナと呼ぶその一つの力のさまざまのあ
らわれであるにすぎません。このプラーナがアーカー
シャに働きかけて、この宇宙の全体をつくっているの
です。一つの周期のはじめには、このプラーナはいわ
ば、アーカーシャの無限の大海の中にねむっています。
それは、はじめは不動の状態で存在しました。それか
ら、このプラーナの活動によって、このアーカーシャ
の海に運動がおこり、このプラーナがうごきはじめる
と−振動しはじめると− この海から天体、多くの
太陽、月、星々、地球、人間、けものたち、植物およ
びさまざまの力と現象のすべてのあらわれが生じま
す。力のあらゆるあらわれはそれゆえ、彼らによると、
このプラーナです。あらゆる物質のあらわれは、アー
カーシャです。この周期がおわるとき、われわれが固
体と呼ぶすべてのものは、つぎのもっと精妙な、すな
わち液状のものにとけてしまうでしょう。さらにそ
れはガス状のものに、そしてそれはもっと精妙でもっ
と一様な熱の振動に、そしてすべてはもとのアーカー
シャにもどってしまうでしょう。そして、われわれが
いま引力、斥力、および運動とよんでいるものは徐々
に、もとのプラーナにとけこんでしまうでしょう。そ
れからこのプラーナはしばらくねむり、ふたたびあら
われて、これらすべての形を放射する、と言われてい
ます。そしてこの時期がおわると、すべてのものはふ
たたびしりぞいてきえるでしょう。このようにこの創
造の過程は、ふり子のように前後にゆれつつ、下降し
たり、また上昇したりしているのです。現代科学の言
葉で言えば、一時期にそれは静的になり、つぎの時期
には動的になります。一時期潜在的になり、つぎには
活動的になるのです。この変化は永遠につづいている
のです。
 それでも、この分析は部分的なものにすぎません。
ここまでは、現代の物理学にも知られています。その
さきへは、物理学の研究は到達することができません。
しかし、それだからと言って、探求がとまることはあ
りません。われわれはまだ、それを知ることによって
他のいっさいのものが知られる、というあの一つを見
いだしてはいないのです。われわれは、全宇宙を物質
とエネルギーとよばれる、また古代インドの哲学者た
ちがアーカーシャとプラーナとよんだ、二つの成分に
分析しました。つぎの段階は、このアーカーシャとプ
ラーナを、それらのみなもとにまで溶解することです。
この二つは、心とよばれる、いっそう高い実体に溶解
させることができます。これら二つは、心、マハト、
すなわち普遍的に存在する思いの力から生まれてきた
のです。思いは、アーカーシャよりもプラーナよりも
さらに精妙な、存在のあらわれです。みずからをわけ
てこれら二つの中にはいりこんでいるのは、思いです。
最初に、普遍の思いが存在し、それがあらわれ、変化
して、みずからをアーカーシャおよびプラーナという、
これら二つに展開させました。そしてこれら二つの結
合によって、全宇宙は生まれたのです。
 つぎに心理学にうつります。私はみなさんを見てい
ます。外界の感覚が目によって私にもたらされ、それ
らは知覚神経によって脳にはこぼれます。目は視覚の
器官ではありません。それらは、外にある道具にすぎ
ません。なぜなら、もし背後にあるほんとうの器官が
こわされるなら、私はたとえ二〇個の目を持っていて
も、みなさんを見ることはできないのです。網膜にう
つっている画像がこの上もなく完全であっても、それ
でも私は、みなさんを見ることはできないでしょう。
ですから、器官はそれの道具とはちがうものなのです。
目という道具の背後に、器官がなければなりません。
すべての感覚の場合に、これと同様です。鼻は、にお
いをかぐ感覚器官ではありません。それは道具にすぎ
ません。それの背後に器官があるのです。われわれが
持つすべての感覚器官の場合、そこには第一に、肉体
の中に外がわの道具があります。それの背後、おなじ
肉体の中に器官があります。
しかしこれで十分なので
はありません。かりに私がみなさんに話をしており、
みなさんが注意をこめてそれにききいっておられると
します。何かがおこります。ベルがなったとします。
みなさんは多分、それをおききにならないでしょう。

その音の振動は、耳に達し、鼓膜をうちました。印象
は神経によって脳まではこぼれました。刺激をはこぶ
全過程が完了されたのに、なぜみなさんは、それをお
ききにならなかったのでしょうか。他の何ものかが欠
けていた−心が、器官につながっていなかったので
す。
心が自分を器官からはなしていると、器官がどん
なニュースをはこんできても、心はそれをうけないで
しょう。心が自分を器官にむすびつけたときにはじめ
て、それはニュースをうけることができるのです。し
かしそれでも、全部が完了したわけではありません。

道具が感覚を、そとからもたらすでしょう。器官がそ
れを内にはこぶでしょう。心が自分自身を、器官にむ
すびつけるでしょう。それでも、知覚は完了はしませ
ん。もう一つの要素が必要です。内部に反応がなけれ
ばなりません。この反応によって、知識はくるのです。

そとにあるものが、ニュースのながれをいわば、私の
頭脳におくりこみます。私の心はそれをとり上げて知
力に提供し、知力はそれをとり上げ、すでにうけてい
るもろもろの印象を見てそれらの中にくみこむと、
応のながれをおくり、その反応によって知覚が生じる
のです。それからここに、意志があります。反応をす
る心の状態はブッディ、すなわち知力とよばれます。


しかし、
これでも、全部が完了したわけではありませ
ん。もう一歩が必要です。かりにここにカメラと一枚
の布があり、私がその布の上にある絵を投影しようと
している、とします。私は何をすべきか。さまざまの
光線がそのカメラを通ってあつまり、その布の幕の上
におちるようにみちびくべきです。その絵が投影され
るためには、うごかない何ものかが、必要です。うご
いているものの上には、絵をうつすことはできませ
ん。その何ものかは、静止していなければなりません。
なぜなら私がそこになげかけている光線はうごいてお
り、このうごいている光線は一つにあつめられ、統合
されて、静止している何ものかの上に完全なすがたで
投影されなければなりません。われわれのこれらの器
官が内にはこんで心に提供し、心は心でそれらを知力
に提供する、もろもろの感覚の場合も同様です。
この
過程は、背景に恒久的なあるものが存在しなければ、
完了しないでしょう。それの上に、画像がいわば形成
され、それの上にわれわれはさまざまの印象のすべて
を統一するのです。その、われわれの存在のたえず変
化しつつある全体に統一をあたえるものは、何ですか。
瞬間ごとにうごきつつあるものの同一性をたもつもの
は何ですか。その上に、われわれがうけるさまざまの
印象は結合される、というもの、その上にすべての知
覚がいわばあつまって来、やどり、そして統一ある全
体を形成する、というもの、それは何ですか。われわ
れは、このことのためにはそこに何かがなければなら
ない、ということを見いだしました。そしてまた、そ
の何ものかは、肉体と心に対して不動でなければなら
ない、ということを見ます。その上にカメラが画像を
投影する布の幕は、光線に対して不動でなければなり
ません。そうでないと画像はうつらないでしょう。

するに、認識者は、一個の個体でなければなりません。
この、心がこれらすべての絵をそれの上にえがく、と
いうもの、心と知力によって、はこばれたわれわれの感
覚が、それの上におかれる、というもの、それが人の
なのです。

 
われわれは、みずからをわけてアーカーシャとプ
ラーナにするのは普遍の宇宙心だ、ということを見ま
した。そして、心のおくに、われわれの内なる魂を見
いだしたのです。宇宙には、普遍心の背後に、存在す
る一つの魂があって、それが神とよばれています。個
人のうちでは、それは人の魂です。この宇宙では、宇
宙心が展開してアーカーシャとプラーナになるのとま
さにおなじように、宇宙霊それみずからが展開して心
となるのが見られるでしょう。
個別の人間の場合にも、
ほんとうにそうなのでしょうか。彼の心が、彼の肉体
の創造者なのでしょうか。そして彼の魂が、彼の心の
創造者なのでしょうか。すなわち、彼の身体、彼の心、
および彼の魂は三つのことなる存在なのでしょうか、
それとも三つよって一つのものなのでしょうか、それ
とも、同一の存在のことなる状態なのでしょうか。こ
の問いにこたえるよう、少しずつ努力しましょう。い
まわれわれが到達した第一歩は、これです。ここに外
がわの肉体がある、この外がわの肉体の背後に、諸器
官、心、知力、およびこれの背後に魂がある。第一歩で、
われわれはいわば、魂は肉体からははなれたもの、心
それ自体からははなれたものである、と見ました。

教界における意見はこの点で分かれ、その分岐点はこ
れです。一般に二元論という名で通っている宗教上の
見解のすべては、この魂には性質がある、それはさま
ざまの性質を持っている、楽しみ、よろこび、苦痛な
ど、すべての感じはほんとうに魂が感じているもので
ある、と主張します。非二元論者は、魂がそのような
性質を持っているということを、否定します。彼らは、
魂には性質はない、と言うのです。

 まず第一に二元論者をとり上げて、魂とそれの運命
に関する彼らの見解を説明し、つぎにそれらと矛盾す
る体系を説明することを、させて下さい。そして最後
に、非二元論がわれわれにあたえる調和を見いだすこ
とにつとめましょう。この、人の魂は、心と肉体から
ははなれているものですから、アーカーシャとプラー
ナからできているものではありませんから、不死でな
ければなりません。なぜか、死すべき運命というのは、
どういうことですか。
分解する、ということです。そ
してそれは、合成の結果であるものにのみ、あり得る
ことです。何であれ、二つまたは三つの成分からでき
ているものは、分解されなければなりまけん。合成の
 結果でないものだけが、決して分解しないでいられる
ので、したがって、決して死ぬことがないのです。そ
れは、不死です。それは、永遠にわたって存在してき
ました。それは創造されたのではありません。創造さ
れたあらゆるものは、要するに、合成物です。誰ひとり、
無から生まれた被造物を見た者はありません。創造と
してわれわれが知っているものはすべて、すでに存在
しているものが結合されて新しい形をとったのです。
そうであれば、この、人の魂は、単純なものなのです
から永遠に存在してきたものであるにちがいなく、永
遠に存在するであろうものに、ちがいありません。こ
の肉体がほろびるときにも、魂は生きつづけます。ヴェ
ダーンティストたちによりますと、この肉体が分解す
ると、人の活力は彼の心にもどり、心はいわば、プラー
ナにとけこみます。そしてそのプラーナはその人の魂
にはいり、その魂が一般に幽体とか心の体とか霊体
とか、人びとのこのみでいろいろによばれているもの
に、いわばつつまれて、あらわれます。この体の中に、
その人のサムスカーラがはいっているのです。サムス
カーラとは何でしょうか。この心はみずうみのような
もの、そして一つ一つの思いは、その表面にたつ波の
ようなものです。ちょうどみずうみで波がたってはま
たきえて行くように、これらの思いの波も心の実質の
中でたえずあらわれてはきえて行きます。しかしそれ
らは、永久にきえてしまうのではありません。しだい
に精妙にはなるが、全部そこにあって、よびだされる
ときを待ちかまえています。記憶というのは要する
に、そのような精妙な状態になっている思いのあるも
のを、波の形によびもどすことです。このように、わ
れわれが思ったすべての思い、われわれがおこなった
すべての行為は、心のなかにやどっており、精妙な形
でそこにあります。そして人が死ぬとき、これらの印
象の総計は心の中にあり、その心はふたたび、媒体と
なる少しばかりの精妙な物質に働きかけます。魂は、
これらの印象と精妙な体にいわばつつまれてそこを去
り、その魂の運命は、このさまざまの印象にあらわれ
るさまざまの力のすべての結果によって、みちびかれ
ます。われわれによると、魂には三つの目標がありま
す。
 非常に霊的な魂は、死ぬと、太陽光線をたどって太
陽圏というところに達し、それを通って太陰圏(月の
世界)というところに、さらにそこを通って電光圏と
いうところに達し、そこで、すでにめぐみをうけてい
るもう一個の魂にあいます。そして彼がこの新来者を、
すべての圏の中の最高の世界、ブラフマロカ、ブラマー
の圏とよばれている世界につれて行くのです。そこで
これらの魂は全知全能に、ほとんど神みずからとおな
じょうに力にみちた、全知の存在となります。そして
二元論者たちによれば、彼らは永遠にそこに生きます。
また、非二元論者たちによれば、彼らはその周期のお
わりに普遍者と一体になります。つぎのクラスの人び
と、利己的な動機からよいことをしてきた人びとは、
死ぬと、彼らの善行の力に、はこぼれて太陰圏とよばれ
るところに行きます。そこにはさまざまの天国があり、
そこで彼らは精妙な体、神々の体を得ます。彼らは神々
になり、そこにすんで、ながいこと天国のめぐみを楽
しみます。そしてその期間がおわると、古いカルマが
ふたたび彼らを支配し、彼らはふたたび地上におちて
きます。彼らは空気の圏、雲の圏、およびさまざまの
区域を通っておりて来、ついに雨といっしょに地上に
到達します。地上で、彼らはある穀物にくっつき、最
後にはその穀物が、彼らに新しい体をつくるための材
料を提供するにふさわしい、ある人にたべられるので
す。最後のクラス、すなわちよこしまな魂たちは、死
ぬと幽霊か悪魔になり、太陰圏とこの地球とのあいだ
のどこかにすみます。ある者たちは人間をさわがせよ
うとし、ある者たちは友好的です。しばらくそこにす
んだのち、彼らもまた地上におちてきて、けものにな
ります。けもののからだでしばらく生きたのち、解放
されてもどり、ふたたび人になって、努力してすくわ
れる、もう一つの機会をあたえられます。ですからわ
れわれは、ほとんど完成をとげた人びと、不純性はご
くわずかしかのこしていない魂は、太陽光線をたどっ
てブラフマロカに行く、ここで天国に行きたいと思っ
てある種の善行をした、中くらいの人びとであった魂
たちは太陰圏にある天国に行って神々の身体を得る、
しかし彼らは、完成をとげる機会を得るためにもう一
度、人間にならなければならない、ということを見ま
した。非常によこしまな魂は幽霊や悪魔になり、それ
からけものにならなければならないでしょう。そのあ
とでふたたび人間に生まれ、自分を完成させるもう一
つの機会を得るのです。この地上世界はカルマ・ブミ、
カルマの圏とよばれています。ここだけで、人は彼の
よい、またはわるいカルマをつくります。人が天国に
行きたいと思ってその目的で善行をつむと彼は神にな
り、そうなればまったく、わるいカルマはつみません。
ただ地上でつんだ善行の結果をたのしむだけです。そ
してこのよいカルマがつかいはたされると、かつてこ
の世に生きていたときにつみかさねたすべてのわるい
カルマの結果である力が彼の上にかかって来、その力
が彼をふたたび、この世界にひきおろすのです。おな
じように、幽霊になる魂も、新しいカルマをつむこと
はせずただしばらく過去の悪行のわるい結果を苦しん
だのち、ひとときけもののからだにもどって、新しい
カルマはつみません。その時期がすぎると、彼らもま
た、ふたたび人間になるのです。よい、そしてわるい
カルマに対する賞、および罰の状態は、新しいカルマ
を生む力を持っていません。それらはただ、たのしむ
か苦しむか、するはかはありません。もしそこに非常
によいカルマか非常にわるいカルマかがあると、それ
は非常にはやく実をむすびます。たとえば、もしある
人が終生たくさんの悪いことをしてきたが、たった一
つよいことをするとします。その善行の結果はただち
にあらわれるでしょう。しかしその結果が経験しつく
された後には、すべての悪行も、それらの結果を生ま
ずにはいません。あるよい、そして偉大な行為をして
はいるがその生涯の一般の傾向は正しくなかった、と
いう人びとはすべて神々になるでしょう。そしてしぼ
らく神々の身体で生き、神々の力をたのしんだ後、ふ
たたび人間に生まれなければならないでしょう。善行
の結果がこうして費消されると、古い悪が清算される
べくあらわれてくるのです。極端にわるい行為をする
魂は、幽霊や悪魔の体をとらなければなりません。そ
して悪業の結果が清算されると、彼らがおこなったわ
ずかの善行が、ふたたび彼らを人間にします。それか
らはおちることももどることもない、というブラフマ
ロカへの道は、デヴァヤーナ、すなわち神への道とよ
ばれ、天国への道は、ピトリヤーナ、すなわち父祖た
ちへの道とよばれています。
 ですからヴェーダーンタ哲学によると、人は宇宙間
でもっとも偉大な存在であり、はたらくことのできる
この世界は、その中で最善の場所なのです。なぜなら
そこにのみ、彼が自分を完成させるための、最善最大
の機会があるのですから。天使たちまたは神々、みな
さんがどうおよびになろうと、彼らはみな、もし完全
になりたいと思うなら、人に生まれなければなりませ
ん。これは偉大な中心、すばらしい態勢、すばらしい
機会なのです − この人生は。

 つぎに、哲学の別の面をとり上げましょう。私がい
ま説明した魂の学説を全部否定する仏教徒たちがいま
す。「この肉体と心の根底として、背景として、何か
を仮定することが何のやくにたつのか。なぜ、思いを
そのながれにまかせておいてはいけないのか。なぜ、
心と身体とからなるこの有機体の上に、第三の実体を
みとめるのか。それが何のやくにたつのか。この有機
体が、それ自体を説明するに十分ではないか。なぜ新
しく、第三の何ものかを持ちこむのか」 このような反
論は非常に強力です。この推理はたいへんにつよいの
です。外面的研究にとどまっている間は、この有機体
はそれみずからの十分な説明である、と思われるで
しょう − 少なくとも、われわれの大部分は、そうい
う見方をしています。「ではなぜ根底として、心でも
肉体でもなく、その両方の背景として立つものとして、
魂が必要なのか。心と肉体だけでよいではないか。肉
体は、不断に変化しつつある、一つの物質のながれの
名前である。心は、不断にかわりつつある意識、また
は思いの、一つのながれの名前である。なぜこれら二
つが、ひとつのもののように見えるのか。この単一性
は、実は存在しない、と言ってよいのである。たとえば、
あなたの前でたいまつをふりまわしたら、あなたには
火の輪が見えるだろう。輪は存在しないのだが、たい
まつがくるくるとまわされるから、輪と見える光がの
こされるのだ。そのように、この生命に単一性はない。
それはたえず突進しつつある物質のひとつのかたまり
であって、この物質の全体を、一つの単一体と呼ぶこ
とはさしつかえないのだが、それ以外に単一体はない。
心もそうである。それぞれの思いが、たがいに他とは
はなれたものであって、それは単一体というまぼろし
を背後にのこす、急なながれにすぎない。そこに第三
の実体の必要はないのだ。肉体と心のこの普遍の現象
が、ほんとうにあるものの、すべてである。それの背
後に何かをおいてはならない」みなさんは、この仏教
の思想が現代のある学派によってとり上げられ、彼ら
のすべてが、これは新しい思想だ、自分たちの発明だ、
と主張しているのをごらんになるでしょう。これは、
つまりこの世界はそれ自体で十分たりている、という
のは、大部分の仏教哲学者たちの、中心思想です。い
かなる背景もまったくもとめる必要はない、あるもの
はすべて、この感覚にうったえる宇宙だ、この宇宙の
ささえとして何かを思う、何の必要があろう、と言う
のです。あらゆるものは、性質の集合体である、彼ら
が所属する実体を仮定する必要がどこにあるか、実体
の観念は、彼らの背後にある普遍の何ものかからくる
のではなく、もろもろの性質の急速な変化、まじりあ
いからくるのだ、と言うのです。このような議論のあ
るものがどんなにすばらしく、またそれらがどんなに
やすやすと人類の通常の経験にうったえるものか、わ
れわれにはわかります−実は、百万人に一人といえ
ども、現象以外の何かを考えることのできる人は、い
ないのです。人類の大多数には、自然は単に、変化し
つつある、うずまいている、結合しつつある、まじり
つつある変化のかたまりとしか、見えません。われわ
れの中のごくわずかの者たちが、背後にある、しずか
な海の片鱗を、かいま見るのです。われわれが見ると
ころでは、そこではつねに波があれくるっています。
この宇宙はわれわれには、さかまく波のかさなりとし
か見えません。このようにしてわれわれは、これら二
つの意見を見いだすのです。一つは、心身両者の背後
には不変不動の実体である何ものかが存在するという
もの、もう一つは、宇宙には不動とか不変とかいうよ
うなものはない、すべては変化、変化以外の何もので
もない、というものです。このちがいは、もう一歩ふ
かく思いをすすめることによって、すなわち非二元論的
思考の中で、解決することができるのです。
非二元論は言います、二元論者がすべてのものの背
後に変化しない背景として何かを見いだしたのは正し
い、と。変化しないものがなければ、われわれは変化
を考えることはできません。われわれは、そのものほ
ど変化しないあるものを知ることによってはじめて、
変化するものを思うことができるのですが、その変化
しないものもまた、さらにもっと変化の少ないものに
くらべたら、変化するものと見えるでしょう。
このよ
うにしてすすんで行けばついにはわれわれは、まった
く変化しない何ものかがあるにちがいないことを、み
とめざるを得ないでしょう。このあらわれの全部は、
何の力もはたらかなかったときには、言うならばもろ
もろの相反する力はバランスをたもち、しずかな、沈
黙の、あらわれのない状態にあったにちがいありませ
ん。なぜなら、平衡がやぶられたときに、力ははたら
くのですから。この宇宙はつねに、ふたたびあの平衡
の状態にもどろうと、いそいでいるのです。もしわれ
われが何かの事実を確信することができるとするな
ら、それはこのことです。二元論者たちが、そこには
何か、変化しないものがある、と言うとき、彼らは完
全に正しいのです。しかし、それは肉体でも心でもな
い、この両者とは別の何ものかである、という彼らの
分析はまちがいです。仏教徒たちが、全宇宙は変化の
かたまりだ、と言うとき、彼らは完全に正しい。私が
宇宙からはなれているかぎりは、私が一歩しりぞいて
立ち、自分の前に何ものかを見ているかぎりは、そこ
に二つのもの−見るものと見られるもの−がある
かぎりは、宇宙は変化するもの、つねにかわりつづけ
ているもの、と見えるでしょう。しかし実相は、この
宇宙には変化と不変化の両面がある、というものです。
魂と心と肉体とは三つの別々の存在だ、というもので
はありません。これら三つからなるこの有機体は、実
はひとつのものなのです。それは肉体として、心とし
て、また心と肉体をこえたものとしてあらわれる、同
一のものなのですが、しかし、同時にこれらすべてで
ある、というのではありません。肉体を見る者は心さ
えも見ず、心を見る者は、彼が魂とよんでいるものを
見ません。そして魂を見る者 − 彼にとっては、肉体
と心はきえてしまっているのです。うごきだけを見る
者は決して、絶対のしずけさは見ません。そして絶対
のしずけさを見る者 − 彼にとっては、うごきはきえ
てしまっています。一本のなわがヘビとうけとられま
す。そのなわをヘビと見る者、彼にとっては、なわは
きえてしまっています。そして二元性がやんで彼がな
わを見るとき、ヘビはきえてしまっているのです。
 それゆえただ一つのすべてを包含する存在があり、
その一つが、さまざまにあらわれるのです。この自己
すなわち魂すなわち実在が、宇宙に存在するすべてで
す。この自己すなわち実在、すなわち魂が、非二元論
の言葉で呼ぶと、名と形の介在によって多様とあらわ
れる、ブラフマンなのです。海の波をごらんなさい。
一つの波といえども、真に海とことなるものは、あり
ません。しかし何が、波を海とはことなるもののよ
うに見せているのですか。名と形です。波の形と、わ
れわれがそれにあたえている、「波」という名前です。
これが、それを海とはことなるものにしているので
す。名と形が行ってしまえば、それはおなじ海です。
誰が、海と波との間に真のちがいをつくることができ
ますか。ですからこの全宇宙は一つの単一の存在なの
であって、名と形が、これらすべてのさまざまのちが
いをつくりだしているのです。太陽が幾百万の小さな
水滴の上に輝くと、その一つ一つにもっとも完全な太
陽のすがたが見られるように一つの魂、一つの自己、
宇宙間に一つの存在が、さまざまの名と形という無数
の、これらすべての小球の上にすがたをうつして、さ
まざまのものと見えているのです。しかし実は、それ
はたった一つです。そこには私もなければ、あなたも
ありません。すべて一つです。すべて私とか、または
すべてあなたです。この二元性の、二つという観念は
完全にうそのものであり、われわれが普通に知ってい
る全宇宙は、このうその知識の結果なのです。
識別が
できて、人が二つはない、一だけであると知ったと
き、彼は、彼自身がこの宇宙なのだ、ということを知
ります。「いまあるままの、不断の変化のかたまりで
あるこの宇宙が、私である。すべての変化を超越した、
すべての性質を超越した、永遠に完全な、永遠に至福
にみちているのが、私である」


 ですからそこには、永遠にきよらかな、永遠に完全
な、かわらない、かえられない、たったひとつのアー
トマンがあるだけです。それはかつて変化したことは
ありません。宇宙間のこれらすべてのさまざまの変化
は、そのひとつの自己のさまざまのあらわれにすぎま
せん。

 
それの上に、名と形が、これらすべてのゆめをえが
いたのです。海とことなる波をつくるのは、形です。
もし波がひけば、形がのこりますか。いいえ、それは
きえるでしょう。波の存在はまったく海の存在に依存
していたのですが、海の存在はすこしも、波の存在に
依存してはいませんでした。形は波のある間だけ存続
しますが、波がひくや否や、それはきえます。のこる
ことはできません。この名と形は、マーヤーというも
のの所産です。個体をつくっているのは、一つをもう
一つとはことなるものとあらわれさせるのは、この
マーヤです。しかし、それは存在はしていません。
マーヤーは、存在すると言うことはできません。形
は、存在すると言うことはできません。なぜなら、そ
れはもうひとつのものの存在に依存しているのですか
ら。それがこのすべてのちがいをつくっているのを見
れば、それは存在しない、と言うことはできません。
それでアドワイタ哲学によると、このマーヤーすなわ
ち無知−または名と形、またはヨーロッパでは、「時
間、空間、および因果律」 とよばれている− は、こ
の唯一無限の存在から、われわれに宇宙の多様性を見
せているものです。本質的には、この宇宙は一つです。
人が、二つの究極実在がある、と思っているかぎり、
彼はまちがっています。ひとつしかない、と知るよう
になったとき、彼は正しいのです。これは物質世界で、
心の世界で、また霊性の世界においても、毎日われわ
れにむかって証明されていることです。今日、みなさ
んと私、太陽、月、および星々は同一の物質の大海の
中の、さまざまの点のさまざまの名にすぎない、とい
うこと、そしてこの物質は不断にその構成をかえつつ
太陽の中にあったエネルギーの微小部分が、いまは人
間の中にあるかもしれないし、明日はあるけものの中
に、明後日は植物の中にあるかもしれません。それは
たえず行ったり来たりしています。すべて一つの切れ
目のない、無限の物質のかたまり、ただ名と形によっ
て差別をつけられているだけなのです。一点が太陽と
よばれ、もう一点が月と、もう一点が星と、人と、け
ものと、植物などなどとよばれる、というように。そ
してこれらすべての名は架空のもの、実在性は持って
いません。なぜなら全体が、不断に変化しつつある物
質のかたまりなのですから。まさにこのおなじ宇宙が、
別の観点からすると思いの海であって、そこでわれわ
れの一人ひとりは、個別の心とよばれる一つの点なの
であります。あなたは一つの心、私は一つの心、各人が、
一つの心です。そしてまさにそのおなじ宇宙が、知識
の立場から見られるなら、つまりその目からまよいが
ぬぐいさられていると、心がきよらかになっていると、
間断のない絶対存在、永遠にきよきもの、不変のもの、
不死のもの、と見えるのです。
 それではこの、人は死ぬと天に行く、またはこの世
界かあの世界に行く、そしてわるい人びとは幽霊にな
る、そしてけものになる、などなどという、二元論者
の三重の来世論はどうなるのですか。誰ひとり、来も
しなければ誰ひとり、行きもしない、と、非二元論者
は言います。どのようにして、みなさんが来たり行っ
たりすることができるのですか。みなさんは無限です。
みなさんにとって、どこに行くところがありますか。
ある学校で、大勢の子供たちが試験を受けていました。
教師はおろかにも、おさない子供たちにさまざまのむ
ずかしい質問を出していました。その中に、「どうし
て地球はおちないのか」というのがありました。彼の
意図は、引力または他の何かむずかしい科学の真理に
っいての考えを、子供たちからききだそうというもの
でした。彼らの大部分は、質問の意味さえ理解するこ
とができず、したがって、あらゆる形のまちがった答
えを出しました。しかし、ひとりのかしこい少女が、
別の質問を出して、それにこたえました、「それはど
こにおちるのですか」と。見ただけで、この質問その
ものがナンセンスだったのです。宇宙には、上下など
ありはしません。この観念は相対的なものにすぎない
のです。魂の場合も同様です。それが生まれるとか死
ぬとかいう問いそのものが、まったくのナンセンスな
のです。誰が行き、誰が来るのですか。どこに、あな
たはいない、というのですか。あなたのいない天国が、
どこにあるというのですか。人の自己は遍在なのです。
それがどこに行くというのですか。どこに行かない、
というのですか。それは一切所にいるのです。ですか
ら誕生や死などという、天国やもっと高い天国やひく
い世界などという、このすべての子供じみたゆめやた
わいのない幻想は、完成された人びとの前ではただち
に全部消滅します。完成にちかい人びとの前では、彼
らにブラフマロカにいたるまでのいくつかの情景を見
せたのちに、きえます。
無知の人びとの前では、つづ
くのです。
 全世界が天国に行くこと、死ぬこと、そして生まれ
ることを信じているのは、どういうことなのでしょう
か。私が一冊の書物を学びつつあるとすると、一ペー
ジよまれるごとに、それはめくられるでしょう。つぎ
のページがきたと思うと、それはまためくられます。
誰がかわるのですか。誰が、来てまた行くのですか。
私ではない、書物です。この全自然界は、魂の前にお
かれた一冊の書物です。一章また一章とよまれ、ペー
ジがめくられて、ときどき、一つの情景がひらけます。
それがよまれ、めくられます。新しい情景がきます。
しかし魂はつねにおなじ、永遠です。かわりつつある
のは自然であって、人の魂ではありません。これは決
して、かわらないのです。生と死は自然の中にあるの
で、みなさんの中にあるのではありません。それでも、
無知な人びとは、まどわされます。ちょうど、まどわ
されて、地球ではなく太陽がうごいている、と思うの
とまったくおなじように、われわれは自然ではなく自
分が死ぬのだ、と思うのです。ですからこれらはすべ
て、幻覚です。
われわれが汽車ではなく野原がうごい
ている、と思うのが幻覚であるのとまったくおなじよ
うに、生と死という幻覚なのです。人びとがある一定
の心の状態にあるときには、彼らはまさにこの存在を、
地球として、太陽や月や星々として見ます。そしてお
なじ心の状態にある者は全部、おなじものを見ます。
みなさんと私の間には、ことなる存在段階にある、無
数の生きものがいるでしょう。彼らは決してわれわれ
を見ず、われわれも彼らを見ないでしょう。われわれ
はただ、自分たちとおなじ心の状態にあり、おなじ段
階にいる者たちだけを見るのです。あのいろいろな楽
器は、おなじ調子の振動をするものにいわば、反応し
ます。もし、人びとが、「人間バイブレーション」 と
よんでいる振動状態がかわるなら、もう人はそこには
いないでしょう。全 「人間宇宙」 はきえるでしょう。
そしてそれのかわりに、他の情景がわれわれの前に、
おそらく神々と神宇宙が、またはよこしまな人びとの
前には悪魔たちと悪魔の世界が、あらわれるでしょう。
しかしすべては、唯一の宇宙のさまざまのながめであ
るにすぎません。
人間の境地から見ると地球、太陽、月、
星々、およびすべてのこのようなもの、と見えるのは
この宇宙です − よこしまな人びとの境地から見ると
罰の世界と見えるのは、まさにこの宇宙なのです。そ
してまさにこのおなじ宇宙が、それを天国として見た
いと思う者たちには天国と見えます。玉座にすわって
おられる神のもとに行き、そこに立って彼をたたえる
ことを生涯ゆめみてきた人びとは、死ぬと簡単に、彼
らが思っていた光景を見るでしょう。この広大な宇宙
は、さっと広大な天国にかわって、そこにはさまざま
のつばさを持つ生きものがとびまわっており、神が玉
座にすわっているでしょう。これらの天国はすべて、
人が自分でつくったものです。ですから、非二元論者
は、二元論者が言うのはほんとうであるが、それはす
べて、彼みずからがつくったものであるにすぎない、
と言うのです。これらの世界や悪魔たちや神々や、再
生や生まれかわりはすべて、神話です。この人生もま
た、そうなのです。人びとがつねにおかしている大き
なまちがいは、この人生だけはほんものだ、と思うこ
とです。
彼らは、他のものごとが神話とよばれるとき
には、よく理解します。しかし、彼ら自身の立場もそ
うであるということは、容易にはみとめようとしませ
ん。あらわれているままのすべては、単なる神話なの
です。そしてすべてのうその中の最大のものは、われ
われは肉体である、というもの、われわれはかつて肉
体であったことはないし、また、肉体ではあり得ない
のです。われわれは単なる人間だ、というのは、すべ
てのうその中の最大のものです。われわれは宇宙の神
です。神を礼拝しつつ、われわれはつねに、われわれ
自身のかくれた自己を、礼拝していたのです。あなた
がみずからに言いきかせる最悪のうそは、あなたは罪
びと、つまりわるい人間に生まれた、というものです。

相手を罪びとと見る人だけが、罪びとなのです。ここ
に赤ん坊がおり、あなたが金貨のふくろをテーブルの
上におくとします。泥棒がきて、その金貨を持って行
くとしましょう。赤ん坊にとっては、それは何でもあ
りません。内に泥棒がないから、外にも泥棒はいませ
ん。罪びとや悪人たちにとっては外に悪がありますが、
善人たちにはないのです。ですから、よこしまな人び
とはこの宇宙を地獄と見、半分よい人びとは、それを
天国と見、完全な生きものはそれを、神ご自身である
と悟ります。そのときにはじめて、目からベールがお
ち、人は、あらいきよめられて、彼の全視野がかわっ
たことを知るのです。幾百万年の間彼をくるしめてい
た悪夢はすべてきえ、自分を人であるとか神であると
か悪魔であると思っていた彼、自分はひくいところに、
高いところに、地上に、天国にすんでいるなどなどと
思っていた彼は、自分は実は遍在なのである、という
ことを知ります。すべての時間は彼の内にあり、彼が
時間の中にいるのではない、ということを、すべての
天国は彼の内にあり、彼はどの天国にいるのでもな
い、ということを、そして人がかつて礼拝したすべて
の神々は彼の内にあり、彼はそれらの神々のいずれの
中にいるのでもない、ということを、知ります。彼が、
神々や悪魔たちの、人や植物やけものたちや石のつく
り手だったのであって、いまや人の其の性質が、天よ
りも高く、われわれのこの宇宙よりも完全な、無限の
ときよりも無限の、遍在のエーテルよりも遍在のもの
として、彼の前にそのすがたをあらわします。このよ
うにしてはじめて、人は無恐怖となり、自由になるの
です。そのとき、すべての妄想はやみ、不幸はきえ、
すべての恐怖は永久におわります。誕生は、死ととも
に行ってしまいます。苦痛はとびさり、それとともに
快楽もとびさります。大地は消滅し、それとともに天
国もきえさります。肉体はきえ、それとともに心もき
えます。その人にとっては、いわば、全宇宙がきえさ
るのです。この探求、行動、力による不断の苦闘は永
久にやみ、力と物質として、自然の苦闘として、自然
そのものとして、天国や地球や、植物や動物や人や天
使たちとしてみずからをあらわしていたもの、それら
すべては一つの、無限の、不壊の、不変の存在に変容
し、それを知る人は、彼がその存在とひとつであるこ
とを見いだします。「さまざまの色の雲が空をおおい、
一秒間そのままでいて、そしてきえさる」のとまさに
おなじように、この魂の前に大地や天国の、月や神々
の、楽しみや苦しみの、これらすべてのヴィジョンが
くるがしかし、それらはすべて、唯一無限の、青い不
変の大空をのこしてすぎさるのです。空は決してかわ
りません。かわるのは、雲です。空がかわった、と思
うのはまちがいです。われわれは不純だ、と思うのは
まちがいです。われわれは有限だ、われわれははなれ
ばなれだ、と思うのはあやまりです。真の人は、唯一、
単一の存在なのです。

二つの疑問が、ここでおこります。第一は、「これ
を実現することはできるのか。いまのところではそれ
は、教義であり哲学である。しかしそれを実現するこ
とは可能であるのか」というものです。それは可能な
のです。彼にとって妄想は永久に消滅した、という人
びとがなお、この世界に生きています。そのような自
覚を得ると、彼らはただちに死にますか。われわれが
思うほど、そうすぐには死にません。一本の心棒でつ
なげられた二つの車輪が、ともに走っています。もし
私がその輪の一をつかまえておのでその心棒を二つ
にきるなら、私がつかまえている方の輪はすぐにとま
ります。しかしもう一の車輪には過去からの惰性が
はたらいていますから、それはもう少し走ってから地
にたおれます。このきよらかで完全な存在、すなわち
魂が一の輪であり、心と肉体という外部の幻覚がも
う一の輪であって、二つはカルマの働きという心棒
でつながっています。知識は二者の間のつながりをた
ちきるおのです。心棒がたちきられれば、魂という車
輪はとまるでしょう!自分は来たり行ったりする、
生きたり死んだりする、と思うことをやめるでしょ
う。自分は自然であるから、欠乏や欲望を感じる、と
思うことをやめるでしょう。そして、自分は完全であ
り、無欲である、ということを見いだすでしょう。
かし肉体と心というもう一つの車輪には、過去の行為
という惰性がはたらいていますから、その惰性の力が
消耗しつくされるまで、なおしばらく、生きつづける
でしょう。それから肉体と心は死に、魂は解放される
のです。もうそこには、天国に行くとか、かえってく
るとかいうこともなく、ブラフマロカに行くとか最高
の世界に行くとかいうようなことさえも、ありません。
なぜなら彼がどこから来る、どこに行くというのです
か。今生において少なくとも一分間この境地に到達し
た人、彼にとってはこの世界の普通の光景はかわって
おり、実相があらわれています。彼は「生きながら解
脱した人」(ジヴァン・ムクタ、覚者)とよばれます。

生きながら自由を得ること、これがヴェダーンティン
(ヴェーダーンタ信奉者)の目標なのです。
 あるとき、私はインドの西部、インド洋沿岸の砂漠
地帯を旅行していました。幾日も幾日も、砂漠をよこ
ぎってあるいていました。しかしおどろいたことに、
私は毎日、周囲を木々にかこまれ、そのすがたが水面
にさかさにうつってゆれている、美しいみずうみを見
ました。「なんというすばらしい光景なのだろう。し
かも人びとがここを砂漠地帯と呼ぶとは!」私は心に
思いました。ほとんど一カ月、これらの美しいみずう
みと草木を見ながら私は旅をつづけました。ある日、
たいそうのどがかわいたので水をのみたいとおもい、
それらの美しいみずうみの一つの方にむかいました。
ところが私が近づくと、それはきえてしまったのです。
それで私はハッと思いつきました、「これが、昔から
書物でよんでいた、しんきろうなのだ」 と。それと同
時に、自分はこの月中、毎日しんきろうを見ていたの
に、それを知らなかったのである、ということに気づ
きました。翌朝ふたたび出発しました。また湖があり
ました。しかし同時に、これはしんきろうであって、
ほんとうの湖ではない、という思いもうかびました。
この宇宙もおなじことです。われわれはみな、くる日
もくる日も、くる月もくる年も、それがしんきろうで
あるということを知らないで、この世界というしんき
ろうの中を旅しているのです。ある日、それはこわれ
るでしょう。しかしまた、やってくるでしょう。肉体
は過去のカルマの支配下にとどまらなければならない
のですから、しんきろうはかえってくるでしょう。

れわれがカルマにしぼられている間は、この世界はわ
れわれの上にもどってくるでしょう。男、女、けもの、
草木、われわれの執着と義務、はみなもどってくるで
しょう。しかし前とおなじ力をもってではありません。
新しい知識の影響のもとに、カルマの力は破壊され、
それの毒はうしなわれるでしょう。それは形をかえま
す。なぜなら、それと同時に、自分はいまはそれを知っ
ている、実在としんきろうとのはっきりとしたちがい
を知っている、という思いがあるからです。
 そのときにはもう、この世界は前とおなじ世界では
ないでしょう。しかしながら、ここに危険があります。
われわれはあらゆる国に、この哲学をとり上げて、「私
はすべての善悪をこえているから道徳のおきてにはし
ぼられない。したいことをしてよいのだ」 という人び
とを見ます。みなさんは現代のこの国に、「私はしぼ
られてはいない。私は神ご自身だ。私のしたいことを
させよ」という馬鹿者をたくさんごらんになるでしょ
う。魂は肉体の、心の、道徳上の、すべてのおきてを
こえていることはほんとうですが、このように言うの
はまちがいです。法則のうちに、束縛があり、法則を
こえたところに、自由があります。自由は魂の本性で
ある、ということも、ほんとうです。自由は魂の生得
の権利です。魂のその真の自由が、物質というベール
を通して、人間の目に見える自由という形で輝くので
す。みなさんの生涯のあらゆる瞬間、みなさんは、自
分は自由だ、と感じておられます。自分は自由である、
と感じることなしにはわれわれは、一瞬間といえども、
生きることも話すことも、呼吸することもできません。
しかし同時に、少し考えれば、われわれは機械のよう
なものであって、自由ではない、ということがわかり
ます。では何がほんとうなのでしょうか。この自由と
いう概念は妄想なのでしょうか。あるグループは、自
由の概念は妄想だ、と主張します。別のグループは、
束縛という概念が妄想である、と言います。どうして
こういうことになるのでしょうか。人はほんとうは自
由です。真の人は、自由でしかあり得ません。彼が束
縛されるのは、彼がマーヤーの世界に、名と形の世界
にはいってきたときです。自由意志というのは、まち
がったよび名です。意志は、決して自由ではあり得ま
せん。どうしてあり得ましょう。真の人がしばられる
ようになったときにはじめて、彼の意志というものが
存在にはいってくるのであって、その前に意志はあり
ません。人の意志はしばられています。しかしその意
志の土台であるものは、永遠に自由です。ですから、
われわれが地上または天上における人間の生活または
神々の生活とよんでいる束縛状態の中においてさえ、
そこにはまだ、神聖な権利である自由の記憶が、われ
われのうちにのこされているのです。
そして意識して、
または無意識のうちに、われわれはみな、それをもと
めて苦闘しています。人が彼自身の自由を得たなら、
彼が法則にしぼられる、などということがありましょ
うか。この宇宙間のいかなる法則も、彼をしぼること
はできません。この宇宙そのものが彼のものなのです
から。
 彼は、全宇宙です。彼は全宇宙だと言ってもよいし、
彼にとっては宇宙はない、と言ってもよいでしょう。
それでどうして彼が、性や国などに関する、これらの
小さな概念などを持つことができますか。どうして彼
が、私は男です、私は女です、私は子供です、などと
言うことができますか。
それらはうそではありません
か。彼は、うそだと知っています。どうして彼が、こ
れらは男性の権利です、そして他のこれらは女性の権
利です、などと言うことができますか。誰も、権利な
どは持っていません。誰ひとり、はなれて存在しては
いないのです。男もいなければ女もいません。魂は性
を持っていません。永遠にきよらかです。私は男です、
とか、女です、とか言うのはうそです。私はこの国に
属しているとか、あの国に属しているとか言うのはう
そです。世界中が私の国、全宇宙が私のものです。

は自分の身体としてそれをまとっているのですから。
しかし、世間には、これらの教義をすすんで主張しな
がら、同時にわれわれがけがらわしいと呼ぶような行
為をしている人びとが見られます。そして、われわれ
が、なぜそういうことをするのか、とたずねると、そ
れはわれわれの妄想なのであって、彼らは何ひとつ、
わるいことはできないのだ、と言うのです。何をもっ
て、彼らを判定すべきなのでしょうか。その基準はこ
こにあります。
 善と悪とはともに、魂の限定された表現ではありま
すが、それでも悪はもっとも外がわのおおいであり、
善は、真の人すなわち自己により近いおおいです。そ
して、悪の層を切ってぬけなければ、人は善の層に達
することはできず、善悪両方の層を通りぬけなければ、
彼は自己に達することはできません。自己に到達する
人、何が彼にくっついてのこっているでしょうか。少
しばかりのカルマ、少しばかりの、過去の生活の惰性
です。しかしそれは、すべてよい惰性です。悪い惰性
が完全に働きおわり、過去の不純性が完全にやきはら
われてしまうまでは、誰も真理を見、かつ悟ることは
できません。ですから、自己に到達して真理を見た人
にくっついてのこっているものは、過去の生涯のよい
印象、よい惰性ののこりです。たとえ彼が肉体に生き、
たえずはたらいていても、彼はよいことをするためだ
けに働きます。彼のくちびるは、すべての人びとへの
祝福だけをかたります。彼の手はよい仕事だけをしま
す。彼の心は、よい思いしか思うことはできません。
どこに行っても、彼の存在は祝福です。彼自身が、生
きた祝福なのです。このような人は、彼がそこにいる
というだけで、もっともよこしまな人びとをも、聖者
たちにかえるでしょう。たとえ彼がはなさなくても、
彼がいるということが、人類への祝福でありましょう。
このような人びとが、悪いことをしますか。何か悪い
ことをすることができますか。悟りとただのおしゃべ
りとの間には、極から極にいたるあらゆるちがいがあ
る、ということをわすれてはなりません。どんな馬鹿
者もしゃべることはできます。オウムでさえもはなし
ます。はなすのは一つのこと、悟るのは別のことです。
哲学者、そして教義、そして議論、そして書物、学説、
教会、そして宗派、これらすべてはそれなりによい、
しかし、悟りがやってきたらこのようなものは、行っ
てしまいます。たとえば、地図はよいものです。しか
しみなさんがその国自体を見たときにふたたびその地
図を見たら、どんなに大きなちがいを見いだすことで
しょう! ですから真理を悟った人びとは、真理を理
解するために論理学の証明をもとめたり、その他あら
ゆる知力の体操をしたりする必要はありません。彼ら
の生命の生命が、直接ふれる以上に具体的に知らされ
るのは、彼らに対してなのですから。それは、ヴェー
ダーンタの賢者たちが言うように、「まさにあなたの
手のうちの果物のようなもの」です。みなさんは立
ちあがって、それはここにある、と言うことができま
す。そのように、真理を悟った人びとは立ち上がって、
「ここに自己がある」と言うでしょう。たとえみなさ
んがながながとそれに反論しても、彼らは、みなさん
を見てほほえむでしょう。それを子供のかたことのお
しゃべりと見るでしょう。子供にはしゃべらせておく
でしょう。彼らは真理を悟って、みちたりているので
す。かりにみなさんがある国を見たのに、別の人がき
て、そんな国はかつて存在したことがない、と反論す
るとします。彼はいつまでも反論するかもしれないが、
彼に対するみなさんの心の態度はただ一つ、この男は
精神病院に行くべきだ、という確信でしょう。悟った
人もそのように言うのです、「世間のちっぽけな宗教
についのこのようなおしゃべりはすべて、子供のたわ
ごとにすぎない。悟りこそが、宗教の魂、まさにエッ
センスである」と。宗教は悟ることができるものです。
いいですか。みなさんも悟りたいと思いますか。もし
そう思われるなら、悟られるでしょう、そして、真に
宗教的になられるでしょう。みなさんが悟りを得られ
るまで、みなさんと無神論者との間にちがいはありま
せん。無神論者はまじめです。しかし、宗教を信じる
と言いながら、決してそれを悟ろうと努力しない人は、
まじめではありません。
 つぎの問題は、悟りの後には何がくるのか、という
ものです。かりにわれわれがこの、自分たちはその唯
一無限の存在である、という、宇宙の一体性を悟り、
しかもこの自己が唯一の存在であって、それは、これ
らすべての現象の形としてあらわれているものとおな
じ自己である、ということを悟ったとします。そのあ
と、われわれはどうなりますか。無活動になり、人目
につかない所に行ってそこにすわり、そして死んで行
くでしょうか。「それがこの世界の、何のためになる
のか」例の古い質問です!第一に、なぜ世界のため
に善をしなければならないのですか。何か、それをし
なければならない理由があるのですか。人が、「それ
が世界にどんな貢献をするのか」などときく、何の権
利を持っているのですか。それはどういう意味なので
すか。赤ん坊はあめがすきです。かりにみなさんが電
気に関係のあるある問題の研究をしておられ、赤ん坊
が、「それであめが買えますか」とたずねたとします。
「いや」とみなさんはこたえる、すると赤ん坊は、「そ
れでは何にもならない」と言うでしょう。そのように、
人びとは立ち上がって言います、「これが世界にどの
ような益をもたらすのか。金をくれるのか」と。「い
や」、「ではなんのよいことがあろう」人びとが世のた
め、と考えるのはこういうことなのです。しかし宗教
上の悟りは、世界にすべてのよいことをします。人び
とは、彼らがそれを得たら、彼らがひとつしか存在し
ないということを悟ったら、愛のいずみはかれてしま
い、生命の中のいっさいのものが行ってしまい、今生
でも来世でも、彼らが愛するものはいわば、彼らにとっ
てはきえてしまうだろう、とおそれます。人びとは決
して、彼ら自身の個体性をもっとも軽視した人びとが、
世界の最大の働き手であった、ということを、立ちど
まって考えようとはしないのです。人は、彼の愛の対
象はひくい、小さい、死すべきものではない、という
ことを知るとき、そのときにはじめて、愛します。人
は、彼の愛の対象は土のかたまりではない、それはま
さに神ご自身である、と知るとき、そのときにはじめ
て、愛するのです。妻は、夫は神ご自身であると思う
とき、いっそうふかく夫を愛するでしょう。夫は、妻
は神ご自身であると知るとき、もっとふかく、妻を愛
するでしょう。子供たちは神ご自身である、と思う母
親は、もっとふかく子供たちを愛するでしょう。敵は
まさに神ご自身である、と知るその人は、彼の最大の
敵を愛するでしょう。高徳の人は神ご自身であると知
る、その人は高徳の人を愛するでしょう。そしてまさ
にその人が、もっとも徳のうすい人をも愛するでしょ
う。彼はそのもっとも徳のうすい人の背景もまさに彼、
主であられる、ということを知っているのですから、
その人の小さな自己は死に、彼の場所に神が立ってお
られる、という、そのような人は世界のうごかし手と
なります。全宇宙は、彼に対して変貌するでしょう。
苦しく不幸なものはことごとくきえるでしょう。苦闘
することもなくなるでしょう。この宇宙はそのとき、
われわれが毎日一口のパンのために苦闘し、たたかい、
競争する場所ではなく、あそび場となるでしょう。そ
のときこの宇宙は、実に美しいでしょう! このよう
な人だけが、立って、「この世界の何と美しいこと!」
と言う権利をもっています。彼だけに、すべて善であ
る、と言う権利があるのです。これが、このような悟
りから生まれる、この世界への偉大な貢献でありま
しょう。つまり、もしすべての人類が今日、その偉大
な真理のたった一かけらを悟るなら、この世界にこれ
らすべての摩擦や衝突がつづくかわりに、全世界のす
がたはかわり、そこに平安の治世が生まれるでしょう。
われがちにすすもうとさせる、この無作法で獣的な性
急さは、そのとき世界からきえるでしょう。それとと
もに、すべての苦闘はきえ、それとともにすべてのに
くしみはきえ、それとともにすべての嫉妬はきえるで
しょう。そしてすべての悪は、永久にきえさるでしょ
う。そのときには、神々がこの地上にすむでしょう。
まさにこの地上が、天国になるでしょう。また神々が
神々とともにあそび、神々が神々とともに働き、神々
が神々を愛するとき、何の悪がそこにあり得ましょう。
それが、神の悟りの偉大な効用です。みなさんが社会
でごらんになるあらゆるものが、そのときには変化し、
変容しているでしょう。もはやみなさんは、人をわる
いなどとは思わないでしょう。そしてそれは、第一の
大きな収穫です。もはやみなさんは、立ちあがってあ
やまりをおかしたあわれな男女にあざけりの一べつを
くわえるようなことは、なさらないでしょう。もはや、
淑女たちよ、みなさんは夜まちを歩くあわれな女たち
を、軽蔑をもって見くだすようなことはなさらないで
しょう。みなさんはそこにも、神ご自身をごらんにな
るでしょうから。もうみなさんは、嫉妬も罰も、お考
えにはならないでしょう。それらは全部、きえている
でしょう。そして愛、偉大な愛の理想が実に強力なの
で、人類を正しくみちびくのに、むちもひももいらな
いでしょう。
 もし、この世界に生きる男女の百万分の一がただ
すわって、数分間、「あなた方はみな神である、おお、
おんみたち人びとよ、そしておお、おんみたちけもの
やその他の生きものよ、あなた方はすべて、唯一の生
ける神のあらわれである!」 と言うなら、全世界は
三〇分のうちにかわるでしょう。おそろしいにくしみ
の爆弾をところかまわずなげるかわりに、嫉妬と悪意
の気流を放射するかわりに、あらゆる国で人びとが、
すべては彼である、と思うでしょう。彼は、みなさん
が見、かつ感じるすべてのものなのです。みなさんの
うちに悪がなければ、どうしてみさんが悪を見ること
ができますか。みなさんのハートのハートに泥棒がす
わっているのでなくて、どうしてみなさんが泥棒を見
ることができるのですか。みなさん自身が殺人者でな
いのに、どうしてみなさんが殺人者を見ることができ
ますか。善であれ。そうすれば悪は、みなさんの前か
らはきえるでしょう。全宇宙は、このようにしてかわ
るでしょう。これは、人間の組織にとっての大きな利
益です。これが、社会にとっての最大の利益です。こ
のような思想はインドの古代に、人びとの間で考えら
れ、実践されました。教師たちの排他性や、外国によ
る征服というようなさまざまの理由によって、それら
の思想は、ひろまることをゆるされませんでした。し
かし、それらは雄大な真理であって、それらがはたら
いたところではかならず、人は神的になりました。私
の全生活は、このような神的な人びとの一人にふれて、
かわったのです。その人については、つぎの日曜日に
みなさんにおはなししようと思います。そして、この
ような思想がひろく全世界にひろめられるときがきて
いるのです。僧院内にのみ生きているのではなく、学
者たちだけが学ぶように哲学書に秘められているので
はなく、宗派やわずかの識者たちが独占するのではな
く、それらは聖者と罪びとの、男と女と子供たちの、
学問のある者とない者の共同の持ち物となるよう、ひ
ろく全世界にたねまかれるべきであります。そのと
きそれらは、世界の空気に浸透し、われわれがすいこ
むその空気が、ひとゆれごとに、「なんじはそれなり」
と言うでしょう。そして、無数の太陽と月をふくむ全
宇宙が、もの言ういっさいのものを通じて一斉に、「な
んじはそれなり」と言うでしょう。







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