「玉響の目」についての考察
近頃、私の仕事の関係で、都内の会館で写真を撮影する機会があると、必ず玉響がハッキリと写っている
たまゆら(玉響)とは、撮影者とは相関の関係があるらしいので
私がそれを表して、外部にあるものとして撮影しているのか、
それとも私が招いているのか分からないが
いずれにしても波長が合うので撮影しているのであろう
そこで、その玉響の中にある目とおぼしきものについて考察してみた
以下に述べることは、この私の個人的な考えであることを最初にお断りしておきたい
この玉響とは霊魂と呼称されているものであり、「自我という(サイコノエティック体=幽体+霊体)」ものではないか、
即ち
肉体の脳と繋がっていると自分の事を肉体だと思い、幽体の脳と繋がっていると自分の事を幽体だと思っている記憶装置だ
全てが分離していると思っている想念の「記憶」の中核であるもの、それが「私と言う自我」ではないか
この玉響の内部をよく見てみると脳の中のようでもあり、
肉体の頭脳ではないもう一つの心霊的な脳であることが分かる
肉体の頭脳が、この玉響の脳の写しであることが分かる、曼荼羅模様の様でもあるように見える
この心霊的な脳(玉響)が、
肉体の脳と繋がっている場合(肉体に縛られている状態)と肉体の脳と繋がっていない場合
(肉体から離れている)があるだけで、それが頭脳を機能させている脳そのもので有るようである
この玉響が肉体にあるときは、頭脳とは一体化しているが、
場所は肉体の胸の付近にあって、機能している
頭脳を経由してやってくる思考や、やってきた思考や感情や欲望に対して玉響という「記憶から反応し」
そしてその「玉響自我」からの反応は、また肉体の頭脳を経由してやってきている根源へと送信している
これが頭脳を経由して外部からやってきている思考に、
ハートにあって反応している「玉響・自我」が0.5秒遅く反応している所以である
肉体が死を迎えるときは
その肉体と玉響とを結んでいる臍の緒から出ている霊線(シルバーコード)は切断される
私達が通常写真で見ているのは心霊的な脳・玉響であり、
その中に目のようなものが「自我の中核であるもの」ではないかと推測している
ラマナ・マハリシによって言われている「自分は肉体だと」思ってしまったマインドというものは、
根源からやってきて肉体の頭脳に受信されて、玉響に至り、玉響を形成しそこでその想念が発生したのではないかと推測している
その想念こそが「自我の根本」ではないだろうか、それが玉響に受信され、記憶となり
そして逆にそこから想念や感情や欲望が頭脳を経由して送信されている
そしてその玉響の中にある中核にやってきて記憶となっている「私と言う想念」自身がその想念を、そしてやってくるマインドを
受動的に中心無く、思考の動き無く、静寂と沈黙の中で見る事が起きたとき
(眼球と呼吸の動き無くて留まって、想念を動かさずに「注意」の状態でいること)
即ち思考が殆ど動かない状態で「自己をあるがままに受動的に観察している」状態であるとき
(思考のさざ波が一切静まっている思考の状態でただただ目的も動機もなく自己を凝視していること)
観察者は観察されるものである
「見るものは見られるものである」という理解が瞬時に訪れるという
玉響を生み出した真の私からの恩寵が流れはじめる
その時、脳の条件付けが解かれていくのではないだろうか、
玉響がマインドの記憶(自我の記憶)から解放されていくにつれて
玉響の中心部からの「気づき」の輝きが増していくのではないだろうか、
そして玉響自体が成長し球体から人体形へと変わり始める、更にその恩寵は脳自体を変えはじめる、構造を変えてしまうのである
そして、その玉響は内部からの光に導かれて、黄金の霊体へと変身していく
今までは玉響が私であったのが、正しい自己凝視を通じて
玉響が変身し、新たなる私という意識・気づきが生まれる、不死鳥フェニックスの私が誕生する
蛹から蝶へと変身するのだ
今までの自我としての私は死滅して、肉体も幽体も霊体も越えて、時空に縛られない新しい真の私がそこに誕生し
今までの偽の主体であったサイコノエティック体である自我は消滅し、今度は真の私は誕生した黄金の霊体を使うのである
と、以上の様に教えられている
玉響が正しい自己凝視を通じて「黄金の霊体」へと変身し、その「黄金の霊体」が真の私の分身となるのだ
この課程はマインドが静寂と沈黙の状態にあり、思考が働いていないとき(思考なく自己凝視しているとき)
その玉響の目という「マインドの記憶の中心部」はその目の奥で次元を超えて繋がっている「気づき」へ直結(ヨーガ)し
今度はその「気づき」がその玉響の中心部にある目を通じて現象界に自由をもたらすのではないだろうか
今までの玉響が私だったものが、主体が変わって今度は真の私が内部で生まれて、その玉響が黄金の霊体と変身するのである
その気づき(思考の動きなくしてあるがままを見ている)とは真の私でもあるのではないか
けれども、現況での私達とは
この脳(玉響)の中にある「目」とおぼしき核である「私・自我」はマインドの記憶(自我)によって覆われており、
「機能が制限された」頭脳の条件付けによって縛られており、そこには自由というものはないのではないか、
その脳(玉響)こそがプログラムの結果であるからではないか
ではその条件付けられている、「玉響の中核の目」を覆っている「私・自我」の特徴とは
■あなたから、「分離し対立している私」と言う自己意識を持っている、従って私と分離しているあなたという他者を認識している
■この玉響にやってきている(脳を経由して)分離・二元である時間・マインド(私は肉体だ)の記憶が作動し、自分は生きており
自由に行動していると思い込んでいる
■分離・二元そのものであるので「見る者と見られるもの」、「観察者と観察されるもの」の分離という、主体と客体の分離という
ものであり、知覚や理解や体験や考えることも、思う事、願うこと、知覚、感覚も、そして認識自体も二元分離で汚染されている
■対象として全てを知覚し・認識し・経験してしまう
(感情も、机も、出来事も、運命も、立ち向かっている他人も、私も全てが対象となってしまい、対象として認識している限りは
この主体はマインド⇔玉響である。偽の私(上江洲義秀先生が説かれるところの)である
思考も物質であり、机も物質であり、玉響も物質である、あらゆる次元のマインドも物質であり、全く同じように二元性に
条件付けられているので、物質である玉響にとっては対象として認識し経験されてしまうのだ)
■時間に支配されているので、時間感覚を持っており、過去を想起し、未来を想像したりする、逆に言えば「今」を認識できない
常に過去に生きており、将来を案じ、心配し、自分はどうなるのか、2012年はどうなるのだろうかと心配したりする
■距離と「分離した個別空間」という距離感覚を持っており、「無限」「空」「空間」などを一切認識することが出来ないし、
空間自体に注意を向けようとしない
■常に思考し・考えている、思っている、考えるので瞬時にして全体を分かることが出来ない
■選択すること、選んでしまうこと、又は選択し、選択できる選択していると思っている(実際は既に起きているのにも関わらず)
■常に満足を追求し、それを美化して神の探求や人類への奉仕などと自己を騙す、自我は満足を求めることしかできない
■快楽を求め、苦痛を避けようとする、怒りや苦痛や恐怖を直接に経験することを避けて言語化してしまう
自我はあるがままをあるがままに見ることが出来ない
■名前を付け、言葉を冠して、それで理解したつもりになってしまう、頭の中の引出に整理して理解したと誤解する
■願っている、願いを持っている
もっともっと・・・と、より多くもっと沢山・・・と決して案分に安息し、あるがままで安住することが無く、もっとお金を、もっと立派にと
欲望や願望しており、欲望や願望から自由であるものではない
■想像し、類推し、推測する
(神や、未知なる私や、「今」や、「愛」というマインドに属していない次元のことを、単に言葉を発することによって想像し
その想像を外部に投影して神秘体験を経験してしまいそれを「神」「愛」「真の私」と信じ込んでしまう
聖なる存在ではないエレメンタルを聖なる存在として思い込みそれを対象として体験し崇拝してしまう)
■感じ・感覚・超感覚や知覚作用を「知覚している」と認識してしまう、五感も超感覚も真の私の感覚であるなら全てが一つである
感覚であるはずである
(肉体脳と繋がっている場合は五感であり、幽体脳と繋がっている場合は
超五感であるが、いずれにせよ分離という根源的な錯覚に縛られている)
■内部のものを外部に投影しているにも関わらず内部と外部とを別々だと認識してしまう
(外部と内部に認識されているものは「私・自我」が投影しているものであり、外部に知覚していることや体験していることは
内部であることであるにもかかわらず、自分が外部に起こっている出来事や運命やカルマに翻弄されていると思っている)
■常に動機を持っている、目標を持っている、目的を持っている、理想や理念や計画を持っている、良くなろうとしている
■〜になろうとしている、常に到達しよう、〜に到ろうとしている、自己を改善し、真我を実現しようとしている
■安全でありたいと願っている、安定したい、ずっと安定していたい、不動でありたいと願っている
■権威を崇拝し、権威者を崇拝し、崇拝することで権威の力を利用しようとする、権威と一体化して自分が権威になろうとする、
支配しようとする。けれど支配しようとすることで支配されていることに気がつかない
■支配したい、有名になりたい、偉大になりたい、立派になって尊敬されたいと思っている、一杯勲章を付けて誉められたい
と思っている
■欲し願うことは自分の事ばかり、貴方の覚醒を、貴方の悟りを、貴方の真我実現を、貴方の法悦を、貴方の自由を、ではなく
自分の事ばかり
■自分は特別である、自分は正しい、だから普通でではない、普通の人とは違うと思うのが変凡な一般的なマインドである
■何者でもないこと、何も知らないこと、何も分からないことを極度に恐れるので、常に知識と情報と記憶を獲得しようとしている
■実は自我・私は「自我は何も知らない」ことを知っておらず、実は自分とは何者でもなく何かに到ることなどないことを知っていない
■私・自我とは存在していない虚無であるので、生き延びよう、存在しよう、実在であろうとする
■永続を願い、転生を願い、輪廻を願って、持続しようとしている、そして、それを願うことで輪廻させられてしまう
輪廻の鎖に縛られてしまう
この「私・自我」という玉響を、あるがままに見て(観照して)いるものとは、その「私・自我」そのものなのであり
その見ること(観照している)を、その玉響の中心の奥から後押しして下さっているのが
中心を持っていない「気づき」からの恩寵ではないだろうか、
この「気づき」こそが真の私であり分離のない「空間」そのものである
この玉響が玉響をあるがままに観照しようとしている「自己凝視」に同調して下さっているのが
観照者という「気づき」(中心を持っていない)の恩寵ではないだろうか
そしてその恩寵こそが「虚偽を虚偽と見ること」を支えて下さっているのではないだろうか
玉響の中核の目であるその奥に、支えて下さっている真の私が繋がっているのではないだろうか
その真の私から恩寵が溢れ出して「正しい自己観察を行っているこの玉響(サイコノエティック体)という「球状」の自我」が死滅し
そして蛹が蝶へと変身するように
黄金の霊体という「人体形」をした分身を携えた「永遠のパソナリティー」が誕生するのだ
そして、その時今までマインドに使われていたのが
マインドを使う事が可能になるのだ
これが真の行為であり自由で有る、しかしこれを思考することは出来ないし、思考が有るときは自由ではない