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 シャンカラの言葉
 

  ダシャシュローキー(10の詩節)


 
 
1. 地でも水でもなく 火でも空気でも虚空でもない

   感覚器官でもなければ これらすべての集合体でもない

   これらは移ろいやすく はかないものだが

   自己は 熟睡状態によって証明されるように不変である

   私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

   ただそれだけが 存在する

 

2. 階級制度でも人生規範でもなく 慣習でも法でもない

   集中 瞑想 ヨーガ その他の修行のどれも必要ない

   「私が」「私の」という観念は自己でないものから生じる

   その誤りは捨て去るべきである

   私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

   ただそれだけが 存在する

 

3. 母でも父でもなく 神々でも世界でもない

   ヴェーダ聖典でも供儀でもなく 聖地でもない

   自己は熟睡状態でも存在し 無ではない

   私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

   ただそれだけが 存在する

 

4. サーンキヤ学派 シヴァ派 パンチャラートラ派

   ジャイナ教 ミーマーンサー学派 その他どれも有効ではない

   特殊な認識法で 純粋な自己を知ることができる

   私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

   ただそれだけが 存在する

 

5. 上でも下でもなく 中でも外でもない

    真ん中でも端でもなく 前でも後ろでもない

    自己は遍くゆきわたるひとつのもの

    私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

    ただそれだけが 存在する

 

6. 白くも黒くも赤くも黄色くもない

   曲がってもいないし太ってもいない 短くも長くもない

   光がそうであるように 自己には形がない

   私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

   ただそれだけが 存在する

 

7. 教師も聖典も存在しない 生徒も教えも存在しない

   あなたも私も存在しない この経験世界は存在しない

   真の自己の悟りに差別性はない

   私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

   ただそれだけが 存在する

 

8. 覚醒状態も夢眠状態も熟睡状態もなく

   これらに支配されることもない

   これらは無明であり 無明を超えた第4の境地が真の自己である

   私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

   ただそれだけが 存在する

 

9. 自己は遍在し 真理と一体であり 他に依らない

   実体のない現象界はすべて自己ではない

   私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

   ただそれだけが 存在する

 

10.「唯一」という観念さえ生じない

   それ以外の「2つ目」が考えられようか

   絶対でも相対でもなく 無も有もない

   絶対不二一元を本質とする

   ならば すべてのウパニシャッドによって確立された「それ」を

   どうやって言い表すことができようか

  Translated by R. Hirano

http://www.boreas.dti.ne.jp/~shanti/dasaslo.htmより転載 



 
 私は思考器官にあらず、知性や自我意識や心にあらず。

 聴覚にあらず、味覚にあらず、嗅覚にあらず、視覚にあらず。 

 虚空に非ず、地に非ず、火に非ず、水に非ず、風に非ず。

 私は、純粋な意識と至福そのもの。

 私は唯一なるもの、自由にして幸いなるもの

 ただそれだけが 存在する



 私は生気に非ず、五風に非ず、七つの要素に非ず、五つの蓋被にあらず。

 手に非ず、舌に非ず、生殖器官に非ず、排泄器官に非ず。

 私は、純粋な知識と至福そのもの。

 私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

 ただそれだけが 存在する



 私は、好き嫌いに非ず、貪欲、迷妄に非ず。

 利己心を持つに非ず、自尊心を持つに非ず。

 善行に非ず、救いに非ず、欲望に非ず、心の対象に非ず。

 私は、純粋な知識と至福そのもの。

 私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

 ただそれだけが 存在する




 私は徳に非ず、罪に非ず、喜びに非ず、悲しみに非ず。

 聖句に非ず、聖地に非ず、ヴェーダに非ず、供儀にあらず。

 私は食べる行為に非ず、食べるものに非ず、食物に非ず。

 私は、純粋な知識と至福そのもの。

 私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

 ただそれだけが 存在する。




 私には、死はなく、恐怖はなく、カーストの区別はなく。

 父もなく、母もなく、生まれることもなく。

 友もなく、仲間もなく、師匠もなく、弟子もない。

 私は、純粋な意識と至福そのもの。

 私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

 ただそれだけが 存在する。



 私は心象を超え、形を持たず、遍在者であり。

 私は一切処にあって、感覚にとらわれず。

 私は、知られうるものに非ず、解脱するものに非ず。

 私は、純粋な知識と至福そのもの。 

 私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの

 ただそれだけが 存在する。


 ウパデーシャ・サーハースリー                 より抜粋  
岩波文庫「ウパデーシャ・サーハースリー」真実の自己探求より
                   シャンカラ著・前田専学訳
 
 ※ここでシャンカラが述べている統覚機能とは、魂のことである。感覚器官、言語器官とは肉体のことであり、思考器官とは思考体や感情体であるサイコノエティック体をさし、記憶や認識、意志、知覚、主体、自我自己感覚などは統覚機能に属している。

第1章
純粋精神                       
 1
一切に遍満し、一切万有であり、
一切の存在物の心臓のうちに宿り、
一切の認識の対象を超越している。
この一切を知る純粋精神(アートマン)に敬礼する
 3
過去の生存における
善悪の行為の結果としての業・カルマは、
その業・カルマにふさわしい神・人間・動物などの身体との結合をもたらす、
身体と結合すれば、好ましいことと、好ましくないこととが必ず起こる。
好ましいこと、好ましくないことから
貪欲と嫌悪が起こり、
貪欲と嫌悪から諸行為が起きる。
 4
諸行為から善業と悪業が起こる、
悪業と善業から、
無知なひとは、再び同じように、身体と結合する。
この様に輪廻は車輪のように
永久に激しく廻り続ける。
 5
輪廻の根源は、無知であるから、
その無知を捨てることが望ましい。
それ故にウパニシャッドに於いて
宇宙の根本原理ブラフマンの知識が述べ始められたのである。
その知識から至福(=解脱)が得られるであろう。
 6
知識のみが無知を滅することが出来る。
行為は無知と矛盾しないから、
無知を滅することが出来ない。

無知を滅しなければ
貪欲と嫌悪を滅することは出来ないであろう
 7
貪欲と嫌悪が滅していなければ、
必ず行為が貪欲と嫌悪という欠点から生じる。
それゆえに至福のために、
このウパニシャッドに於いてブラフマンの知識のみが述べられているのである
 8
同じく行為も又、
生きている間は、常に為すべきではないか。
行為は知識を補助して解脱に導くからである。
 9
知識を得るべきであると同じように、
行為も行うべきである。

聖典に拠って命じられているという点については、
両者は区別がないからである。
命じられた行為を行わないために生じる罪悪について述べている古伝書があるから、
解脱を求めるものは行為を為すべきである。
 10
もし解脱という永遠の果報をもたらすブラフマンの知識は、
他の何者にも存することはないのではないか、
というならば、それは正しくない。

アグニシュートマ祭は永遠の果報をもたらすとはいえ他のものに依存するように
 11
知識は永遠の果報をもたらすとはいえ、
常に行為に依存しているとこのように考える人々もいる。

しかしブラフマンの知識は行為に依存しない。
なぜならブラフマンの知識は行為と両立しないからである
 12
行為はブラフマンの知識と両立しない。
行為はアートマンに関する誤った考えを伴っているからである。

またブラフマンの知識とは、アートマンは不変であるという理解であると、
ここウパニシャッドで述べられている
 13
「私は行為主体である」
「これを私のものにしたい」と考えて、
人は行為を起こす。

ブラフマンの知識は実在(アートマン)に依存し、
聖典の命令は行為主体に依存するからである。
 14
知識は行為の要因を破壊する。
正しい知識が砂漠に水があるという観念を破壊するように。

この正しい見解を受け入れて、
あえて行為をしようと決心するものがあるであろうか。
 15
従ってブラフマンの知識と行為とは両立しないから、
この知識を持ち、
このように知っているものは行為をすることが出来ない。

それゆえに解脱を求めるものは行為を捨てるべきである。
 16
人々は生来、身体に包まれたアートマンを
身体などとは区別のないものであると考えている。

この考えは無明(無知)に由来している。
その考えがある限りは、
行為を行えと言う聖典の命令は有効である。
 17
「そうではない、そうではない」という
天啓聖典は、

人がアートマンは差別をもたないということを理解するために、
身体などを捨て、アートマンを捨てないで残した、
それによって無明は除去された。
 18
無明がひとたび正しい知識根拠によって除去されてしまったならば、
どうして再び生ずることが出来ようか。

なぜなら無明は無差別、絶対の内我(内在するアートマン)
には存在しないからである。
 19
もし、無明が再び生じないならば、
すなわち「私はブラフマンである」という認識があるのに
「私は行為主体である」「私は経験主体である」
という観念がどうして生ずることがあり得ようか。

それ故に知識は補助するものを持たないのである。
 20
それゆえに天啓聖典には
行為の放棄の方が
「真実語・苦行・心の平静・感官の制御」などからなる
心的活動に至る諸行為よりも
「勝れている」(勝義)と述べている
 21
実に不死に至る手段はないと云われているから、
それゆえに解脱を求める人々は行為を捨てるべきである。

アグニシュトーマ祭のように知識は行為に依存するといったが、我々はそれに対して次のように答える
 22
行為は、種々の行為の要因によって実現されるべきものであり、
その結果はまちまちであるから、
知識と行為は相反するものである。
それ故にその実例は不適当である。
23
アグニシュトーマ祭は、農業のように、種々の行為の要因によって得られるべき結果を目指しているのであるから、アグニシュトーマ祭とは別の行為による助力を必要とするであろう。しかし知識は他のないものをも必要とするであろうか。 
 24
命じられた行為を行わないために生じる罪悪は、
「私」という観念(自我意識)が認められる人にだけ帰せられる。

アートマンを知っている人は「私」という観念も、
行為の結果に対する欲求も持たない。
 25
それゆえに、
無知を除去するために、
輪廻を止息するために、
ブラフマンの知識を確立するために
このウパニシャッドが開始されたのである。

 第2章
否定  
 1
アートマンは否定できないものであるから、
天啓聖典は
「そうではない、そうではない」といって、
アートマンを否定しないで残したのである。
人は「私はこれではない。私はこれではない」
というような仕方でアートマンに到達する。
 2
「私はこれである」という観念は、
「これ」の表示する
非アートマンと同一視されたアートマンから生じ、
言葉によって表示できる領域にある。
その観念は否定されたアートマンから生じるのであるから、
前のように、再び正しい認識として受け入れられることはないであろう。
 3
まえに生まれた誤った考えを否定しなければ、その後に正しい思想は生まれない。
見(アートマン)は唯一であり、それだけで確立している。
それは正しい知識根拠の結果であるから、
否定されることはない。
 
第4章
「私」という観念    
 1
カルマ・業は
「私」という観念を種子とし
、私という観念の主体である統覚機能の中にあるから、
「私は行為の主体でも経験の主体でもない」という
観念の火によって焼かれたのであるならば、
カルマ・業はいかにして果報を生むことが出来るであろうか。
 2
もし現に経験されるように、
カルマ・業は焼かれた後でも果報を生むであろうというならば、
それは正しくない。
果報を生むのは別のカルマ・業によるのである。
カルマ・業の種子である「私」という観念が滅したとき、
如何にしてその果報が生じるのか、と我々はあなたたち尋ねる、
それに答えよ云うならば、次のように答える。
 3
カルマ・業は身体などを作ることができるから、

君にあるブラフマンに関する知識を押さえて果報を生むことが出来る、
カルマ・業がつきれば、ブラフマンに関する知識が現れるであろう。
 4
カルマ・業の果報を経験することも、ブラフマンに関する知識も、
ともに既に果報を生み始めてカルマ・業の果報であるから、
両者が矛盾しないということは妥当である。
しかし他のカルマ・業すなわち蓄積されておりながらも、
まだ果報を生み始めていないカルマ・業は知識と本質を異にしている
 5
身体がアートマンであるという観念を
否定するアートマンの知識をもち、

その知識が身体はアートマンであるという一般の人々が持っている観念と同じほどに強固な人は望まなくても解脱する
 
第5章
尿の疑い  
 2
アートマンが統覚機能にあるとき
統覚機能が動いたり、瞑想したりするとき、
あたかも動いているかのようであり、瞑想しているかのようであるとみえる。
船に乗っている人にとっては岸に生えている動かない木が動くかのように見えるように、
輪廻している人にとっては
輪廻しないアートマンが輪廻しているという誤った考えが起こる
 4
統覚機能が純粋精神の映像によって遍満されるとき、
統覚機能に意識が生じ、
音声などの外界の対象が現れる、
この為に人々は迷わされるのである
 5
私という観念が
純粋精神であるかのように現れ、
純粋精神の為に存在する。

これの非アートマン部分が捨てられるとき、
(純粋精神であるかのように現れ、純粋精神のために存在する)ことは最早ない。

これの非アートマン部分とは異なるこの
純粋経験(純粋精神)が最高のアートマンである
 
第6章
切断   
 1
切断して捨てられた手によって、アートマン自体が限定されることはない。
同様に残された如何なる身体の部分によっても限定されることはない。
 2
それゆえに一切の限定は、非アートマンであるから、捨てられてしまった手と同じである。
従って認識主体(アートマン)は一切の限定から自由である。
 3
この一切万有は、美しい装飾品のように、
無明のためにアートマンに付託された限定である。

それゆえにアートマンが知られたときには、
一切万有は非存在となるであろう。
 4
認識対象を捨て、
つねにアートマンを
あらゆる限定を離れた認識主体であると理解すべきである。

私と呼ばれるものもまた、既に捨てられた身体の部分と同じであると理解すべきである。

※この場合の私とは我性の私を指している
 
第7章
統覚機能にのぼったもの     
 1
統覚機能にのぼった
一切のものは、
認識の起こるすべての場合に、
常に私によってみられる。
それゆえに、私は最高ブラフマンである。
私は全知者であり、
一切に遍在している。
 2
私は
自分自身の統覚機能のなかの動きの目撃者であるように、
他人の統覚機能の動きの目撃者でもある。
私は捨てることも、取ることも出来ない。
それゆえに、
私は実に最高のアートマンである。
 3
アートマンは変化することなく、不浄性もなく、物質的なものでもない。

そしてすべての統覚機能の目撃者であるから、
統覚機能の認識とは異なって、
その認識は限定されたものではない。
 4
太陽光線に照らされると、
赤色などの形相が宝石の中に輝き出るように、
私が存在すると、
一切万物は統覚機能の中に見える様になる。

それゆえ太陽光線によって、
赤色などの形相が宝石の中に輝き出るように、
私によって、一切万物が見える様になる。
 5
統覚機能にある認識対象は、
統覚機能が存在するときに存在する。
逆の場合には存在しない。

認識主体(アートマン)は常に認識主体であるから、二元は存在しない。
 6
識別知がないために、
統覚機能が最高アートマンは存在しないと理解したのであるが、
逆に、識別知が起これば、最高アートマン以外のなにものも存在しない。

統覚機能自体さえも存在しない。

 
第8章
純粋精神の本質     
 1
私アートマン自身、純粋精神を本性としている。

おー意(統覚機能)よ。
私と味などとの結合は、おまえの混迷に由来するものである。
それゆえに、おまえの努力によるいかなる結果も、
私には属さない。
私は一切の特殊性を持たないから。
 2
幻影からなる活動を捨て、非存在を求める努力をやめて、常に安らぎに至れ。
私は常に最高ブラフマンであり、
解脱したもののように、不生にして唯一者であり、
二元を欠いているから。
 3
そして常に私は一切の生類に対して平等な絶対者である。
虚空のように、一切に遍満し、不壊であり、吉祥であり、
中断することなく、分割されず、
行為しない最高ブラフマンである。
それゆえに、おまえの努力から起こるいかなる結果も、私には属さない。
 4
私は唯一者である。
そのブラフマン以外の如何なるものも私のものであると私は考えられない。
同じように、私は何者にも属さない。
執着を持たないから。私は本姓上執着を持たない。

それ故に、私はおまえもおまえの行為の結果も必要としない。不二であるから。
 5
人々は原因と結果に執着していると考えて、
私は人々をその執着から自由にするために、
各自の本性の真実の意味を理解させる原因となるこの対話を作った。
 6
もしこの対話を考慮する人があるならば、
その人は無知という大きな恐怖の根源から自由になる。

またこのような人は常に欲望を離れており、
アートマンを知っているものとして、憂いなく、
一切の生類に対して平等であり、
安楽に生活する。
 
第9章
微細性        
 1
地で始まり内我で終わる個人存在の構成要素のなかで、
先行の構成要素が棄てられるにつれ、
後行の構成要素がより微細であり、
より遍満していると知られるべきである。

※地とは肉体であり、後行の微細体はより大きくなることも可能だと言うこと
 2
正しい知識根拠機によると、
外界の地は身体を構成している地と同じである。
外界の水などの諸要素もまた、
すべて身体を構成している元素と同じであると知られるべきである。
※肉体の70パーセントは水分であると言うこと
 3
虚空が、風や他の元素の生起する前には、一切に遍満しているように、

私はつねに唯一者であり、
一切万有であり、
純粋精神のみであり、
一切に遍満し、
不二である。
 4
ブラフマー神(梵天)をはじめとして
植物に至る一切の生物は、
私の身体である、ということが言われている。

この身体以外の何者から、欲望、怒りなどの諸欠点が私に生ずるのであろうか。
 5
私は常に
一切の生類の欠点によって影響されることなく、
一切の生類の中に住す主宰神であるが、
愚かな人が間違って空を青いと見なすように、
私は生類の欠点によって穢されていると見なしている。
 6
一切の生類の統覚機能は、
常に私の純粋精神によって照らされるべき対象であるから、
一切の生類は、一切智者にして、悪を持たない私の身体である。
 7
覚醒状態における認識対象は、
夢眠状態における認識の対象のように、
起源を持っていると考えられている。

真実の認識は常住であり、対象を持たない。
それゆえに二元は存在しない。

※真実の認識とは対象を持っておらず、全てを自分自身そのものと認識しており、「見るものは見られるものである」の「見」である
 8
なぜなら、
熟睡状態においては認識以外のなにものも存在しないので、
認識主体の認識は永遠である。
といわれているからである。
しかし覚醒状態における認識は無明に基づくものである。
それゆえに
認識対象は実在しない、と考えられるべきである。

※覚醒状態における認識は、対象認識であり分離しており無明に基づいている。従って自分と対象が分離し、自分以外に何かを対象として認識してしまっている
 9
無限者は
色・形をもっているなどという性質を持たず、
視覚などの対象ではないように、
無限者アートマンは認識の対象ではないと理解される。
 
第10章
見             
 1
見(純粋精神)を
本性とし、
虚空のようであり、
つねに輝き、
不生であり、唯一者であり、不滅であり、無垢であり、
一切に遍満し、不二である最高者。
ブラフマン−−−それこそ私であり、
常に解脱している、オーム。
 2
私は清浄な見であり、
本性上不変である。
本来私には、いかなる対象も存在しない。
私は前も横も、上も下も、あらゆる方角にも充満する無限者であり、
不生であり、自分自身に安住している。

※汝はそれなりの見であり、「見るものは見られるものである」であり、主体は客体であり、私はそれでありあなたである
 3
私は不生、不死であり、
また不老・不死であり、
みずから輝き、
一切に遍在し、
不二である。
原因でも結果でもなく、全く無垢であり、常に満足し、それ故に解脱している。オーム。
 4
熟睡状態にあろうとも、
覚醒状態にあろうとも、
夢眠状態にあろうとも、
この世においては、
自分自身であるかのように人を惑わす知覚は私には存在しない。

これらの三状態は独立した存在でもなく、
他の依存する存在でもないから、
私はつねに三状態を超越した
第四位のアートマンであり、
つねに不二の見である。

※此処での知覚とは主体と客体に分離している知覚でありアートマンの知覚ではないと言うこと
 5
身体・感覚器官から起きる
一連の苦痛は、私のものでもなければ、
私でもない。
私は不変であるから。

なぜなら。この一連の苦痛は実在しないからである。
これはじつに、夢を見ている人が見る対象のように、実在しないのである。
 6
私には変化も、変化の原因もない、ということは真実である。
不二であるから。
私には善行も悪行も、解脱も、束縛も階級制度もない。身体を持たないから。

※不二とは主体に客体に分離していないと言うこと
 7
私には始めもなく、属性もないから、
私には行為も、その行為の結果もない。
それゆえに私は最高のアートマンであり、不二である。

虚空が一切に遍満しているのに穢されることがないように、
私も、身体の中にありながらも、
穢されることがない、微細であるから。
 8
また私は、つねに一切の生類に対して平等であり、
主宰神である。
私は可滅のものよりも秀で、
不滅のものより勝れているからである。
私は最高我を本質とし、
不二であるとはいえ、無明という誤った知識によって覆われている。
 9
無明とも、
潜在印象とも、
業・カルマとも異なり、
妨げられることなく、アートマンは全く無垢である。

見などの能力に満たされ、
私は不二であり、
自己の本性に安住し、虚空のように不動である。

※此処のアートマンの見とは非分離の見であり、正覚、直覚、純粋意識の眼である
 10
私は最高ブラフマンである、
という確信をもってアートマンを見る者は
「再び生まれることはない」という天啓聖典のことばがある。

そしてまさしく、種子がなければ果実は生じない。
それゆえに生まれることはない。
その種子である混迷・無明がないのであるから。

※転生は無知であるところの、分離という無明がある限り続くと言うこと
 11
一切の生類に対して常に平等であり、
不二であり、吉祥であるブラフマンに関して
「これは私のもので、このようなものである」「あれは君のもので、この種のものである」「同様に、私もそうであって、それ以上でもなく、それと異なっていない」と人々は想定するが、

そのような想定はかれらの愚昧性以外のなにものでもない。
 12
全く不二にして無垢な知識があるとき、
偉大な精神の持ち主は、
憂いも混迷も持たない。
憂いも混迷ももたないときには、
行為する事も、
生まれることもない。
これがヴェーダ聖典に精通しているものの確信である。
 13
不二であるから、
覚醒状態にあっても、
熟睡状態にあるときのように、
実際には二元を見ておりながらも、
二元を見ることなく、
又同じく
実際には行為しながらも、行為しない人、
その人がアートマンを知っているものであり、
そのほかの何者ものもそうではない。
これがウパニシャッドの結論である。
 14
以上、私が勝義の立場から述べたこの見解は、
ウパニシャッドにおいて確定された最高のものである。
もしこの見解を確信するに至ったならば、
解脱し、虚空のように、
行為によって穢されることはない。

※アートマンは行為によっては決して穢されないと言うこと
 
第11章
監視者であること             
 1
生類が監視者(ブラフマン)であることは、
それだけで確定したことであって、
監視者(ブラフマン)と異なるかのに見えるのは無明に由来するのである。

それ故に、その監視者(ブラフマン)との別異性は、
「君は有である」という言葉によって除去される。

※君は有であるとは、「君はそれであり、聖なる全体であり、アートマンで実在」だと言うこと
 2
実に不死に至る手段はこれだけのものであるから、
知識を補助するものは何もない、
と聖典は述べているから、

聖典は微細な身体とともに、
行為を否認している。
 3
一切の生類の意(統覚機能)の変容を、
差別なく見ていて、この変化しない私に、何らかの変化があり得ようか。
 4
夢眠状態にあるのと同じく、
覚醒状態にある生類の意そのものと、
意の変容を観ている私には、
熟睡状態においては、意も意の変容もともに存在しないから、
私には純粋精神のみであり、
一切に遍在し、不二である。
※純粋精神には思考も低次マインドもないということ
 5
目覚めるまでは、
夢は真実であるように、
アートマンの知識が得られるまでは、
身体とアートマンとの同一性は真実であり、
直接知覚などが知識根拠であることや覚醒状態も真実である。
※身体とアートマンの同一性とは、自分は肉体だと信じてしまうこと
 6
虚空のように、
一切生類のなかに住しつつも、
私は一切生類の欠点から自由である。

私は目撃者であり、観察者であり、属性なく、清浄なブラフマンである。
それゆえに私は絶対者である。

※アートマンはすべての中にあっても、そのすべての生類の思考に穢されていいないと言うこと
 7
名称や形態や行為とは別のものであって、
本性上つねに解脱しており、
私はアートマンであり、最高ブラフマンである。

私は絶対精神のみであり、常に不二である。
 8
私はブラフマンであると知り、
かつ私は行為の主体であり、経験の主体であると知るものは、知識からも、行為からも棄てられる。彼らは疑いなく非正統派である。

※ブラフマンは行為していないと言うこと。行為はマーヤから生じているのであろうか
 9
善悪の結果とアートマンは結びついている、ということは目には見えないけれども、認められているように聖典に基づいて、アートマンはブラフマンであり、解脱は知識に由来すると、認められるべきである。
 10
潜在印象は、
夢を見ている人々によって、この夢眠状態においてのみ、知覚される。

見・アートマンは潜在印象とは異なっており、絶対である。
※此処での知覚とは分離している感覚であり、知覚を指しており、アートマンには分離知覚はないと言うこと
 11
刀は鞘から抜き出されたとき、光り輝くのが見られるように、
認識主体は、夢眠状態において、原因結果から自由になったときに、自から輝くのが見られる。
 14
粗大なる身体や微細な身体と同一視され、
潜在印象の形をもったアートマンによって行為がなされる。
私の本性は「そうではない、そうではない」のであるから
、私によってなされるべき行為はどこにも存在しない。

※アートマンは行為ではなく、身体ではなく、潜在印象ではないということ
 15
それゆえに、
無知を原因とする行為からは
不死となる望みはない。
解脱の原因は知識であるから、
解脱は知識以外のなにものにも依存しない。
 16
不死者は、
恐れを持たず傷つけられることはない。

「そうではない、そうではない」
といって否定されないで残されたアートマンは、

私にとって愛すべきものである。
それゆえに、
アートマンに相反し、アートマンと異なっているものは、
行為と共に捨てるべきである。

 
第12章
光に照らされて                  
 1
人は
光に照らされている身体を、
誤って発光体である、と見なすように、

見者(アートマン)であるかのように
顕れている心(統括機能)を、

「私である」、「見者である」と考える。


※私アートマンは決して肉体ではない、マインドではない、心ではない、魂ではないということ
 2
この世において経験されるものは、
何んでも、アートマンと同一視されてしまう。

それ故に、人は混迷に陥り、
そのために真実のアートマンを見いだせないのである。
 3
「前略」、・・このように混迷に陥った世人は、
アートマンを
統覚機能などのような認識対象のうちにある、
と考えて、それとは別様には理解していない。

※心は認識対象であり、私アートマンは認識対象や認識主体には分離していないと言うこと
 4
「君は行為せよ」
「君はまさにそれブラフマンである」
という二つの相矛盾する観念が同時に、
同一の拠り所を持つことが出来るのか、
合理的に説明せよ。
 5
身体を
アートマンと同一視するものは苦しむ。

身体を持たないもの(アートマン)は
熟睡状態にあるときと同じく、
覚醒状態において本来苦しむことはない。

見(アートマン)から苦を取り除くために
「君はそれである」と言っているのである。

※私アートマンは身体ではないと言うことを知れば苦から解放されると言うこと
 6
鏡の中にある顔の映像のように、

見(アートマン)の映像を宿している
統覚機能の観念を見て、

ヨーガ行者は「アートマンを見た」と考える。

 7
もしその混迷に陥っている観念や
その他の観念は見には属さない、
と知れば、

その人こそ疑いなく、
ヨーガ行者の中のもっとも勝れたものであり、
他のものはそうではない。
 8
「認識の認識者」
と言われるものが
「君はそれである」の君

言われている。

それ故に、
これがこの言葉の正しい理解である。
これとは異なった理解は誤りである。
 9
私は常に見を本性とし、
常住であるから、

私が見たり、見なかったりすることが、どうしてあり得ようか。

それ故に
それとは異なる
この君と言う言葉の理解は認められない。

※「君はそれである」ではなく、主体と客体の分離を想っているのはマインドだと言うこと
 10
太陽の熱がある場所では
身体が、視覚の対象であるように、
この場合には、
統覚機能が実例の熱に対応する苦の場所である。
それ故に
統覚機能が、見(アートマン)の対象である。

※魂は真我によって、自他分離なく見られていると言うこと
 11
その「これ」の部分が否定された認識主体は、
虚空のように等質であり、不二である。

常に解脱しており清浄である。
それは私である。
私はブラフマンであり。
絶対者である。
 12
この認識主体である私よりも
優れた別の認識主体はあり得ない。
それ故に
私は最高の認識主体である。
常に一切生類の中にあって解脱している。
 13
私はブラフマンを知っているという誤った観念を捨てて、
アートマンの見は不断であり、
行為主体とはならない。

と知っているもの、
その人だけが真実にアートマンを知っており、
他のものはそうではない。
 14
「私は認識主体であり、認識対象ではない。常に清浄であり、解脱している」
と識別する観念もまた、統覚機能に属している。

その観念は認識対象であり、
滅するものであるから。

 15
アートマンの本性である見は
不断であり、
行為の要因によって生起するものではない。
それゆえにアートマンの見が生ずるものであるという誤った想定は、
アートマンとは別の、本来認識対象であるべき似て非なる見に基づいている。
 16
アートマンは行為の主体である、
という観念は、
身体はアートマンである。という観念に基づいているから、誤りである。

「私は何もしない」という観念は真実であり、正しい知識根拠に由来している。

 17
アートマンは行為の主体である、
という観念は行為の要因に基づいているが、

アートマンは行為の主体ではない、という観念は、
その本性に基づいている。

私は行為の主体である、私は経験の主体であるという認識が誤りである
、ということは充分に確かめられた。

※私アートマンは行為をしておらず、経験をしていない。行為と経験をしているものは「私という観念」である
 18
このように、聖典と推論によって、自己の本性が理解されたときには、
「私は聖典によって行為するように命じられている」
というこの理解が、
どうして真実であり得ようか。
 19
虚空が一切のものの中にあるように、
私は実に、その虚空の中にすら存在している。

私は不変であり、
不動であり、
清浄である。
不老であり
解脱しており、
常に不二である。
 
第13章
目がないこと                      
 1
目がないから、私は見ない。
同様に、
耳のない私が、どうして聞くことがあろうか。

言語器官を持たないから、
私は語らない。
意(思考器官)を持たないから、
どうして思考することがあろうか

 2
生気を持たないから、行為しない。
統覚機能がないから認識主体ではない。

それに明智も無明もない。
私は純粋精神のみの光を持ち

 3
常に解脱しており、
正常であり、
不変であり、
不動であり、
つねに不死であり、
不滅であり、
身体を持たない。
 4
虚空のように一切に遍満する私には、
飢えも乾きもなく、
憂いも迷妄もなく、
老衰も死もない。
身体を持たないから。
 5
私は触覚を持たないから、触らない。
味覚を持たないから、味わう事はない。

恒常な認識を本性としているから、
私には決して、認識したり、認識しなかったりすることはない。
 6
目に基づき、
その対象の色・形をとる意(統覚機能)の変容は、
じつに、つねにアートマンの恒常な見によってみられる。
 7
同様に
「目」以外の感覚器官と結合し、
外界の対象によって色づけされる統覚機能の変容も、

感覚器官と接合せず、
記憶や貪欲の形をした統覚機能の変容も、
また意(統覚機能)で起こる。

 8
同様に、
夢眠状態における意(統覚機能)の変容も、
私以外のものに属するのが見られる。

それ故に、
見者の見は恒常であり、
清浄であり、
無限であり、
絶対である。
 9
見者の見は無常であり、不浄である、と誤って理解される。
なぜなら、それに関する識別知が欠けているから。

同様に、私は、視覚−即ち「見者の見」の対象であり、その限定的添性であるが−−−によって、楽や苦を経験する。
 10
迷乱した視覚によって、
すべての人々は、私は迷乱していると考え、
清浄な視覚によって、私は清浄であると考える。
このためにかれらは輪廻に赴くのである。
 11
もし解脱をもとめるものであるならば、
眼を持たず、
耳を持たず
などと聖典(ウパニシャッド)に述べられ、
内も外も含み、不生にして、常に解脱しているアートマンを、
この世において、たえず想起すべきである。
 12
そして「眼を持たず耳を持たず」などの聖句があるから、
私はつねに感覚器官を持たない。
またじつに生気をもたず清浄である。
 13
またウパニシャッドに、
私は音声を持たないことがのべられ、
私は生気を持たず
,意をもたずと
述べられているから、私は実に、常に不変である。
 14
それゆえに、
私には心の乱れはない。

従って私には精神統一(三昧)はない。
心の乱れも、精神統一も、変化する意に属する。
 15
私は意を持たず、清浄であるから、
どうしてこの二つのもの、心の乱れと精神統一が私にあり得ようか。
身体なく、一切に遍満する私は意なく、不変である。

 18
私は一切万有である。
私は常に清浄であり、悟っており、
不生であり、一切に遍満し、不老、不死、不滅である
 19
一切生類の中で、私とは別のいかなる認識主体も存在しない。

私は業(カルマ)の監督者であり、
目撃者であり、観察者であり、
恒常であり、属性を持たず、不二である
 20
私は、有でもなく、非有でもなく、両者でもない。
絶対にして吉祥なものである。
見である私には、
常に昼も夜も黄昏もない。
 21
一切の形を持たない虚空が、微細であり、不二であるように、
わたしはこの虚空すらも持たないブラフマンであり、不二である。

 22
「私のアートマン」「彼のアートマン」「君のアートマン」
という区別は、私に対して誤って想定されたものである。

種々の対象にある穴の区別のために、虚空は、唯一であるのに、区別があると誤って想定されるように。

 23
別異と不異、一と多、
認識対象と認識主体、
行動と行動主体、という区別は誤って想定されたものであって、
どうして唯一な私にありえようか
 24
捨てるべきものも、取るべきものも、私にはない。
なぜなら、私は不変であり、常に解脱しており、清浄であり、
常に悟っており、属性なく、不二であるから。
 25
このように精神を集中して、
一切万有をアートマンとして知るべきである。
私が、各自の身体の中にある
と知れば、人は解脱し、不動の聖仙となるであろう。


第14章
夢と記憶

                                      
 6
統覚機能が照らすものである、ということは、
色・形などのような照らされる対象の形をとった統覚機能が見られているということである。

.同様に見(=アートマン)が認識主体である、
ということは統括機能がその対象の形をとって現れているときに、
見がその統覚機能に遍満していることである。

 7
純粋精神のみを光としている私は、
すべてのものの身体にある
すべてのものの統覚機能を照らすのであるから、

それゆえに私はすべてのもののアートマンである。

 8
統覚機能は、
夢眠状態においては、手段・対象・行為主体・行為・結果となる.。

統覚機能は
覚醒状態においてもそのように見られるから、

認識主体はそれとは異なっている。

※この場合の認識主体とはアートマンを指している
 9
統覚機能などは非アートマンである。

本性上、取捨されるべき対象であるから。
他方アートマンは取捨する主体であり、
それを捨てることも、取ることもない。
 10
アートマンは、
内も外も含み、清浄であり、純粋に叡智のみの塊であるから、
捨て去られるべき内や外やその他のものが、
いかにして、誤って想定することが出来ようか。

 16
実にアートマンは
自分自身を想起したり、忘れたりすることはない。

その純粋精神は絶えることはないから。
意が想起する、という認識も、無知という原因に由来する。

※純粋精神は自己想起したり、自己忘却したりはしないと言うこと、自己想起したり、自己忘却するのは魂である統覚機能だと言うこと
 17
最高アートマンが認識主体の認識対象であるならば、
これは無明によって誤って想定されたものである、

と伝えられている。
このアートマンが縄に誤って想定された蛇のように排除されるとき、
このアートマンは不二である。

※アートマンは絶対主体であり認識の対象ではないと言うこと、分離した対象認識をしないと言うこと
 18
アートマンは
行為主体でもなく、対象でもなく、結果でもないから、
また内も外も含み、不生であるから
どうして、誰が、
それに対して、これは「私のもの」である、これは「私」である、という観念をもつことが出来るであろうか。
 19
自分自身は、とか、
自分自身の、という観念は

実に無明によってアートマンに誤って想定されたものである。

アートマンが唯一である、
という知識がある場合にはこの観念は存在しない。
種子が存在しない場合には、
どこから結果が生まれようか
 20
その不滅のものこそ、見る主体であり、聞く主体であり、思惟の主体であり、また認識の主体である。

その不滅のものは見る主体などと異ならないから、見る主体である私は不滅のものである

※アートマンは見の奥にある見であると言うこと
 21
一切のものは、
動物も植物も、見あるいはその他の活動をもっているから、
不滅のものである。

それゆえに、
私は不滅のものであり、一切のもののアートマンである。
 22
アートマンを、
未だ果たし終わっていない義務を持たず、
行為そのものを持たず、
行為の結果を持たず、
私のものとか私はという観念を持たない、
と見る、その人は真理を見る。
 23
もし私のものとか、私は、という観念や努力や欲求は、
本性上アートマンにはない、

ということを知ったならば、
自己自身に安住し続けよ。
努力はいったい何に訳に立つだろうか。

※私アートマンには「他と分離した私」はないと言うこと
 24
アートマンを
私と言う観念の主体であり、かつ又認識主体である、と知るものは、まさしく真実にアートマンを知っているものではない。

それとは別様に知っているものが、真実にアートマンを知っているものである。
 25
アートマンは
身体などと別のものであるとはいえ、身体などと同一であると考えられているように、

アートマンは
行為の主体ではないことが知られていないから、アートマンは行為とその結果を本質としている、と誤って考えられてしまっている

※では行為の主体とは聖なるマーヤではないのか
 26
人々は、
常に夢眠状態で、見る事・聞くこと・思惟すること・認識することを経験する。
それらはアートマンを本性としている。それ故にアートマンは直接的に知覚される。

※それらの分離している見る事、聞くこと、思惟すること、認識することさえもアートマンが基底にあるから機能している
 27
真実のアートマンを知っているものには、
あの世に対する恐怖も、死に対する恐怖もない。

彼にとってはブラフマー神(梵天)やインドラ神(帝釈天)を含む神々さえも、憐れむべきである

 28
もし一切の不幸を生み出す、
いとわしき欲求が、全く断じ尽くされたならば、
かれが神々やブラフマー神やインドラ神となることは、何の役にたつのであろうか

 29
私、即ち自分自身という観念も、
私の、即ち自分自身のという観念も、
無意味となるとき、その人はアートマンを知っているものとなる
※分離した私という観念が脱落したとき真我が覚醒すると言うこと
 30
統覚機能などの限定的添性が、存在していてもしなくても、
アートマンには差別はない、
と知ったならば、どうしてかれに為すべきことがあろうか


※真我がなければ現在のパーソナリティーは存在できないが、真我は現在のパーソナリティーがなくても存在していると言うこと
 31
虚空のように、清らかで無垢であり、純粋な叡智のみを有し、不二であるブラフマンについて、
アートマンであると理解している人に、
一体他のいかなる為すべきことがあると考えられるか
 32
アートマンは一切生類の中に住するのを見、
かつアートマンの敵をみるものは、間違いなく火を冷やそうと願っているものである

※私アートマンには敵もなく、ただアートマンだけが存在していると言うこと
 33
統覚機能や生気のように振る舞うアートマンは、
水面に映っている太陽の映像の様に、
感覚器官などによって知覚される。

なぜならアートマンは彼は瞑想しているかのようであるとウパニシャッドに述べられており、
それ自身で清浄であり、解脱しているから
 34
私は生気をもたず、意を持たず、なにものとも結合せず、虚空のように遍満している見(純粋精神)である。
どうしてこの私に為すべきことがあり得ようか。
 35
変化せず、清浄であり、悪を離れたブラフマンであるこの私に、精神統一していない状態や、他の浄化されるべきものがあるのを、決して私は見る事がない。
 36
また、一切に遍満し、不動である私に、近づくべきがあるのを見ることはない。無属性であるから部分を持たない私に、上方も下方も斜方もあるのを見ることはない。
 37
純粋精神のみを光としているから、その私には決して暗黒は存在しない。私は常に解脱している。いまやこの私に、どうして為すべきことが残されているであろうか。
 38
意を持たないものは何を思考するであろうか。
行動器官を持たないものはどのような行為をするのであろうか。
実にプルシャは生気を持たず、意を持たず、清浄であるとの天啓聖典の言葉は真実である。
※プルシャとは真我のことで、人間の原型のことを指している
 39
アートマンは
時間を持たず、
場所を持たず、
方角を持たず、
原因を持たないから、
常にアートマンを瞑想するものは、決して時間などに頼ることはない。

 41
音声などの外界の対象は、

自らを知覚することも、また相互に認識されることもない。

味などは他のものによって認識される対象であるように、まさしく認識対象であるから、
身体に属する。

※五感や快感や身体感覚は肉体に属している肉体の頭脳の機能の働きだということ
 42
同様に
私という観念、
私のものという観念、
欲望、
努力、
変化
、快楽なども
他のものによって認識される。

それらはこの世に於いて認識の対象であるから。
さらにそれらは認識の対象であるから、
相互に認識しあうことはない。

それらの認識主体であるアートマンはそれらとは異なっている。

※相互に認識しあうという、見るものが、見られるものへ浸透していることが純粋主体のありようであると認識には自分と名人の区別はないということそれに引き替え思考は他人を認識していないと言うこと
 43
私という観念などの一切の変化は、

その行為主体をもっており、

行為の結果と結びつき、太陽によって照らされるように、

純粋精神を本性としているアートマンによって、あらゆる方角から照らされている。

それ故にアートマンは束縛から自由である。

 44
見(純粋精神)を本性とするアートマンは

虚空のように、
一切の生物の意に
遍満し、
そこに安住する。

それ故にこれより低い認識主体も、これより高い認識主体も存在しない。
それ故に主宰神は唯一者である。
※純粋精神であるアートマンが、魂で有る統覚機能を生じさせており、梵我一如であると言うこと、真我においては自我も真我であるということ
 45
身体と統覚機能が、他によって認識されるべき対象であるのなら、
私は、アートマンが存在しないとする仏教などの諸学説を完全に排斥してしまった。
なぜならアートマンは
不浄をもたらす行為を超越し、
完璧に無垢であり、
一切に遍満し、
束縛なく不二であることが確立されたからである。
 47
虚空が、
清浄にして中断されることなく、
執着することなく、
汚されることもないように、
このアートマンは常にこれら一切生類に対して平等であり、
不老・不死であって、恐れを持たない。
 48
無形のものと有形のもの、行為と潜在印象は、無明のために、その見(純粋精神)が混迷した人々によって、アートマンに誤って想定されたものである。

それ故に天啓聖典は「そうではない」。「そうではない」といって、
それらの混迷した見を本性とするものをアートマンから排除し、見のみを残したのである

 49
外界の対象と結合して生ずる、
覚醒状態における意の形は、
外界の対象が覚醒状態に於いて見られると同じように、

想起する場合にも、
夢を見ている人にとっても見られる。

これは身体の潜在印象についても同じである。

身体と意とは異なっているのである。

見の対象であるから。

※潜在印象とは各体の記憶のことか
 50
本性上、清浄な虚空には、

雲などの穢れがあろうとも、

それらの穢れがなくなってもなんの違いもない。

それと同様に、虚空の様な見には、

その二元が聖典によって否認されようがされまいが、決して何の違いもない


第15章
AはBではない
                                               

 AはBとなることは出来ないから、AはBであると考えるべきではない
なぜならAがBとなる場合には、Aが消滅することは確実であるから


※Aとは私という観念、Bは真我を指していると思われる
 2
描かれた絵が見られるのは
カンバスにおいてであるように、

かって見られたものが、
それを想起している人によってみられるのは

その基体においてである。

その基体とは、統覚機能と呼ばれ、

それを見る主体は知田者(アートマン)と呼ばれるものである。

と知られるべきである


※描かれた絵とは思考であり、出来事であり、私という観念であり、肉体であり、肉体を私と思っている現在のパーソナリティーであり、条件付けられている思考が見ている世界であり、その分離している内部と外部である
※基体と呼ばれている統覚機能とは魂の事であり、それらの絵(映像)は魂という観照者であるキャンバスという(鏡の)スクリーンに映っているものであり、それを見る真の主体とは、(神道での鏡に映る太陽のように)それは真我であるアートマンであるといわれている

※それを想起している人とはアートマンであり創造主であると思われる。ただ注意すべきはこの観点は自我の観点ではなく、真我の観点からであるので、自我がこのことを勝手に自己流に解釈することは出来ない
現時点での、これを読んでいるのは描かれている絵の方の「観念の私」であることを忘れてはいけない
 3
行為主体などの

行為の要因と結合して、

快・不快のような結果を持って終わり
、かつて経験されたもの

--それがアートマン(知田者)の対象(=統覚機能)にあったものとして

現に想起されつつある。

それゆえにその対象(=統覚機能)が、

以前にまさしくアートマン(知田者)の対象であったのである。

 4
そして認識対象は、つねに認識主体とは異なっている。

なぜなら認識対象であるから。

瓶などのように。認識主体は認識対象とは異種のものである。

そうでなければ認識主体は目撃者とはならない。統覚機能のように。
 6
実に無心のものには、快も不快も触れることはない、

人は行為の結果、無身(=解脱)となるのではない。

人を本来無身であるのに、

身体と結合させるのは、行為である。

それゆえに智者は行為を捨てるべきである。

 7
もしアートマンが、

行為とは無関係であるならば、

行為の止息とも無関係であると考えられるべきである。

無身となるのは

行為によってはえられない結果である、

と知るならばどうして行為をなすべきであろうか。
 9
アートマンは、

唯一にして、

一切有類の中にあり、

また一切有類は、

アートマンの中にある、

ちょうど一切有類が虚空の中にあるように。

清らかに明るく輝いて、虚空のごとくに、一切に遍満したと認められている。

 10
アートマンには傷や腱がないから、

粗大な身体を否認すべきである。

アートマンは正常であり、

悪を持たないから汚れを否認すべきである。

またアートマンは無身であると天啓聖句があるので

微細な身体を否認すべきである。

 12
「私の」とか

「私」という観念は

他人の身体に対して起きるとは考えられていないように、

この自分の身体に対しても、起きるとは考えられない。

どちらの場合にも

アートマンは統覚機能の目撃者である点では区別がないから。

※アートマンにとっては私の身体とか、あなたの身体という区別はない。すべての身体に宿る多くの魂をすべて私と見ているただ一つの真我であるから
 13
貪欲と嫌悪は、

色・形の潜在印象と

共通の拠り所(=統覚機能)をもっている。

また知覚される恐怖も、

統覚機能を拠り所としている。

それゆえに

認識主体は、つねに清浄であり、恐怖を持たない。

 14
Aに心を集中しているものは、Aと別のものである場合には、そのAを本質とするものとなる。

しかしアートマンには、

アートマンになろうとする行為はない。

アートマンはアートマンとなるためには、アートマン以外の如何なるものにも依存することはないからである。

他の何ものかに依存するならば、実にアートマン自身、アートマンではない。

 15
虚空のように、純粋精神は

等質であり、分割されることなく、不老にして汚れを持たない。

しかし純粋精神は眼などの限定的添性のために、本来のものとは反対のものとみなされている。

 16
「私」というこの観念は、アートマンの属性ではない。

認識の対象であるから。

瓶などのように、他の諸々の観念や欠点も、同様であると知るべきである。

アートマンはこのようにして汚れを持たないのである。

 17
アートマンは

一切の観念の目撃者であるから不変であり

一切のものに遍満している。

万一変化を受けるようなことがあれば。見者(=アートマン)は、

一切智者ではなく統覚機能などのように、

僅かな知識を持つものとなるであろう。

 18
見者の見(純粋精神)は眼などの見とは違って、

破壊されることがない。

見者の見の消滅はないからである。

それ故に見者はつねに経験しているのである。
 19
私は地や水のように、五大元素の集合体であろうか。

統覚機能や感覚器官などの諸器官の集合体であろうか。

あるいは、それらのうちの個々の、どれか一つであろうか。

あるいは私は一体誰であろうかと吟味すべきである。

 20
私は、

個々の元素でもなく、

元素全体でもない。

私は個々の感覚器官でもなく、

感覚器官全体でもない。

それらは、それぞれ認識対象であり、

認識手段であるから。

認識主体である私は、

それらとは異なっている。

 21
アートマンの火にとって、

薪は統覚機能である。

無明と欲望と行為によって点火され、

つねに耳などの感覚器官の門を通じて燃えるのである。

 22
統覚機能が、

対象という供物によって燃え上がり、

右眼を主要なものとする感覚器官の中で活動するときには、

すなわち覚醒状態においては、

アートマンの火は粗大な対象を経験する。

 23
しかし、色・形などを知覚する場合に、

「アートマンの火に供物が供えられている」と、

貪欲と嫌悪を持たずに想起するものは、

統覚機能の諸欠点に穢されることはない。

 24
無明に基づく行為から生じる潜在印象が

夢眠状態において、意という拠り所(=統覚機能)に顕現し、

みずから輝くアートマンによって照らされるのを見つつあるアートマンは

タイジャサ(光明我)と呼ばれる。

 25
熟睡状態において、

外界の対象も潜在印象も、

無明に基づく行為によって統覚機能に生じない場合には、

アートマンは、他のなにものも見る事のない、

プラージュニャ(智慧我)であると知られるべきである。

 26
意の状態(夢眠状態)や

統覚機能の状態(熟睡状態)や

感覚器官の状態(覚醒状態)は

行為によって決定され、

精神性によって照らされる。

瓶などが太陽によって照らされるように。

 27
こういう訳であるから、

それ自身の光によって統覚機能の諸観念を照らし、

その諸観念を対象としている認識主体を、

統覚機能の諸観念の主体と呼ぶのは愚者だけである。

 28
それゆえに愚者にとってのみ、その認識主体は一切智者である。

その認識主体は自分自身の光によって、一切万有を照らしているからである。

同様に愚者にとってのみその認識主体、すなわちアートマンは、

一切の行為の原因であるから、一切万有の行為主体である。

 29
このように述べられたアートマンは限定的添性を持っている。

限定的添性をもたないアートマンは、

表現できず、部分を持たず、属性を持たず、清浄である。意も言葉もそれに達することは出来ない。

 31
しかし言葉は、

統覚機能の諸観念とともに、アートマンに達することなく引き返す。

アートマンは属性を持たず、こういなく差別を持たないからである。

 32
虚空が一切に遍満しながらも、

一切の有形のものと結合することがないように、

アートマンは清浄であり、最高の帰趨であると知るべきである。

 33
光を持った一切見者アートマンは

覚醒状態において直接知覚されるものを捨て

夢眠状態における記憶・想起を捨て、

あらゆるものを取り込む、熟睡状態における暗黒を追い払う。

太陽が暗闇を追い払うように。

 34
統覚機能の諸観念は

覚醒状態において色・形を対象とし、

夢眠状態において、記憶・想起を対象とし、

熟睡状態において暗黒を対象とする。

これらの諸観念を対象とするアートマンは、

一切有類にあって、平等であり、一切万有に遍在する。

 35
アートマンと統覚機能・意・眼・対象・光が結合することから、

無知を特徴とする統覚機能のさまざまな観念が生じる。

 36
自己のアートマンをその「他」のものと区別して

、自己のアートマンを、清浄にして、最高の帰趨であり、見者であり、

一切万有のなかにあって平等であり、一切の恐怖を超越している、と知るべきである。

 37
それは全体であり、

一切に遍満し、

静寂であり、汚れなく、虚空のように安定し、

部分をもたず、

行為をもたず、

一切であり、常住であり、二元対立を超えていると知るべきである。

 38
「どのようにして私は、一切の観念を目撃する認識主体を認識することが出来るであろうか」

とこのように反省し、ブラフマンが既知のものであるか否かを確認すべきである。

 39
「他に」見られることなく、見るものである。

他に認識されることなく、認識するものである。

「君が充分に知っていると考えるならば、君は実にほんの僅かしか知らない」

などの天啓聖典がの教えがあるから。

私もたのものたちも、最高のブラフマンを決して知ることは出来ない。

 40
最高のブラフマンは、

自分自身の本性であり、中断することはなく、知識の光を本性とし、

その認識のために他のものに依存することはない。

それゆえに私は、最高のブラフマンを常に知っているのである。

 41
太陽は、自分自身を照らすのに、他の光を必要としない。

認識は自分自身を照らすのに、

それ自身の認識とは別の認識を必要としない。

 42
あるものの本性が何であろうとも、それは、その本性を得るために、他のものをも必要としない。

いかなる光も、他の光によって照らされることはないから。

 43
光を持たないものは、光を本性とするものと結合することによって、顕現する。

それゆえに光が、太陽の結果である、ということは誤りである。

 45
光を本性としている太陽などは、

ただ存在するというだけで、瓶などが顕現するから、

光を発する主体である、と認められているように、

認識を本性とするアートマンについて同様であると考えられるべきである。
 46
太陽は、穴から蛇が出てくるときに、何の努力もしないで、蛇に光を照らすように、

アートマンは何の努力もしないで認識主体となる。認識を本性としているから。

 48
認識者(アートマン)は、なんの努力もしないで、認識主体となると同様に、

磁石のように、行為主体となる。

それ故にアートマンは、それ自体、本性上認識されるものでなく、認識されないものでもない。

 49
アートマンは既に知られたものとも、未だ知られていないものともことなっているという教えがあるから、

束縛や解脱などの諸状態は、アートマンに想定されたものである。
 50
光の本性には差別はないから、

太陽には昼にも夜もないように、

アートマンには智も無智もない。

智の本質には差別はないからである。

 51
上述したようにブラフマンは、

上述したような仕方で、捨てることもとることも出来ないと知るものは、

決して再び生まれないことは真実である。

 52
生と死の川の中に落ちたものは、知識以外のなにものによっても、そこから自分自身を救うことは出来ない。
 53
この高いアートマンと低いアートマンが知られるとき、

心臓の結節は解かれ、

一切の疑惑は取り払われて、

彼の行為は滅び去る。

 54
虚空のような、無身の境地が、

充分に研究された経典と推論に従って述べられた。

もし人が

「私の」「私」というこの観念をすっかり捨てて、

この境地に対して確信を持つに至れば、解脱する。

 
第16章
地から成るもの                                                 
 3
これらの5つの感覚器官は、伝統的に
知覚を目的としているといわれ、
語・手などの5つの行動器官は
行動のために存在すると言われる。
内部に存在する第11番の器官である意は
それら5つの感覚器官と、5つの行動器官を分別することを目的としている。
 4
統覚機能は
対象を決定することを目的としている。

アートマンは
自己の本性である光によって、
一切の対象を知覚するその統覚機能を

常に照らしているので、認識主体と言われる。

 5
照らす主体である光は、
照らされるべき対象の形を取るから、

見たところその対象と混ざり合っているとはいえ、
本当はそれと混ざり合っているのではないのと同様に、

認識主体も見たところその対象と混ざり合っているとはいえ、
ほんとうにはそれと如何なる時にも混ざり合っているのではない。

 6
固定された灯火が、
何ら努力することなしに、その光が到達した一切のものを照らすと同様に、

認識主体は何ら努力することなしに、
その光が到達した
一切の音声などの形をした

統覚機能の観念を照らす


 7
快感などは、
恒常的なアートマンの光に照らされて
身体と感覚器官の集合体のなかにアートマンとして現れる統覚機能を分節化する。

 8
なぜなら頭脳などのために、

自分自身を「私は苦しんでいる」と考えるから、

見者(アートマン)は苦しんでいる対象とは別のものである。

この見者は認識主体であるから、苦しむことはない。

※苦しんでいる対象とは、自分を苦しんでいる肉体と同一視している現在のパーソナリティーと魂のことを指していると思われる
 9
誤って、

私は苦しんでいる、と考えるために、

人は苦しみのであって、

苦しんでいる統覚機能をみるために苦しむのではない。

四肢などとの集合体(身体)の中にあって、

この苦を見る者は、苦しむことはない。

※四肢などの集合体(身体)の中にあって、この苦しんでいる身体を見ている者とは、現在のパーソナリティーであり、魂という統覚機能は苦しんでいる身体とは別のものである。現在のパーソナリティーが苦しんでいる身体と同一化しているので苦しんでいるのだといっている
 10
もし(唯識論者)が
「眼は常に見る主体ではあるが、鏡に映るときには見る対象となる」ように

統覚機能、すなわち識は対象であり且つ主体である」と、

言うならば、それは正しくない。

眼は多様で集合体であるから。

それゆえにアートマンは見者であるから、

対象となることはない。

※眼であるアートマンという真我は絶対主体であるので対象となることはない
 11
もし「アートマンもまた、知識・意志的努力などの性質のため多様である」と考えるならそれは正しくない。

アートマンは唯一の知識を性質としているから、光のように対象となることはない。

※日中の光は対象を照らしており、光そのものは主体と客体を照らしているので、照らしているもの自身であるから対象とはならないと言っている
 12
光はそれ自体に、照らすものと照らされるものという区別はないから、ものを照らすものではあるが、

自分自身を照らすことはない。

それと同様にたとえそのような区別があるとしても、
照らすものと照らされるものは本質において平等であるから、
自分自身を照らすことはない。

同様に認識主体は、自分自身を見ることはない。

 13
およそいかなるものも、それ自身の属性の対象となることは出来ない。なぜならたとえば火は自分自身を焼くことも、照らすことも出来ないから。

 14
まさに同じ理由によって

統覚機能が自分自身を自分自身によって知覚するという説は排斥された。

同様に認識に認識主体・認識対象などの部分があると想定することも不合理である。

認識主体・認識対象などの部分は、その本性において同じであり、

また本性上、認識(アートマン)には差別はないから。

※「見るものは見られるものである」ということ、認識には認識される対象も、認識する主体もない、ただ認識だけがある。見には見の対象もなく、見ている主体との区別はないということ
 15
同様にアートマンは空性であるという中観派の主張も不合理である。

それ故に
統覚機能は、瓶と同様に、それ自身とは別のアートマンによって見られる対象である、といわれた。

なぜならアートマンはその統覚機能が誤った想定(虚妄分別)をする以前に、確立しているから。

 16
なにものでも、統覚機能が誤った想定をする以前に存在するものは、
もしそれがこの誤った想定の原因であるならば、誤った想定から自由である。

誤った想定が生じる原因であるから。

※魂という統覚機能が自分は肉体であるという誤った想定をすることが出来るのも真我があるからであるということ
 17
誤った想定の根源であり、輪廻の支配者である無知を捨てて、

アートマンを

解脱しているつねに無為の最高ブラフマンであると知るべきである。

※此処ではシャンカラは輪廻を起こしめているのは無知であると言っている
 18
覚醒状態と夢眠状態、

およびそれらの両状態の、暗黒からなり、熟睡状態と呼ばれる種子−−この三状態を、

そのうちの一つの状態が存在するときには、他の二つの状態は存在しないから、

この三状態は実在しないと考えて、捨てるべきである。

※ということはこの熟睡、夢見・覚醒にかかわらず常に本来の意識は目覚めておりこの三つの状態に関わらず常に覚醒しているといわれている
 19
アートマンと、統覚機能・意・目・光・対象などが混合する様に見えるために、行為が起きる。

それゆえに「アートマンの行為である」という錯乱が起こる。

※それゆえにアートマンは行為していないと言われる
 20
目という局部で起こる瞼の開閉は、風に由来するのであって、

目に由来するのではない。

なぜなら目は視覚によって輝くものであるから。

同様に、瞼の開閉は、
意においても、統覚機能においても、起こらない。

なぜなら意も統覚機能も輝くものであるから。

※瞼の開閉などは、無意識的に自律神経系である「風」に由来した動きであると言われる
 21
思考作用と確認作用とが、それぞれ意と統覚機能に属する。

一方が他方の属性をもったことはない。

そして一切のものが、アートマンに誤って想定されたものである。

※思考作用は意といわれるメンタル体に属しており、確認作用は魂である統覚機能に属していると言うこと
 22
諸感覚器官の知覚は、
それらの感覚器官が身体の中で占める局部によって限定される。

統覚機能はそれらの感覚器官と同一視される。

認識主体(アートマン)は、その統覚機能を見つつあるので、身体大であるかのように考えられている。

 23
この一切は、

実に瞬時に滅し、間断なく生じるダルマの要素に他ならない。

この一切は瞬時に滅するのであるが、

丁度この瞬間の灯火が、類似性ゆえに、

前の瞬間にあった灯火と同じであるという認識が生じるように、

類似性の故に、これは過去のあれであるという認識が生じる。

この一切を寂滅に帰することが、人生の目的である。

※この記述では一切は映画のフィルムのように順次に現れて消え去るのであるが類似性故に感覚器官には世界が継続しているように見えるのである
 25
識(統覚機能)は外界の対象の形をとり、かつ瞬時に滅するから、

それは決して記憶を持たない。

また、統覚機能は瞬時に滅するから、

どこにも潜在印象を保持することはない。

※統覚機能は受け取るだけではなく、統覚機能を通じて外界の対象が投影され、しかもそれは瞬時に滅し、瞬時に現れているということであろうか
 26
潜在印象や記憶を保持するものすら存在しないのであるから、

この瞬時における灯火と前の瞬間における灯火との類似性を確認する手段もない。

それゆえにもし潜在印象と記憶の場があるならば、

一切は瞬時に滅するという理論は捨てられるであろう

※瞬間の知覚が発生していれば、この瞬間の中には潜在印象や記憶を保持するものはいない、すなわち瞬間の知覚の中にはすべては寂滅していることが理解される「今」の中には記憶や潜在印象はないと言うこと
 27
また、

この一切を寂滅に帰することは、何の努力もしなくても達成されるのであるから、

それを達成するための手段を教えることは無意味である。

この一切は各瞬間ごとに寂滅に帰するのであるから、

それが寂滅に帰するには、他の何ものをも必要としない。

 28
寂滅には、

たとえ本質的にそれと異なっていようとも、

別の連続を必要とすることが望ましいとしても、

もし一切のものが瞬時に滅するのであれば、

寂滅は他のないものをも必要としない

 29
なぜならA、B二つの連続が、
同時に存在しかつ相互に関係がある場合に、
Aとの関係を通じて形成されたB二つの連続こそがAに基づいているということが出来るからである。

 30
しかし、

誤った付託がなされているそのアートマンにおいて、
誤った付託を滅することが成立するというのが、
われわれ不二一元論者の見解である。

いっさいのものが瞬時に滅するならば、その結果としての解脱は何ものに属するか語れ。

※瞬時の知覚すなわち永遠の今の知覚とは、真我の覚醒であり、真我の知覚においては一切のものは瞬時に滅している、すなわち現象界は夢であると言うことになるのであろうか 「永遠の今」の中には現象界は存在しないと言うことか
 31
確かに、知識とも、アートマンとも、その他のものとも呼ばれるものはみずから実在する。

それは事物の存在と非存在の認識主体であるから、

それが存在しないと言うことは承認されない。

 32
それに基づいて事物の存在しないことが承認されるもの、それがブラフマンである。

もしブラフマンが存在しないならば、人々は事物が存在するのか、存在しないのかが分からなくなるであろう。

これは望ましいことではない。
 33
「有」「非有」「有非有」と誤って想定する以前に、
存在すると考えられるものは不二である。

それは一切において平等であるから。
それは恒常であり、誤って想定されたものとは別のものである。
 34

二元は存在しないと承認されるべきである。

なぜなら誤った想定によって生ずるから。

夢の中で見る対象のように。

また「有」「非有」などの誤った想定が生じる前には存在しないから。

 35

変化物はただ言語による把握であるという天啓聖句があるから変化物は存在しない。

この世で多様であるかの様に見えるものは、死より死に至る。

また「私の神秘力(幻力、マーヤー)は越えがたいから」という古伝書の聖句があるから。

 36
それ故にアートマンは清浄である。

アートマンは誤った想定とは本性を異にしているからである。

それゆえにアートマンは取ることも捨てることも出来ない。

アートマンはそれ以外のものによって誤って想定されたものではない。
 37
光輝をを本性としているから、太陽の中には暗黒が存在しないように、恒常な認識を本性としているのであるから、アートマンには無知は存在しない。
 38
同様に、不変性を本性としているから、アートマンには状態の変化はない。

なぜなら状態の変化があるとすればアートマンではない。

41
なぜなら自己の本性は何の原因も持たないものであるが、
状態の変化などやその他のものは原因を有するものであるからである。

自己の本性は自分自身によっても、

あるいは他の何ものによっても、取られることも捨てられることもない。

 42
アートマンは一切万有の本性であるから、捨てることも、取ることも出来ない。

なぜならアートマンは一切万有とは別のものではないからである。

それ故に永遠の存在である。

アートマンは如何なるものの対象となることはなく、如何なるものからも離れないからである。

 43
一切万有はアートマンの為に存在しているのであるから、

アートマンは永遠の存在であり、絶対者である。

それ故に解脱を知っているのものは、

一切の行為とその手段を捨てるべきである。

 58
一切有類の内にあるアートマンは世間の苦に穢されることはない。

アートマンは微細であり、唯一であり、認識の対象ではないから。

 59
束縛とは

統覚機能の錯乱であり、

解脱とはその錯乱の止息である。

 60
認識というアートマンの光輝に照らされて、

統覚機能は、自分自身の内に認識があり、
他に認識主体は存在しないと考える。

これこそ統覚機能にある錯乱である。

 61
認識は
アートマンの本性であるから、

認識は統覚機能に対して用いられるとしても、それは常に比喩的に用いられるのである。

識別智の欠如もまた、はじめのない永遠の昔からである。

これが輪廻であり、これ以外の何物も輪廻ではない。

 62

解脱とは、正しくその識別智の欠如を止息することである。

 68
〈前略〉以上、二元論に基づく誤った想定も、無我論も、理論によって排斥された。

解脱を求めるものは、他の人々の理論から生ずる雑念を払い捨て、

知識の道において不動となるべきである。

 69
自分自身を目撃者として、
全く清浄であり、
誤った想定と両立しない不二の知識を獲得して、

正しく確信を持つに至れば、
何ものとも関係を離れて
永遠の至福に赴く。
70
欠点を離れ、アートマンに関する誤った観念を捨てた人は、
最高の帰趨であるこの秘密の知識を詳細に吟味して、

常に正道に心を尽くすべきである。

実に自分自身をブラフマンと異なると考える人は決して真理を見る者ではない。
 
71
この最高の浄化法を知って

人は幾多の他の生において蓄積された、
無知を原因とする罪悪から自由になり、
この世において虚空のように、諸々の業によって穢されることがない。 

72
この浄化法は、
心が静寂に帰し、
感覚器官が制御され、
諸々の欠点が捨てられ、
述べられているように行為し、
美徳を備え、
常に師に従順にして、
解脱を求めるものに、
絶えず教えられるべきである。
 
73

人は
自他の心身について、
自分自身であるとか自分のものであるという、誤った観念をもたないように。

人は最高の真理を見て、
この全く汚れのない知識を得たのであるならば、
そのときあらゆる点について解脱するであろう。
 
74
実にこの世において、自己の本性の獲得よりも優れたものは何もない。なぜなら、この自己の本性の獲得はシンドラ神の王国よりも優れた自己の本性の獲得は弟子を入念に調べることなくして、教えられるべきではない。 
 第17章
正しい思想                                                            
 1
知られるべきアートマンは、
一切智者であり、
一切見者であり清浄である最高のアートマンである。

なぜならそれ以外の何ものも存在しないから。
このこれから知られるべきアートマンに敬礼する。


太陽光線が暗黒に達して、それを滅するように、
諸師の言葉が私に達して、私の罪悪を滅ぼした。

それらの諸師に敬礼して、私はブラフマンの知識に関する結論を述べよう。
 

他の如何なる獲得であろうとも、アートマンの獲得よりも優れたものはない。
ヴェーダ聖典の諸説も、行為なるものも、そのアートマンの獲得を目指している。
 

なぜなら、およそ幸福の為に望まれた獲得なるものは、自分自身の為であるとはいえ、結局は幸福とは反対のものとなる。ブラフマンに精通している人々は、アートマンの獲得は、永遠であるが故に最高であると宣言した。 

またアートマンの獲得は、
本性上自ずから既に得られているものであるから、他のものに基づいているのではない。

しかし他に基づく獲得は、アートマンとブラフマンとは別のものであるとする見解から生ずる。 

しかるに、アートマンとブラフマンとは別のものであるとする見解は、無明である。

無明の止息が解脱である、といわれる。この止息は知識によってのみ得られる。
無明と知識とは矛盾するからである。この止息は行為によっては得られない。
 


行為の結果は、無明と欲望とを原因としており無常である。 

12
この世界の一切は、錯乱した統覚機能によっって、誤って想定されたものである。
 
14
人が夢眠状態において、それによって一切のものを知るもの、それが知識である。

しかし、その知識はアートマンのマーヤ・幻力に基づいている。

夢眠状態において人がそれによって見、聞くもの、それがそれぞれ視覚、聴覚と呼ばれる。
 
15
夢眠状態にある人が、それによって語るもの、それが言語と呼ばれる。

また同様に夢眠状態にあるひとが、それによって嗅ぐもの、それが嗅覚と呼ばれる。

夢眠状態にあるひとがそれによって味わい感じ、思考するもの、
それがそれぞれ味覚、触覚、思考器官と呼ばれる。

その他の器官も同様である。 
17
覚醒状態(日中の意識)にあるアートマンは、
統覚機能にある対象を顕しだし、
統覚機能の錯乱によって、欲求から生ずる活動を行う。

19
この日中の覚醒状態にあるアートマンが
錯乱によって区別を誤って想定するとき、
それを欲し、それを得ようと意図する。

それを欲し、それを得ようと意図して行われた行為の結果を得る。
 
20

一切のものは無明から生ずる。


それ故にこの世界は非存在である。

 
無明を持っている人によっては見られるが、熟睡状態においては知覚されないから。

21
妙智とはアートマンとブラフマンは同一であるという理解であり、

無明とはアートマンとブラフマンは異なっているという理解である。 
 22
じつにこころが鏡の様に清らかとなるとき、
明智が輝き出るから、心は清められるべきである。

心は不殺生、真実語、不偸盗等、不淫、無所有からなる制戒等によって清められる。

24
直接知覚が覚醒状態(日中の思考状態のこと)であり、想起が夢眠状態であり、
その両者がないのが熟睡状態であり、
自己の最高の帰趨(ブラフマン)であると知るべきである。
 
25
無明は熟睡状態と呼ばれる暗黒であり、
夢眠状態と日中の覚醒状態の種子である。

無明が自己のアートマンの明智によって焼かれたならば、
焼かれた種子の様に、もはや発芽することはない。

 
26
そのマーヤー(幻力)という種子は、
ただ一つであるが、
順番に、繰り返し、三様に現れると知られるべきである。

アートマンは不変であるとはいえ、マーヤーを持っているために、水に映る太陽のように様に知られる。
 
27
また同一の種子が
熟睡状態、夢眠状態などの区別によって、
異なって現れるように、

アートマンは水に映っている月のように、
夢眠状態にある身体と覚醒状態にある身体とにおいて異なって顕れる。
 
28
アートマンは不動でありながら、熟睡状態・夢眠状態などに赴く 
 29
正気(熟睡状態)なども、それを見ているものもいないが、
それらとは別の認識主体、すなわち見(純粋精神・アートマン)がつねに存在する

 30
目が束縛されていない人にも、魔術師にも、魔術師が作り出す幻影は存在しない。

目が束縛された人にとってのみその幻影は存在する。それゆえに魔術師は存在しないのである。

 31
アートマンは直接的にのみ認識されるべきである、
なぜならアートマンは直接的である。

この高いアートマンと低いアートマンが知られるとき、心臓の結節は解かれる。

もし現世においてアートマンを知らなければそこには大きな破滅がある。

32
また、アートマンは声を持たないから、
感覚器官によっては知覚されない。

同様にアートマンは快感などとは別のものであるから、
どうして統覚機能によって知覚されることがあり得ようか 

 33
アートマンは、一切に遍満しているとはいえ、統覚機能においてのみ認識される。

34
太陽の影像と熱は、水において知覚されるが、水には属さないように、
まさしくそのように認識は統覚機能において知覚されるが、
その統覚機能の属性ではない。
なぜなら本質を異にしているから。
 
35
絶えることのない純粋精神であるアートマンは、
内的な知覚の場合には、目と結びついた統覚機能の変容をすべてみているから、
アートマンは見の見者であり、また聞の聞者である
 
36
外界の対象の知覚の場合には、
外界の対象を知覚する感覚器官から離れている統覚機能の変容をすべてみているから、

アートマンは思惟の思惟主体であり、不生のものである。

同様に認識の認識主体である。

絶えることのない能力を持っているから。

それゆえに見者の見は消滅することがない。
 
37
同一のものでありながら、かれは瞑想しているかのようである。 
38
その能力は絶えることがないから、

認識主体(アートマン)は熟睡状態においても覚醒状態においても存在する。

不変であるから。しかし区別は認識対象においてのみ存在すると考えられる。
 
39
時間空間などによって媒介されているから、
目のような非アートマンによる世俗の認識は実に間接的である。

認識はアートマンの本性であるから、このブラフマンは直接的に認識する。
 
40
ある灯火を映し出すのに、別の灯火を必要としないように、

認識がアートマンの本性であるから、
アートマンを認識するのにアートマンと別の認識は必要ではない。
 
41
アートマンは対象となり、変化し、多様であることは認められない。
それ故にアートマンはアートマンとは別のものによって捨てたり、取ったりすることは出来ない。
 
42
アートマンは、
内も外も含み、衰微することなく、生・死・老を超越している。

私はアートマンである。

統覚機能を既に知っているものは
一体何を恐れることがあろうか。
 
 43
祭事行為が行われる必要があるのは、
このアートマンが教示される前だけであり

「それは粗大でもなく・微細でもなく」
「君はそれである」という確信が起きる前だけである。

44
前世の身体が棄てられるとき、おなじく前世のカーストなどが棄てられるのであるから、
カーストなどは身体にのみに属している。
このようにして身体も又、じつに非アートマンである。
 
45
それゆえに、
身体などの非アートマンに対する、「私のもの」「私」という観念は、無明である。
無明はアートマンの知識によって棄てられるべきである。
 
46
ブラフマンの知識が得られるときカーストなどに基づく祭事行為もなくなる。 
47
しかし無知なるものは、それを欲し、それを得ようと意図して行われた行為の結果を得る。

諸欲が、自己のアートマンを見る者から棄てられるとき、彼はそのとき不死となる。
 
 48
アートマンの本性に関する教示は、結果として行為などの止息をもたらす。
アートマンは実現されるべき目的でも、実現の手段でもない。
アートマンは常に満足していると考えられている。
49
行為の結果は、作られ、得られ、変化され、浄化されるべきものである。

これとは異なった行為の結果はない。

それ故に行為はその手段と共に捨てるべきである。 

50
真理を求めるものは
いま外的なものに向けられているその愛を
−−それは苦悩で終わり、無常であり、アートマンの為にあるものであるから−
−アートマンに専注して、師に頼るべきである。 
51

この心が静寂に帰し、智慧あり、解脱しており、行為を離れブラフマンに安住している師に頼るべきである。
 
52
この師は、弟子が弟子の性質を備えた、相応しい弟子であるならば、直ちに、ブラフマンの知識という船によって、彼の内にある暗黒の大海を渡らせるべきである。 
53
見る力、
触れる力、
聞く力、
嗅ぐ力、
思惟する力、
認識する力、
およびその他の諸力は純粋精神を本性としているとはいえ、限定的添性によって区別づけられている。 
54
太陽は、破壊も生起もなく、常に輝いているように、
アートマンは一切に遍満し、一切を見、清浄でありつつ、
常に一切を知る。
 
55
無明のために、アートマンはアートマンとは別のものの見であり、身体の中にあり、身体と同じ大きさであり、水に映る月のように、身体の属性を持つもののように見なされる。
 
56

覚醒状態において外界の対象を見、ついで目を閉じ、夢眠状態に入って、それを想起し、そして熟睡状態に入ってそれを棄て、ついでアートマンの認識を開いてブラフマンに到達する。
 
57
このように生気(熟睡状態)など三状態を棄てて、人は無明の大海を渡る。
なぜなら彼らは自己のアートマンに安住し、属性を持たず、清浄で、自ら開悟し、解脱しているからである。
 
58
「私は不生であり、
不滅であり、
不死であり、
不老であり、
不畏であり、
一切智者であり、
一切見者であり、
清浄である」と悟ったものは、
再び生まれることはない。 
59
ブラフマンとアートマンの同一性を知っている人には、暗黒という種子は存在しない。
その暗黒が存在しないのにどうして彼が再び生まれることがあろうか。
 
60
牛乳から牛酪を分離して、それを牛乳の中に戻しても、前と同じものにならないように、
認識主体(アートマン)は

統覚機能などの非実在から分離されたならば、

前と同じように、再び身体を持つ個我となることはない。

 
62
言語も思考器官も火なども、アートマンを恐れながら機能する。

そのアートマンの歓喜という真理を知ってるものは、何ものをも恐れない。 
65
しかし、
熟睡状態などの三つの状態は、
ただ言語器官による把握に過ぎないから非存在である。

「私は実在であり、認識主体である」と、このように自分自身を真実で覆うものは解脱する。 
66
太陽は光輝を本性としているから、太陽には昼も夜も存在しない。
同様に、私には知も無知もない。
私は純粋精神を本性とし、区別を持たないから。
 
67
私は常にブラフマンである、私はブラフマンであるから棄てるべきものも取るべきものもない−−−とこのように想起するべきである。 
68
私は一切の有類の中にありながら、
虚空のように、唯一であり、
一切の有類は私の中にある
−−この様に見ているものは再び生まれることはない。
 
69
自分自身のアートマン以外のなにものも、
外にも、中にも、内にも、どこにも存在しない。

このブラフマンには内もなく外もなくそれ故に清浄にして自ら輝いている。
 
70

「そうではない、そうではない」は「現象の寂滅であり、不二である」

また実にこの不滅のものは他に見られることなくして自ら見る者である。
71
「私はまさしく一切万有のアートマンである」と悟って最高のブラフマンを知るならば、

彼は一切有類のアートマンとなる。

なぜなら「私はブラフマンであると知るならば、誰でもこの一切となる。

神々さえも彼がこのようになるのを妨げることは出来ない」

なぜなら、かれらはかれのアートマンであるからであるから」 

72

もし、生物が自分自身のアートマンを最高のアートマンであり、神であると正しく知るならば、

それは神々によって崇拝されるべきものとなり、また神々の家畜であるという状態から脱出する。 

73
虚偽を殺戮するものは
「私はまさしく実在のアートマンであり、認識主体であるが虚空のように何ものをも持たない」

とこのように自分自身を真実で覆っているのであるから再び束縛されることはない。 

77
人は、
自分自身のアートマンを善悪の業を離れ、過去と未来、原因と結果、一切の束縛から自由である最高者であると知るべきである。 


78
アートマンは行為することなくして、一切をなし、清浄である。
佇立しながら走り去るものを越えていく。

マーヤ(幻力)によって全能であるから、

不生でありながら多様であると考えられる。
 
 79
私はアートマンであり、玉のように目撃者に過ぎないから、

行為せず、行為の主体ではなく、

不二でありつつ、近接しているだけで、

磁石のように世界を回転させる。

80
私は、属性をもたずに、行為することなく、恒常にして、二元対立なく、病を離れ、清浄であり、覚醒し、解脱したあのブラフマンであると銘記すべきである。 
81
束縛、解脱、およびこの一切と束縛と解脱の二つが生じるあらゆる原因を正しく知って、

また棄てられるべき熟睡状態と夢眠状態と覚醒状態と、

さらに知ることが出来るものと出来ないものを超越し、

唯一清浄な最高の真理を正しく知って、

人は憂いと迷妄を越え、一切を知り、一切を行い、存在の恐怖をもたず、なすべきことをなし終えたブラフマンを知っているものとなるであろう。 
83
この思想はアートマンを理解させ、これを知って実に一切の輪廻の束縛から解脱する。 
84
この最高の浄化法は、一切のヴェーダ聖典の秘密の教えであり、神々にとっても最上の秘密の教えである。

それがここに開示されたのである。
 
85
この秘密の教え、無常の知識は、いまだ心が静寂になっていない弟子に与えられべきではない。

師に従順にして無関心に達した弟子に教えられるべきである。
 
87
アートマン以外の何物をも
−認識も認識対象も認識主体も−存在しない。

一切を知り、一切の力を持つこの認識としてのアートマンに敬礼する。 
88
明智によって、無明に満ちた生死の大海を渡してくれた、この一切を知る諸師に敬礼する。 
 第18章
「君はそれである」                                                                                 
 1

アートマンによって

統覚機能の諸々の変容が消えたり、起こったりする。

その恒常な理解に、統覚機能の変容である観念の生滅の原因、アートマンに敬礼する。


「私は解脱しており、有(実在)に他ならない」と、このような理解が起こらないならば、

天啓聖典はなんのために、母親のように、熱心に「君はそれである」と、このように教えているのであろうか。 

「私」という言葉によって表示され、
それだけで確立しているこの認識主体であるアートマンから、

理論や「君はそれである」などの教えによって、

「君たち」という認識対象である非アートマンの属性は否認される。

縄を見て誤って起こる、それは蛇であるという観念が否認されるように。
 

「私は有であり、ブラフマンである」「私は行為する」という二つの相矛盾する観念は、アートマンを目撃者としている。

両者のうちの無明に由来する観念のみを棄てることが、より合理的であると考えられる。
※その無明に由来する観念とは「私は行為する」という観念のことである 

「私は有である」という観念は、天啓聖典という正しい知識根拠から生ずるが、
他の観念は誤った知識根拠から生ずる。
さらに、直接知覚のような誤った知識根拠から生じる観念には方角に関する誤謬などのように否認される。
 
※方角に関する誤謬とは星占術や占い、家相、手相、未来予知などを指している

聖典が「私は行為主体である」「私は経験主体である」というときには、それはアートマンに関する世間一般の理解に従っている。
私は有(存在している)であるという観念は、天啓聖典から生じる。
それとは別の観念は、この観念によってのみ否認される。 


「君はまさに有である」と、いわれたとしても、人はアートマンの確個とした解脱を得ることはない。

それゆえに理論と共にプラサンキャーサ念想を考慮すべきである。

※正覚を得るには観念だけでは不可能であり、正しい瞑想を必要とすると言うこと 
10
何人であろうとも、たとえ文章の意味を知っているひとであっても、一度言われただけでそのことを把握することはない。
それ故に人は別のものを必要とする。それはいま述べたように実に二つであるすなわちプラサンキャーナ念想と理解とである。
 
11
文章は聞いただけでは理解できないから、プラサンキャーナ念想を行えとの命令は理解が確個たるものとならないうちは知識と矛盾することはない。 
12
またもしアートマンが意のままに得られるのであれば、実践は無意味となるであろう。

それゆえにアートマンが直覚れるまで、プラサンキャーナ念想が行われるべきである。 
13
直接知覚(五感の知覚のこと)から生じる強固な潜在印象は、天啓聖典から生じる「私は有である」という認識を確実に否認する。

また貪欲・嫌悪などのもろもろの欠点の為に、外的なものに惹き付けられるのである。
 
14
なぜなら、直接知覚(五感の知覚のこと)から生じ、特殊(個別)を対象とする観念は、必然的に、普遍を対象とし、聖典と推論から生じる観念を排斥してしまうからである。 
15/16
たとえ文章の意味を知っているとしても、誰も苦から自由であるとは認められない。

もし誰かが文章の意味を聞くだけで苦から自由であるのが見られるならば、過去の前世の身体において、プラサンキャーナ念想を行ったものと推測される。

もしプラサンキャーナ念想の命令の意義を認めないならば、われわれの正しい行為は、聖典から知ることが出来ないものとなるであろう。

もしそうであればそれは望ましいことではない。 
17
また「君は有である」という結果を述べた後で、それを達成する手段の実践が命令されるべきであるから。
その手段はプラサンキャーナ念想以外の何物でもない。
ここにおいては、プラサンキャーナ念想の目的は、既に確立しているもの(アートマン)であると考えられる。
 
18
それゆえに、アートマンを直感するために、手段とその目的に矛盾するものを棄て心の平静などを保って、一所懸命にプラサンキャーナ念想を実践すべきである。 
19
解脱は行為によって実現されるべき目的ではない。
常に確立しているものであるから。
 
※それは既に解脱しているのであり、だからこそ一所懸命に努力せよと言われる
20
父親が自分自身は苦痛を持たないのに、息子の苦痛を自分自身に付託するように、

「私」という観念の主体(統覚機能)は、
自分自身のアートマンは常に苦痛を持たないのに、自分自身の苦痛を自分自身のアートマンに付託する。
 
※「私」という観念の苦しみを魂は自分自身のものとして錯覚している
21
この付託することが「そうではない、そうではない」と、天啓聖典によって、あたかもアートマンによって獲得されたもののように、否定されている。

さらに付託に基づく如何なる命令も決して成立しない。 
22
この世においては、アートマンに対して付託がなされるように、その否認がなされる。無知な人々が虚空に地上の塵埃を付託し、その否認を行うように。 
23
もしも、実際に得られたものが否定されるのであれば、解脱は確かに無常なものとなるであろう。
それゆえに、この付託の否定は、実際には得られていないものの否定である。お
よそ現実にはあり得ない空中に火を設置することなどを否定する場合のように。
 
24
言葉や観念を、その対象に適用することは可能であるが、対象でなければ可能ではない。
言葉や観念を、その対象ではないアートマンに適用することは不可能である。なぜなら、それはそれらのアートマンであるから。

そして同じく「私」という観念の主体(統覚機能)のアートマンであるから。

※アートマンは言葉や観念のようには対象を持っていないと言うこと 
25
「私」という観念によって、純粋精神であるアートマンに付託された行為主体性などの一切は「そうではない、そうではない」という、「私」という観念とともに否定される。 
※純粋精神であるアートマンは行為主体性ではなく、「私」という観念でもないと言うこと
26
アートマンは自ら輝く知覚であり、見であり、内的な有であり、行為をしない。

アートマンは直接的に認識され、一切のものの内にある目撃者であり、観照者であり、永遠であり、属性を持たず、不二である。
 
※アートマンは知覚媒体を介せず、非二元的な知覚であるということ
27
つねにこのアートマンの近くにいるために、

アートマンについての誤った観念の主体(統覚機能)は、アートマンであるかのようにみえる。

そのことから、「私」「私の」という言葉によって表示される、「自分自身」「自分自身の」という二つの誤った観念が生じる。
 
※魂という統覚機能のことをアートマンと見誤ってしまうということ
28
「私」という観念の主体は類や行為を等を持っているから、

諸々の言葉は、じつにこの「私」という観念の主体を表示する。

しかしアートマンは、

その類や行為などを持っていないから、如何なる言葉も自己のアートマンを表示しない。

※類とは多であり、断片化、分割化しているということ 
29
言葉は、アートマンの影像を宿しているその「私」という観念の主体を表示するが、
内的見(アートマン)を間接的に表示する。

しかし言葉は、その内的見を、決して直接的に表示することは出来ない。
 
30
なぜなら、類や行為などを持たないものはいかなるものも、言葉によって表示されることはないからである。

「私」という観念の主体は、アートマンの影像を宿してアートマンであるかのように顕れているから、

「私」という観念の主体はアートマンを意味する諸々の言葉によって表示される。

※私という観念の主体はアートマンの影像であるということ 
31
火を意味する諸々の言葉は松明などの意味で間接的に用いられる。

なぜならそれらの言葉は松明とは別のものを意味しているからである。

鏡に映った顔の影像は、鏡に従うから、鏡とは別のものであるように。 
32
顔もまた同様に、顔の彫像とは異なっている。
なぜなら顔は従わないから。

「私」という観念の主体にあるアートマンの影像は

鏡にある顔の影像のようである。 

※「私」という観念の主体とは統覚機能である魂の事、魂はアートマンの影像である
※神道の御鏡が魂で有る統覚機能であり、それに映されているものが真実の私、即ち真我であるという説明と同じである
33
アートマンは、鏡の様に、常に影像とは異なっている。

しかし顔の場合のように、これらアートマンとその影像は、明確に識別されているのではない。

ある人々は「私」という観念の主体にある影像が輪廻の主体であるという。
 
34
古伝書によれば影は実在である。
また影を実在と考えるべき別の理由がある。

輪廻の主体は認識主体の一部分であるとか、認識主体の変容であるとか、主張するものもある。
他の人々は輪廻の主体は「私」という観念の主体、すなわちアートマンの影像の拠り所であると考えている。
 
35
輪廻の主体は独立した「私」という観念の主体にほかならない、と考える人々もいる。
輪廻の主体は「私」という観念などの連続であり、それとは別に連続するものはない。
 
37
鏡のなかの影像は、顔と鏡の内のいずれの属性でもない。
両者の内のいずれか一つ、たとえば顔の属性であるとすれば、
他のもの鏡は離されても、顔の影像は存在するであろう。
 
38
もしも反対論者が顔の影像は顔に因んで名付けられているから顔の属性であると考えるならば、我々は次のように答える。
それは正しくない。なぜなら顔の影像は鏡に従い、かつ顔があるときですらも、鏡が存在しなければ存在しないからである。 
43
アートマン・その影像・その拠り所(統覚機能)は、顔・その影像・その拠り所(鏡)に比せられる。

そしてその影像が実在しないことは、聖典と理論とによって理解される。
 
※究極的には輪廻の主体は存在しない
44
見(アートマン)は不変であるから、「見は輪廻の主体」ではない。
影像も又実在ではない。
であるから、「輪廻の主体」ではない。
「私」という観念の主体も非精神的なものであるから、「輪廻の主体」ではない、何ものが輪廻の主体でありえようか。 
45
それゆえに輪廻は、識別智を持たないために起こる無明そのものであるべきである。

不変のアートマンはアートマンが存在するために、輪廻はつねにアートマンに存在しているかのように見えるのである。 

※アートマンがあるが故に輪廻があるように見えても、実際にはアートマンは輪廻していないということ
46
縄が存在する為に、蛇というものは、縄と蛇とを識別する前には存在するかのように見えるように、

輪廻も、実在しないとはいえ、不変のアートマンが存在する為に、存在するかのように見えるのである。
 
47
アートマンはアートマンの影像の拠り所(統覚機能)であり、自分の観念によって変化し、苦楽を経験する永遠の主体である、と考える人々がいる。 
48
天啓聖典を無視する人々はアートマンとその影像について、ありのままに充分に知らないために、
迷わされており「私」という観念の主体をアートマンであると考えている。
 
49
彼にとっては、輪廻は実在し、輪廻は行為し、その行為の結果を経験するという行為主体性と経験主体性を特徴としている。

識別智をもたないために、アートマンとその影像とその拠り所について知らないから輪廻する。
 
54
統覚機能には認識はなく、アートマンには行為はない。それゆえに両者のうちのいずれに一つにも「知る」という言葉は適用されない。 
※真実の認識はアートマンである。その認識はマインドのように対象を持っていない
55
それゆえに認識という言葉も行為動作を意味する言葉であれば、アートマンに適用されない。
なぜならアートマンは恒常である。アートマンは変化のみのものではないから。
 
57
アートマンは常に唯一であり、苦痛を持たず変化しないと理解する人々にとっては、

アートマンは決して言葉によって表示されることも、又認識されることもない。
 

※アートマンは認識の対象ではなく、認識そのものであるということ、従ってマインドのように認識の対象を持っていないと言うこと
63
人々は、顔を、じつに鏡の中の顔と同一であると考える。

なぜなら、顔の影像は顔の形相を持っているのが見られるからである。
 
64
しかるに、統覚機能にアートマンの影像が宿っているのであるが、

その統覚機能とアートマンの両者が識別されていないから、

すべての世人が自然に「彼は知る」という動詞を語るのである。
 
65
統覚機能の行為主体性をアートマンに付託して、認識主体(アートマン)が「知る」と言われる。

同様に純粋精神性を統覚機能に付託して、統覚機能が認識主体であると世間において言われている。 

※認識主体は統覚機能ではなくてアートマンであるということ
66
また認識はアートマンの本性であり、永遠の光であるから、
統覚機能によってもアートマンによっても他の何ものによっても決して作られることはない。
 
67
「私」という観念が身体に関して起こり、

一般の世人は「身体すなわち私は」と知るというように、

統覚機能もアートマンも認識を作る主体であると考えられている。
 
69
それゆえに「彼は知る」などの言葉、その観念、その記憶は

認識主体、その影像・統覚機能に関する識別智の欠如から起こっているのである。
 
70
鏡に従うという顔の影像の性質は顔に付託される。

同様に統覚機能の属性に従うという認識主体(アートマン)の影像の性質は認識主体に付託される。

71
それゆえに、統覚機能の諸々の観念はアートマンの影像によって輝き、

認識主体であるかのように見えるのである。

実際は松明のなかの火が燃えているのに松明などが燃えているかのように見えるのである。 
83
統覚機能は見(アートマン)ではないとはいえ、常に見の形を取って顕現するとき、

統覚機能の諸々の観念もまた顕れる。

あたかも灼熱された鉄から火花が出るように。

 
※この統覚機能からの火花が現在のパーソナリティー現在の私であると思われる
84
世人にたいして、「統覚機能が覚醒状態と夢眠状態の形で」顕現し、

熟睡状態においてそれが滅するという事実は、

究極の見を想定することによって初めて合理的に説明できるが、

さもなければ説明できない。

こういうわけであるから統覚機能が自分自身をその見であると理解するのである。 

87
どうように、純粋精神の影像を宿して、

こころ(=統覚機能)はあたかも純粋精神のように顕れる。

またその影像とは鏡の中の顔の影像のように虚妄である、とすでに述べた。
 
88
心(=統覚機能)が精神的なものである、ということは聖典によっても理論によっても支持されていない。

もし統覚機能が精神的なものであれば

身体や、眼なども、同じく精神的なものであるという欠陥が付随するであろう。
 
89
もし、心(=統覚機能)に影像が宿っていなければ

「私は見である」という観念はないであろう。 
90
「私は有である」という観念がないならば、

「君はそれである」という天啓聖句もまた、無意味となるであろう。

しかしこの聖句は「君たち(非アートマン)」と「私たち」(アートマン)との
間の区別を知っているものにとっては有意味である。 


91
「私のもの」と「これ」という二つの観念は、疑いなく「君たち」(=非アートマン)を表示していると知られるべきである。

「私」という観念は「私たち(アートマン)」を表示していると考えられる。

また「わたしはこれである」という観念は私とこれの両者を表示している。
 
93
「私のもの」「これ」という二つの観念はともに「私という観念」を限定するものである。
財産や牛が財産を持っている人や牛を持っている人を限定するように、
身体はまさしく「私」という観念の主体を限定するものである。
 
94
統覚機能にのぼる一切のものと

「私」という観念の主体(=統覚機能)とは

目撃者(=アートマン)を限定するものである。

それ故に認識主体(アートマン)は、つねに、なにものにも触れることなく、一切のものを顕現させる。
 
95
世間一般の理解に従って上述したこのアートマンを限定する一切は、

真実に反するものである。

アートマンと非アートマンとの識別を目指さない人には、一切は存在するが

識別智を持っている人々には、一切は存在しない。 

97
熟睡状態から目覚めて後、私はこの熟睡状態において多くの何ものをも見なかったと考えるとき、

人は自分の見(=意識)を否定しているのではなくて、

見る対象である観念を否定しているのである。
 
98
「そのときこの人は自ら輝くものとなる」「見者の見は消滅することはない」

といって天啓聖典自らが純粋精神の存在性と不変性を述べ、

かつ観念の可滅性を説き、観念と理解とを区別して述べている。
 
101
「私」という言葉は光明である内我(内在するアートマン)を間接的に表示する。

その間接的に表示されるものが「君は有である」と言われているのである 、

このようにしてその結果が解脱である。

102
「君は有である」と聞いただけではその結果は生じないであろう、
というならば我々は次の様に答える。

その場合には果たすべき義務が確実にあるであろう。

しかしアートマンは、言葉で表現される前にもそれだけで実在することが承認されている。
 
103
正しい認識は「君は有である」とい聞いたときに生じ、飢餓などから自由となる。

「君はそれである」などの天啓聖典に関して、過去、現在、未来にわたって何の疑いもない。 
104
認識そのものであるアートマンは、本性上障害から自由であるから、

その天啓聖句を聞いたときに、疑いなく自分自身のアートマンに関して正しい認識が生じるであろう。
 
105
天啓聖句を聞いたときに「私は有そのものである」と理解されるであろうか。
あるいは「私は別のものである」と理解されるであろうか。
もし「私は有そのものである」と理解されるならば「私」という言葉の第一の意味は「有」であると承認されるべきである。
 
107
アートマンの影像を宿す観念と

観念の主体(=統覚機能)とは、

アートマンの為に存在する。

またその両者は非精神的なものであるから、結果(=解脱)は純粋精神にあるものと想定される。

108
アートマンは不変であるとはいえ、
結果(=解脱)はアートマンに帰属するが妥当である。

なぜならその結果は行為の本性でも原因でもなく、
また統覚機能の観念の本性でも原因でもないからである。 
109
顔の影像を宿し、顔であるがごとくに顕れている鏡は顔である、と同じ意味においてのみ、

アートマンの影像を宿しアートマンであるがごとくに顕れている統覚機能の観念という鏡はアートマンである。

その意味の場合に私はアートマンであるが真実の意味においてではない。
 
110
このようにして「私は有である」という理解が起こり、

さもなければ影像という媒介がなければそのような理解は起こらないであろう。

「きみはそれである」という教えも媒介がないから、無意味となってしまうであろう。
 

※媒介とは統覚機能である魂または永遠のパーソナリティーである
111
このようにして、この教えがその聞き手に向けられているならば有意味であろう。

もしも監視者(アートマン)が聞き手であると承認されなければ、誰が聞き手であろうか。
 
117
なぜなら、統覚機能の観念と、見(アートマン・観照)とは

夢眠状態において、別々に確立しているから。

夢眠状態においては戦車などの外界の対象を見ることができるのであるが、
実際にはそれは存在しないのであるから、
覚醒状態において見た戦車などの観念がアートマンによって認識されるのである。 

118
理解(純粋精神アートマン)によって統覚機能の観念はその外界の対象の形を取る 。

外界の対象とは

観念が生じるとき観念に形を与えるものであると考えられる。

119
外界の対象は、もっとも望まれているものであるから、行為の対象である。

それを得たいとの望みを持っているものは、なすべき義務を果たすように命じられている。

そして外界の対象の形相が与えられるべきである、その統覚機能の観念が、ここにおいて手段と言われる。
 
120
統覚機能の観念がアートマンの影像によって遍満されるが、

そのアートマンが認識主体と呼ばれる。

アートマンを知っているものは、この外界の・対象・手段・認識主体の三つを識別して、

そのうちのどれがアートマンであるかを知っている人である。
 
121
統覚機能の諸々の観念は
正しい、
疑わしい、
虚偽であるといわれるから、変化しやすいものである。

それらの観念の中にあって理解(純粋精神アートマン)は唯一であるが、

区別は観念によって与えられる。
 
123
この世における諸々の観念の顕現・認識・確立は他のもの(=アートマン)に基づく。 

124
ある人が無知な人にアートマンを理解させるのに

何らかの知識根拠によるべきであるか、

あるいは知識根拠に基づかないで非アートマンを否定して、その他のもの(アートマン)を残すことによるべきであろうか 
125
この場合に、知識根拠である聖典のみによって
非アートマンが否定されるという方法がとられるべきであるというならば
監視者(アートマン)は確立されないから中観派におけるように、
アートマンは空であるという欠点が付随する。 

※否定的接近という方法はアートマンが確立されず空という欠点が付随するといわれる
126
もし君は精神的なものである。どうして君が身体であり得ようか、というならば、

我々は次の様に答える。

それは正しくない。なぜならば精神的なものは身体と異なるということが単なる否定によっては「確立」しないからである。

精神的なものは他の如何なるものとも異なっているということが確立したならば

監視者(アートマン)はそのように他のものを棄てることによって「確立」される。

※ネーティ派の「私は肉体ではない」ということは、正しいやり方ではなくて、その観念が先行してしまうのではなくて、はじめに
まず魂の内奥の実感という直覚を得た後に、「私は肉体ではない」と言うことが事実として確立されると言うこと 
129
迅速性のために

行為手段、

行為対象、

および行為主体の確立が

同時であるように見えるに過ぎないのである。

記憶の前には行為手段、行為対象、および行為主体の認識は順次に起こり

記憶のアートマン統覚機能にも同じように順次に起こる
 

※行為とは私が行為しているという認識の前に、行為しているとの対象の認識が起こっており、それより以前に肉体の行為が
起こっていると言うこと。平たく言うと行為が起こった後に行った行為の対象の知覚が起こり、さらに遅れて自分が行為している
という認識が起こっていると言うこと、そしてそれらすべては記憶というアートマンの統覚機能に起きていると言われる
130
わたしはこれ(対象)を知った、

私は私を知ったという区別を

確実に予想される場合には同時性はない。 
131
行為主体の行為によって到達されることが望まれているものは、

それが行為対象であると述べられている。

それゆえに行為対象は行為主体に依存しているのであって、他のないものにも依存しない。 
133
われわれの唯識説によれば、

知覚主体もまた知覚以外の何物でもない

142
けだし認識の本質は、区別を持たないのであるが、

誤った見解を持っている人々によっては、

認識対象、認識主体、自意識という区別を持っているかのように見なされている。
 

※認識のなかには、認識だけがあり認識するもの、認識されるもの、認識している私などの区別はないと言うこと、「見るものは
見られるものである」ということ
151
色・形などの外界の対象は、

知覚の対象であるから、

それらとは別の知覚主体が存在する。

それと同様に統覚機能の観念とは異なっているその観念の知覚主体が存在する。

なぜなら知覚主体は灯火のように観念を照らすのであるから
 
152
監視者である知覚と監視されるべき知覚の対象との間には、

知覚の主体と対象の関係以外に他の如何なる種類の関係が成立し得ようか
 
153
監視者の作用を受けて、見が見の対象に遍満する、

あるいはむしろ恒常の監視者が統覚機能にたいしてなんらかの手助けをするであろう 

154
そして、その手助けとは

前に述べたように統覚機能が、その中にある監視者の影像のために

監視者のように顕現することである。

そして統覚機能は照らすものとなるから

統覚機能は光などがその対象に遍満するように、瓶などの外界の対象に遍満する。
 

※監視者とはアートマンのことこの統覚機能の対象認識はアートマンの影響を受けて外界の対象を照らし出して、自らが対象
に遍満し認識しているということ
155
光によって遍満されてたとき、瓶が光の中にあるものとなるように、
統覚機能によって遍満されるとき瓶は統覚機能にのぼられたものとなる。

統覚機能が遍満することが統覚機能に昇られることである。

統覚機能は同時ではなく順次に対象に遍満する。 


※統覚機能は視線に代表されるようにサーチライトのように順次、対象に遍満していくといわれる
156
先に統覚機能の観念が対象に遍満する。

ついでアートマンの手助けがある。

しかしこの順序は一切のものの監視者には妥当ではない。

時間・空間などの場合のように 

※上記の様な認識のやり方は統覚機能であるがアートマンの認識は一瞬にしてすべてを認識する
157
心(統覚機能)のように、もろもろの行為の要因に基づいて、ある認識の対象は認識しないまま残して、対象を認識するものは変化するものである。 
158
「私は監視者である」という認識は、

統覚機能のみの確認であって、監視者のそれではない、

なぜなら監視者は区別を持たないものであるから、それ以外の監視者を持たないからである。 

※アートマンは区別を持たないので私のアートマンあなたのアートマンという区別はない
159
たとえ私という観念の主体(=統覚機能)が、

私は監視者であると、このように考えて、自ら解脱していることを直観するとしても、

苦楽からの解脱が「私」という観念の主体に起こると言うことは理に合わない。
 

※統覚機能が私はアートマンであると考えても、アートマンという解脱の状態はアートマンであって統覚機能ではない
160
私は苦しいという観念は、身体などを私であると誤って考えることから確実に生じる。

「私はイヤリングを持っている」という観念のように。

「私は内我である」と考える観念によって、すなわち、識別智によって識別智をもたない観念が否認される。
誤った見解においては、一切のものは究極的には非存在となる。
なぜなら正しき知識根拠が正しい知識根拠でなくなるから 
163
触覚も身体もないのであるから、私(アートマン)は決して焼かれることはない。

それゆえに、私は苦しみを受けているという観念は自分の息子が死んだときに私は死んだという観念が起こるようにアートマンに関する誤った理解から生じる。 
164
私はイヤリングを持っているというこの観念は、実に識別智持っている人によって否認される。

同様に私は苦しみを受けているという観念は、つねに私は絶対であるという観念によって否認される。
 
165
もし、「アートマン」は苦しみを受けている、ということが確立しているならば、アートマンは常に苦しみを受ける能力があると言うことが承認されるべきである。しかし事実はそうではない。それゆえに私は苦しみを受けているという観念は誤った理解に由来する。それによって、対象この場合は苦しみい関してである。苦しみとはマーヤそのものであり、そのマーヤである苦しみがやってきたり去ったりするのであるが。アートマンは思考ではないので、その苦しみには全く関与していないと言うこと)が生じたり滅したりするのである。
166
アートマンには触覚も運動もないが、

人は触覚や運動がアートマンにあるかのように感じる。

同様に人は識別智を持たないから、

人は意
(統覚機能)に属する苦をアートマンにあるものと見なしたりする。

167
識別智というアートマンに関する正しい観念によって、苦しみは、運動のように除去される。

本性上、識別智をもたないので、意は不本意ながら動くのである。
 
168
そのとき苦しみが経験される。

しかし、その意が不動となったとき、
(心である鏡が綺麗になり、鏡からの思考や、外からの思考が生起されないとき、鏡である人の心には本来の自己が映し出されている)その苦しみは経験されない。

それ故に、苦しみが内我にあるというのは理に合わない。

169
「君は有である」という天啓聖句の中の二つの言葉、即ち「君」と「有」は同一の対象を表示しているから、この文章は「馬は黒い」という文章と同様である。「君」という言葉は苦しみを持たないもの(=ブラフマン)を表示する「有」ということばと同格で関係しているから、「君」という言葉は苦しみを持たないものを表示する。 
170
同様に「それ」という言葉は、内我を表示する「君」という言葉と同格で関係しているから、「それ」という言葉は内我を表示する。まえに言及した話に出てくる、川を渡り終わって自分を数え忘れた少年に、別の少年が言った「君が10番目だ」という文章と同様に「君」はそれである、という文章は、内我(=内在するアートマン)を意味するのである 
171
「君」と「それ」という二つの言葉は、それぞれの意味を捨てることなく相互に限定された意味を表示しつつ究極的には内我の理解に至る。それ故に、

この言葉の意味とは別の矛盾する意味はない。 
172
私は今数えた9人の少年達の中に含まれているに違いないという観念に心を奪われて、
自分自身が第10番目を満たすものであることに気がつかないで、

誰が第10番目の少年であるかを知ろうと望むのである。
(脳内に閉じ込められた統覚機能=心・鏡が肉体や、私と言う観念や感覚や思考と自己同一化したのである)

ひとは自分のアートマンを同じように知ろうと望むのである。
(自分とはアートマンからこの脳に来ており、内奥はアートマンであるのに、自分は感覚や知覚や肉体では思考ではないのに同一視した) 
173
無明によって目を束縛されているために、

その統覚機能が常に欲求によって捕らわれている人々は、

明確に自分自身を「見」であるとは考えない。

その10番目の少年が自分を第10番目の少年であると考えなかったように
 (統覚機能である魂=心=私は頭脳と結ばれているので無明である私と言う観念や肉体頭脳の知覚や感覚や思考に捕らわれている
174
君が第10番目だという文章によって、
少年は自分自身が10番目の少年であると知ったように、

人は「君がそれである」などの天啓聖句から、

自分自身のアートマンを一切の内容(=統覚機能などの)の目撃者であると知る。
(統覚機能であるこの個別的自己=心=魂とは真我から来ている光線の先端部分、即ち自分自身の内奥が真我という心を超えている純粋意識であると知る)
 
175
一つの文章の中で、この単語は先に、その単語は次の於かれるべきであるという規則はヴェーダ聖典にはない。単語の文章的関係は単語の意味に基づく。 
176
文章の中の単語の意味は、それを聞きつつあるときに、一致と矛盾の方法によって想起される。それによって文章の意味が理解される。 
177
「君はそれである」という永遠の文章の中の単語の意味が一致と矛盾の方法によって明確にされ、文章に意味の知識が伝達されるとき、そのときにはどうして私はブラフマンなのかという質問は正しくない (君はそれであるとの真我の純粋意識が現在意識となったときアートマン=ブラフマンであることが自明となる)
178
一致と矛盾の方法が単語の意味を想起するために述べられた。何故なら、何人も単語の意味を想起しないでは、文章の意味を知ることができないから
179
「君はそれである」などの文章に於いて、「君」という単語の意味が識別されていないから「私はつねに解脱している」という文章の意味が明白にならないのである。統覚機能であり現在のパーソナリティーである私とは夢見と日中の覚醒と熟睡の意識である私と言う観念・記憶である自我などに拠って束縛されているけれども、内部に於いては常に解脱しているということ) 
180
一致と矛盾の方法はその「君」という単語の意味を識別するために述べられているのであって、その他のためではない。なぜなら「君」という単語の意味が識別されるとき、ちょうど掌のうえに於かれたヴィルヴァ樹の実のように 
181
文章の意味は明白となる。そしてこのようにして、文章の意味は絶対者である。
なぜなら「私」という単語の意味から、この苦しみを受けるものというこの意味が排除されて、内我が確定されるからである。 
183
(前略)天啓聖典の文章から生じる知識を、直接知覚などの知識根拠が否定するように、直接的な五感などの知覚による知識根拠が天啓聖典の文章から生じる「私はそれである」という知識を否定するであろう(との質問に対して)
どうして天啓聖典の文章から生じる正しい知識が直接五感やその知覚等の知識根拠から生じるこれらの誤っている知識によって否定されることがあろうか。 
184
質問:「私は苦しみを受けている」という観念、及び感覚・知識がある限り、たとえそれらが直接知覚などの知識根拠による誤った知識であろうとも、天啓聖典の文章から「私は苦しみを持たない」という観念は生じないのではないでしょうか?
答え:それは正しくない。例外があるから 
185
夢眠状態に於いて、焼かれたり、切られたり等の理由から、私は今日、苦しみを受けたが苦しみは、天啓聖典の文章によって消滅した。(焼かれたり切られたりしていることは肉体の感覚であり、それを自分だと錯覚している「私と言う観念」の苦しみであり、その観念と同一化している統覚機能である心の間違った働きである、統覚機能である私が自己の内側を知るならば切ったり焼かれたりは起こっていないことが証明されるので統覚機能も苦しみ受けることがない)
もし、そのときある文章によって苦しみが消滅しないならば 
186
その場合には、苦しみの終わった後や、始まる前に、その苦しみは消滅すると考えるべきである。なぜなら苦しみや、錯乱が連続することは何処に於いても経験されないからである。 (苦しみ、焼かれ、切られているのは肉体に起こっていることであり、統覚機能である自己でもなく、その内奥の私に起こっていることではない)
187
ちょうど少年が、自分は他の9人の少年に含まれているという観念を否定して、自分自身が第10番目であると、知ったように「私は苦しみを受けている」というこの観念を否認することによって、内我は最高アートマンであることを知るならば何の矛盾もない。
188
つねに解脱している。という知識は天啓聖典の文章から生じ、その他の何ものからも生じない。文章の意味も又、文章を構成している単語の意味を想起することによって基づき理解される。 
189
一致と矛盾の方法によって、単語の意味が確実に想起される。このようにして人は自分自身が苦しみを受けないものであり、行為を持たないものである、ということを理解する (人即ち心・個別的自己=魂はアートマンであるので行為しておらず、思考しておらず、純粋意識であり、目撃者であること。即ち苦しみを受けないものであることを知る)
  190
「君が10番目だ」というこの文章から、少年は自分自身が10番目の少年であるという正しい知識が明白になったときに、「君は実在である」などという文章によって、内我にたいする正しい知識は、より明晰なものとなる (私は内我であるという真実に個別的自己が気がついたとき、苦しみから解放されている。何故なら行為していないからである)
191
日中や夢眠状態のときの一切の苦しみは、覚醒によって止息するように、自分自身が苦しみを受けているという観念は、内我は最高アートマンであるという観念によって、常に止息される。 (諸体の知覚や、感覚は個別的自己である魂が自己の内奥の真我に気がついたとき、その知覚や感覚が遮断され、真我の持っている高次知覚と高次感覚に換わられるので、そこには苦しみがないのである)
193
「君はそれである」(tat tvam asi)というこの文章の場合には、「それ」(tat)と「である」(asi)というふたつの単語の意味は既に知られている。しかし君(tvam)という単語の意味を想起する手掛かりがないから
この文章は正しい認識を与えることが難しいのである。
194
既に述べたように、「である」というこの語は「それ」と「君」という二つの単語が、同一の対象を表示しているということを意味している。「これ」という単語は内我を意味しており、また「君」という単語は「これ」という単語に意味を持っている。 
195
「きみはそれである」という言葉は、五感などの直接知覚からきえいるところの「君は苦しみを受けているもの」という誤った意味と、これらの非内我を意味する誤った観念を取り除くであろう
このようにして、この二つの単語は「そうではない、そうではない」という天啓聖句の意味を表示するであろう
 
196
「君はそれである」というこの文章の結果が、このように理解されるとき、どうしてこの文章が正しい知識根拠ではない、といって、この文章が行為に依存するといわれようか。 
197
それゆえに、はじめに於いても、終わりに於いても、中間に於いても「行為を行え」という、命令は、その文章と矛盾している。従って認められるべきではない。
またそのことは天啓聖典に述べられていないのであるから、天啓聖典に述べられていることを棄てることにもなり無意味なことである。
 
198
質問:食べることから満足感を覚えるが、文章からは経験されない。文章を分析することは、牛糞から乳粥を作るようなものである
(※絵に描いた餅では満腹しない) 
199
 確かにアートマンでない事物に関する文章からは、間接的な認識のみが生じることであろう。
しかし、けれども
内我に関する文章からは直接的な認識が生じることは確実である
正しい認識が君が10番目だよと言う文章から得られたように。

(※真我に関心を持ち、真の私を思索し、求めることは、真我側からの動きであり、それは真我への観念を抱くことであっても最終的には真我への直覚認識が生じるということ)
200
内我は「それ自体で認識される」と同義語である。「それ自体を知識根拠としている」と認められるべきである
我々の見解によれば、自分自身のアートマンの直感は「私」という観念が止息したときに確立する。
 
201
苦しみは、統覚機能の対象である。
これらの統覚機能は「見」即ち、内我の対象であると考えられている
この至上の「見」が苦と関係する理由がどこにあるのであろうか。

 
202
「この見」(=内我)のみは、それ自体によって、直観されるのである
なぜなら直観を本性としているからである
その直観とは、統覚機能が見の映像を宿して生起することであると述べられているからである。 

※統覚機能である鏡に真我である「見」が、真我が映し出されるということ)
203
この君こそが、飢餓などから自由であり、それだけで確立した解脱である。
それにもかかわらずアートマンは君によって聞かれるべきであるなどと、この矛盾したことが天啓聖典の中で何故に述べられているのであろうか 
204
もし、解脱は未来に達成されるであろう、というならばそうかもしれない。そのときにはアートマンを聞くなどのことが解脱を達成する為に実践されるべきであろう
そうであれば、解脱は無常なものとなることであろう。
さもなければ、その聖典の言葉は矛盾することとなる。

 
205
もし、聞き手と、聞くべき対象との区別が認められているならば、この聞くことなどが、解脱を達成するために実践されるべきであろう。そうであればブラフマンとアートマンの同一性という意図された天啓聖典の趣旨と矛盾することとなるであろう
天啓聖典の言葉が全く一貫性を欠くものとなることであろう。 
206
「私とはそれだけで確立した解脱である」と自分自身をこのように知って、なおも行為をしようと欲するものがあれば、その人は本性的に愚者であり、聖典を裏切るものである。 
207
なぜなら、それだけで確立したものには、為すべき義務は何もないからである。為すべき義務があるものは、それだけで確立したものではない
両方の見解を、認めて両方の見解を支持するものは自分自身を瞞着しているものである。
 
208
質問:しかし君はそれだけで確立した解脱であると言って、この実在のみが教えられているが、しかし聞き手がそのようなものであるということを知るときに、どのように為すべきであろうか 
209
答え:「私は行為主体であり、苦しむものである」と、直接知覚によって認識される。
だからこそ、それ故にこそ、君には「私は行為主体であってはならないし、苦しむものであってはならない」という努力があるべきである 
210
「私は行為主体であってはならないし、苦しみものであってはならない」という事を知るために、
また自分自身はそれだけで確立していることを直覚し、直観するために天啓聖典などは、「行為主体ではない」ということを反復否定することによって、論証が為されるべきであると述べたのである 

※潜在意識は必ず否定してくるので、「私は行為していない」という真実を「反復否定」することが必要である。潜在意識は否定してくる習性を持っているから、真実に至るためには反復肯定よりも反復否定の方がより協力なのであり、「私は行為していない」「私は肉体ではない」「私は思考ではない」「私は個人ではない」と否定を反復するのである。だから私はアートマンであると肯定反復するより私はアートマンでないものではないと反復否定の方が良いのである
211
ひとたび「私は苦しみを持たず、行為を持たず、欲求なく、それだけで確立している解脱である」と理解したのであるなら、ひとはどうしてそれと矛盾した意味を受け入れることが出来ようか
 
212
質問:「私は欲求を持ち行為を持ち、それだけでは確立していない」という認識が、未だに私にはあります、それは貴方の仰る「私=アートマンの認識」とは異なっているものです。そうしてそのような誤った認識が私にはあるのでしょうか
213
答え:質問するもは、その点に関してのみ妥当である。しかし人は既に解脱しているということを認識するためであれば、この質問は妥当ではない、所謂、直覚ではない知識根拠と矛盾している事柄があれば、それがここでは質問に値する 
  214
「私は解脱している」「私は実在している」という、この認識は、「私は苦しんでいる」という直接知覚などとは別の知識根拠から生じている 。「私は苦しんでいる」という認識は五感である直接知覚という誤っている知識根拠から生じている。
※直接知覚とは別の知識根拠とは、五感の知覚に寄らない魂の内奥の真我の知覚根拠を指していると思われる
217
それゆえに これらの天啓聖句は自分自身のアートマンが解脱しているということを理解させる。このことは何ものとも矛盾しないから、天啓聖句はこのような意味を持っていると言われるべきである
218
これとは別のいかなる認識もアートマンに対しては成立しない。なぜなら「それは認識していると考える人々によって認識されず、認識していないと考える人々に取って認識される」からである
認識主体を何によって認識し得ようか・・である
219
「君」という単語の意味を識別するためには、一切の行為を棄てることが手段となる。なぜなら「心が平静となり感官が制御され、精神統一して自己の中にアートマンを見て、一切の中にアートマンを見る」という教えがあるから 
220
自分自身の中にアートマンを見るべきである、「君」という単語の意味する内我を見るべきである。そのとき一切万有をアートマンである(天啓聖典の文章の意味する)絶対者であると見る。 
221
「一切万有はアートマンである」という文章の意味が正しい知識根拠に基づいてその人に知られるとき、他の知識根拠は真実ではないから、どうしてその人に何らかなの行為の実践を命じることが出来ようか 
222
それゆえに文章の意味を知った後には、行為の命令はあり得ない。なぜなら「私はブラフマンである」と「私は行為主体である」という二つの矛盾している観念は両立しないからである
 
223
「私はブラフマンである」という、この明智は「私は行為主体である」とか「私は欲求を持ち、束縛されている」「私は苦しんでいる」などの認識によって否認されることはない、これらの認識は誤った知識根拠から生じているからである 
224
聖典に基づいて「私はブラフマンである。それ以外の何ものでもない」という理解が強固になったとき。そのとき「身体がアートマンである」という観念のような誤っている観念は妥当性を失うのである 
225
恐怖ある状態から、恐怖なき状態に達したものも、その為に努力しているものも、もし自律しているならば(単独で実在しているならば再び恐怖ある状態に戻ることを求めないであろう 。
226
単語の意味に関する無知から目覚め、文章の意味を直観する事を求めているものが、行為の放棄などを命じられている中で、どうして放恣な振る舞いをすることがあろうか
228
たしかに、関心を失ってしまったものを求めて行為を起こすものは誰もいないのである。解脱を求めているものは三界に対する関心を失っているので、一体何故に努力することがあり得ようか。
229
たとえ空腹に苦しんでいようと、毒を食べたいとは誰も思わない、いわんや美味しい食べ物で欲望がなくなってしまった人には、馬鹿でもない限りはそれを知りながら食べたいとは思わないであろう。 
230
我々のために、蜜蜂のように、ウパニシャッドの文章の花々から、この知識という最上の甘露の蜜を集めたこの有徳の師に敬礼する 
 第19章 
熱病の消滅                        

根源的欲求という熱病を消滅させる、
知識と離欲を薬とする治療を受ければ、
欲望という熱病による
衰弱から生じている輪廻による何百という一連の身体との結合から起こる苦しみを味わうことはない 。


君(=統覚機能)は「私は」「私のもの」というような観念である無意味なものを得ようと努力している。

また他の人々は、君の努力はプルシャのために役立つと考えている

君(=統覚機能)は実に対象を認識する力を持たないし

(※統覚機能には知覚はあり、その限定されている知覚を統覚機能は認識だと勘違いしている)

私には対象を認識する力はあるが対象を得ようとする欲求がない。

それゆえに君は寂静であることが理に適っている

統覚機能であるものよ


(※魂である統覚機能には静まること、沈黙して、透き通ることが求められている
魂とは心でもあり、その心が澄み渡ることが魂に求められているのである)

そして、私は最高の、永遠のブラフマン以外の何物でもなく、常に満足しているから、

私には得ようとする欲求がない。

常に解脱しており、私の利益を望むことがない。

統覚機能である君よ、君の寂静のために更なる努力をせよ.


飢渇など一連の六苦の波を乗り越えたものこそ、

天啓聖典によれば、世界と我々のアートマンに他ならない。

そして私はそのことを天啓聖典以外の知識根拠からも知っている

それ故に君の努力は、徒労に過ぎないーお〜思考器官よ
 

君が寂静となったとき、差別感は存在しない。

その差別感のために、マーヤ(幻力)によって、世人は混迷に陥る。

なぜなら差別の認識はマーヤーが生じる原因であるから。

差別の認識から自由になるとき、何人にもマーヤーは存在しない。

 
(静寂であるときとは、思考が静まっているときであり、思考が停止しているときである。そのとき差別感という自他の分離というマーヤはないといわれる。

君(意のこと)の努力によって私に混迷が起こる事はない。

なぜなら私は本性上悟ったものであり、束縛なく、不変であるから、

実に我々の本性には、時間の前後に於いて差別はない。

それ故に君(意)の努力は無駄である。おー意よ。 


また私は、常住であるから、

私が私とは別のものとなることはない。

なぜならもし私が変化を受けるとすれば私は無常なものとなるであろう。

私は常に輝いている。それ故に私は実に不二である。

そしてまた誤って想定されたものは非存在であるが私は実在である。


この世に於いて、君(意)は本性上、無なのである。

(君(意)とは魂である統覚機能ではなくて、個人人格を構成している記憶・マインドのことを際して君と言っているのであると思われるその思考マインドは無であると言われている
お〜意よ、なぜなら理論に基づいて吟味するとき君には存在性がないからである。

存在しているものは滅することはないし、存在していないものが生じる事はない。

君には消滅と生起の両者がある。

それ故に君には存在性がないのである。
 

認識主体と、

認識対象と、

認識

ーこの全ては誤りである。

何故ならそれは君が誤って想定したものであるから。

実は認識対象は認識と異なっているとは考えられない。

また同様に

夢眠状態にあるアートマンは、覚醒状態にあるアートマンとは異ならない

 
10
そしてまた、誤った想定は二元的である。なぜならそれは燃えている松明を旋回するときに生じる輪のように、実在ではないから。
アートマンには視力、聴力などの力の区別はないし、異なっている身体に於けるような異なったアートマンというものはない
アートマンは異なっておらず、不二である。
11
そして万が一、君の観念に従って、諸々の意識を持つアートマンなるものが、相互に異なっているというならば、それらのアートマンもどきは消滅する。なぜならそれらは想定され限定されているから。
(アートマンには自分と他人の区別はなく、自分のアートマンとは他人のアートマンの区別はないと言うこと)
また経験によれば区別を持っているものは、確実に破壊されるからである。
(区別を持っているものとは、諸体であり、個人である、また私と言う観念でもある自我である)


さらに全ての人が解脱すれば世界は消滅する。


(世界は投影されたものであり、魂が悟れば、世界という分離した現象は実相に還元すると言うこと)
12
何人も私には属さないし、私は何人にも属さない

なぜなら私は不二であり、誤って想定されたものは存在していないから

そして私は誤って想定されたものではなく、かって想定が為される以前に既に確立していたのである
二元のみが過って想定されたものである。
13
さらに不生のもの(アートマン)に対して「存在する」とか「異なっている」という誤った想定は存在しない。それゆえにこのようにしてアートマンが非存在であるという事はない。さらに君の誤った想定が起こる原因となっているアートマンに関しては、誤った想定が為される以前に既に確立しているのであるから、それは誤って付託されたようなものではない

 
14
君に如何なる二元があろうとも、それは非存在であると考えられる。君にアートマンが見られないからと言って、アートマンの非存在は意味されない。
(此処で言われている君とは統覚機能である魂の事である)
考察が結論の原因として認められているように、不二で実在するアートマンが存在しないとかいう誤った想定は誤った考察が原因である
17
アートマンが実在か非実在かのその考察の原因がアートマンによって引き起こされているのである。アートマンがあることによって考察が為されるからである
二元はマーヤーによってその存在から流出するからである。
存在は天啓聖典によっても、また理論によっても確立され
19
このようにアートマンは誤って想定されているものではなくて、不生、不二、不滅であるにも拘わらず、人々はこのアートマンが存在するとかしないとか、誤って想定し、動物・人間などの諸々の生を通じて、自己の心(統覚機能)のマーヤーから生じてきている生・老・死に常に赴いている。
 
(マーヤの投影は他ならぬ魂という統覚機能を通じて投影されていると言うこと)
20
前略・・・アートマンに於いては生じるという行為もなけらば、その行為主体もない。それ故に全てのものは不生である。 
21
もし生起の行為主体が行為をもたないものであり、かつそれ以外の何物ものもないと考えられるならば、確かに行為主体でないものはない
しかし実際には行為主体は全く存在していない
なぜならもし行為主体が存在するものであるならば、それは一切を創造するであろう。
なぜならその存在は特殊性を持たないから。
22
もし存在が非存在になること、及び非存在が存在になることは認められないならば、存在と非存在とがハッキリと決まっているとき。どうして生起が起こるであろうか
この二つは相互に分けられている。それ故に何ものも生起しないのであるーーお〜意なるものよ 

(マインドである心(意)に対して、行為は起きていないそれはマーヤであると言っている)
23
君(意なるもの)の望みに従って、たとえ私が君の生起を認めたとしても、君の努力は無意味であると宣言する。私には損も得もない。なぜなら非存在は自らも他からも生起することは内からである、たとえその損得があるとしても、君(意なるものよ)の努力は無意味である 。
24
恒常なるものは、無常なるものと結合することはない。恒常なるものも、無常なるものも相互に結合することはない。それゆえにあるものが他のものに何らかなの結果をもたらすということは不合理である。真理そのものは言葉の語源解釈の領域には存在していない 。
(言語や言葉や知識では真理を表現できないし、それらでは理解出来ない事を述べている)
25
それ故に賢者は、理論と聖典に基づいてあらゆるものに平等であり、常に輝き、存在するとかしないとかの誤っている想定されている二元から自由なアートマンを考察して、あたかも灯火が吹き消されるように完全なるニルバーナ涅槃に赴く 
26
ブラフマンはアートマンとブラフマンとは不異であると知っている人々には知ることができず、悪い論理学者には、それとは異なって容易に知られる
属性に魅入られていない人は無属性の、唯一のブラフマンをこのように考察して、混迷に陥ることはない
なぜならブラフマンの属性によって魅入られているという欠点から自由であるから
 
27
これとは別の方法では、ブラフマンの属性によって魅入られているという欠点を滅することは考えられない
ブラフマンの属性によって魅入られているという欠点こそが、混迷に基ずく観念の原因である。
薪を持たない火のように、原因を持たないブラフマンの属性によって魅入られているという欠点も、最高の寂滅に赴く 
28
神々が大海を攪拌して、大海から甘露を取り出したように、かって偉大なる人々が、ヴェーダ聖典の海を攪拌してヴェーダ聖典の海から、彼らが最高と考える知識を取り出した(ウパニシャッドのこと)。これらの諸師に敬礼する。 
 ブラフマスートラより  
従って差異の理解は禁ぜられているのであるから、また、祭祀を持ち込むことは差異の領域に属することであるから、祭祀を持ち込むことは「個別的自己」と最高自己とが不異であるとの気づきに基づいて禁じられたのだと知られるべきである。なぜならそれ祭祀などが命ぜられてるのは、輪廻する人々に対してであって「個別的自己が」最高自己と不異であると気づく人々に対してではないからである。「個別的自己」が最高自己とは別のものであるとは、ただひたすら差異の観念に拠っているのである
(※不異の気づきとは「それは自己である、おまえはそれである」、個別的自己が最高自己であるの気づきであり。差異とは「私とこれとは別のものである」と考えるもので、ブラフマンを自己と異なるとみるものは、この世においてあたかも多様であるかのようにみるものであり死から死に至ると言われる)

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