主なる概念

 ■ 現在の意識

 現在の平均的な私達の日常の意識とは、

 純粋意識・真我からの魂が肉体に降下し、魂から派生した現在のパーソナリティーが過去の

 記憶を遮断された状態で、脳と深く結びつき、その脳内にて起こっている、諸々の思考と、その

 思考の記憶や感覚や知覚、感情や行為を自分自身のものと錯覚した状態です。

 現在のパーソナリティーが知覚し、認識しているのはその脳という「座」で起こっている思考ですが

 それを自分自身のものと判断した現在のパーソナリティーがさらにそれに対して反応しているのです。

 脳内には肉体脳(DNA)の意識と、それに諸体や現在のパーソナリティー(自我)や記憶の反応

 動物魂からの意識などが数多く、生起しており、、それに僅かながら自分自身である魂の意識、

 そして真我からの直覚も意識されることがある状態であると言われております。

 睡眠時の夢見意識とは、殆どがこの肉体以外の諸体の意識であり、熟睡時においては現在の私が

 真の私に接触しても、現在の私のチャクラが整っておらず機能していなければ、それを認知すること

 が出来ていない状態です。

 思考に関しても肉体脳からの思考であるのか、それとも現在のパーソナリティーの思考であるのか、

 それとも魂の純粋思考であるのかを自らが知っている必要が有ります。その思考の波動の違いが

 ハッキリと認知できるまで知覚レベルが高まっている必要が有ります。現在の意識は魂の意識が支

 え、魂の意識は真の私が支えているにも拘わらず、私達の現在意識はそれを知覚することも自覚も

 しておりません。この脳である「自他に分離している意識」を魂の意識だと勘違いしているのは現

 在のパーソナリティーです。そのように私達の内面の思考にも、思考の波動にも、知覚にも段階が

 あり次元の違いがあります。

 ■ヨーガ

 その現在のパーソナリティーの日常意識という「魂の一部であり、魂から派生している意識」が、魂の

 内奥の「真の私」の意識と繋がることをヨーガといいます。

 ■真の古代瞑想ヨーガ

 この現在のパーソナリティーという魂の一部である意識が、「全ての私と一つである真の私」と繋がる

 いろいろな道・システムがあります。例えばジュニャーナヨガというような智慧で進んでいく道や、バク

 ティーヨガという神への愛と献身と奉仕を通じた道などですが、真の古代瞑想ヨーガは魂の内奥からの

 導きによる科学的な方法であり、安全で確実に進んでいける方法・ヨーガです。

 ■愛と微笑(ほほえみ)の瞑想

 私達の瞑想は、前述の愛と微笑の瞑想の中で、安全に、この魂の内奥へと繋がって行く道です。

 その方法はマントラでも、精神集中やイメージによるエレメンタルを用いる方法でもトランス状態になる

 ことでもありません。またそれは脳内麻薬という脳内意識の変性によるものや、外部からの意識体の

 干渉によるものではなくて、自分自身の魂の内奥からの働き掛けによって現在のパーソナリティーの

 波動を高め、自らが高められ、魂の内奥の意識が現在のパーソナリティーへと、そして肉体の脳へも

 繋がっていくことです。

 その結果として人格も浄化され、現在のパーソナリティーである自我も魂の内奥の私に統合されて

 いきます。


 ■複層の私

 私達は何気なく漠然と自分自身を私だと思っていますが、その自己を意識しているのはどの私でしょ

 うか?またその自己を意識している私を認識している私とは、どの私なのでしょうか?

 私達が通常自分と信じている「私」とは、魂の私ではなく、まして魂の一部である現在のパーソナリ

 ティーの私でもない単なる肉体の脳の反応である記憶の反応にすぎません。

 その大脳の反応を自分だと現在の私が誤って信じているのが殆どです。私とは大脳の私ではあり

 ません。大脳の思考ではありません。

 各体の脳によって生み出されている「私という観念」を自分であると、魂から派生している現在のパ

 ーソナリティーである自我の私が勘違いしているのです。

 私達が夜、寝てしまっているのはこの肉体の大脳の部位であり、現在のパーソナリティーはこの脳の

 条件付けに縛られていますが、睡眠時には肉体の大脳から離れて、夢を見たり、高次界に行って生

 命を回復しているのです。それが熟睡時に行われていることです。

 けれども現在のパーソナリティーは自分とは肉体だと信じているので眠っている脳の一部と同一化し

 ており自分は熟睡していると思っています。

 そして大脳に戻っても、その脳が条件付けられているので高次元界の事を理解できないし、現在の

 パーソナリティーもその体験を思い出せないようにチャクラが塞がれております。

 本当は現在のパーソナリティーの私とは、魂の内奥の真我に繋がっているのに、現在の状況下にお

 いては、現在のパーソナリティーはそれを思い出すことが出来ないで「自分は他と分離している個人

 の私だ」と思っているのです。現在のパーソナリティーは魂の内奥の私と融合する可能性があります

 し、そしてそうあるべきです。真の自分自身を知り戻る必要があります。

 ■八正道

 八正道の正見といわれるものがあります。それは自我による自我観察ではなくて、魂の内奥の眼で

 もって自我を非難することなく、同一化することなく、愛情を持って自分を視ることであり、この観察こ

 そが、魂の内奥から観ていることに他なりません。それが仏陀の八正道で言う正しく見ることです。

 正しい思いや、正しい精進とは、まさしく真実の私である真我を思い信じ、それを瞑想することに他な

 りません。また正しい言葉とは、まさしく本当の自己である真我の言葉なき言葉を発することに他なり

 ません。この言葉とは一見すると非常に簡単なことの様に思えますが、聖書では「始めに言葉があっ

 た、言葉は神であり、全てのものはこれによって造られた」とあるように、正しい言葉はマントラやイメ

 ージを超えています。

 真実の観念は虚偽の観念を駆逐します。私は肉体であるという虚偽の観念を駆逐するのは真我

 への真実の観念です。そういうことで現段階の私達の使っている言葉でさえ大いなる力を持って

 いるのです。

 そしてその正しい言葉が正しく使われる事によって、その言葉が翼となって真我と現在のパーソナ

 リティーを結びつけていくのです。

 ■マインド 

 マインドとは神の属性でもあり、高次元の大文字のマインドから、記憶の反応である小文字のマイン

 ドまで多くの次元と界層があります。とかく、精神世界ではマインドというものを一括りにして低次の

 思考と同一にしてしまう傾向があります。

 質料に関しても、各次元によって異なっておりこの物質からエーテル、プラーナ、スーパーサブスタンス

 とあるのです。それは知覚にしても同じであり、五感から六感、アチューメント(同調)、直覚へと続い

 ております

 高次のマインドとは神の言葉でもあり、創造することの出来る言葉でもあります、それはまた破壊する

 事も出来る力を持っているのです。マインドは心であり、通常は、低次の現象界に於いて表現されて

 いるマインドのことを思考と呼んでいます。高次マインドとは非対象のマインドであり、私達が認識して

 いる段階の分離した低次のマインドの事ではありません。これを通常は気づきと呼ばれております。

 ですのでそれを一括してマインドを否定するわけにはいきません。それは高次の非二元のマインドを

 知らないからです。

 ■現在のパーソナリティー・自我

 真我が現象界を降下して肉体や諸体に触れている部分が魂であり、その諸体に接触している魂は

 プラーナ・息と共にこの肉体や諸体の脳に接合しました。その脳と接合している意識が魂から派生

 している現在のパーソナリティーという自己です(自我とも言われます)

 現在のパーソナリティーとは、魂が呼吸と意識を伴って脳に触れ魂からの派生した魂の一部の自己

 意識です。

 現在意識とはその現在のパーソナリティーが触れている各体の脳の状態のことです。脳は受信器

 として、また条件付けられている脳である思考や感情や感覚や知覚や欲望が自己意識を伴って

 生起している意識の場です。

 けれどもその「現在のパーソナリティーの私」は、記憶であり人格と呼ばれている私とは異なります。

 人格とは脳が受信した思考や、脳自体の思考が記憶となり、その記憶が自己意識を持って「私とい

 う観念」が発生し継続している私です。

 その私、継続している今回の人生の「記憶としての私」なのです。それが人格であり。個人の人格

 と言われる思考の継続している「記憶の私」、若しくは「観念の私」です。

 その私という観念とは、自分が行為していると主張している偽の主体であり、条件付けられている脳

 内に発生している低次思考の記憶です。その低次思考の記憶も自己意識を持っています。

 その「偽の私」を自分だと思ってしまっているのが魂から派生している現在のパーソナリティーです。

 この魂と魂の一部である現在のパーソナリティーが、自分ではないマインドが生み出した「記憶の私」

 を自分だと錯覚しているのです。

 「記憶の私・観念の私」とは、現在のパーソナリティーが「条件付けられた大脳」の思考や感情や欲

 望や行為を見て、自分の思考や感情や願望や欲望や行為だと思い込んでいる結果、発生している

 のに過ぎません。

 そして現在のパーソナリティーは真我と現在のパーソナリティーは魂を介在して分離していないのに、

 自分は真我ではないと思い込んでしまったのです。

 というのも、現在のパーソナリティーが魂の内奥である真我を見ないで「脳内の映像の私」を見て自分

 だと錯覚しているからです。

 現在のパーソナリティーは、それらの私を非難することなく愛することが肝要です。

 そうすることによってそれから離れることが出来ます。

 しかし、それらの観念の私とは、この現在のパーソナリティーがこの諸体の思考を自分自身だと錯覚を

 することによって生み出したものであるので、再び自我である現在のパーソナリティーにやってくるの

 です。

 それらから解放されることは現在のパーソナリティー自身が魂の内奥と結合することによって変容し、

 融合してその魂の目でもって「正しく見る」事が出来るときです。

 ■脳の機能

 脳とはマインドの受信器でもあり、発信器でもあり、記憶装置でもあり、条件付けられているプログラム

 であるDNAに従って感情と思考と欲望と知覚と記憶である人格を生み出し、その人格という記憶であ
 
 り観念の自己が間断なく継続し活動している素晴らしいパソコンでもあります。

 魂の私によって使用されているパソコンと言えるでしょう。

 その脳の結果である人格は、「霊的諸体の状態で示されているところの現在のパーソナリティー」とは

 異なります。

 そう言うわけで、脳が現在のパーソナリティーを生み出しているのではなくて、現在のパーソナリティ

 ーこそ魂の一部であり、その魂の一部である現在のパーソナリティーが脳に閉じ込められているので

 「脳が生みだした記憶の私」を自分だと思い込んでいるのです。そして魂の一部である現在のパーソ

 ナリティーが大脳の思考を自分の思考だと勘違いしているのです。

 現在のパーソナリティーが「私とは肉体であり、人格であり、個人であり、両親から生まれそして、色々

 と行為して死ぬのだ」と思い込んでいる訳です。これは全くの間違いです。

 人格の私とは肉体の私であり「脳から生み出された記憶の私」であって、現在のパーソナリティーの

 私ではなく、まして「息であり生命と意識である魂の私」でも、魂の内奥の私でもないのです。

 その現在のパーソナリティーが、魂の内奥を志向し、そちらに向かって歩みはじめ、それによって純化

 され魂の内奥と繋がることによって、さらに現在のパーソナリティーが変容され自我性が消えていき

 ます。現在のパーソナリティーには魂と一体化し、真我に戻る可能性があるわけです。

 ■識別

 魂の内奥の私と現在のパーソナリティーの私と繋がるとき識別が生まれます。

 魂の眼、魂の内奥の眼、神我の眼、という真実の眼が誕生するとき、虚偽が露わにされます。

 虚偽を虚偽と見、虚偽の中に真理を見、真理を真理と見る事が起こります

 私ではない私が露わになります。肉体も、思考も、感覚も、知覚も、感情も、「私という観念であ

 る個人や人格」も私ではないことが露見されるとき、真の私ではないもの、神を詐称するもの、神

 ではない偽物がハッキリと識別されるのです。

 そしてその時、初めてその魂の目を持って、現在のパーソナリティーである私を曇りなく愛を持って

 観察することが出来ます。この現在のパーソナリティーである自我は現象界の高次元界からこの

 物質界に降下するために魂が必要だった如くに、魂がこの物質界で働くためには必要なのです。
 
 

 ■実在と実存

 実存の私とは、魂の現在のパーソナリティーであり、常に真の私である実在の真我に戻ろうとしてい

 ます。現在のパーソナリティーの私は「成ろう」として目的と手段を持ちます。

 けれども、この現在のパーソナリティーという実存の私は、高次の教えを聴いて、今度はさらに「成るの

 ではなくて在ろう」とします。けれども実存の現在のパーソナリティーとは魂の内奥においては真我と

 繋がっており既に真我と分離していないのです。ただ目が開いていないのです。

 そういうことであるので実存の私達にとっては、この「私はすべてに在り」と思う事は、真実であり

 そして、その真実を志向することがそこに向かう正しい方法なのです。

 ですから実存の私にとっては、この真の私を志向するという八正道を通じて、すでに在る実在の私を

 愛し、信頼し、帰依し、真我に向けて瞑想精進することが、それが正しい道だと言えるわけです。

 これが「実存の私」に取り憑いている無知という無明を取り払う八正道であるといえます。

 それが実存の私、現在のパーソナリティーの私が創造された目的ではないでしょうか。

 魂と現在のパーソナリティーの根源である実在の真我へと焦点をずらさずに、自分の根源を正しく

 観ることが肝要なのです。これこそが八正道です。



 ■「自己観察」「自己を知る事」

 自己想起や自己を知る事とは、現在のパーソナリティーが魂の内奥の真の私を覚知する事に他
 
 なりません。

 恐怖やその恐怖に怯えている私、恐怖を非難し、恐怖を変えようと必死に藻掻いている私、

 これら人格である観念の私というものを観察している観察者とは現在のパーソナリティーです。

 そして、この観察者である現在のパーソナリティーのことを「本当の分離しておらず分割できない

 純粋意識である私」真の私が愛に溢れて澄み渡った眼で見ています。

 観照者と言われる私です。

 この真我による観察、これが真実の自己観察です。高次元の純粋意識の分離なき目による

 自己観察です。

 ですので、現段階に於ける現在のパーソナリティーによる正しい観察とは、「諸体の私、人格の

 私」を非難なく判断なく、逃避することなく愛情を持って「私ではない私」と見ることです。

 私ではないところのそれら「観念の私」の思考や感情や感覚や欲望や願望や行為を見ることで、

 それらから一時的に離れることは出来ますが、完全に解放されるということは現在のパーソナ

 リティーが高次元の私の目と結びつかない限り難しいです。そして、それ故に正しい瞑想が必要

 なのです。

 それらの「観念の私達」とは現在のパーソナリティーの私が生みだしたのでブーメランの

 ように又、ふたたび戻ってくるからです。

 真に解放されるためには、「それらの観念の私」を正しく見ること、即ち魂の内奥の純粋意識と言

 われる「愛と叡智そのものの目」で見る必要が有ります。

 けれども、通常一般人の現段階の現在のパーソナリティーの目とは魂の目ではありませんし、まし

 て真の私の目でもありません。

 「見る為」、その為には「諸体の私」や「人格や観念の私」を見ている現在のパーソナリティーとい

 われる観察者である私が、魂の内奥の私と繋がる必要が有ります。

 さらに現在のパーソナリティーという観察者を見る為には魂の内奥の目が必要であり、非二元の

 真我の目による自我の観察こそが本当の自我観察と言えます。

 通常の自己観察、即ち現在のパーソナリティーが諸体の私と一体化している状態で、諸体の私を自

 分だと錯覚して行っている自己観察に於いては、対象として分離して見ているために「諸体が生み

 だした記憶であり観念の私」をかえって強めてしまう結果となります。それは自己観察ではありません。

 目がない状態では見る事は出来ないわけです。その目とは低次思考や低次感覚・知覚や低次感

 情ではない魂の内奥の私が現在のパーソナリティーと繋がったときに開眼するのです。

 その目とは、既に元々現在のパーソナリティーと、そして魂の奥にあり、今現在も機能しているのです

 が気がつかないだけなのです。その眼こそ真実の主体であり、認識そのものであり、私です。

 分離していない、非二元の私です。

 ですので、私は私を愛しているのです。私が私を分離することなく愛しているのです。見ているのです。

 この自他に分離した観察者であり、恐れと不安に戦いている現在のパーソナリティーのことを、

 見られている対象としての私としてではなく、主体と客体といった分離をすることなき、溢れる愛

 をもって(非難なく、判断なく、逃避なく、同一化なく、あるがままに)現在のパーソナリティーを

 対象としてではなく、見る者と見られるものの分離をせずに見ているのです。

 そして、そのとき、そこに真の私が顕われています。

 この真の私は、魂や現在のパーソナリティーのことをいつも分離することなく暖かく愛を持って見て

 くださっているのです。

 それをただ現在のパーソナリティーが気がつかないだけなのです。

 その私自身である真の私の、至高の愛に溢れている分離していない眼に気がつけばいいのです


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