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ヴィヴェーカナンダの言葉

(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「人間の本性」より一部転載させてもらいました)


6人間の本性

人が感覚にしがみつく執着力は、実につよいもので
す。それでも、自分がその中で生き、うごいている外
界をどれほど実在的なものだと思っていても、個人お
よび民族の生涯のうちに思わず彼らが、「これはほん
ものか」とたずねるときはきます。自分の感覚の確実
性をたずねるような瞬間を決して見いださない人、各
瞬間を、感覚の楽しみに没頭している人 − 彼のもと
にも死はやってきて、彼もまた、「これはほんものな
のか」とたずねずにはいられません。宗教はこの問い
をもってはじまり、それの答えをもっておわるもので
す。歴史の記録にはたよることのできない、神秘的な
神話の光につつまれた文明のあかつき、はるかな過去
にさかのぼっても、われわれはおなじ問いが出されて
いるのを見いだします、「これはどうなるのか。何が
ほんとうのものなのか」

 ウパニシャッドの中のもっとも詩的なものの一つ、
カタ・ウパニシャッドはこの問いではじまっています、
「人が死ぬとき、そこには議論があります。ある人び
とは、彼は永久に行ってしまったーと問い、他の人び
とは、彼はなお、生きている、と言います。どちらが
ほんとうなのですか」と。さまざまの答えがあたえら
れています。形而上学、哲学および宗教の全領域は、
実にこの問いに対するさまざまの答えでみたされて
いるのです。同時に、それをおさえようとするこころ
み、「かなたには何があるのか。何が真実のものなの
か」とたずねる心の不安にストップをかけようとする
こころみもなされました。しかし、死が依然としてそ
こにあるかぎり、おさえようというこれらすべてのこ
ころみは、つねに不成功におわるでしょう。われわれ
は、かなたには何も見えない、と言い、自分たちの希
望とねがいを現在の瞬間にとじこめて、感覚の世界を
こえたものについてはいっさい考えないよう、できる
かぎり努力をするでしょう。そしておそらく、外界の
あらゆる事物もわれわれを、そのせまいかこいの中に
とじこもるよう、たすけるでしょう。全世界が協力し
て、われわれが現在をこえてひろがるのをさまたげる
でしょう。それでも、そこに死があるかぎりは、つぎ
の問いはくりかえし、くりかえしやってこなければな
りません。「まるですべての実在の中のもっとも真実
のものであるかのように、すべての実質の中のもっと
も実質的なものであるかのように、われわれがしがみ
ついているこれらのものがすべて、死によっておわる
のであろうか」世界は一瞬のうちにきえさり、なくな
ります。そのさきは無限に大きくひらかれたさけ目で
ある絶壁のふちに立って、どんなに剛毅な心もしりご
みをし、「これはほんとうのものなのか」とたずねず
にはいられません。りっぱな心のエネルギーをかたむ
けて少しずつきずきあげられた生涯の希望が、一秒の
うちにきえるのです。それらがほんとうのものなので
しょうか。この疑問は、こたえられなければなりませ
ん。時は決して、その力をゆるめません。むしろ、そ
れはつよさをまします。

 それから、そこには幸福になりたいという願望があ
ります。われわれは、自分を幸福にするあらゆるもの
を、おいかけます。そとの感覚世界の中で、熱狂的に
活路をもとめてすすみます。もし人生で成功している
若者にたずねるなら、彼は、世界は実在する、という
でしょう。また彼は、ほんとうにそう思っているので
す。たぶん、おなじ男が年をとり、幸運にはめぐまれ
ないことを知ったとき、そのときには彼は、世界は運
だ、というでしょう。彼はついに、自分の願望はみた
されない、ということを知るのです。どこに行っても、
鉄石のかべが立っていて、それをこえることはできま
せん。あらゆる感覚の活動は、反動をもたらします。
あらゆるものは消滅します。楽しみも不幸も、贅沢も、
富も力も、そしてまずしさも、生命そのものさえもが
すべて消えて行くのです。
 二つの態度が、人類にのこされています。一つは、
ニヒリストのように、すべては無である、われわれは
何も知らない、未来についても過去についても、現在
についてさえも何ひとつ知ることはできない、と信じ
ることです。なぜなら、過去と未来を否定して現在に
しがみつこうとする人は気ちがいにはかならない、と
いうことをわすれてはならないのですから。父親と母
親を否定して子供を肯定する、論理性の程度はそれと
ひとしいものでしょう。過去と未来を否定するなら、
現在もなんとしても否定されなければならないので
す。これが一つの態度、ニヒリストの態度です。私は
かつて、たとえ一分間でもほんとうにニヒリストであ
り得た人は見たことがありません。口で言うのは簡単
なのです。



 それから、もう一つの態度があります − この永遠
に変化しつつあり、消えて行きつつある世界のただ中
に、何であれ真実のものを見いだすべく、説明をもと
める態度、実在をもとめる態度です。物質分子の集合
であるこの肉体の中に、ほんとうの何ものかがあるの
でしょうか。これは、人間の心の歴史全体を通じての
探究でした。まさに最古の時代に、われわれは、光明
のひらめきが人の心にはいるのを見ます。人がすでに
そのときに、この肉体を一歩こえて、このそとがわの
肉体に非常によくにてはいるがそれではないあるも
の、それよりはるかに完全、円満なあるもの、この肉
体が解消したときにものこるあるもの、を見いだして
いることを知るのです。リグ・ヴェーダの賛歌の中に、
死体を焼いている火の神にささげるつぎの一節を見い
だします、「おお火よ、彼をあなたのうでにやさしく
だいてやって下さい。彼に完全な身体を、光り輝く身
体をあたえ、彼を父親のすむところに、もう悲しみの
ないところに、もう死のないところに、つれて行って
やって下さい」 おなじ考えがあらゆる宗教の中にある
のを、みなさんはごらんになるでしょう。そしてわれ
われは、それとともにもう一つの思想を見いだします。
彼らがこれを神話的表現でつつんでいようと、哲学の
言葉ではっきりと語っていようと、または詩的に美し
く表現していようと、すべての宗教が例外なしに、人
はかつての存在から堕落したものだ、と主張するのは、
意味のふかい事実です。現在ある人はかつてあった彼
の堕落したものだ、というのはあらゆる聖典、あらゆ
る神話に見いだされる一つの事実です。これが、ユダ
ヤ教の聖典のアダムの堕落物語にふくまれている真理
の核心です。これは、ヒンドゥの聖典にいくたびもく
りかえされているものです。人が死にたいと思わなけ
れば死ななかった時代、肉体を自分がすきなだけ長く
たもつことができ、その心がきよらかでつよかった時
代、彼らが真理の時代と呼ぶ、一つの時期のゆめです。
そこには悪も不幸もありませんでした。そして現代は、
その完全な状態の堕落です。これとならんで、われわ
れはいたるところに洪水の話を見いだします。この話
そのものが、あらゆる宗教が、いまの時代をかつての
時代の堕落と思っているという証拠です。堕落に堕落
がつづいたので、ついに洪水が人類の大部分を流しさ
り、ふたたび上昇の連続がはじまりました。もう一度、
あのきよらかな初期の状態にもどろうと、ゆっくり向
上しつつあるのです。みなさんが、旧約聖書の洪水の
物語はごぞんじでしょう。おなじ物語が、古代のバビ
ロニア人、エジプト人、中国人、およびインド人の間
にひろまっていました。古代の偉大な賢者マヌが、ガ
ンガーのほとりで祈っていると、小さなウグイがたす
けをもとめてきたので、彼はそれを、持っていた水さ
しにいれました。「何がほしいのか」とマヌがたずね
ると、その小さなウグイは、大きな魚におわれている
のでたすけていただきたかったのだ、とこたえました。
マヌはその小魚を家に持ちかえりました。朝になると、
彼は水さし一ばいの大きさになっており、「私はもう
この水さしにはすめない」と言いました。マヌが彼を
ため池にうつすと、翌日彼はため池一ばいの大きさに
なっていて、ここにはすめない、と言いました。です
からマヌは彼を河につれて行かなければなりませんで
したが、翌朝には彼が河いっぱいになっていました。
マヌが彼を海にはなすと、彼は言いました、「マヌよ、
私は宇宙の創造者であるぞ。世界に洪水をおこすこと
をおまえに知らせるためにこのすがたをとってここに
きたのである。一そうの箱船をつくり、その中にあら
ゆる動物の一つがいをいれ、さらにおまえの家族全員
をはいらせよ。水面に私のつのがつきでているから、
それに箱船をむすびつけよ。洪水がひいたら、出て地
上にすみつくがよい」と。こうして世界に洪水がおこ
り、マヌは自分の家族と、あらゆる動物の一つがいと、
そしてあらゆる植物の種とをすくいました。洪水がひ
いたとき、彼は世界に生きものをすみつかせました。
われわれはマヌの子孫だから、「マン」とよばれるの
です。

 さて、人間の言葉は、内にある真理を表現しようと
いうこころみです。私は、その言葉が不明瞭な音の連
続である赤ん坊も、最高の哲学を表現しようと努力し
ているのだ、と確信しています。赤ん坊はただ、それ
を表現する器官も手段も持っていないのです。最高の
哲学者たちの言葉と赤ん坊の発言との間のちがいは、
程度であって種類のそれではありません。みなさんが
現代のもっとも正しく、組織的な、数学的な言葉とお
よびになるものと、古代人たちのもやのかかった、神
秘的な、神話の言葉とは、程度において異なるだけで
す。それらはすべて、いわばみずからを表現しようと
もがいている、壮大な想念を背後に持っているのです。
そしてしばしば、これら古代の神話の背後には真理の
金塊がひめられており、しばしば、残念なことに、現
代人のみごとな、洗練された話はまったくのむだ口で
す。ですから、われわれは、それが神話のころもをき
せられているからと言って、それが現代のミスター・
なにがし、ミセス・なにがしの発言と調和しないから
と言って、すててしまう必要はありません。もし人び
とが、大部分の宗教は人はこれこれの予言者がおしえ
た神話を信じなければならぬと言う、と言って宗教を
わらうなら、彼らはこれらの現代人をこそわらうべき
です。現代には、もし人がモーゼやブッダやキリスト
を引用すると、彼はわらわれます。しかし彼がハック
スリーとかティンダルとかダーウィンの名をあげるな
ら、それは塩もつけずにのみこまれます。「ハックス
リーがこう言った」おおかたの人びとにとってはそれ
で十分なのです。ほんとうにわれわれは、迷信などに
しぼられてはいない!あれは宗教的迷信でした。そ
してこれは、科学的迷信です。ただ、あの迷信を通じ
ては、生命をふきこむ霊性の想念がやってきました。
この現代の迷信を通じては、色欲とどん欲がやってき
ます。あの迷信は、神の礼拝でした。この迷信は、悪
銭の、名声の、または権力の礼拝です。それがちがい
です。


神話にもどりますと、これらすべての物語の背後
に、一つの思想がたかくそびえているのを見ます〜
人は、彼がかつてあった存在の堕落したものである、
というものです。今日、現代の研究はこの見解をまっ
たくみとめないもののようです。進化論者たちは、こ
の主張にまっこうから反対するようです。彼らによれ
ば、人は軟体動物の進化したものです。それゆえ、神
話の所説はほんとうであるはずはありません。しかし
ながらインドには、これら二つの立場を和解させるこ
とできる神話があ。ます。インドの神話は、循環の理
論をといています。すべての進行は、波の形をとって
おこなわれる、と言うのです。おのおのの波のあとに
はおちこみがつづき、そのおちこみにはつぎの瞬間に
もり上がりが、それにはつぎのおちこみが、そしてま
たもう一つのもり上がりがつづきます。運動は循環す
るのです。現代の研究に立脚しても、人がただ進化だ
けの産物ではあり得ない、ということは確実に真理で
す。あらゆる進化evolutionは、退化involution(内含)
を前提としています。現代の科学的な人はみなさんに、
一個の機械からは、みなさんが前もってそれにあたえ
ただけのエネルギーしか得ることはできない、と言う
でしょう。何ものも、無からは生まれてはこないので
す。もし人が軟体動物から進化したものであるなら、
完全な入〜ブッダ人、キリスト人〜はすでに軟体
動物のうちに内合されていたのです。そうでなければ、
このような巨大な人格はどこからくるのですか。何も
のかが無から生まれるということはあり得ません。こ
のようにしてわれわれは、聖典を現代の光と調和させ
ることができるのです。完全な人になるまで、さまざ
まの段階を通じて、少しずつみずからをあらわして行
くそのエネルギーが、無から出てくることはあり得な
いのです。それはどこかに存在していたのでした。そ
してもし、その軟体動物か原形質がわれわれがたどっ
て行ける最初のポイントであるなら、その原形質が何
かの形で、そのエネルギーを持っていたのにちがいあ
りません。

 われわれが肉体と呼ぶ物質の集合体が、われわれが
魂、思いなどと呼ぶ力のあらわれの原因なのである、
いや、そうではない、とか、この肉体をあらわしてい
るのが心である、いや、そうではない、という、大き
な議論がかわされています。世界のもろもろの宗教は
もちろん、思いという力が肉体をあらわしているので
あって、その反対ではない、と主張しています。われ
われが思いと呼ぶものは単に肉体という機械の部分の
調整の所産にすぎない、と主張する、現代思想の流派
があります。魂、思いのかたまり、または何とよぼう
と、それはこの機械の所産である、肉体および頭脳を
形成する物質の物理化学的結合の所産である、とする
見解は、解決できない問題をのこします。何が肉体を
つくるのですか。何の力が、微分子を肉体の形に結合
するのですか。そこにある物質の集団から材料をとり
あげて、一つの方法で私の肉体を、別の方法で別の肉
体を、というように形成する、どんな力があるのです
か。何がこのような無限の区別をつくるのですか。魂
とよばれる力は肉体という微分子の結合から生まれた
ものだと言うのは、馬の前に車をつけるようなもので
す。どのようにして結合はなされ、またその力はどこ
にあったのですか。もしみなさんが、ある他の力がこ
れらの結合の原因であり、そして魂はその物質から生
まれたものであった、物質のある集団を結合させたそ
の魂、それ自体が結合から生まれたものであった、と
おっしゃるなら、それは答えにはなりません。その理
論は、事実の全部とは行かなくても大部分を説明し、
現存する他の理論とも、矛盾しないものであるべきで
す。物質をとりあげて肉体を形成する力は、その肉体
を通してあらわれるものとおなじである、と言う方が
もっと論理的です。ですから、肉体によってあらわさ
れる思いの力は、微分子の配合の結果であって独立の
存在は持っていない、と言うのは無意味です。物質か
らは、力は出てこないでしょう。むしろ、われわれが
物質と呼ぶものはまったく存在しないのだ、と論証す
る方が可能です。それは、力の、ある状態にすぎない
のです。固体性、硬度、その他物質のどのような状態も、
運動の結果であると証明することができます。流動体
にあたえられる渦状運動の数がふえると、それには固
体の力がでてきます。竜巻のような、うずをまいてい
る空気のかたまりは固体のようになって、それの衝撃
によって固体をくだいたり切ったりもします。クモの
巣の糸も、もしほとんど無限大の速度でうごかされた
とすれば、鉄のくさりのようにつよくなってカシの木
をもつきさすでしょう。このように見てくると、われ
われが物質と呼ぶものは実は存在しない、と証明する
方が、たやすいでしょう。しかしその反対のことは、
証明できないのです。


肉体によって自分をあらわしている力は、何ですか。
この力が何であろうと、それがいわば、微粒子をとり
あげて形−人体−をあやつっているのだというこ
とは、誰の目にもあきらかです。他の何者も、ここに
やってきてみなさんや私のかわりに肉体をあやつるよ
うなことはしません。私はかつて、自分のかわりにも
のをたべてくれる人を見たことはありません。私がそ
れを消化し、その食物から血液、骨およびいっさいの
ものをつくらなければならないのです。この神秘的な
力は何ですか。未来を考えたり過去を思ったりするの
は、多くの人びとにはおそろしいことに思われます。
多くの人びとにとっては、それは単なる憶測です。
 われわれは現在のテーマをとりあげましょう。いま
われわれを通じてはたらいている、この力は何です
か。古代には、古代のすべての聖典の中では、この力、
この力のあらわれは、この肉体とおなじ形の、この肉
体がほろびたのちにも存続するある光り輝く実体であ
る、と考えられていたようです。しかしやがて、もっ
と高い想念が生まれるのが見られます − この光り輝
く体は力を代表するものではなかった、というのです。
形を持つものはすべて微粒子の結合の産物にちがいな
く、背後にそれをうごかす何ものかを必要とします。
もしこの肉体がそれを操作するために肉体ではない何
ものかを必要とするなら、その光り輝く体もおなじ理
由から、それを操作するために自分以外の何ものかを
必要とするでしょう。そこで、その何ものかが、魂、
サンスクリットでアートマンとよばれました。いわば
光り輝く体を通じて、外部の肉体に働きかけていたの
は、アートマンだったのです。光り輝く体は心のうつ
わと考えられ、アートマンはそれをこえたものです。
それは心でさえありません。それは心をはたらかせ、
心を通じて、肉体をはたらかせます。あなたは一つの
アートマンを、私は別のアートマンを、われわれの一
人ひとりが別々のアートマンと別々の幽体を持ち、そ
れを通じて、粗大な外部のからだ、肉体をはたらかせ
ているのです。そこでこのアートマンについて、それ
の性質について、質問が出されました。このアートマ
ン、肉体でもなければ心でもない、この人の魂とは何
であるか。大論争がつづき、思弁がおこなわれ、さま
ざまの色あいを持つ哲学上の研究があらわれました。
私は、このアートマンについて人びとが到達した結論
の中のあるものを、みなさんにお知らせするようにし
ましょう。


 さまざまの哲学が、このアートマンは、それが何で
あれ、形もかげも持っていない、ということ、および
形もかげも持たないものは遍在でなければならない、
ということでは一致しているようです。時間は心に
よってはじまり、空間も、心の中にあります。時間が
なければ、因果律はなり立ちません。連続の観念がな
ければ、因果律の観念はあり得ないのです。それゆえ
時間、空間、および因果律は心の中にあり、このアー
トマンは心を超越していて形がないのですから、時間
空間をこえており、因果律もこえているにちがいあり
ません。さて、もしそれが時間、空間および因果律を
こえているなら、それは無限であるにちがいありませ
ん。このとき、われわれの哲学の最高の思索がやって
きます。無限なるものは、二つはあり得ないのです。
もし魂が無限であるなら、魂は一つしかあり得ないの
であって、あなたは一つの魂を持ち、私は別の魂を持
つ等々というような、さまざまの魂たちという観念は
すべて真理ではありません。ですから真の人はひとつ
であって無限である、遍在の霊です。そしてあらわれ
ている人は、その真の人の限定されたものにすぎない
のです。
その意味で、神話は、目に見える人はたとえ
どんなに偉大であっても、超越的存在である真人のお
ぼろげな反映にすぎない、とする神話は、真理をつた
えているのです。真人、すなわち霊は、因果律をこえ
ており、時間と空間にしぼられていませんから、自由
であるにちがいありません。彼はしばられたことがな
く、しばられることはできませんでした。目に見えて
いる人、つまりその反映は、時間、空間、および因果
律によって限定され、したがってしばられています。
または、われわれの哲学者の中のある人びとの言葉を
かりると、彼はしばられているように見えるが、ほん
とうはしばられてはいません。この遍在、この霊的性
質、この無限性、これがわれわれの魂の実相なのです。
それぞれの魂が無限なのですから、そこには誕生と死
の問題はありません。何人かの子供たちが試験されて
いました。試験官はかなりむずかしい問題を出し、中
につぎのようなのがありました、「なぜ地球はおちな
いのか」彼は引力についての答えをひきだそうとした
のです。大部分の子供たちは、まったくこたえること
ができませんでした。数人が、引力または何かである、
とこたえました。一人のかしこい少女が、別の質問を
出すことによってそれにこたえました、「それはどこ
におちるのですか」質問は無意味なのです。地球がど
こにおちるというのですか。地球にはおちるも、のぼ
るもありません。無限の空間に上下はないでしょう。
それは相対界だけにあるものです。無限の中のどこに
行ったり来たりがありますか。それがどこから来、ど
こに行くと言うのですか。


このように、人びとが過去とか未来とかを思うのを
やめるとき、彼らが肉体という観念をすてるとき〜
肉体は去来する、限定されたものなのですから〜そ
のとき、彼らはもっと高い理想にまでのぼったのです。
肉体は、真の人ではありません。心もそうです。心は
大きくなったり小さくなったりするのですから。ひと
り、永遠に生きることができるのは超越した霊です。
肉体と心はたえず変化しつつあり、実はその水は不断
にかわっているのだけれど、たえ間のない流れという
一つのすがたであらわれている川のように、変化にみ
ちた現象の一つづきの、名であるにすぎません。この
肉体の一つ一つの微粒子が、不断に変化しつつあるの
です。何分間もつづけて同一の肉体を持っている人な
どはいないのですが、それでもわれわれはそれを同一
の肉体であると思っているのです。心もそうです。一
瞬間それは幸福で、つぎの瞬間には不幸である。一瞬
間はつよく、つぎの瞬間にはよわい、たえずかわりつ
つあるうずまきです。それは、無限なる霊ではあり得
ません。変化は、有限なるものの中にだけ、あり得る
ものです。どんな形にせよ、無限なるものが変化する
というのは不条理です。そんなことはあり得ません。
有限の肉体として、みなさんはうごくことができ、私
もうごくことができます。この宇宙のあらゆる分子は
不断の流動状態にあります。しかし宇宙をひとつのも
のとして、全体としてとれば、それはうごくことはあ
り得ません。変化することはあり得ません。うごきは
つねに、相対的なものです。私は別の何ものかとの関
係においてうごくのです。この宇宙間のどの分子も、
他のどの分子との関係においても変化することができ
ます。しかし全宇宙をひとつのものとしてとるなら、
何との関係において、それがうごくことができますか。
それ以外には何もないのです。ですから、この無限の
単一体は不変、不動、絶対であって、これが、真の人
です。ですからわれわれの実体は普遍なるものででき
ているのであって、有限なるものではありません。わ
れわれは不断に変化しつつある小さな限定された生き
ものだ、と思うことはどんなに気持ちがよくても、そ
れらは古い妄想です。人びとは、彼らはあらゆるとこ
ろに存在する普遍の生きものだときかされるとおそろ
しがります。あらゆるものを通じてあなたは働き、あ
らゆる足であなたはうごき、あらゆるくちびるであな
たははなし、あらゆるハートで、あなたは感じるので
す。
 人びとはこれをきかされると恐しがります。彼らは
くりかえし、自分は個人性をたもつことはできないの
か、とたずねるでしょう。個人性とは何ですか。私は
それを見たいと思います。赤ん坊は口ひげを持ってい
ません。大きくなるとたぶん口ひげを、そしてあごひ
げも持つでしょう。彼の個人性は、もしそれが肉体に
あるのだったら、うしなわれるでしょう。もし私の個
人性が肉体にあるなら、私がかた目をうしなえば、ま
たはかた手をうしなえばそれはうしなわれるでしょ
う。それから、酒飲みはのむことをやめてはなりませ
ん。なぜなら彼は自分の個人性をうしなうでしょうか
ら。泥棒は善人になってはいけません。それによって
彼の個人性をうしなうでしょうから。これをおそれて、
誰も自分の習慣をかえることはできません。無限者の
中にしか、個人性はないのです。それがたった一つの、
変化しない状態です。他のすべてのものは、不断の流
動状態にあるのです。個人性は記憶の中にもあり得ま
せん。
もし私が頭をうたれて自分の過去の記憶をうし
なったら、私は自分の過去をすっかりわすれます。す
ると私は、個人性を全部うしなったのです。私はいな
くなったのです。私は二、三歳のときのことをおぼえ
てはいません。もし記憶と存在とが一つであるなら、
わすれたものはみな、なくなっているわけです。私の
生涯の中で私がおぼえていない期間は、私は生きてい
なかったのです。これは大変にせまい個人性の概念で
ありましょう。
 われわれはまだ個人ではありません。個人性を得よ
うと苦闘しているところです。そしてそれは無限者で
あり、それが人の本性なのです。彼その生命が全宇宙
にある者だけが生きます。そして自分の生命を限定さ
れたものに集中すればするほど、われわれはよりすみ
やかに死にむかいます。自分の生命が宇宙に、他者の
中にある瞬間だけ、われわれは生きるのです。この小
さな生命を生きることは死です、まさに死です。それ
だから、死の恐怖がくるのです。死の恐怖は、人が、
この宇宙間に一つの生命があるかぎりは、自分は生き
ているのだ、と悟るときにはじめて、克服されます。
彼が、「私はあらゆるものの中に、あらゆる人の中に
いる、私はすべての生命の中にいる、私は宇宙である」
と言うことができるとき、そのときにはじめて、無恐
怖の状態はくるのです。
不断にかわりつつあるものの
中に不死性を語るのは、不条理です。昔のあるサンス
クリットの哲学者はこう言っています、「個体と言え
るのは霊だけである、なぜならそれは無限であるから」
と。無限はわけることはできせん。無限はこなごなに
することはできません。それは同一のもの、永遠に不
可分の単一体です。そしてこれが、個人、真人なのです。
あらわれている人は単に、超越しているこの個体を、
表現しようとする苦闘にほかなりません。そして進化
は、霊の中にはありません。わるい人がよくなったり、
けものが人になったり〜みなさんおすきなように解
釈なさってよいのですが−進行しつつあるこのよう
な変化は、霊の中にはありません。それらは霊の中に
はありません。それらは自然の進化であり、霊のあら
われです。かりにここに一枚の幕があって、私の目か
らみなさんをかくしており、その幕に一つの小さな穴
があって、その穴からわずか数人の顔だけは見えると
します。さてその穴がしだいに大きくなりはじめ、そ
れにつれて私の前の光景がより大きくすがたをあらわ
し、ついにその幕が消滅しますと、私はみなさん全部
とむきあって立つことになるでしょう。この場合、み
なさんは少しもかわりませんでした。ひろがったのは
穴でした。それでみなさんは徐々に自分をあらわされ
たのです。霊の場合もちょうどそのようです。これか
ら完全になるというのではありません。みなさんはす
でに自由で完全なのです。宗教や神や、来世の探究と
いうような思想は何なのでしょうか。なぜ人は神をも
とめるのでしょうか。あらゆる国、あらゆる社会状態
の中で、なぜ人は、人の中であれ神の中であれ、また
どこかはかの所であれ、どこかに完全な理想をもとめ
るのでしょうか。なぜならその観念があなたの内にあ
るからです。それはみなさん自身の心臓の鼓動であっ
て、みなさんはそれを知りませんでした。みなさんは
それを、何かそとにあるものと思いちがえていました。
神を求めるよう、彼を悟るよう、みなさんをかりたて
ているのは、みなさん自身の自己なのです。寺々に教
会の中に、地上に天国に、ながい間ここかしこをさが
しもとめたのち、出発点からの一周をおわって、みな
さんは自分の魂にもどってきます。そして、みなさん
が世界中をさがしまわっていた彼、教会や寺院で泣き
ながら祈っていた彼、雲につつまれてすべての神秘中
の神秘であると見ていた彼、その彼は近いものの中の
もっとも近いもの、みなさん自身の自己、みなさんの
生命、肉体および魂の実相であるのだ、ということを
見いだすのです。それが、みなさんの本性です。それ
を主張なさい。それを表現なさい。きよらかになるの
ではない、みなさんはすでにきよらかなのです。完全
になるのではない、すでに完全なのです。自然は、む
こうにある実相をかくしているあの幕のようなもので
す。
みなさんが思ったり実行したりなさるよい思いの
一つ一つはいわば、まさにその幕をやぶっているので
あって、背後にあるきよらかさ、無限性、神はしだい
しだいにそれみずからをあらわすのです。
 これが人の全体の歴史です。幕がうすくなればなる
ほど、背後の光はもっと輝き出ます。なぜなら、輝く
のがそれの性質なのですから。それは知ることはでき
ません。知ろうとつとめてもむだです。もしそれが知
られたとしたら、それはもうそのものではないでしょ
う。なぜならそれは永遠の主体なのですから。知識は
一つの限定です。知識は客体化します。彼は一切物の
永遠の主体、この宇宙の永遠の目撃者、みなさん自身
の自己です。知識はいわば、よりひくい段階、退化で
す。われわれがすでに、その永遠の主体なのです。ど
うしてわれわれがそれを知ることなど、できましょう
か。それはあらゆる人の本性であって、彼はそれをさ
まざまの方法で表現しようと、苦闘しています。そう
でなければ、なぜこのように多くの倫理のおきてがあ
るのですか。すべての道徳の、説明はどこにあるので
すか。すべての倫理体系の中心として、一つの観念が
きわだっています。さまざまの形で表現されています
が、要するに、他者に善をなせ、というのです。人類
の支配的な動機は、人びとへの愛、すべての動物への
愛であるべきです。しかしこれらはすべて、「私は宇
宙である。この宇宙はひとつである」という、あの永
遠の真理のさまざまのあらわれです。そうでなくて、
どこにその理由がありますか。なぜ私は、なかまに善
をしなければならないのですか。なぜ私は他者に善を
なすべきなのですか。なにが私にそれを強要するのです
か。それは同情、いたるところおなじという感情です。
もっとも無情なハートも、ときどき他の生きものへの
同情を感じます。この見せかけの個人性は実は妄想で
ある、この見えているだけの個人性にしがみつくのは
いやしいことである、などときかされるとおそれる人、
まさにその人がみなさんに、極度の自己犠牲がすべて
の道徳の中心である、と言うでしょう。では何が完全
な自己犠牲なのですか。それはこの目に見えている自
己の放棄、すべての利己性の放棄のことです。この「私
に」と「私の」という観念、すなわちアハンカーラと
ママターは過去の迷信の結果であって、このいまの自
己が消えてしまえばしまうほど、真の自己がはっきり
とあらわれてきます。これがほんとうの自己放棄、す
べての道徳上の教えの中心であり、根底であり、要点
なのであります。
そして、人がそれを知る知らぬに
かかわらず、全世界は大なり小なりそれを実践しつつ、
ゆっくりとそれにむかってすすんでいます。ただ、人
頬の大多数は、それを無意識のうちにおこなっていま
す。彼らにそれを、意識しておこなわせよ。この、「私
に」と「私の」は、真の自己ではなく、一つの限定に
すぎないのだ、ということを知りつつ、犠牲をささげ
るがよい。しかし背後にある、かの無限の実在の片鱗
−−すべてである、かの無限の火の一つの火花−が
つまり、そこにあらわれている人なのです。無限者が
彼の本性なのです。

 
この知識の実益、つまり効果は何ですか。このごろ
は、われわれは何でも実益によって、それが何ポン
ド、何シリング、何ペンスするかによってはからなけ
ればなりません。間違ったことです。
人が真理を実益または金銭の標準で判定せよと要求す
る、いかなる権利を持っているのですか。
もし何の効果もなかったら、それは真理ではないので
すか。実益は真理の証拠にはなりません。しかしなが
ら、その中には最高の実益があります。幸福は誰でも
がさがしもとめているものですが、大部分の人はそれ
をかりそめの、実在ではないものの中にもとめていま
す。感覚の中には幸福は決して見つかりませんでした。
かつて、感覚の中に、または感覚の楽しみの中に幸福
を見いだした人はいませんでした。幸福は霊の中にだ
け、見いだされるものです。ですから、人類にとって
の最高の実益は、この幸福を霊の中に見いだすことで
す。つぎの重要な点は、無知はすべての不幸の偉大な
母親であり、根本の無知は、無限者が泣いたりさけん
だりする、と思うこと、彼は有限である、と思うこと
です。われわれ、不死なる者、つねにきよらかな者、
完全なる霊が、自分たちは小さな心である、自分たち
は小さな肉体である、と思うこと、これが、すべての
無知の根底です。それがすべての利己主義の母親です。
自分は一個の小さな肉体だ、と思うや否や、私は他の
身体を犠牲にしてもそれを保存することを、それをま
もることを、それをよい状態に保つことを、欲します。
すると、あなたと私とははなればなれになります。

なればなれの観念が生まれるやいなや、それがすべて
のわざわいへの扉をひらき、すべての不幸へとみちび
くのです。もし、今日生きている人間のごく少数が利
己主義、せまさ、および小ささという観念をわきにの
けてしまうことができるなら、この世界は明日パラダ
イスになる、これが実益です。しかしさまざまの機械
と物質的な知識の発達だけでは、それは決して、実現
はしないでしょう。これらはただ、火にそそがれた池
がいっそうそれをもえさからせるのと同様に、不幸を
大きくするだけでしょう。霊の知識がなければ、すべ
ての物質的な知識はただ、火に燃料をくわえるような
もの、利己的な人の手に、他者のために自分の生命を
すてるかわりに彼らの持ちものをとりあげるための、
彼らの生命の上に生きるための、もう一つの道具をあ
たえるようなものです。
 それは実践できることか−というのがもう一つの
疑問です。それは現代社会で実践できることなので
しょうか。「真理は、古代であれ現代であれいかなる
社会にも臣下の礼をつくすことはしない。社会が、真
理に対して臣下の礼をつくすか、死ぬか、である」社
会が真理を土台として形成されるべきであり、真理は
社会に順応すべきではありません。もし社会で非利己
性のような高貴な真理を実践することができないな
ら、人は社会をすてて森にはいった方がましです。そ
れは勇敢な人です。二種類の勇気があります。一つは
大砲に直面する勇気、もう一つは霊的確信の勇気です。
インドに侵入したある皇帝が彼の師から、そこにいる
賢者たちの誰かをたずねておあいなさいとすすめられ
ました。ながいことさがしたのち、彼は石の台の上に
すわっている、たいそう年をとった人を見いだしまし
た。皇帝は少しばかり彼とはなしてその叡知にふかく
感動しました。彼はその賢者に、自分の国にきてくれ
とたのみました。「いいえ、私はこの私の森に十分に
満足しています」と、賢者は言いました。すると皇帝
は言いました、「私はあなたに金と地位と富をあげる。
私は世界の皇帝である」と。男はこたえました、「私
はそんなものはほしくありません」と。皇帝は、「も
しこないなら、私はあなたをころすぞ」と言いました。
男はしずかにほほえんで、「それはあなたがおっしゃっ
た言葉の中のもっともおろかなものです、皇帝よ。あ
なたは私をころすことはできません。私を、太陽も燃や
すことはできず、火もやくことはできず、剣もころす
ことはできません。私は生まれもしなければ死にも
しない、永遠に生きている、全能、遍在の霊なのです
から」 と言いました。これは霊的大胆さであり、もう
一つのは、ライオンかトラの勇気です。一八五七年の
ベンガルの暴動のとき、偉大な魂であった一人のスワ
ミ(ヒンドゥの僧)が回教の暴徒によってふかく刺さ
れました。ヒンドゥの暴徒がその男をとらえてスワミ
のところにつれて来、彼をころそうと言いました。し
かしそのスワミはしずかに彼を見あげて、「私の兄弟
よ、あなたは彼です、あなたは彼なのですよ!」と言
い、そしていきがたえました。これはもう一つの例で
す。もし、真理をみなさんの社会に適合させることが
できないなら、もし、最高真理がそこに生きるような
社会をつくることができないなら、みなさんの腕力の
つよさを語っても、みなさんの西洋の制度の優秀性を
語っても、何になりましょう。もしみなさんが立ちあ
がって、「この勇気は実際的ではない」とおっしゃる
なら、みなさんの壮大さや偉大さについてのこのほこ
らしげな談義は何になりますか。ポンドとシリングと
ペンスのはかは何ひとつ実際的ではないのですか。も
しそうなら、なぜみなさんの社会を自慢するのですか。
「最高の真理が実際的になる社会、そのような社会が
もっとも偉大な社会である」、これが私の考えです。
そしてもし社会が最高の真理をいれることができない
ようだったら、できるようになさい。それは早いほど
よろしい。男も、女も、この精神で立ちあがれ。断固
として真理を信ぜよ。断固として真理を実践せよ。世
界は、二、三百の大胆な男女を必要としています。真
理、人生に断固としてその真理を示す、死を前にして
もゆるがぬ、いや、死を歓迎し、人に彼が霊であるこ
とを、宇宙間の何ものも彼をころすことはできないの
だということを知らしめる真理、その真理を直視する
勇気を持ちなさい。そのとき、みなさんは自由でしょ
勇気をお持ちなさい。そのとき、みなさんは自由でしょ
う。そのとき、みなさんは自分の真の魂に直面なさる
でしょう。「このアートマンはまずきかされ、つぎに
よく考えられ、それから瞑想される」
 現代には、はたらくことを重視しすぎて考えること
をないがしろにする、つよい傾向があります。なすこ
とは大変によいのですが、それは思うことから生まれ
ます。筋肉を通してのわずかばかりのエネルギーのあ
らわれが、働きとよばれるのです。しかし思いのない
ところには働きはないでしょう。ですから、頭脳を高
い思いで、最高の理想でみたし、朝夕それらを自分の
前におきなさい。そこから、偉大な働きは生まれる
のです。不純なことを語らず、自分はきよらかである、
とおっしゃい。われわれは自分に催眠術をかけて自分
は小さい、自分は生まれた、そして死のうとしている、
と思わせ、不断の恐怖の状態におとしいれているので
す。
 えさをさがしていた、身ごもっためすライオンにつ
いての話があります。ヒツジのむれを見て、彼女はそ
れにとびかかりましたが、そこで死んでしまい、母親
のいない子ライオンが生まれました。それはヒツジに
やしなわれて彼らとともに大きくなり、草をたべてメ
エメ工とないていました。そして、やがて一頭の十分
に成長したライオンになったのですが、自分はヒツジ
だ、と思っていました。ある日、もう一頭のライオン
がえさをさがしにきて、このヒツジのむれの中に一頭
のライオンがおり、ヒツジといっしょに逃げて行くの
を見てびっくりしました。彼はこのヒツジライオンに
近づいておまえはライオンであるぞと言ってやりた
いと思いましたが、あわれなけものは、彼が近づくと
逃げて行ってしまいました。それでも彼は機会をねら
い、ある日、ヒツジライオンがねむっているのを見つ
けました。彼はそれに近づき、「おまえはライオンだ
ぞ」と言いました。あいてが、「私はヒツジです」と
言ってメエメエなくので、彼をみずうみのほとりまで
ひきずって行き、「ここをごらん、おまえと私のかげだ」
と言いました)枚はライオンと自分の影とを見くらべ、
一瞬のうちに、自分はライオシである.ということを
悟りました。ライオンほほえました。もう、メエメ工
とはなきませんでした。みなさんはライオンなのです。
きよらかで、無限で、完全な魂なのです。宇宙の力は
みなさんのうちにあります。「なぜなくのか、わが友
よ。あなたには誕生もなければ死もない。なぜあなた
はなくのか。あなたには病もなければ不幸もない。た
だ、あなたは無限の空である。さまざまの色の雲がそ
の上にきてしばらくあそび、それからきえる。しかし
空はいつもおなじ永遠の青である」なぜわれわれは悪
を見るのか。一つの木の切り株がありました。やみの
中で、どろばうがやってきて、「警官だ」 と言いまし
た。こいびとをまつ若者がそれを見て、彼女だ、と思
いました。おぼけの話をきかされていた子供はそれを
見て、幽霊と思い、さけびはじめました。しかしはじ
めからおわりまで、それは木の切り株だったのです。
われわれは、この世界を自分がある通りに見ます。か
りに、ある部屋に赤ん坊がおり、その部屋には、テー
ブルの上に金貨の袋のふくろがおいてあって、どろぼうが
きてそれをぬすむとします。赤ん坊は、それがぬすま
れたことを知るでしょうか。われわれは、自分がうち
に持っているものを外に見るのです。赤ん坊は、うち
にどろばうを持っていないから、外にどろばうを見ま
せん。すべての知識がそうです。世界の悪とそれのす
べての罪のことをはなしなさるな。自分がまだ悪を見
なければならないことを、お泣きなさい。自分がいた
るところに罪を見なければならないことを、お泣きな
さい。そしてもし世をたすけたいと思うなら、それを
とがめてはいけません。それを、それ以上よわくして
はいけません。なぜなら、何が罪なのでしょう、何が
不幸で、何がこれらすべてのものなのでしょう。よわ
さの結果以外の何ものでもありません。世界はそのよ
うなおしえによって日ましに弱体化されつつあるので
す。人びとは子供時代から、彼らはよわくて罪びとで
ある、とおしえられています。彼らに、彼らはすべて、
この上もなくよわい者のように見えている者たちさえ
も、栄光にみちた不死の子なのである、ということを
お教えなさい。ごく小さな子供のときから、積極的な、
つよい、たすけになる思想を彼らの頭脳にそそぎこむ
ようになさい。みなさん自身、人をよわめ、まひさせ
るようなものでない、右のような思想を十分にとりい
れるようになさい。みなさん自身の心にむかって、「私
は彼である、私は彼である」とおっしゃい。うたのよ
うに、それを夜昼心の中にひびかせなさい。そして死
のときには、「私は彼である」と宣言なさい。それが
真理です。世界の無限の力はみなさんのものです。み
なさんの心をおおっていた迷信を、おいはらいなさい。
勇敢になろうではありませんか。
真理を知り、真理を
実践せよ。ゴールは遠いかもしれない、しかしめざめ、
たちあがり、ゴールに達するまでとまるな。

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