ミルダッドの書
著者:ミハイル・ナイーミ
翻訳者:小森健太郎
荘神社発行
から抜粋・紹介させて頂きました


目次

序章・ミルダッドにまつわる物語

本文

第1章・ミルダッドがヴェールと封印をとる

第2章・創造の言葉

第3章・聖なる一体と完全なるバランス

第4章・人間は産着にくるまれた神である

第5章・坩堝と篩、神の言葉と人間の言葉

第6章・主人と召し使い

第7章・ミルダッドと深夜の会見

第8章・鷹の巣と土竜の穴

第9章・苦痛なき生への道

第10章・裁きと審判の日

第11章・愛は生命の樹脂、憎悪は死の膿

第12章・創造的沈黙

第13章・祈りと理解

第14章・大天使間の対話と大悪魔間の対話

第15章・侮辱することと侮辱されること

第16章・債権者と負債者

第17章・シャマダムの画策

第18章・時間の車輪は虚空を巡る

第19章・信念は成熟に達した論理

第20章・私達は死後どこへ行くのか

第21章・全能の意志と人間の意志

第22章・男性と女性、結婚と独身

第23章・老いと重荷と癒やし

第24章・食べるために殺すこと

第25章・葡萄祭の前夜

第26章・葡萄祭でミルダッドが熱弁を振るう

第27章・贋の権威、恐怖の司令官

第28章・ベタールの王子がミルダッドを拉致

第29章・ミルダッドの帰還

第30章・解き明かされたミカヨンの夢

第31章・大いなる郷愁

第32章・無花果の葉の前掛け

第33章・夜-比類なる歌い手

第34章・母なる卵、ミクロの神とマクロの神

第35章・神へ向かう途上での火花

第36章・方舟祭とその儀式

第37章・ミルダッドが方舟を出奔させる








「ミルダッドの書」にまつわる物語


方舟の伝説、封じ込められた僧院長

 オルター山として知られる、ミルキー山脈の高峻な頂きに、広大で陰影な廃墟がある。それは、
かつて〈方舟〉として名をはせた僧院の廃墟である。言い伝えでは、僧院は大洪水と同じくらい太
古の出来事と結びつけられていた。
 〈方舟〉にまつわる無数の伝説が語り継がれていた。私はある年の夏をたまたまオルター山の隠
れ谷で過ごしたが、その地方の人々の間に最も広まっている伝説は次のようなものだった。
 大洪水から何年も経った後で、ノアの一族は、放浪の果てにミルキー山脈に分け入った。そこは、
肥沃な谷と豊かな河と、いたって穏やかな気候に恵まれていたので、彼らはそこに住むことに決めた。
ノアは自分の死期が近いとさとったとき、息子のサムを呼び寄せた。サムはノアと同じように、
夢想者であり幻を見る者だった。ノアはサムに語った。
 「いいかね、わが子よ。数年このかた私はきわめて豊かな収穫を得た。今やその最後の一束に鎌を
入れるばかりだ。神が私になした約束にしたがえば、おまえたち兄弟、そしておまえの子供たちと
孫たちは、人間が一掃されたこの大地に再び人間を繁栄させるだろう。そしておまえの子孫は海の
砂と同じくらい多くなるだろう。」
 「しかしながら、ある恐れが私の暮れゆく日々を悩ませている。それは、やがて人間たちがこの洪
水を忘却し、洪水をもたらしたのが肉欲と悪行であるのを忘れ去るだろう、ということだ。彼らは
また、百五十日の間耐えに耐えて、懲罰の怒りに満ちた深い海に対して勝利した〈方舟〉と〈信
念〉のことも忘却するだろう。また彼らは、〈信念〉から生じた〈新しい生命〉のことも気にかけな
いだろう。彼ら自身がその〈新しい生命〉の結実だというのに。」
 「彼らが忘却しないように、わが子よ、おまえに命じるが、この山脈の中で最も高い山に祭壇を築
きなさい。その山を今後オルター山と名づけなさい。さらにおまえに命じる、祭壇の周りに、大き
さはかなり縮小されるけれども、隅々にいたるまで方舟と一致する家を築きなさい。そしてその家
を〈方舟〉と名づけなさい。」
 「祭壇の上で私は、感謝を捧げる最後の供犠を行おうと思う。私がそこでともした炎を、その後も
永遠に燃え続ける光として保つよう、おまえに命じる。そして、その家を選ばれた者たちから成る
小さな共同体が住まう聖域としなさい。共同体の人数は決して九人を越えてはならず、また九人を
下回ってもならない。彼らを、〈方舟〉の同行者と名づけなさい。そのうちの一人が死ねば、神が直
ちに代わりの者をあてがう。彼らは聖域を離れてはならず、修道院で終生、隠遁生活を送る。彼らは、
〈母なる方舟〉の禁欲的な修行をすべて実践し、信念の炎を燃やし続け、自分たちと同胞たちの導き
を求めて〈至高者〉に呼びかける。彼らが肉体的に必要とするものは、信者からの寄付によって賄
われる」
 父の言葉を一語一語傾聴していたサムは、ここで父の話をさえぎって、なぜ人数が九でなければ
ならないのかを訊ねた。それ以上でも以下でもなく。すると齢を重ねた太祖は説明した。
 「息子よ、それが〈方舟〉に乗船した者の人数なのだから」
しかしサムに八人以上は勘定できなかった。父と母、彼自身と妻、二人の弟と妻二人である。そ
れゆえサムは父の言葉に非常に当惑した。ノアは、息子が当惑しているのを見て、さらに説明した。
 「聞きなさい、息子よ。おまえに大いなる秘密を明かそう。九人目の乗組員は密航者だ。私だけが
彼のことを知り、彼と会っていた。彼は私の絶えざる同行者であり、私の舵手だった。これ以上密
航者のことを聞いてはならない。しかし聖域の中で密航者のための場所を設けるのを忘れてはなら
ない。以上が私の願いだ、わが子サムよ。これらのことを取り計らってほしい」

そしてサムは父に命じられたとおりに実行した。
 ノアが先祖たちのところに召されたとき、ノアの子供たちは彼を〈方舟〉の祭壇の下に埋葬した。
それ以降幾世代にもわたり、〈方舟〉は、実践においても精神においても、尊敬すべき洪水の征服者
によって思案され、制定された聖域そのものであり続けた。
 しかしながら、幾世紀も時が経つにつれ、〈方舟〉は徐々に、必要量をはるかに上回る信者からの
寄贈を受け入れ始めた。結果として〈方舟〉は年ごとに、土地や金銀や宝石を蓄え、ますます富裕
になった。
 今から数世代前のこと、九人のうちの一人が没してすぐ、よそ者が〈方舟〉の門のところに現れ
て、共同体に自分を入れるよう求めた。決して侵されたことのない〈方舟〉の古くからの伝統にし
たがえば、彼は直ちに受け容れられなければならなかった。なぜなら彼は、同行者の死の直後、最
初に共同体に入ることを求めた者だったのだから。しかしながら時の長老は〈方舟〉の僧院長
がそう呼ばれていたのだが、たまたま横暴で、世俗的な精神と冷酷な心の持ち主だった。裸で、
飢え、満身創痍のよそ者の外見を彼は好まなかった。それでよそ者に、おまえに共同体に入る許可
を与えるのはふさわしくないと告げた。
 よそ者は、自分を入れるべきだと言い張った。彼の反論に激怒した長老は、直ちにこの場を立ち
去るよう命じた。しかしよそ者は、説得力を備え、去ろうとはしなかった。ついに彼は長老を説き
伏せ、自分を召使として中に入れることに同意させた。
 その後長い間長老は、死者に代わる同行者を〈神意〉が送ってくれるのを待った。しかし誰も来
なかった。かくして歴史上初めて、〈方舟〉に八人の同行者と一人の召使が住まうことになった。
 七年が過ぎ、僧院は途方もなく豊かになり、誰もその富を見積もれないほどだった。僧院は、周
囲何マイルにもわたる土地や村々をすべて所有した。長老は大いに満足し、そのよそ者が〈方舟〉
に「幸運」をもたらしてくれたと信じて、彼に対し好感を抱くようになった。
 しかしながら、よそ者が来て八年目の初め、事態は急速に変わり始めた。それまで平和だった共
同体に嵐が吹き荒れた。利口な長老は間もなく、原因が例のよそ者にあると見抜き、彼を追放する
ことを決めた。しかしなんということか、既に遅過ぎた。僧たちはよそ者の指揮の下、もはやいか
なる規則や道理にも従おうとはしなかった。それから二年の間に、彼らは動産と不動産を含めた僧
院の財産すべてを与え尽くした。彼らは、僧院の無数の土地賃貸者に土地の自由権を与えた。三年
目に彼らは僧院を捨て去った。そしてもっと恐ろしいことには、よそ者は長老に呪いをかけ、僧院
の地に封じ込め、今日に至るまで口を利けなくしているというのである。
 伝説はこのように語り継がれている。
見捨てられ、今やひどく荒れ果てている僧院のあたりをさまよう長老の姿を、これまでに何度も
-昼の場合もあれば夜の場合もあるが-目撃したことを私に確信させる証人にはこと欠かなかった。
しかしながらいまだに誰一人として、長老の唇から一語たりとも言葉を引き出せた者はい
なかった。その上彼は、誰か男か女の気配を感じると、いずことは知れぬところに瞬時に消え失せ
るのだった。
 この話が私の心から平安を奪い去ったことを告白する。孤独な僧が―あるいは彼の影でさえも
―この上なく古めかしい聖域の庭や周囲、あるいはオルター山として知られるまったく荒涼とし
た山頂をさまよっている光景は、振り切ろうとしても振り切れないほど私の心につきまとった。そ
れは私の眼を誘惑し、私の血を刺激した。それは私の思いをとりこにし、私の肉と骨を煽り立てた。
 ついに私は言った。その山に登ろうと思う、と。西方は海に面し、広大で険しく切り立った岩壁が
数千フィートもの高さに聳え立つオルター山は、遠くからのぞむと、いかなるものをも寄せつけず、
ものともしないように見える。しかしながら一本の手頃で安全な通路が私に示された。ともに曲が
りくねった狭い道で、あまたの絶壁の縁に沿って進んでいる、一つは南側からの道であり、もう一
つは北側からの道である。私はいずれの道も取らないことにした。
二本の道の間に、山頂からまっすぐ下りきたってほとんど山のふもとにまで
達する、狭くとも滑らかな斜面を見つけることができた。それが私には、山頂までの王道のように
思えた。不気味な力で私を魅きつける斜面を、私は自分の道とすることに決めた。

書物の保管者

「目覚めなさい、ああ、幸せな見知らぬ客よ。あなたは目的地に到着した」
 焼けつくような陽光の下で渇きを覚え、もぞもぞしながら私は半ば目を開けた。見れば、私は地
面に横たわり、男の黒い影が私の上に屈み込み、唇を水で湿らせ、幾多の傷口の血を優しく拭って
く鋭く、年齢の判別はいたって困難だった。にもかかわらず彼の手の感触は柔らかく、私を元気づ
けた。彼の助けを借りて私は起き上がり、かろうじて自分の耳に聞こえるほどの声で質問すること
ができた。 「ここはどこですか」
 「オルター山の上だ」
 「あの洞窟は?」
 「あなたの後ろだ」
 「〈黒淵〉は?」
 「あなたの正面だ」
 見回せばまさしく自分の背後に洞窟があり、真ん前に黒く深い割れ目が口を開けていた。それを
見つけたときの私の驚きは絶大だった。私はまさに割れ目の縁にいた。洞窟の中に運んでくれるよ
う頼むと、男は喜んでそうしてくれた。
 「誰が私を〈黒淵〉から救い出したのですか」
 「あなたを頂上まで導いた彼が、あなたを〈黒淵〉から救い出したに違いない」
 「彼とは淮です?」
 「私の舌をくくり、この山頂に百五十年の間私を封じ込めた彼のことだ」
 「そうするとあなたが封じ込められた僧院長なのですね?」
 「私がそうだ」
 「でもあなたは喋っています。彼は口が利けないはずですが」
「あなたが私の舌をほどいてくれた」
 「それに封じ込められた僧院長は、いかなる人間とも交わりを持たないはずです。見たところあな
たは、まったく私を恐れていないようですが」
 「あなた以外は誰とも私は交わりを持たない」
 「あなたは以前に私の顔を見たことはありません。どうしてあなたが私以外の誰とも交わりを持た
ないというようなことがありえるのですか」
 「百五十年の間、私はあなたが来るのを待ち続けていた。一日たりとも違わないきっかり百五十年
の間、あらゆる季節とあらゆる天候の下で、私の罪深い目は、もしや一人の男がこの山を登り、あ
なたのように杖も身にまとうものも食糧もなく、ここに辿り着きはしないかと燧石の斜面を探し続
けていた。多くの者が斜面を登ろうと試みたが、いまだかつて山頂に辿り着いた者はいなかった。
多くの者が他の道を通って山頂に来たが、杖も身にまとうものも食糧もなく来た者はいなかった。
私は昨日あなたの歩みをずっと見守っていた。昨晩はあなたが洞窟のところで寝るにまかせておい
た。ところが夜が明けてすぐ来てみると、あなたは息をせずに横たわっていた。しかしじきに息を
吹き返すと私は確信していた。そして見よ! あなたは私より生き生きしている。あなたは生きる
ために死んだ。私は死ぬために生きている。そう、彼の名に栄光あれ。これはすべて彼が約束した
とおりだ。これはすべてなるべくしてなったことだ。あなたがかの選ばれた者であることは、私の
心に微塵の疑いもない」
 「誰ですって?」
 「神聖なる書物を世に公表するため、その手に神聖なる書物を委ねるべき祝福された人物だ」
 「どの〈書物〉を?」
 「彼の書物--〈ミルダッドの書〉を」
 「ミルダッド? ミルダッドとは誰ですか」
 「あなたがミルダッドを知らないなどということがありえるのか? 奇妙なことだ。彼の名はとう
に大地を満たしているとばかり思っていたのに。今日まで彼の名が、足下の地面を満たし、辺りの
空気を満たし、上空を満たしているのとまさに同じように。おお見知らぬ客よ、この地面は聖なる
かな、彼の足がここを踏んだのだから。この空気は聖なるかな、彼の肺が呼吸したのだから。この
空は聖なるかな、彼の眼が見入ったのだから」。こう言うとその僧は、恭しくひざまずき、大地に三
度口づけし、それから沈黙した。しばらくして私は言った。
 「あなたは私の好奇心を刺激したので、ミルダッドと呼ばれる大物のことをもっと知りたくなりま
した」
 「耳を貸しなさい。あなたに、語ることが禁じられていない事柄をお話ししよう。私の名はシャマ
ダム。九人の同行者の一人が死んだとき、私は〈方舟〉の長老だった。その者の魂がこの世から
去ってすぐ、よそ者が門のところに来て私に会いたがっていると聞かされた。私はすぐに〈神意〉
が死んだ同行者の代わりを送ってきたのだと知った。そして神が、我々の父サムの時代このかた変
わらず、まだ私たちを見守って下さっていることを喜ぶべきだった」
 ここで私は彼を遮って、ふもとに住まう人々から聞いた(方舟丿がノブの長男によって建てら
れたという話は本当かどうか訊ねた。彼の回答は素早く、きっぱりとしていた。
 「そう、それはまさにあなたが聞いたとおりだ」。それから彼は、中断された話を続けた。
 「まさしく私は喜ぶべきだった。ところが我ながら理解できない理由で、私の胸には反抗心がむら
むらとつのってきた。そのよそ者を一目見る前でさえ、私の存在全体が彼と戦っていた。そして私
は彼を拒むことで、不可侵の伝統を侵し、彼を送って下さった神をも拒むことになると充分承知し
ていながら、彼を拒むことを決意した。
 「門を開けてよそ者を見たとき-彼はせいぜい二十五歳くらいのほんの若僧だったが‐私の心
は短剣で彼を刺したいような苛立ちを覚えた。裸で、明らかに飢えていて、防御の手段もなく、杖
さえも持たず、いたって無力に見えた。しかしその顔に輝くある種の光のせいか、彼は完全武装し
た騎士よりも無敵で、その年齢よりもはるかに風格を備えているように見えた。私の臓腑が、彼に
逆らって叫んだ。私の血管の血の一滴一滴が、ことごとく彼を粉砕するよう願った。その理由はど
うか聞かないでいただきたい。おそらく彼の鋭い眼差しが私の魂を裸にし、自らの魂が人前で露わ
にされるのを見て。私は恐れたのだろう。おそらく彼の純粋さが私の穢れのヴェールを剥ぎ取り、
あまりにも長い間自分の穢れのために織りなしてきたヴェールが失われるのを、私は悲しんだのだ
ろう。というのも、穢れは常に自分のヴェールを愛してきたから。あるいはおそらく、太古に彼の
星々と私の星々の間で確執があったのだろう。誰にわかるだろう? 誰にわかるだろう? 彼だけ
がそれを告げうる。
「私はきわめてぶっきらぼうに憐れみのない声で、おまえを共同体に加えることは認められない」と
そして直ちにこの場から去るように命じた。しかしよそ者は自分の立場を保ちながら落ち着
いて、私に考え直すよう勧告した。その勧告を侮辱と取った私は、彼の顔に唾を吐きかけた。また
しても一度決断を変更するよう勧告した。彼が顔から唾を拭い取るとき、私はまるでそれが自分の顔に
塗りたくられているかのように感じた。私はまた、自分の敗北を感じた。私のうちのどこか深いと
ころでは、この戦いは対等ならざる戦いであり、彼のほうが強い戦士なのだと認めていた。
打ち負かされたあらゆる自尊心の常として、私の自尊心もおのれが完全に打ちのめされ、塵の中で
踏みにじられるのを見るまでは、戦いを諦めようとはしなかった。私はほとんどよそ者要求を受け容れ
る気になっていた。しかしまず彼が卑しめられるのを見たかった。
けれども彼は、いかなるやりかたによっても卑しめられることはなかった。
 突然、彼は食べ物と衣服を求めた。そこで私の希望がよみがえった。飢えと寒さをこちらの味方に
つければ、彼との戦いに勝てると私は信じた。冷酷にも私は彼に一片のパンすら拒み、僧院は寄付
によって生活しており、いかなる寄付も施すことはできないと告げた。その点について私は極悪非
道な嘘をついた。なぜなら、僧院にはあり余る食糧や衣服があり、必要な者には充分な食物と衣服
を与えることができたのだから。私は彼に物乞いをさせたかった。しかし彼は乞わなかった。彼は
当然の権利として要求した。その要求のうちには命令があった。
 戦いは長く続いたが、決して戦況が変わることはなかった。最初から戦いは彼のものだった。私
は自分の敗北を隠すため、最後に彼に召使として入ることを提案した-同行者の一員ではなく、
ただの召使として。このことが彼を卑しめるだろうと私は自分を慰めた。その時でさえ、私のほう
が乞食であり、彼は乞食ではないことを私は理解していなかった。私の非道な行いを封印するため
に、彼は文句も言わずその提案を受け入れた。彼を中に入れることで-たとえ召使としてでも
自分を追放しているとは、その時の私には思い及ばなかった。最後の日まで私は、彼ではなく
自分が〈方舟〉の主人であるという幻想にしがみついた。ああ、ミルダッド、ミルダッド、あなた
はシャマダムに何をしたのか、 シャマダム、あなたは自分に何をしたのか!
 大粒の涙が二滴はらはらと髭に流れ、彼の巨体は震えた。私は心動かされて言った。
 「もうその人物について話すのはやめて下さい、お願いですから。その思い出が涙となってあなた
のうちから溢れ出る人物について話すのは」
気にしないでくれ、祝福された使者よ。この苦渋の涙をいまだに滴らせているのは。かつての長
老の自尊心。霊の権威に対して歯ぎしりしているのは、書面上の権威。自尊心には泣かせておけば
よい。それが泣くのもこれが最後。権威には歯ぎしりさせておけばよい。それが歯ぎしりするのも
これが最後。ああ、私の眼が、初めて彼の天使のごとき顔にまみえたときのように、世俗の霧の
ヴェールに覆われていないように! ああ、私の耳が、彼の神聖な知恵に挑まれたときのように、
世間の知恵に凝り固まっていないように! ああ、私の舌が、霊に包まれた彼の舌と戦ったときの
ように、肉の苦い甘みに覆われていないように! しかし私は欺瞞の毒麦を多量に収穫したし、こ
れからさらにもっと収穫することになろう。
 七年の間彼は、我々の中で謙虚な召使だった-礼儀正しく、注意深く、目立たず、でしゃばら
ず、同行者のどんなつまらない申しつけでもすぐに聞いた。彼は空中に浮かんでいるかのように動
き回った。彼の唇から言葉が発せられることはなかった。我々は、彼が沈黙の誓いを立てているの
だと信じた。我々の中には、彼をからかおうとする者もいた。彼は自分に向けられた揶揄をこの世
のものならぬ平静さで受け止め、じきに我々全員は否応なく彼の沈黙を尊敬するようになった。他
の七人の同行者が彼の平静さを喜び、彼に心を慰められていたのと異なり、私には彼の平静さが重
くのしかかり、我慢のならないものに思えた。私は何度も妨害を試みたが、すべて失敗に終わった。
「彼は自分の名をミルダッドだと告げた。彼が答えたのは、その名だけだった。我々が彼について
知っているのは、それだけだった。しかし彼の存在は我々全員に鋭く感じられた。それはあまりに
鋭かったので、彼が自室に引き龍った後でなければ、我々はほとんど喋らなかった。たとえ大事な
事柄でも。」
 「ミルダッドが来てからの七年は、〈方舟〉にとってずっと豊作の年だった。僧院の膨大な財産は、
七倍以上に膨れ上がった。彼に対する私の気持ちも和らぎ、彼以外に〈神意〉によって誰も送られ
て来ないのを見て、私は、彼を同行者の一員として認めるよう真剣に同行者たちに提案した。
 「ちょうどその時誰も予想だにしなかったことが起きたーそれは、誰にも予想できなかったし、
ましてやこの哀れなシャマダムに予想できるはずもなかった。ミルダッドが自分の唇の封印を解き
嵐が解き放たれたのだ。彼は、沈黙によって長い間隠蔽していたものにはけ口を与えた。それは抵
抗しがたい急流となって殺到し、同行者たちは皆その圧倒的な奔流の中に飲み込まれてしまった
―最後まで戦ったこの哀れなシャマダムを除く全員が。私は長老としての自らの権威を主張する
ことで、潮の流れを変えようとしたが。同行者たちはミルダッドの権威以外にいかなる権威も認め
ようとしなかった。ミルダッドが師だった。シャマダムは追放人に過ぎなかった。私は姑息な手段
にさえ訴えた。何人かの同行者に、私は高価な金銀の賄賂を与えた。他の者には、広大で肥沃な土
地を約束した。その企てがほとんど成功しかけたその時、ミルダッドはなんらかの神秘的なやりか
たで私のたくらみに気づぎ、何の苦も無くそれを無効にしてしまった―たった敬語の言葉によっ
て。」
 「彼が述べたてる教義は、あまりにも奇妙であまりにも錯綜している。それはすべてこの〈書物〉
の中にある。それに関して私が語ることは許されていない。しかし彼の雄弁は、雪を石炭に見せ、
石炭を雪に見せた。彼の言葉はそれほど鋭く、力がみなぎっていた。その武器に対して私は何で対
抗できただろう? 私の保管していた僧院の印章以外にはまったく何もなかった。しかしそれさえ
も役に立たなくされてしまった。というのもミルダッドの教えに燃え立った同行者たちは、権利を
譲渡すべきだと彼らがみなしたすべての書類に、署名と捺印をするよう私に強要したからである。
一つまた一つと彼らは、長い年月の間に信者から僧院に寄贈された土地の証書を譲渡していった。
それからミルダッドは、同行者たちに贈り物をいっぱい持たせて送り出し、近郊すべての村々の貧
者や困窮している者たちに分け与え始めた。年に二回ある〈方舟〉の祭りの一つ、〈方舟祭〉の最終
日に―もう一つは〈葡萄祭〉―だがミルダッドはその狂った行為の総決算として、僧院から全
財産をすっかり取り払って、集まった外の人々に分配するよう同行者たちに命じた。」
 「これらすべてを私は罪深い目で目撃し、ミルダッドヘの憎悪で破裂せんばかりの心にそれを刻み
つけた。もし憎しみだけで人を殺害できるものなら、そのとき私の胸のうちで煮えたぎっていたも
のは千回もミルダッドを殺害しただろう。しかし彼の愛は私の憎しみより強かった。ここでもまた、
戦いは対等ではなかった。ここでもまた、私の自尊心は、おのれが完全に打ちのめされ、塵の中で
踏みにじられるのを見るまでは、戦いを断念しようとはしなかった。ミルダッドは戦うことなく私
を打ち砕いた。私は彼と戦ったが、自らを打ち砕いただけだった。彼は、寛大で慈悲深い忍耐のう
ちに、しばしば私の眼の上にある秤を取り除こうとしてくれた。彼が優しさを私に与えれば与える
ほど、私はさらに多くの憎悪を彼に与え返した。
 「我々は戦場での二人の戦士だった-ミルダッドと私は。彼は自分一人だけで一個の軍隊だった。
私は孤独な戦いを戦った。もし他の同行者の助けが得られたなら、私は最後には勝つことができた
ろう。そうすれば私は彼の心を食い尽くしたろう。しかし私の同行者たちは彼につき、私と敵対し
て戦った。裏切り者めがミルダッド、ミルダッドおまえは復讐を果たしたのだな」
 滂沱たる涙が、今度はすすり泣きに伴われて溢れ出た。長い休止の後、長老はいま一度屈み、大
地に三度口づけしてから言った。
 「ミルダッド、わが征服者、わが主、わが望み、わが罰にしてわが報酬よ、シャマダムの無情を許
して下さい。蛇の頭は胴体から切り離された後でも毒を保ち続ける。しかし幸いなことに、噛むこ
とはできない。見よ、シャマダムは今や牙もなく毒もない。シャマダムをあなたの愛で支えて下さ
い。シャマダムの口があなたのように蜜を滴らせる日が来るように。そのためにシャマダムは、あ
なたとの約束を果たしているのですから。あなたはこの日、シャマダムを第一の監獄から解放した。
第二の監獄にシャマダムを長くとどまらせないで下さい」
 彼の語った監獄についての問いが私の心に浮かんだのをあたかも読み取ったかのように。長老は
ため息をつきながら説明した。その声はいたってまろやかになり、あまりにも変化したので、別人
の声だと心から誓えるほどだった。
 「その日彼は私たち全員をこの洞窟に呼び寄せた。彼はここで七人に教えを説くのを常としていた。
ちょうど日は没しようとしていた。西風が濃い霧を吹き上げて峡谷を満たし、海からここまでの土
地全体に、霧が神秘の経帷子のようにかかっていた。霧は、私たちの山の中腹より上には登らな
かったので、頂きの辺りだけが海岸のように浮かび上がっていた。西の地平線には、いかめしく
重々しい雲が広がり、太陽を完全に遮断していた。師は、感動しながらもその感情を抑えて、七人
を順に抱擁した。最後の者を抱擁したとき彼は言った。
 『あなたがたは長い間高所に住んだ。今日あなたがたは、深みへと降りて行かなければならない。
降りることによって登り、谷を頂きと結び合わせないかぎり、高所は常にあなたがたに目まいを起
こさせ、深みは常にあなたがたを盲目にするだろう』
 「それから彼は私の方を向き、しばらく私の眼を優しく覗き込んで言った。
 「シャマダム、あなたには、まだその時が来ていない。あなたはこの山頂で私が戻るのを待ちなさ
い。その間あなたに私の書物を保管してもらおう。その書物は祭壇の下の鉄の金庫にしまわれてい
る。いかなる手もそれに触れないよう見張りなさいーあなた自身の手さえも。しかるべき時が来
れば私は使者を送る。彼は、その書物を受け取り。世に公表することになる。あなたはその使者を
次のような徴によって知ることができる。彼はこの山頂に燧石の斜面から登って来る。彼は、充分
に衣服をまとい、杖と七きれのパンを携えてここまでの旅路につく。しかしあなたはこの洞窟の正
面で、彼が、杖も食糧も身にまとうものもなく、その上呼吸もせずに横たわっているのを見つける
ことになる。その使者が訪れるまであなたの舌と唇は封印され、いかなる人間とも交わりを持たな
い。彼と会うことによってのみ、あなたは沈黙の監獄から解放される。彼の手に〈書物〉を渡した
後あなたは、私が戻るまでの間この洞窟の入口を護衛する石に変えられることになる。その監獄か
らあなたを解放できるのは私だけだ。もしあなたがその待機を長いと思ったなら、それは長くされ
るだろう。もしあなたがその待機を短いと思ったなら、それは短くされるだろう。信じて忍耐強く
ありなさい』。そう言って彼は私も抱擁した。
 「それから彼は七人に向かい、手を振って言った。『同行者たちよ、ついて来なさい』」
 「そして彼は同行者たちの先頭に立ち、斜面を降り始めた。彼の高貴な顔は上を向き、彼の確固た
る眼差しは遠くを求め、彼の尊い足はほとんど地面を打だなかった。彼らが霧の帳の縁にまで来た
とき、海にかかる黒雲の下の切れ目から太陽が顔を覗かせ、光で照らされた円筒形の通路を空に
作った。それは人間の言葉では表現しえないほど素晴らしい光景で、死すべき者の目にはあまりに
も眩しかった。そしてあたかも師が七人と共に山から離れ、霧の中をまっすぐその通路へと進
み。太陽へと歩んで行ったかのように見えた。私は一人ぼっちで残されたことを悲しんだ、ああ、
あまりにも一人ぼっちで」
 長い一日の重労働で疲れ果てた者のように、シャマダムは突然緊張を解いて沈黙した。彼の首は
うなだれ、まぶたは閉じ、胸は不規則に波打った。彼は長い間そうしていた。心の中で何か慰めの
言葉を探していると、彼は顔を上げて言った。
 「あなたは幸運に恵まれた人だ。不運な男を許してほしい。私は多くを語った-おそらくあまり
にも多く語り過ぎた。他になすすべがあろうか? 百五十年もの間舌を封印されてきた者が、その
封を解かれたとき、『はい』とか『いいえ』だけで済ませることができようか? シャマダムがミル
ダッドでありえようか?」
 「質問を許して下さい、兄弟のシャマダムよ」
 「『兄弟』と呼ばれるのは、なんと素晴らしいことだろう。ただ一人の兄が死んでからというもの、
私を『兄弟』と呼んでくれる人は誰もいなかった。兄が死んだのは、もうはるか昔のことになる。
それで質問とは何だろう?」
 「ミルダッドはそんなにも偉大な教師なのに、今日に至るまで世界がミルダッドや七人の同行者の
ことを聞いていないとは驚きです。どうしてそんなことがありえるのでしょう?」

 「おそらく彼は時節を待っているのだろう。あるいは彼は別の名で教えているのだろう。でも私は
このことだけは確信している。ミルダッドは、〈方舟〉を変えたように、世界を変えるだろうと」
 「もう随分前に彼は死んだに違いありません」
 「ミルダッドは別だ。ミルダッドは死よりも強い」
 「あなたが言っているのは、ミルダッドが〈方舟〉を破壊したように、世界をも破壊するというこ
とですか」
 「違う、絶対に違うミルダッドが〈方舟〉から重荷を取り除いたように、世界から重荷を取り
除くだろうということだ。そして彼は永続する光を再び点火するだろう。私のような人間は、その
光をあまりにも多くの幻想の束の下に隠してしまい、そのため今やおのれの闇のうちで悲嘆にくれ
ている。ミルダッドは、人間が自らのうちで打ち壊したものを再建するだろう。〈書物〉はじきにあ
なたの手に渡る。それを読み、その光を見なさい。これ以上ぐずぐずしてはいられない。私が戻っ
て来るまでここで待っていなさい。私について来てはならない」
 彼は立ち上がり、あまりに驚愕し、もどかしい思いでいる私を後に残して、急いで出て行った。
私もまた、洞窟の外に出たが、深淵の縁より先には進まなかった。
  眼前の情景の魔法めいた線と色合いが、あまりに圧倒的に私の魂をつかんだので、しばらくの間、
自分が見えない飛沫となって、万物へと吹きかけられ、万物の中へと溶け入ったかのように感じた。
真珠めいた霞に包まれた、遠くの穏やかな海へと。あるところでは屈み込み。あるところでは身を
傾けながらも、海岸から間断なく急傾斜に上昇し、峨々たる頂きにいたるまで変わることなく上昇
する稜線を描く丘々へと。大地の緑に包まれた丘の上の静かな居留地へと。山からの清流で渇きを
癒し、働く人々と牧場の獣たちがところどころに散りばめられた丘陵に横たわる新緑の渓谷へと。
山々が〈時間〉との戦いで受けた生傷、すなわち峡谷や山峡の中へと。物憂い微風の中へと。はる
か紺碧の空の中へと。眼下の灰色の大地の中へと。
 私の眼がそこかしこを彷徨い、斜面へと戻って来たとき、ようやく私は、その僧と、彼の語った
彼自身、ミルダッド、そしてその〈書物〉にまつわる奇妙な話に立ち帰った。私は見えざる手の働
きに大いに驚嘆した。その手は、私があるものを求めるよう仕組んでおいて、それを求めることが
別のものへと私を導くようにしておいたのだ。私はその手を心で祝福した。
 やがて僧は戻って来て、私に小さな包みを手渡した。その包みは、年を経て黄色く変色したリン
ネルにくるまれていた。彼は言った。
 「今後、私の信頼はあなたの信頼だ。あなたの信頼に忠実でありなさい。今や私の第二の時間が近づ
いた。監獄の門は、私を迎えるために開きつつある。間もなくそれは、私を幽閉するために閉まる
だろう。その門がどれほどの間、閉ざされることになるのか-それはミルダッドだけが知っている。
じきにシャマダムはすべての記憶からも消え去るだろう。なんと辛いことか、ああ、記憶から消し
去られるのはなんと辛いことか! なぜ私はこんなことを言ったのだろう? ミルダッドの記憶か
らは何物も消し去られはしない。ミルダッドの記憶の中に生きる者は誰であろうと、永遠に生き
る」
 こう言ってからしばらく休止した後、長老は顔を上げ、涙にかすんだ目で私を見つめ、かろうじ
て聞き取れるほどの囁き声で再び話し始めた。
 「間もなくあなたは世界へと降りて行く。しかしあなたは裸で、世界は裸を忌み嫌う。世界は魂そ
のものを襤褸で覆っている。衣服はもはや私には何の役にも立だない。私は洞窟に入って服を脱ぐ
から、その服で裸身を覆えばよい。もっともシャマダムの服はシャマダム以外の誰にも合うはずは
ないのだが。私の服があなたの足手まといにならないとよいが」
 私はその申し出に対して何も言わなかったが、無言の感謝のうちにそれを受け容れた。長老が服
を脱ぐために洞窟に入ったとき、私は〈書物〉の包みをほどき、黄色い羊皮紙の頁をぎこちなく繰
り始めた。読み始めた最初の頁から、その〈書物〉にはや魅せられてしまった。私はぐいぐい読み
進め、ますます没入していった。半ば無意識に、長老が脱衣を終えたと告げ、服を着るよう私を呼
ぶのを待っていた。しかし数分を経ても、呼び声はなかった。
  〈書物〉から目を上げ、洞窟の中を覗くと、その中央に長老の服が重ねて置いてあった。しかし
長老自身の姿は見えなかった。私は数度彼を呼んだ。一回ごとに前よりも大きな声で。返事はな
かった。長老はその入口から出て行きはしなかった―それについては一片の疑いもなく確信が
あった。彼は幽霊だったのか? しかし私は自分の骨と肉で彼の骨と肉を感じた。その上、手には
〈書物〉があり、洞窟の中には衣服があった。あるいは彼は、服の下にいるのか? 私は服のところ
に行き、それを一枚一枚めくってみた。そうしながら私は自分を嘲笑した。服がもっとたくさん
あったところで、長老の巨体を覆い隠すことはできなかっただろう。ならば彼は、なんらかの神秘
的な方法で洞窟から滑り落ち、〈黒淵〉に飲み込まれてしまったのか?
 この最後の考えが頭にひらめくやいなや、私は外に駆け出た。それとほとんど同時に私は、入口
から数歩ばかり外の地面に釘付けにされた。〈黒淵〉のちょうど縁のところで私は大きな丸石に出
くわした。その丸石はさきほどまではなかった。それは、うずくまった獣めいた形をしていたが、
きわめて人間に酷似した顔つきをしていた。それは、粗野で重々しい姿をし、広い順は上を向き、
顎は堅く閉ざされ、唇は一文字に結ばれ、眼ははすかいに北方の虚空を凝視していた。

















「ミルダッドの書」

この書物は
同行者の中で
最も若く
最も地位が低い
ナロンダ
によって記録された
ミルダッドの書である
克服を
希求する者にとっての
燈台にして
港。

他のすべてのものには
この書に触れさせないようにしなさい!






ミルダッドの書


第1章
ミルダッドがヴェールと封印をとる



ナロンダ……………その晩、八人は夕食の席を囲んだが、ミルダッドだけは脇に控えて静かに指図
を待っていた。
 私たち同行者に課せられた古くからの掟の一つに、語るときにはできるかぎり〈私〉という言葉
を使わないようにするというものがあった。同行者シャマダムはその晩、長老としての業績を誇示
していた。彼は多くの数字を並べ立て、自分がいかにこの〈方舟〉の富と威信の獲得に貢献してき
たかを、さんざん示した。そうしている間彼は、禁じられたこの言葉を過度に用いたので、同行者ミル
ダッドの穏やかな叱責を受けることとなった。それが契機となって、そもそもこの掟の目的は何な
のか、誰がこの掟を定めたのか、それは父なるノアなのか、それとも最初の同行者サムなのか、と
いったことに関して、熱のこもった議論が持ち上がった。熱気が嵩じて互いに対する反駁となり、
そのせいで大勢が喋り出して何も理解できなくなり、事態は収拾のつかない混乱に陥った。
 混乱を笑いに変えようとして。シャマダムはミルダッドの方を向き、あからさまに嘲って言った。
 「見たまえ、ここに太祖より偉大な方がおられる。ミルダッドよ、我々を諸々の言葉の迷宮から救
い出したまえ」
 すべての眼はミルダッドに注がれた。そして七年目にして初めて彼が口を開き、私たちに語りか
けたときの大いなる驚愕と歓喜は何ものにも比べられなかった。
ミルダッド……〈方舟〉の同行者だちよ! 今シャマダムが語ったことは、嘲りのうちに語られた
にせよ、はからずもミルダッドの厳粛な決意を予告するものだ。というのもミルダッドは、この〈方
舟〉に来たその日より、この時とこの場所を―まさにこの状況を―封印を破りヴェールを取
り払い、あなたがたと世界の前に真の姿を現すところとして、前もって選んでおいたのだから。
 ミルダッドは、自らの唇に七つの封印を施し、自らの顔を七つのヴェールで覆い隠した。それは、
あなたがたが教えを受け取れるまでに成熟したとき、あなたがたと世界に教えを授けるためだ。そ
の教えとは、いかにして自らの唇に施された封印を解き、いかにして自らの眼にかけられたヴェー
ルを脱ぐかというものだ。そのことによって本来あなたがたのものである完全な栄光があなたがた
に明かされるのだ。

あなたがたの眼は、あまりにも多くのヴェールで覆われている。

あなたがたが見るものはことごとくヴェールでしかない。

 あなたがたの唇には、あまりにも多くの封印が施されている。あなたがたが発する言葉はことご
とく封印でしかない。

 
というのも事物は、いかなる形、いかなる種類のものだろうと、〈生命〉がくるまれている産着、
〈生命〉が覆われているヴェールに過ぎないからだ。

それ自身ヴェールであり産着であるあなたがたの眼が、
どうしてヴェールと産着以外のところにあなたを導けようか?


 そして言葉は、文字と音節の中に封じ込められた事物ではなかろうか? 
それ自身封印であるあなたの唇が、どうして封印以外のものを発することができようか?

 
眼はヴェールをかけることはできても、ヴェールを貫くことはできない。

 唇は封印を施すことはできても、封印を破ることはできない。
 眼と唇のどちらにも、それ以上のことを要求してはならない。それが、身体の労働にあって眼と
唇が分担する部分であり、眼と唇はその仕事をよくこなしている。ヴェールで覆い封印を施すこと
で眼と唇は、あなたに、ヴェールの背後にあるものを探し求め、封印の下にあるものを見つけ出す
ようはっきりと呼びかけている。

ヴェールを貫くためには、旋毛とまぶたと眉で駱った眼とは異なる眼が必要だ。
 封印を破るためには、鼻の下にある馴染みの肉片とは異なる唇が必要だ。

 
もし事物を正しく見たいのならば、まず眼それ自身を正しく見るようにしなさい。


眼を超えたあらゆる事物を見るためには、眼で見るのではなく眼を通して見なければならない。


 もし正しく語りたいのならば、まず唇と舌のことを正しく語りなさい。唇と舌を超えたあらゆる
事物を語るためには、唇と舌で語るのではなく、唇と舌を通して語らなければならない。
 
正しく見つめ、正しく語ることのみにいそしめば
あなたは自分自身のみを見、自分自身のみを語るだろう。

なぜならばあなた-

見る者、語る者としてのあなたは、
あらゆる言葉の中にあり、
あらゆる言葉を超えてあるのと同じように、
あらゆる事物の中にあり、あらゆる事物を超えてあるからだ。



 もしそうだとすれば、あなたの世界が錯綜した謎なのは、あなた自身が錯綜した謎であるからに
他ならない。あなたの語りが嘆かわしい迷宮なのは、あなた自身が嘆かわしい迷宮であるからに他
ならない。

 
事物を放っておきなさい。事物を変えようと心を砕かないようにしなさい。

なぜならば、事物が見えるがままに見えるのは、あなたが見えるがままに見えるに過ぎないからだ。

あなたが事物に視力と語りを貸与しないかぎり、事物は見たり語ったりしない。
事物が耳障りに聞こえるときには、
自分の舌だけを注視しなさい。

事物が醜く見えるときには、自分の眼だけを探究しなさい。

 
事物にヴェールを脱ぐよう要求してはならない。自らのヴェールを脱ぎなさい、
そうすれば事物がヴェールを脱ぐだろう。事物に封印を破るよう要求してはならない。
自らの封印を解きなさい。
そうすればあらゆるものが封印を解かれるだろう。

 自己のヴェールを脱ぎ、自己の封印を解く鍵は、あなたがたが唇の間に永遠に押しとどめている
言葉である。それは、あらゆる言葉の中で、最も取るに足らない言葉であり、最も偉大な言葉であ
る。ミルダッドは、それを〈創造の言葉〉と呼ぶ。

ナロンダ……………で師は押し黙った。深く、もどかしさに震える沈黙が私たち全員を覆った。
とうとうミカヨンが待ちぎれず、熱意をこめて語った。
ミカヨン……私たちの耳はその〈言葉〉を渇望してやまず、私たちの心はその鍵を希求してやみま
せん。どうか続けて下さい、ミルダッド、お願いですから続けて下さい。




第二章
創造の言葉



ミルダッド……〈私〉という言葉を口にするとき、直ちに心の中で祈りなさい。

「神が〈私〉という言葉の諸々の災いからの避難所であり、〈私〉という言葉の祝福への導き手でありますように」

と。
この言葉は、一見取るに足らない普通の言葉だが、他のあらゆる言葉の魂がこの中に秘められてい
る。その魂が解き放たれるや、あなたの口にはかぐわしい香りが漂い、その舌は甘露で満たされよ
う。そこから生まれ出るすべての言葉は、〈生命〉の喜びに浸されよう。その魂が封じ込められたま
まなら、あなたの口には悪臭が漂い、その舌は苦みで満たされよう。そこから生まれ出るすべての
言葉は、〈死〉の膿を滲ませよう。 というのも、仲間たちよ、


〈私〉は〈創造の言葉〉なのだ。

もし、あなたがその魔力を把握せず、その威力の主人でないなら、あまりにもしばしば、あなたは歌いたいときにうめき、平和でいたいときに戦い、光に浸されたいときに暗い牢獄でうごめくことになろう。

あなたの〈私〉とは、あなたの存在の意識に過ぎない。
音声を持たず肉体を持たない意識が、
〈私〉によって音声を持ち肉体を持つようになる。

〈私〉とは、あなたの内にある、聞こえるように
なった聞こえざるものであり、見えるようになった見えざるものだ。
だからそれを見ようとしても、
見ることが不可能なものを見ることになり、聞こうとしても、聞くことが不可能なものを聞くこと
になる。なぜなら、あなたはいまだに眼と耳に縛られているからである。あなたには、眼によらな
ければ何も見えず、耳によらなければ何も聞こえないからである。

 
少し〈私〉を考えるだけで、あなたは頭の中に波打つ思考の海をつくり出す。その海は、同時に

思考者であり思考であるあなたの〈私〉が創造したものだ。

もし、あなたの思考が突き刺し掻きむしるなら、
あなたの内なる〈私〉のみが棘、牙、鉤を思考に与えたのだと知りなさい。
 ミルダッドはまた、あなたがたに、与えることができるものは、取り除くこともできるのだとわ
きまえてもらいたい


 少し〈私〉を感じるだけで、あなたは心の中の感情の井戸から水を汲み上げる。その井戸は、同
時に
感じる者であり感じられるものであるあなたの〈私〉が創造したものだ。


もしあなたの心に茨があるなら、あなたの内なる〈私〉のみがそこに茨を根づかせたのだと知りなさい


 ミルダッドはまた、
あなたがたに、かくもたやすく根づかせることができるものは、根こそぎに
することも同じくたやすいということをもわきまえてもらいたい。

 少し〈私〉を語るだけで、あなたは一連の力強い言葉に生命をもたらす。おのおのの言葉はある
物の象徴であり、おのおのの物はある世界の象徴であり、おのおのの世界は一つの宇宙を形成して
いる。

その宇宙は、同時に作る者であり作られるものであるあなたの〈私〉が創造したものだ。


もしあなたの宇宙に怪物がいるなら、あなたの内なる〈私〉のみがそれを誕生させたのだと知りなさい。


 ミルダッドはまた、

あなたがたに、創造することができるものは、抹消することもできるのだとわきまえてもらいたい。
 
創造物のありようと、創造者のありようは同様だ。自分自身を上回って創造できる者があろう
か? 自分自身を下回って創造できる者があろうか? 自分自身のみを-それ以上でもそれ以下
でもない自分自身のみを-創造者は創造する。

 
〈私〉とは、すべての事物がそこから流れ出し、すべての事物がそこへと還る水源である。水源のありようと、流れのありようは同様だ。

 〈私〉とは、魔法の杖である。しかし魔法の杖は、魔法使いの中にあるものしか産み出せない。
魔法使いのありようと、魔法の杖の産物のありようは同様だ。

 それゆえ、
あなたの〈意識〉のありようと、あなたの〈私〉のありようは同様である。あなたの
〈私〉と、あなたの世界のありようは同様だ。もし〈私〉が意味において明確で明瞭ならば、あなた
の世界は意味において明確で明瞭である。その時あなたの言葉は決して迷宮ではなく、あなたの行
いは決して絶えざる苦痛の温床ではない。もし〈私〉が曖昧で不確かならば、あなたの世界は曖昧
で不確かだ。その時あなたの言葉は縺れと紛糾であり、あなたの行いは、苦痛の孵化場である。

 もし〈私〉が不変で恒久ならば、あなたの世界は不変で恒久だ。その時あなたは、〈時間〉よりも強く空間よりもはるかに広いだろう。もし〈私〉が一時的ではかないならば、あなたの世界は一時的ではかない。その時あなたは太陽に軽く吹き消される一条の煙でしかない。
 もし〈私〉が一つならば、あなたの世界は一つだ。その時あなたは、あらゆる天の主、あらゆる
地の客と永遠に平和に過ごすこととなる。

もし〈私〉が多数ならば、あなたの世界は多数である。
その時あなたは、あなたの自己自身と、神の無窮の宇宙に住まうあらゆる被造物と果てしなく戦うことになる。


あなたの世界はぐらついている。その時あなたは、荒れ狂う一陣の旋風にもて遊ばれる無力な木の葉だ。
 そして見よ! あなたの世界が安定しているのは確かだ。しかしそれが安定しているのは、不安定さの中においてのみである。あなたの世界は確実だ。しかしそれが確実なのは、不確実さの中においてのみである。あなたの世界は不変だ。しかしそれが不変なのは、うつろいやすさの中においてのみである。あなたの世界は単一だ。しかしそれが単一なのは、多様性の中においてのみである。
 あなたの世界は、揺藍が墓場に変わり、墓場が揺藍に変わる世界。昼が夜を喰らい、夜が昼を吐
き戻す世界。平和が宣戦布告し、戦争が和解を求める世界。喜びが涙の中に浮かび、悲哀が笑いで彩られる世界。
 あなたの世界は常に産みの苦しみにあって、〈死〉を助産婦としている。
 あなたの世界は、篩と網目の世界である。しかもその篩と網目のどれ一つとして他の篩や網目
と似ていない。あなたは、篩にかけられないものを篩にかけ、選り分けられないものを選り分けよ
うとして常に苦痛の中にいる。
 あなたの世界は、おのれ自身に対立して分割された世界である。というのも、あなたの内なる
〈私〉があまりに分割されているのだから。
 あなたの世界は、障壁と柵の世界である。というのも、あなたの内なる〈私〉が、その障壁と柵の
一つなのだから。そのような障壁と柵は、あるものは自分と疎遠であるとして。囲いの外に追い
やり、あるものは自分と親密であるとして、囲いの中へと招じ入れる。しかし、囲いの外へと追い
やられたものは、常に柵を破って内側へと侵入して来るし、囲いの中へと招じ入れられたものは、
常に柵を破って外側へと侵出する。というのも、
そういったものたちは、同じ母-それがまさに
あなたの〈私〉である-から生まれたものなので、決して互いに離れようとしないのだ。

 そしてあなたは、幸福な合一を喜ぶ代わりに、分離できぬものを分離しようとする実りのない労
働に改めて取りかかる。
〈私〉の中の裂け目をつなぎ合わせる代わりに、あなたは、自分自身の生
命を削り取り、そこから自分自身であると信じるものと、自分自身とは異なると信じるものの間を分
かつ楔を作ろうと望む。

 それゆえ、人間の言葉は毒に満たされている。それゆえ、人間の昼の日々は悲しみに浸され
ている。それゆえ、人間の夜の日々は苦しみに苛まれる。
 仲間たちよ、

ミルダッドは、あなたがたが自分自身と-あらゆる人々と-宇宙全体と平和に過ごすために、内なる〈私〉の裂け目をつなぎ合わせてもらいたい。

 
ミルダッドはあなたがたに、
内なる〈私〉から毒を取り払ってもらいたい。そうすれば、〈聖なる理解〉の甘露を味わうことになろう。
 ミルダッドは、あなたがたが〈完全なるバランス〉の喜びを知るために、〈私〉を平衡させるやり
かたを教えよう。
ナロンダ……………再び師は沈黙した。そして再び深い沈黙が一同に訪れた。いま一度ミカヨンが
沈黙を破って言った。
ミカヨン……あなたの言葉をじらされる思いで待っております、ミルダッド。あなたの言葉は多く
の扉を開きましたが、私たちを敷居に置きざりにしたままです。私たちをその扉の向こうへと導い
て下さい-私たちをその中へと導いて下さい。


第三章
聖なる三位一体と完全なるバランス



ミルダッド……
あなたがたは、それぞれおのれの〈私〉を中心としながら、同時に一つの〈私〉を
中心としている。それがまさに神の単一なる〈私〉だ。

 神の〈私〉とは、仲間たちよ、神の永遠なる唯一の言葉だ。そこにおいて神-〈至高の意識〉
-は顕現する。それなくしては、神は絶対の沈黙である。それによって〈創造主〉は、自己創造を
なす。それによって〈形なき一つなるもの〉が、多様な形を取る。被造物は、多様な形を経て、再
び形なきものへと還る。
 
神を感じ、神を考え、神を語るためには、〈私〉という語を発する以上のことは必要ない。それゆえ〈私〉は、神の唯一の言葉なのだ。それゆえ〈私〉は、〈言葉〉なのだ。
 
神が〈私〉と言うとき、すべてが余さず語り尽くされる。様々な見える世界、様々な見えない世
界。生まれた事物、今後生まれる事物。過ぎ去った時間、これからやってくる時間-これらすべ
てが、砂の一粒たりとも漏らさぬすべてが発せられ、この〈言葉〉のうちに籠められる。この〈言
葉〉によってあらゆる事物は創造された。この〈言葉〉によってあらゆる事物は保たれる。
 この〈言葉〉が意味を持たないかぎり、言葉は虚空に響くむなしい谺に過ぎない。
 この〈言葉〉の意味が永遠でないかぎり、言葉は喉の癌、舌の腫れ物に過ぎない。

 神の〈言葉〉は、〈理解〉を持ち合わせている者にとっては、虚空に響くむなしい谺でもなけれ
ば、喉の癌でもなく、舌の腫れ物でもない。というのも〈理解〉は、〈言葉〉を生気づけ、それを
〈意識〉と結合する〈聖霊〉なのだから。〈聖なる理解〉は、永遠のバランスを保つ天秤の竿であ
り、その二つの皿には〈始源の意識〉と〈言葉〉が乗っている。

  〈始源の意識〉-〈言葉〉-〈理解の聖霊〉-見よ、仲間たちよ、この〈存在〉の〈三位
一体〉を。それは、一つにして三つ、三つにして一つ、同等であり、同じ広がりを有し、永遠に共
存する。自ら。バランスを保ち、おのれ自身を知り、自足している。決して増えもせず、減りもしな
い。永遠に平和であり、永遠に同じだ。これこそが、仲間たちよ、〈完全なるバランス〉である。

 
それを人間は神と名づけるが、それはあまりにも驚異的なので、名づけることができない。
「神聖」というのがその名だが、それを神聖に保つ舌が神聖である。
 さて、人間が神の申し子でなければ、何だと言うのか? 人間が神と異なったものでありえようか? 樫の木はどんぐりの中に包み込まれていないだろうか? 神は人間の中に包み込まれていな
いのか?
 それゆえ、人間もまた、この聖なる三位一体、すなわち、意識、言葉、理解の三位一体である。
人間もまた、神と同様に創造者である。人間の〈私〉は、人間の創造物である。それではなぜ、人
間は神のようにバランスを持ちえていないのか?
 もしこの謎の解答を知りたいのならば、ミルダッドがこれから明かすことをよく聞きなさい。



第四章
人間は産着にくるまれた神である


ミルダッド……
人間は産着にくるまれた神である

時間は産着である。空間は産着である。肉体は産着である。あらゆる感覚器官も、そしてそれによって知覚されるあらゆる事物もまた同様に産着である。産着が赤ん坊ではないのを母親は百も承知だ。しかしながら、赤ん坊はそのことを知らない。
人間はいまだ、日々年々、うつろいゆく自分の産着にあまりにも囚われている。それゆえ人間の意識は常に流動的だ。それゆえ、そのような意識が表現された人間の言葉の意味は、決して、明確でも明瞭でもない。それゆえ人間の理解は五里霧中だ。それゆえ人間の生はバランスを失っている。
これは、三倍に増幅された混乱だ。
 だから人間は救いを嘆願する。人間の苦悶に満ちた叫びが幾劫にもわたって響きわたっている。
大気は人間の嘆きで重く、海は人間の涙で辛い。大地には人間の墓が刻み込まれ、天は人間の祈りに耳を聾せられている。これらはすべて、
人間がまだおのれの〈私〉の意味を知らないゆえである。
赤ん坊が産着にくるまれているのと同じく、
人間は〈私〉という産着にくるまれている。

 
〈私〉と言うことによって、人間は〈言葉〉を二つに裂く。一方に人間の産着があり、他方に神の不死の自己がある。

人間は真に分割できないものを分割しているのか? 断じてそのようなことはない。いかなる力も、〈分割できないもの〉を分割することはできない。
神自身にもそれはできない。人間は未熟であるがゆえに、分割を空想しているに過ぎない。そして幼児である人間は、無限の〈大いなる自己〉が自分の存在と敵対していると信じて、それとの戦いに身構え、戦争に乗り出す。
 この対等ならざる戦いで、人間は肉体をずたずたにし、血の河を流す。父であり母である神は、
それを優しく見守っている。というのも、人間が引き裂いているのは重いヴェールに過ぎず、人間
が流すのは、〈一つなるもの〉との一体をくらませる苦々しい胆汁に過ぎないことを神は知ってい
るからだ。
 これが人間の運命だ、戦い、血を流し、失神し、そして最後には目覚めて〈私〉の裂け目を自
らの肉体によってつなぎ合わせ、その裂け目を自らの血で封印することが。
 それゆえ、仲間たちよ、あなたがたは〈私〉の使用に注意せよと警告された―非常に賢明な警
告だ。というのも、
あなたがたが〈私〉という言葉で、赤ん坊だけでなく産着をも意味しているか
ぎり、また、あなたがたによって(私)が坩堝であるより篩であるかぎりあなたがたはただ、無駄なものを篩にかけ、結局、及び苦痛と苦悶をもたらすその同類すべてを招き寄せているに過ぎないのだから。



第五章
坩堝と篩、神の言葉と人間の言葉


ミルダッド……坩堝が神の言葉だ。それは、自らが産み出すものを溶解し融解させて一つにし、何
物も価値ありとして受け容れもせず、何物も価値なしとして拒みもしない。それは、〈理解の聖霊〉
を持ち合わせているので、おのれと創造物が一体であること。そしてある部分を拒むことは全体を
拒むことであり、全体を拒むことはおのれを拒むことであると充分わきまえている。したがってそれは、目的と意図において永遠に一つだ。
 その一方、篩が人間の言葉だ。それは、自らが産み出すものとつかみ合い殴り合う。それは常に、
あるものを友として拾い上げ、別のものを敵として放り出す。しかしあまりにもしばしば、昨日の友は今日の敵となり、今日の敵は明日の友となる.
 こうして人間の、おのれ自身に対する残酷で実りのない戦いが猖獗を極める.これはすべて、人
間が〈聖霊〉を欠いているために他ならない。
「聖霊」によってのみ人間は、自らが自らの創造物と一体であり、敵を投げ捨てることは友を投げ捨
てることだと理解出来る。というのも「敵」と「友」という言葉―人間の「私」の創造物なのだから。
 あなたが悪として嫌い投げ捨てるものは、間違いなく誰か別の者あるいは別の物によって、善い
ものとして好まれ拾い上げられる.一つの事物が同時に、互いに背反し合う二つの事物でありえよ
うか? あなたの〈私〉がそれを悪としないかぎり、そして別の〈私〉がそれを善としないかぎり、
その
事物は善でもなければ悪でもない.

 私は、創造できるものは、抹消もできると言わなかったか? 敵を創るのと同様に、敵を抹消す
ることも可能だ.また敵を友として再創造することも可能だ.そのためには是が非でもあなたの「私」
が坩堝でなければならない。そのためには理解の聖霊が必要だ。

 それゆえ私はあなたがたに言う、もし仮にも祈るならば、
何よりもまず〈理解〉を求めて祈りなさい.
 私の同行者たちよ、ふるい分ける者となってはならない.なぜなら、神の〈言葉〉は〈生命〉で
あり、〈生命〉とは、すべてのものが
分割不可能な一つなるものとされる坩堝なのだから.すべての
ものが平衡状態にあり、すべてのものがその創造者-〈聖なる三位一体〉-にふさわしい、「聖なる
三位一体」はどれほどあなたにふさわしいはずだろうか?
私の同行者たちよ、ふるい分けるものとなってはならない。ふるい分けなければ.そうすればあなたは、身の丈が巨大となり、あまねく存在し、全てを包み込むようになるので、あなたを包含するいかなる
篩も見つけ出すことは出来なくなる。
 私の同行者たちよ、ふるい分ける者となってはならない。自分自身の言葉を知るために、〈言葉〉
の知識を求めなさい。そして自分自身の言葉を知ったとき、あなたは自らの篩いを火に委ねるだろう。
というのも、あなたの言葉がヴェールの中にないならば、あなたの言葉と神の言葉は一つなのだから。
 
ミルダッドはあなたがたに、ヴェールを取り除いてもらいたい
 神の〈言葉〉は、時間に制限されない〈時間〉であり、空間に制限されない〈空間〉である。
あなたが神とともにいなかった時間があったか? あなたが神のうちにいない空間があるか? それならばなぜ、永遠を時間と季節の鎖で縛るのか? なぜ〈空間〉をインチやマイルで閉じ込めるのか?
 神の〈言葉〉は、生まれることがなく、それゆえ死ぬことがない〈生命〉である。なぜあなたは生と死に取り囲まれているのか? 
あなたは神の生によってのみ生きるのではないか? 〈不死なもの〉が〈死〉の源たりえようか?
 神の言葉はすべてを含み込む。その中にはいかなる障壁も柵もない。なぜあなたの言葉は柵と障
壁で引き裂かれているのか?
 私はあなたがたに言う。あなたの肉と骨はあなただけの肉と骨ではない。天地の同じ肉鍋にあな
たとともに無数の腕が浸されている。そこからあなたの肉と骨は生じ、そこへとあなたの肉と骨は
還る。
 あるいはまた、あなたの眼の光は、あなただけの光ではない。その光は同時にまた、太陽をあな
たとともに分かち合うすべてのものの光だ。もしあなたの眼が、私のうちの光を見ないとしたら、
私のどこを見ることができようか? あなたの眼の中で私を見るのは、私の光である。私の眼の中
であなたを見るのは、あなたの光である。もし私が完全な暗闇だとしたら、私を見るあなたの眼も
完全な暗闇だろう。
 あるいはまた、あなたの胸の中の息はあなただけの息ではない。すべての息あるもの、あるいは
かつて息をしたものすべてがあなたの胸で息している。あなたの肺を今なおふくらませるのはアダ
ムの息ではないのか? あなたの心臓で今なお鼓動しているのは、アダムの心臓ではないのか?
 あるいはまた、


あなたの思考はあなただけの思考ではない。共通の思考の大海が、それを自らのものだと主張する。


あなたとその大海を共有しているすべての思考する存在も、同じことを主張する。

あるいはまた、あなたの夢はあなただけの夢ではない.宇宙全体があなたの夢で夢見ている.

 あるいはまた、あなたの家はあなただけの家ではない.それは同時に客の住まいであり、蝿、鼠、
猫、及びあなたと居をともにするすべての生き物の住まいだ.
 それゆえ、柵に用心しなさい.あなたがなすことはただ、〈欺瞞〉を柵の中に招き入れ、〈真実〉
を柵の外に追い出すことだけだ.そして柵の中で自分自身を見るために向き直ったとき、あなたが
直面するのは〈死〉であり、〈死〉の別名は〈欺瞞〉である.
  仲間たちよ、

神と人間を分かつことはできない.それゆえ、人間を同胞たちや〈言葉〉から生ままれる全ての生き物と分かつことはできない。

 〈言葉〉は大海である.あなたがたは雲である.そしてもし雲が大海を含んでいなければ、雲は
雲であるだろうか? しかし自らの形と個性を保つために、おのれを空間上に固定しようと苦闘し
て生命を浪費する雲はまことに愚かしい.このあまりに愚かしい苦闘の収穫には、失望に終わる希
望と苦々しいむなしさ以外に何かあろうか? 
雲は自らを失わないかぎり、自らを見出すことはな
い.雲は、死んで雲として消え去らないかぎり、自らの中に大海を見出すことはない.そして大海
こそが雲の唯一の自己だ.

 
人間は神を孕む雲である.自らを空にするのでなければ、人間は自分自身を見出すことはできない。ああ、空になる喜びよ!

 〈言葉〉の中に永遠に失われてしまわないかぎり、自分自身であるところの言葉をあなたは理解
できない―それがまさにあなたの〈私〉である。ああ、失われる喜びよ!

                              
 再び私は言おう、〈理解〉を求めて祈りなさい。〈聖なる理解〉があなたの心を見出すとき、神の
無限の空間の中で、あなたが「私」という言葉を発する度に、それに応えて喜びの鐘を鳴らさない
ものはないだろう。
 その時〈死〉それ自身が、あなたの手にある武器に過ぎなくなる。その武器によってあなたは、
〈死〉を制圧する。そしてその時〈生命〉は、〈生命〉それ自身の無窮の心に通ずる鍵をあなたの心
に授けるだろう。それが〈愛〉の黄金の鍵だ。
シャマダム……かくも偉大な知恵が、炊事用布巾と帚から搾り出されるとは夢にも思わなかった
ぞ。(シャマダムは、ミルダッドの召使としての地位を暗にほのめかした)
ミルダッド……賢者にとってはあらゆるものが知恵の宝庫である。愚者にとっては知恵そのものが
愚かしい。
シャマダム……おまえが巧みな弁舌を持ち合わせているのは疑いない。かくも長い間おまえがそれ
を使わずにいたのは不思議なかぎりだ。さりながら、おまえの言葉は難解で聞くに耐えない。
ミルダッド……シャマダムよ、私の言葉は易しい。難解なのはあなたの耳の方だ。けれども、聞い
ていながら聞かない者はわざわいである。見ていながら見ない者はわざわいである。
シャマダム……私は、きわめてよく聞いているし見ている。おそらく行き過ぎたくらいだ。しかし、
シャマダムがミルダッドと同じであるというようなたわごと、主人と召使が同等であるというようなたわごとは、聞きたくないものだ。


第六章
主人と召使い


ミルダッド……ミルダッドだけがシャマダムの召使ではない。シャマダムよ、あなたは自分の召使
を数え上げることができるか?
 鷹や隼、ヒマラヤ杉や樫、山や星、大海や湖、天使や王のうちでシャマダムに仕えないものがあ
るか? 全世界がシャマダムに仕えているのではないか?
 あるいはまた、ミルダッドだけがシャマダムの主人ではない。シャマダムよ、あなたは自分の主
人を数え上げることができるか?
 甲虫や蚤、築や雀、萌や小枝、小石や貝殼、露の滴や小池、乞食や泥棒のうちでシャマダムが
仕えていないものがあるか? シャマダムは全世界に仕えているのではないか? なぜなら、世界
はおのれの仕事をなすことによってあなたの仕事をもなしているのだから。そしてあなたは、自ら
の仕事をなすことによって世界の仕事をもなしているのだから。
 そう、頭は腹の主人である。しかしそれと同じく、腹は頭の主人なのだ。
 いかなるものも、何かに仕えているときには、同時にそのものに仕えられているのである。また、
何かに仕えられているときには、同時にそのものに仕えているのである。
 私はあなたがたに-シャマダム、そしてすべての人に言う。召使は主人の主人である。主
人は召使の召使である。召使に頭を下げさせないようにしなさい。主人に頭を上げさせないように
しなさい。主人の腐敗した自尊心を粉砕しなさい。召使の恥ずべき恥を根こそぎにしなさい。
  〈言葉〉が一つであることを覚えておきなさい。あなたがたは、〈言葉〉の中の音節なのだから、
実際には単に一つなのだ。どの音節も他のいかなる音節よりも尊くはない。どの音節も他のいかな
る音節よりも重要ではない。多くの音節とは単一の音節に過ぎない-まさにそれが〈言葉〉であ
る。すべてへの愛―万物への愛である言い表しえない〈自己愛〉の素晴らしい喜悦を知りたけれ
ば、そのような単音節にならなければならない。
 私はあなたに対し、主人として召使に語っているのではなく、召使として主人に語っているので
もない、シャマダム。そうではなく、私は兄弟として兄弟に語っている。なぜあなたは私の言葉に
そんなにも惑わされるのか?
 私を拒みたいなら拒むがいい。私のほうではあなたを拒まない。ついさきほど私は、
私の背中の
肉があなたの背中の肉と同じである
と言わなかったか? あなたを刺せば、私は出血せずにはいな
い。だからもし血を流したくないならば、言葉の剣を収めなさい。もし、あらゆる苦痛を閉め出した
いなら、私に心を開きなさい。
 言葉が罠と茨であるよりは、舌を持たないほうがはるかに幸いである。そして舌が〈聖なる理
解〉によって浄められていないかぎり、言葉は常に傷つけ罠にはめるだろう。
 仲間たちよ、私は命じる。自らの心を探究しなさい。その中にある障壁をすべて打ち壊しなさい。
あなたがたの〈私〉がいまだにくるまれている産着を脱ぎ捨てなさい。そうすればあなたがたの
〈私〉が〈神の言葉〉と一つであるのを見るだろう。〈神の言葉〉は永遠におのれ自身に安らぎ、あ
らゆる言葉がそこから生じる。

 このように私はノアに教えた。
 このように私はあなたがたに教える。

ナロンダ……………ここまで言ってミルダッドは、私たちすべてを極度に当惑させたまま、自分の
部屋に引き下がった。ほとんど圧倒されんばかりの沈黙がしばらく続いた後、同行者たちは散会し
始めた。各同行者は、去るときそれぞれにミルダッドに対する評価を下していった。
シャマダム……王冠を夢見る乞食だ。
ミカヨン……彼こそは密航者だ。彼は、「このように私はノアに教えた」と言わなかったか?
アビマール……糸のもつれた糸巻きだ。
ミカスター……別世界の天空に輝く星だ。
ペヌーソ……力強い精神の持ち主だが、数々の矛盾に陥っている。
ザモラ……我らの知らない鍵によって弦の張られた驚嘆すべき竪琴だ。
ヒトル……理解する耳を求めてさまよう言葉だ。




第七章
ミルダッドとの深夜の会見


ナロンダ……………第三の当直時間が二時間ばかり経った頃、部屋の戸が開きミカヨンが低い声で
私に囁きかけるのが聞こえた。
 「起きているかい。ナロンダ?」
 「今夜、眠りは私の部屋には訪れていないよ、ミカヨン」
 「私のまぶたにも眠りは安らいでいない。ところで彼だが、彼は眠っていると思うか?」
 「師のことかい?」
 「もう君は彼を師と呼ぶのか? あるいはそうかもしれない。彼が何者であるかをはっきりさせる
までは気持ちが落ち着かないんだ。今すぐ彼のところに行ってみよう」
 私たちはそっと部屋を脱け出し、師の部屋に忍び込んだ。蒼白い月光が壁の上方の高い小窓から
忍び入り、床の上にきちんと広げられた師の簡素な寝具を照らし出していた。その晩、人がそこで
横になった形跡がないのは明らかだった。私たちが探している彼は、いるはずの場所で見つけられ
なかった。
 当惑し、恥ずかしくなり、失望して引き返しかけていたとき、突然彼の優しい声が私たちの耳に
届いた。それから私たちの眼は、戸口にいる彼の優美な表情をとらえることができた。
ミルダッド……驚くことはない、落ち着いて腰を下ろしなさい。絶頂にある夜は、たちまちのうち
に夜明けへと溶解しつつある。
 この時間は溶解に都合がよい。
ミカヨン……(狼狽してどもりながら)私たちの侵入をお許し下さい。今晩はずっと眠れなかった
のです。
ミルダッド……眠りとはあまりに短い自己忘却だ。ごくわずかの眠りによって忘却を一匙すする
よりは、自己に没入し覚醒しているほうがよい。あなたがたはミルダッドに何を求めるのか?
ミカヨン……私たちがここに来たのは、あなたが誰なのかを知るためです。
ミルダッド……人とともにあれば、私は神。神とともにあれば、私は人。私か誰であるかわかった
か、ミカヨン?
ミカヨン……涜神をあなたは語っています。
ミルダッド……ミカヨンの神に対してはおそらくそうだろう。ミルダッドの神に対しては決してそんなこ
とはない。
ミカヨン……神が人と同じようにたくさんいるので、ミカヨンにとっての神とミルダッドにとって
の神を語らなければならないのですか?
ミルダッド……
神は多ではない。神は一である。しかしながら人の影は多様である。人が地上に影
を投げかけるかぎり、各人の神その影より偉大ではない。影なきもののみが全き光の中にいる。影
なきもののみが、一なる神を知る。というのも神は光であり、光のみが光を知ることができるのだか
ら。
ミカヨン……謎でもって私たちに語らないで下さい。私たちの理解力は、まだあまりに弱々しいの
です。
ミルダッド……影を引きずる者にとってはすべてが謎だ。そのため人間は借り物の光の中を歩み、
それゆえおのれの影に蹟く。〈理解〉に照らされるようになったとき、あなたはもはやいかなる影を
も投げかけなくなる。
 しかながら間もなくミルダッドはあなたがたの影を取り集め、太陽の下で焼き払うだろう。そう
なれば今あなたがたにとって謎であるものが、あまりにも明らかなるゆえに。いかなる説明も要し
ない光り輝く真実となって現れるだろう。
ミカヨン……あなたが何者なのか教えていただけませんか? あなたの名前―本名-、出身国、
先祖を知ることができれば、おそらくもっとあなたのことが理解できるでしょう。
ミルダッド……ああ、ミカヨンよミルダッドをあなたの鎖でしぼり、あなたのヴェールで覆おう
とするのは、鷹を強制的に卵の殼の中に戻そうとするようなものだ。いかなる名前が、もはや「殼
の中」にいない人間のことを示せるのか? 
いかなる国が、宇宙全体を包み込んでいる人間を包み
込めるのか? 
いかなる先祖が、神のみを先祖とする人間の先祖たりうるのか?
ミカヨン、私のことをよく知りたいのならば、まずミカヨンのことをよく知りなさい。
ミカヨン……おそらくあなたは、人間の衣をまとった神話なのでしょう。
ミルダッド……そう、いつの日か人々は言うだろう、ミルダッドは神話に過ぎなかったと。しかし
あなたがたはほどなく、この神話がいかに現実的であるかを知るだろう-人間のいかなる現実よ
りもはるかに現実的であることを知るだろう。
 今、世界はミルダッドに関心を抱いていない。ミルダッドは常に世界に関心を抱いている。間もな
く世界はミルダッドに関心を抱くようになるだろう。
ミカヨン……あなたはひょっとしたら、密航者なのですか?
ミルダッド……私は、妄想の大洪水の中を大胆に進むそれぞれの方舟にいる密航者だ。船長が助け
を呼ぶときにはいつでも舵を取る。あなたがたの心は、かなり前からそれとは知らず私に大声で呼
びかけていた。そして見よ、ミルダッドはここにいて、あなたがたが安全に船を進められるよう
舵を取っている。あなたがたはその代わりに、いまだかつてなかった最大の洪水の中で世界を導く
ために舵を取らなければならない。
ミカヨン……また洪水が起こるのですか。
ミルダッド……その洪水は、地上を洗い流すのではなく、地上に楽園をもたらす。人間の痕跡を消
し去るのではなく、人間の内なる神を露わにする。
ミカヨン……先の洪水の虹が薄らいでいったのは、ほんの少し前のことです。どうしてあなたは新
たな洪水のことを語るのですか。
ミルダッド……既に進行中のこの洪水は、ノアの洪水よりさらに破壊的だ。
 水に飲み込まれた大地は、春の予感に満ちている。熱を帯び、血で焼けただれた大地は、そうで
はない。
ミカヨン……それならば私たちは終末を待ち望むべきなのですか。というのも、密航者の到来は終
末のお告げだと聞かされているものですから。
ミルダッド……大地のことを恐れるな。大地は余りに若く、その乳は溢れんばかりだ。あなたが数
えられる以上の世代が、これからも大地の乳を吸って育つだろう。
 あるいはまた人間、すなわち大地の主人のことを恐れるな。なぜなら人間は不滅なのだから。
 そう、人間を消し去ることはできない。そう、人間は無尽蔵だ。彼は鍛冶場に人間として行くが、
神として出て来る。
 堅固であれ。準備をせよ。一旦満たされれば永久にあなたを満たし続ける聖なる渇望をあなたの
心が知覚できるよう、眼と耳と舌をしっかりと保ちなさい。
 欠乏している者を満たせるように、あなたは常に充溢していなければならない。浮き足立つ者や
弱者を支えられるように、あなたは常に強く堅固でなければならない。嵐に翻弄される漂流者をか
ばえるように、あなたは常に嵐に備えていなければならない。暗闇を歩く者を導けるように、あな
たは常に光り輝いていなければならない。
 弱者は弱者にとって重荷でしかない。しかし強者にとって弱者は楽しい負担だ。弱者を探し求め
なさい。彼らの弱さがあなたの強さだ。
 飢えた者にとって飢えた者は飢えでしかない。しかし満ち足りた者にとって飢えた者は歓迎すべ
き支出だ。飢えた者を探し求めなさい。彼らの欠乏があなたの充溢だ。
 盲人にとって盲人は蹟きの石でしかない。しかし見者にとって盲人は一里塚だ。盲人を探し求め
なさい。彼らの暗闇があなたの光だ。
ナロンダ……………このとき、トランペッ卜が鳴り響いて朝の祈祷の時間を告げた。
ミルダッド……ザモラのトランペッ卜は来るべき日には別の奇蹟を告げ知らせるだろう。その奇
蹟は、着席と起立を繰り返すこと、腹を満たしては空にし、無駄な言葉で舌を磨き、しないほうが
ましな行為を多くしながら、する必要がある行為をしないことに、あなたがたを飽き飽きさせるだ
ろう。
ミカヨン……それなら私たちは祈祷に行かない方がよいのですか?
ミルダッド……行きなさい。教えられたとおりに祈りなさい。とにかく祈りなさい、何を求めて
祈ろうが構わない。行きなさい。あなたがたが
自己に教え、自己に命令し、いかなる言葉をも祈り
となし、いかなる行為をも献身となすことを学ぶまでは、
命ぜられたことをすべてやりなさい。心
安らかに行きなさい。ミルダッドはあなたがたの朝食が豊かで美味であるよう取り計らわなければ
ならない。



第八章
鷹の巣と土竜の穴



ナロンダ……………その日ミカヨンと私は朝の祈祷に行かなかった。私たちの欠席に気づいたシャ
マダムは、私たちが夜ミルダッドを訪ねたことを知っていたので、ひどく機嫌を悪くした。しかし
彼は別の機会を待ち、その場では自らの不機嫌を表さなかった。
 他の同行者たちは、私たちの振る舞いにいたく興味を抱き、朝の祈祷に欠席した理由を知りた
がった。師が祈祷に反対するよう私たちに吹き込んだと考える者もいた。師が私たちだけに正体を
明かすために深夜、呼び寄せたのだと言って、師の正体に関して好奇心に満ちた推量を働かせる者も
いた。誰一人として彼が密航者だと信じる者はいなかった。しかし誰もが彼に会って訊ねたいこと
が多くあると考えていた。
 師は〈方舟〉の仕事から解放されると、〈黒淵〉に面した小さな洞窟で過ごすのを常としていた。
その洞窟は私たちの間で〈鷹の巣〉として知られていた。シャマダムを除く私たち七人は、その日
の午後ミルダッドを探してそこに赴き、深く瞑想している彼を見つけた。彼の顔は輝いており、眼
を上げて私たちを見たとき、その輝きはさらに増した。
ミルダッド……なんともすばやくあなたがたは自らの巣を見出した。ミルダッドはあなたがたのた
めに喜ぶ。
アビマール……〈方舟〉が私たちの巣です。どうしてこの洞窟を私たちの巣だと言うのですか。
ミルダッド……〈方舟〉はかつて〈鷹の巣〉だった。
アビマール……では今は何なのです?
ミルダッド……土竜の穴だ、ああ
アビマール……八匹の幸せな土竜とともに九匹目のミルダッドがいるわけですね?
ミルダッド……嘲弄するのは易しい。理解するのは困難だ。
 しかし嘲弄は常に嘲弄者を嘲弄してきた。なぜ舌を無駄に動かすのか?
アビマール……私たちを土竜と呼んで嘲弄したのはあなたの方です。なぜ私たちがそのような名称
に値するのですか。私たちはノアの炎を燃やし続けてきたではありませんか。かつては少数の乞食
が住むあばらやだったこの〈方舟〉を、最も豊かな宮殿よりも豊かにしたではありませんか。〈方
舟〉の支配権をはるかに拡げ、強大な王国となるまでにしたではありませんか。もし、私たちが土竜
なら、実際私たちは穴掘りの王ということになるでしょう。
ミルダッド……ノアの炎が燃えているのは祭壇だけだ。あなたがた自身が祭壇でなければ、そして
あなたがたの心が薪と油でないならば、祭壇に炎が燃えていたところで何になろう?
 この〈方舟〉は今や金銀が荷重になり過ぎている。それゆえこの〈方舟〉はきしんでひどく傾き、
今にも倒れそうだ。ところが母なる方舟は、〈生命〉に満ち溢れ、死せる重石を持たなかった。それ
ゆえ洪水は方舟に対して無力だった。
 私の同行者たちよ、死せる重石に気をつけなさい。おのれの神性への確たる信念を持つ者には、
すべてが死せる重石になる。彼は世界を自らのうちに保つが、その重みは持ち運ばない。
 私はあなたがたに言う、金銀を投げ捨てなければ、金銀にどん底にまで引きずり降ろされるだろ
う。というのも人間は、所有するすべてのものに所有されるのだから。事物につかまれたくないな
らば、事物をつかむ手を放しなさい。
 いかなるものにも値段をつけるのをやめなさい。というのも、最もありきたりのものに値段はな
いのだから。あなたがたはひときれのパンに値をつける。ならばなぜ太陽、空気、大地、人間の汗
と技に値をつけないのか? それらなしではひときれのパンもありえないのに?
 自分の生命に値段をつけたくないならば、ものに値段をつけるのをやめなさい。人間の生命は、
人間が大事にするいかなるものよりも貴い。値段のない自分の生命を、金銭と同じ次元に置くほど
安く扱わないよう注意しなさい。
 あなたがたは〈方舟〉の支配権を何マイルも拡げた。しかしたとえその支配が大地全体を覆った
としても、あなたがたは閉じ込められ限界づけられたままだ。ミルダッドはあなたがたに、無限を
囲み覆ってもらいたい。海は大地に保たれた水滴に過ぎないのに、大地を囲み覆っている。海が人
間よりも無限に広大だろうか。人間を頭から爪先まで測量して、その限界を見つけたと思うほど幼
稚であってはならない。
 あなたがたは、アビマールが言ったように、穴掘りの王かもしれない。しかしそれはあくまで、
暗闇で労働する土竜としてである。土竜が努力して自分の迷宮を掘れば掘るほど。その顔は太陽か
ら遠ざかっていく。アビマール、私はあなたの迷宮を知っている。あなたの言うように、あなたが
たは少数だ。あらゆる世間の誘惑を断ち、神に身を捧げていると自分では思っているかもしれない。
しかし、あなたを世間と結びつける道は暗く曲がりくねっている。あなたの情欲が、この神の祭壇の
上でジュージューとうなりながらのたくっているのが私に聞こえないというのか? あなたの妬み
がくねくねと這い回っているのが私に見えないというのか? 
あなたがたは少数かもしれない。し
かし、その少数の中になんと多くの群集がいることか!

 もしあなたがたが、自分で言うように実際に穴掘りの王ならば、ずっと前から大地を通る穴だけ
でなく、なおその上に太陽を通る穴、そして天空を回る他のすべての星を通る穴をも掘っていなけ
ればならないはずだ。
 土竜には鼻と爪で暗闇を通る道を掘らせておきなさい。あなたがたは王道を見出すのに瞼さ
え動かす必要はない。この巣に坐り、
〈想像力〉を働かせなさい。〈想像力〉が驚嘆すべき宝への神聖なる導き手だ。驚嘆すべき宝とは、あなた自身の王国である人跡未踏の存在だ。大胆で恐れのない心をもってその導きに従いなさい。〈想像力〉が印した足跡がたとえ最も遠い星にあっても、それはあなたが既にそこに到達しているというとの徴であり証しだ。
というのもあなたがたのうちにあるもの、あるいはあなた方の一部であるものしか、あなた方は想像
できないのだから。
 
木はその根より遠くへ広がることはできない。ところが人間は無限に広がることができる。なぜ
なら人間は永遠に根ざしているのだから。
 がどこであろうと、そこが神と出逢うところになるまで広がりなさい。広がりなさい。広がり
なさい!
 自己に限界を設けるのを止めなさい。
自分のいない領域がなくなるまで広がりなさい。


自分がたまたまいるところがどこであろうとも、そこが全世界となるまで拡がりなさい。
自分自身と出逢うところがどこであろうとも、そこが神と出逢うところになるまで拡がりなさい
拡がりなさい
拡がりなさい!!

暗闇を見通しの効かない覆いと信じて、暗闇で行為するのをやめなさい。暗闇で目が効かない人
間に対して恥じないのならば、少なくとも蛍と蝙蝠に対して恥じなさい。
 私の同行者たちよ、暗闇は存在しない。存在するのは、世界のおのおのの生き物の必要に応じて
段階づけられる明るさの度合だ。あなたがたにとって明るい日中が不死鳥にとっては薄明だ。あな
たがたにとっての真夜中が蛙にとって明るい日中だ。もし暗闇そのものが見出せたとしても、どう
してそれが何かの覆いでありえようか?
 何物にも覆いをかけようとしてはならない。あなたの秘密を暴くものが他になくとも、その覆い
そのものが秘密を暴く。蓋は壷の中に何があるかを知らないだろうか? 蛇と虫に満ちた壷の蓋が
開けられるときはわざわいである。                            。
 私はあなたがたに言う、いかなる息も胸から吐き出されるときに、必ずその胸の内奥にあるもの
を広く告げ知らせると。いかなる眼差しも必ずその眼のすべて、つまりその欲情と恐れ、笑いと涙
を携えている。扉から入ってくるいかなる夢も必ず他のすべての扉を叩いている。それならばあな
たがたは、いかに見るかということに配慮すべきだ。どの夢を扉の中に招き入れ、どの夢をやり過
ごすべきかに配慮すべきだ。
 しかしながら、もしあなたがたが配慮と苦痛から解放されたいのならば、ミルダッドは喜んでそ
の道を示そう。




第九章
苦痛なき生への道


ミカスター……私たちに道を示して下さい。
ミルダッド……これが配慮と苦痛から解放される道だ。
 考えるときには、あたかも考えることすべてが炎で空に刻み込まれ、ありとあらゆる物に注視されて
いるかのように考えなさい。というのも真実はそのとおりなのだから。
 語るときには、あたかも全世界が、心にあなたの語ることを聞こうとしている一つの耳であるかのように語
りなさい。そして真実はそのとおりである。
 行うときには、あたかもすべての行いが自分自身に振りかかってくるかのように行いなさい。そして真実は
そのとおりである。                            。
 願うときには、あたかもあなた自身が願いであるかのように願いなさい。そして真実はそのとおりである。
 生きるときには、あたかも神自身が生きるためにあなたを必要としているかのように生きなさい。そして真
実はそのとおりである。
ヒンバル……ミルダッドよどれだけの間私たちを面喰らわせたままにしておくのですか。あなたが私た
ちに語ったようなことは、かつていかなる人も、いかなる本も語ったことがありません。
ペヌーソ……私たちがどういう耳であなたの言うことを聞けばよいかわかるために、あなたが何者
なのか宣言して下さい。もしあなたが密航者なら、その証拠を示して下さい。
ミルダッド……よく言った、ペヌーソ。あなたがたはあまりに多くの耳を持っている。だからあな
たがたは聞くことができないのだ。聞いて理解するただ一つの耳を持っていれば、いかなる証明も
必要としないだろう。
ベヌーソ……密航者は世を裁くために来るはずです。そして〈方舟〉の私たちは、彼とともに裁判
官の席に坐るはずです。私たちは〈審判の日〉に備えるべきでしょうか。




第十章
裁きと審判の日


ミルダッド……私の口に裁きはなく、あるのは〈聖なる理解〉だけだ。私が来たのは世を裁くため
ではなく、世を裁きから解放するためだ。〈無知〉のみが法衣と法冠に身をくるみたがる。〈無知〉
のみが法を設け、罰したがる。
 〈無知〉の最も苛酷な裁きは、〈無知〉それ自身だ。人間を考えてみるがいい。人間は、無知の中
で自らを二つに引き裂き、自分自身と、自らの分割された世界を形成しているすべての事物に、死
を招き寄せているのではないか?
 
私はあなたがたに言うが、神と人があるのではない。あるのは神人、あるいは人神だ。あるのは
〈一つ〉だ。いかに多くなろうと、いかに分割されようと、あるのは永遠に〈一つ〉だ。       

  神が一つであることが神の永遠の法だ。その法はそれ自身で強制力を持っている。いかなる法廷
 や裁判官も、その法を印刷して世間に広める必要もなければ、権威と力でその法を擁護する必要も
ない。宇宙-見える宇宙と見えない宇宙―は、聞く耳を持つすべての者にとって、この法を宣言する
単一の口に過ぎない。
海は広く深いけれども、一滴の滴ではないのか?                         
地球は、広大な空間を巡ってはいるか、一つの星ではないのか?
これと同様に人類もまた単一の人間だ。
あらゆる世界に住まう人間もまたこれと同様に完全な単一性である。

 
私の同行者たちよ、神の単一性が存在の唯一の法だ。この法の別名は〈愛〉。
この法を知り、この法によって暮らすことは、〈生命〉に住まうこと。
しかし他の法によって暮らすことは、非存在、あるいは〈死〉に住まうことである。
 〈生命〉は取り集めること。〈死〉はまき散らすこと。〈生命〉は一緒に結びつけること。〈死〉は
ばらばらにすること。それゆえ人間一二元論者―は、二者の間でぶら下げられている。という
のも人間は、まき散らすことによってのみ、取り集めようとするからであり、引き離すことによっ
てのみ、結びつけようとするからである。取り集め。結びつけることによって人間は、〈法〉のうち
にとどまる。〈生命〉がその報酬。まき散らし、引き離すことによって人間は、〈法〉に逆らい罪を
犯している。〈死〉がその苫い報い。
 それなのに自分自身有罪であるあなたがたが、同じように既に有罪である者を裁くために裁判官
席に坐りたいというのか。裁判官とその裁きはなんと恐ろしいことだろう!
 まことに、二人の死刑囚が互いに絞首刑を宣告し合っているよりも恐ろしい。
 一つの軛につながれた二匹の牡牛が、互いに「この柘でおまえをぶちのめしてやる」と言い合っ
ているよりも滑稽だ。
一つの墓に埋葬された二人の死人が、互いに自分の墓に寄せられた呪誼を交換しているよりもお
ぞましい。
一人の全盲の男が互いの眼をくり抜こうとしているよりもあさましい。
同行者だちよ、いかなる裁判官の席も遠ざけなさい。というのも、何者か、あるいは何物かに対
して裁きを下すためには、〈法〉を知り、それに従って安逸に暮らしているだげでは不充分だからで
ある。それだけでなく、なおその上に証拠にも耳を傾けなければならない。当面する事件に関して、
証人として誰に耳を傾けるつもりなのか?
法廷に風を証人として呼び出すつもりか? なぜなら空の下のあらゆる出来事は、風が援助し幇
助しているのだから。
 あるいは星々を召喚するつもりか? なぜなら星々は、世界の中で起こるあらゆる出来事に通じ
ているのだから。
 あるいはアダム以降今日までの死者たちに召喚令状を送るつもりか? なぜなら死者たちはすべ
て生ある者の中で生きているのだから。
 いかなる事件であれ、証拠を完全に集めるには、宇宙が証人にならなければならない。もし宇宙
を法廷に呼び出せるのなら、いかなる法廷も必要ない。あなたは裁判官の席から降りて、証人に裁
判をしてもらうだろう。
 
すべてを知ったとき、あなたは誰も裁かないだろう。
 諸々の世界で取り集めることができるとき、あなたはまき散らす人々に誰一人として有罪を宣告
しないだろう。というのもあなたは、まき散らすことはまき散らす者自身に有罪を宣告していると
知っているのだから。自らを有罪にしている者に罪を宣告する代わりに、あなたはその人を罪から
救い出そうと奮闘するだろう。
 今や人間は、自分で押しつけた重荷のあまりの重さに押し潰されそうだ。人間の道はあまりにも
荒れ果て、歪んでいる。いかなる裁きも、裁く者・裁かれる者の両者に同様に重荷をつけ加えてい
る。もし重荷を軽くしたいのなら、人間を裁くことから身を引きなさい。もし重荷がひとりでに消
え失せることを願うなら、〈言葉〉に浸されて永遠に〈言葉〉の中に失われてしまいなさい。進む道
がまっすぐで滑らかであることを願うなら、〈理解〉を歩みの導き手としなさい。
 私か語るのは、裁きではなく、〈聖なる理解〉だ。
ペヌーソ……〈審判の日〉についてはどうなのですか。
ミルダッド………ペヌーソ、毎日毎日が〈審判の日〉だ。おのおのの生き物の出納簿は、毎瞬毎瞬精
算されている。何も隠されてはいない。何も測られないままではいない。
 
いかなる思考、いかなる行為、いかなる願いであろうと、思考者、行為者、願い手に記録されな
いものはない。いかなる思考、いかなる行為、いかなる願いであろうと、世界にあって実りなく終
わることはない。それらすべては、必ずその特性と本性にしたがってなんらかの形で実を結ぶ。神
の〈法〉のうちにいる者は〈生命〉を取り集める。神の〈法〉に反する者は〈死〉を取り集める。

 ベヌーソ、あなたがたの日々はそれぞれに異なっている。ある日々は清澄だ。その日々は、正し
く生きられた時間の収穫だ。
 ある日々は雲に取り囲まれている。その日々は、半分〈死〉に眠り、半分〈生命〉に目覚めてい
た時間の贈り物だ。
 別の日々は、眼には雷光、鼻孔には雷鳴をもって、嵐にまたがってあなたを襲撃する。あなたは
上から打ちのめされ、下から鞭打たれ、右へ左へと放り投げられる。大地に這いつくばらされ、塵
芥を砥めさせられ、生まれてこないほうがよかったと思わせられる。そのような日々は、〈法〉に強
情に逆らった時間の結実だ。
 世界もこれと同様だ。既に空を横切った影は、大洪水を告げ知らせた徴と同様に不吉だ。目を開
けて見るがいい。
 南風に乗った雲が北に向かっているのを見ると、あなたがたは雨が来ると言う。どうして人間の
雲の漂泊を、それと同じくらい賢く観測できないのか? そのとき人間がいかにすばやく網にから
め取られるかわからないのか?
 からめ取られた状態から人間が脱する日は目前だ。その日はなんと恐ろしいことだろう!
 心と魂の血管によって人間は、見よ、何世紀にもわたって、網を紡いできた。人間がその網を引
き裂いて自由になるためには、彼の肉体そのものが引き裂かれねばならない。彼の骨そのものが砕
かれればならない。そしてそれを行うのは人間自身だ。
 蓋が開けられたとき-そうなるのは確かだ-、壷が中のものを何であれすべて吐き出すとき
そうなるのは確かだ,人間は自分の恥をどこに隠そうとするのか? どこに彼らは逃れよう
とするのか?
 その日、生者は死者を羨み、死者は生者を呪うだろう。その日、人間の言葉が喉を突き刺し、眼
の光はまぶたの上で凍るだろう。心から現れ出た骸骨と毒蛇に、人間たちは恐れおののいて叫ぶだ
ろう。「この骸骨と毒蛇はどこから来たのだ?」と。自分たちが心に骸骨と毒蛇を住まわせ、飼育し
てきたというのに。
 目を開けて見るがいい。まさにこの〈方舟〉の中で、沈み行く世界のためののろしとして仕事に
取りかかりなさい。世界にはあなたがたがなんとか切り抜けられる以上の泥沼が存在する。もしの
ろし自体が罠になるならば、海にいる者の状況はなんと悲惨だろう。

 ミルダッドは、あなたがたに新しい方舟を作ってもらいたい。まさにこの巣においてミルダッド
はそれを築き上げるだろう。この巣から飛び立つあなたがたは、人間にオリーブの枝ではなく、無
尽蔵の〈生命〉をもたらすだろう。そのためにはあなたがたは〈法〉を知り、それを遵守しなけれ
ばならない。
ザモラ……どうすれば私たちは、〈法〉を知り遵守することができるのですか。






第十一章
愛は生命の樹液、憎悪は死の膿


 ミルダッド……
〈愛〉が神の〈法〉である。
あなた方が生きているのは、愛することを学ぶため

あなた方が愛するのは生きることを学ぶため
人間には他の如何なる授業も必要ない
そして愛することとはなんだろうか
愛する者が、愛する相手に永遠に吸収されて、二者が一体と
なるのでなければ?

そして愛する者は、誰を、あるいは何を愛するのだろう? 〈生命の樹〉に繁るある葉を選んで、
その葉に心のすべてを注ぎ込むのか? 葉を繁らせている枝はどうなるのか?枝を支える幹は
どうなるのか? 幹を覆う樹皮はどうなるのか? 樹皮。幹、枝。そして莱を養う根はどうなる
のか? 根を養育する土はどうなるのか? 土を肥沃にする太陽や海や空気はどうなるのか?
 樹のある小さな葉が愛するに値するなら、樹の全体はそれよりはるかに愛するに値するはずでは
ないか。
全体から断片を切り出す愛は、悲しみに終わるようあらかじめ定められている。
 あなたがたは言うだろう、「でも一つの樹には何枚も何枚も葉があります。元気な葉もあれば、病
んだ葉もあります。美しい葉もあれば、醜い葉もあります。大きい葉もあれば、小さい葉もありま
す。どうしてある葉を取り出して選ばずにいられましょうか」
 私はあなたがたに言う。病めるものの蒼白さから健康なものの新鮮さが生じるのだと。さらに進
んであなたがたに言う。醜さは〈美〉のパレッ卜、絵の具、絵筆であると。小人が小人なのは、そ
の背丈を巨人に与えるからであると。
あなたがたは生命の樹である。
自分自身を細分化しないように気をつけなさい。

果実に対して果実を対抗させ、葉に対して葉を対抗させ、枝に対して枝を対抗させないようにしなさい。
幹に対して根を対抗させないようにしなさい。樹に対して母なる土壌を対抗させないようにしなさい。
あなたが、ある部分を他の部分より愛するとき、あるいは他の部分を排除してある部分を愛するとき、
まさにこれと同じことをしている。

 あなたがたは〈生命の樹〉である。あなたの根はあらゆるところにある。あなたの枝と葉はいた
 るところにある。あらゆるものの口にあなたの果実がある。その樹に実をつける果実がいかなるも
 のであろうと、それはあなたの果実だ。その樹の枝と葉がいかなるものであろうと、また根がいか
 なるものであろうと、それはあなたの葉であり、あなたの枝であり、あなたの根だ。もし樹に甘く
 香ばしい果実を実らせたいならば、またもし樹が常にたくましく青々としていることを望むならば、
 あなたが根に与える樹液に注意しなさい。
  〈愛〉が〈生命〉の樹液だ。一方〈憎悪〉が〈死〉の膿だ。しかし〈愛〉は血液と同様に、妨げ
 られることなく血管を循環しなければならない。血液は、循環を抑制されると、危険な疫病となる。
 そして〈憎しみ〉は、抑圧され抑制された〈愛〉に他ならない。それゆえ〈憎しみ〉は、与える者
 ・受ける者の両者、すなわち憎む者・憎まれる者の両者に、かくも猛毒となる。
  生命の樹の病葉は、〈愛〉から引き離された葉に過ぎない。病葉を非難してはならない。
  しなびた枝は、〈愛〉に飢えた枝に過ぎない。しなびた枝を非難してはならない。
  腐った果実は、〈憎悪〉を吸った果実に過ぎない。腐った果実を非難してはならない。非難するな
 らむしろ、生命の樹液をごく一部にだけ施し、他の多くのものには施そうとしない、盲目でけちな
 あなたの心を非難しなさい。あなたの心はそうすることで、自らにも生命の樹液を拒んでいる。
自己への愛がなければ、如何なる愛も不可能である。
如何なる自己も、すべてを包み込む「自己」でなければ本物ではない
それゆえ神は全き愛。なぜなら神は神自身を愛するのだから。

〈愛〉に苦しめられているかぎり、あなたは本当の自己を見出していない。あるいはまた、〈愛〉
の黄金の鍵も見出していない。あなたが愛するのがはかない自己であるがゆえに、あなたの愛はは
かないのだ。
 男が女を愛するのは、愛ではない。それは愛の、はるかに遠いしるし。親が子を愛するのは、
〈愛〉の聖なる寺院の入口に過ぎない。それぞれの男性がすべての女性の恋人となり、それぞれの女
性がすべての男性の恋人となるまでは、そしてそれぞれの子がすべての親の子となり、それぞれの
親がすべての子の親となるまでは、男たちや女たちに自分の骨と肉の自慢をさせ、骨と肉にしがみ
つかせるがよい。しかし神聖なる〈愛〉の名を語らせてはならない。それは冒涜なのだから。
一人でも敵が数えられる間は、いかなる友も持つことはできない。敵意に錨する心がいかにして
友情の安全な住処となりうるのか?
 心に憎悪がある間は、〈愛〉の喜びを知ることはできない。〈生命〉の樹液をあるちっぽけな虫以
外のすべてに注いだとしても、たった一匹のちっぽけな虫があなたの生命を苦くするだろう。
あな
たが誰かあるいは何かを愛するとき、本当は自分自身を愛しているに過ぎない。同様に、誰かある
いは何かを憎むとき、本当は自分自身を憎んでいるに過ぎない。というのもあなたが憎むものは、
同じ硬貨の表と裏のように、分かちがたくあなたが愛するものと結びついているのだから。

もしあなたが自分自身に正直であるのなら、自分が愛する者を愛し、自分を愛する者を愛するより
先に、自分が憎む者を愛し、自分を憎む者を愛さねばならない。
〈愛〉は美徳ではない。〈愛〉は必要不可欠なもの。〈愛〉は、パンと水よりはるかに必要不可欠、
光と空気よりはるかに必要不可欠だ。
 誰も、愛していることを誇ってはならない。そうではなく、むしろ空気を吸い込み吐き出してい
るのとちょうど同じように、意識せずおおらかに〈愛〉を吸い込み吐き出しなさい。
 というのも、〈愛〉は誰からも高められる必要がないのだから。〈愛〉は、自分の見出したふさわ
しい心を高める。
 いかなる〈愛〉の報酬も求めてはならない。〈愛〉はそれ自身で充分な報酬だ。〈憎しみ〉がそれ
自身で充分な罰であるのと同じく。
 いかなる〈愛〉の出納簿もつけてはならない。なぜなら〈愛〉は自身にしか収支を明かさないの
だから。
 〈愛〉は借りもせず貸しもしない。〈愛〉は売りもせず買いもしない。〈愛〉が与えるとき、すべ
てを与える。〈愛〉が奪うとき、すべてを奪う。〈愛〉にあっては、奪うことそのものが与えること。
与えることそのものが奪うこと。それゆえ〈愛〉は、今日も明日も、そして永遠に同じだ。
 海に自らを注ぎ込んでうつろにする大河が、常に海によって再び満たされるのとちょうど同じよ
うに、あなたがたは自分自身を〈愛〉の中でうつろにしなけれぼならない。そのことによって。あ
なたがたは常に〈愛〉に満たされる。海への贈り物を手放すまいとする池は、淀み濁ってしまう。
〈愛〉に「より多く」や[より少なく]はない。〈愛〉を測量し段階づけようとする瞬間、〈愛〉
はひそかに去り、後に苦い思い出を残すことになる。
また、〈愛〉には「今」とか「あの時」、「ここ」とか「そこ」はない。あらゆる季節が〈愛〉の季
節だ。あらゆる場所が〈愛〉にふさわしい住処だ。
〈愛〉はいかなる境界も柵も知らない。なんらかの障害物によって流れが阻まれる愛は、いまだ
〈愛〉の名に値しない。
しばしばあなたがたが〈愛〉は盲目であると言うのを聞く。それは、〈愛〉が愛する相手の欠点を
見えなくすると言わんがためである。この種の盲目性は、高次の視力だ。
いかなるものにも欠点を見ないほどあなたがたが常に盲目であればよいのに。
違う、(愛〉の眼差しは澄みわたり透徹している。それゆえ〈愛〉の眼差しはいかなる欠陥も見ない。

〈愛〉があなたの眼差しを浄化したとき、愛するに値しないものをあなたはまったく見ないだろう。

愛が奪い取られ、欠陥のある眼のみが常にあら探しに忙しい。その眼がいかなる欠陥を見つけよう
とも、それは眼自身の欠陥だ。
〈愛〉は統合する。〈憎悪〉は分解する。オルター山と呼ばれる巨大で重々しい土と岩の塊も、
〈愛〉の手によってつなぎ合わされていなければ、たちまちばらばらに飛散してしまうだろう。外見
通り脆く壊れやすいあなたの肉体でも、もし、それぞれの細胞をあなたが等しい熱情をもって愛する
なら、確実にそれは分解にあらがうだろう。
(愛〉は〈生命〉のメロディーとともに脈打つ平安。〈憎悪〉は〈死〉の魔風とともに猛り狂う戦
争。どちらをあなたは望むのか。愛し、永遠の平安のうちにいることか? それとも憎み、終わり
のない戦争に身を置くことか?
大地全体があなたの中で生きている。「天国」とその宿主たちがあなたの中で生きている。だから
もし自分自身を愛したいなら大地とその乳飲み児すべてを愛しなさい。そしてもし自分自身を
愛したいのなら、〈天国〉とその客すべてを愛しなさい。

アビマール、なぜあなたはナロンダを憎むのか?
ナロンダ……………師の声と思考の流れが突然に変わったので、私たち全員は不意をつかれた。ア
ビマールと私は、自分たちの不和についてかくもあからさまな質問を受けて、驚愕のあまり口が利
けなかった。というのも、二人の間の不和は、注意深く他の同行者には隠してきており、誰にも悟
られていないと信じるに足る充分な理由もあったからである。全員が驚愕のうちに私たち二人を注
視し、アビマールが口を開くのを待った。
アビマール……(私に非難の眼差しを向けながら)ナロンダ、おまえ、そのことを師に告げたの
か?
ナロンダ……………アビマールが「師」と言ったとき、私の心は喜びにとろけた。なぜなら、ミル
ダッドが自分の正体を明かして間もなく、私とアビマールは、その言葉をめぐって意見を違えたか
らである。私は、ミルダッドは人々の眼を開かせるためにやって来た教師だと主張したのに対し、
アビマールは、彼は普通人に過ぎないと言い張った。
ミルダッド……アビマール、ナロンダを猪疑の眼で見るのはやめなさい。彼はあなたの非難には潔
白だ。
アビマール……誰があなたに教えたのですか。あなたは人の心が読めるのですか。
ミルダッド……ミルダッドは、いかなるスパイも翻訳者も必要としない。ミルダッドがあなたを愛
するのと同じように、あなたがミルダッドを愛しさえすれば、あなたは簡単にミルダッドの精神を
読み取り、その上ミルダッドの心さえ覗くこともできよう。
アビマール……目と耳が閉ざされていた私を許して下さい、師よ。私の眼と耳を開かせて下さい。
私は見ることと聞くことを心から望みます。
ミルダッド……〈愛〉が唯一の奇蹟のなし手だ。もし見たいのならば、瞳孔に〈愛〉をあらしめよ。
もし聞きたいのならば、鼓膜に〈愛〉をあらしめよ。
アビマール……でも私は誰も憎んでいません。ナロンダでさえ憎んでいません。
ミルダッド……
憎まないことが愛することではない、アビマール。〈愛〉は能動的な力だ。〈愛〉が
動きと歩みのすべてを導かないかぎり、自分の道を見いだすことはできない。そして〈愛〉が願い
と思考のすべてを満たさないかぎり、願いは夢の中で刺草となり、思考はあなたの日々の挽歌とな
るだろう。

 今や私の心は竪琴。私は歌いたくなった。ザモラよ、あなたの竪琴はどこにあるか?
ザモラ……行って取って来ましょうか、師よ?
ミルダッド……行きなさい。
ナロンダ…ザモラはすぐ立ち上がって、竪琴を取りに行った、残りのものは極度に当惑
して互いを見合い、沈黙を守った。
 ザモラが竪琴を手に戻って来ると、師は優美にそれを受け取り、優しく抱きかかえ、注意深く弦
を調整した。それから竪琴を奏で歌い始めた。
ミルダッド……
神を船長にいただき、出帆せよ方舟!
地獄が真紅の怒りを
生者と死者の上に打ち下ろし
大地を溶けた鉛に変え
空からあらゆる指標を一掃しようとも
神を船長にいただき、出帆せよ方舟!
愛を羅針盤となし、進めよ方舟!
北に南に、東に西に進み行き
しまわれた宝をすべて分かちあえ
猛り狂う嵐が絶頂であなたを包むとき
暗闇の航海者を導く一条の光
愛を羅針盤となし、進めよ方舟!
信念を錨となし、停泊せよ方舟!
雷鳴がうなり、雷光が射られ
山々が震えて瓦解しようとも
聖なる火花を忘却するほど
人の心が弱々しくなろうとも
信念を錨となし、停泊せよ方舟!・
ナロンダ……………師は歌い終え、愛に我を忘れた母親が幼な子を胸に抱擁するように、竪琴を抱
擁した。竪琴の弦は、もはや震えていなかっだのに、「神を船長にいただき、出帆せよ方舟!」と鳴
り響きやまなかった。師の唇は、閉ざされていたのに、その声は〈鷹の巣〉全体にしばらく反響し、
波となって峨々たる山頂付近にまで漂って行った。それは、下方の丘や谷にまで、遠くのざわめく
海にまで、そして頭上の青い天蓋にまで漂って行った。
 その声には、星のシャワーと虹があった。その声には、さざめく風と歌に酔いしれるナイチン
グール、震えと微風がともにあった。その声には、露を孕んだ柔らかい霧に包まれた波打つ海が
あった。あたかも創造物全体が、感謝に満ちた喜びのうちに、この歌に耳をそばだてているかのよ
うだった。
 さらに、あたかもミルキー山脈がオルター山を中心として突然大地から離れ、荘厳で力強く、お
のれの行路に確信をもって宇宙空間を漂い流れているかのように見えた。
 それから三日間、師は誰にも一言も語らなかった。



第十二章
創造的沈黙


ナロンダ……………それから三日が経ち、私たち七人は、あたかも逆らえない命令を受けたかのよ
うに、集まって〈鷹の巣〉に向かった。師は、私たちがやって来るのを充分心得ていたかのように、
私たちを出迎えた。
ミルダッド……いま一度ようこそ、あなたがたの巣へ、私の雛たち。ミルダッドヘのあなたがたの
思いと願いを語りなさい。
ミカヨン……私たちのただ一つの思い、ただ一つの願いは、ミルダッドのそばにいてミルダッドの
真実を感じ、真実を聞くことです。そうすればあるいは私たちも、ミルダッドのように影なき者に
なれるかもしれません。にもかかわらず、ミルダッドが沈黙していることは私たちを畏れさせます。
私たちは何かあなたを怒らせるようなことをしたでしょうか。
ミルダッド……私か三日間沈黙したのは、あなたがたを私から遠ざけるためではない。むしろあな
たがたを私自身に引き寄せるためだ。私を怒らせることについては、〈沈黙〉のあらがえない平安を
知る者は誰であろうとも、怒ることもできないし、怒らせることもできない。
ミカヨン……語るより沈黙するほうがよいのですか。
ミルダッド……
語りは最善でも正直な嘘だ。一歩沈黙は最悪でも露わな真実だ
アビマール……ミルダッドの言葉でさえ、正直ではあっても嘘に過ぎないのですか。
ミルダッド……そうだ、ミルダッドの言葉さえも、おのれの私がミルダッドの私と同じでないものにとっ
ては嘘に過ぎない、あなたの思考がすべて一つの採掘場から切り出され、あなた方の欲求がすべて
同一の井戸から汲み出されるようになるまでは、あなたがたの
言葉は正直であっても嘘だ。
ミルダッドの〈私〉と神の〈私〉が一つであるのとちょうど同じように、あなたがたの〈私〉が
ミルダッドの〈私〉と一つであるとき、私たちは言葉抜きに、真実に満ちた〈沈黙〉のうちに完全
に協和するだろう。
 あなたがたの〈私〉がミルダッドの〈私〉と同じでないがゆえに、私はやむを得ず言葉の戦いに
乗り出して、あなたがた自身の武器である言葉であなたがたを征服し。私の採掘場。私の井戸に導
こうとしているのだ。
 そうなって初めてあなたがたは世界に乗り出し、私があなたがたを征服し鎮圧したのとちょうど
同じように、世界を征服し鎮圧できる。そうなって初めてあなたがたは、〈至高の意識〉の沈黙へ
と、〈言葉〉の採掘場へと、〈聖なる理解〉の井戸へと、世界を導く準備が整う。
 ミルダッドに征服されて初めて、あなたがたは真に難攻不落で力強い征服者になるだろう。世界
もまた、あなたがたに打ち負かされて初めて、絶えざる敗北の不名誉を拭い去るだろう。
 だから戦いに備えなさい。楯と胸当てを磨き、剣と槍を研ぎなさい。〈沈黙〉に太鼓を打たせ、旗
も掲げさせなさい。
ペヌーソ……同時に太鼓の打ち手であり、旗の掲揚者である〈沈黙〉とは、一体どのような沈黙な
のですか。
ミルダッド……私があなた方に知ってもらいたい
沈黙は、そこで存在が非存在となり、非存在が存
在となる限りない広がりだ。その沈黙は畏怖させる虚空だ。そこではすべての音が生まれては打ち消され、全ての形ある物は創られては壊される。そこでは全ての自己が書かれては消される、そこにはそれ自身以外には何もない。

あなたは、この虚空、この広がりを沈黙の瞑想のうちに渡り切らなければ、あなたの存在がいか
に現実的なのか、また非存在がいかに非現実的なのかを知ることはない。あるいはまた、あなたの現実がいかにすべての〈現実〉と固く結びついているかを知ることもない。

 あなた方が古く窮屈な皮を脱ぎ捨てて、束縛も拘束もされずに動き回れるようになるために、私は
あなたがたに、この沈黙のうちを徘徊してもらいたい。

その沈黙へと、あなた方の心労や恐怖、情欲や欲求、羨望や煩悩を追いやってもらいたい。
そうすればそれらは一つまた一つと消えていき、あなた方の耳はそれらの絶えざる叫びから解放
され、あなた方の脇腹はそれらの鋭い拍車の痛みから免れるだろう。

 その〈沈黙〉へと、この世の弓矢を投げ捨ててもらいたい。その弓矢であなたがたは、満足と喜
びを狩猟しようと願っているが、実際には不安と悲しみ以外に何も狩猟できない。

 私は、その〈沈黙〉の中であなたがたに、暗闇と息詰まる自己の殼から、光へと、そして〈自
己〉の自由な空気へと、這い出てもらいたい。

 私があなたがたに薦めるのは、語り疲れた舌の単なる一時休止ではなく、このような〈沈黙〉で
ある。
 私が薦めるのは、ならず者や悪党の恐怖に満ちた沈黙ではなく、実り豊かな大地の沈黙。
 私が薦めるのは、卵を温める雌鳥の忍耐強い沈黙であり、別の雌鳥のように、卵を産んだことを
ガーガー鳴きわめくことではない。先の雌鳥は、十一日間、柔毛に覆われた自分の胸と翼に〈神
秘の手〉が奇蹟をもたらすと信じて沈黙のうちにじっと待つ。後の雌鳥は。小屋から飛び出し、自
分が卵を産んだことを騒々しくわめきたてる。
 仲間たちよ、わめきたてる美徳に気をつけなさい。恥に口をつぐむのと同様に、栄誉にも口をつ
ぐみなさい。わめきたてる栄誉は、沈黙する不名誉よりも悪い。騒々しい美徳は、押し黙る不正よ
りも悪い。
 
多く語るのをやめなさい。語られた千の言葉のうち、真に語られる必要があったのは一語、たっ
た一語だけかもしれない。他の言葉は、精神を曇らせ、耳を詰まらせ、舌を疲れさせ、そのうえ心を
盲目にしているに過ぎない。

 真に語られる必要がある言葉を語るのはなんと難しいことだろう!
 書かれた千の言葉のうち、真に書かれる必要があったのは一語、たった一語だけかもしれない。
他はインクと紙の浪費であり、光の翼で翔ぶ時間を与える代わりに鉛の足、を引きずる時間を与える。
 真に書かれる必要がある言葉を書くのはなんと、ああ、なんと難しいことだろう。
ベヌーソ……祈りについてはどうなのですか、師ミルダッドよ。祈りにおいて私たちは、あまりに
多くの言葉を語り、あまりに多くのものを求めるように教えられてきました。それなのに求めたも
のがかなえられることは滅多にありませんでした。





第十三章
祈りと理解


ミルダッド・・あなたが祈るとき、
おのれの真の自己以外の神に向けて祈るならば、その祈りは虚しい
なぜなら、あなたの中には、はねつける力があるのと同じく、引き寄せる力があるのだから。
そしてあなたの中に、あなたがはねつけたい事物があるのと同じく、引き寄せたい事物がある。
なぜなら、ある物事を受け取る能力があることは、それを与える能力もあるということなのだか
ら。
飢えがあるとき、食物がある。食物があるとき、そこには飢えもあるにちがいない。飢えの苦し
みに苛まれることは、満たされる幸福を楽しめるということだ。
そう、欠乏の中にこそ欠乏を満たすはたらきがある。
鍵は、錠があることの保証ではないか? 錠は、鍵があることの保証ではないか? 鍵と錠の両
者は、扉があることの保証ではないか?
鍵をなくしたり、置き忘れたりする度に性急に鍛冶屋に鍵をねだってはならない。鍛冶屋は仕事
をやりとげたのであり、それも申し分なくやりとげた。彼にもう一度同じ仕事を初めからするよう
頼んではならない。あなたは自らの仕事をなし、鍛冶屋は放っておきなさい。一旦あなたの仕事を
なしとげた鍛冶屋には、他になすべき仕事がある。あなたの記憶から悪臭と我楽多を取り除きなさ
い。そうすれば確実に鍵が見つかるだろう。

言い表せないものである神があなたを発語したとき、
神は自分自身をあなたの中に発語した。
したがってあなたもまた、言い表せないものである。


神は自分の一部をあなたに与えたのではないーなぜなら神は細分不可能なのだから。神は分割不可能で、語りえないおのれの全神性をあなたに与えた。これより偉大な相続物をあなたは望み
えようか? 
あなたがその相続物へ達するのを妨げているのは、あなた自身の小心と盲目以外の何
でありえよう?
 それなのに、自分の相続物に感謝し、それに達する道を求める代わりに、神を一種のごみ捨場に
して、その中に自分の歯痛や腹痛、商売での損失やもめ事、復讐や眠れぬ夜を投げ入れようとする
忘恩の徒がいる。
 神を専用の宝物殿にして、いつでも好きなときに、自分たちの欲するありとあらゆる世俗的で見
かけ倒しの小物類を、何でもそこに見つけることを期待する者もいる。
 かと思うと、神を一種のお抱え会計士にしようとする者もいる。神は、彼らが他人に負っている
もの、他人が彼らに負っているものの収支表をつけなければならないばかりか、その上彼らの負債
を集めて、常に彼らの得になるよう鷹揚で寛大な精算をしなければならない。
 そう、人間が神に割り当てる仕事は多種多様だ。しかしながら、もし本当に神がそんなにも多く
の仕事に携わっているとしたら、神はそれらの仕事を独力でやってしまうだろう。神にぐずぐず言
う人間や、神に仕事を思い出させる人間などを、神は必要としないだろう。こういうことに思いを
いたす者はほとんどいないようだ。
 昇る太陽、あるいは沈む月に、あなたは神を思い出すか?
 畑で元気に芽を出す玉蜀黍の粒に、神を思い出すか?
 自らの思いのままに隠遁所を紡いでいる蜘蛛に、神を思い出すか?
 雀の巣の雛たちに、神を思い出すか?
 無限の宇宙を満たす無数の事物に、神を思い出すか?
どうしてあなたは、ありとあらゆる取るに足らない欲求をもったおのれのちっぽけな自己を神の
記憶に押しつけようとするのか? 神の眼には、あなたは雀や玉蜀黍や蜘蛛より気にいられていな
いとでも言うのか? どうしてあなたは、大騒ぎしたりひざまずいたり腕を差し伸べたりせず、明
日のことを思いわずらったりもせず、それらと同じように、神からの贈り物を受け取って自分の仕
事に励まないのか?
 あなたが自らの気まぐれや虚栄、賞賛や非難を叫びつけねばならない
神はどこにいるのか?神
はあなたの内、そしてあなたの周りのあらゆるものの内にいるのではないか?神の耳は、舌と口
蓋の距離よりも、あなたの口に近いのではないか?

神にとっては、あなたが種子として持っている神の神性で充分だ。
 神はおのれの神性の種子をあなたに賦与したが、もし仮に、その種子に付き添って世話をするの
があなたではなく神だとすれば、あなたはどんな徳を持つことになるのか? あなたの人生での労
働はどうなるのか? そしてもしあなたに人生でなすべき労働がなく、神がそれをなさればならな
いならば、あなたの人生の意義は一体何なのか? あなたの祈りは何の役に立つのか?
 
あなたの抱える無数の心配事や希望を神のもとにもたらしてはならない。神が扉を開けるための
鍵をあなたに備えつけたのに、扉を開けてくれるよう神に懇願してはならない。そうではなく、鍵
を心の果てしない広がりの中に探しなさい。心の果てしない広がりの中には、善いものであれ悪い
ものであれ、あなたが渇望し懇願するものすべてがある。
 そこには、あなたの言うがままになる多くの軍勢が待機し、あなたのどんな些細な命令でも即座
に従う用意ができている。もし、その軍勢が、立派に装備され、賢明に訓練され、大胆に指令される
ならば、それは、永遠の時を超え、あらゆる障害を振り払って目標に達することができる。ところ
がその軍勢が貧弱にしか装備されず、訓練されず、おずおずと指令されたのでは、それは撹乱して
回るか、あるいは些細な障害を前に退却して、後に重い挫折感を残すかのどちらかだ。
 仲間よ、この軍勢とは、あなたがたの血管を今静かに循環している微細な赤血球に他ならない。
一つ一つの赤血球は、奇蹟めいた力を持ち、最も細部にいたるまであなたの生、そしてあらゆる〈生
命〉の正確で完全な記録を有している。
 心臓にこの軍勢は集まる。心臓からこの軍勢は出動する。それゆえ心臓はかくも名高くかくも尊
ばれている。心臓からあなたの喜びと悲しみの涙が噴出する。心臓へとあなたの〈生〉と〈死〉の
恐怖がなだれ込む。
 あなたの切望と欲求が、この軍勢の装備。あなたの精神が、この軍勢の訓練者。あなたの〈意
志〉が、指導者にして指令者。
 あなたが自分の血を一つの〈至上欲求〉で満たすとき-この〈至上欲求〉はあらゆる欲求を、
鎮め、おのれの影で覆いつくすが-、そして訓練を一つの〈至上思想〉に信任するとき、そして
指導と指令を一つの〈至上意志〉で満たすとき、あなたの欲求が成就するのは確かだ。
 聖者が聖者になるのは、聖者たるにふさわしくない願いや思いすべてを自らの血潮から一掃し、
揺るがない意志でもって、聖性以外の何物でもない目標に血潮を向けようとするからに他ならない。
 私はあなたがたに言う、アダムより今日までの、すべての聖なる願い、すべての聖なる思い、す
べての聖なる意志は、聖性に到達することにきわめて熱心な人間を助けるために突進してくる。ど
こにあろうと水は常に海を求め、光線は常に太陽を求めてきたのと同様だ。
 殺人者がその企図を果たすのは、自らの血を熱にうなされるような殺しへの渇きへと煽り立て、
殺戮に支配された思考の鞭の下、その細胞をすし詰めに押し並べ、呵責なき意志で致命的な一撃を
下すよう命ずるからに他ならない。
 私はあなたがたに言う、カインより今日までのすべての殺人者は、頼まれもしないのに、完全に
殺しに酔った人の腕を強め支えるために殺到してくる。どこにいようと大烏は常に大烏と集い、ハ
イエナは常にハイエナと集ってきたのと同様だ。
 それゆえ「祈る」とは、一つの〈至上欲求〉、一つの〈至上思想〉、一つの〈至上意志〉を血に染
み込ませることだ。そうすることによって、何であれあなたが祈るものと完全に調和するよう自己
が調整される。
 
この惑星が誕生以来目撃してきたあらゆる出来事のさまよえる思い出が、この惑星の大気に渦巻
いている。大気は、隅々にいたるまであなたの心に映し出されている。

 
いかなる言葉や行為、願いやため息、はかない思いや東の間の夢、人間の息や動物の息、影、幻
影であろうと、今日という日に到るまで、大気中に神秘的な波動を伝えないものはなく、〈時〉の終
わりまでその波動を保たないものはない。あなたの心がこれらのどれか一つにでも波長を合わせれ
ば、それが驀進してきて弦を鳴らすのは確かだ。

祈るためには唇も舌もいらない!むしろ必要なのは静かに目覚めた心、一つの〈至上欲求〉。一
つの(至上思想)、とりわけ、疑わずためらわない一つの〈至上意志〉だ。というのも、心が臨在し
て言葉の各音節に目覚めなければ、言葉は役に立たないからだ。そして心が臨在して目覚めている
とき、舌は眠るか、あるいは封印された唇の後ろに隠れるほうがよい。
あるいはまた
、祈るためにはいかなる寺院も必要ない。
心に寺院を見出せない者は、いかなる寺院にも心を見出せない。

しかし私がこのことを語るのは、あなたがたやあなたがたに類する者たちにであって、すべての
人間にではない。というのも人間の大部分はいまだみなし児なのだから。彼らは祈る必要を感じは
するものの、そのすべを知らない。彼らは言葉なしでは祈れない。そしてあなたが彼らの口に言葉
をあてがわないかぎり、いかなる祈りの言葉も見出せない。心の果てしない広がりをさすらうよう
に仕向けられると、彼らは途方にくれ、萎縮してしまう。彼らは、寺院の壁に仕切られ、自分たち
と同種の群集に囲まれていると、なだめられ安心する。
 彼らに寺院を建立させなさい。彼らに祈りの文句を唱えさせなさい。
 祈りによって求めるべきものとして、私があなたがた、そして万人に課すのは、〈理解〉である。
それ以外のものを渇望しても決して満たされることはない。
(生)への鍵は、(創造の言葉)であると憶えておきなさい。(創造の言葉)への鍵は(愛)。
〈愛〉への鍵は〈理解〉。あなたの心をこれらで満たし、多くの言葉で舌をわずらわせるのを控えな
さい。多くの祈りの重荷から精神を救い出し、
贈り物によってあなたを奴隷にしようとするあらゆ
る神々への屈従から心を解放しなさい。そのような神々が片方の手であなたを暖かくもてなすのは、
もう一方の手であなたを打ちのめすために過ぎない。そのような神々は、讃えられるときには満ち
足りて優しいが、咎められると激怒して報復する。あなたが呼びかけなければ聞こうとはせず、乞
わなければ与えようとはしない。あなたに何か与えると、あまりにもしばしば与えたことを悔やむ。
このような神々はあなたの涙を自分の香りとし、あなたの恥を自分の栄光とする。
 そう、心の中に唯一の神を見出すために、こうしたすべての神々から心を解き放ちなさい。唯一
の神は、自分自身であなたがたを満たしたのであり、あなたがたが常に満たされていることを望ん
でいる。

ペヌーソ……あなたは人間を万能であると語りながら、人間をみなし児だと貶めます。あなたは、
私たちをいわば霧の中に置きざりにしています。






第十四章
大天使間の対話と大悪魔間の対話


ミルダッド……時間を超越した人間の誕生のとき、天上の極にいる二人の大天使が次のような対話
を交わした。
第一の大天使…驚くべき子どもが大地に生まれた。大地は光で輝いている。
第二の大天使…栄えある王が天国に生まれた。天国は喜びが脈打っている。
第一の大天使…人間は天国と大地の統一の果実。
第二の大天使…彼は父と母と子の永遠なる統一。
第一の大天使…彼において大地は高められる。
第二の大天使…彼にあって天国は義とされる。
第一の大天使…彼の眸の中で昼は眠っている。
第二の大天使…彼の心の中で夜は目覚めている。
第一の大天使…彼の胸は強風の宿り。
第二の大天使…彼の喉は歌の音階。
第一の大天使…彼の腕は山々を抱く。
第二の大天使…彼の指は星々を摘みとる。
第一の大天使…彼の骨の中で数々の海がうねっている。
第二の大天使…彼の血管の中をあまたの太陽が巡っている。
第一の大天使…彼の口は鍛冶場にして鋳型。
第二の大天使…彼の舌はハンマーにして鉄槌。
第一の大天使…彼の足には明日という鎖がある。
第二の大天使…彼の心にはその鎖を解く鍵がある。
第一の大天使…しかしこの赤子は塵に身をくるんでいる。
第二の大天使…しかし彼は永劫に包まれている。
第一の大天使…神のごとく、彼はあらゆる数の秘密を知っている。神のごとく、彼は諸々の言葉の
神秘を知っている。
第二の大天使…彼は〈聖なる一〉を除くすべての数を知っているが、その〈聖なる一〉が唯一無二。
彼は〈創造の言葉〉を除くすべての言葉に通じているが、その〈創造の言葉〉が唯一無二。
第一の大天使…しかし彼は〈数〉と〈言葉〉を知るだろう。
第二の大天使…〈空間〉の人跡なき荒野から立ち去り、〈時間〉の陰影なトンネルから眼をそらせて
初めて、彼は〈数〉と〈言葉〉を知ることになる。
第一の大天使…素晴らしきかな、この大地の子どもは、なんと素晴らしきかな。
第二の大天使…栄えあるかな、この天国の王は、なんと栄えあるかな。
第一の大天使…入名前なきもの〉は彼を人間と呼んだ。
第二の大天使…彼は〈名前なきもの〉を神と呼んだ。
第一の大天使…人間が神の言葉。
第二の大天使…神が人間の言葉。
第一の大天使…その言葉が人間である神に栄光あれ。
第二の大天使…その言葉が神である人間に栄光あれ。
第一の大天使…今そして永遠に。
第二の大天使…ここそしていたるところに。

 時間を超越した人間の誕生のとき、天上の極にいる二人の大天使はこのように語った。
 同じとき、地底の極にいる二人の大悪魔は、次のような対話を交わした。

第一の大悪魔…雄々しい戦士が我らの仲間に加わった。彼の助けを借りて我らは征服しよう。
第二の大悪魔…むしろ哀れっぽく鼻水垂らした意気地なしと言うべきだ。彼の眉には裏切りが陣を
張っている。しかし彼の意気地なさと裏切りは恐ろしい。
第一の大悪魔…彼の目は大胆不敵で猛々しい。
第二の大悪魔…彼の心は涙に満ちて無気力。しかし彼の無気力と涙は不気味。
第一の大悪魔…彼の精神は鋭敏で不屈。
第二の大悪魔…彼の耳は怠惰で魯鈍。しかし彼の怠惰と魯鈍は危険。
第一の大悪魔…彼の手は迅速で正確。
第二の大悪魔…彼の足はためらいがちで遅鈍。しかし彼の遅鈍は凄まじく、彼のためらいは驚異的。
第一の大悪魔…我らのパンが彼の神経の鋼となろう。我らのワインが彼の血の炎となろう。
第二の大悪魔…我らのパン箱を彼は我らに投げつけるだろう。我らのワイン壷を彼は我らの頭で叩
き割るだろう。
第一の大悪魔…我らのパンヘの彼の欲望、我らのワインへの彼の渇望が、戦いにおける彼の戦車と
なるだろう。
第二の大悪魔…満たされない空腹と癒されない渇きによって。彼は征服不可能なものとなり、我ら
の陣地で反乱を起こすだろう。
第一の大悪魔…しかし〈死〉が戦車の騏者だ。
第二の大悪魔…〈死〉を駅者として彼は不死となるだろう。
第一の大悪魔…〈死〉が〈死〉以外のところに彼を導けるのか?
第二の大悪魔…そう、〈死〉は彼の絶え間ない愚痴にうんざりして、ついには彼を〈生命〉の陣地へ
と連れて行ってしまう。
第一の大悪魔…〈死〉が〈死〉の裏切り者となるのか?
第二の大悪魔…いや、〈生命〉は〈生命〉に忠実だ。
第一の人悪魔…彼の味覚を稀有で美味な果実で幻惑しよう。
第二の大悪魔…しかし彼は、この地で育つ果実とは異なる果実を求めるだろう。
第一の大悪魔…彼の眼と鼻を、明るくかぐわしい花々で誘惑しよう。
第二の大悪魔…しかし彼の眼は別の花を求め、彼の鼻は別の芳香を求めるだろう。
第一の大悪魔…彼の耳を、かなたから聞こえる甘美なメロデイーに取りつかせよう。
第二の大悪魔…しかし彼の耳は別の合唱に向かうだろう。
第一の大悪魔…〈恐怖〉が彼を我らの奴隷にするだろう。
第二の大悪魔…〈希望〉が彼を恐怖から守るだろう。
第一の大悪魔…〈苦痛〉が彼を我らに従属させるだろう。
第二の大悪魔…〈信念〉が彼を苦痛から救い出すだろう。
第一の大悪魔…彼の眠りを混乱した夢で包み、彼の覚醒に謎めいた影をまき散らそう。
第二の大悪魔…彼の〈空想〉が謎を解き、影を溶かし去るだろう。
第一の大悪魔…にもかかわらず彼を我らの一員に数えうる。
第二の大悪魔…彼を味方に勘定したければ勘定するがいい。しかし同時に彼を敵対者にも勘定せよ。
第一の大悪魔…彼は、我らに味方していながら同時に敵対することができるのか?
第二の大悪魔…彼は戦場の孤独な戦上。彼の唯一の敵は、自分の影。影が移動すれば、戦闘も変わ
る。影が前面にあるとき、彼は我らの味方。影が背後にあるとき、彼は我らの敵。
第一の大悪魔…ならば我らは、永遠に彼を太陽に背を向けたままにしておこうではないか。
第二の大悪魔…しかし淮が太陽を永遠に彼の背後にとどめておくのか?
第一の大悪魔…この戦士は一個の謎。
第二の大悪魔…この影は一個の謎。
第一の大悪魔…この孤独な戦士を讃えよ。
第二の大悪魔…この孤独な影を讃えよ。
第一の大悪魔…彼が味方するとき、彼を讃えよ。
第二の大悪魔…彼が敵対するとき、影を讃えよ。
第一の大悪魔…今そして永遠に。
第二の大悪魔…ここそしていたるところに。
 時間を超越した人間の誕生のとき、地底の極にいる二人の大悪魔はこのように語った。






第十五章
侮辱することと侮辱されること


ナロンダ……………師が語り終えるのとほとんど同時に、長老の恰幅のよい体が〈鷹の巣〉の入口
に現れた。その体は、〈鷹の巣〉から光と空気を閉め出したかのように思われた。その瞬間、入口に
いる人物は、今しがた師が語った二人の大悪魔のうちの一人に他ならないという思いが私の頭にひ
らめいた。
 長老の目は怒りに燃え盛り、顎髪は逆立っていた。彼は師へと近づき、その腕をひっつかんだ。
それは明らかに師を引きずり出そうとする企てだった。
シャマダム……おまえのよこしまな精神から吐き出された胸糞悪い嘔吐物を、たった今聞かせても
らった。おまえの口は毒の放出口だ。おまえの存在は不吉の前兆だ。長老として命ずる。たった今
この〈方舟〉から出ていけ。
ナロンダ……………師は、体つきは細いけれども、完全に安らいだまま自分の立場を守った。まる
で師が巨人で、シャマダムは赤子でしかないかのようだった。師がシャマダムを見て語ったときの
平静さは驚異的だった。
ミルダッド……招き入れる力を有している者だけが、追い出す力を有している。シャマダム、あな
たは私を招き入れたのか?
シャマダム……おまえの邪悪さに心動かされ、私はおまえが入るのを許したのだ。         
ミルダッド……あなたの邪悪さに動かされたのは私の愛だ、シャマダム。そして見よ、私は私の愛
とともにここにいる。しかしあなたは、なんということか、ここにもそこにもいない。あなたの影
だけがそこかしこを飛び回っている。私が来たのは、すべての影を集めて、太陽の下で焼き尽くす
ためだ。
シャマダム……おまえが息で空気を汚し始める前から、私は〈方舟〉の長老だった。おまえのよこ
しまな舌はなぜ私がここにいないなどと言えるのか?
ミルダッド……この山々が生まれる前から私はいた。この山々が崩れて塵となった後も、ずっと私
はいるだろう。
私は〈方舟〉であり、祭壇であり、炎だ。私の庇護によらないかぎり、あなたは嵐の餌食以外の
ものにはなれない。そしてあなた自身を私に生け贅として捧げないかぎり、〈死〉のあまたの屠殺人
の持つ、常時研ぎすまされた鋭い刃からいかに免れればよいか、あなたにはわからないだろう。そ
して私の優しい炎があなたを焼き尽くさないかぎり、あなたは地獄の無慈悲な炎の燃料となるだろう。


シャマダム……皆の者、聞いたか? 聞かなかったか? 私に協力してくれ、同行者だちよ。この
涜神のペテン師を崖に放り込もう。
ナロンダ……………再びシャマダムは師に突進し、その腕をひっつかんで引きずり出そうとした。
しかし師は、たじろぎもしなければ動きもしなかった。同行者たちもまた、誰一人としてぴくりと
も動かなかった。腹立たしい小休止の後、シャマダムは首をがっくりとうなだれ、「俺はこの〈方
舟〉の長老だ。俺には神から与えられた権威がある」と自らにつぶやきながら、〈鷹の巣〉から逃げ
出すように出て行った。
 師は長らく沈黙し、語ろうとしなかった。しかしザモラが押さえぎれずに口を開いた。
ザモラ……シャマダムは、私たちの師を侮辱しました。彼をいかにすればよいとお考えですか、師
よ? 命令して下さい、私たちは命ぜられた通りにやりましょう。
ミルダッド……シャマダムのために祈りなさい、私の同行者たち。それが、彼に対してしてほしい
ことのすべてだ。
彼の眼のヴェールがはずされ、彼の影が取り払われるよう祈りなさい。
 
善を引き寄せるのと同じくらい、悪を引き寄せるのは易しい。〈愛〉に波長を合わせるのと同じく
らい、〈憎しみ〉に波長を合わせるのは易しい。

 無窮の〈空間〉から、心の果てしない広がりから、世界への祝福を引き出しなさい。というのも、
世界にとって祝福となるものは何であれ、あなたにとって祝福となるのだから。
 あらゆる生き物の幸福を祈りなさい。というのも、
おのおのの生き物の幸福は、あなたの幸福に
もなるのだから。同じように、おのおのの生き物の不幸は、あなたの不幸にもなるのだから。

 あなたがたすべては、〈存在〉の無限の梯子の中の動く横木のようなもの。〈自由〉の聖域に登り
たい者は、否応なく他人の肩の上に登らなければならない。そしてかわるがわる、自分の肩を他人
が登るための横木にしなければならない。
 シャマダムは、あなたの存在の梯子の横木に他ならない。あなたは自分の梯子が頑丈で安全であ
ることを望まないのか? ならば一つ一つの横木が安全で頑丈であるよう注意を払いなさい。
 シャマダムは、‐あなたの生の礎となる石に他ならない。そしてあなたがたは、彼の、そしてあら
ゆる生き物の生の建物における石に他ならない。もし自分の建物から完全に欠陥をなくしたいのな
らば、シャマダムが無欠の石であるよう取り計らいなさい。自分の生命を築くために、あなたを礎
石として使う者が、欠陥なく建築できるように、あなた自身無欠でいなさい。
あなたには二個以上の眼は備わっていないと思うのか? 私はあなたがたに言うが、すべての見
る眼は、それが地上にあろうと。天上にあろうと、地の下にあろうと、あなたの眼の延長だ。あな
たの隣人の視界がくっきりしているのと同じだけ、あなたの視界もくっきりしている。あなたの隣
人の視界がぼやけているのと同じだけ、あなたの視界もぼやけている。
 おのおのの盲人によって、あなたは一対の眼を失っている。その眼が光を失っていなければ、あ
なたの視力はそれだけ補強されただろう。よりくっきりと見ることができるように。隣人の視力を
保つよう心掛けなさい。隣人が蹟いて道をーもしかしたらあなたの扉そのものをー塞がないよ
うに、あなた自身の視力を保つよう心掛けなさい。
 ザモラは、シャマダムが私を侮辱したと思っている。どうしてシャマダムの無知が私の理解を乱
すことができようか?
 濁った小川は簡単に他の小川を濁すことができる。しかし濁った小川がいかにして海を濁すこと
ができようか? 海は、喜んで泥を受け容れて海底に寝かせ、澄んだ水を小川に与え返すだろう。
 1フィート四方の土地なら汚したり、不毛にしたりできる。おそらく1マイル四方でもできる
だろう。しかし誰が大地を汚したり、不毛にしたりできようか? 大地は人間や動物の汚物をすべ
て受け容れ、溢れんばかりの甘い果実やかぐわしい花々、穀物や草木にして与え返す。
 剣は確かに肉を傷つけることはできる。しかしいかにたくましい腕が、いかに刃の鋭い刀で切っ
たとしても、空気を傷つけることができようか?
 侮辱したり侮辱されたりすることができるのは、盲目で貪欲な無知から生じた、卑しく偏狭な自
己の自尊心。この自尊心によって人は、被った侮辱に侮辱で報復し、汚物を汚物で洗うのだ。
 自尊心に駆られ、自己に陶酔したこの世界は、あなたの頭上に害を山と積み上げるだろう。この
世界は、ぼろぼろの法律、悪臭を放つ信条、徽臭い名誉という血に飢えた猟犬をあなたにけしかけ
るだろう。この世界は、あなたが秩序の敵対者、混沌と破滅の使者であると宣告し、あなたの道に
罠をばらまき、あなたの寝床を刺草で覆うだろう。それはあなたの耳に呪いをまきちらし、あなた
の顔に軽蔑の唾を吐きかけるだろう。
 あなたの心は怖じ気づいてはならない。そうではなく海のように広く深くありなさい。
呪いしか
与えない者に祝福を与え返しなさい。

 大地のように寛大で平静でありなさい。そして、人々の心の不純さを純粋な健やかさと美しさに
変えなさい。
 そして空気のように自由で柔軟でありなさい。あなたを傷つけようとする剣は、やがては錆びて
朽ちるだろう。あなたを害そうとする腕は、ついには疲れて止むだろう。
 この世界はあなたを知らないので、あなたを包み込むことができない。それゆえそれはうなり吠
えてあなたを迎える。しかしあなたはこの世界を知っているので、それを包み込むことができる。

それゆえあなたは、世界の憤怒を優しさで鎮め、その中傷を愛に満ちた〈理解〉によって鎮めなけ
ればならない。
そして〈理解〉がその日をもたらすだろう。
このように私はノアに教えた。
このように私はあなたがたに教える。
ナロンダ……………ここで七人は沈黙のうちに解散した。というのも師が、「このように私はノア
に教えた」という言葉で語り終えたときはいつでも、これ以上語りたくないという意思表示である
ことを私たちは知るようになっていたのだから。





第十六章
債権者と負債者


ナロンダ……………ある日、七人と師が〈鷹の巣〉から〈方舟〉に戻って来ると、門のところで
シャマダムが、足下にひれ伏している男に対して一片の紙きれをはためかせているのが見えた。
シヤマダムが怒声をあげているのが聞こえた。「おまえの債務滞納には堪忍袋の緒が切れた。もう
これ以上甘い顔はできない。今すぐ払うか、それとも監獄でくたばりたいか」
 シャマダムの足下の男はラスティディンだとわかった。彼は、〈方舟〉に借金をしている多くの顧
客の一人であった。彼は、年齢と貧困のせいで腰が曲がっていた。ラスティディンは、最近たった
一人の息子を失い、同じ週にたった一匹の牛に死なれ、そのせいで年老いた妻は中風に襲われたと
言って、長老に利子の支払いの猶予を嘆願していた。しかしシャマダムの心は軟化しなかった。
 師はラスティディンのほうへ歩み寄り、彼の腕を優しく取って言った。
ミルダッド……立ちなさい、ラスティディン。あなたもまた、神の似姿。そして神の似姿はいかな
る影の前にも頭を垂れてはならない。(それからシャマダムのほうを向き)
 私に借用証書を見せなさい。
ナロンダ……………私たち全員が驚いたことには、ほんの一瞬前まであんなにも激怒していたシャ
マダムが、いかなる小羊よりもまったく従順に、おとなしく師に持っていた紙を手渡した。その紙を
受け取った師が時間をかけてそれを調べるのを、シャマダムは呪文でもかけられたかのように、無
言のまま無表情に見つめていた。
ミルダッド……いかなる金貸しもこの〈方舟〉の創始者ではなかった。この〈方舟〉の創始者は、
高利をつけて貸すための金をあなたに遺贈したか? 商取り引きするための動産や賃貸の儲けで肥
え太るための不動産を遺贈したか? あなたの兄弟の汗と血を遺贈したか? そしてあなたが汗を
最後まで搾り取った者、血を最後の一滴まで吸い尽くした者を入れるための監獄を遺贈したか?
〈方舟〉と祭壇と光を、創始者はあなたに遺贈したーそれ以上のものではない。方舟は彼の生
ける身体。祭壇は彼の不屈の心。光は彼の燃え盛る信念。信念なきがゆえに〈死〉の笛に踊らされ、
不正の沼地にもがき沈んでいく世界の只中で、この〈方舟〉と祭壇と光を無傷で純粋に保つように、
あなたは創始者から命じられている。
 身体への配慮のせいで魂の気が散らないよう、あなたがたは信者からの施しによって生きること
が許された。そして〈方舟〉が発進して以来この方、施しが不足したことはまったくなかった。
 しかし見よ! 今やあなたはこの施しを、あなたと施す者両者にとってのわざわいへと変えてし
まった。なぜなら、贈られたものによって、あなたはその贈り主を隷属させるからだ。あなたのた
めに紡がれた糸によって、あなたは紡いでくれた者を鞭打つ。あなたのために服を織ってくれた者
から、あなたは服を剥ぎ取って裸にする。あなたのためにパンを焼いてくれた者を、あなたはパン
に飢えさせる。あなたのために石を切り出して仕上げてくれた者を入れる監獄を、あなたは同じ石
で作る。あなたが暖をとるために木々を伐りとってくれた者の軛と棺桶を、あなたは同じ木から作
る。彼ら自身の汗と血を、あなたは高利をつけて彼らに貸しつける。
 金銭とは、ずる賢い者たちによって硬貨や紙幣へと変えられた人間の汗と血に他ならない。それ
によって人間は拘束される。富とは、最も汗と血を流さない者たちによって蓄えられた人間の汗と
血に他ならない。それによって最も汗と血を流す者たちの背中は押し潰される。
 わざわいなるかな、富を蓄えることで精神と心を焼き払い、自らの夜と昼の日々を殺戮する者は
わざわいなるかな。なぜなら彼らは何を蓄えているのか知らないのだから。
 農夫と牛の汗、羊飼いと羊の汗、刈り取り人と落穂拾いの汗とともに、遊女たちや殺人者たちや
泥棒たちの汗、肺病や癩病や中風を病む者たちの汗、盲人や障害者や貧者の汗-これらすべてと
それ以上に多くの汗を富者の倉は蓄える。
 みなし児やごろつきの血、専制君主や殉教者の血、悪人や正義漢の血、略奪者や略奪される者の
血、処刑執行人や処刑される者の血、蛭や詐欺師の血、彼らに血を吸い取られる者の血-これら
すべてとそれ以上に多くの血を富者の倉は蓄える。
 しかり、わざわいなるかな、その富と商売用の蓄えが人間の汗と血である者はわざわいなるかな。
なぜなら汗と血は最後には代償を取り立てるのだから。そしてその代償は凄まじく、その取り立て
は恐ろしいだろう。
 貸し付けること、それも利子をつけて貸し付けること、これはあまりにもあつかましくて、許
されざる忘恩だ。
 というのもあなたは、貸し付けられるものとして何を持っているか? あなたの生命そのものが
贈り物ではないのか? もし神があなたへの贈り物の最小部分にでも利子を課すなら、あなたは何
で払おうというのか?
 この世界は、おのおのの人間、おのおのの事物が持っているすべてのものを保管するために、す
べてを預ける共通の金庫ではないのか?
 雲雀はあなたに歌を貸与するか? 泉はきらめく水をあなたに貸与するか?
樫の木はあなたに木陰を貸し付けるか? 椰子の木は甘い椰子の実を貸し付けるか?
 羊はその毛に利子を課すか? 乳牛はその乳に利子を課すか?
 雲は雨をあなたに売りつけるか? 太陽は暖かさと光をあなたに売りつけるか?
 これらのもの、そして他の無数のものがなければ、あなたがたの生はどうなるだろう?
 そしてあなたがたのうちで、この世界の金庫に最も多く預けたのは誰か、あるいは何か、また、
この世界の金庫に最も少なく預けたのは誰か、あるいは何か、言える者がいるだろうか?
 シャマダム、あなたはラスティディンが〈方舟〉の宝庫にどれだけ寄与したか計算できるか?
それなのにあなたは彼の寄与をーおそらくその中の取るに足らない一部をー彼に貸し付け、お
まけにそれに利子を課そうとする。それなのにあなたは彼を監獄に送り、そこで彼を朽ち果てさせ
ようとする。
 いかなる利子をラスティディンに要求するのか? あなたの貸し付けが、ラスティディンにどれ
ほど利益をもたらしたかわからないのか? 死んだ息子、死んだ牛、中風の妻以上のいかなる支払
いを欲するのか? かくも折れ曲がった体を覆う、かくも黴臭い襤褸以上のいかなる利子を取り立
てられるというのか?
 ああ、シャマダムよ、眼をこすれ。あなたもまた、利子のついた負債を要求され、それが払えな
いために監獄に引きずり込まれ、そこで朽ち果てることになる前に目覚めなさい。
同じことを私はあなたがたすべてに言う、同行者たち。眼をこすり、目覚めなさい。
 与えることができるときには与えなさい。与えられるすべてを与えなさい。しかし決して貸し付
けてはならない。あなたの所有するすべてのものが、生命までも含めてすべてローンとなり、その
ローンが一斉に支払い期限となり、破産して監獄に放り込まれることになるといけないから。
ナロンダ……………師はここで再び手の中の借用証書に目をやり、それを慎重な手つきで粉々に破
り、破片を風にのせてまいた。それから金庫の管理人であるヒンバルの方を向いて言った。
ミルダッド……ラスティディンに、二匹の牛を買えるほどのお金と、夫婦で終生暮らしていけるほ
どのお金を与えなさい。
 そしてラスティディン、安んじて行きなさい。あなたは負債を免除された。絶対に債権者になら
ないよう注意しなさい。というのも、貸し付ける者の負債のほうが、借りる者の負債よりはるかに
大きく重いのだから。







第十七章
シヤマダムの画策


ナロンダ……………それから幾日もの間、ラスティディンの事件は〈方舟〉の主たる話題だった。
ミカヨンとミカスターとザモラは熱烈に師を賞賛した。ザモラは、お金を見ることや触ることさえ
忌み嫌うと言った。ベヌーンとアビマールは、穏健に半ば同意し半ば反対した。その一方ヒンバル
は、次のように述べてあからさまに反対した。すなわち、世界は金銭なしではやっていけないこと、
富は倹約と勤勉に対する神の与える正当な報酬であること、同様に貧困は怠惰と浪費に対して神の
みが与えうる罰であること、そして時の終わりまで人間の中には債権者と負債者がいるということ
である。
その一方でシャマダムは、長老としての自分の権威回復に余念がなかった。彼は一度私を呼びつ
けて、自分の部屋で余人を交えず次のように語った。
 「おまえは、〈方舟〉の書記にして記録係、そして貧しい家の子だ。おまえの父は土地がないのに、
養うべき妻と七人の子どもがいて、日々の必需品を手に入れるのがやっとだ。後世の者がこのシャ
マダムをもの笑いの種にしないよう、今回の不幸なラスティディンの事件を一語たりとも記録しな
いでくれ。あの呪われたミルダッドから離れるがいい。そうすれば私はおまえの父に土地を与え、
穀物庫を満杯にし、金庫を一杯にしよう」
 この言葉に対し私は次のように答えた。シャマダムに可能ないかなることよりもはるかによく、
神が私の家族の面倒を見てくれるだろうということ、ミルダッドに関しては、自分は彼を師であり
救い主であると仰いでおり、彼から離れるくらいならこの生命から離れるということ、〈方舟〉の記
録に関しては、信実をもって自分の知識と能力の最善を尽くし、記録を取るということを。
 後になって私は、シャマダムが同行者のそれぞれに似たような申し出をしていたと知った。それ
がどの程度功を奏したのか見分けることはできなかった。とはいえ、ヒンバルが以前のように毎回
〈鷹の巣〉の集まりに顔を出さなくなったことには気づくことができた。


第十八章
時間の車輪は虚空を巡る


ナロンダ……………ヒンバルを欠く同行者たちがもう一度師の周りに集まるまでの間、山々からの
水は大量に流れおりて海に注いだ。
 そのとき師は、〈全能の意志〉について講義していた。しかし突然話を止めて言った。
ミルダッド……切羽詰まったヒンバルが心の重荷を下ろすために私たちのところに来たがっている。
しかし彼はあまりに恥じ入っているので、ここまで足を引っぱって来られない。アビマール、行っ
て彼を助けなさい。
ナロンダ……………アビマールは出て行き、じきにヒンバルを連れて戻って来た。ヒンバルは涙に
むせび震え。きわめて樵悴した表情だった。
ミルダッド……こちらに来なさい、ヒンバル。                               
 ああ、ヒンバル、ヒンバル。父が死んだために悲しみが心をむしばみ、血が涙に変わるのを許す
のか。あなたの家族が皆死んだときはどうするのか? この世のあらゆる父母、兄弟姉妹があなた
の手と眼の届かないところに立ち去ったときはどうするのか?
ヒンバル……そうです、師よ。私の父は非業の死を遂げました。つい昨日のこと、父が購入したば
かりの子牛が父の腹を突き刺し、頭蓋を踏み潰したのです。たった今そのことを使者から知らされ
ました。悲しい、ああ、悲しい。
ミルダッド……そしてこの世の富に微笑みかけられようとしていたまさにその瞬間に、彼は死んだ
ように思われる。
ヒンバル……そうなのです、師よ。まさにそのとおりなのです。                    
ミルダッド……そして子牛は、あなたの送ったお金で購入されたものであるゆえに、ますますあな
たは父の死に苦しめられている。
ヒンバル……そうなのです、師よ。まさにそのとおりなのです。あなたは何もかもご存じのようで
す。
ミルダッド……そしてそのお金はミルダッドヘの愛で購われたものだね。              
ナロンダ……………ヒンバルはそれ以上喋れなかった。涙にむせたから。             
ミルダッド……あなたの父は死んでいない、ヒンバル。彼の形体と影も死んでいない。しかし、変
容した彼の形体と影に対して、あなたの感覚が死んでしまったのは本当だ。というのも、人間の粗
雑な目には判別できないほど繊細な形体とそれに伴う希薄になった影があるからだ。
 森の中のヒマラヤ杉の影は、そのヒマラヤ杉が船のマストになったときの影、寺院の柱になった
ときの影、絞首台の足場になったときの影と同じではない。また、陽光に照らされているときのヒ
マラヤ杉の影は、月光の下での影、星々の下での影、夜明けの紫の廣の下での影と同じではない。
 しかしながらそのヒマラヤ杉は、いかに変容しようとも、ヒマラヤ杉として生き続ける。森の他
のヒマラヤ杉は、それをもはや昔の仲間として認めないけれども。
 葉の上の蚕は、絹の繭の中の蛹を仲間として判別できようか? あるいは蛹は、翼を持つ蚕蛾を
仲間として判別できようか?
 土の中の小麦の粒は、地上の小麦の茎が血縁であると知りうるだろうか?
 大気中の水蒸気、あるいは海の水は、高い山の峡谷にある氷柱が自分の兄弟であると認めること
ができようか?
 地球は、宇宙の深淵から投げ込まれる隕石が姉妹の星であると見分けられようか?
 樫の木はどんぐりに自分自身を見出すことができようか?
あなたの父は、今やあなたの眼が馴染んでいない光の中におり、あなたには判別できない形体の
中にいる。それゆえあなたは、父はもういないと言う。しかし人間の物質的自己は、おのれの〈神
なる自己〉の光の中に完全に溶けるまでは、いかに変容し、変化しようとも、影を投げかけざるを
えない。
 今日は樹の緑の枝で、明日には壁の釘になっている材木の切れ端は、おのれのうちにある炎に
よって焼き尽くされるまでは、その形体と影は変わるけれども、材木であり続ける。同様に人間も、
内なる神に焼き尽くされるまでは、死んでいるときも生きているときも人間であり続ける。内なる
神に焼き尽くされるとは、人間が〈一つなるもの〉との一体を理解することである。しかしそのよ
うなことは、人が好んで一生と呼ぶあの一瞬のうちには完遂できない。
あらゆる〈時間〉は生の時間である、私の同行者だちよ。
〈時間〉には停止も開始もない。また〈時間〉には、旅人が英気を養い休息するために立ち寄る
隊商宿もない。
〈時間〉は自分自身と重なり合う一つの継続性だ。〈時間〉の尾は頭とつながっている。〈時間〉
の中では何物も完成されず、何物も追放されない。何物も始められず終わらされない。
〈時間〉は感覚によって創造された車輪だ。それは、感覚によって〈空間〉の虚空を巡らされる。

 あなたがたは季節の驚くべき変化を感覚し、それゆえ万物は変化の支配下にあると信じる。にも
かかわらず、季節を広げてはたたむ力が永遠に同一であることを、あなたがたは容認している。
 あなたがたは事物の成長と老朽を感覚し、不本意ながら老朽があらゆる成長する事物の終末であ
ると宣言する。しかし成長と老朽を創り出す力そのものは、成長もせず老朽もしないことをあなた
がたは承知している。
 あなたがたは、そよ風と比べて疾風の速度を感覚する。そして疾風のほうがはるかに速いと言う。
けれども疾風を動かすものとそよ風を動かすものは、同一であり、疾風とともに驀進するわけでも
なければ、そよ風とともにそぞろ歩きをするわけでもないとあなたがたは認知している。
 あなたがたはなんと軽々しく信じ込むことか! 感覚が仕掛ける手品のいちいちになんと騙され
やすいことか! 〈想像力〉はどこに行ったのか? というのも、〈想像力〉によってのみ、あなた
がたを驚かせる変化がすべて手先の早業に過ぎないと理解できるのだから。
 いかにして疾風がそよ風より速くありえよう? そよ風から疾風が生まれるのではなかろうか?
疾風はそよ風を運んでいるのではなかろうか?
 地上を歩く者よ、自分の歩んだ距離やマイルでどうやって測ろうというのか? そぞろ歩きをし
ようが、早足で歩こうが、あなたがたは地球の速度に乗って、地球自身が運ばれて行く宇宙空間に
運ばれて行くのではないか? それゆえあなたがたの歩行は、地球自身の歩行と同じなのではない
か? そして地球もまた、他の存在によって運ばれているため、その存在と速度を等しくされてい
るのではないか?
 そう、遅さは速さの母。速さは遅さの運び手。そして〈時間〉と〈空間〉のあらゆる点からみて、
速さと遅さは分かち難い。
 なぜ成長は成長であり、老朽は老朽であると言うのか? なぜ両者は互いに敵対していると言う
のか? 何かが老朽することなしに、何かが現れ出たことがかつてあったか? 何かが成長するこ
となしに、何かが老朽したことがかつてあったか?
 あなたがたは絶えず老朽することによって成長しているのではないか? 絶えず成長することに
よって老朽しているのではないか?
 死者は生者の土壌ではないのか? 生者は死者の穀倉ではないのか?
 もし成長が老朽の子どもならば、老朽は成長の子ども。もし〈生〉が〈死〉の母ならば、〈死〉は
〈生〉の母。ならば〈時間〉と〈空間〉のあらゆる点からみて、両者は真に一体である。そしてまこ
とに、誕生や成長を喜ぶのは、死や老朽を悲しむのと同じくらい愚かしい。
 なぜ秋だけが葡萄の季節だと言うのか? 私は、冬にもまた葡萄は熟していると言う。そのとき
葡萄は、まだ目に見えることなく脈打つまどろむ樹液に過ぎないが、ワインを夢見ている。春もま
た葡萄の季節。そのとき葡萄は、エメラルド色の小さな数珠玉の柔らかな房に現れて来る。そして
夏もまた葡萄の季節。そのとき房は伸びやかに拡がり、数珠玉はふくらみ、その頬は太陽の金の光
に色づいてくる。
 もしそれぞれの季節がおのれのうちに他の三つの季節を宿しているならば、まことに、すべての
季節は〈時間〉と〈空間〉のあらゆる点からみて一つである。
 そう、〈時間〉は最大の手品師。人間はその最大の得意客。
 人間は車輪の中の栗鼠にそっくりだ。〈時間〉の車輪を回転するよう仕向けた人間は、その動きに
虜にされ、その動きに運ばれてしまうため、もはや自分自身がその動かし手であるとは信じられな
くなり、ぐるぐる回る〈時間〉を止める「時間さえ見出せない」ことになってしまう。
 そして人間は、砥石を砥める猫にそっくりだ。その猫は、自分の舌からにじみ出る血を砥石から
にじみ出る血だと信じて砥める。人間は、〈時間〉の縁で流されるおのれの血を〈時間〉の流す血だ
と信じて嘗め、〈時間〉の車輪の幅によって引きちぎられたおのれの肉を〈時間〉の肉だと信じて貪
り喰う。
  〈時間〉の車輪は、〈空間〉の虚空を巡っている。〈時間〉と〈空間〉のうちにあるものしか知覚
できない感覚器官によって知覚されるすべてのものは、その車輪の縁にある。だから事物は現れて
は消え続ける。〈時間〉と〈空間〉内のある点で消滅したものが、別の点で現れる。ある者にとって
上りつつあるものが、別の者にとっては下りつつある。ある者にとって昼であるものが、別の者に
とっては夜である。それはすべて、見る者が「いつ」「どこ」にいるかにかかっている。
 仲間たちよ、〈時間〉の縁にいるものは、〈生〉と〈死〉の道にいる。というのも。円を描く動き
は決して終焉に到ることはなく、消滅することもないからである。そしてこの世におけるいかなる
動きも、円を描く。
 ならば人間は、この〈時間〉の悪循環から決して解放されないのだろうか?
 いや、人間は解放に達する。なぜなら人間は、神の聖なる〈自由〉の相続人なのだから。
 時間の車輪は回転するが、その軸は永遠に静止している。
  〈時間〉の車輪の軸が神である。万物が〈時間〉と〈空間〉のうちで神の周りを巡るけれども、
神は常に時間と空間を超越し、静止している。万物は〈神の言葉〉から生じるけれども、〈神の言
葉〉は、神と同様に時間と空間を超越している。
 軸ではすべてが平安。縁ではすべてが動揺。あなたがたはどちらにいたいのか?
 私はあなたがたに言う、〈時間〉の縁からすべり抜けて軸に到り、動きの嘔吐から脱しなさい。
〈時間〉にはあなたの周りを回らせておきなさい。しかしあなた自身は〈時間〉とともに回らないよ
うにしなさい。





第十九章
信念は成熟に達した論理


ベヌーソ……師よ、お許し下さい。けれどもあなたの論理の非論理性が私を混乱させるのです。
ミルダッド……あなたがかねがね「裁判官」と呼ばれてきたのも何の不思議もない、ベヌーン。あ
なたは、自分で決断を下す前に、その事柄の論理を問題にする。かくも長い間裁判官をやっていた
のに、〈論理〉の唯一の効用をまだ見出していないのか? それは、人間から〈論理〉を取り除いて
〈理解〉へとつながる〈信念〉に導くことだと。
〈論理〉は未成熟であるがゆえに、知識の巨獣を捕らえようとして、蜘蛛の巣を張りめぐらせる。
〈論理〉が成熟に達すると、それは自らの網の上で自らを絞め殺し、より深い知識である〈信念〉
へと変容する。

〈論理〉はけが人にとっての松葉杖。しかし俊足の者にとっては重荷。翼を持つ者にとってはさ
らなる重荷。
〈論理〉は老いぼれた〈信念〉。〈信念〉は成熟に達した〈論理〉。あなたの論理が成熟すれば-
そして間もなくそうなるだろうが-ベヌーソ、あなたはもはや〈論理〉のことを語らないだろう。
ベヌーソ……〈時間〉の縁からすべり抜けて軸に到るには、私たちは否応なく自分自身を否定しな
ければなりません。人間は自分の存在を否定できるのですか。
ミルダッド……それをなすためには確かに、
〈時間〉の手に弄ばれる自己を否定しなければならな
い。そのことによって、〈時間〉の奇術を免れている〈自己〉を肯定することになる。

ベヌーン……一つの自己の否定が他の自己の肯定でありうるのですか。              
ミルダッド……そう、
自己を否定することは、〈自己〉を肯定すること。変化に対して死ぬことは、  
不変なるものへと生まれ変わること。多くの者は死ぬために生きている。生きるために死ぬ者は幸
いである。

ベヌーソ……しかし人間には自分の個性が愛しいものです。人間が神へと没入すれば、いかにして
それでもなお自分の個性に気づいていられましょう?
ミルダッド……小川が海へと失われて自分が海であると気づくことは、小川にとって損失だろう    
か?
人間が自分の個性を神の中に失うことは、自分の影を失い、影なき自分の存在の本質を見出
すことでしかない。

ミカスター……〈時間〉の被造物である人間が、いかにして〈時間〉の支配下から脱することがで
きるのですか。
ミルダッド……
〈死〉があなたがたを〈死〉から救い出し、〈生〉があなたがたを〈生〉から解放す
るように、〈時間〉はあなたがたを〈時間〉から自由にする。

 あまりにも変化にうんざりした人間は、自分の全存在をこめた熱烈な情熱をもって、変化より強
いものを希求してやむことがない。そして確実にそれは見出されるだろう。
 希求する者は幸いである。なぜなら、彼らは既に〈自由〉の戸口にいるのだから。私が探し求め
ているのは彼らであり、私が語りかけているのは彼らだ。私があなたがたを選んだのは、あなたが
たの希求を私が聞きつけたからではなかろうか?
  〈時間〉の円環を巡り、そこに自由と平安を見出そうとする者はわざわいである。誕生の喜びに
笑うやいなや、彼らは死に泣くことになる。満たされるやいなや、うつろにさせられる。平和の鳩
を罠でとらえると、その鳩は手の中ですぐに戦争の禿鷹に変わってしまう。たくさん知っていると
思えば思うほど、実際に知っていることは少なくなる。前進すればするほど、後退する。高く登れ
ば登るほど、下に落ちる。
 彼らもまた、〈自由〉を希求し、私の言葉に耳を開くようになるまでは、私の言葉は彼らにとっ
て、精神病院での説教や、盲人の前で燃やされた松明と同じほどに、空虚で苛立たしい戯言でしか
ない。
ヒンバル……(泣きながら)私の耳だけでなく、心をもあなたは開いてくれました、師よ。耳と目
が閉ざされていた昨日のヒンバルをお許し下さい。
ミルダッド……涙を抑えなさい、ヒンバル、涙は、〈時間〉と〈空間〉の領域を超えた地平を求める
眼にはならない。
 
〈時間〉の巧妙な手技に眩惑されて喜ぶ者は、〈時間〉の爪に皮膚を引きちぎられたときに泣くが
よい。若さの輝きに歌い踊る者は、老いの皺にうめきよろめくがよい。
  〈時間〉のカーニバルに浮かれ騒ぐ者は、葬儀のときに灰で頭を覆わせるがよい。
 しかしあなたがたは常に晴れやかでなければならない。うつろいの万華鏡の中で、うつろわぬも
のだけを求めなさい。
  〈時間〉の中では何事も涙に値しない。何事も笑いに値しない。笑顔と泣き顔は、ともにぶざま
で歪んでいる。

 涙の辛さを避けたいか? それなら笑いの歪みを避けなさい。 涙が揮発すると、しのび笑いに
なる。しのび笑いが濃縮されると。涙になる。
 喜びに揮発されやすくならず、悲しみに濃縮されやすくならないようにしなさい。そうではなく、
両者に対して晴れやかに一様でいなさい。



第二十章
私たちは死後どこに行くのか


ミカスター……師よ、私たちは死んだ後どこに行くのですか。
ミルダッド……ミカスターよ、あなたは今どこにいるのか?
ミカスター……〈鷹の巣〉です。
ミルダッド……〈鷹の巣〉があなたを包み込めるほど大きいと思っているのか? 
この地球が
人間の唯一の住まいだと思っているのか?

 あなたの体は、〈時間〉と〈空間〉に限界づけられてはいるが、〈時間〉と〈空間〉内のあらゆる
ものから引き出されている。だからあなたの中の太陽から来た部分は、太陽において生きている。
あなたの中の地球から来た部分において生きている。他のすべての星々や、星々の間の人
跡未踏の宇宙についても同じこと。
 愚者のみが、地球が人間の唯一の住居だと考えたがる。愚者のみが、宇宙に浮かんでいる無数の
物体は人間の住居の装飾に過ぎず、人間の眼の気晴らしに過ぎないと考えたがる。

 この地球が人間の住処であると同じくらい、明けの明星、銀河、昂星も人間の住処である。これ
らの星々は、光を人間の眼に投げかけるたびに、人間をおのれのところへ持ち上げている。人間は
これらの星々の下を通るたびに、これらの星々を自分のところへ引き寄せている。

 あらゆる事物が人間の中に組み込まれている。その代わり、人間はあらゆる事物の中に組み込ま
れている。

宇宙はたった一つの体である。その最小の部分と交流すれば、すべてと交流したことになる。

 そして生きている間絶えずあなたがたは死んでいるように、
死んでいる間絶えずあなたがたは生
きている。たとえこの体で生きていないにしても、別の形をした体の中で生きている。
しかし神の
中へと溶け入るまでは、すなわち、あらゆる変化を克服するまでは、あなたがたは体の中で生き続
ける。

ミカスター……変化から変化へと旅するうちに、私たちはこの地球に戻って来るのですか?
ミルダッド……〈時間〉の法は、反復。〈時間〉のうちで一度起こったことは、再び幾度も幾度も起
こらざるを得ない。人間の場合は、欲求と反復への意志の強さに応じて、その間隔が長くなったり
短くなったりする。
 あなたが生として知られるサイクルから出て、死として知られるサイクルに入ったとき、大地へ
の癒されぬ渇きと、大地の情熱に対する飽くことなき飢えを持っていれば、大地の磁力が再びあな
たをその胸へと引き寄せるだろう。そして生につぐ生、死につぐ死で大地があなたに乳を授け、〈時
間)があなたを乳離れさせることが繰り返されるだろう。あなたが自らの意志で自発的に、これを
かぎりと自分自身から乳離れさせるまでは。
アビマール……大地はあなたに対しても力を持っているのですか、師よ? なぜなら、あなたも私
たちの中の一人として現れているのですから。
ミルダッド……私は来たいときに来て、去りたいときに去る。私が来たのは、大地に住まう人たち
を大地の束縛から解き放つためだ。
ミカヨン……私は大地から永遠に乳離れしたいと思います。どうしたらよいのですか、師よ?
ミルダッド……そのためには大地を愛し、大地のすべての子どもたちを愛することだ。
大地との収
支決算において残額が〈愛〉のみであるとき、大地はあなたを負債から解放するだろう。

ミカヨン……けれども〈愛〉は執着です。執着は束縛です。                       
ミルダッド……いや、
〈愛〉はただ一つの執着からの自由だ。すべてのものを愛するとき、あなたは
何にも執着しない。

ザモラ……人は〈愛〉によって、〈愛〉に対する侵犯を繰り返すことから逃れ、〈時間〉の車輪を止
めることができるのですか。
ミルダッド……それに達するのは、〈悔い改め〉によってだ。あなたの舌を逃れ出た呪咀は、戻って
来たとき、あなたの舌が愛の祝福に包まれているのを見て、別の宿りを求めるだろう。このように
して〈愛〉は呪咀の反復を阻止する。
 好色な眼差しは、戻って来たとき、生みの母の眼から愛の眼差しが溢れ出ているのを見て、別の
好色な眼差しを求めるだろう。このようにして〈愛〉は好色な眼差しの反復を押しとどめる。
 
邪まな心から送り出された邪まな願いは、戻って来たとき、母なる心が愛の願いに満ち満ちてい
るのを見て、別の場所に巣を求めるだろう。このようにして〈愛〉は邪まな願いの反復を妨げる
 これが〈悔い改め〉

 〈愛〉があなたの唯一の財産になったとき、〈時間〉はあなたに対して〈愛〉以外の何も反復しな
い。いかなる場所、如何なる時間でも愛のみが反復されるとき、それはあらゆる時空を満たす
恒久なものになり、そうして時間と空間の両者は消し去られてしまう。
ヒンバル……それでもまだ一つのことが私の心を悩まし、私の理解を曇らせるのです。どうして私
の父は、他の死に方ではなく、あのような死を遂げたのでしょう?







第二十一章
全能の意志と人間の意志



ミルダッド……
〈時間〉と〈空間〉の子どもであるあなたがたが、〈時間〉とは、〈空間〉の銘板に
刻み込まれた普遍的な記憶であると、いまだに気づいていないのは、奇妙なことだ。
 もし感覚によって限界づけられているあなたがたでも、人生での出来事をある程度覚えていられ
るならば、あなたの誕生より先にあり、あなたが死んだ後も無限に続く〈時間〉は、どれほど多く
の出来事を覚えていられることだろうか?
 私はあなたがたに言う、〈時間〉はありとあらゆることを覚えている、あなた自身が鮮明に記
憶しているもののみならず、まったく気づいていないことまでも。
というのも、時間には忘却がないのだから、そう、最小の動きや息やほんの気まぐれさえも
時間は忘れない。そして〈時間〉に記憶されるすべては、〈空間〉内の事物に深く刻印されて、
いる。

 あなたが踏み歩く大地、あなたが呼吸する空気、あなたが住まう家は、もしあなたにそれを読む
だけの精力と、その意味をとらえるだけの鋭敏さがありさえすれば、あなたの過去の生、現在の生、
来るべき生の記録を、最も微細な細部にいたるまで即座にあなたに明かすだろう。

 生においても死においても、地球上にいても、地球を越えていても、あなたは決して独りではな
く、常に事物や存在とともにいる。事物や存在があなたの生と死において領分を有しているように、
あなたもまた、彼らの生と死に領分を有している。あなたが彼らに係わるように、彼らもあなたに
係わる。あなたが彼らを求めるように、彼らもあなたを求める。

 人間はあらゆるものの中に意志(will)を持っている。おのおのの事物は人間のうちに意志を持っ
ている。その交換は妨げられることなく続く。しかしながら人間の欠陥だらけの記憶は、わざわい
に満ちた劣悪な会計士である。遺漏のない〈時間〉の記憶はそうではない。〈時間〉の記憶は、同胞
たちや宇宙のあらゆる存在と。人間との関係をきわめて正確な収支表につけ、毎瞬毎瞬、そして生
につぐ生、死につぐ死で収支を精算するよう人間に強制する。

 ある家が雷を自分のことろに引き寄せない限りは、雷は決してその家には落ちはしない、落雷によ
る破壊は、雷に原因があるのと同じくらい、その家に原因がある。
自分を突き刺すよう牡牛を招くのでなければ、牡牛は決してその人を突き刺さない、実際は、そのも
の自身が牡牛以上に自分の血に対して責任がある。
 
殺人の被害者は殺人者の短刀を研いでいる。そして両者は致命的な襲撃を引き起こす。
 強奪される者は、強奪する者の動きに指示を与えている、そして両者は強奪を起こす。


 
そう、人間は、災厄を自分に招き寄せておきながら、自分がいつどこでどのように招待状を書き
送ったかをすっかり忘れ、苛立たしい客に対して抗議する。しかし〈時間〉は忘れない。〈時間〉は
しかるべきときに、しかるべき住所におのおのの招待状を配達する。そして〈時間〉は、それぞれ
の招待客をその招待者の住居へと送り届ける。


 
私はあなたがたに言う、訪れた客に対して抗議しないようにしなさい。客は、自尊心を傷つけら
れたせいで、いつまでもぐずぐずととどまることや、訪問の回数を増やすことでー抗議を受けな
かった場合に客自身が妥当だと考えたであろう訪問回数より、ずっと回数を多くすることであなた
に復讐するかもしれないから。
 訪れた客を、その態度や振る舞いがどうあれ、親切にもてなしなさい。というのも、彼らは実際
にはあなたの債権者なのだから、
特に不快な客に対しては、彼らが感謝し満足して去るように
正統な取り分以上のものまで与えなさい、そうすれば彼らがもし再び訪ねるようなことがあって
も、債権者としてではなく友人としてやって来るだろうから。

 どの客も名誉の客であるかのように扱いなさい。そうすれば客の信頼を得られ、その訪問の隠さ
れた動機を学べるかもしれないから。

不運な出来事を、あたかも幸運な出来事であるかの様に受けとりなさい、というのも不運な出来事は
いったん理解されるとすぐに幸運な出来事へと変貌するのだから

その一方で誤解された幸運な出来事は、すばやく不幸な出来事と化してしまう。
あなたがたはその身勝手な記憶に拘わらず、
自分の誕生と死を選んだのである。
その上
その時間と場所のありようをもあなたが選んだのである。

その一方で誤解された幸運な出来事は素早く不幸な出来事と化してしまう。
あなた方の身勝手な記憶は、誰の目にも明かなや隙間のある虚偽で織りなされた網目だ。

賢者を気取る者達は、人間は自分の誕生や死には全く関与していないと宣言している。狭小な
視野で時間と空間をすが目に見る怠惰な者達は、時間と空間内で起こるおおかたな出来事を
即座に偶発事として片付けようとする。彼らの自惚れと欺瞞に気をつけなさい、
私の同行者たち。

〈時間〉と〈空間〉のうちに偶発事はない。いかなることにも間違わず、いかなるものをも見逃さない〈全能の意志〉によってあらゆる出来事は定められている。


雨の滴が泉へと集まり。泉が流れ出て小川やせせらぎへと集まる。小川やせせらぎがより大きな
河へ自分たちを貢物として捧げ、大河がその水を海へと運び、海がはるかに大きな大海へと集結す
る。それと同じように、生命のあるなしを問わず、おのおのの被造物は、おのれの意志を貢物とし
て〈全能の意志〉へと流れ込む。

 私はあなたがたに言う、
あらゆるものが意志を有している。明らかに生命がなく、かくも耳と目
が閉ざされている石でさえも、意志なしではない。意志がなければ、石はなかっただろうし、石が事物に影響を与えることもなければ、事物から影響を受けることもなかっただろう
意志することについての石の意識、存在することについての石の意識は、人間の意識とは段階が異なるにせよ、内容においては異ならない。
 たった一日の生活のうち、どれほどの部分をあなたがたは真に意識していたと主張できるか?
実際のところ、まったく取るに足らない部分でしかない。
 脳や記憶力や感情と思考を記録する手段を持っているあなたがたが、もし。一日の生活の大部分
にいまだ無意識であるならば、どうして石がおのれの生と意志にきわめて無意識だと驚くのか?

 
そしてあなたがたは、
生きていることをあまりにも意識せずに生き、
動いていることをあまりにも意識せずに動いているのと同じく、
自分が意志していることをあまりにも意識せずに意志している。


しかし全能の意志はあなたがたの無意識を意識しており、宇宙の全ての被造物の無意識をも意識している。

〈全能の意志〉は、〈時間〉と〈空間〉内のあらゆる点において。自らを再分配するのを常として
いる。その再分配にあたっては、おのおのの人間やおのおのの事物が意志したものそのものをー
それ以上でもなく、それ以下でもなく、そして意識的に意志してもしなくてもー何であれ、彼ら
に与え返す。しかし人間はそのことを知らず、あまりにもしばしば、すべてが含まれる〈全能の意
志〉の鞄から自分たちにふりかかってくる巡り合わせに失望するだけとなる。人間は、落胆して抗
議し、気まぐれな〈運命〉に対して、自分の失望の怒りをぶつける。

 仲間だちよ、気まぐれなのは〈運命〉ではない。というのも
〈運命〉とは、〈全能の意志〉の別名
に過ぎないのだから。
いまだにあまりにも気まぐれで、あまりにも発作的で、あまりにも進路が定
まらないのは、人間の意志である。人間の意志は、今日は東へ驀進したかと思えば、明日は西へと
突進する。ここであるものを善と識別したかと思えば、別のところでそれを悪だと貶す。今ある人
を友として受け容れても、結局は後でその人と敵対して戦うことになる。

 
私の同行者たちよ、あなたがたの意志は気まぐれであってはならない。諸々の事物や人々とあな
たがたの関係はすべて、あなたがたが彼らに何を望む(Will)か、彼らがあなたがたに何を望むかに
よって決まるのだと知りなさい。そして諸々の事物や人々があなたがたに何を望むかは、あなたが
たが彼らに何を望むかによって決まる。


 それゆえ私はあなたがたにかつて言ったし、今も言うのだ。
いかに呼吸するか、いかに喋るか、
何を願い、何を思い、何を行うかに注意せよと。なぜならあなたの意志は、一つ一つの息、一つ一つの言葉、一つ一つの願い、一つ一つの思い、一つ一つの行為の中にまでも隠されているからだ。


そしてあなたに隠されているものは、〈全能の意志〉には常に露わだ。
 いかなる人間にも、彼にとって苦痛となるような快楽を望んではならない。その快楽があなたを
いかなる苦痛にもましてさらに苦しめることになるといけないから。
 あるいはまた、いかなるものにも、そのものにとって悪となるような善を望んではならない。あ
なたが自分自身に悪を望むことになるといけないから。
 そうではなく、あらゆる人、あらゆるものから、愛を望みなさい。その愛によってのみ。あなた
のヴェールは取り払われ。〈理解〉があなたの心のうちに兆すだろう。そうして初めてあなたの意志
は、〈全能の意志〉の驚くべき神秘に入門を許される。


 
万物への意識を成長させて初めてあなたは、自らのうちにある万物の意志や、万物のうちにあるあなたの意志を意識できるようになる。

 万物のうちにあるあなたの意志と、あなたのうちにある万物の意志を意識するようになって初め
てあなたは、〈全能の意志〉の神秘を知ることができる。


 そして〈全能の意志〉の神秘を知るまでは、自らの意志を〈全能の意志〉に反して立てないよう
にしなさい。そんなことをすれば、敗者になるのは確かだ。あなたの意志が〈全能の意志〉とぶつ
かるたびに、あなたは傷つき苦汁を飲まされる。報復しようとしても、結果として古傷に新しい傷
を加えるだけとなり、苦汁の杯を溢れさせるだけとなる。
 私はあなたがたに言う、もし敗北を勝利に変えたいのならば、

〈全能の意志〉を受け容れなさい。
その神秘の鞄からあなたにふり注がれる事物を、ぶつぶつ言わずにすべて受け容れなさい。
感謝をもって、そしてそれらが〈全能の意志〉のうちで自らの正当で当然な取り分だという信念をもって、受け容れなさい。

そしてひとたび自らの意志の隠された道を理解すれば、あなたは〈全能の意志〉を理解したのだ。
未知なるものを受け容れなさい。そうすればそれは、あなたがそれを知ることを手助けしてくれ
る。それに対して憤激すれば、それは苛立たしい謎にとどまるだろう。
〈理解〉が〈全能の意志〉をあなたの意志の召使となすまでは、あなたの意志を〈全能の意志〉
の僕にしておきなさい。

 このように私はノアに教えた。
 このように私はあなたがたに教える。




第二十二章
男性と女性、結婚と独身


ミルダッド……わが忠実なる記憶ナロンダよ! この百合はあなたに何を語りかけているか?
ナロンダ……私には何も聞こえません、わが師よ。
ミルダッド……百合が「私たちはナロンダを愛しています。その愛のしるしとしてナロンダに、
自分たちのかぐわしい魂を喜んで差し出したい」と言っているのが私には聞こえる。わが不変なる
心ナロンダよ! この池の水はあなたに何を語りかけているか?
ナロンダ……私には何も聞こえません、わが師よ。                          
ミルダッド……この池の水が「私たちはナロンダを愛しています。ですから私たちは、ナロンダと
ナロンダの愛する百合たちの渇きを癒すのです」と言っているのが私には聞こえる。
 わが絶えず目覚めている眼ナロンダよ! 今日という日は、太陽に照らされた腕ですべての事
物をあやしながら、あなたに何を語りかけているか?
 ナロンダ……私には何も聞こえません、わが師よ。                           
ミルダッド……今日という日は、「私はナロンダを愛しています。ですから、太陽に照らされた腕
で、愛しい他の家族とともにナロンダをこんなにも優しくあやすのです」と言っているのが私には
聞こえる。
 ナロンダの生は、かくも多く愛するものがあり、かくも多くのものから愛され、あまりにも充実
しているので、いかなる怠惰な夢や思考にも巣を作らせ卵を孵させるような余地がまったくないだ
ろう?
 まことに、人間は宇宙の最愛の相手。万物は喜んで人間を甘やかしたがっている。しかしそのよ
うな甘やかしによって損なわれない人間は滅多にいない。そして自らを甘やかす手に噛みつかない
人間はさらに少ない。
 損なわれていない者にとっては、蛇のひと噛みでさえ愛に満ちた口づけ。しかし損なわれた者に
とっては、愛に満ちた口づけでさえ蛇のひと噛み。そうではないか、ザモラ?
ナロンダ……………ある夏の日の午後、ミルダッドとザモラと私の三人が〈方舟〉の庭の花壇に水
をやっていたとき、師はこう語った。ザモラは、その間ずっとまったくのうわの空で、元気なく打
ちひしがれていて、師の問いかけによっていわば正気に返り、不意をつかれて非常にまごついた。
ザモラ……師が真実だとおっしやることは真実に違いありません。                  
ミルダッド……そのことはあなたにとって真実なのではないか、ザモラ? あなたは多くの愛に満
ちた口づけによって毒されなかったか? 毒された愛の思い出によって、今苦悶しているのではな
いか?
ザモラ……(涙を噴き出しながら師の足下にひれ伏して)ああ、師よ! あなたの眼から秘密を隠
そうとするとは、私はーあるいは他の誰でもーなんと子供じみて愚かしいことでしょうー た
とえそれを心の一番奥の隠れ家に隠したとしても。
ミルダッド……(ザモラを助け起こしながら)この百合からさえ秘密を隠そうとするのは、なんと     
子供じみて愚かしいことか。
ザモラ……私の心がいまだに純粋でないのを私は知っています。夕べの私の夢が不純であったがゆ
えに。
 今日私は自分の心を浄化したいのです。私はあなたの前に、自分の心を裸にし露わにしたいので
す、わが師よ。ナロンダの前に、この百合の前に、そして百合の根を這い回る土中の虫の前に、自
分の心を露わにしたいのです。私を押し潰す秘密の重荷を、自分の魂から取り除きたいのです。こ
の馨陶しい風を世界中のすべての被造物のところに漂わせたいのです。
 私は若い頃少女に恋しました。彼女は明けの明星よりも美しく、彼女の名前は、まぶたの甘く快
い眠りよりもはるかに私の舌に甘く快いものでした。あなたが祈りと血潮について私たちに語られ
たとき、その言葉のうちにある人を癒す内容を一番よく汲みとったのは、私だったと信じています。
なぜならホグラーの愛はーそれが少女の名前ですがー私の血の指令者であり、申し分なく指令
された血に何かできるか私は知っていたのですから。
 ホグラーの愛があれぼ永遠は私のものでした。永遠を私は結婚指輪としてはめていました。〈死〉
自身をも私は鎧としてまとっていました。自分があらゆる昨日よりも古く、最も後に生まれる明日
よりも若いと感じました。私の腕は天を支え、私の足は大地を駆りました。そしてまた、私の心に
はあまたの輝く太陽がありました。
 でもホグラーは死にました。そして燃え盛る不死鳥のザモラは、灰の山になりました。冷たく生
命のない灰の山からは。新しい不死鳥はもう現れ出ないのです。恐れを知らぬ獅子だったザモラは、
臆病な兎になりました。天空を支える柱だったザモラは、淀んだ池の悲惨な難破船の残骸になりま
した。
 私はザモラのうちから救い出せるものを救い出し、この〈方舟〉に足を向けました。私は自らを、
〈方舟〉の大洪水の思い出と影とともに、生き埋めにすることを望んだのです。幸運にも〈方舟〉に
到着したちょうどその時。一人の同行者が世を去り、私は迎え入れられたのです。
 それから十五年の間、同行者たちはザモラの声を聞き、ザモラの顔を見てきましたが:ザモラの
秘密を聞いたり見たりする者はいませんでした。ひょっとするとこの〈方舟〉の古びた壁と暗い廊
下も、ザモラの秘密に気づいていないかもしれません。庭の樹々や花々や鳥たちは、あるいはその
秘密を少しは知っているかもしれません。しかしわがホグラーのことを、ああ師よ、私よりも私の
竪琴の弦のほうが確実に、あなたにもっと多く告げることができるでしょう。
 あなたの言葉がザモラの灰を暖め始め揺り動かし始めたちょうどその時、そして新しいザモラが
誕生したことをほとんど確信しかかったちょうどその時、ホグラーが私の夢に訪れたのです。その
夢は、私の血を煮え立たせ、燃え尽きた松明、死産のエクスタシー、生命のない灰の山のような今
日という日の現実、すなわち、陰僻な岩山に、私を投げ入れたのです。
 ああ、ホグラー、ホグラー
 お許し下さい、師よ。私は涙をとどめることができないのです。肉体は肉体以外ではありえない
のでしょうか。私の肉体を憐れんで下さい。ザモラを憐れんで下さい。
ミルダッド……憐れみそれ自身が憐れみを必要としている。ミルダッドはいかなる憐れみも持って
いない。しかしミルダッドには、あらゆるものに向けられた溢れんばかりの愛がある。その愛は肉
体にさえ向けられている。(精霊〉にはさらに多くの愛が向けられている。〈精霊〉が肉体という粗、
雑な形体をとっているのは、ただそれをたかちなきものへと溶かすため。ミルダッドの愛は、ザモラを
灰から立ち上がらせ、彼を克服者にするだろう。
  〈克服者〉を私は教える-それは、統一され、自分自身の主人となった人間。
 女への愛によって囚人となった男、男への愛によって囚人となった女は、ともに〈自由〉の高貴
な王冠にふさわしくない。しかし〈愛〉によって一つとなされ、分裂が解消し、統一された男と女
は、まことにその王冠にふさわしい。
〈愛する者〉を従属させる〈愛〉は愛ではない。
 肉と血によって養われる〈愛〉は愛ではない。
 女と男を引き寄せて、結局はより多くの女と男を生み出し、そのことによって彼らの肉体への束
縛を長びかせるだけの〈愛〉は愛ではない。
〈克服者〉を私は教える-それは、あまりにも自由であるため男ではありえず、あまりにも純
化されたため女ではありえない〈不死鳥の人間〉。
〈生命〉のより濃密な領域では雄と雌は一つ。それと同じように、〈生命〉のより希薄な領域では
雄と雌は一つ。その中間は、〈二元性〉の幻影に支配された、永遠の中の断片に過ぎない。その断片
の前も後も見ることができない者たちは、それが永遠そのものだと信じる。彼らは、〈生命〉の法が
〈統一〉であることを知らずに、〈二元性〉の幻影があたかも〈生命〉の核であり本質そのものであ
るかのように、その幻影にしがみつく。
〈二元性〉は〈時間〉のうちでの一段階。〈二元性〉は〈統一〉から由来し、〈統一〉へと通じる。
この段階を早く通過すればするほど、それだけ早く自らの自由を抱擁することになる。
 そして男性と女性は、自らの単一性を意識していない単一の人間に他ならない。彼らは二つに引
き裂かれ。〈二元性〉の苦汁をいやというほど飲まされるので、〈統一〉の美酒を希求するようにな
る。そして彼らはその希求において、意志をもってその美酒を求める。そして求めることによって
〈統一〉を見出し、それを所有するようになり、〈統一〉の卓越した自由を意識するようになる。
 牡馬が牝馬にいななき、牡鹿が牝鹿に呼びかけるがままにさせておきなさい。〈自然〉に駆り立て
られた動物たちの行為は、〈自然〉に祝福され賞賛されている。というのも動物たちは、種の再生産
より高い天命をまだ意識していないからだ。
 牡馬や牝馬、牡鹿や牝鹿といまだに大して変わらない男だちと女たちには、肉の暗い誘惑の中
で互いに求め合うがままにさせておきなさい。彼らには、結婚の許可書と寝室の淫蕩
(licentiousness)を混合させておきなさい。彼らには男根の授精力、子宮の受精力
の喜びを味わわせておきなさい。彼らには種を繁殖させておきなさい。〈自然〉そのものが喜んで
彼らの後援者になり助産婦になる。
そして〈自然〉は彼らに、薔薇の褥を敷いてやるが、薔薇の煉も忘れない。
 
しかしながら希求する男女はたとえ肉体にいる間でも、自分たちの統一を実現しなければならな
い。統一を実現するのは、肉体の交わりに拠ってではなく、肉体からの自由に向かう意志
である。

人々はよく、「人間の本性」と言う。人間の本性とはあたかも固定した成分で、申し分なく測定さ
れ、申し分なく定義され、隅々まで探索され、セックスと呼ばれるものによって四方をしっかりと
境界づけられているかのようだ。
 性の情欲を満たすのは人間の本性である。しかし情欲の荒れ狂う噴出を活用し、それを性を克服
するための手段として用いることは、致命的に人間の本性に反し、ついには苦しむことになる。こ
のように彼らは言う。こういう彼らの無駄話に耳を貸してはならない。
 人間とはかぎりなく広大な存在で、その本性もあまりにも測り知れない。人間の才能はあまりに
も多様で、その力はあまりにも無尽蔵だ。人間に限界を設けようとする者たちに用心しなさい。
 確かに、肉体は人間から重い税を取り立てる。しかし人間が税を収めるのは、ほんの一時だけだ。
誰が未来永劫にわたって僕でいたいか? 主人の課した軛を投げ捨て、税の義務から解放される
ことを夢見ない僕がどこにいるか?
 人間は、僕になるために生まれたのではない。おのれの人間性に対してでさえ、僕となるために
生まれたのではない。人間は常にあらゆる種類の隷属からの自由を希求している。そして確実に
〈自由〉は人間のものだ。
 
克服を意志する者にとって血縁関係とは何か? 意志をもって打ち破らねばならない結びつきで
ある。
〈克服者〉は、自分の血があらゆる血とつながっていると感じる。それゆえ彼はいかなる血とも
結びつかない。

 希求しない者には種族を再生産させるがいい。希求者には繁殖させるべき別の種族がいる-そ
れがまさに克服者の種族だ。
 克服者の種族は、男根と子宮から生まれ降りてくる(descend)のではない。それはむ
しろ、克服せんとする不屈の意志によって指令される血が流れる独身者の心から生まれ登ってくる。
 私はあなたがた、そして世界中にいるあなたがたのような、もっと多くの人々が独身の誓いを立
てたのを知っている。しかしザモラの夕べの夢が証明するように、あなたがたは独身からはほど遠い。


 僧の衣をまとい、厚い壁と重々しい鉄の門の背後に自分たちを隔離する者が、独身者なのではな
い。多くの僧や尼僧は、最も淫らな者より淫らだ。彼らの肉体は、他の肉体と決して交わったこと
がないと、まったく嘘偽りなく―誓うけれども。しかし真の独身者とは、心と精神が独身であ
る者たちだ。僧院にいようが、世間の市場にいようが関係ない。
私の同行者たちよ、女性を神聖な存在として敬いなさい。種族の母としてではなく、配偶者や恋
人としてではなく、二元的な生の長い骨折りと苦しみの中での双子の片割れとして、自分のパート
ナーとして、分かち合うための分身として、敬いなさい。というのも、女性なしに男性は〈二元
性〉の断片を通過できないのだから。女性によって男性は統一を見出し、男性によって女性は〈二
元性〉からの自由を見出すだろう。そして双子はやがて一つに結び合わされるだろう-それがま
さに男でも女でもなく、〈完全な人間〉である〈克服者〉だ。
〈克服者〉を私は教える-統一され、自分自身の主人となった人間を。ミルダッドがあなたが
たから去る前に。あなたがた一人一人は克服者となっているだろう。
ザモラ……あなたが私たちから去ることを聞くのは、私の心を悲しませます。もし私たちがあなた
を探しても見つけられない日が来たら、ザモラは絶対に自らの息を終わらせようと意志するでしょう。

ミルダッド……ザモラ、あなたは多くの物事を意志することができる・・あらゆる物事を意志する
ことができる。しかし
一つだけ意志できないことがある。それは、あなたの意志、すなわち〈生
命〉の意志であり、〈全能の意志〉であるあなたの意志を終わらせることだ。〈存在〉である〈生
命〉は、決して自らの非存在を意志できない。あるいはまた、非存在が意志を持つこともできない。

そう、神でさえザモラを終わらせることはできない。


私があなたがたから去ることについては、確かに肉体のうちにいる私を探しても見つけられなく
なる日は来る。なぜなら、この地球以外でもなさねばならぬ仕事が私にはあるのだから。しかしど
こであろうと、私は仕事を未完成には残さない。だから気を落とすことはない。ミルダッドは、あ
なたがたを克服者にするまではー統一され、完全に自己を支配する人間にするまでは―あなた
がたから去ることはない
 あなたがたが克己と〈統一〉を獲得したときには、ミルダッドはあなたがたの心の定住者となり、
ミルダッドの名前はあなたがたの記憶で決して錆びつかないだろう。
 このように私はノアに教えた。
 このように私はあなたがたに教える。



第二十三章
老いの重荷と癒し



ナロンダ……………〈方舟〉の厩舎で一番年老いた牝牛のシム・シムは、五日の間病にふせり、餌
や水に触れようとしなかった。シャマダムは、シム・シムをこのまま死なせて何の利益も得られな
いよりは、屠殺してその肉と獣皮を売却し、利益を上げるほうが賢明だと言って、屠殺人を呼びに
やった。
 師はこのことを聞くと、深く思いにふけった様子になり、厩舎のシム・シムの小屋に直行した。
七人は彼の後に続いた。
 シム・シムは、ほとんど動かず悲しげに立っていた。その顔はうなだれ、眼は半ば閉じ、体は剛
毛立ち光沢を失っていた。時折無礼な蝿を追い払うためにかろうじて耳を動かすだけだった。大き
な乳房は、腿の間にしぼみうつろに垂れ下がっていた。シム・シムは、長く実り豊かな生涯の末期
に、乳をしぼられる甘い胸の痛みを拒まれていた。シム・シムの腰骨が突き出したさまは、二つの
墓石のように不気味でわびしかった。その肋骨と椎骨はたやすく数えられた。先端に重い毛の房が
ついた長く痩せた尾は、硬直し、まっすぐ下に垂れていた。
 師は苦しんでいるこの動物に近づき、角と眼の間や頬の下をさすり始めた。時々手を背や腹のほ
うにも伸ばした。その間ずっと師は人間に話しかけるようにシム・シムに話しかけた。

ミルダッド……食べ戻しはどこだ、心優しいシム・シムよ? シム・シムはあまりにも多くを与え
たので、噛むべき小さな食べ戻しを自分に残しておいたことさえ忘れてしまった。そしてシム・シ
ムにはまだ与えるものが多くある。雪のように白いシム・シムの乳は、深紅色の血になって今日ま
で私たちの血管を循環している。シム・シムの産んだたくましい牡牛たちは、私たちの畑で重い鋤
を引き、多くの飢えた口を養う助けとなっている。シム・シムの産んだ優美な牝牛たちは、私たち
の牧場を元気に駆け回っている。シム・シムの排泄物でさえ、庭園から採れるみずみずしい野菜や、
果樹園から採れる風味豊かな果物となって私たちの食卓を飾ってくれる。
 私たちの峡谷は、シム・シムの豊かな胸から吐き出される大きな鳴き声をいまだに反響させ続け
ている。私たちの泉は、シム・シムの優しく愛らしい顔をいまだに映し出している。私たちの土は、
シム・シムの不滅の蹄の跡をいまだに熱い慈しみをもって守っている。
 牧場の草はシム・シムに食物を提供するのが実に嬉しい。太陽はシム・シムを愛撫するのがい
たって楽しい。そよ風は大いに喜んでシム・シムの柔らかく光沢のある毛皮を滑って行く。ミル
ダッドは、老いの砂漠を通じてシム・シムにまみえることができ、別の太陽が輝き、別のそよ風が
吹く別の国の牧場への案内者になることができて、とても感謝している。
 シム・シムは多くを与え、多くを受け取った。しかしシム・シムにはまだそれ以上に多くの与え
るべきものと受け取るべきものがある。
ミカスター……シム・シムはあなたの言葉を理解できるのですか。それであなたは、まるでシム・
シムが人間のような理解力を持っているかのように語りかけるのですか。
ミルダッド……大切なのは言葉ではない、ミカスター。大切なのは、言葉のうちで触れあうものだ。
それに対しては獣でさえ感受力がある。その上、シム・シムの柔和な瞳から一人の女性が私を覗き
込んでいるのが見える。
ミカスター……こんなにも老いさらばえたシム・シムに話しかけることに、どんな意味があるので
すか。師は、シム・シムの余命を延ばし、老いの荒びにとどまらせようと望んでいるのですか。
ミルダッド……老いは、人間にとって恐ろしい重荷であるように、獣にとっても恐ろしい重荷だ。
人間は、冷淡で無情なゆえに老いの重荷をさらに倍加している。新生児に対しては、最高の気遣い
と愛情を捧げるのに、年齢の重荷を背負った人々に対しては、気遣いよりは無関心、同情よりは嫌
悪を向ける。人間たちは、まだ乳離れしない子を早く一人前にしようとせき立てるのとちょうど同
じように、老人が早く墓に飲み込まれるようにとせき立てる。
 あまりに幼い者とあまりに年老いた者は、等しく無力である。しかしながら幼な児の無力さは、
万人から愛に満ちた献身的な助けを引き寄せる。ところが一方、老人の無力さは、ごく少数の者か
ら恨みがましい助けを得るに過ぎない。まことに、老人は幼い者以上に同情に値する。
 かつては敏感で、きわめてかすかな囁きをも感知した耳が、言葉が長い間声高にノックしないか
ぎりその入場を許可しなくなるとき、
 かつては澄んでいた眼が、恐ろしく不気味なシミと影の踊り場となるとき、
 かつては翼を持った足が鉛の塊になり、かつては生命を鋳造した手が壊れた鋳型になるとき、
 膝の関節がはずれ、頭が首に乗る指人形になるとき、
 臼歯が磨り潰され、歯痕がわびしい洞窟となるとき、
 立ち上がるときには、倒れる恐れに冷汗をかかねばならなくなり、坐るときには、二度と再び立
ち上がれないのではないかという痛ましい不安を抱かねぼならなくなるとき、
 食事をとれば、食後の後遺症を恐れねばならなくなり、食事をとらなければ、憎むべき〈死〉に
忍び寄られるようになるとき、
そう、老いが人間に訪れたとき、その時こそ。私の同行者たちよ、愛情をこめて眼と耳を貸し。
手と足を授け、彼の衰え行く力を支えるべき時だ。そうすることで彼に、力の弱まりゆく日々にお
いても、力が強まりゆく幼な児や若者だった頃と少しも変わらず、自分が〈生〉にいとしまれてい
ると感じさせるのだ。
 八十年の歳月は、永遠の中では瞬き以上のものではないかもしれない。しかしながら八十年の間
自らの種を蒔いてきた人間は、大いに瞬き以上のものだ。彼の生命を収穫するものすべてにとって
彼は食糧だ。そしてすべてのものにょって収穫されない生命がどこにあろうか?
 あなたがたは、まさに今この瞬間、かつてこの大地を歩んだすべての男女の収穫物ではないか?
あなたがたの語りは、彼らの語りの収穫物以外の何物だろうか? あなたがたの思考は、彼らの思
考の採集物以外の何物だろうか? あなたがたの衣服や住まい、食べ物や道具、法律や伝統や因習
-それらは、かつて存在した人々の衣服、住まい、食べ物、道具、法律、伝統、そして因習では
なかろうか?
 あなたがたは、ある特定の時に、ある一つのものを収穫するのではなく、あらゆる時間にあらゆ
る事物を収穫している。あなたがたは、種蒔き人であり、収穫であり、刈り取り人であり、畑であ
り脱穀場である。もしあなたの収穫が貧弱ならば、あなたが他者に蒔いた種と、他者があなたに蒔
くのを許した種を調べなさい。また、刈り取り人とその鎌、そして畑と脱穀場をも調べなさい。
あなたが、その生命を収穫して穀物庫に蓄えた老人は、確実に最高の気遣いを払うに値する。収
穫されるべきものがいまだに豊かな老人の日々を、無関心によって苦くするならば、あなたが彼か
ら集めて蓄えたもの、そしてあなたがこれから集めようとしているものは、確実にあなたの口に苦
いだろう。衰えゆく獣についても同じである。
 作物によって利を得ながら、その種蒔き人と畑を呪うのは正しくない。
 あらゆる種族、あらゆる風土の人間に親切でいなさい、私の同行者たち。彼らは、神へと向かう
旅の食物である。しかしとりわけ、老人に親切でありなさい。不親切にょってあなたの食物が汚さ
れ、あなたが旅の目的地にもはや辿り着けなくなるといけないから。
 あらゆる種類、あらゆる年齢の動物に親切でいなさい。動物たちは、長く苦しい旅の準備にあっ
て、もの言わぬ忠実なあなたの援助者である。しかしとりわけ、老いた動物に親切でありなさい。
頑ななあなたの心によって、動物たちの忠実が不実に変わり、その助けが妨げに変わるといけない
から。
 シム・シムの乳によって精力をつけておきながら、もう乳を出せないからと言って、その喉を屠
殺人の刃に引き渡すのはひどい忘恩だ。
ナロンダ……………師がこの言葉を語り終わるか終わらないうちに。シャマダムが屠殺人を連れて
やって来た。屠殺人はまっすぐシム・シムのところに行った。シム・シムを見てすぐに、彼は楽し
げなからかい口調で叫んだ。「どうしてこの牝牛が病気で死にそうだなどどおっしゃるのです?
この牛は私より健康です。ただ私が飢えていないのに対して、この牛が-かわいそうなことに
―ひどく飢えている点を除けばね。食べ物をおやりなさい。
 そして私たちの驚きは本当に大きかった。シム・シムを見ると、食べ戻しを噛んでいた。シャマ
ダムの心でさえ和らげられ、牛のごちそうのうちで最高のものを持ってくるよう命じた。そしてシ
ム・シムはそれを美味しそうに食べた。




第二十四章
食べるために殺すこと



ナロンダ……………シャマダムと屠殺人が去った後、ミカヨンは師に訊ねた。
ミカヨン……食べるために殺すことは、師よ、法にかなっていますか?
ミルダッド……〈死〉を餌にして生きることは、〈死〉の食物となることだ。他者の苦痛によって生
きることは、苦痛の餌食となることだ。このように〈全能の意志〉は法を定めた。そのことを知り、
自らの進路を選びなさい、ミカヨン。
ミカヨン……もし私に選ぶことがかなうのなら、不死鳥のように、肉ではなく事物の芳香によって
生きることを選びたいと思います。
ミルダッド……それは本当に素晴らしい選択だ。信じるがいい、ミカヨン、人間が肉と血ではなく、
事物の神髄である芳香によって生きる日がやって来る。そして希求者にとってその日は遠くない。
 というのも希求者は、肉の生が肉のない性への架け橋に過ぎないことを知っているから。
 そして希求者は、粗雑で不完全な感覚が、かぎりなく繊細で完全な感覚の世界への覗き穴でしか
ないことを知っている。
 そして希求者は、自分の引き裂いたすべての肉が、遅かれ早かれ、必ず自分自身の肉によって修
復されなければならないと知っている。骨を砕いた者は、自分自身の骨で再生しなければならない。
血を流させた者は、その一滴一滴を自分自身の血で再び満たさなければならない。なぜならこれが
肉の法だから。
 そして希求者はこの法の束縛から解放されたいと願う。それゆえ彼らは体の欲求を最小限に引き
下げ、そのことによって肉に対する負債-実際には〈苦痛〉と〈死〉に対する負債なのだが-
を軽くしようとする。
 希求者は、自らの意志と希求によって自分自身を抑制する。その一方で希求しない者は、自分に
禁止を設けてくれる他者を待ち望んでいる。希求しない者にとっては法にかなうとされる無数の事
物を、希求者は、自分自身にとって非合法であるとする。
 希求しない者が、ポヶッ卜や腹にしまうものをより多く。さらに多く得ようとするのに対し、希
求者はポヶッ卜なしにおのが道を進み、いかなる生き物の血や痙攣も腹に入れない。
 希求しない者が獲得するもの-あるいは獲得すると思うもの-を希求者は、霊の明るみと理
解の甘露のうちにふんだんに獲得する。
 緑の野原を見ている二人の男のうち、一人はこの土地からとれる作物が何石ほどになるかを見積
り、その生産高が金銀でどのくらいになるかを計算する。もう一人は、眼で野原の緑を吸収し、思
いによってことごとくの葉に口づけし、魂ですべての小さな根と小石、すべての土くれと親しく交
わる。
 私はあなたがたに言う、後者がこの野原の正当な所有者だと。たとえ法律上の所有権が前者にあ
ろうとも。
 家の中に坐っている二人の男のうち、一人はその家の所有者、もう一人は単なる客である。その
所有者は、家の建築費と維持費、衣裳やタペストリーの価格、他の衣類や家具の価格について長々
と話す。一方客は心のうちで、石を切り、仕立て、この家を建造した手を祝福し、衣裳や着物を
織った手を祝福し、森に入って樹々を伐りとり、窓や扉、椅子や机を作った手を祝福する。そして
彼は、これらのものを創り出した〈創造的な手〉を高めることによって、霊において高められる。
 私はあなたがたに言う、この客こそがその家の定住者である。それに対し、名義上の家の所有者
は、背中に家を乗せて運んでいるが、そこには住んでいない荷物運搬の家畜でしかない。
 ある子牛の母牛から乳を飲ませてもらっている二人の男のうち、一人は子牛の柔らかい肉が。間
もなく来る自らの誕生日の祝賀会でのごちそうになるだろうと考えてその子牛を見る。もう一人は、
その子牛を同じ乳首から乳を飲んでいる兄弟と思い、若い獣とその母に対する愛情に満たされる。
 私はあなたがたに言う、子牛の肉によって真に滋養を与えられるのは後者である。それに対し、
前者は同じものによって毒される。
 そう、心に入れられるべき多くのものが、腹の中に入れられている。
 眼と鼻にしまわれるべき多くのものが、ポヶッ卜と倉庫にしまわれている。
 精神で噛み砕かれるべき多くのものが、歯で噛み砕かれている。
 体を保持するために必要なものはごくわずかだ。体に与えるものが少ないほど、体はあなたに多
く与え返す。体に与えるものが多いほど、体はあなたに少なく与え返す。
 まことに事物は、倉庫や腹の中にあるときよりも、その外にあるときのほうがあなたをよりよく
支える。
 しかしあなたがたは、まだ事物の芳香のみでは生きることができないので、大地の豊かな恵みか
ら必要なものを-しかし必要なもの以上ではなく-恐れずに受け取るがいい。というのも、大
地のもてなしは手厚く親切なので、その豊かな恵みは常に子どもたちの前に広げられているのだか
ら。
大地は自分自身を養う以外にどうしようがあろうか? それ以外どこに行きようがあろうか?
大地は大地を養わなければならない。そして大地はけちな主人ではない。その食卓はすべてのもの
に常に豊かに広げられている。
 大地は、手の届かないところに何も置かず、あなたがたを食卓に招いている。それと同じように
あなたがたも大地を食卓に招き、最高の愛と誠実をこめてこう言わなければならない。
 「おお、言葉では言い表せない母よ! あなたは、必要なものを私か得るために、あなたの豊かな
恵みを私の前に置きました。それと同じように私も、必要なものをあなたが得られるよう、自分の
心をあなたの前に置きます」
 大地の豊かな恵みを食する際に、もしこれが導きの霊であるならば、何を食するかはほとんど問
題ではない。
 しかしもしこれが真に導きの霊であるならば、大地からいかなる子どもたちも奪い取らないだけ
の賢明さと愛を持たねばならない。とりわけ、生きる喜びと死ぬ苦痛を感じるようになったものた
ち-〈二元性〉の断片に到達したものたちを奪い取ってはならない。なぜなら彼らもまた、ゆっ
くりと苦労して、〈統一〉への道を進んでいるからだ。そして彼らの道はあなたがたの道よりも長
い。彼らの進行を遅らせれば、彼らから進行を遅らせられるだろう。
アビマール……あらゆる生命あるものは死ぬことが定められているのですから死を引き起こす
原因はあれこれあるにせよ、どうして私がいずれかの動物の死の原因になることに尻込みしな
ければならないのでしょう?
ミルダッド……あらゆる生命あるものは死ぬことが運命づけられているのは本当だが、生命あるも
のの死の原因となるものはわざわいである。
 あなたがたは私にナロンダを殺すよう任命したりはしない。それは、私がナロンダをとても愛し、
私の心にはいかなる血への渇望もないことをあなたがたは知っているからだ。同様に〈全能の意
志〉はいかなる人間にも、同胞や動物を殺すように任命したりはしない。〈全能の意志〉に殺すため
の道具にふさわしいとみなされないかぎりは。
 人間が今のような人間のままでいるかぎり、人間たちの間に盗みや強奪、虚偽や戦争、殺人、そ
してあらゆる種類の暗く邪悪な情欲は絶えないだろう。
 しかし泥棒や強盗はわざわいである。嘘つきや戦争の仕掛人はわざわいである。殺人者、そして
心に暗く邪悪な情欲を宿らせるすべての者はわざわいである。というのも彼らはあまりにもわざわ
いに満ちているので、〈全能の意志〉によってわざわいの使者として使われるからである。
 私の同行者たちよ、心をあらゆる類いの暗闇、あらゆる類いの情欲から清めなさい。それは、こ
の苦しみの世界に、苦しみからの解放をもたらす喜びに満ちた知らせを伝えることに、あなたがた
が適任だと〈全能の意志〉が見出すためである。その知らせは、克服の知らせであり、〈愛〉と〈理
解〉による〈自由〉の知らせである。
 このように私はノアに教えた。
 このように私はあなたがたに教える。




第二十五章
葡萄祭の前夜


らのボランティアの一団とともに、盛大な祭りの準備に夜も昼も忙殺されていた。師は、力を惜し
まずきわめて熱心に働いたので、シャマダムでさえも満足そうに、ミルダッドはよくやっていると
述べた。
  〈方舟〉の巨大な地下貯蔵庫を掃除し拭き清めなければならなかった。そこの何十もの大きなワ
イン壷や樽をきれいにして、新しいワインが入れられるようにしなければならなかった。その一方、
毎年の〈葡萄祭〉で、前年に収穫された葡萄からつくられたワインを売ることが慣習となっていた
ため、去年の収穫を詰めた多くの壷や樽は、客が味見して中身を調べられるよう整えて展示しなけ
ればならなかった。
 広大な〈方舟〉の中庭は、きちんと手入れされ片づけられて、そこに何百ものテントや仮小屋が
立てられた。それは、まる一週間続く祭りの間、巡礼者が泊まったり、商人が自分の商品を展示す
るためのものだった。
 大きな葡萄搾り器を手入れし、多くの客や後援者たちが駿馬や駿馬や駱駝に乗せて〈方舟〉に運
んでくるおびただしい量の葡萄を受け容れられるよう整えておかなければならなかった。食糧の準
備が足りない人々、あるいはまったく準備なくやって来る人々に売るために、莫大な量のパンを焼
いたり、その他の食糧を用意しなければならなかった。
  〈葡萄祭〉は、もともとは毎年の葡萄収穫の日に感謝の祈りを捧げる祭日だったが、シャマダム
の類稀なる商才と眼端のきく才能のおかげで、期間が一週間に延ばされ、一種の定期市に変えられ
たのだった。この祭りには、近郊や遠方からあらゆる階層の男女が集まり、その数は年ごとに増加
していた。王子や貧者、農民や熟練工、利潤の追求者や快楽の追求者、あるいは他の目的の追求者、
酔客や徹底した節制家、敬虔な巡礼団や不信心な徒党、寺院の人間や酒場の人間、彼らが連れて来
る荷物運搬用の家畜-このような雑多な大群が毎年二回、秋の〈葡萄祭〉と春の〈方舟祭〉の折に、
静謐なオルター山に押しかけてくるのだった。
このどちらの機会にも手ぶらで〈方舟〉に巡礼に来る者はなかった。誰もが〈方舟〉へのなんら
かの貢物を持ってきた。その貢物は、葡萄の房や松ぽっくりから、真珠やダイヤモンドの首飾りま
で様々だった。どんな商売にも売上げに一割の税金が課せられた。
 祭りの開催日には、葡萄の房が垂れ下がる大きな棚の下の高い演壇上に坐った長老が群衆を歓迎
して祝福し、人々の貢物を祝福して受け取り、それから新しいワインの最初の一杯を皆とともに飲
むことが慣習となっていた。長老は首の長い大きな瓢箪から自分の杯にワインを注ぎ、それからそ
の瓢箪を同行者の一人に手渡す。その瓢箪は、その後大勢の人々に順に回され、空になるたびに新
たに注ぎ込まれる。全員が杯を満たすと長老は、人々に杯を高く掲げ、聖なる葡萄の讃歌を自分と
ともに歌うよう合図する。その歌は、父なるノアとその家族が初めて葡萄の血を味わったときに
歌ったものだと言われている。そして歌が終わり、喜びの叫びとともに杯を空けた後、群衆はそれ
ぞれ様々な商いや快楽を求めて散会する。
 そしてこれが聖なる葡萄の讃歌である。
聖なる葡萄を讃えよ!
驚くべき不思議な根が
しなやかな若枝を育て
その黄金の果実を
みずみずしいワインで満たす
聖なる葡萄を讃えよ!
泥沼に坐礁した
大洪水の孤児たちよ
恵み深い枝の
血を祝福し味わえよ
聖なる葡萄を讃えよ!
あなたがた、土くれの囚われ人よ
あなたがた、さまよえる巡礼者よ
蹟いと道は
聖なる植物のうちにある
葡萄、葡萄、葡萄よ!
 祭りが開催される前日の朝、師の姿が消えていることが発見された。七人は言葉に言い表せない
ほど衝撃を受け、すぐさまきわめて徹底的な捜索を行った。捜索は夜昼通して行われ、深夜になっ
ても七人は、松明とランタンで〈方舟〉の中や近郊を探し続けた。しかしいかなる痕跡も発見でき
なかった。シャマダムは大いに心配した様子で、まったく動転しているように見えたので、師の不
思議な失踪の責任が彼にあるとは誰も疑わなかった。しかし師がなんらかの邪悪なしわざによって
失踪したのだと誰もが確信していた。
 盛大な祭りが始まったが、七人は悲しみに打ちひしがれて押し黙り、影のように歩き回った。群衆
が讃歌を歌ってワインを飲み、長老が高い演壇から降りたとき、群衆の喧騒とざわめきをかき消さ
んばかりの叫び声が聞こえてきた。「我らはミルダッドが見たい。ミルダッドが語るのを聞きたい」
 その声は、ラスティディソのものだとわかった。彼は、師が自分に語り、自分になしたことすべ
てをあまねく広め伝えていたのだった。ラステゴアイソの叫びはすばやく大勢に伝わり、師を強く
求める叫びは一面に広がり、耳を聾せんばかりになった。その叫びは、私たちの眼に涙を溢れさせ、
私たちの喉を万力で押しつけた。
 突然騒ぎが収まった。群衆を大いなる静寂が覆った。私たちは自分の眼が信じられなかった。高
い演壇に立った師が、沈黙したまま手を振っていたのだった。




第二十六章
葡萄祭でミルダッドが熱弁を振るう


ミルダッド……このミルダッドを見るがよい。彼の作物はいまだに収穫されず、その血はいまだに飲ま
れていない。
 ミルダッドにはその作物が重い。しかし収穫者たちは、なんということか、他の葡萄園で忙しい。
 ミルダッドは血が溢れ返って息が詰まりそうだ。しかし杯を持つ者たち、飲む者たちは、他のワ
インでほとんど酔い潰れている。
 鋤と鶴嘴と鎌を持つ人々よ、私はあなたがたの鋤と鶴嘴と鎌を祝福する。
 あなたがたは今日に至るまで、何を耕し、何を掘り出し、何を刈り込んできたのか?
あらゆる種類の雑草がはびこり、恐ろしい獣やいまわしい拠虫類が繁殖し、跋扈している完全な
ジャングルと化したおのれの魂のおぞましい荒れ地を、あなたがたは耕したか?
 暗闇でからみつき、あなたがたの根を窒息させ、蓄の結実を妨げている有害な根を、あなたがた
は掘り出したか?
 活発な虫に喰われてがらん洞にされ、寄生虫の猛襲によってしおれた枝を、あなたがたは刈り
取ったか?
 地上の葡萄園を耕し、掘り出し、刈り込むことをあなたがたはよく学んできた。しかしながら地
上にはない葡萄園、すなわちあなたがた自身は、耕されないまま悲惨に荒れ果てている。
 葡萄園に気を配るより先に、葡萄園の経営者に気を配らないかぎり、すべての労働はまったく無
駄である。
 手にたこのできた人々よ! 私はあなたがたのぶ厚い皮膚を祝福する。
 鉛直線と定規の友よ、ハンマーと鉄敷の同行者よ、盤と鋸を道連れとする人々よ、あなたがた
は自ら選んだ職芸全般に大いに有能だ。
 あなたがたは、事物の高さや深さの見つけかたを知っている。しかし自分自身の高さや深さの見
つけかたを知らない。
 あなたがたはハンマーと鉄敷で器用になまの鉄槐の形を整える。しかし、いかにして〈意志〉の
ハンマーと〈理解〉の鉄敷でなまの人間の形を整えるのかを知らない。あるいはまた、打ち返すこ
となど微塵も考えずに〈理解〉の鉄敷に打たれるという、測り知れないほど貴重な授業を鉄敷から
学んでもいない。
 同じようにあなたがたは、木材や岩に愁や鋸をいれるのがとても上手だ。しかし、いかにしてぶ
ざまで節くれ立った人間を、端正で滑らかにするのかを知らない。
 自分の職芸をまず職人に用いないかぎり、すべての職芸はまったく無駄である。
 人々が母なる大地の賜物と同胞たちの手になる生産物を必要としているのに応じて、人々は収益
のために商いをする。
 私は、その必要、賜物、生産物を祝福し、商いまでも祝福する。けれども収益そのものをー本
当は損失なのであるが―、私は祝福することはできない。
 不吉な夜の静寂の中で一日の決算をするとき、あなたは何を利益とし、何を損失とするのか?
原価を上回った売上金を利益とするのか? ならば、お金のために費やされたその日は、得た金額
がいかに大きかろうとも、実際は無価値だ。そしてその日の調和、平安、光の無限の豊かさは、す
べてあなたにとって損失となる。その日の絶えざる〈自由〉への呼びかけもまた、損失となる。贈
り物としてその日が掌に乗せてあなたに差し出した人々の心もまた、損失となる。
 あなたの主たる関心事が人間の札入れにあるとき、いかにして人間の心に到る道を見いだせよう
か? そして人間の心に到る道を見いだせないとき。いかにして神の心に到ることを望めようか?
 そして神の心に到らないかぎり、いかなる生があなたにあるというのか?
 もしあなたが利益と評価するものが損失であるならば、損失は計り知れず大きい。
 あなたがたの商いはまことにむなしい。その利益に勘定されるのが〈愛〉と〈理解〉でないかぎ

 笏と冠を持った人間よ!
 傷つけることがあまりに早く、傷を癒す軟膏を塗ることがあまりにも遅い手の中にある笏は、蛇。
〈愛〉の香油を処方する手の中にある笏は、暗影と運命を先取りする避雷針。
 自分の手に何があるかをよく調べなさい。
 ダイヤモンド、ルビー、サファイアがちりばめられた黄金の冠は、虚栄と無知と人に対する権力
欲でふくれ上がった頭に、まったく不格好に、悲しげに、居心地悪げに坐っている。そう、かくも
仰々しく王座にたてまつられたこのような冠は、その王座自体を嘲る棘でしかない。一方、最も稀
で最も貴重な宝石の冠は、自らの無価値性にあまりにも謙虚なので、〈理解〉と自己に対する勝利の
光輪が輝く頭に坐ることを潔しとしない。
 自分の頭をよく調べてみなさい。
 あなたは人間の統治者となりたいのか? それならばまず自らを統治することを学びなさい。
自己自らがよく統治されていないかぎり、いかにしてよく統治することができようか? 風に翻
弄され泡立つ波が、海に平安と静謐を与えることができるか? 涙に満ちた眼が、涙に満ちた心に
祝福の微笑みを投げかけることができるか? 恐れや怒りで震える手が船を水平に保てるか?
 人間の統治者は人間に統治されている。そして人間は、騒乱、無秩序、混沌に満ちている。海と
同じように、人間は空からのいかなる風にもさらされる。海と同じように、人間も、潮が満ちては
引き、時折岸に乗り上げそうになる。しかし海と同じように、人間の深みは静謐で。うわべの激し
い風の打擲を免れている。
 もし真に人間を統治したいのなら、その内奥の深みへと飛び込みなさい。なぜなら、人間は泡立
つ波以上のものだから。しかし人間の内奥の深みに飛び込むためには、まず自分自身の内奥の深み
に飛び込まなければならない。それを実行するには、手が自由に感じることができるよう、笏を置
き、頭が邪魔物なく考え評価できるよう、冠をとらなければならない。
 あなたがたの規則はすべてむなしい。あなたがたの法はすべて無法。あなたがたの秩序はすべて
混沌。あなたがたが、笏と冠で戯れることを趣味として好む、自らの内なる御しがたい人を統治す
ることを学ばないかぎりは。
 香炉と〈書物〉を持った人間よ! あなたがたは香炉で何を焚くのか? 〈書物〉に何を読むの
か?
特定の植物のかぐわしい中心部からにじみ出て凝結する琥珀色の液を、あなたがたは焚くのか?
しかしそんなものは公共の市場で売買されている。そのごくわずかを焚いただけでも、いかなる神
をも悩ませるに充分だ。
 焚いた香の匂いで憎悪、妬み、貪欲の悪臭を消せると思うのか? あら探しをする眼、偽る舌、
淫らな手の悪臭を消せると思うのか? 信仰としてパレードする不信仰や、祝福に満ちた楽園だと
自画自賛するむさくるしい世俗の悪臭を、消せると思うのか?
 神の鼻孔には、これらすべてのものが飢え死にし、一つまた一つと心の中で火葬され、その灰が
天の四方の風にまき散らされるときの匂いのほうがまだしも快い。
 あなたがたは香炉で何を焚くのか? 追従、賞賛、哀願か?
 怒れる神は、怒りではちきれんばかりにさせておくがいい。賞賛に飢えた神は、賞賛を死ぬほど
渇望させておくがいい。冷酷な神は、冷酷さゆえに死ぬにまかせておくがいい。
 しかしながら神は怒ってはいない。賞賛に飢えてはいない。心が冷酷でもない。むしろ怒りに満
ち、賞賛に飢え、心が冷酷なのはあなたがたのほうだ。
 神があなたがたに燃やしてほしいのは香ではなく、怒りと自尊心と冷酷さだ。そのことによって
あなたがたが、神のように自由で全能になることを、神は望んでいる。そして神はあなたがたの心
が香炉であることを望んでいる。
あなたがたは〈書物〉に何を読むのか?
 寺院の壁と丸天井に金文字で書かれた戒律を読むのか? それとも心に刻み込まれた生き生きし
た真実を読むのか?
 演壇から教えられ、論理と誰弁によって熱烈に防護され、必要とあれぼ金と剣の刃で防護される
教義を読むのか? あるいは、教えられるべき教義でも防護されるべき教義でもなく、寺院の中で
あろうと外であろうと、夜であろうと昼であろうと、低い場所であろうと高い場所であろうと、〈自
由〉への意志をもって歩かれるべき〈道〉である〈生命〉を読むのか? そしてあなたがたがその
〈道〉を歩き。その目的地を確信していないかぎり、いかにして大胆に他人をその〈道〉に誘うこと
ができようか?
 あるいは、現世で得られるものをいかばかり出せば、いかほどの天国が買えるかを人に示す図表、
地図、価格表を〈書物〉に読むのか?
 ソドムの道化にして使者たちよ! おまえたちは人々に天国を売り、その代金として彼らの現世
の分け前を取ろうとする。おまえたちはこの世を地獄にして、人々にそこから逃げるよううながし
ながら、現世の深い塹壕へと自らを囲い込む。どうしておまえたちは、人々に天国の分け前を売っ
て、現世での取り分を得るようにさせないのか?
 もし自分の〈書物〉をよく読んだならば、あなたがたは、いかにすればこの世を天国に変えられ
るかを人々に示したいと思うだろう。というのも、天国の心を持つ者にはこの世が天国なのだから。
一方俗世の心を持つものには天国が俗世である。
人間と同胞たちを隔てる柵、人間とあらゆる被造物を隔てる柵、
り払い、人間の心に天国を顕現させなさい。しかしそのためには、
自らが天国の心をしていなければならない。
天国とは、買ったり賃貸したりする花咲く園のことではない。そうではなく、天国とは、この地上
と同じく無限の宇宙のいかなるところでも、到達可能な存在の状態のことである。どうして首を
伸ばし、目を点の彼方へ凝らすのか
 地獄とは、多く祈り、多く香を焚くことで逃れられる煮えたぎる熔鉱炉のことではない。そうで
はなく、地獄とは、この地上と同じく、地図のない無限の空間のいかなるところでも、経験可能な
心のありようのことである。    
心を燃料とする炎からいかにして逃れようというのか?自分の心から逃れられはしないという
のに。                          
人間が影に所有されているかぎり、天国の追求はむなしく地獄からの逃避もむなしい。何故なら
、天国と地獄の両者は、ともに二元性において相続される状態なのだから。精神が単一とな
り心が単一となり、身体が単一とならない限り、そして影なき者として意志が単一とな
らないかぎり、人間は常に一方の足を天国に置き、もう一方の足を地獄に置いているだろう。そし
てそれが本当の地獄である。
 そう、光の翼を持ちながら、鉛の足を持つのは地獄以上に地獄。希望によって浮かび上がりなが
ら、絶望によって沈められるのは、地獄以上に地獄。恐れなき信念によって舞い上がりながら、恐
れに満ちた猜疑によって萎縮するのは、地獄以上に地獄。
 他人にとって地獄であるような天国は天国ではない。他人にとって天国であるような地獄は、地
獄ではない。そしてしばしばある者の地獄が他の者の天国であり、ある者の天国が他の者の地獄で
あるのだから、天国と地獄は、永遠に対立する状態のことではなく、双方からの〈自由〉へ向かう
長い巡礼の旅の通過点である。
 聖なる葡萄の巡礼者たちよ!
 ミルダッドには、正義たらんとする者たちに売る天国もなければ、保証する天国もない。また、
邪悪であろうとする者たちを脅かす、案山子としての地獄もない。
 あなたがたの正義がそれ自身天国とならないかぎり、その正義は束の間花咲いてそれから枯れる
ことになる。
 あなたがたの邪悪それ自身が案山子とならないかぎり、邪悪はしばらく眠って、また適当な時季
がくれば花咲くことになる。
あなたがたに提供するためのいかなる地獄も、いかなる天国もミルダッドは持っていない。ミル
ダッドが提供するのは、いかなる地獄の炎、いかなる天国の贅沢をも超えてあなたがたをはるか高
くに上げる〈聖なる理解〉だ。手ではなく心で、この贈り物を受けなさい。そのために心は、理解
しようとする欲求と意志を除いて、あらゆる迷い出た欲求や意志から解放されていなければならな
い。

 あなたがたは、大地の見知らぬ客ではない。あるいはまた、大地はあなたがたの義母ではない。
大地の中心の中心、髄の中の髄にあなたがたはいる。大地は、たくましく広く頑丈な背にあなたが
たを抱くのが嬉しい。どうしてあなたがたは、ちっぽけで落ちくぼんだ自分の胸で大地を抱くと言
い張り、その結果として息を切らして喘ぐのか?
 大地の乳房からは乳と蜜が流れ出ている。どうしてあなたがたは、貪欲にかられ必要以上に取る
ことで、その乳と蜜を苦くするのか?
 大地の顔は澄みきって端正だ。どうしてあなたがたは、苦々しい不信と恐怖にかられてその顔に
傷や皺をつけるのか?
 大地は完全な統一体だ。どうしてあなた方は、剣と境界線で大地を分割して止まないのか
 大地は素直で心労がない。どうしてあなたがたは、そんなにも心労と反抗で一杯なのか?
 しかしあなたがたは、大地よりも永続する。あなたがたは、太陽や宇宙のあらゆる天体よりも永
続する。すべては過ぎ去るが、あなたがたは過ぎ去らない。どうしてあなたがたは、風の中の木の

葉のように震えるのか?

 もしあなたがたに宇宙と一体であることを感じさせるものが他に何もないとしても、大地のみは
あなたがたにそれを感じさせる。しかし大地そのものは、あなたがたの影が映される鏡に過ぎない。
鏡は、それが映すもの以上のものか? 人間にょって投げられた影が、人間以上のものか?
目をこすり目覚めるがよい、あなたがたは地球以上のもの。あなたがたの運命は、生き、死に
そして常に飢えている〈死〉の顎に豊富な食糧を提供する以上のもの。あなたがたの運命は生と
死から解放されることであり。天国と地獄から解放されること。〈二元性〉の上で戦い合うすべての
対立物から解放されること。永遠に実り豊かな神の葡萄園の実り豊かな葡萄になること。
みずみずしい葡萄のみずみずしい枝は、土に埋められると、根を張り、究極はその母と同じく。
一人立ちした実を結ぶ葡萄となるが、母との関係は保たれたままだ。これと同じく、聖なる葡萄の
みずみずしい枝である人間は、おのれの聖性の土壌に埋められると、神となり、永遠に神との一体
を保つ。
人間は〈生命〉に到るために、生きながら聖性の土壌に埋められることになるのか?
 そうだ、繰り返して言うが、そのとおりだ、あなたがたは生死の二元性に対し死んで埋葬され
ない限りは、存在の単一性へ目覚めることはない。
あなたがたが〈愛〉の葡萄に養われないかぎり、〈理解〉のワインに満たされることはない。
そしてあなたがたは、〈理解〉のワインに酔いしれないかぎり、〈自由〉の口づけによって正気づ
くこともない。

 土から採れた葡萄の果実を口にするとき、あなたがたが口にするのは〈愛〉ではない。小さな飢
えを癒すために、あなたがたはより大きな飢えを口にする。
 土から採れた葡萄の血を飲むとき、あなたがたが飲むのは〈理解〉ではない。あなたがたが飲む
のは、ほんの一瞬の苦痛の忘却であり、その効き目が切れると、苦痛の鋭さは倍増する。うんざり
する自己から逃げ出しても、角を曲がったところで再びその自己と会うことになるだけだ。
 ミルダッドが提供する葡萄は、徽や腐敗にさらされる葡萄ではなく、ひとたびそれで満たされれ
ば、永遠に満たされるような葡萄だ。ミルダッドが醸したワインは、焼かれることを恐れる唇には
強すぎるが、永遠に自己を忘却して酔いしれることを願う心には活気を与えるものとなる。
 あなた方の中に私の葡萄がほしくてたまらない者はいるか?その達は籠を持って前にでなさい。
 私の血を渇望する者はいるか? もの者たちは杯をもって来なさい。
 というのも、ミルダッドにはその作物が重く、血が溢れ返って息が詰まりそうなのだから。
 自己忘却を祝う日が〈聖なる葡萄祭〉だった。〈愛〉のワインに酔いしれ、〈理解〉の光輝に浸さ
れる日が〈聖なる葡萄祭〉だった。〈自由〉の翼のリズミカルな鼓動に恍惚となる日が、そして柵を
取り払い、すべての中の一つ、一つの中のすべてに溶け入る日が〈聖なる葡萄祭〉だった。しかし
見よ、この祭りは今日どうなっているのか?
 それは、病的なまでの自己肯定の週になっている。意地汚い貪欲が意地汚い貪欲と商取引をする
週、奴隷たちが奴隷たちと浮かれ騒ぎ、無知が無知を堕落させる週になっている。
  〈方舟〉自身も、かつては〈信念〉と〈愛〉と〈自由〉の蒸留所だったが、今や巨大な葡萄搾り
器となり、怪物じみた市場になっている。現在の〈方舟〉は、葡萄園の産物を受け取り、それを売
り物の麻庫させるワインにして返す。手のなす労働を、〈方舟〉は鍛造して手の柳にする。額の汗
を、〈方舟〉は額に熔印を押すための燃える炭火にする。
 遠くへ、あまりにも遠くへ、〈方舟〉は定められた進路からそれてしまった。しかしながら今や舵
は正しくとられた。〈方舟〉はあらゆる死せる重石を取り除き、平穏かつ安全に自らの進路を進むだ
ろう。
 それゆえ〈方舟〉へのあらゆる貢物は納めた者に返され、あらゆる負債は負債者から免除される。
〈方舟〉は神以外に与え手を知らず、神はいかなる人間にも-神自身に対してさえもー負債が
ないことを望んでいる。
 このように私はノアに教えた。
このように私はあなたがたに教える。




第二十七章
贋の権威、恐怖の司令官



ナロンダ・・・この祭りが思い出となってかなり下手の血、7人は(鷹の巣)で師の周りに
集った。同行者たちが祭りの日の印象深い出来事を振り返っている間、師は沈黙していた。ある者
は、師の言葉を受け取るときの群衆の大いなる熱狂のほとばしりに驚嘆した。他の者は、〈方舟〉の
金庫から幾十もの負債書が取り出されて公衆の面前で破り捨てられ、地下貯蔵庫から幾百ものワイ
ン壷と樽が運び出されて与えられ、多くの高価な貢物が納めた者に返されていた間のシャマダムの
奇妙で、きわめて不可解な振る舞いに言い及んだ。というのも、そのときシャマダムは、私たちが
予想したような反対行動を何一つせず、喋りもせず動きもせず、大量の涙を流しながらすべてを眺
めていたからである。
 ペヌーツは、群衆が騒々しい歓呼をもって迎えたのは、師の言葉ではなく、免除された負債と返
却された貢物であると述べた。彼は、飲みかつ食べて浮かれること以上の楽しみを求めないような
群衆に対して師が息を無駄使いしたと言って、穏やかに師を非難さえした。ベヌーンが主張するに
は、真実は差別なく万人に語られるべきではなく、選ばれた少数の者にのみ語られるべきだという。
すると師が語りかけた。
ミルダッド……風に乗るあなたの息が、どこかの胸に宿るのは確かだが、誰の胸であるかを気にし
てはならない。ただ息そのものが純粋であるか否かに気を配りなさい。
 あなたの言葉が誰かかの耳を求め見いだすのは確かだが、それが誰の耳であるかを気にしてはなら
ない。ただその言葉そのものが〈自由〉の真の使者であるか否かに気を配りなさい。
 あなたの語られざる思いが誰かの舌に伝わって、それが語られるのは確かだが、誰の舌でそれが
語られるかを気にしてはならない。ただ思いそのものが愛の〈理解〉に照らされているか否かに気
を配りなさい。
 いかなる努力も無駄であったと考えてはならない。蒔かれた種の中には、地中に何年もの間埋
まっているが、適った季節が訪れると、風のひと息で触発されてすばやく芽を出すものもある。
  〈真実〉の種は万人と万物のうちにある。あなたがたの仕事は〈真実〉の種を蒔くことではなく、
それが発芽するための適切な季節を準備することである。
 永遠の中ではあらゆる物事が可能だ。したがっていかなる人間の自由にも絶望してはならない。
そうではなく、すべてに対してー希求する者にも希求しない者にも同様にー等しい信念と熱情
を抱いて解放の知らせを伝えなさい、なぜなら希求しない者、必ず希求するようになり、羽が生えて
いない雛は何時の日か太陽の下で翼を身に纏うようになり、その翼で大空のさいはての場所
にまで飛翔していくようになるだろうから。
ミカスター……今日まで、再三問いかけましたけれども、葡萄祭の前日の不思議な失踪の秘密を明
かしていただけないのは、私たちを悲しませます。私たちは、師の信頼には足らないのでしょう
か?
ミルダッド……私の愛に足りるものが、私の信頼に足りるのは確かだ。信頼は〈愛〉以上のものだ
ろうか、ミカスター? 私は惜しみなく自分の心をあなたがたに与えているのではないか?
 もし私かあの不快な状況について語らなかったとしても、それはシャマダムに悔いる時間を与え
たいと願ったからだ。なぜなら、あの夜、私をこの〈鷹の巣〉から引きずり出し、〈黒淵〉に放り込
んだのは、二人のよそ者の助けを借りたシャマダムなのだから。不幸なシャマダムよ! 〈黒淵〉
でさえ、ミルダッドを絹の手で受け止め、頂きまでの魔法の梯子を差し出そうとは、シャマダムは
夢にも思わなかったろう。
ナロンダ……………このことを聞いて私たち全員は畏怖の念に打たれ。驚愕のあまりものが言えな
   くなった。いかなる人にとっても完全な破滅と思われるところから、いかにして師が無傷で帰還し
   たのか、あえて問う者は誰もいなかった。私たち全員はしばらくの間沈黙した。
ヒンバル……どうしてシャマダムは師を害そうとするのでしょう? 師はシャマダムを愛している
   というのに?
ミルダッド……シャマダムが害しているのは私ではない。シャマダムが害しているのはシャマダム
だ。
盲人たちに見せかけの権威をまとわせなさい、すると彼らは眼の見える者たちの眼をすべてえぐ
り出すことを望むだろう。盲人たちの眼が見えるようになるために、懸命に働いている者たちの眼
までもえぐり出すことを望むだろう。
奴隷にたった一日だけ思いのままになる権力を与えてみなさい、するとその奴隷は、この世界を
奴隷の世界に変えるだろう。彼が最初に鞭打ち、柳を課すのは、彼を解放しようと絶えず粉骨砕身
してきた者たちだろう。
世界のあらゆる権威は、その起源が何であれ、贋物である。それゆえ世界のあらゆる権威は、誰
もあえてその贋の心を覗き込まないよう、拍車を鳴らし、剣を振り回し、賑々しく飾り立てた行列
ときらびやかな儀式を駆る。権威は、ぐらつく王座に銃と槍で登る。詮索好きな眼におのれの悲惨
な貧しさを覗かれないために、権威は、恐怖を呼び起こす魔除けと黒魔術の紋章で、虚栄に埋もれ
た魂を飾り立てる。
 権威を奮いたいと願う者にとって、権威は目隠しと呪いの両方である。権威は、いかなる犠牲を
払ってでも自らを守ろうとする。たとえその犠牲が、権威を持つ者自身の破壊、それを受け容れる
者の破壊、さらにそれを拒む者の破壊という恐ろしいものであろうとも。
 権威への欲求のために人間は絶えざる騒乱にある。権威を持つ者は、権威を守ろうと常に戦って
いる。権威を持たぬ者は、権威を持つ者の手からそれを奪い取ろうと常に闘争している。その一方
で人間、すなわち産着にくるまれた神は、戦場で足や蹄に踏みつけられ、無視され、注意も愛も向
けられないまま放置されている。
 その戦いはあまりにも激烈で、戦士はあまりにも血に狂っているので、贋の装飾に飾られた権威
の顔から塗り込められた仮面を剥ぎ取り、その怪物じみた醜さを白日の下にさらすために立ち止ま
ろうとする者は、なんということか、誰もいない。
 信じなさい、仲間たちよ、測り知れない価値を持つ〈聖なる理解〉の権威を除けば、いかなる権
威も睫毛を動かすにも値しない。〈聖なる理解〉のためには、いかなる犠牲も大き過ぎることはな
い。ひとたびそれに到れば、あなたがたは〈時間〉の終焉までそれを持つことになる。それは、世
界中のすべての軍隊が結集しても及ばないような強大な力であなたの言葉を満たす。そしてそれは。
世界中の権威がすべて集まっても、夢見ることができないような素晴らしい恩恵であなたの行為を
祝福する。
 というのも、〈理解〉がそれ自身の楯、〈愛〉がその強力な武器なのだから。〈聖なる理解〉は迫害
することもなければ、圧政をふるうこともない。そうではなくそれは、露のように人間の不毛な心
に降りて行く。そしてそれはおのれを拒む者を、おのれを受け容れる者とまったく同様に祝福する。
それはおのれの内なる力に完全な確信があるので、いかなる外部の力にも頼らない。それはあまり
にも恐れがないので、誰かにおのれを押しつけるための武器として恐怖を用いたりもしない。
 世界は〈理解〉に貧しい、ああ、あまりにも貧しい。それゆえ世界は、その貧しさを贋の権威
のヴェールの背後に隠すことを求める。そして贋の権威は、贋の権力と攻撃及び防御の同盟を結ぶ。
この両者は、〈恐怖〉を司令官としている。そして〈恐怖〉はこの両者を破壊する。
 弱さを守るために連合しようとするのは、常に弱者ではなかったか? そうして世界の権威と血
なまぐさい権力は、〈恐怖〉の鞭打ちの下、手に手を携えて、〈無知〉に対する日々の税を戦いと血
と涙で支払う。そして〈無知〉は優しく彼らすべてに微笑んで、「よくやった!」と言う。
 シャマダムがミルダッドを崖の底に引き渡したとき、彼は「よくやった!」と自らに言った。し
かしシャマダムは、そうすることによって、私ではなく、自分自身を崖に投げ込んだということを
少しも考えていなかった。なぜなら、崖はミルダッドをそのままにしておけないのだから。それに
対しシャマダムは、暗く滑りやすい崖の壁面をよじ登るために、長く辛い骨折りをしなければなら
ない。

 世界のあらゆる権威は子供だましである。〈理解〉においてまだ赤子である者たちには、それで好
きに遊ばせておくがいい。しかしあなたがたは、いかなるものにも自分を押しつけようとしては
ならない。というのも、力によって押しつけられた者は、遅かれはやかれ力によって引き剥がされる
からである
人間の生命に対するいかなる権威も求めてはならない。そのような権威については、〈全能の意
志〉が主人である。あるいはまた、人間の所有物に対する如何なる権威も求めてはならない、とい
うのも、人間は自らの生命と同じく、自らの所有物さえも鎖で繋がれているため、自らの鎖に
干渉する者を信頼せず憎むからである。そうではなく、〈愛〉と〈理解〉によって人間の心に通じ
る道を探しなさい。その道がひとたび心に据えつけられれば、あなたがたは人間の鎖をほどくため
に、よりよい仕事ができる。
 なぜなら〈理解〉がランタンを携え、〈愛〉があなたがたの手を導くからである。








第二十八章
ベタールの王子がミルダッドを拉致


ナロンダ……………師がこのことを言い終わり、私たちが師の言葉に考えをめぐらせ始めたとき、
不明瞭でとりとめのない話し声とともに重々しい靴の響きが外から聞こえてきた。やがて全身武装
した二人の大柄な兵士が入口に現れてサーベルを抜き、それを太陽の光できらめかせながら入口の
両脇に陣取った。それに続いて王位の正装をした若い君主がやって来た。その後におずおずと歩い
て来るシャマダムが続いた。シャマダムの後ろにはさらに二人の兵士が続いた。
 その王子は、ミルキー山脈で最も権勢があり、はるか遠くまで名声をとどろかせている君主の一
人だった。彼は入口に少しの間立ち、中に集まっている小さな一団の顔を注意深く調べた。それか
ら彼は、大きく明るい眼を師に固定し、深々と会釈して言った。
王子……ご機嫌よう、尊いお方! 私たちがやって来たのは、偉大なるミルダッドに敬意を表する
ためです。ミルダッドの名声は、広くこの山脈中に響きわたり、遠く離れた私たちの都にまで及ん
でいます。
ミルダッド……名声は遠く離れたところに炎の戦車を駆って行くが、本人のいるところでは足をひ
きずって松葉杖にもたれる。私の名声については、長老がその証人だ。王子よ、名声の奇術を信じ
てはならない。
王子……しかし名声の奇術は甘く、人間の唇に自分の名前を押印するのは快いものです。
ミルダッド……人間の唇に名前を押印するのは、海岸の砂に刻みつけるのと変わりはない。風と潮
が砂からそれを拭い去るだろう。くしゃみが唇からそれを吹き飛ばすだろう。もしあなたが、く
しゃみで吹き飛ばされたくないならば、人間の唇に自分の名前を押印するのではなく、彼らの心で
それを燃やさせなさい。
王子……しかし人間の心は、あまたの錠によって閉じられています。                
ミルダッド……錠はあまたあるかもしれないが、鍵は一つだ。                    
王子……あなたは、その鍵を持っているのですか。私には是非ともそれが必要なのです。   
ミルダッド……あなたもまた、それを持っている。                            
王子……なんということでしょう! あなたは、真の価値よりはるかに高く私を評価して下さいま  
す。長らく私は隣人の心に鍵を探しましたが、どこにも見つけられませんでした。その隣人は強大
な君主で、私に戦争を仕掛けるのに熱心なのです。私は平和な性格なのですが、やむなく彼に対し
て武器を使わざるを得ません。私の王権や宝石に飾られた王衣にだまされないで下さい、師よ。私
はそういうものを持ちながら、求める鍵を見つけられないのです。
ミルダッド……王権や王衣は、鍵を隠しはするが、持ってはいない。それらはあなたの歩みをくら  
まし、あなたの手を挫き、あなたの眼を誘惑し、そうしてあなたの探索を無駄にしてしまう。
王子……あなたは何を言おうとしているのですか。隣人の心を開く鍵を見いだすために、私は王権 
や王衣を捨て去るべきだとおっしやるのですか。
ミルダッド……王権や王衣を保つためには、隣人を失わなければならない。隣人を保つためには、 
それらを失わなければならない。そして隣人を失うことは、自分自身を失うことだ。
王子……私は、そのような高い代価を払って、隣人の友情を得ようとは思いません。          
ミルダッド……そのようなつまらない代価で自分自身を買い戻したくはないのか?
王子……私自身を買い戻す? 私は賠償を払わなければならない囚人ではありません。その上私に
は、充分に給料を払い、申し分なく装備した、私を守る軍隊があります。隣人は、私より良い軍隊
を持っていると誇ることはできないのです。
ミルダッド……一人の人間、あるいは一つの事物の囚人であることは、それだけであまりにも辛く   
耐えがたい監禁だ。人間と一群の事物から成る軍隊の囚人であることは、執行猶予なしの追放刑だ。
なぜなら、何物かに頼ることは、そのものに監禁されることなのだから。それゆえ、神のみに頼り
なさい。なぜなら、神の囚人であることは、真に自由であることなのだから。
王子……それでは私は、自分自身、私の王座、私の家臣を防御しないまま放置すべきなのですか。
ミルダッド……あなたは。自分自身を防御されないまま放置すべきではない。              
王子……それゆえ私は軍隊を維持するのです。                               
 ミルダッド……それゆえあなたは軍隊を放逐しなければならない。                      
王子……しかしそれでは、隣人がさっさと私の王国を侵略するでしょう。                 
ミルダッド……彼はあなたの王国を侵略するかもしれない。しかし誰もあなたを飲み込むことはで  
きない。二つの監獄が一つに融合しても、〈自由〉へのちっぽけな足場さえ作らない。誰かがあなた
を監獄から追い立てたなら、それを喜びなさい。しかしあなたの監獄に自分を閉じ込めるために
やって来た者を羨んではならない。
王子……私は、戦場での勇猛で名高い家柄の者です。我らは決してよそに戦争を仕掛けたりしませ
ん。しかし戦争が強制されたときは決して臆して逃げることなく、戦場に積み上げられた敵の死体
の山の上に高々と我らの旗を掲げるまでは、断じて戦場を離れないのです。あなたの忠告は不適切
です、先生、隣人にやりたいようにやらせろと忠告なさるとは。
ミルダッド……
あなたは、平和を望んでいると言わなかったか?                       
王子……
はい、私は平和を望んでいます。                                   
ミルダッド……
ならば戦ってはならない。                                    
王子……しかし隣人が私に戦いを強いるのです。私と隣人との間に平和が君臨するために。彼と戦  
わねばならないのです。
ミルダッド……隣人と平和に生きるために、彼を殺そうとするとは! なんと奇怪な光景だろう!    
死者とともに平和に生きてもなんの益もない。しかし生者とともに平和に生きることは大いなる美
徳だ。もし、嗜好や興味が時折対立する、生きている人や物と戦わねばならないのなら、それらの
人や物を創造した神と戦いなさい。そして宇宙と戦争をしなさい。というのも、宇宙には精神を混
乱させ、心をわずらわせ。否応なくあなたの生におのれを押しつけてくる事物が無数にあるからだ。
王子……私は隣人と平和でいたいのに、隣人が戦いを望んでいた場合、私はどうすべきなのですか。
ミルダッド……戦いなさい                                              
王子……あなたは正しく助言して下さいました。                                
ミルダッド……そう、戦うがいい! しかし隣人とではない。むしろあなたと隣人を戦わせる原因
となるすべてのものと戦いなさい。
なぜ隣人はあなたと戦いたがるのか? 彼の眼が薄茶色なのに、あなたの眼は青いからか? 彼
が悪魔の夢を見るのに、あなたは天使の夢を見るからか? あるいはあなたが彼を自分自身のよう
に愛していて、自分のものすべてを彼のものとするからか?
 王子よ、隣人があなたと戦いたがるのは、あなたの王衣、王座、富、栄光、そしてあなたが囚人
とされているものを求めてのことなのだ。
 あなたは彼に対して槍を上げることなく、彼を打ち負かしたいか? ならば彼を出し抜いて、自
らそれらのものに対して宣戦布告しなさい。あなたが魂からそれらのものの支配権を取り除くこと
で、それらのものを征服したとき、すなわち、あなたがそれらをごみの山に捨て去ったとき、おそ
らく隣人は行進を止め、剣を鞘に収めて言うだろう。「もしこれらのものが戦いに値するなら、私の
隣人はそれをごみの山に捨て去りはしなかったろう」
 もしあなたの隣人が狂気のままに、そのごみの山を運び去ったなら、自分がそのような有害な重
荷から引き離されたことを喜び、しかし隣人の運命に対して悲しみなさい。
王子……私のあらゆる所有物よりはるかに大切な私の名誉はどうなるのです?
ミルダッド……人間の唯一の名誉は、人間であること、つまり神の生ける似姿にして肖像であるこ
と。他のすべての名誉は、不名誉だ。
 人間によって与えられた名誉は、簡単に人間によって奪い取られる。剣によって書かれた名誉は、
剣によって簡単に消し去られる。いかなる名誉も、王子よ、錆びた矢の価値もない。ましてや熱い
涙の価値もなく、血の一滴の価値もない。
王子……そして自由は、私の自由と私の配下の人々の自由は、最大の犠牲を払う価値がないので
すか。
ミルダッド……真の〈自由〉は、自己を犠牲にするに値する。あなたの隣人の武器がそれを奪い取
ることはできない。また、あなた自身の武器がそれを勝ち取ることもできないし、守ることもでき
ない。そして戦場は、真の〈自由〉にとっては墓場だ。
 真の〈自由〉を勝ち取るのも、敗れ失うのも、心の中でだ。
 あなたは戦争をしたいのか? ならば自分の心の中で心に対して戦争をしなさい。あなたの世界
を息詰まる檻にするすべての希望と恐怖とむなしい願望の武装から、あなたの心を解き放ちなさい。
そうすれば心が宇宙よりも広大であるとわかるだろう。そのときあなたは、意のままに宇宙を徘徊
するだろう。そのとき妨げとなるものは何もないだろう。
 これが行うに値する唯一の戦争だ。このような戦争に従事すると、他の戦争にかかずらう時間は
もはやないだろう。他の戦争はあなたにとって、精神を惑わせ、力を吸い取り、かくして真の聖戦
である自分自身との大いなる戦争での敗北を引き起こす、いまわしい獣性、悪魔的な策略となるだ
ろう。その大いなる戦争に勝つことは、不滅の栄光を勝ち取ること。しかし他の戦争での勝利は、
手ひどい敗北より悪い。そして勝者と敗者がともに敗北を喫することが、あらゆる人間の戦争の恐
ろしいところだ。
 あなたは平和を望むのか? 言葉による記録にそれを探し求めてはならない。あるいはまた、岩
にまでもそれを刻み込もうと苦闘してはならない。
 というのも、「平和」と安易に書きちらすペンは、同じ安易さで「戦争」と書くこともできるのだ
から。そして「平和でいよう」と彫る盤は、簡単に「戦争をしよう」と彫ることもできる。その上、
紙と岩、ペンと盤はじきに、蛾や腐敗、錆や元素を変化させるあらゆる錬金術の攻撃にさらされる。
〈聖なる理解〉の牙城である、時間を超越した人間の心はそうではない。
 ひとたび〈理解〉がヴェールを脱がされれば、勝利は得られ、平和が心の中に永遠に確立される。
理解する心は、戦争に目が眩んだ世界の只中でさえ、常に平和である。
 無知な心はこ石の心である。二元の心は二元の世界を助長する。二元の世界は絶えざる闘争と戦
争を生み出す。
 それに対して、理解する心は単一の心である。単一の心は単一の世界を助長する。単一の世界は
平和の世界だ。なぜなら、戦争をするには二者が必要なのだから。
 それゆえ私は、心と戦争をして、それを単一にするよう助言する。その勝利の戦利品は、永続す
る平和だ。
 王子よ、あなたが、いかなる石にも王座を見ることができるとき、いかなる洞穴にも王城を見い
だすことができるとき、太陽は嬉々としてあなたの王座となり、星座は嬉々としてあなたの王城と
なるだろう。
 野に咲くいかなるひな菊もあなたに勲章として仕える用意があり、いかなる虫もあなたの先生に
ふさわしいとき、星々は喜んであなたの胸で勲章のポーズを取り、大地は進んであなたの演壇とな
るだろう。
 あなたが自分の心を支配できるとき、誰があなたの体を名目上支配するかに、なんの重要性があ
ろうか? 全宇宙があなたのものであるとき、誰が地上のあれやこれやの地域を支配するかに、な
んの重要性があろうか?
王子……あなたの言葉はとても魅力的です。でも私には、戦争が〈自然〉の法であるように見えま
す。海の魚でさえも、絶えず戦争のうちにいるのではありませんか? 弱者は強者の餌食となるの
ではありませんか? そして私は誰の餌食にもなりたくないのです。
ミルダッド……あなたに戦争と見えるものは、〈自然〉が自らを養い繁殖させるやりかたに過ぎな
い。弱者が強者の食料にされるのに負けず劣らず、強者は弱者の食料にされる。しかし〈自然〉の
中で誰が強者で、誰が弱者なのか?
 〈自然〉のみが強者だ。他のものはすべて、〈自然〉の意志に従い、従順に〈死〉の河を流れ下っ
て行く。
 不死なるもののみが強者と分類されうる。そして人間は不死である、王子よ。そう、人間は〈自
然〉より力強い。人間が〈自然〉の中の肉を持つ生命を食べるのは、肉のない自分の生命に到達す
るためだ。人間が自らを繁殖させるのは、ただ自己繁殖を超えた高みに自らを登らせるためだ。
 自分の不浄な欲求を獣の浄らかな本能で正当化しようとする者たちには、自らを豚、狼、ジャッ
カル、あるいはその類のものと呼ばせておきなさい。しかし彼らに人間の尊い名前を汚させてはな
らない。
 ミルダッドを信じて、平和でいなさい、王子よ。
王子……長老が私に、ミルダッドは魔術の秘義によって巧みな弁舌を操ると告げましたが、あなた
には私をも信じさせそうになるなんらかの力があると宣言したくなります。        ・
ミルダッド……もし人間の中の神をヴェールを脱がせて露わにすることが魔術であるならば、その
場合はミルダッドは魔術師。あなたは私の魔術の証明と顕現がほしいのか?
見よ、私がその証明にして顕現だ。早速取りかかるがよい。あなたがここに来た目的である仕事をしなさい。
王子……私がここに来たのは、私の耳をあなたの戯言で楽しませること以外に別の目的があるとよ
くぞお見抜きになりました。というのもベタールの王子は、違う種類の魔術の使い手なのです。間
もなく彼はその実演をお目にかけるでしょう。
  (自分の部下に)鎖を持ってきて、この神人あるいは人神を拘束せよ。彼とその仲間に我らの魔
術がどのようなものかを見せてやろう。
ナロンダ……………獣が獲物を捕らえるように、四人の兵士は師に襲いかかり、すみやかに師の手
足を鎖で縛り始めた。しばしの間七人の同行者は、眼の前で何が起こっているのか把握しかねて
-冗談なのか本気なのかわからず-呆然と坐っていた。ミカヨンとザモラは、その醜悪な状況
が冗談ではないと理解するのが他の者たちよりも早かった。二人は怒り狂った獅子のように、兵士
に飛びかかった。二人を制止し、なだめるミルダッドの声がなかったら、彼らは兵士を打ちのめし
ていただろう。
ミルダッド……彼らが策略をめぐらせるにまかせなさい、せっかちなミカヨンよ。彼らのやりたい
ようにやらせなさい、善良なザモラ。この鎖はミルダッドにとって、〈黒淵〉と同じく、なんら恐れ
るに足りない。シャマダムが自らの権威をベタールの王子の権威で取り繕うのを楽しませておきな
さい。その取り繕いは彼ら二人を引き裂くだろう。
ミカヨン……私たちの師が罪人のように縛られている間、どうして傍観していられましょうか?
ミルダッド……私のためにほんの少しも心をわずらわせることはない。平和でいなさい。いつの日
かこれと同じことを彼らはあなたがたにもするだろう。しかし彼らが害しているのはあなたがたで
はなく、彼ら自身である。
王子……厳然たる正義と権威をあえて愚弄するごろつきやならず者は、誰でもこれと同じ目に遇う
だろう。
 この聖なる人物(シャマダムを指して)がこの共同体の正しい長であり、彼の言葉が皆の掟でな
ければならない。おまえたちが恩恵を享受している〈方舟〉は、私の保護下にある。私は〈方舟〉
の運命に監視の目を光らせている。力強い私の腕は、〈方舟〉の屋根と財産を守っている。私の剣
は、悪意をもって〈方舟〉に触れる手を排除する。万人にこのことを知らせ、用心させるがいい。
(再び自分の部下に)この悪党を連れて行け。やつの危険な教えは、あやうくこの〈方舟〉を潰
すところだった。もしこのような有害な教えを野放しにしておけば、それはじきに我らの王国を破
壊し、地球を破壊しただろう。これからは彼に、ベタールの土牢の陰影な壁に教えを説いてもらお
う。やつを連れ去れ。
ナロンダ……………丘土たちは師を連れ出し、得意満面の王子とシャマダムが続いた。七人はこの
いまわしい行列の後ろを歩いたが、眼は師を追い、唇は悲しみに閉ざされ、心は涙ではち切れそう
だった。
 師はしっかりした確かな足取りで歩き、頭は高く上げられていた。わずかな距離を歩いた後、師
は私たちのほうに振り返って言った。
ミルダッド……このミルダッドを信じ、動揺しないように。私は、私の〈方舟〉を船出させてあなたが
たを指揮するまでは、あなたがたから去ることはない。
ナロンダ……………それから長い間師のこの言葉は、重々しくガチャガチャと鳴る鎖の音とともに
私たちの耳に大きく鳴り響いた。




第二十九章
ミルダッドの帰還


ナロンダ……………私たちに冬が訪れた。雪は深く白く、身を切るような寒さだった。
 音もなく、息づくものもなく雪に包まれた山々がたたずんでいた。ただ下の谷だけが、曲がりく
ねって海へと向かう液状の銀の筋とともに、ところどころに、色槌せた緑の斑点を見せていた。
 七人は、かわるがわる訪れる希望と疑いの波に弄ばれていた。ミカヨン、ミカスター、ザモラは、
師が約東通り戻ってくるという希望に傾いていた。ベヌーソ、ヒンバル、アビマールには師の帰還
に対する疑いがまといついて離れなかった。そして全員が恐るべきむなしさと苛立たしい空虚感を
感じていた。
〈方舟〉は寒く、冷酷で、心を凍えさせた。霜が降りたような沈黙が〈方舟〉の壁にのしかかっ
ていた。シャマダムは、それに生気と暖かさを与えようとたゆまず努力したけれども、努力は徒労
に終わっていた。ミルダッドが連れ去られてよりこの方、シャマダムは私たちを親切で埋め尽くそ
うとしていた。彼は私たちに、食料とワインの中から最良のものを提供した。しかしながら食料は
栄養とならず、ワインは活気を授けなかった。シャマダムは多くの薪と石炭を燃やした。しかし火
は暖かさをもたらさなかった。彼はいたって礼儀正しく、うわべは愛情深かった。しかし彼の礼儀
と愛情はますます彼を私たちから遠ざけた。
 長い間シャマダムはミルダッドのことに言及しなかったが、とうとう心を開いて言った。
シャマダム……もし私がミルダッドを嫌っていると信じているなら、私の同行者たちよ、それは誤
解だ。むしろ私は心のすべてをこめて彼を憐れんでいるのだ。
 ミルダッドは邪悪な男ではないかもしれない。しかし彼は危険な空想家で、この厳しい事実と実
践の世界に対して彼のさし示す教義は、まったく実際的でなく、偽りだ。彼とその信奉者たちは、
苛酷な現実との最初の衝突で悲劇的な結末を迎えるに決まっている。そのことについては完全な確
信がある。そして私は、そのような破局から私の同行者たちを救いたかったのだ。
 ミルダッドは、若さゆえの大胆さに活気づけられた巧みな舌を持っているかもしれない。しかし
彼の心は盲目で頑固で不信心だ。それに対し、私は真の神への恐れを心に抱き、長年の経験に培わ
れた私の判断には重みと権威が備わっている。
 この長年の間、私以外の誰が、より実り豊かにこの〈方舟〉を運営できただろうか? かくも長
きにわたってあなたがたとともに暮らした私は、あなたがたの兄でもあり、父でもあったのではな
いか? 我々の精神は平和に祝福され、我々の手は並々ならぬ豊かさに祝福されたのではないか?
どうしてかくも長い時間をかけて我々が築き上げてきたものをよそ者に壊させ、信頼が主導してい
たところに不信を植え、平和が支配していたところに争いを植えつけるのか?
 私の同行者たちよ、樹にいる十羽の鳥のために手にある一羽の鳥を手放すことは、まったくの狂
気だ。ミルダッドはあなたがたに、この〈方舟〉を手放させようとするだろう。この〈方舟〉は長
きにわたって、宿を提供し、神を我々の近くに保ち。人間の望みうるかぎりのものを授け、世の騒
乱と苦悶から安全なところにあなたがたをかくまってきた。その代わりに彼は何を約束するのか?
 心痛と落胆と貧困、おまけに終わることのない争い、こういったもの、そしてもっと悪いもの
を彼はあなたがたに約束する。
 彼が約束するのは、空中の〈方舟〉、広大な無の中の〈方舟〉-狂人の夢―子供っぽい空想
-心地よい不可能事だ。彼は万一にも、〈母なる方舟〉の創立者である父なるノアよりも賢いだろ
うか? 彼のたわごとを少しでもあなたがたに思い起こさせるのは、私を大いに苦しめる。
 私がミルダッドを、友人のベタールの王子の強大な武力に訴えたとき、私は〈方舟〉の聖なる伝
統に対して罪を犯したかもしれない。しかし私が深く心を砕いたのは、あなたがたの幸福だ。そし
てそのことだけが私の犯した罪を正当化してくれる。手遅れになる前にあなたがたと〈方舟〉を救
いたいと私は願った。そして神が私とともにあったので、私はあなたがたを救った。
 私とともに喜んでくれ、同行者たち。〈方舟〉の破滅を罪深い眼で目のあたりにするという大いな
る不名誉から、主が我々を救って下さったことに感謝しなさい。私もその一員として、そのような
恥の中を生き抜くことはできなかったろうから。
 しかし今私は改めて、ノアの神と〈方舟〉への奉仕、そしてあなたがたへの奉仕に自らを捧げる
つもりだ、私の愛する同行者たち。昔と同じように幸せでいてもらいたい。あなたがたの中で私の
幸せが完成するように。
ナロッダ……………そう語りながらシャマダムは泣いた。彼の涙はあまりにも孤独であったがゆえ
に哀れであった。その涙は、私たちのどの心にもどの眼にも仲間を見いださなかったのだから。
 陰気な天候に長い間包囲された後、山々にひさしぶりに太陽の光線が投げかけられたある朝のこ
と、ザモラは竪琴を取って歌い始めた。
ザモラ……
わが竪琴の
霜朽ちの唇の歌は凍えり
わが竪琴の
凍りつきし心の夢は凍りぬ
汝が歌をとろかす息はいずくぞ
わが竪琴よ
汝が夢を救う腕はいずくぞ
わが竪琴よ
そは、ペタールの土牢の中
物乞いの風よ
ベタールの土牢にて
鎖の歌を乞いきたれ
こころなき陽光よ
ベタールの土牢なる
鎖より夢を盗みきたれ
わが鷹の翼は空に満ちて広がりぬ
その下にて我は王だりき
今泉がわが空を統べ
我はよるべなき孤児たり
わが鷹は彼方なる鷹の巣へ飛び去りしゆえ
ベタールの土牢へと
ナロンダ……………涙がザモラの眼からこぼれ落ちた。彼の手は力なくしなだれ、頭は竪琴の上に
低くうなだれた。その涙は、閉じ込められてきた私たちの悲しみに出口を与え、私たちの眼の水門
を開いた。
 ミカヨンは飛び跳ね、大声で「窒息する!」と吽んだ。彼は扉へと進み、戸外へと向かった。ザ
モラとミカスターと私は彼に従って中庭を突っ切り、外の大きな囲いの門に到った。そこより先は
同行者の立ち入りは禁じられていた。ミカヨンは、力をこめて重い門をぐいと一気に引くと、
荒々しく門を開け、檻から放たれた虎のように駆け出した。私たち三人はミカヨンに従った。
 太陽は暖かく明るかった。太陽の光が、凍った雪に反射して目を眩まさんばかりだった。私たち
の前には視界の及ぶかぎり、雪をかぶった樹のない丘々がうねっていた。全員が光の幻想的な色合
いのせいで燃え立っているように見えた。辺り一面は静まり返っていて、耳を困惑させるほどの完
全な静けさだった。雪をザクザク踏む私たちの足音だけが静寂の呪文を破っていた。空気は、刺す
ように冷たかったが、私たちの肺をきわめて優しくもてなしたので、あたかも何の努力もしていな
いのに自らの体が前方に運ばれて行くかのように感じた。
 ミカヨンの気分さえ変化した。彼は立ち止まって叫んだ。「呼吸できるというのは、なんと素晴ら
しいことだろう。ああ、ただ呼吸するだけで!」そして本当に、私たちは生まれて初めておおらか
に呼吸することの喜びを感じ、初めて呼吸の意味を感覚したかのようだった。
 少し歩いた後、ミカスターが遠くの高台に暗い物体を発見した。ある者は、それを孤独な狼だと
思った。風によって雪がきれいに洗い流された岩だと思う者もいた。しかしながらその物体は私た
ちのいる方に向かって来ているように見えたので、私たちもそちらに向かうことにした。近づけば
近づくほど、その物体は人間の様相を呈してきた。突然ミカヨンが前方に大きく飛び跳ねた。飛び
跳ねながら彼は叫んだ。「あれは師だ! あれは師だ!」
 そしてそれは師だった、師の優美な歩きぶり、その堂々たる挙動、気高く上げられた顔。いた
ずらな風が師のはためく上着で隠れん坊をし、師の長く黒い髪を無造作にもてあそんだ。太陽は師
の顔を繊細で琥珀がかった茶色に明るく染めていた。しかし、その黒く夢見るような眸は以前と同
じように火花を発し、確信に満ちた晴れやかさと勝利に満ちた愛の波動を送り出していた。革紐で
縛られた木のサンダルを履くしなやかな足は、霜に口づけされて明るい薔薇色になっていた。
 ミカヨンが真先に師のところに到着した。ミカヨンは師の足下に自分を投げ出し、すすり泣き、
笑い、錯乱状態にある者のように口ごもって言った。「今や私の魂が取り戻されました」
 他の三人もミカヨンと似たようなことをした。師は一人一人を立ち上がらせ、無限の優しさをこ
めて抱擁した。師は私たちを抱擁するときにこう言った。
ミルダッド……〈信念〉の口づけを受け取りなさい。これからあなたがたは信頼のうちに眠り、信
頼のうちに目覚めるだろう。疑いが枕に巣を作ることもなく、ためらいが歩みを麻庫させることも
ないだろう。
ナロンダ……………〈方舟〉にとどまった四人は、戸口に師が現れたのを見て最初は幽霊だと思っ
てひどく恐れた。しかし師が一人一人の名前を呼んで挨拶すると、その声を聞いた彼らは、師の足
下に打ちつけんばかりに自らを投げ出した。ただシャマダムだけは、自分の椅子に貼りついたまま
だった。師は、先の四人と同じように、三人を抱擁して同じ言葉をかけた。
 シャマダムはうつろな表情でその光景を眺めていた。彼の体は頭のてっぺんから爪先まで震え出
し、その顔は死にそうなほど蒼ざめ、唇はひきつり、手は所在なげにベルトをまさぐっていた。突
然彼は椅子から滑り落ちた。それから四つん這いになって師のところにまで這って行くと、腕を師
の足の周りに置き、顔を床につけ体をぴくぴく震わせながら、「私も信じます」と言った。師は彼も
立たせたが、口づけはせずにこう言った。
ミルダッド……シャマダムのたくましい体を震わせ、「私も信じます」と言わせているのは、恐怖
だ。
 シャマダムは、ミルダッドを〈黒淵〉とベタールの土牢から連れ出した「魔術」に震え上がり、
その前に頭を垂れている。そしてシャマダムは報復を恐れている。そのことについては、心を安ら
かにしておくがいい。そして心を〈真の信念〉の方向に向けなさい。
 恐怖の波の上に生まれた信念は、恐怖の泡に過ぎない。それは恐怖とともに浮かび上がり、恐怖
とともに沈んで行く。〈真の信念〉は〈愛〉の茎以外のところでは花咲かない。その果実は〈理解〉
だ。もしあなたが神を恐れるならば、神を信じるな。
シャマダム……(眼をずっと伏せたまま、後ろに下がり)シャマダムは自らの家で卑劣漢にして追
放人です。少なくとも今日だけは、あなたに仕えるのを許して下さい。何か食事と暖かい衣類をお
持ちしましょう。長い旅路の後で空腹で凍えていらっしやるでしょうから。
ミルダッド……私には、台所では知られていない食べ物と、羊毛の布や火の舌から借りられたので
はない暖かさがある。シャマダムが私の食べ物と暖かさを蓄えることがもっと多く、他の食べ物や
可燃物を蓄えることがもっと少なければよいのに。
 見るがいい。海は冬には山頂へと連れられて来る。そして山頂は凍った海を外套としてまとうこ
とを喜ぶ。そして山頂には海の外套が暖かい。
あくまでもしばらくの間だ。春が来れば、海は冬眠していた蛇のように、とぐろを巻き、一時的に
抵当に入れられた自由を回復する。そして海は再び岸から岸へと疾走する。そしてまた海は大気中
に昇り、空を駆けめぐり、どこであろうと降りたいところに自らを降らせる。
 しかし、中にはシャマダム、あなたのような人間もいる。そのような人間の生は終わることのな
い冬であり、破られることのない冬眠である。彼らは、いまだにいかなる春の兆しも受け取ってい
ない。見よ、 ミルダッドは春の兆し。ミルダッドは〈生命〉の兆しであって、弔いの鐘ではない。
これ以上どれほどあなたは冬眠したいのか?
 信じなさい、シャマダムよ、人間の生と死は、冬眠に過ぎない。私か来たのは、人間を眠りから
揺さぶり起こし、その巣と穴から呼び出して、不死の〈生命〉の自由へと連れて行くためだ。私の
ためにではなく、あなたのために私を信じなさい。
ナロンダ……………シャマダムは立ちつくしたまま口を開かなかった。ペヌーソが私に、師がいか
にしてベタールの土牢を抜け出して来たか聞くようにと囁きかけた。しかしながら私の口は私のい
うことを聞かず、その質問を聞こうとしなかった。にもかかわらず、その質問は即座に師に見抜か
れた。
ミルダッド………ヘタールの土牢はもはや土牢ではない。それは神殿となった。ベタールの王子はも
はや王子ではない。今や彼は、あなたがたと同じように希求する巡礼者だ。
 陰影な土牢でさえ、ペヌーンよ、輝きわたる燈台となりうる。傲慢な王子でさえ、〈真実〉の王冠
の前に自分の王冠を放棄するように回心させうる。そしてガチャガチャうなる鎖さえもが、天界の
音楽を生み出すようになされうる。〈聖なる理解〉には何物も奇蹟ではない。〈聖なる理解〉だけが
唯一の奇蹟だ。
ナロンダ………………ヘタールの王子の退位に関するの師の言葉は、一条の雷のようにシャマダムを
打った。そして私たちを仰天させたことには、突然彼は痙攣に見舞われた。その痙攣はあまりに奇
怪で狂暴だったために、私たちは真剣に彼の命を危ぶんだほどだった。痙攣は失神で終わり、私た
ちは長い間看病してようやく彼を正気づかせたのだった。





第三十章
解き明かされたミカヨンの夢


ナロンダ……………師がベタールから帰還した前後の長い期間にわたって、ミカヨンは何か大変な
悩みを抱えているように見受けられた。彼はほとんど人と交わらず、わずかしか話さず、わずかし
か口にせず、自分の部屋を滅多に離れなかった。彼は、自分の秘密を私にさえ打ち明けようとしな
かった。そして師が、ミカヨンを強く愛しているにもかかわらず、ミカヨンの苦痛を和らげるよう
なことを何もせず、何も言わなかったのは、私たちすべてにとって驚きだった。
 あるとき、ミカヨンが他の者とともに暖炉の周りで暖まっていたとき、師は〈大いなる郷愁〉に
ついての講義を始めた。
ミルダッド……ある男が夢を見た。その夢は次のようなものだ。
 男は、広く、深く、音もなく流れる河の緑の土手にいた。土手は、ありとあらゆる言葉を喋る老
若男女でごった返していた。全員がとりどりの大きさと色の車輪を転がしながら土手を上ったり下
りたりしていた。彼らは華やかな色の衣裳に身を飾り、お祭り騒ぎや祝宴に熱心だった。その喧騒
が大気を満たした。静まらない海のように、彼らは上へ下へ前へ後ろへと波打った。
 その中で彼だけが祝宴用の衣裳をまとっていなかった。というのも彼は祝宴のことを知らなかっ
たのである。そして彼だけが転がす車輪を持っていなかった。彼は懸命に耳を澄ましたが、様々な
言語を喋る群衆の言葉の中から、自分の言語と似通った言葉を一語たりともとらえることができな
かった。懸命に眼を凝らしたが、馴染みのある顔を一つとして見つけることができなかった。その
上、群衆は波が打ち寄せるように彼の周りに集まり、あたかも「この滑稽な存在は何だ?」とでも
言わんばかりに、彼に意味ありげな視線を投げかけるのだった。しだいにわかってきたことは、こ
の祝宴に彼は招かれておらず、自分が完全なよそ者であるということだった。そのせいで彼は心に
激しい痛みを感じた。
 しばらくすると、土手の上手から大きなうなり声が聞こえてきた。すると群衆が直ちにひざまず
き始めた。彼らは、手で目を覆い、頭を地面へと屈めた。彼らはひざまずきながら二つの列に分か
れ、間を開け、まっすぐな狭い小路を士手全体に作った。彼だけが、どうすればよいのか、どちら
に行けばよいのかわからず、小路の中央に立つたままだった。
 うなり声の聞こえてくるほうを見上げれば、口から炎の舌を吐き出し、鼻孔から煙の柱を吹き出
している巨大な牡牛が、猛烈な速度で小路を突進してくるのが見えた。彼はその狂暴な獣を見て
ぞっとし、右か左に逃れようとしたが、どちらにも逃れられなかった。あたかも地面に縛りつけら
れたかのように動くことができず、もはやこれまでと観念した。
 牡牛の焼け焦がすような炎と煙をじかに感じるほど牡牛が接近してきたちょうどその時、彼は空
中に持ち上げられた。牡牛は彼の下に立ちどまり、さらに多くの炎と煙を上方に噴きつけてきた。
しかし彼はどんどん上に昇った。牡牛の炎と煙を感じはしたが、もはや自分にいかなる害も加えは
しないという確信を抱いた。そして、自らの進路を河向こうへと向けた。
 下方の緑の土手を見下ろせば、群衆はさきほどと同じくひざまずいたままだった。牡牛は彼をめ
がけて、炎と煙に代えて矢を射かけてきた。矢が彼の下を過ぎるとき、シュッという音が聞こえ、
幾つかの矢は上着を貫いた。しかしどの矢も彼の体には触れなかった。ついに牡牛や群衆や河が見
えなくなった。そして男は飛び続けた。
 男は、陽に焼かれ、いかなる生命の痕跡だにない荒れ地の上を渡った。ついに彼は、高く険しい
岩山のふもとに降り立った。そこは草の葉一枚どころか、蟻も蜥蜴も一匹としておらず、荒涼とし
ていた。そして彼は、自分の行くべき唯一の道は山を登ることであるかのように感じた。
長い間彼は登るべき安全な道を探した。しかし見つけられたのは、山羊しか通れないような、か
ろうじて判別できる小道のみだった。彼はその小道を行くことに決めた。
 小道を何百フイートも登らないうちに、左手のさして遠くないところに、広くなだらかな道があ
るのを彼は見た。立ち止まり、小道からその道に今にも移ろうとしたとき、道は人間の流れに変
わった。その半数の人間は悪戦苦闘して登ろうとしており、後の半数は山から真っ逆様に落ちてい
た。数え切れないほどの男女が登ろうと努めては、もんどりうって転がり落ちていった。彼らは転
落しながら、背筋を凍らせるようなうめき声やうなり声を発していた。
 男はしばらくの間この奇怪な光景を観察し、どこか山の上方に巨大な精神病院があり、この転が
り落ちている者たちはそこから逃げ出してきた患者だちなのだと心のうちで判断した。そして彼は
曲がりくねった小道を歩き続けた。小道はあるときには下り、あるときには上ったが、常に高いほ
うへ高いほうへと曲がりくねりながら延びていた。
 ある高さに来ると、人間の流れは干上がり、道はすっかり消えていた。再びほの暗い山に彼は一
人だけとなった。今歩んでいる道が頂上に向かっているとの漠とした信念を除けば、彼には道を教
えてくれる援助の手もなく、弱まりゆく勇気を力づけ、急速に衰えゆく力を支えてくれる声もな
かった。
 男は休まず自らの道を辿り、血を流しながら歩き続けた。魂を引き裂くような苦闘を重ねたすえ、
石くれがなく柔らかい地面に辿り着いた。言葉に言い表せないほど彼にとって喜びだったのは、そ
こかしこにきめの細かな緑の草が幾つか芽吹いていたことだった。草のふんわりとした柔らかさ、
土の天鷲絨めいた滑らかさ、空気のまたとないかぐわしさに心慰められ、最後の一滴まで力を吸い
取られたかのように感じた。それで彼は緊張を解き、眠りに落ちた。
 おのが手に触れる手と声によって男は目覚めさせられた。声は、「目覚めなさい! 頂きが見え
ます。春は頂きであなたを待っています」と言っていた。
 その手と声は、無上に美しい少女のものだったー天使のような彼女は、輝く純白の衣に身を包
んでいた。少女は、優しく男の手を取った。男は活気づけられ、元気づけられて起き上がり、頂き
を仰ぎ見た。そこには春が馥郁と香っていた。立ち上がり、最初の一歩を踏み出そうとしたまさに
その時、男は夢から覚めたのだった。
 ミカヨンよ、あなたならどうする? もしあなたがこのような夢から覚め、まぶたの奥には少女
の輝かしい姿が焼き付けられ、心には頂きのかぐわしい光輝が鮮明に刻み込まれているのに、いつ
もの壁に四方を囲まれて、いつものべッドに自分自身が横だわっているのを見いだしたとしたら?
ミカヨン……(針で刺されたかのようにびくっとして)でも私かその夢見人であり、その夢は私の
ものです。少女と頂上の光景も私の見たものです。今日まで私の眠りにその夢が出没して止まず、
私に安息を与えません。この夢のせいで私は、自分にとって見知らぬ客となりました。この夢のせ
いでミカヨンは、もはやミカヨンのことを知らないのです。
 でも私かその夢を見たのは、あなたがベタールに連行されてから間もなくのことです。どうして
あなたは、かくも細部にいたるまでその夢を物語れるのですか。人の夢までも手に取るようにわか
るあなたは、一体どんな類いの人間なのでしょうか。
 ああ、頂きの自由よ! ああ、あの少女の美しさよ!・ それに比べれば、他のすべてはなんと取
るに足らないことでしょう。魂そのものが、そのために私を打ち捨ててしまったのです。ペタール
から帰還したあなたを見たあの日だけ、再び魂が私と結びつきました。しかし、のちにその感情は
私から去り、私は再び自分自身から見えない糸で引き離されてしまったのです。
 私を救って下さい、偉大なる同行者よ。私はこの夢のせいで疲れ果てているのです。
ミルダッド……ミカヨン、あなたは自分が何を求めているのか知らない。あなたは自分の救い主か
ら救われたいのか?
ミカヨン……まったく安楽にくつろいでいる世界にあって、自分だけは安息の場とてないという、
耐えがたい責苦から私は解放されたいのです。私は頂きにあの少女とともにいたいのです。
ミルダッド……喜びなさい、なぜならあなたの心は〈大いなる郷愁〉にとらえられたのだから。と
いうのもそれは、あなたが必ず自らの故郷とわが家を見出し、少女とともに頂きに立つことになる
という、まがうことなき徴なのだから。
アビマール……お願いします、その〈大いなる郷愁〉についてもっと語って下さい。どんな徴候に
よってそれを知ることができるのですか?





第三十一章
大いなる郷愁


ミルダッド……〈大いなる郷愁〉は霧のようだ。霧が、海と陸から湧き上がり、海と陸をともに覆
い隠すように、〈大いなる郷愁〉は心からほとばしり出て、心を塞いでしまう。
 また霧が、眼に見えるものの現実性を奪い取って、霧のみを唯一の現実とするように、この〈郷
愁〉は、心の感情を征服し、おのれを最高の感情としてしまう。そして一見したところ、霧のよう
に、形がなく目的がなく盲目なのに、それでいて霧と同じように、いまだ生まれていない形に満ち、
視界は明瞭で、きわめて明確な目的を持っている。
  〈大いなる郷愁〉はまた、熱のようだ。熱が体の中で燃え、体の生気を吸い収りながらも、体内
の毒を焼き尽くすように、この〈郷愁〉は、心の軋榛から生まれ、心を衰弱させながらも、心の垢
と埃を燃やし尽くす。
 そして〈大いなる郷愁〉は泥棒のようだ。こそこそと這い回る泥棒が、被害者を重荷から解放し
ながらも、被害者にいたく苦々しい思いを残すように、この〈郷愁〉は盗み取ることによって、心
のあらゆる重荷を取り去りながらも、心に常ならぬ昏々たる思いと、重荷の欠如からくる重圧感を
残す。
 男たち女たちが、踊り、歌い、働き、泣くことで束の間の日々を過ごす土手は広く、青々として
いる。けれども炎と煙を噴き出す恐ろしい牡牛は、彼らの足を萎えさせ、ひざまずかせ、歌を喉に
詰まらせ、腫れたまぶたを涙でくっつける。
 人々を向こうの土手から隔てる河もまた、広く深い。河を泳いで渡ることもできなければ、擢で
漕ぎ渡ることもできず、帆船で渡ることもできない。わずかの者だけが・・ごくわずかの者だけが
河を渡ろうと考える。しかしすべての者-ほとんどすべての者---は、それぞれが〈時間〉
というぺッ卜の車輪を転がし続けている土手にしがみつくことに熱心だ。
  〈大いなる郷愁〉を持った男には、転がすべきぺッ卜の車輪がない。締めつけんばかりに時間に
心を占拠され圧迫されている世界の只中で、彼のみが心を占拠されず、急いでもいない。衣裳、語
り、振る舞いを派手に飾り立てる人々の中で、彼だけが裸で、吃り、動作がぎこちない。彼は笑っ
ている人々とともに笑えず、泣いている人々とともに泣けない。人々は飲み食いし。そこから快楽
を得る。食べる物が彼には味気なく、飲む物が彼の口には無味乾燥だ。
 他の者たちは、連れ添いを持っているか、あるいは連れ添いを探すのに忙しい。彼のみが独りで
歩き、独りで眠り、独りで自分の夢を見る。他の者たちは、世間の機知と知恵に長けている。彼の
みが愚鈍で馬鹿である。他の者たちは、「わが家」と呼ぶ居心地のよい占有地を持っている。彼のみ
が家を持たない。他の者たちは、「祖国」と呼ぶ地上の一部分を持ち、その栄光を声高らかに歌い上
げる。彼のみが、「わが祖国」と呼んで歌を歌えるような場を持っていない。なぜなら、彼の心の眼
差しは向こうの土手に向けられているのだから。
 うわべは油断なく完全に目覚めている世界の只中で、〈大いなる郷愁〉を持つ男は夢遊病者だ。彼
は、周りの者が見ることも感じることもない夢へと引き寄せられる。それゆえ周りの者たちは、肩
をすくめ、袖の後ろで忍び笑う。しかし恐怖の神-炎と煙を噴出する牡牛-が現れると、彼ら
は這いつくばらされて塵を翫めさせられることになる。それに対して、彼らが肩をすくめ、袖の後
ろで忍び笑った夢遊病者は、〈信念〉の翼によって彼らや牡牛の上に引き上げられ、はるか向こう岸
に渡され、岩山のふもとにまで運ばれる。
 その夢遊病者が飛びながら越える土地は、府せて荒廃し、寂寞としている。しかし〈信念〉の翼
は強靭で、男は飛び続ける。
 彼は、陰影で草木とてなく、身の毛もよだつばかりの山のふもとに降り立つ。しかし〈信念〉の
心は不屈で、男の心臓は大胆に鼓動し続ける。
 山に登るために男が通る道は、岩が多く、滑りやすく、かろうじて判別できるほどの小道。しか
し〈信念〉の手は絹のように柔らかく、足取りは堂々とし、眼光は鋭い。そして男は登り続ける。
 その途上、広くなだらかな道に沿って山に登ろうと苦労している男女の一群に遭遇する。彼らは
〈小さき郷愁〉を持つ男女であり、頂きに辿り着きたいと願うのだが、足が悪く盲目の導き手を連
れている。眼で見えるもの、耳で聞けるもの、手で感じられるもの、鼻で匂えるもの、舌で味わえ
るものへの信頼を、彼らは導き手としている。彼らの中には、山の麓までしか登れない者もいる。
ある者は膝まで、ある者は腰まで辿り着くが、山の胴にまで来る者は滅多にいない。しかし彼らは
皆、美しい頂きを一瞥さえしないで、導き手とともに滑り落ち、山から転げ落ちて行く。
 眼は見るべきものすべてを見ることができるのか? 耳は聞くべきものすべてを聞くことができ
るのか? 手は感じるべきものすべてを感じることができるのか? 鼻は匂うべきものすべてを匂
うことができるのか? あるいは舌は味わうべきものすべてを味わうことができるのか? 神聖な
(想像力)から生まれた(信念〉に助けられたときにのみ、それらの感覚は真に感覚する。そうした
時にのみ感覚は導きへの梯子となる。
(信念)を欠く感覚は、最も頼りにならない導き手である。その道はなだらかで広いように見え
るけれども、隠れた罠や陥穿に満ちている。〈自由〉の頂きに向かうためにその道を行く者は、途上
で果てるか、滑って転げ落ち、出発点のふもとに戻るかのいずれかである。そこで彼らは、多くの
折れた骨を手当てし、多くの切り裂かれた傷口を縫う。
  〈小さき郷愁〉の者たちは、自らの感覚によって世界を築いたが、すぐにそれが狭く息苦しいと
感じるようになる者たちである。そこで彼らは、より広く、より風通しのよい家を求める。しかし、
新しい材料と新しい建築の達人を探す代わりに、元の材料をかき回し、同じ建築士-感覚-を
呼び出して、自らのためにさらに広い家を設計し建てるよう依頼する。新しい家が建つが早いか、
彼らはその家が元の家と同じほど狭く息苦しいことを発見する。それゆえ彼らは家を建てては壊し
続けるが、決して自らの望むような、安息と自由をもたらしてくれる家を建てることはできない。
というのも、彼らは自らを欺瞞から救うために、その欺瞞者に頼っているからである。魚がフライ
パンから飛び出して炎へと突っ込むように、彼らは小さな蜃気楼から逃れて、より大きな蜃気楼へ
とおびき寄せられるだけとなる。
  〈大いなる郷愁〉の人間と〈小さき郷愁〉の人間の間には、まったく郷愁を感じない兎人間の大
群がいる。彼らは兎穴を掘って生活し、繁殖し、死ぬことに満足している。おのれの住処の穴が、
きわめて優雅で、広々として暖かいと思い、自らの住居を輝かしい王宮とさえ交換したくないと思
う。彼らはすべての夢遊病者のことを嘲笑う。とりわけ、足跡がほとんどなく、辿るのがいたって
困難な孤独の小道を歩む者に対しては。
 同胞たちの中にいる〈大いなる郷愁〉の人間は、裏庭の雌鳥によって孵され、その雛たちと一緒
に鳥小屋で育てられた鷲の雛とそっくりだ。兄弟の雛たちと母の雌鳥は。幼い鷲が自分たちの一員
として性質と習慣を共有し、自分たちと同じように生活することを望む。そして鷲のほうでは、母
や兄弟が自分のように、より自由な空気と無辺の空を夢見る者であってほしいと願う。しかしじき
に鷲の雛は、おのれがよそ者でありのけ者であると気づく。鷲の雛は皆からつっかれる。母親か
らさえも。しかし頂きの呼び声は彼の血の中で大きく声を上げ、鳥小屋の悪臭は鼻につく。けれど
も鷲の雛は、これらすべてのことを完全に羽が生え揃うまで黙って耐え忍ぶ。そして完全に羽が生
え揃ったとき、鷲は天高く舞い上り、ひととき自らの兄弟であり母であった鳥たちが、さらに多く
の種や虫を求めて地面を掘りながら楽しげにガーガー鳴く様に、愛をこめた別れの視線を投げかけ
る。
 喜びなさい、ミカヨン。あなたの夢は預言者の夢だ。〈大いなる郷愁〉によってあなたの世界はあ
まりにも狭いものとなり、あなたはこの世界のよそ者になる。それは、あなたの想像力を、感覚の
独占的支配から解き放つ、そして想像力はあなたに(信念)を生じさせる。
(信念)はあなたを、よどんで息の詰まるこの世界から高く飛翔させ、荒涼として何もない土地の
上を渡らせ、岩山まで導く、そこであらゆる信念は試練を受け、(死)澱を最後の一滴まで
浄化しなければならない。
完全に浄化され勝利に満ちた信念は、永遠に緑なす頂の境界にまであなたを導き、そこで
あなたを理解の手に引き渡す。仕事が完了した信念は引退し、理解があなたを言葉では言い表せない
自由の頂にまで導く。その頂は真実であり、限りなきものであり、神と(克服する人間〉をすべて
含むわが家である。
 この試験に雄々しく立ち向かいなさい、ミカヨン。雄々しく立ち向かいなさい、あなたがたみん
な。この頂きに一瞬といえども立つことは、あらゆる種類の苦痛に耐えるに値する。しかしこの頂
きに永遠に住まうことは、〈永遠〉をかけるに値する。
ヒンバル……どんなに短くてもいいですから、たとえ一瞥でも、あなたの頂きに今私たちを引き上
げていただけませんか?
ミルダッド……急いではならない、ヒンバル。時節を待ちなさい。私がのびのびと呼吸できるとこ
ろで、あなたは息ができず喘ぐことになる。私が軽やかに歩くところで、あなたは息切れして蹟く
ことになる。しっかりと〈信念〉を保ちなさい。そうすれば〈信念〉は巨人の歩みをなすだろう。
 このように私はノアに教えた。
 このように私はあなたがたに教える。




第三十二章
無花果の葉の前掛け


ミルダッド……あなたがたは〈罪〉のことを教わっているので、人間がいかにして罪人となったか
知りたいだろう。
 あなたがたは、もし神の似姿にして肖像である人間が罪人であるならば、神自身が〈罪〉の源泉
であるに違いないと宣言する・・しかし、そう宣言したところで何の益もない。信じて疑わないこ
との罠がここにある。そして私は、私の同行者たちに、罠に陥ってもらいたくない。それゆえあな
たの道からこの罠を取り除こうと思う。それによって、あなたがたが人間の道からこの罠を取り除
けるように。
 神にはいかなる罪もない。太陽が蝋燭に光を与えることが罪でないかぎりは。あるいはまた、人
間にもいかなる罪もない。蝋燭が太陽の下で自らを燃やし尽くして、太陽へと融け合うことが罪で
ないかぎりは。
 しかしながら光を放とうとしない蝋燭には罪がある。そのような蝋燭は、芯に点火するために
マッチがもたらされても、マッチとそれを運んだ手を呪咀する。太陽の下で燃えることを恥じる蝋
燭には罪がある。それゆえそのような蝋燭は、自らを太陽から仕切りで隔て隠そうとする。
 人間は〈法〉に従わないことで罪を犯すのではない。むしろ〈法〉を知らないことを覆い隠そう
として人間は罪を犯す。
 そう、無花果の葉の前掛けには罪がある。
 あなたがたは人間の堕落の話を読んだことがあるのではないか? 言葉はきわめて簡潔で素朴だ
が、意味においてはこの上なく崇高で繊細な話を? 人間が神の胸から離れたばかりの時は、幼い
神のように、いかに受け身で、活動的でなく創造的でもなかったかを読んだことがあるのではない
か? 神性のあらゆる属性を賦与されていながら、人間は、あらゆる幼児と同じように、自らの無
限の能力と才能を知ることができず、ましてや使いこなせずにいた。
 エデンの園にいるアダムは、美しいガラス層に入れられた孤独な種子のようだった。ガラス層の
中の種子は、いつまでも種子のままであり、その皮の中に封じ込められた驚嘆すべきものが生命と
光へ呼び起こされることは決してない。種子が、その性質に適った土壌に埋められて、自らの皮を
破らないかぎりは。
 しかしアダムには、自らを植え付け発芽させるための、自らの性質に適った土壌がなかった。
 彼には、おのれの顔を反映する血縁の顔がどこにもなかった。彼の耳には、いかなる人間の声も
聞こえてこなかった。彼の声は、いかなる人間の喉からも反響して返ってこなかった。彼の心臓に
は孤独な歌唱が鼓動していた。
 すべてのものが番を持って、自らの進路を進み始めた世界の只中で、アダムはI人きりだった
―まったくI人きりだった。彼は自らにとって見知らぬ客だった。彼にはなすべき仕事もなけれ
ば、従うべき定められた進路もなかった。彼にとってエデンは、赤ん坊にとっての心地よいベビー
ベッドのようなものだった。つまり彼にとってエデンは、受け身の至福の状態―-きちんと装備さ
れた孵化器だった。
  〈善〉と〈悪〉の知識の樹と、〈生命〉の樹は、ともに彼の手の届くところにあった。しかし彼
は、手を伸ばしてその果実をもぎ取り、味わおうとはしなかった。というのも彼の味覚と意志、彼
の思想と欲求、そして彼の生命までもが彼のうちに包み込まれていて、ゆるゆるとほどかれるのを
待っていたのだから。彼は、自らほどくことができなかった。それゆえ彼は、自らのうちから協力
者-彼の多くの包みをほどくのを助ける手-を生み出すこととなった。

自分自身の存在以外に、彼はどこから助けを得ることができたろうか?というのも彼の存在
は、神性があまりにも力強いがゆえに、助力にこと欠かなかったのだから。そしてそれが最も重要
なことだ。
イブは新しい塵、新しい息ではない。イブはまさにアダムの塵であり息だーその骨は彼の骨
であり、その肉は彼の肉だ。別の被造物がそこに顕れたのではない。全く同一のアダムが双子に
されたのだー男のアダムと女のアダムに。
このようにして鏡に反映されなかったこどくな顔が、鏡となる伴侶を得た。如何なる人間の声にも
反響されなかったその名前が甘いリフレーションでエデンの小道を上下に反響し始めた。孤独な胸
に包まれて、孤独な鼓動を打っていた彼の心臓は、伴侶の胸に心臓の鼓動を感じ、鼓動を聞き始めた。
このようにして火花のない鋼鉄は。豊かな火花をもたらす燧石に遭遇した。このようにして燃えて
いなかったろうそくは両端から火を付けられた。
ろうそくは一つであり、芯は一つであり炎は一つである、一見それらは対極から生じているように
見えるけれども、こうしてガラス壜の中の趣旨は発芽して、己の神秘を開示できる土壌を見いだした。
これと同じようにして、自らを統一であると意識していない統一が二元性を生じさせる。
それは、そのような〈統一〉が、〈二元性〉の軋蝶と対立によって、自らの統一を理解するようにな
るためである。この点において、神の忠実な似姿であり肖像である人間も同様である。というのも
神--〈始源の意識〉--は、自分自身から〈言葉〉を発するからである。そして〈言葉〉と〈意
識〉の両者は、〈聖なる理解〉の中で統一される。
二元性は罰ではなくて、統一の世界に内在し統一の神性を開示するために必要な過程である
これ以外の考え方は、子供じみている。このような途轍もない過程が七十年のうちに完了
すると信じるのは、子供じみている。たとえそれが七十年でなく、六千万年だとしても。
神になることは、そんなに小さな事柄だろうか?
神はそのような、残忍で吝嗇な監督者だろうか? 分配できるあらゆる永遠があるのに、人間に
七十年ごときの短い期間しか割り当てず、それだけの期間で人間に、自らの神性と神との一体に完
全に目覚め、自分自身を統一し、エデンを回復しなければならないと定めるような?
〈二元性〉の経路は長い。その経路を暦で測ろうとする者は愚かしい。〈永遠〉は星々の回転を数
えない。
 受け身で、活動的でなく創造的でもなかったアダムが、二元的にされてのも、すぐさま積極的で
活動的になり、創造し、自らを繁殖できるようになった。
二元的にされたアダムの最初の行為は何だったか? それは、〈善〉と〈悪〉の樹の実を食べ、全
世界を自らと同じく二元的にすることだった。事物はもはや以前と同じではなくなった。以前の
ように無垢で無関心ではなくなった。事物は、善か悪、有益か有害、快か不快のどちらかになった。
それらは、以前は一つだったけれども、対立する二つの陣営になった。
そしてイヴに〈善〉と〈悪〉を味わうようそそのかした蛇とは何であるか? それは、活動的だ
がいまだ何の経験もしていない〈二元性〉が、自らを、活動し、経験するようせきたてた、〈二元
性〉のより深い声ではなかったか?
 イヴが最初にその声を聞き、それに従ったのは、何ら驚きではない。というのもイヴはいわば刺
激剤なのだから。彼女は、伴侶の隠された力を引き出すよう設計された道具なのだから。
 あなたがたは、この最初の人間の物語の中で、次のような光景を思い描くために、しばしば立ち
止まらなかったか? それは、最初の女性がひどく神経を高ぶらせ、心臓を籠の中の鳥のようにど
きどきさせ、監視の目がないかとあらゆる場所に首を巡らせながら、エデンの樹々の間をこっそり
と忍び歩き、誘惑する果実に涎を垂らしつつ震える手を伸ばす光景である。彼女が果実をもぎ取り、
はかない甘さを味わうために、その柔らかな果肉に歯を沈めたとき、あなたがたは、はっと息を呑
まなかったか? そのはかない甘味は、彼女自身と子孫すべてにとって永続する苦味へと変わるこ
とになった。
 あなたがたは、心のすべてをこめて、願わなかったか? 神が、この話にあるように後から現れ
るのではなく、イヴが今にもむこうみずな行動をしようとしているまさにそのときに現れて、彼女
の狂った無謀な行為の機先を制するようにと。そしてイヴが行いを完了した後でも、アダムには、
共犯になるのを避ける知恵と勇気があるよう願わなかったか?
しかしながら神は介在せず、アダムも共犯になるのを避けようとはしなかった。なぜなら、神は
自分の似姿が自分に似ないでいることを望まなかったからである。人間が〈二元性〉の長い道を歩
むようになることは、神の意志であり計画だった。それは、人間が自らの意志と計画を展開させ、
自らを理解によって統一するためである。アダムに関しては、妻によって差し出された果実
を口にしないでいることは、たとえ彼が望んだとしても、不可能だった。妻がそれを口にしたとの
理由だけで、それを口にすることは義務として彼にのしかかってきた。というのも二人は一つの肉
体であり、いずれも相手の行為に対して責任があったのだから。
 神は、人間が〈善〉と〈悪〉の果実を食したがゆえに、憤慨し激怒したか? 断じてそのような
ことはない。というのも神は、人間が果実を口にせざるを得ないと知っていたし、それを望んでも
いた。しかし同時に神は、前もって人間が、それを口にすることの帰結を知り、その帰結に直面す
るだけの活力を持つことをも望んでいた。そして人間は活力を持っていた。そして人間はそれを食
べた。そして人間はその帰結に直面した。
 その帰結とは〈死〉だ。というのも、神の意志によって活動的に二元的となった人間は、直ちに
受動的な統一に対して無感覚になったからである。したがって〈死〉は罰ではなく、〈二元性〉に内
在する生の一局面である。なぜなら、〈二元性〉の性質は、万物を二元的にして、あらゆるものに影
を生じさせることなのだから。それゆえアダムは、イヴによって自らの影を得た。そして両者は自
分たちの生に〈死〉と呼ばれる影を得た。しかしアダムとイヴは、〈死〉によって影をつけられなが
らも、神の生の中で影のない生を保ち続ける。
  〈二元性〉は絶えざる軋慄である。そしてその軋蝶は、対立する二者が互いを絶滅させることに
熱心であるという幻想を与える。実際は、みかけは相反するものが互いを完成させ合い、互いを充
足させ合い、于に手を取り合って同一の目的-完全な平和、統一、そして〈聖なる理解〉のバラ
ンス-のために働いているのである。しかしこの幻想は感覚に根ざしており、感覚が持続する間
は、この幻想も持続する。  。
 それゆえアダムは、自らの眼が開いた後、神の呼びかけに対してこのように答えた。「私は園であ
なたの声を聞きました。そして私は裸でしたから、恐れて身を隠したのです」。また、「あなたが私
に下さった女性が、樹から実を取ってくれたので、私は食べたのです」
 イヴは、アダムの骨そのもの、肉そのもの、それ以外の何物でもない。しかしながら、新しく生
まれた、アダムのこの私のことを考えてみなさい。それは、自分の眼が開いた後、自らをイヴや神
や神のすべての創造物とは異なり、離れ、独立したものだと見始める。
 この私は幻想、神から分離したこの人格は、新しく開いた眼の幻想。この幻想の自己は実体がなく
現実性もない。それが生まれたのは、人間がこの自己の死を通じて自らの本来の自己、即ち
神の自己を知るためである。この幻想は外の目がくらまされ、内の目が輝かされるときには
消え去る。この幻想にアダムは悩まされたけれども、同時に彼は精神を強くたぶらかされ、想像力
を誘惑された。完全に自分自身のものと呼べる自己を持つこと-これは、いかなる自己をも意識
していない人間にとって本当にあまりにも快く、あまりにも誘惑的な甘言である。
 そしてアダムは、幻想の自己に誘惑され、おもねられた。彼は、幻想の自己があまりにも非現実
的、あるいはあまりにも露わであるゆえに恥じたけれども、だからと言ってそれを手放そうとはし
なかった。その代わりに彼は心のすべてと、新しく生まれた自分の技巧のすべてをもってそれにし
がみついた。彼は無花果の葉を縫い合わせ、自らの裸の人格を覆い隠し、すべてを見通す神の眼か
ら自らを遠ざけるための前掛けを自らのためにこしらえた。
 こうして人間は、無花果の葉の前掛けをして二元的になることで、至福に満ちた無垢の状態であ
り、自らが統一であることを意識していない統一であるエデンを失ってしまった。そして炎の剣が、
人間と〈生命の樹〉との間に置かれた。
 人間は〈善〉と〈悪〉という一対の門を通ってエデンを出て行った。人間は〈理解〉という単一
の門を通ってエデンに入ってくるだろう。人間は〈生命の樹〉を背に出口から出て行った。人間は
〈生命の樹〉と正面から向かい合って再入場するだろう。人間が長い試練へと旅立ったとき、自らの
裸を恥じ、自らの恥を隠すことに気を配っていた。旅の目的地に到達するとき、人間は裸身に前掛
けを掛けず、心は自らの裸を誇っているだろう。
 しかしそのことは、人間が〈罪〉によって〈罪〉から解き放たれるまでは起こらない。というの
も、〈罪〉はやがて自己解消するからだ。そして〈罪〉とは、無花果の葉の前掛け以外の何物だろう
か?
 そう、人間が自分自身と神の間-1-はかない自己と永続的な〈自己〉との間-に据えた仕切り
以外の何物も〈罪〉ではない。
 初めはほんのささやかな無花果の葉に過ぎなかった仕切りが、今や強大な砦になっている。人間
は、エデンの無垢から脱してよりこの方、前にも増して無花果の葉を積み上げ、前掛けに次ぐ前掛
けを縫う仕事にすこぶる熱心だった。
 怠惰な者たちは、おのれの前掛けのほころびに、より仕事熱心な隣人たちが捨てた前掛けの切れ
端でつぎを当て続けることに満足している。そして〈罪〉の衣裳のつぎはては、ことごとく罪である。
なぜならそれは、恥、すなわち、神から分離しているという、人間の最初のきわめて痛切な感情を
持続させることに資すからだ。
 人間は自らの恥を克服しようとするほかに、何をしているのか? ああ! その労働はすべて、
恥の上に恥を重ねること、前掛けの上に前掛けを重ねることだ。
 人間の技術や学問は、無花果の葉以外の何なのか?
 始終戦争に従事している人間の帝国、国家、対立する民族、そして宗教は、無花果の葉を崇拝す
る諸宗派ではないか?
 人間の善悪、名誉と不名誉、正義と不正の掟、人間の無数の社会的信条や因習――それらは無花
果の葉の前掛けではないか?
 価値の測れないものの価値を測り、測定できないものを測定し、いかなる尺度も超えているもの
を標準化することーこれらすべては、つぎだらけの腰布につぎを当てることではないか?
 人間の、おのれを苦痛で満たす快楽への貪欲、おのれを貧しくする富への強欲、おのれを隷属させる
支配への渇望、おのれを非昇華する栄光への欲求―これら全ては、あまりにも多くの無花
果の葉の前掛けではないのか?
 人間は、自らの裸を覆い隠そうとする哀れむべき奮闘によって、あまりにも多くの前掛けを着用
した。前掛けは、長い年月を経てあまりに強く皮膚に貼りついてしまい、もはや皮膚と区別されて
いない。そして人間は息を切らし喘いでいる。人間は幾重にも重なった皮膚から解放されることを
懇願している。しかし、妄想のうちにある人間は、自らを重荷から解き放つために、あらゆること
をしようとするが、真にそれを実現する唯一のことだけはしようとしない。その唯一のこととは、
おのれの重荷を投げ捨てることだ。彼は、余分な皮膚を取り除くよう望みながら、一方で全力をこ
めてそれにしがみつく。裸になることを望みながらも、完全に着飾ったままでいようとする。
 裸になるときは近づいた。私か来たのは、あなたがたが余分な皮膚-無花果の葉の前掛けー
を脱ぎ捨てるのを助け、それによってあなたがたもまた、世界のすべての希求者たちが余分な皮膚
を脱ぎ捨てるのを助けられるようにするためだ。私は道を示すだけだが、おのおのは自ら余分な皮
膚を脱がなければならない。たとえそれがいかなる痛みを伴おうとも。
 あなたがたを自分自身から救済する、いかなる奇蹟も待ち望んではならない。あるいはまた、苦
痛を恐れてもならない。なぜなら裸の〈理解〉は、苦痛を永続する喜びの法悦に変えるからだ。
 そのときあなたがたは、〈理解〉の裸のうちで自らと向かい合ったとしても、そして神に呼び掛け
られて「あなたがたはどこにいるのか?」と訊ねられたとしても、恥じ入ることなく、恐れること
なく、神から隠れようともしないだろう。むしろ震えることなく、縛られることなく、神々しく晴
れやかに、神に答えるだろう。
 「私達を見て下さい、神よー私達の魂、私達の存在、私達の唯一の自己を、恥と恐れと
苦痛のうちに私達は、あなたが時間の曙で私達に定めた、長く厳しく苦しい善と悪
の道を歩んできました、大いなる郷愁が足を促し信念が心を支え、今や理解が重荷を
取り除き、傷口を塞ぎましたかくて私達は善と悪を脱ぎ生と死を脱ぎ
二元性のあらゆる幻想を脱ぎ、全てを抱擁する自己以外のあらゆる自己を脱ぎ
あなたの聖なる臨在の元に戻ってきました
裸身を隠すいかなる無花果の葉もなく、あなたの前に、恥じる
ことなく、恐れることなく、光明を得て私たちは立ちます。見て下さい、私たちは統一したのです。
見て下さい、私たちは克服したのです。
そして神は無限の愛をもってあなた方を抱擁し、まっすぐにあなた方を神の生命の樹へと
連れて行くだろう。
 このように私はノアに教えた。
 このように私はあなたがたに教える。
ナロンダ・・以上も又師が暖炉の周りで語ったことである。



第三十三章
夜・・・比類なき歌い手


ナロンダ……………流刑囚が炉辺の暖かさに憧れるように、私たちは皆、冬の間中凍てつく風と降
り積もった雪に阻まれて近づけない〈鷹の巣〉を憧れた。
 師はある春の夜を選んで、私たちを〈鷹の巣〉へと導いた。光は柔らかで明るく、空気は暖かで
かぐわしく、不断の覚醒と活発な脈動が感じられる夜だった。
 そこには、師がベタールに連行された日とまったく同じように、私たちの腰掛けになる八つの平
らな石が半円状に並べられていた。あの日よりこの方、誰も〈鷹の巣〉を訪れていないのは明らか
だった。
おのおのはいつもの席に腰を下ろし、師が語り始めるのを待った。しかし師は口を開こうとしな
かった。満月さえもが、あたかも私たちを歓迎するかのように洞窟の外から覗き込み、師の唇に気
を揉んで宙ぶらりんでいるように見えた。
 山の奔流は、ごつごつした岩から岩へと急降下しながら、荒れ狂うメロディーで夜を満たした。
時折、泉のポーポーという鳴き声や蟋蟀の変則的な音階の歌が耳に入ってきた。
 息もつけない沈黙の下で長い間待った後、師は頭を上げ半ば瞑目していた目を開け、語り始めた。
ミルダッド……夜の静けさの中でミルダッドはあなたがたに、〈夜〉の歌を聴いてもらいたい。
〈夜〉の合唱に耳を傾けなさい。というのも〈夜〉はまことに、比類なき歌い手なのだから。
 最も暗い過去の裂け目から、最も明るい未来の王宮から、天空の絶頂から、大地のはらわたから、
〈夜〉の声は湧き起こり、宇宙のさいはての地にまで押し寄せる。それは、力強い波動をあなたがた
の耳の周りで震動させ渦巻かせる。その声がよく聴こえるよう、耳から重荷をきちんと取り除きな
さい。
 せわしい〈昼〉が無頓着に消し去るものを、悠然たる〈夜〉は見事な魔法で復元する。月や星々
は、ぎらぎらまばゆい〈昼〉には身を隠すではないか。〈昼〉が見せかけのごたまぜの中に沈め隠す
ものを、〈夜〉はゆったり落ち着いた法悦のうちに広やかに詠唱する。草の葉の夢でさえも〈夜〉
の合唱に感じ入る。

星々に耳傾けよ。
星々が天空を巡りながら
歌う子守歌を聴け。
流砂の揺藍で
すやすや眠る巨人の嬰児に
貧者の襤褸をまとう王に
桎梏につながれた稲妻に
産着にくるまれた神に
歌う子守歌を聴け。
一時に産気づき、乳を与え、育み
結婚し、埋葬している大地に耳傾けよ。
森では野獣どもが徘徊し
吠え、唸り、引き裂き、引き裂かれ
地を這うものどもはおのが道を行き
虫たちは神秘の歌をハミングし
鳥たちは夢の中で
牧場の物語、流れの歌を試演し
巨木や濯木。そしてあらゆる息づくものは
死の杯で生を鯨飲する。
頂きと谷あいから
砂漠と海から
大気中から、そして土中から
〈時間〉のヴェールに覆われた神を
呼び寄せる声が響きわたる

世の母たちが-
涙し、嘆くのを聞け。
世の父たちが
苦悶し、呻吟するのを聞け。
その息子と娘たちが
銃へと走り、銃をかさにきて
神をののしり、運命を呪い
愛を装い、憎しみを呼吸し
熱意を呑み込み、恐怖を発汗し
微笑みの種を蒔き、涙を収穫し
水嵩の増していく洪水の怒りを
深紅の血で刺激するのを聞け。
彼らの飢えた腹が縮み
涙に腫れたまぶたが瞬き
しなびた指が
死せる希望を手探りするのを聞け。
彼らの心臓は膨張して裂け
累々と積み重なる。
悪鬼めいた兵器がゴロゴロと鳴り
侶傲の町が崩壊し
強大な要塞が
自らの弔鐘を鳴り響かせるのを聞け。
そして古えの記念碑は
泥と血の沼で濡れそぼつ。
義しき者の祈りが
淫らな者の金切り声と共鳴し
子どもの無邪気なお喋りが
よこしまな俗談と朗唱し
少女の頬を染める微笑みが
ごろつきの陰険さと嚇り
勇者の熱情が
悪党の陰謀を口ずさむのを聞け。
眠りに包まれるあらゆる寝床で
〈夜〉は人間の戦闘を讃えて喇叭を吹く。
しかし魔女の〈夜〉は
子守歌、挑戦、戦闘讃歌、そしてなべてのものを巧みに調合し
聞き取れないほど繊細な歌に仕立てる―
この上なく荘厳で、無辺に広がり
無上に荘重な音調とまろやかなリフレーンの歌に―
この歌に比べれば、天使たちの合唱と交響曲さえ
騒音とざわめきに過ぎない。
これぞ〈克服者〉の勝利の歌。

〈夜〉の膝でまどろむ山々
砂丘とともに昔を忍ぶ砂漠
夢遊する海、彷徨する星々
死者の町に住まう人々

〈聖なる三位一体〉と〈全能の意志〉が
〈克服する人間〉を讃え、喝采する。
聞いて理解する者たちは幸いである。
一人で〈夜〉とともにあるとき、〈夜〉のごとく
平安で深遠で広やかに感じる者たちは幸いである。
暗闇でなした悪行のせいで
暗闇で顔を苦痛に歪めない者たち
同胞たちに流させた涙のせいで
まぶたが涙で疼かない者たち
手が悪戯と貪欲にむずがゆくない者たち
耳に欲情のうなり声が押し寄せない者たち
思いが他の思いを噛んだりしない者たち
心が、〈時間〉の隅々から際限なく群がってくる
あらゆる種類の心労の巣箱でない者たち
恐怖が脳にトンネルを掘らない者たち
大胆にも〈夜〉に「我らに〈昼〉を示せ」と言える者たち

そして〈昼〉に「我らに〈夜〉を示せ」と言える者たち
そう、三たび彼らは幸いである、
一人で〈夜〉といるとき、〈夜〉のごとく
この上なく調和し、静謐で、無限を感じる者たちは。
彼らだけに〈夜〉は〈克服者〉の歌を歌う。
熱を帯びた昼にここかしこと投げられ
星のない夜に暗闇に包まれ
道を示す足跡も標識もない
世界の十字路に投げ出されても
あなたはいかなる人もいかなる状況も恐れない。
人々や事物と同じく、昼と夜も
遅かれ早かれあなたを求め、自分たちに命令して下さいと
身をかがめて頼むだろうとの
あなたの確信には疑いの影もない。
なぜならあなたは〈夜〉の信頼を得だのだから。
そして〈夜〉の信頼を得る者は
来るべき日にたやすく命令を下せるだろう。
〈夜〉の心に耳を傾けなさい。なぜなら、〈夜〉の心のうちで〈克服者〉の心が鼓動しているのだ
から。
 もし私に涙があったなら、今宵私はすべての瞬く星と塵の粒にその涙を差し出しただろう。すべ
ての音たてて流れる小川と歌っているキリギリスに、空中へかぐわしい魂を漂わせる董に、疾風に、
山と谷に、樹々と草の葉に-この〈夜〉の妙なる平安と美しさすべてに対し、人間の忘恩と野蛮
な無知に対する謝罪として、私はそれらの前で涙を流しただろう。
 というのも、いまわしい〈金〉という神の崇拝者である人間たちは、この神に仕えるのに忙しい
からだ。人間は、この神に忙殺されるあまり、この神以外の声や意志にまったく注意を払えなく
なっている。
 そしてこの神の仕事は恐ろしい。その仕事は、人間の世界を屠殺場にしてしまうことである。そ
こで人間たちは、屠殺する者であり、屠殺される者である。そして血に酔いしれた人間たちは、屠
殺された者たちに授けられていた大地の賜物と天の恵みのすべてを、より多く屠殺した者が受けつ
ぐと信じて、互いに屠殺し合う。
 不幸な、騙されやすい者だちよ! かつて狼が別の狼を引き裂くことで、羊になったことがある
か? かつて蛇が仲間の蛇を押し潰し呑み込むことで、鳩になったことがあるか? 人間が他の人
間を殺すことで、殺された者の悲しみ抜きに、喜びのみを相続したことがあるか? 耳が他の耳に
栓を詰めることで、〈生〉の調和によりよく和するようになったことがあるか? あるいは眼が、他
の眼をくり抜くことで、〈美〉のほとばしりにより敏感になったことがあるか?
 パンであれワインであれ、光であれ平和であれ、天が恵むものすべてを一時間のうちに消費し尽
くしてしまう一人の人間、あるいは人間の集団がいるか? 大地は、自らが養えるだけの子どもし
か産まない。天は自らの子どものために、糧をせがみも盗みもしない。
 「もしあなたがたが満たされたいなら、殺しなさい。そして、殺したものの所有物を相続しなさ
い」と、人間に言う者は虚言者である。
 殺された者の涙と血と苦悶によって、いかにして殺人者が幸せになりえよう? 被害者は自らの
愛と、大地の乳や蜜、天の深い情愛による幸せを逃したというのに。
 「それぞれの国が自国のために」と、人間に言う者は虚言者である。
 もし百足のそれぞれの足が、互いに反対の方向に向かおうとしたり、他の足の進行を妨げようと
したり、他の足の破壊を謀っていたら、その百足はわずか1インチたりと言えども進むことができ
ないのではないか? 人類とは、巨大な百足ではないか? そのあまたの足が国家ではないか?
 「支配することは名誉で、支配されることは恥である」と、人間に言う者は虚言者である。
 駿馬の乗り手は、駿馬の尻尾に導かれているのではないか? 拘禁する者は、拘禁された者に縛
られているのではないか?
 本当は、駿馬が乗り手を導いている。囚人が看守を拘禁している。
 「速い者が競争に勝ち、強者に正義がある」と、人間に言う者は虚言者である。
 というのも、生は筋力や腕力の競争ではないのだから。
障害者や不具者が、あまりにもしばしば
健康な者よりはるかに早く目的地に到達する。
ぶよでさえも剣客を打ちのめすことがある。
 「悪を正すには、悪をもってする他はない」と、人間に言う者は虚言者である。
ある悪の上に重ね
られた別の悪は、決して正義をもたらさない。悪を放っておきなさい。そうすればそれは、おのれ
のなしたことを自ら元に戻すだろう。

 しかし人間たちは、自分たちの崇めるあらゆる神々の哲学に編されやすい。〈金〉の神と、取り巻
きの強欲な神々を人間は敬虔に信仰し、その神々の理不尽な要求さえも忠実に実行する。その一方
で解放を歌い、解放を説く〈夜〉を-神自身でさえも-人間たちは信頼もせず、気にもとめな
い。そしてあなたがた同行者たちは、人間たちから狂人かペテン師という熔印を押されるだろう。
 人間たちの忘恩と嘲りの棘に対し怒ってはならない。尽きることのない愛と忍耐をもって、人間
たちに、自分自身からの解放と、やがて彼らの上に振りかかってくる炎と血の洪水からの解放をさ
とすことに励みなさい。
 今や人間が人間を屠殺するのをやめるべき時だ。
 太陽と月と星々は、見られ聞かれ理解されるよう永遠の昔から待ちわびている。大地のアルファ
ベッ卜は解読されるよう、〈空間〉の大通りは通過されるよう、もつれた〈時間〉の糸はほどかれる
よう、宇宙の芳香は吸い込まれるよう、苦痛の地下墓地は取り壊されるよう、〈死〉の住処はくまな
く捜索されるよう、〈理解〉のパンは賞味されるよう、そして人間、つまりヴェールをかけられた神
は、ヴェールを取られるよう、待ちわびている。
 今や人間が人間を略奪するのをやめ、心を一つにして共通の仕事にいそしむべき時だ。その仕事
は骨が折れるが、勝利の味は甘い。それに比べれば、他のあらゆる事柄は取るに足らない。
 そう、今やそのときだ。しかしそれに気づくのはごくわずかだろう。他の者たちは、別の呼びか
け―別の夜明けを待たなければならない。






第三十四章
母なる卵 ミクロの神とマクロの神


ミルダッド……この宵の静寂にあってミルダッドはあなたがたに、〈母なる卵(Mother Ovum)〉につ
いて瞑想してもらいたい。
 〈空間〉とその中にあるものすべては卵(Ovum)であり、その殼は〈時間〉だ。これが〈母なる
卵〉である。
 大気が〈地球〉を包み込むように、〈進化した神(God Evolved)〉、すなわち〈マクロの神〉がこ
の卵を包み込んでいる。〈マクロの神〉は肉体を持たない〈生命〉であり、無限で消し去ることがで
きない。
〈包み込まれた神((God Evolved)、すなわち〈ミクロの神〉が、この卵の中に包み込まれてい
る。〈ミクロの神〉は肉体を持つ〈生命〉であり、〈マクロの神〉と同じく、無限で消し去ることが
できない。
この〈母なる卵〉は、人間の尺度では測れないけれども、限界を持っている。それ自身は、無限
ではないけれども、全面的に無限と境を接している。             ‐
 宇宙にあるすべての事物や存在は、同じ〈ミクロの神〉を囲う時空の卵以上のものではない。し
かし、囲われた〈ミクロの神〉は、それぞれ成長の段階に応じて異なる。人間の内なる〈ミクロの
神〉は、動物の内なる〈ミクロの神〉よりも時空の広がりが大きい。動物の内なる〈ミクロの神〉
は、植物の内なる〈ミクロの神〉よりも時空の広がりが大きい。同様に、〈ミクロの神〉の持つ時空
の広がりは、創造物のスケールに応じて変わる。
 
見えるもの、見えないものを含めた、あらゆる事物や存在を表現する無数の卵は、〈母なる卵〉の
うちで申し分なく調整され、広がりのより大きい卵が、空間を介在させて、自分に最も近接した、
より小さな卵を包んでいる。これと同じことが最小の卵にまで連なっていく。最小の卵は、無限小
の時空に囲われた中心核である。
 卵の中に卵があり、その中にまた卵があり、その数は人間の数字を受けつけない。これらの卵は
すべて神の受精卵であるそれが宇宙なのだ、私の同行者たちよ。


しかし私の言葉は、あなたがたの精神にとってはあまりにもつかみどころがないだろうと私は感
じる。かりにも言葉が、完全な〈理解〉へとつながる梯子の安全でしっかりした横木となるものな
ら、喜んで自分の言葉を、そのような安全でしっかりした横木にしたいと思う。もしあなたがたが、
ミルダッドの願う高みと深みと広がりに到達したいのなら、
精神以上のものによって、言葉以上の
ものをしっかりとつかまえなさい。


 言葉はせいぜいのところ、地平を開示する閃光でしかない。言葉は、地平への道ではなく、まし
てや地平そのものではない。だから〈母なる卵〉や様々な卵のこと、〈マクロの神〉と〈ミクロの 
神〉のことについて私か語るとき、字義にとらわれるのではなく、閃光を追いなさい。そうすれば
私の言葉があなたがたのよろめく理解の力強い翼となるだろう。                  

 周りの〈自然〉を考えてみなさい。〈自然〉が卵の原理によって打ち建てられているのに気づかな
いか? そう、卵の中にあらゆる創造物への鍵が見出せる。                       

 あなたがたの頭、心臓、眼は卵である。すべての果実とその種は卵である。水滴やあらゆる生き
物の精子は卵である。そして無数の天体、か、天空でおのれの神秘的な軌道を回っている。これらす
べては、成長の段階がそれぞれ異なる〈生命〉の精髄-〈ミクロの神〉-を包む卵ではないの      
生命〉はすべて、絶えず卵を孵しながら、卵へと回帰してゆくのではないか?

創造の過程はまことに神秘的で、連続的だ。〈母なる卵〉の表面から中心への〈生命〉の流れ、そ
して中心から表面への〈生命〉の流れは、妨げられることなく進行し続ける。
中心核にある〈ミク
ロの神〉は、〈時間〉と〈空間〉のうちで拡張するにつれ、卵から卵へ、〈生命〉の最低の位階から
最高の位階へ、最小の時空を持つ最低の存在から、最大の時空を持つ最高の存在へと移行する。

ある卵から別の卵への移行に要する時間は、瞬間から永劫まで様々だ。この過程は、〈母なる卵〉の
殼が破られ、〈ミクロの神〉が〈マクロの神〉として出現するまで続く。

 このようにして〈生命〉は成育し、成長し、進歩するのだが、それは人間のよく言う普通の成長
や進歩とは異なる。というのも、人間たちにとって成長とは、量を積み重ねることであり、進歩と
は前に進むことなのだから。ところがここで言う
成長とは、〈時間〉と〈空間〉内のいたるところで
の拡張であり、進歩とは、あらゆる方向に等しく延び広がる動きのことである。つまり、前方と同
じく後方へも、そして上方と同じく下方へも側方へも延び広がっていくことだ。それゆえ究極の成
長とは、〈空間〉を超え出ることであり、究極の進歩とは、〈時間〉を追い越すことである。
そのよ
うにして〈マクロの神〉へと溶け込み、〈マクロの神〉に備わる〈時間〉と〈空間〉の束縛からの自
由に到達する。この自由だけが自由の名に値する。そしてそれが人間に定められた運命だ。


 これらの言葉をよく考慮しなさい、仲間たちよ。あなたがたの血そのものがこれらの言葉を旺盛
に吸収しなければ、自分や他者を自由にしようとするあなたがたの努力が、自分や他者の鎖の輪を
さらに増やすことになりがちだ。ミルダッドは、あなたがたがすべての希求者の理解の助けとなる
ように、あなたがたに理解してもらいたい。ミルダッドは、克服して自由となることを切望してい
る種族の人々を、あなたがたが〈自由〉へと導けるよう、あなたがたに自由になってもらいたい。
それゆえ彼はさらに進めて、この卵の原理を解明しようとする。それが特に人間にかかわってくる
ところは。

 人間より階級が下の存在は、すべて一群の卵に囲われている。そのようにして、様々な植物があ
るのに応じて同じだけ多くの植物用の卵がある。進化の進んだものが、自分より進化していないす
べてのものを囲い込む。昆虫についても、魚類についても、哺乳類についても同じである。常によ
り進化したものが、〈生命〉の階級の下層のものを中心核に至るまですべて囲い込む。
 通常の卵の黄身と白身が、中の雛を養い成長させることに仕えるように、卵に囲い込まれている
卵はどれも、中の〈ミクロの神〉を養って成育させることに仕えている。

 より大きな卵へと移る度に〈ミクロの神〉は、時空の食物が、自分を養い育てた前の卵とわずか
に変化していると気づく。それゆえ時空の広がりに違いがある。気体の中では〈ミクロの神〉は拡
散され形がなかったが、液体においては、より凝縮され形に近づく。鉱物ではそれは、明確な形と
固体性を得るが、その間ずっと、より高次の形において顕現する〈生命〉の属性をことごとく欠い
ている。野菜の中でそれは成長し、増殖し、感じる能力を持った形を取る。動物においてそれは、
感じ、動き、繁殖し、記憶を持ち、思考の片鱗を持つ。だが
人間においては、以上のすべてに加え、
人格と、熟考し、自らを表現し、創造する能力が備わる。確かに、人間の創造を神の創造と比べる
のは、大建築家の建てた栄えある寺院や壮麗な城塞と、幼な児の作ったカードの家を比べるような
ものだ。しかしともかく、それは創造なのである。


 おのおのの人間は個人の卵となる。
より進化した人間が、より進化していない人間とさらにすべ
ての動植物、そして中心核に至るまでのより低次の卵すべてを囲い込んでいる。その一方で最も進
化したもの―〈克服者〉―は、すべての人間と、人間より低次の卵すべてを囲い込んでいる。


 
いかなる人間を囲う卵の大きさも、その人間の時空の地平の広がりによって測定される。ある者
の〈時間〉の意識は、幼児の頃から現在までの短い期間しか広がっておらず、その〈空間〉の地平
は眼が届くところ以上のものを含んでいない。それに対し、別の者の地平は、記憶されていない太
古の昔からはるか彼方の未来にまでわたり、眼がいまだ立ち入ったことのない広大な空間を包んで
いる。


 人間を養い成長させる食物は同じでも、栄養を吸収し消化する人間の能力は同じではない。とい
うのも、彼らは同じ時間と場所の同じ卵から孵ったわけではないのだから。それゆえ彼らの時空の
広がりは異なる。それゆえ二人としてまったく同じ者は見出せない。

 すべての人間の前にかくも豊かにかくも潤沢に広げられた同じ食卓から、ある者は黄金の純粋と
美を満喫して満たされるのに対し、別の者は黄金自体を糧として常に飢えている。鹿を見た猟師は、
それを殺して消費しようと活気づく。同じ鹿を見た詩人は、猟師が決して夢見ることのない時間と
空間に、翼に運ばれたように導かれる。シャマダムと同じ〈方舟〉に住んでいながら、ミカヨンは
究極の自由と、〈時間〉と〈空間〉の制約から解き放たれた頂きを夢見る。それに対し、シャマダム
は常に、より長く頑丈な〈空間〉と〈時間〉のもやい綱にますます自分を縛りつけるのに忙しい。
まことに、ミカヨンとシャマダムは、肘が触れ合うほど近くにいながら、遠く離れている。ミカヨ
ンはシャマダムを包み込む。しかしシャマダムはミカヨンを包まない。それゆえミカヨンはシャマ
ダムを理解できるが、シャマダムはミカヨンを理解できない。

  
〈克服者〉の生は、あらゆる人間の生に全側面で触れる。ところが一方、いかなる人間の生も、
〈克服者〉の生の全側面に触れることはない。
最も単純な人間には、〈克服者〉は最も単純な者とし
て現れる。高く進化した人間にとって〈克服者〉は、高く進化した者として現れる。しかしながら、
常に〈克服者〉には〈克服者〉以外に感じることも理解することもできない側面がある。それゆえ
〈克服者〉は孤独であり、いまだ自分のものとはなっていない世界にいるように感じる。

  〈ミクロの神〉は制約を嫌う。〈ミクロの神〉は、人間の知性をはるかに凌ぐ知性を用いて、自ら
を〈時間〉と〈空間〉の制約から解き放とうとしている。より低い存在ではその知性は本能と呼ば
れる。通常人においてそれは理性と呼ばれる。より高次の人間においては、それは預言者的感覚と
表される。その知性はこれらすべてであり、それ以上のものだ。名前なきこの力をある者は正当に
も〈聖霊〉と名付けたが、ミルダッドはそれを〈聖なる理解の霊〉と呼ぶ。
  〈時間〉の殼を破り、〈空間〉の限界を横切った最初の〈人の子〉は、正しく〈神の子〉と呼ばれ
ている。おのれの神性への彼の理解は、〈聖霊〉というふさわしい名で呼ばれている。しかしなが
ら、あなたがたもまた神の子であり、あなたがたの中にも〈聖霊〉の働きが進行中であることを確
信しなさい。〈聖霊〉に沿って働きなさい。断じてそれに抗ってはならない。

 しかしながら〈時間〉の殼を破り、〈空間〉の限界を横切るまでは、「私が神である」と言わない
ようにしなさい。むしろ「神が私である」と言いなさい。このことを精神によく叩き込んでおきな
さい。さもないと傲慢とむなしい空想が心を汚し、内なる〈聖霊〉の働きに逆らうおそれがある。
というのも、多くの人間は〈聖霊〉の働きに逆らっており、そのために究極の解放を遅らせている
のだから。

〈時間〉を征服するには、〈時間〉とともにあなたは〈時間〉と戦わなければならない。〈空間〉
を制圧するには、〈空間〉に〈空間〉を食わせなければならない。この両者のいずれかに対して親切
な主人でいることは、この両者の囚人にとどまることであり、
〈善〉と〈悪〉の果てしない道化芝居
の人質にとどまることである。


 おのれの運命を見出し、それを成就することを希求する者は、〈時間〉を甘やかして時を浪費した
りせず、〈空間〉をのんびり歩んで歩みを空費することもない。短い人生の時間の中で彼らは、永劫
の巻物を巻き上げ、途轍もない広がりを制圧するかもしれない。彼らは、〈死〉が自分たちを次の卵
に連れて行くのを待ちはしない。彼らは、多くの卵の殼をすべて同時に破るにあたって、〈生命〉の
助けを信頼する。

 そのためには、すなわち〈時間〉と〈空間〉に心を支配されないためには、あらゆるものの所有
を放棄しなければならない。
所有することが多ければ多いほど、それだけ多く所有される。所有す
ることが少なければ少ないほど、それだけ所有されることは少ない。

 そう、あらゆるものの所有を放棄しなさい。〈信念〉、〈愛〉、そして〈聖なる理解〉を通した解放
への希求を除いて。




第三十五章
神へ向かう途上での火花



ミルダッド……この夜の静寂にあってミルダッドは、神へ向かうあなたがたの途上に幾つか火花を
飛ばしたい。
 論議を避けなさい。〈真実〉は公理だ。〈真実〉は証明を必要としない。。議論と証明に頼らなけれ
ばならないものは何であれ、遅かれ早かれ証明と議論によって打ちのめされることになる。
 あるものを証明することは、その対立物を論駁することだ。その対立物を証明することは、その
ものを論駁することだ。神にはいかなる対立物もない。いかにして神を証明したり論駁したりでき
ようか?
〈真実〉の泉であるためには、舌は決して殻竿、牙、風見鶏、曲芸師、あるいは腐食動物であっ
てはならない。
 
語りえないもの(The speechless)を解き放つために語りなさい。自らを解き放つ
ために無口で(speechless) いなさい。

 言葉は〈空間〉の海を進み、あまたの港に寄港する乗り物だ。言葉に何を積み込むか注意しなさ
い。というのも言葉はおのが道を進んだ後、最後にはあなたの門のところで積荷を下ろすのだから。
家にとって帚にあたるものが、心にとっては自己の探究だ。あなたの心をよく掃除しなさい。
掃き清められた心は、難攻不落の要塞だ。
人々や事物があなたがたを養っているように、あなたがたは人々や事物を養っている。あなたが
たが毒されないために、他者にとって健全な食物でありなさい。
次のステップが疑わしいときは、じっと立ち止まりなさい。
あなたが嫌うものは、あなたを嫌う。それを好きになり、放っておきなさい。そうすることであ
なたの道から障害物が除かれる。
最も耐えがたい厄介物は、いかなる物でも厄介物とみなすことだ。
どちらを取るか決めなさい。万物を持つか、まったく何も持だないか。中間のいかなる選択もあ
りえない。
蹟きの石はどれも警告だ。警告を良く読み取りなさい。そうすれば蹟きの石は指標となるだろう。
直線は曲線の兄弟だ。一方は近道であり、もう一方は回り道である。曲線に対して忍耐強くあり
なさい。
忍耐は〈信念〉に頼るときは健康である。〈信念〉を伴わないときは麻痺である。
存在すること、感じること、思うこと、想像すること、知ること
人間の生の巡回の主要な段
階がこのように秩序づけられているのを見なさい。
賞賛を与えることと受けることに用心しなさい。たとえそれがこの上なく誠実で分相応だろうと
も。おべっかに関しては、その隠されたもくろみに口も耳も閉ざしなさい。
与えることを意識しているかぎり、与えるものすべてを借りていることになる。
実際には、自分のものを与えることはできない。
人に与えるものは、実際にはその人から預かっ
て保管していたものだ。
あなたがたのものはそしてあなたがただけのものは、たとえ望ん
でも譲り渡すことはできない。
平衡を保ちなさい。そうすればあなたがたは、人間が自らを測定し測量するための尺度であり秤
であるだろう。
貧困も富裕もない。あるのは物を使うこつだ。
真に貧しい者とは、自分の持てるものを誤って使う者だ。真に豊かな者とは、自分の持てるもの
をうまく使う者だ。
徽臭いパンの皮でさえも、計算できないほどの富であるかもしれない。黄金が貯め込まれた倉庫
でさえも、救いようのない貧困であるかもしれない。
多くの道が分岐しているところでは、どの道を行こうかとためらうことはない。神を求める心に
は、すべての道が神に通じている。
あらゆる形をとった〈生命〉に畏敬の念をもって近づきなさい。最も重要でないもののうちに、
最も重要なものへの鍵が隠されている。

〈生命〉のあらゆる作品は意味がある-実に驚異的で、卓越し、模倣不能な意味がある。〈生
命〉は無用の些事におのれをかかわらせない。
事物は、〈自然〉の仕事場から生じたのだから、〈自然〉の心のこもった気遣いと最高に丹精のこ
もった芸術にふさわしいに違いない。ならば事物は、少なくともあなたがたが敬意を払うに値する
のではないか?
もしぶよや蟻が尊敬に値するなら、あなたの同胞たちはそれ以上に大いに尊敬に値するはずでは
ないか?
いかなる人間も見下すな。一人の人間を見下すよりは、すべての人間に見下されるほうがよい。
                            ?
というのも、
一人の人間を見下すことは、彼の内なる〈ミクロの神〉を見下すことであり、いか
なる人間の〈ミクロの神〉を見下すことも、自らの〈ミクロの神〉を見下すことなのだから。

港に導く唯一の舵手を蔑む者が、いかにして自分の港に辿り着くことができようか?
下にあるものを見るために上を見上げなさい。上にあるものを見るために下を見下ろしなさい。
登ったのと同じだけ降りなさい。そうしないとあなたは、バランスを失ってしまうことになる。
今日あなたがたは弟子である。明日あなたがたは教師である。良い教師となるためには、良い弟
子でいなければならない。
世界から〈悪〉の雑草を刈り取ろうとしてはならない。というのも、雑草でさえもよい肥やしに
なるからだ。        
                 j
誤って用いられた熱意は、あまりにもしばしばその熱意の持ち主を殺す。
高く堂々とした樹々だけが森を作るのではない。森には、なんらかの下生えの濯木や巻きっく蔓
が常に必要である。
偽善は覆いの下でやっていけるかもしれない、ほんのしばらくの間は。永久に偽善を保つこと
はできない。あるいはまた、偽善をいぶり出して絶滅させることもできない。
暗い情欲は、闇の中で生まれ繁殖する。その繁殖を防ぎたいのなら、情欲に自由の光を与えなさ
い。
もし千人の偽善者の中から、一人を完全な正直者に感化することに成功すれば、そのとき
あなたの成功は真に偉大だ。
 合図ののろしを高く上げなさい。人に見られるように呼びかけて走り回ってはならない。光を必
要とする者に、光への招待は不要だ。
 愚者にとって愚かしさが重荷であるように、半ば賢い者にとっては賢さが重荷だ。半ば賢い者の
重荷を手助けし、愚者は放っておきなさい。半ば賢い者のほうがあなたがたより上手に愚者に教え
ることができる。
 しばしばあなたがたは、自分の道が通行不能で、陰影で、同行者がいないと思うだろう。意志を
持ち、歩き続けなさい。角を曲がる度に新しい同行者を見つけることになるだろう。      
 跡の辿れない〈空間〉の中でいまだ歩まれたことのない道はない。足跡がごくわずかで、まばら
なところでは、ところどころは険しく孤独でも、道はまっすぐで安全だ。              
 導き手は、道を教えてもらいたがっている者に道を教えることはできるが、その道を歩むよう強
制することはできない。あなたがたが導き手であると覚えておきなさい。             
 よく導くためには、よく導かれなければならない。あなたがたの導き手に頼りなさい。  
 多くの者があなたがたに「道を教えて下さい」と言うだろう。しかし「お願いですから私たちを
その道で導いて下さい」と言う者はごく少数だろうあまりに少数だろう。           
 克服への道では、その少数が多数よりも重要なのだ。
歩けないところでは這いなさい。走れないところでは歩きなさい。飛べないところでは走りなさ
い。全宇宙を自らのうちで静止させられないところでは、飛びなさい。
  一度ならず二度ならず、百度でもまだ足りないほど、あなたがたの導きに従おうと苦闘する者が
蹟くのを、あなたがたは助け起こさなければならないだろう。自分もかつては赤子だったことを思
い起こして、もはや蹟かなくなるまで彼を助け起こし続けなさい。
 
あなたがたが聖別された夢を見るように、あなたがたの心と精神を許しで聖別しなさい。  
〈生〉は、一つの熱病だ。その熱病の強さや種類は、各人が何に取り憑かれているかによって
様々だ。そして人間は常に妄想のうちにいる。〈聖なる理解〉の果実である〈聖なる自由〉の妄想に
取り憑かれた者は幸いである。
 人間の熱病は変容可能だ。戦争の熱病が平和の熱病へと変容されるかもしれない。富を蓄える熱
病が、愛を蓄える熱病へと変容されるかもしれない。あなたがたが実践し、教えるよう求められて
いる〈霊〉の錬金術とは、そのような変容だ。
 死にゆく者に〈生〉を、生きている者に〈死〉を説きなさい。しかしながら克服を希求する者に
は、この両者からの解放を説きなさい。
 「所有すること」と「所有されること」の違いは大きい。あなたがたは、自分の愛するものだけを
所有する。
あなたがたが憎むものはあなたがたを所有する。所有されることを避けなさい。
〈時間〉と〈空間〉の虚空にあって一つ以上の惑星が自らの軌道を巡っている。この地球はその
中で最も若く、いたって元気のよい赤ん坊だ。
 静止した運動-なんという逆説だろう! しかしそれが神の世界での運動なのだ。
 等しくないものがいかにして等しくされるのかを知りたければ、手の指を見なさい。
 偶然の機会は賢者にとっては玩弄物である。愚者は偶然の機会の玩弄物である。
 何物にも不平を言ってはならない。不平を言われたものは、不平を言った者にとってわざわいと
なる。そのものを鞭打つことは、わざわいを長びかせることである。しかしそれは、理解されれば
忠実な召使となる。
 例えば、猟師が鹿を狙っているとき、鹿を逃して、代わりにその存在にまったく気づいていな
かった野兎を仕留めるのは、よくあることだ。賢い猟師はそのような場合に「私が本当に狙ってい
たのは鹿ではなく野兎だった。私は自分の獲物を得た」と言うだろう。
 よく狙いなさい。そうすればいかなる結果も良い結果となる。
 あなたがたにやって来るものは、あなたがたのものである。やって来るのが遅れているものは待
つに値しない。それに待たせておきなさい。
 あなたは決して狙ったものを逃さない。もし、あなたが狙っているものがあなたを狙っているな
らば。 逃した狙いは常に得られた狙いである。あなたがたの心は、いかなる失望をも受けつけないよう
にしなさい。
 失望とは、弛んだ心によって揚げられた凧である。それは流産した希望の腐肉へと運ばれる。
 一つの希望が実現するときには、ほかの多くの希望が流産してしまう。
もし心を墓場に変えたく
ないならば、あなたの心を希望とかたく結びつけないよう用心しなさい。           

 魚が産んだ百の卵のうち、成育して魚になるのは一つあるかないかである。しかし残りの九十
九の卵が無駄だったわけではない。〈自然〉はまったく惜しみなく、明確に(discriminately)無差別
で(indiscriminate)ある。あなたがたも同じように、人間の心と精神にあなたがたの心と精神を植
えるときには、惜しみなく、明確に無差別でありなさい。
 
なされたいかなる労働にも報酬を求めてはならない。労働を愛する者にとっては、労働自体が充
分な報酬である。                                            

 〈創造の言葉〉と〈完全なるバランス〉を覚えておきなさい。
〈聖なる理解〉を通して〈完全なる
バランス〉
に到達したときにのみ、あなたがたは克服者となり、あなたがたの手が神の手と協力し
て働く。
 この夜の平安と静寂があなたがたのうちで共振するように。あなたがたの〈聖なる理解〉の静寂
と平安が夜の平安と静寂を圧倒するようになるまでは。
このように私はノアに教えた。
このように私はあなたがたに教える。




第三十六章
箱船祭とその儀式


ナロンダ・・・師がベタールから帰還してからというもの、シャダムはむっつりとふさぎ込み
引き寵もっていた。しかしながら〈方舟祭〉の日が近づくにつれ、彼は元気で活発になり、あらゆ
る煩雑な準備の細かな点にいたるまで個人的に指揮を執った。
 〈葡萄祭〉と同じく〈方舟祭〉もまた、一日からまる一週間に延ばされ、その間はにぎやかな祭
典とあらゆる種類の商品や財物が活発に商われるのだった。
 この祭りに特有なあまたの儀式のうちで、特に重要なのは次のようなものであった。生け贅のた
めに奉納された去勢牛を屠殺し、その油で火をともし、祭壇の古いランプと置き換えられた新しい
ランプにそこから火を点けるというものである。これらすべては、観衆の協力の下、多くの儀礼と
ともに長老によって執り行われる。この儀式は、最後にめいめいが新しいランプから蝋燭に火を点
けて終わる。その蝋燭は後で火が消されて、悪霊に対する護符として大事に保管される。儀式の終
わりには長老が式辞を述べるのが慣習となっていた。
  〈方舟祭〉の巡礼者たちは、〈葡萄祭〉のときと同様、なんらかの貢物ないし寄付を幾らか携えて
やって来るのだった。大多数は去勢牛や牡羊や牡山羊を携えて来た。それらは形式的には、奉納さ
れた去勢牛とともに〈方舟〉で生け贅にされることになっていたのだが、実際には屠殺されず、〈方
舟〉の家畜に加えられるのだった。
 新しいランプは、通常ミルキー山脈のいずれかの王か有力者によって差し出されることになって
いた。それを差し出すことは大変な名誉であり、特権であると考えられていたため、この特権を求
める競争者は多かった。そこで、毎年祭典の閉会時にくじを引いて翌年の担当者を決めることが慣
習として確立していた。王や有力者たちは自分のランプが、高価さ、デザインの美しさ、技巧にお
いてこれまでのすべてのランプを抜きん出て輝くことを目指し、熱烈にひたむきに競い合った。
 今年のランプのくじは、ペタールの王子に当たっていた。すべての者が新しい宝物を目にするの
を待ち望んでいた。というのも王子は、〈方舟〉への熱烈な献身と同様に、富を物惜しみしないこと
で有名だったからである。
儀式の前日、シャマダムは師と私たちを自分の部屋に呼び寄せた。彼は私たちに対して、中でも
特に師に対して、次のように語った。
シャマダム……明日は神聖なる祭日だ。祭日を神聖に保つことは我々全員の義務である。
 過去にいかなる争いがあったにせよ、今ここではそれを脇におこう。〈方舟〉は、これまでの速度
を緩めるべきではないし、熱意を緩めるべきでもない。〈方舟〉の進行が妨げられるのを神は断じて
許さない。
 私は〈方舟〉の長老だ。命令するという厄介な義務が私にはある。進路を定めるという既得権が
私にはある。その義務と権利を私が前の長老から引き継いだように、私が死んでいなくなったとき
には、確実にあなたがたのうちの一人がそれを引き継ぐことになる。私か時を待ったように、あな
たがたも時を待ってもらいたい。
 もし私がミルダッドに対して誤ったことをしたなら、誤ちは許してもらいたい。
ミルダッド……あなたはミルダッドに対して誤ったことはしていない。しかしあなたはシャマダム
に対してはなはだしく誤ったことをした。
シャマダム……シャマダムは、シャマダムに対して誤ったことをする自由があるのではないです
か?
ミルダッド……誤ったことをする自由? その言葉自体がなんとそぐわないことか! 自分の自己
に対してさえ誤ちをなすことは、自分の誤ちの囚人となることだ。他者に対して誤ちをなすことは、
囚人の囚人となることだ。ああ、誤ちの重量はなんと重いことか。
シャマダム……もし私が自分の誤ちを喜んで支持しようとしているなら、それがあなたにとって何
なのですか?
ミルダッド……病んだ歯が口に対して、「もし私が自分の痛みに喜んで耐えようというのなら、そ
れがあなたにとって何なのですか」と言うだろうか?
シャマダム……ああ、私を放っておいて下さい、どうか私を放っておいて下さい。あなたの重い手
で私を打つのはやめて下さい。巧みな舌で私を責めるのはやめて下さい。これまで私が生活し働い
てきた日々の安定のうちに私を過ごさせて下さい。どこかよそへ行ってあなたの方舟を建てて下さ
い。でもどうかこの〈方舟〉は放っておいて下さい。この世界は広いのですから、あなたの方舟と
私の方舟のそれぞれに充分な場所があるはずです。明日は私の日なのです。脇にどいて私に仕事を
させて下さい。あなたの側の誰一人として妨害するのを私は許さない。
 気をつけなさい。シャマダムの復讐は神と同じくらい恐ろしい。気をつけなさい。気をつけなさ
い。
ナロンダ……………私たちが長老の部屋を出たとき、師は穏やかに頭を振って言った。
ミルダッド……シャマダムの心はいまだにシャマダムの心だ。               
ナロッダ……………翌日、シャマダムを大いに喜ばせたことには、儀式は時間通りに執り行われ、
何も不都合なことは起こらなかった。新しいランプが差し出され、ともされるべき瞬間までは。
 その瞬間になると、いたって背が高く堂々として白い衣裳に身を包んだ男が、密集した群衆の中
を苦労して押し分けながら、祭壇に向かっているのが見受けられた。たちどころに、その男が新し
いラップを運ぶ、ベタールの王子からの個人的使者であるということが口から口ヘと囁かれた。そ
して全員が貴重な宝物を見ようと熱心に目を凝らした。
 シャマダムは他の者たちと同じく、彼が新年の貴重きわまりない贈り物を運ぶ使者だと信じて、
彼に丁寧にお辞儀をした。しかし男は、シャマダムに何か小声で囁いた後、羊毛紙を懐から取り出
した。それがベタールの王子からのメッセージであり、自分は声を出してそれを読むよう言いつ
かったと説明した後で、男は音読し始めた。
 「かつてベタールの王子であった者から、今日〈方舟〉に集まったミルキー山脈のすべての同胞た
ちヘー平和と親密なる愛をこめて。
 「〈方舟〉に対する私の熱烈な献身は、あなたがた皆が生き証人だ。今年のランプを贈る名誉が割り
当てられてからというもの、自分の贈り物を〈方舟〉にふさわしいものにするために、私は知恵も
富も惜しまなかった。そして努力は見事に報われた。というのも、私の富と名匠の技術によって、
とうとう目も眩まんばかりのまことに壮麗なランプが完成したからである。
「しかし神は寛大で心優しく、私の哀れな貧困を世に知らしめるのをよしとされなかった。なぜな
ら神はその後、まばゆく無尽蔵の光を放ち、卓越して色槌せることのない美を有するランプのとこ
ろに私を導いて下さったからである。そのランプを見た後では、自分のランプにたとえ少しでも価
値があると思っていたことがまったく恥ずかしくなった。だから私はそれをごみの山に捨ててし
まった。」
 「私があなたがたすべてに最高の熱意をもって勧めるのは、人の手によって作られたのではない、
生けるランプである。そのランプであなたがたの眼をもてなし、そのランプであなたがたの蝋燭に
火をともしなさい。見よ、それはあなたがたの手の届くところにある。その名はミルダッドである。」
 「あなたがたが彼の光にふさわしくありますように」
 使者が最後の言葉を読むか読まないうちに、彼の脇に立っていたシャマダムは、突然姿をくらま
した。あたかも彼は幽霊だったかのように。師の名は、原生林を通る一陣の強風のように、巨大な
人の集団を通り抜けて行った。全員が、ペタールの王子のメッセージの中で、かくも魅惑的に語ら
れた生けるランプを見ることを願った。
 ほどなく師が祭壇の階段を上り、群衆に対面するのが見えた。波打っていた人間の集団は直ちに、
注意深く熱心に聞き耳を立てる一人の人間になった。それから師は語った。




第三十七章
ミルダッドが方舟を出帆させる


ミルダッド……あなたがたはミルダッドに何を求めるのか? 祭壇を飾るための、黄金の宝石をち
りばめたランプか? しかしミルダッドは、鍛冶屋でもなければ、宝石屋でもない。にもかかわら
ず彼は燈台にして港である。
 あるいは邪視を祓う護符を求めるのか? そう、ミルダッドは多くの護符を持っているが、違う
種類の護符だ。
 あるいは自分の定めた道をおのおのが安全に歩けるための光を求めるのか? 本当に、なんと奇
妙なことだろう! 太陽や月や星々があるのに、それでも蹟き転ぶことを恐れているとは? それ
ならばあなたがたの眼は導き手として不適格であるに違いない。もしくは眼が見るための光があま
りに乏しいかのいずれかだ。そしてあなたがたのうちの誰が眼なしで歩もうとするだろう? 誰が
光を出し惜しみしていると太陽を責めることができよう?
 路上で眼が足を蹟きから守ったとしても、心が道を模索して見つけられず、蹟いて出血している
のを放っておくならば、それが何の役に立とう?
 光が眼に満ち溢れたとしても、霊がうつろで、照らされていなければ、それが何の役に立とう?
 あなたがたはミルダッドに何を求めるのか? 
もし、あなたがたが願い求めるものが、光に浸され
た心と霊を見ることならば、まことにあなたがたの要求は無駄ではない。なぜなら私が気にかけて
いるのは、人間の霊と心なのだから。

 克服の栄光を祝うこの祭日に、あなたがたは貢物として何を持ってきたか? 牡山羊や牡羊や去
勢牛か? あなたがたが解放のために払う価格のなんと安いことか! あるいは、あなたがたが買
おうとする解放のなんと安いことか!
 山羊を克服することは、人間にとってなんの栄光にもならない。まことに、いかなる人間も、自
らの生命を頭うために哀れな山羊の生命を生け贅に捧げることは、大いなる恥辱である。
 翼を広げた〈信念〉と至高の正義たる〈愛〉の日である、この祭日の霊を共有するために、あな
たがたは何をしたか?
そう、確かにあなたがたは無数の儀式をなし、多くの祈りをつぶやいた。しかしそのすべての挙
動に疑いがつきまとい、すべての祈りには憎悪がひそんでいる。
 あなたがたがここに来たのは、洪水に対する勝利を祝うためではないのか? あなたがたは征服
されたままなのに、どうして勝利を祝うのか? というのもノアは、自分の海を征服することに
よって、あなたがたの海を征服したわけではなく、道を示しただけなのだから。そして見なさい、
あなたがたの海は怒りに満ち、船は難破せんばかりだ。自らの洪水を克服しないかぎり。あなたが
たはこの祭日にふさわしくない。
 あなたがたはそれぞれが、洪水であり、方舟であり、指令者だ。すがすがしく洗い流された処女
地に上陸できる日が来るまでは、勝利の祝いを急いではならない。
 あなたがたは、人間がいかにして自らにとっての洪水となったか知りたいことだろう
 
全能の意志がアダムを二つに分けたのは、彼が自らを知り、己が(一)と一体である
ことを理解するためである。

そのとき彼は男と女になった。男のアダムと女のアダムになった、そのとき彼は二元性の生み出
した欲望の洪水に押し流された。
欲望は、数限りなく、無限に多彩な色合いを持ち、展開は余りにも大きく、余りにも放縦で
あまりに多産だったので今日に至るまで人間はその波に翻弄される漂流船である。

ある波に目も眩むような高みに押し上げられ
たかと思うすぐさま、別の波にどん底まで突き落とされる。というのも、彼の欲望は、彼自身が
番いになっているのと同様に、番いになっているのだから、そして二つの対立物は実際には互いを
補い合っているに過ぎないのに、無知な者にはそれらが一瞬たりとも息つく暇を与えず、互いにつか
み合い殴り合っているように見える。
 人間は、毎時毎時、毎日毎日、そして非常に長く辛い二元的な人生の中で、この洪水をかき分け
て進むよう招集されている。
  
この洪水の強力な水源は、心から噴出し、殺到してあなながたを流し去る。  
この洪水の虹は、あなたがたが空と大地を結婚させて一つとさせない限り、あなた方の空に虹彩を
与えることはない。
 アダムがイヴに自らを植え付けて以来、人間が収穫してきたのは、旋風と洪水だ。ある種の情欲。
が勢力をふるうと、人間の生はバランスを崩す。そうするとバランスを取り戻すために、人間はな
んらかの洪水に巻き込まれる。そして
人間が愛の鉢で自らの欲望の全てをこね、それを聖なる
る理解のパンに焼き上げることを学ぶまでは、バランスは決して調整されない。

 ノアの時代に大地を覆った洪水は、人類の知っている最初の洪水でもなければ、最後の洪水でも
ない。それは、幾つもの苛烈な洪水が長く続く中で、一つの最高点を印したに過ぎない。今にも大
地に突然現れそうな炎と血の洪水は、確実にその最高点を越すだろう。その洪水に浮かぶための準
備をしているか? それともあなたがたは、水没するつもりか?
なんということか! あなたがたは、重石に重石を加えることに、あまりにも忙しい。苦痛に満
ちた快楽に血を浸すことに、あまりにも忙しい。どこにも辿り着かない道の地図を作ることに、あ
まりにも忙しい。鍵穴から覗くことすらせずに、〈生命〉の倉庫の裏庭に落ちている種子を拾うこと
に、あまりにも忙しい。どうしてあなたがたが水没せずにおれようか、私の漂流者だちよ?
 あなたがたは、高く舞い上がり、無限の空間を彷徨し、宇宙を自分の翼に包み込むために生まれ
てきたのに、翼を刈り、視力を傷め、腱をこわばらせるような安逸な因習と信念の鳥小屋に自らを
閉じ込めている。そんなことでどうして来るべき洪水の波に乗れようか、私の漂流者たちよ?
 神の似姿であり肖像であるあなたがたは、その似姿と肖像をほとんど完全に汚してしまった。神
のように高い自分の身の丈を、自分でも判別できなくなるまでに矯小化してしまった。神聖なおの
れの面立ちをあなたがたは泥で汚し、多くの道化の仮面をかぶせた。自らの解き放った洪水にいか
に対面するつもりなのか、私の漂流者たちよ?

 あなたがたがミルダッドの言うことに気をとめないかぎり、大地はあなたがたにとって決して墓
場以上のものではなく、空は決して経帷子以上のものではない。それに対し、ミルダッドの言うこ
とに気をとめれば、大地は揺藍としてあなたがたに仕え、空は王座としてあなたがたに仕えるよう
整えられる。
 再び私はあなたがたに言う、あなたがたが洪水であり、方舟であり、指令者である。
あなたがた
の情欲が洪水である。あなたがたの肉体が方舟である。あなたがたの信念が指令者である。しかし
それらすべてを貫いているのは、あなたがたの意志である。そしてそれらすべての上をあなたがた
の理解が覆っている。

 方舟が水漏れせず、航海に耐えられるようにしなさい。しかし人生をそれだけに費やしてはなら
 ない。さもないと、出帆の日が決して訪れず、結局あなたとあなたの方舟は朽ち。その場で水没す
ることになるからだ。船長の指揮能力と沈着さを確かなものとしなさい。
しかし何よりもまず、洪
水の水源を探究することを学びなさい。そしてあなたの意志が、その水源を一つまた一つと干上が
らせるよう訓練しなさい。そうすれば確実に洪水は弱まり、ついには鎮められるだろう。

 情欲があなたを焼き尽くす前に、情欲を焼き尽くしなさい。
 情欲の口が牙を持っているか、それとも甘い蜜の嘴を持っているかを確かめるために、情欲の口
を覗き込まないようにしなさい。花々の蜜を集める蜜蜂は、花の毒をも集めている。
 あるいはまた、情欲の顔が端正か見苦しいかを細かく調べないようにしなさい。イヴにとって蛇
の顔は、神の顔より端正だった。
 あるいはまた、情欲を秤にかけて重さを確かめようとしてはいけない。誰が王冠と山を重さで比
べようとするか? しかし本当は、王冠のほうが山よりはるかに重い。
 そして情欲の中には、昼間には天界の歌を祝い歌っているのに、夜の帳の下ではジュージューと
音を立て、噛みつき、刺すものがある。情欲の中には、喜びではち切れんばかりなのに、即座に悲
しみの髑髏に変じるものがある。眼が穏やかで、振る舞いが従順なのに、突如として狼より獰猛で、
ハイエナより陋劣なるものもある。そっとしておかれる間は薔薇よりも甘くかぐわしいのに、触
れられて摘まれるやいなや、腐肉やスカンクよりひどい悪臭を放つものもある。
 自分の情欲を善と悪に分けないようにしなさい。そのような労働は無駄なのだから。善は悪なし
には持続しえない。悪は善のうちにしか根を張れない。
  
〈善〉と〈悪〉の樹は一つだ。その実は一つだ。同時に〈悪〉の味を知ることなしには、〈善〉の
味を知ることはできない。
                  
 あなたがたが〈生命〉の乳を吸う乳首と、〈死〉の乳を出す乳首は同じである。あなたがたを揺藍
の中であやしつける手は、あなたがたの墓を掘る手以外の何物でもない。
 私の漂流者たちよ、それが〈二元性〉の性質である。その性質を変えようと試みるほど、愚かで
頑迷であってはならない。それを半分ずつに分け、好きな半分を取り、他の半分を投げ捨てようと
するほど、愚鈍であってはならない。

  〈二元性〉の主人でありたいか? それならばそれを善とも悪とも扱わないようにしなさい。
 生と死の乳は、あなたがたの口で酸っぱく変わったのではないか? 今や、善悪を超越している
がゆえに善でも悪でもない何物かによって、口をすすぐべき時ではないか? 今や、甘くも苦くも
ない果実、すなわち〈善〉と〈悪〉の樹になる果実とは異なる果実を希求すべきときではないか?
   
〈二元性〉の支配から脱したいか?い ならば〈二元性〉の樹―〈善〉と〈悪〉の樹-を心か
ら引き抜きなさい。そう、それを完全に引き抜き、あらゆる善悪を超越する〈神聖なる生命〉の種
子、〈聖なる理解〉の種子が芽吹き育つようにしなさい。

 あなたがたは、ミルダッドの教えは気を滅入らせると言う。その教えは、私たちから明日を待つ
喜びを奪い取ってしまう。私たちは、けたたましい競争者でいたいのに、その教えは私たちの活力
奪い、生に無関心な傍観者にしてしまう。というのも、競争の対象が何であれ、競争することは
心地よいからだ。そして追跡の冒険に乗り出すことは、たとえその獲物が鬼火以上のものではなく
とも快い。
このようにあなたがたは心の内で言う、そして善と悪の情欲が手綱を握っている限りはこころが
まったく自分のものではないことを忘れて
自分の心の主人となるためには、あらゆる情欲をー善きも悪しきー愛の単一の鉢でこね
聖なる理解のオーブンで焼かなければならない。そこですべての二元性が神のうちに統一さ
れる。

 既に過重な苦悩を抱えている世界に、さらに苦悩を加えるのをすぐにやめなさい。
 あらゆる種類の我楽多と泥を絶えず投げ込んでいる井戸から、どうして清らかな水を汲み出すこ
とが期待できようか? 毎瞬毎瞬あなたが波立てている沼の水が、かつて澄んで静謐だったことが
あったか?
 苦悩する世界に平穏の手形を振り出すな。そんなことをすれば、〈苦悩〉に手形を振り出している
ことになるのだから。
 憎み合う世界に愛の手形を振り出すな。そんなことをすれば、〈憎しみ〉に手形を振り出している
ことになるのだから。
 死にゆく世界に生の手形を振り出すな。そんなことをすれば、〈死〉に手形を振り出していること
になるのだから。世界は、おのれそのものである硬貨でしかあなたに支払いができない。そしてそ
の硬貨には表裏両面がある。
 そうではなく、平和に満ちた〈理解〉に溢れる無限の〈神なる自己〉に手形を振り出しなさい。
 自分自身に対してしないような要求を世界に対してしてはならない。あるいはまた、人が自分に
求めるのを許さないような要求を人に対してしてはならない。
 そしてもし全世界から同意されたとして、あなたが、自らの洪水を克服し、永続する〈愛〉と
〈理解〉の平安のうちに、苦痛と死から離れ、天国と結びついた大地に上陸するのを助けるものは何
か?それは所有、権力、名声か?、権威、特権、尊敬か?王冠をいただく野心家、実現した希望
か?しかしこれらは皆、あなたの洪水の水嵩を増す水源でしかない。これらから離れなさい。
私の漂流者だちよ。離れなさい、離れなさい。
   
清らかでいるために静穏でいなさい。
   明瞭に世界を見ることができるよう。清らかでいなさい。

 世界を明瞭に見渡したとき、世界がなんと貧弱で無力であるかがわかるだろう、あなたがたが自由
平和、生に求める者を世界は殆ど何も与えられないのだから
世界があなたに与える全ては肉体である
二元的な生の海に出帆するための方舟である。
そしてあなたは肉体を世界内の誰にも負っていない。
宇宙は義務上、肉体に必要な物を与え維持
する役目がある。
ノアの方舟がきちんと手入れされ水漏れしなかったように、肉体が洪水の中を
進めるよう、きちんと手入れをし、水漏れしないように保つこと、そして。ノアが方舟り中の獣た
ちを繋ぎ、完全に制御したように、あなたの方舟の中の獣をつなぎ、しっかり制御すること
これはあなたの義務であり、あなたのみの義務である。

用心深く目を光らせ、油断なく覚めた信念に舵を取らせること、エデンの園の至福に満ちた入口
に導く案内人である〈全能の意志〉を揺るぎなく信じること、これはあなたの勤めであり、あな
たのみの勤めである。
指令者としての不屈の意志を持つこと、克服し、〈聖なる理解〉の〈生命の樹〉を味わおうとする
意志を持つこと、これもまたあなたの仕事であり、あなたのみの仕事である。
用心深く目を光らせ、ゆだんなく醒めた信念に舵を取らせること、エデンの園の至福に満ちた入り口に
導く案内人である。全能の意志を揺るぎなく信じること
これはあなたの勤めであり、あなたのみの勤めである
神に縛られた人間の目的は神である。これ以下の如何なる目的も人間の苦痛に報いるに充分
ではない。そのみちが長く、疾風や強風が吹き荒れていたとしても、それがどうだというのか?純粋
な心と透徹した眼差しを持つ信念は疾風を追い越し、強風の上にまたがるのではないか?
急ぎなさい
というのも道草に費やされた時間は、苦痛の横行する時間だからだ
そして
人間は、最も忙しいものでさえも、本当は道草食いなのだ。
                           
 あなたがたすべてが造船家である。あなたがたすべてが船員である。あなたがたが、自分自身と
いう無限の大海に出帆し、そこで神という名の、存在の声なき調和を見出すことは、永遠の昔から
あなたがたに割り当てられた果たすべき務めである。
 
すべての事物は中心を持たなければならない。そこから光が放射され、その周りを事物が回る。
 もし生が-人間の生が-円環であり、神を見つけることがその中心であるなら、あなたがた
の仕事はすべてその中心へと収斂しなければならない。それ以外は、血の汗に浸されてはいても、
道草である。

 しかしミルダッドの仕事は、人間をおのれの運命へと導くことであるゆえに、見よ! ミルダッ
ドはあなたがたのために素晴らしい方舟の出帆の準備を整えた。それは申し分なく建造され、きち
んと指令通りに動く船だ。これは、糸杉とタールで出来た船ではない。大鴉や蜥蜴やハイエナのた
めの船でもない。そうではなく、克服を希求するすべての者にとって、真にのろしとなる〈聖なる
理解〉の船。その積荷は、ワイン樽や葡萄絞り器ではなく、ありとあらゆるものに対する愛に満ち
溢れた心。あるいはまた、その貨物は動産でも不動産でもなく、金銀や宝石でもなく、影から離別
し、〈理解〉の光と自由に包まれた魂。
 大地への係留を断ちたい者、統一されたい者、自らの克服を希求する者-かような者は、広く
来たれ。
 〈方舟〉は準備が整った。
 風はちょうど良い具合だ。
 海は穏やかだ。
 このように私はノアに教えた。
 このように私はあなたがたに教える。
ナロンダ……………師が語るのを止めたとき、それまで師が語っていた間ずっと、あたかも息を止
めていたかのように動きのなかった集団に、ざわざわとした動きが広がった。
 祭壇の階段から降りる前に師は、私たち七人を呼び、竪琴を持って来させた。私たちの協力を得
て師は、〈新しい方舟〉の讃美歌を歌い始めた。群衆はそのメロディーに聴きいった。そして力強い
波のように、天へと向かう甘美なリフレーンがうねり高まっていった。

 
神を船長にいただき、出帆せよ方舟!





「この書物の中で世に
公表することが私に許されている
部分はここで終わる。
残りの部分については、
いまだ
そのときではない。」

  
ミハイル・ナイーミ
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