ラーマクリシュナの言葉   

                       (「ラーマクリシュナの福音」奥田博之訳・東方出版より)



1・
ブラフマンの智者は、内も外もすべてが実は、最高我・パラマートマーであることを見ます。
 水が二つに別れて見えているだけです。
 内と外という感じがするだけです。
 「私」という瓶があれば、そのような内と外という二つを見ている意識になってしまうのです。
 その「私というもの」が、もし消え去れば、そうすれば、あるものがあるだけです。


2・人は純粋精神によって動いているのです。
 その純粋精神によって、非精神的物質に至るまで精神(有実在・知叡智)になっているのです。
 その純粋精神によって手も足も、身体も動いているのです。
 人は身体が動いているのだ言いますが、
 しかし
 あのお方(神)が動かしておられるのを知らないのです。


3・人は感覚器官などが、それぞれ自らの力で働いて動いているといいます、
 しかし、内部にあの純粋精神であるものが有るということを考えません。


4・この「私」・自我とは、あのお方自身が置いておかれたのです。
 この自我・私とは、あのお方の遊び、
 あのお方の遊技です。 


5・前に進めば進むほど、神の形(限定的制約)を見ることが少なくなります。
 近づけば近づくほど、神の属性(マーヤ)は減っていくのです。
 更に近づけば、そのときには、光の中に光を見るだけで、もうどのような限定的制約(形)も
 ありません。


6・神に心を置く、そのような人こそ真の人間です。
 更には、神聖な意識を持つ人、たとえば、神の意識のある人、純粋精神に目覚めている人、
 そのような人たちは、神が真実で、その他一切は無常である。
 と、間違いなく知っています。


7・あのお方は、あなたの見ているすべてになっておられるのです。


8・あのお方は常住不変ですが、実は現象界とは、あのお方のリーラ・遊戯です。
 あのお方のリーラ・遊戯が、実は常住不変のあのお方なのです。
 絶対者を除いて、相対界(神の創造・宇宙の顕現は神のリーラであること)を理解することは出来ません。
 相対界があるからこそ、それらを棄てていくことによって、絶対者に到達することが出来るのです。


9・私という意識があるあいだは、どうしても相対界(転変の世界)を棄てることは出来ません。
 これではない、これではない、と否定を重ね、

 
瞑想のヨーガによって、人は実体・ブラフマンに到達することが出来るのです


10・世界は、あのお方そのもので満ちあふれている。
 見るもののすべては、あのお方自身がなっておられるのである。
 その中のどれを捨て、どれを受け入れたらいいのかと、決めることなどは出来ない。


11・あのお方ご自身がすべてなのです。
 神は自らの生きもの、宇宙、それらすべてになられたのです。
 完全なる神の叡智を持つようになれば、そのときには、そのように知り、認識します。
 あのお方が、思考機能、統覚機能、(器官を伴った)身体−二十四の宇宙原理すべてになっておられるのです。


12・すべては、至高なるあなたのご意志。
 我が儘いっぱいの女神よ、それがあなたである。
 あなたの仕事をあなたが為さる。
 おお母よ、それなのに人は、為しているのは私だという。
 あなたは、象を泥の中にとどめ、跛足の人を山に登らせる。
 おお母よ、誰に、いつブラフマンの境位を与え、一体、誰を転落させるのですか。
 私は機械、あなたは操縦者、私は住居、あなたは住人。
 私は馬車、あなたは御者、あなたが動かすように私は動く。


13・あなた方個人の存在は、どこにあるのですか?
 あのお方が、すべてのものになっておられるのです。
 そのお方を知らない間、「私」、「私」と繰り返しているだけです
 すべての人が、あのお方を知ることが出来ます。すべての人が救われるでしょう。
 ところがある人は朝のうちに食べることが出来、ある人は昼の時間に、ある人は夕暮れになります。
 しかし、誰も食事無しに終わる人はいません。
 すべての人が、自分自身の本来の姿を知ることが出来るでしょう。


14・世俗の暮らしをする人にとっては、一切は夢のようであるというそのような教えは良くありません。


15・無知であるものすべてを棄てること、女や男やお金を棄てることなくしては、
 絶対と相対の直覚(実在の純粋経験)はあり得ません。


16・神ご自身が、あなたを通じて多くの仕事をするために、あなたの中に、その自我意識を残しておかれたのです。
 あなたの自我意識・その我性は誰ものであろうか?それは神ご自身のものである。


17・私は肉体であるという、無知である意識がなくなってもいないのに、「私はそれである」というのは良くありません
 感覚の対象を捨てることが出来ないものは、どうしても「私という観念」はなくなりません。


18・神のみが行為者で、その他すべては神の道具です。
 それ故に、ブラフマンの智者たちも、自惚れることは出来ないのです。


19・おお神よ!あなたが為さっているのです。
 そして家も、家族も、子ども達も、召使いも、親戚縁者も、友人も、それらすべてはあなたのものです。
 というそのような真実の感覚は「大明智」から生まれるものです。


20・中位の信者は、「神はすべてのものの生き物の中に純粋意識でプラーナとして存在している」といいます。
 また上位の信者は、「神ご自身がすべてのものになっておられる」「みるもののすべては一つ一つが神の
 姿である」と言うのです。
 あのお方自身が、幻影、いきもの、それらすべてになっておられるのです。
 あのお方以外には何も存在しません。


21・おお神よ、「あなたとあなたのもの」それが明智です。
 「私が、私のもの」それが無知です。
 「おお神よ、あなたが行為者です、私は道具です(非行為者です)」それが大明智です。


22・身体、宇宙、心、家、家族、生きているもの、宇宙それらのすべてがあなたの中にあります。
 すべては、あなたの中にあり、私のものは何もありません。それが大明智というものです。


23・あのお方(神)が、させるのでなければ何も出来ないのです。
 あのお方が、瞑想をさせることによって、人は瞑想をすることが出来るのです。


24・あのお方が、世界と生きとし生けるものになっておられるのを、それを見るのが大明智と言われるものです。


25・唯一、神のみが実体です。そのほかのすべては実体のないものです。


26・分かりますか、光の知識(認識・意識)のある人には、闇の知識(認識・意識)も有ります。
 徳に気がついている人は、悪徳にも気がついています。
 清らかさを知っている人は、汚れについても知っています。
 自分についての知識のある人は、相手についての意識もあります。
 それらは、しかし、大明智ではありません。
 大明智とは、あのお方が、全てで在る事、あのお方だけが行為していることを知る人です。


27・あのお方と一つとなったなら、善と悪とを超えてしまいます。


28・神と一体になれば、行為も活動することもなくなります。
 (神は、行為も活動もしていない。台風自身へ、台風の目の中に入るようなことであろうか)


29・神ご自身がすべてを行っておられます。私たち人間は、あのお方の機械です。


30・神の中には明智と無知があります。
 その明智のマーヤ(幻影)は、人を神に導き、無知のマーヤーは、人を神から遠ざけます。
 明智の働きとは叡智、信仰、慈悲、放棄心です。
 それらすべてを用いることによって、人は神の傍らに到達することが出来ます。


31・もう一歩上の段階に進めば、
 神ブラフマンの大明智とは、人とは、その状態で
 あのお方自身が、すべてのものになっておられるのを正しく知り、正しく見るのです。
 そこでは、捨てるものも、受け入れるものもありません。
 誰に対しても怒ることはありません。


32・大明智にとっては、内も外も神ご自身です。
 それらの大明智の人は、あのお方自身が、肉体、心、いのち、個我になっておられるのを見るのです。


33・心の働きがなくなれば、その状態になれます。
 心の働きが消滅すれば、いつも私の、私が、としがみついてる我性、それがなくなるのです。


34・けれども、この我性というものがあることによって、人は絶対の有ブラフマン、実在、智慧、歓喜を知る
 ことが出来るのです。
 私という意識はなくなりません、だからこそ召使いの私、信者の私になるのです。


35・絶対の実在、智慧、歓喜であるサット・チット・アーナンダが覚醒の感覚を味わうために個人や個我を
 造られたのです。
 じつは個人我とは最高我なのです。

 あたかも一羽の鳥のようです、最高我は、純粋なる空間、純粋意識の空間です。


36・絶対であるブラフマンであるあのお方が、実は相対でもあり、相対そのものが神の遊戯でありリーラです。
 相対であるそのものが、そのお方が実は絶対なのです。


37・あのお方を得たのであるなら、あのお方が、実は各個我の内にも存在し、そのお方が実は生きとし生けるものと宇宙になっておられるのです。


38・明智のある人とは、無知もある人である。
 明智も無知も、超えて大明智へと行きなさい。


39・その大明智を得るためにはマーヤという幻影に頼らなければなりません。
 神のみが真実で、世界とは無常であると推理することです。
 その意味とは、あのお方がすべてのものになっておられると、そのように心に向かって言い聞かせることです。


40・私ラーマ・クリシュナは、カーリーとブラフマンの秘密を知って正義と不正義のすべてを棄てたのである。


41・神が行為者である、しかし人・個我は、自分自身の行為に責任がある。


42・自分が行為していると思っている在家者の人は、その状態で「私こそそれだ」という態度を持つことが出
 来ようか。


43・真実に 「私はそれだ」という人とは、世界は夢のようなものであると、その人自身も、そしてその人の
 肉体も、心も、夢のようなもの、その人の個我に至るまで、夢のようなものであると直覚しているのである。 



44・神が行為者。
 しかし、人・個我は自分の行為に責任があるのである。
 (※自分が行為していると思っている自我は、その行為の結果の責任を引き受けることになる。
 自分が行為していないと実感している自我は行為の結果から解放されることになる)
 そして行為とは、間違いなくその人・個我に結果をもたらす。
 善因は善果をもたらす。しかし目的を達した人、神を見た人は、罪を犯すことはありません。
 神の行為が自然と出来るのです。


45・あの至高なるお方は「私は、すべてのいきものの中と外にもいる」といわれる。
 あなたたちは、何故私の一つの形だけを見ているのであろうか。


46・不正義や非真実に黙っているべきではありません。


47・宗教師を職業にするのは娼婦を仕事にするようなものです。
 それは僅かな金を得て、評判を得るが、けれど肉体に奉仕することになり
 そのようなことのために、自分を他人に売るようなものです。


48・至高なる神は、一つのみがあるだけで、二つがないことを示しておられます。
 絶対の存在・有、叡智、歓喜そのものが、様々な姿に顕されているだけです。
 あのお方自身が、生きものと世界と、宇宙それらすべてになっておられるのです。
 あのお方自身が、すべての食べ物になっておられるのです。


49・瞑想するときには、あのお方に没入しなければなりません。水面に浮かんでいるだけでは
 どうして海底の宝玉を得ることができましょう


50・神のみが唯一の行為者であって、他のすべては非行為者であると知っている人たち、
 神の意識に目覚めた人たちは、足を踏み外すことはありませんし、計算して悪を捨てる必要はありません。    
 神への愛があまりにも大きいので、彼らの行う行為は、すべて良い行為です。
 しかし彼らは
 その行為を行うのは自分ではなくて、自分は神の召使いであるということを、知っています。
 私は機械です、あのお方が操縦者、
 あのお方が行わせるように行います。
 話させるように、話します、
 あのお方が動かすように動きます


51・我性がある間は、無知があります。私−意識がある限り、解脱はありません。


52・おお神よ、貴方は行為者、そして私は行為者ではない、それが明知と呼ばれるものです。 


53・おお神よ、貴方は行為者、そしてわたしは行為者ではない、それが明知と呼ばれるものです。


54・すべての人が明知を得ることができます。
 肉体に宿る個別の自己と、そして至高の自己についてです。
 祈りなさい−どのような人でも、至高の自己と合一することができます。


55・解脱者は女と金の影響を受けません


56・人は迷妄や無知という幻影(誘惑)のなかに、誤って置かれているのです。
 ごく僅かな人に神の明知が起きています。
 彼らは迷妄や無知という幻影の魔術に心を奪われてはいません。

57・人は宇宙的幻影の手から逃れるために、苦労して修行しなければなりません。


58・さらに永遠に完成した人は、いずれの生まれ変わりにおいても、神の意識に目覚めています。
 ちょうど噴水の口が塞がっているようなものです。
 配管工が、こちらを開け、あちらを開け、噴水管を開けると、ビューと水が出始めるのです。
 永遠に完成した人の、神への最初の熱望を見たら、人は唖然とします。


59・人は自分の行う行為にふさわしい果実(行為の結果カルマ)を得ます。
 それ故に、詩にありますように誰にも落ち度はない、
 母よ、私は自業自得で、水におぼれて死にそう。
 (※この場合の人・私とは魂と現在のパーソナリティーを指している)


60・「私が」と「私の」が無知です。
 推理識別をしていくと「私、私」と我(が)を張っていますが、
 それは真実の自己、アートマン以外の何物でもないことを知っているでしょうか。
 推理識別しなさい、−−あなたは肉体か?
 いや、骨か、いや肉か、それとも他の何なのか?
 そのとき、あなた個人というようなものは、何もいないことを知るでしょう。
 どのような添性(制約・仮託)もないのです。
 そのときには、もう「私は何もしていないのです」。私に落ち度はありません。
 私には属性(性質、物質原理の構成要素)もありません、罪も功徳もありません。

 これは黄金、これは真鍮という差別の意識−−−それが無明というものです。
 すべてが黄金である−−−
 それが明知というものです。


61・神を見たら推理識別は止んでしまいます。


62・あなたが見ているものは、すべてあのお方の力です。
 あのお方のお力なしには、誰も何もする事はできません。
 ところが一つ話す事があります。
 あのお方の力の現れは、あらゆるところで同じであるわけではありません。


63・自由意志とは−−−−人は思いのままに、悪いこともできるし、良いこともできると言うのですが、それは本当でしょうか?
 全く、本当に私たちは自由なのでしょうか?
 全ての事は、神の意思に拠ります。
 実は、あのお方の遊びなのです。
 あのお方はいろいろなものをお造りになりました
 小さいもの、大きなもの、強固なもの、軟弱なもの、善いもの、悪いもの等いろいろです。
 ご覧になさい、庭のすべての木に、同じものは何一つありません。
 
 神を実現しない限り、その間は、人は自分の自由意思を言います。
 そのような誤認は、実はあの方が見せておられるのです。

 そうでなかったら、犯罪はもっと増えていたことでしょう。罪を犯すのを恐れなくなっていたことでしょう。
 罪を罰することさえ、なかったことでしょう。
 神を得た人の態度はどのようなものか知っていますか。
 「私は機械、あなたは操縦者、私は家、あなたは住人
 私は馬車、あなたは御者。
 動かされるように動きます。
 話させるように、話します」です。


64・世界の展開、存続、還元(創造・維持・破壊)はすべて神がなさっている。


65・神のみが行為者であり、あのおかたの意思によって、すべてが起こっているのです。


66・人は自分の行為に相応しい結果を得るのです。
 その聖者の場合は、神の意思によって肉体が放棄されたのです。


67・神を得た後は、肉体が残ろうが、また捨てられようがどちらでもいいのです。


68・修行することは絶対に必要です


69・「私こそ、それ、そのもの(私はそれである)」「私は、純粋な自己である」それが知者たちの見解です。


70・心が静まらない限りは精神統一などありません。


71・神への愛に喜びに包まれて呼吸は静かになります。


72・シャンデリアのプリズムのように実際にはどんな色もないのに、様々な色を見ることができるのです。
 そのように、実体であるブラフマンのほかには何も存在しないにも拘わらず、
 幻影によって、自我意識を通じて、私たちに様々な姿を見せつけているのです。


73・「ブラフマンは真実、世界は虚偽である」と手品師がやってきて、多くの手品を行います。
 何もないところからマンゴーの木にマンゴーの実まで出して見せます。
 しかしそのすべてが手品なのです。
 手品師だけが真実です。


74・人生そのものがあたかも、一つの長い眠りです、正しく見ていないと言う夢です。
 そのことは私もわかります。
 心によっては、虚空(アカーシャ・空間・大空)さえ知る事が出来ないないにもかかわらず、
 その心を用いて世界を見ているのです。
 

75・私たちは空間(アカーシャ)を正しく見ておりません。
 あたかも、空間を大地の上に横たわっているように知覚しております。
 それと同じようでは、人はどうして、正しく見ることができるでしょうか?
 人の心の中は錯乱しているのです。


76・あの方を誰が知ることができるでしょうか?
 私は知ろうなどと試みたことはありません。
 わたしはあのお方を、ただお母さん、と言って呼びます。
 母は好きなようになさいます
 あのお方の思し召しでないなら、思し召しではないことを知らせてくださるでしょう。


77・肉体と自己(魂)、肉体となったものが、また去っていく。
 自己アートマーには死はない。
 それは椰子の樹の実のようです。
 熟した椰子の木の実は、その殻からは別になっていますが、熟していないときには、
 実とその殻を別にするのは非常に難しいことです。
 あのお方を見たのなら、あのお方を得たのであるなら、自分は肉体であるとの意識はなくなります。
 そのときには、肉体は別のもの、自己(魂)もまた別のものであるとみるのです。
 (※真我にとっては肉体に入った魂の自己さえも真の私ではないと見ている)


78・修行している状態では、心のすべてによって「これではない」「これではない」と識別して、
 あのお方に向かって行かなければなりません。
 完成した状態は別です。
 あのお方を得た後は、否定してきたものを逆に肯定するのです。


79・そのとき、あのお方が(神が)すべてのものになっていることを、はっきりと知るのです。


80・神を得たのであるならあらゆるものの中に神を見ることができます。
 人間には、特にあのお方は顕著に現れています。


81・神を、富によって支配できるものでしょうか?
 あのお方は信愛によって動いて下さいます。
 あのお方は何を望んでおられるのでしょうか?
 お金ではありません。
 聖なる感情、純朴なる愛、真実なる信仰心(何が真実かを見極める)、識別力、(神以外の)一切の放棄

 
それらのすべてを望んでおられるのです。


82・神知の火焔は、最初に欲情、怒り、などそれらのすべての敵を滅ぼします。
 それから自己中心的な意識を滅ぼします。
 その後に、大騒動が始まるのです。


83・すべては、貴方のご意志、我が儘いっぱいの女神よ、それがあなたである。
 あなたの仕事を、あなたが為さる。
 おお母よ、それなのに、人は為しているのは、私だと言う。

84・医者は、神がもしその人のいのちを終わらせるのではないのなら、誰の力でもそれを阻止できないことを知らないのです。
 私ラーマクリシュナは、そのような病気を治す力を母なる神に求めることなどできません。
 わたしは、ただ母なる神に純粋なる愛をお与えくださいと願うだけです。


85・私はそのような不二の絶対者との完全なる一致の状態に六ヶ月間いた。
 普通の人間は、そのようになったら決して戻ってこられない。
 その状態に達したものは21日間しか生きられず、その後は肉体は枯れ葉が木から落ちるように死滅する。


86・「パーヴァムカ(絶対界と相対界の境界)の境地にとどまれ!!人々の霊性を目覚めさすために」という
 母なる神の命令が聞こえた。


87・1:外界の意識のある状態ー心は粗大体と精妙体に
 2:半分外界の意識のある状態ーそのとき心は原因体、原因体の喜びに入って
 3:内奥の意識の状態ーそのとき心は大原因に融合しています
 粗大体とは、即ち食物からなる蓋被です。
 精妙体とは、すなわち意と識からなる蓋被です。
 原因体とは即ち歓喜からなる蓋被です。
 大原因は五つの蓋被の彼方です。

 心が大原因に没入すると、そのとき三昧状態になります。
 それがニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)です。
 またはジャダ・サマーディと言われるものです。


88・チャイナニアは神への愛の化身でした。
 人々に神への愛を教えるために、この世にやってきたのです。
 人は神を愛することができればすべては成就します。
 ハタヨーガの必要は全くありません。


89・私は肉眼で神を見るその状態にありましたので、形式的な礼拝をすることはもはやできませんでした。


90・神を見ることができたのであるなら、礼拝式は残りません。
 実がなれば、花は自然と落ちてしまうのです。


91・どのような欲望もない人は、僅かな金も望みません。
 金の方から自然にやってきます
 そして「たまたま得たもの」に満足します。
 彼が欲しがらなくても、それは向こうからやってきます


92・人々はただ望んでいるだけでは放棄できるものではありません。
 プラーラブダ(現世の存在を決定するカルマ・行為の力)と
 サンスカーラ(心に刻まれた前世の行為の印象)それらのすべてがまだ作用しているからです。


93・これではない、これではないと否定することによって、アートマン(真の私)を把握するのが
 知識(ジュニャー二)といわれるものです。
 「これではない」「これではない」と推理識別することによって、その人は三昧に入り
 真実の自己を把握することができます。 

 大明知ーブラフマンについて、さらに充実した状態で、知るという境地があります。

 ただ聞いただけの人は無知です。
 見る事ができた人は知者です。
 飲むことのできた人は大明知の人。
 即ち、さらに充実した状態で完全に知った人です。
 神を見たのなら、その人はあのお方と身内のように親しく話しをします。
 その状態が大明知と呼ばれるものです。
 最初は「これではない、あれではない」と識別しなければなりません。
 「あのお方は五元素ではない、心ではない、知性ではない、自我意識ではない、
 あのお方はすべての原理を超えている」と屋上に上らなくてはなりません。


94・至高のブラフマンそのものが、生き物と世界になっているのです。
 二十四の宇宙原理になっているのです。
 本来の自己アートマンそのものが、五元素になっているのです


95・大明知を得たのであるなら、世界に住むことができます。
 そのときには、宇宙とそこに住み生き物になっておられるのはあのお方自身である、
 あのお方は、この世界の外におられるのではないということを、はっきりと実感しています。



96・要するに神眼を持たねばなりません。
 心が清浄になれば、そのような眼力を得ることができます。


97・「人間のなかに神を見るようになったら、完全なる知識を得る」のです。
 あのお方自身が、それぞれの姿で動き回っているのを見ます。
 あるときは聖者になって、
 また、あるときはペテン師、またあるときは悪党の姿で。
 それゆえ、
 私は「聖者の姿をしたナーラーヤナ、ペテン師の姿をしたナーラーヤナ、好色家の姿をした
 ナーラーヤナ」といいます。


98・それはあなた自身。
 人間の姿で、私たちのところにおられるのは、あなた(神)ご自身である。
 人間だと思われているのが、実はあなたご自身である。
 本当は、あなたというものは、あの至高のブラフマンである。


99・実体は一つ、名前が違うだけです。
 一つの池に、たくさんの水飲み場があります。
 それぞれにヒンドゥー教徒は「ジャル」といい
 イスラム教徒はその水を「バーニー」といい、
 キリスト教徒は他の水飲み場から飲んで「ワォーター」と言っています。
 それは同じものなのです。
 すべての人が、あのお方(神)への道を歩んでいるのです。
 心の底から真剣であれば
 強い憧れがあれば、あのお方を得るでしょう。


100・母と父への負債を帰さなければ、その人は何事も成就することができません。
 父と母はくだらないことなのでしょうか・・
 彼らが喜ばなかったならば宗教もヘチマもないのですから


101・神は、あそこ、あそこと感じている間は、その人は無知です。
 神はここ、ここと、知ったら、その人はブラフマンの明知を得ます。


102・すべて起こることはその人の宿命に拠ることです。


103・本当に神を愛する人は、どのような欲望も持ちません。
 ただ、純粋なる愛を祈ります。
 どんな超能力も、少しも欲しがる様な事はないのです。


104・友よ、もし、私を得たいと望むのであるならば、八大神通力を持っている限りはだめです。


105・神通力とは、どんなものかわかりますか?
 神通力があれば、自惚れがおきて、神を忘れてしまいます。


106・もし、私に恩寵をくださるのであるなら、
 私を苦しめた人たちが罰を受けることのないように、その恩寵をください。


107・最後には、ブラフマンの明知の大知者になるでしょう。
 無理に、世界を捨てるのはよくありません。


108・心の清らかなる人は、決して、そのような富や、力や、神通力を神に祈りません。


109・本当に正直でなければ、神を得ることはできません。
 偽善があれば、神からは遥かに遠いのです。


110・神は形のないものだ、と信じる人は、その無形を思念・瞑想すればいいのです。
 しかし独断的な考えはよくありません。
 即ち、私の宗教が正しくて、その他はすべて偽物であるというのは、間違っています。
 なぜなら、神を直接に見ない限りは、あのお方の本性を知ることはできません。


111・様々な国の、様々な時代の求道者は、それぞれ異なっているから、神は多種多様な宗教を作られたのです。
 しかし、すべての教義や信条は道であって、神ご自身ではありません。
 ところが、ひたむきな信仰を持ち、一つの宗教に依拠するならば、あのお方のところに到達することが
 できます。
 もし、一つの宗教に依拠していたとしても、それに誤りがあるのであるなら
 真剣であれば、神はその間違いをただしてくれます。


112・心の底から真剣であれば、世俗にあっても神を得ることができます。
 「私が」、「私のもの」これが無知です。
 おお神よ、それは「あなたです」、そして「すべてはあなたのものです」これが明知です。


113・世俗の仕事を、すべて行いなさい。
 しかし、心は神に置きなさい。


114・それらは、すべては私のものではなく、あのお方のものだと覚えておきなさい。
 あなたは単なる神の召使いなのです。
 わたしは心の中で放棄(出家)することを言います。
 家庭を捨てよ、とはいいません。
 無執着になって真剣に求めるならば、あのお方を得ることができます。


115・目を開けていても、神を見ることができるのです。
 神はあらゆるものの中におられます。
 人間にも、動物にも、その他の生き物にも、草や木にも、月にも太陽にも、水にも陸地にも
 あらゆるものの中に、あのお方はおられるのです。


116・意識には、粗大なるもの、精妙なるもの、原因、大原因があります。
 大原因に入ると、人は沈黙します。
 そこでは、言葉は通用しません。


117・神の分身は、大原因(無知に制約されない精神)に到達した後も、この世に戻ってくることができます。
 それは、神の分身や、神の化身にだけできることです。
 彼らは、上に登り、また降りてくることができます。


118・ある人は、高い境地に行くことができますが、その人は戻って来ても、その経験を伝えることができません。
 普通の人も、熱心に、努力すれば三昧に入ることができます。
 しかしその三昧の後に下に降りてくることも、
 また、降りてきて、それを伝えることもできません。


119・神人は祈っておられた
 「おーラーマよ、私には、信仰心もなく、修行もせず、知識もなく、愛もありません。神をまつることも
 ありません。
 ラーマに庇護を求めます。
 おお、ラーマに庇護を求めます。

 肉体の喜びは、ほしくありません。
 ラーマよ、名声もほしくはありません。
 ラーマよ、八大神通力も欲しくはありません。
 マーマよ、百の通力も欲しくはありません。
 ラーマよ、あなたに庇護を求めます。
 ただこれだけはしてください、あなたの蓮華の御足の元に、純粋なる愛を私に与えられるように。
 あなたの世界を魅惑する幻影マーヤに、惑わされる事のないように
 ラーマよ!おおラーマよ!あなたの中に避難します。


120・明知と、無知とは、誰のことを言うのでしょうか。
 神は遠くにいられる、とおもっているうちは無知です。
 神はここに、ここに、との思いがあるときには、明知を得ているのです。


121・本当の知識を持つようになると、そのときには、すべてのものは意識で満たされていると感じます。


122・最後にわかったことですが、神は全体であり、私は部分、あのお方は主であり、私はその召使い、
 そして、時々思うのですが、あのお方は私であり。私はあのお方です。


123・動・不動はあなた。
 母よ、あなたは微細にして粗大。
 あなたは展開、存続、還元。
 母よ、あなたは宇宙の根源。
 あなたは、三界の創造者、三界からの救済者。
 すべての力は、あなた母よ。
 母よ、あなたの力は、あなたそのもの。


124・大脳の中の花弁は、千弁の蓮華。
 霊性の師の部屋で、それが遥かな秘密の場所。
 その蓮華に日輪の形で、至高のシヴァは存在し、唯一であって、
 白色の千弁の蓮華は花開き、花芯にあって、そこにシヴァの光輪は輝き、
 あなたがそこに上ると、シヴァ自身の姿となる。
 そして純粋精神シヴァそのものと一つになる。


125・僅かばかり「ヴェーダンダ」を読んで人は「私は全部を理解した」と思います。


126・女性を伴う修行の禁止
 修行中の状態では、非常に用心しなければ成りません。
 そのときには、女性から遠く離れているべきです。
 たとえ、用心深い女性であっても、あまり近づきすぎてはいけません。


127・目が外を向いていると、粗大なるものが見えます。
 そのとき心は、「食物よりなる蓋被」粗大なる身体にあります。
 その次には、微細なる身体です。象徴身です。
 そのときには心は「意よりなる蓋被」と「識よりなる蓋被」にあります。
 その次は、原因体、心が原因体に働くときは、喜びがあります。
 そのときには、心は「歓喜からなる蓋被」にあります。
 それが、チャイタニヤ師の経験した半意識状態です。


 その後は心は没入してしまいます。
 心はなくなります。
 大原因のなかに消えてしまいます。
 心がなくなれば、もう情報はありません。
 それがチャイナニア師の経験した内奥の状態です。


128・瞑想が正しく行われていると、それは特徴があります。
 一つの特徴は、鳥が無生物だと思って、その人の頭の上に止まるようになることです。


129・ひとは、目を開けたままでも、瞑想することができます。
 話をしていても、それでも瞑想をすることができます。


130・大概は、前世から受け継いだ傾向によります。
 人は、突然に目標に到達したと思う事でしょうが・・


131・信仰が唯一の肝心なことです。
 神への深い愛です。
 彼ら(神智学徒)は神への愛を、探しているでしょうか?
 もし、そうであるのならいいのですが・・・
 神を得るのが、人生の目標であるのならいいのですが・・・
 アストラル界、メンタル界、ブッディー界などやマハトマーなどのことで忙しくしているようなら、
 神を探し出すことは、出来ない事でしょう。
 あのお方の、蓮華の御足への愛を得るために、修行したいものです。
 強い憧れを持って、神を呼びたいものです。
 世間の、いろいろなことから心を引っ込めて、心を神に固定しなければなりません。


132・神は、実感することによって得られるもの。
 それを実感することも出来ないのに、どうして得られようか?

 神を、実感するために、偉大なヨーガ行者は時代を超えて実習している。
 清らかなる感情が起これば
 神は、あたかも、磁石が鉄を引き寄せるようにあなたを引き寄せる。


133・聖典や哲学書などを、「ヴェーダ」を話しても、あのお方はそれらの何処にもおられません。
 心の底から、あのお方を熱望するのでなければ、何も成就しません。


134・修行は、絶対に必要です。
 神を見ることは、何か突然に出来る様なことなのでしょうか?そうではありません。


135・神はおられる、かみはおられるというだけで神を見ることはできません、修行が必要です。


136・私は瞑想している、という意識がある間は、あなたたちは彼女(プラクティ)の支配下にあるのです。


137・「私」、「わたしのもの」という自我意識に対して、おお神よ、あなたが全ての事をなさっているのです、
 そして、あなただけが、わたしのものです。
 そして、あなただけに、これらすべて家も、建物も、家族も、身内も、友達も
 全世界が属しているのです。
 すべては、あなたのものですーそれが正しい知恵と言うものです。
 「わたしが、全ての事を為している。
 わたしは行為者である。
 家、手のもの、家族、子ども達、友達、財産、これらは全部私のものだ」
 というのはーそれらは無知です


138・知識(推理識別)は、家の外まではいけます。
 しかし、信仰は一番奥まで入っていくことができます。


139・ただ、何が真実かを、推理識別していても、神への渇仰がなく、神への愛がなければ、それはむな
 しいものです。


140・座りながら本を読み、推理識別しても、心に神への強い憧れがなければ、それにはブラフマンの明知
 の特徴はありません。


141・神を得たのであるなら、暮暁の礼拝などの宗教儀式は捨て去られます。


142・なぜ、断固とした放棄の心が得られないのか?
 それには理由があります。それは内部に欲望や衝動があるからです。


143・内部の穴から水が漏れだしているのです。
 欲望がその穴です。
 唱名や修行をしていても、背後に欲望があるのです。
 その欲望の穴から、すべてが漏れ出しているのです。


144・ところが、一つ話があります。
 神への愛を、望むことは、欲望ではありません。
 欲望のうちには入りません。
 神への愛を願い、神への信仰を祈ることは重要なのです。


145・どうして神を見ることができないのかと言いました。
 私は言いました「名声とか名誉とか、学識」それらに一生懸命だから、見る事ができないのだ。


146・人々を、この世に縛り付けているのは、大幻力(偉大なる幻術師・母なるカーリー)のご意志です。


147・一億の凧のうち、一つか二つの糸が切れると、笑って母なる神は手をたたくのです。
 一億の人の中かの一人か、二人が解脱を得るのです。
 残りのものは、みな母なる神のご意志で縛られているのです。


148・ひとは女と金に欺かれているので、神を知ることはできません。


149・あなたの蓮華の御足に、純粋な信仰が持てますように、その恩寵をください。
 そして私が、あなたのこの世を幻惑する幻影に、欺かれることのないようにしてください。


150・「あまりにも神の事を考えすぎると常軌を逸してしまう」と言われました。
 私は、「なにをいうのですか、神の意識を思念して、無意識になるものですか」といいました。
 あのお方は、永遠、純粋、意識の姿をしておられます。
 あのお方の意識によって、人はすべてを意識し、あのお方の意識によってすべてが意識を持つのです。


151・極悪の罪、古くからの罪、累積している無知も、あのお方の恩寵があれば一瞬にして消え去ります。


152・三昧には二つの種類があります。・・・・有意識と無分別です。
 無分別三昧では、もうヴィカルパ(疑ったり、考えたり、創造したりする)の心の働きはありません。


153・心はそれ(実在)そのものになります。
 瞑想するものと、瞑想の対象の区別は残りません。
 ほかに、チェータナ・サマーディと、ジャダ・サマーディ(無分別三昧)があります。
 ナーラダ仙やシュカデーヴァの場合は、個我意識を持ちつつ神と交流する三昧、チェータナ・サマー
 ディです。そうでしょう


154・さらには、心の働きが少し残っている三昧、ウンマナ・サマーデと
 神意識に確個として定住している三昧、
 すなわちスティク・サマーディがあります。


155・至高のブラフマンは、あらゆるものの中に棲んでおられます。
 かの至高のブラフマンは、宇宙に遍在しておられます。
 私はあなたの召使いです。
 人間に、そして、すべての生き物にあらゆるものになっておられるのは、その至高のブラフマンだけです。


156・あなたが、知っても知らなくても、あなたは至高のブラフマンです。


157・私は、何ものをも所有しておりません。
 私は、物を蓄えることはできません。


158・行為というものはすべて、根本原質(プラクリティ)の要素によってなされる。
 自我意識(我執)に惑わされたものは、「私は行為者である」と考える。


159・私には、肉体を維持するためには、どのくらいのお金があればいいか。そのような、計算は一切心
 に浮かばないものです。


160・すべての中に、私を(至高の純粋意識)見、
 私の中にすべてを見るもの。
 彼にとって私は見失われることはなく、また私にとって彼は見失われることはない。
 一体感に立脚して、一切万物に内在する私を信奉するヨーガ行者は
 いかなる状態で、生活するにしても、私のなかにあるのである。

 アルジュナよ、自己アートマンとの類比により、楽であるにせよ、苦であるにせよ
 一切有情を、自己と等しいと見る者は、最高のヨーガ行者であると考えられる。


161・神は心によって、直接に見ることができます。
 それは、この普通の心の、心によってではありません。
 それは浄化された心によってです。
 この普通の心は残りません。
 感覚の対象への執着が少しでも残っているなら、起こりえません。
 心が完全に浄化されたら、それを純粋なる心と言うことができ
 それを純粋なアートマンと言うことができます。


162・神の像を礼拝できるなら、生きている人を通じて、神を礼拝できないことはないでしょう。
 あのお方自身が、人間となって戯れておられるのです。


163・あのお方の遊びが最後ではありませんでした。
 それらのすべての状態を経験した後、
 私は母なる神に、「母さん、それらのすべてには、あなたと私と私の、分離があります。
 今度は、私をあなたとの分離のない状態にしてください」と言いました。
 それ故に、しばらくの間、私は分割なき絶対の有・知恵・歓喜のその状態にとどまっていました。
 神々や女神たちの絵をすべて取り除きました。
 「あのお方を、あらゆるものの中に、見るようになりました。」
 形式的な礼拝はすべて吹っ飛んでしまいました。


164・ところで一つだけ言うことがあります 
 あのお方を、直接に経験するのでなかったら、そのような遊びを見ることはできません。
 あのお方を直接見た印はなにかわかりますか?
 それは、その人は子供の状態になります。
 どうして子供の状態になるのでしょうか?
 それは、神ご自身が子供そのものの状態だからです。
 それゆえに、あのお方を見たら、その人も、子供の状態になるのです。


165・見返りを求める利己的な動機で捧げるもの、その捧げ物はよくありません。


166・一人の人が、棘のあるスモモの木の枝を、握っていて、手からは血がたらたらと滴り落ちているのですが、
 その人は、「私には何も起こっていない、怪我はしていない」というのです。
 訊ねられると「何でもない、元気だ」と答えます。
 しかし、そのことをただ口だけで言うので、何になりますか?
 人はその状態を実践しなければならないのです。


167・前進しなさい、もっと前に進みなさい。
 白檀の樹を得るでしょう。
 もっと前に進みなさい。
 銀の鉱脈が見つかるでしょう。
 さらにもっと前進しなさい、
 金の鉱脈が見つかるでしょう。
 もっともと前進しなさい。
 宝石や青玉を得るでしょう。
 前進しなさい


168・時間の枷、死はカーリーの御名で切ることができるのです。


169・推理識別・哲学の道も、あのお方の思し召しです。
 そして、
 神を純粋に愛するのも、あのお方の思し召しです。
 人は多くの異なる道を通って、同じ一つの場所に到達することができるのです。


170・私は、たとえば神ご自身が、聖者の姿をした神と同じように、
 詐欺師の姿をした神、
 悪漢の姿をした神になっておられるのを、知っています。
 あらゆるものは神なのです。


171・本当にブラフマンの知識を得たら、自己中心的(増上慢)にはなりません。
 どういうことか、といえば、
 もし三昧を得て、その人が神と一つになったなら、
 そうなったら、もう自我(人間の本質を誤認させる個人の自我、我執、束縛、無知の根拠)は残りません。
 三昧を得なければ本当の知識は得られません。
 三昧に入ったら、あのお方と一つになります。
 もう我−意識は残りません。


172・本当の知識を得たら−三昧の状態になったら、我性という姿の陰は残りません。



173・本当の知識を得た後にも、もし私−意識があるとしたら、
 その私というものは「英知の私」「信仰の私」「召使いの私」であることを知りなさい。
 それは、あの無明の私ではありません。


174・肉体が実際にある、という意識がある間は、
 私と、あなた、があります。
 そのあいだは、わたしは主人の召使いであるという態度がいいのです。
 「私は神である」、とそのように、考えるのは善くないことなのです。


175・これではない、これではないと否定の道を歩いているのです。
 神は、人間(個我)ではない、世界ではない、創造とは別なのがあのお方だと、
 かれは、そのようにすべてを推理識別しているのです。
 肯定の道に出たら、すべてを受け入れることができるでしょう。


177・いろいろな知識が、無知と言われるものです。
 あらゆるものの中に、神はおられると知る。それが明知です。
 神を、いろいろな特別な形で知るのが大明知です。


178・たとえば足に棘がささったら、もう一つの棘を持ってくることです。
 それから足の棘を抜いて、二つの棘を捨ててしまうのです。
 そのように
 無知の棘を抜くには、明知の棘を用意しなければなりません。
 無知がなくなったら、明知と無知の二つとも捨ててしまうのです。
 そのとき大明知が現れます。


179・オーム、
 私は思考器官にあらず、知性や自我意識や心にあらず。
 聴覚にあらず、味覚にあらず、嗅覚にあらず、視覚にあらず。 
 虚空に非ず、地に非ず、火に非ず、水に非ず、風に非ず。
 私は、純粋な意識と至福そのもの。
 私はシヴァである、私はシヴァである。


 私は生気に非ず、五風に非ず、七つの要素に非ず、五つの蓋被にあらず。
 手に非ず、舌に非ず、生殖器官に非ず、排泄器官に非ず。
 私は、純粋な知識と至福そのもの。
 私はシヴァである、私はシヴァである。


 私は、好き嫌いに非ず、貪欲、迷妄に非ず。
 利己心を持つに非ず、自尊心を持つに非ず。
 善行に非ず、救いに非ず、欲望に非ず、心の対象に非ず。
 私は、純粋な知識と至福そのもの。
 私は、シヴァである、私はシヴァである。


 私は徳に非ず、罪に非ず、喜びに非ず、悲しみに非ず。
 聖句に非ず、聖地に非ず、ヴェーダに非ず、供儀にあらず。
 私は食べる行為に非ず、食べるものに非ず食物に非ず。
 私は、純粋な知識と至福そのもの。
 私は、シヴァである、私はシヴァである。


 私には、死はなく、恐怖はなく、カーストの区別はなく。
 父もなく、母もなく、生まれることもなく。
 友もなく、仲間もなく、師匠もなく、弟子もない。
 私は、純粋な意識と至福そのもの。
 私は、シヴァである、私はシヴァである。


 私は心象を超え、形を持たず、遍在者であり。
 私は一切処にあって、感覚にとらわれず。
 私は、知られうるものに非ず、解脱するものに非ず。
 私は、純粋な知識と至福そのもの。 
 私は、シヴァである、私はシヴァである。



180・神は、すべてのものの心に宿っておられる
 「あのお方はあらゆるものの中におられる、あの方は、内なる導き手である」
 「何処を見ても、あなただけが、私の目に入ってくる、あらゆるものはすべてあなた」
 「在るものは、すべてあなたなのです。あなたは、いま、あなたです。あなたです、私ではない」
 とそのように言っています


181・神人は神の状態に達するとき、そのときには身体の中を霊的な神経の偉大なる流れが上に昇ってくる。
 と言っておられた。
 霊的な神経の偉大な流れが、上昇すれば、その人は神を見ます。


182・内にも、外にも両方に見ています。
 分割なき、絶対の有・知・歓喜がただ一つの鞘(身体)を持って
 その鞘のうちにも外にもおられるのです!
 私はそれを見ております。


183・神に心が結ばれていると、そのときには身体の痛みは他所に置かれています。


184・欲望や、願望がある間は、神を信じていないのです。
 人は一つや二つの欲望をひきづっているものです。
 もしかしたら、心の中に勉強したい願望があります。
 大学の受験に合格するとか、学者になるとか−−
 それらはすべてが欲望です。


185・神を知ることができたら、人はすべてを知ることができる


186・ラーマクリシュナは、チャイタニヤのように、あるときは内観、あるときは外界の感覚のない三昧
 あるときは,半分外界の意識を持つ意識状態、時には外界を神とみる状態であった。

187・ラーマクリシュナは、いつも神と話をして、母なる神から教えを受けていた。

188・神人(ラーマクリシュナ)は、最高のブラフマン・分割なき絶対の有・智・歓喜であるそれが、母な
 る神であることを知っていたし、言ってもいた。

189・ラーマクリシュナは、殆どが平和な至福に満ちた子供の状態であった。しかし殆どは三昧状態であった。

190・ラーマクリシュナが、すべての修行の究極であるヴァーダンタの非二元性の悟りの境地に六ヶ月留まった。
 終わりの頃に、母なる神から「パーヴァムカに留まれ」との命令を受けた。パーヴァムカとは、全存在、観念
 思考の源の意である。即ち、多様性と非二元性とが同時に感知される境地である。

191・(弟子達に)自分自身を一体誰が教えるのか、わかっていません。教えるというあなたは、何ものですか。(この世は)
 あのお方の世界です。あのお方が教えてくださいます。月、太陽、季節、人間、生物を創られました。
 生き物たちの食事を用意し、子ども達を育てるための両親を作られ、母と父の愛をつくられました。その
 お方自身が教えられるでしょう。神は内なる導き手です。

192・(どうすれば神に心を置くことができるでしょうか?)
 常に神の御名を唱え、神を慕い、賛歌を歌うことです。
 そして正しい交わり、ー神の信者、或いは聖者の様な人々のところへ、時々行くことです。

193・この世のすべての努めを果たしなさい。しかし神に、心は置きなさい。

194・神への愛を得ることなくして、もしこの世の生活に入るなら、さらにその中へ巻き込まれていくこ
 とでしょう。

195・そのような神への愛を得るためには、孤独になることです。

196・孤独になって神を考えるなら、明知と、放棄と、神への愛を、得ることができるのです。しかし、
 心をこの世に放っておくと、低くなります。世の中では、ただ金と女という考えだけです。

197・それと同時に、識別することが大いに必要です。女と金は、かりそめのもの。神のみが唯一の真理です。
 金で何が買えますか?、ご飯を食べ、豆の吸い物を飲み、着物を着て、住むところができます。
 しかし、それによって神を得ることはできません。・・・それが識別というものです。

198・要は、神を愛することです。母親が、子供を愛するように、貞節な妻が、夫を愛するように、世俗の人が
 金を愛するように、です。その三つの愛、その三つの吸引力を一つにした、それだけものを神に向けるなら
 神を見ることができます。


199・ヨーガにより自己を統一し、一切処に、同一を見る者は、万物に内在する自己を見、自己に内在する
 万物を見るでしょう。


200・神を瞑想することです。そして識別しなければなりません。神に、私に愛と信仰をお与えください、
 と祈りなさい。

201・信じることができたら、成就したのと同じです。信仰に勝るものはありません。

202・人が、古くなった衣服を棄てて、新しいのを着るように、肉体の主は、古くなった肉体を棄てて新
しい肉体に入るのです。

203・「母さん、なぜ私をここに連れてこられたのですか?彼らを囲いの中から救い出すことが私にできる
でしょうか?」

 世の中に、人々は囲いの中に閉じ込められていて、外に出ることができないでいる。閉じ込められているので
 外の世界の光輝を見る事ができないでいる。みな、世俗の仕事に手足を縛られている。ただ、部屋の中
 の事物を見る事ができるだけで、人生の目的は、肉体的な喜びと、世俗に仕事、そして女と、金にある
 と思っている。


204・知者は、これでもない、あれでもないと識別します。ブラフマンはこれではない、あれではない、
 人ではない、宇宙ではないと
 このように識別を続けて、心が不動になり、心が分解して三昧に入ります。そのときに、ブラフマンの
 知識を得ます。
 ブラフマンの知者たちは、揺るぎない確信を持っています。ブラフマンが、真実で世界は虚妄であり、
 名称と形態、これら一切は夢のようで、ブラフマンとは何かを口に言い表すことができず、又それは
 人格神であると言うこともできないのです。


 しかし、神の信者はあらゆる心の状態を受け入れます。(日中の)目覚めている状態も真実であるとい
 います。世界を夢のようだとは言いません。神の信者たちは、この世界を、神の栄光の現れだと言います。
 神は空、星、月、太陽、山、海、人間、生物これら、すべてをつくられました。
 あのお方の栄光です。あのお方は、私たちの心の内にも、外にもおられます。
 第一級の信者は、神ご自身がこの24の宇宙原理、生き物、宇宙になっておられると言います。



205・ヨーガ行者もまた、最高我と一体になろうとします、彼らの目標は、個我と最高我の合一です。
 ヨーガ行者は感覚の対象から心を
 反転させ、最高我に心を定着させようと努力します。それゆえ初歩の段階では孤独になり、不動の姿勢
 で一心不乱に、瞑想し、思念を凝らす実習をするのです。しかし真理は一つです。名前が違うだけです。
 ブラフマンであるそのお方が
 実は、アートマンであり、そのお方が実が大聖者です。ブラフマンの信奉者のブラフマン、ヨーガ行者
 の最高我、信者の神です。


206・不二一元論を信奉するブラフマンの知者たちは、展開、存続、還元、生き物の世界、それらはすべて
 性力(根源力・女性的活動原理)の戯れ(リーラ)だといいます。識別すると、これらはすべては夢の
 ようである。ブラフマンのみが実在であって
 他のすべては非実在であり、性力も夢のようなもので非実在であると・・・しかし、千回も推理識別して
 も三昧に入らない限りは、性力の影響から自由になることはできません。「私は瞑想している」「私は考
 えている」それらはすべて性力の力の範囲内のことであり、性力の支配下にあるのですから。


207・それ故、ブラフマンを除いて性力(神のマーヤの力)を、性力を除いてブラフマンを考えることは
 できません。絶対を除いて現象世界を、現象世界を除いて絶対を考えることはできません。


208・根源力は、遊戯の女神です。展開、存続、還元を行っています。実はその名前がカーリーです。
 カーリーこそブラフマン。
 ブラフマンはまさにカーリーです。唯一の実在であるそれについて、展開、存続、還元のいずれの活動
 をも行わないで非活動であると、そのように考えられるとき、それをブラフマンである言います。
 それがすべての活動を行っているときそれを、カーリーといい、性力といいます。
 真理はただ一つ、名前と形が違うだけです。


209・まだ展開(創造)が行われておらず、月や太陽、地球もなく、闇が闇に覆われているときは、母は
 単なる形のないマハーカーリー、 絶対と一つになって栄光に満ちて実在しています。


210・神が束縛(カルマ)と自由の二つの作者です。
 あのお方の不可思議力によって、世俗的な人間になり、金と女に束縛され
 そして、あのお方の恩寵によって自由となります。
 あのお方は、「この世の束縛の鎖を解く救いの女神」です。


211・彼女は遊戯(リーラ)の女神です。この世は彼女の遊びです。彼女は我が儘一杯の女神、至福に満
 ちた女神です。彼女は百万の中の一人に自由をお与えになります。


212・彼女が、人の心に目配せして、「行って、家庭を持ちなさい」と言われたのです。
 心に何の落ち度がありますか。
 もし彼女が、再び、恩寵によって人の心を、彼女に振り向かせてくださるなら、世俗的な知恵の手から
 自由になります。そのとき
 心は、彼女の蓮華の御足の元に向かいます。


213・あのお方の幻影によって人間は間違って世帯者になります。


214・すべて心の問題です。実は、心によって束縛され、心によって自由になります。心はどのように染め
 る色にも染まります。


215・(キリストの教えの間違った解釈で)「私は束縛されている、わたしは束縛されている」と繰り返す
 碌でなしは、実際に、束縛されてしまいます。
 昼も夜も「私は罪人です、私は罪人です」とそれを繰り返すなら、その人はその通りの人間になってしまいます


216・神から命令を受けていなかったら、「私は人を教えているのだ」というような思い上がりが生じます。
 増上慢は、無知から起こります。
 無知によって自分が行為者であると考えるのです。神が行為者です。
 全ての事を為さっているのは神です。
 私は何もしておりません。このことを悟り得たのであるなら、その人は生前解脱者です。
 「私は行為者である」「私は行為者である」とのこの思い込みから、あらゆる苦しみや不幸が生じます。


217・あなたは世界に善を為すと言います。世界はそんなに小さいものですか。又世界を救うと言う、
 あなたは誰ですか。
 修行することによってあのお方の姿を見なさい。修行してあのお方を得なさい。あのお方が力をお与え
 になって初めて、すべてに人に善を為す事ができるのです。そうでなければ、できるものではありません。


218・不二一元論者はひたすら、これではない、これではない、と識別します。識別によって「私も虚偽、
 世界も虚偽、ー夢のようなものである」との覚醒を知者の意識にもたらします。知者はブラフマンを
 覚醒した意識によって悟ります。
 あのお方が何であるかを口では言えません。


219・あのお方はどのようなものであるか、口では言うことができません。誰が言うのですか?言うはず
 の、そのお方がいなくなったのです。そのお方の「私」(形)を探してももう見つけることはできません。


220・そこに自分自身の自己性を見つけることができないのに、さらに誰を捜すのですか?ブラフマンそ
 れ自体の純粋意識によって「不二の絶対」を体験するのです。それがどのような姿であるか、その話を
 誰が言うことができるでしょう


221・完全なる明知の特徴ですがーブラフマンの完全な明知に達したら、その人は沈黙します。そのとき、
 私の姿(自我・個体)である塩人形は、海に入って海と一つになります。そのときにはほんの僅かな差
 別分離の意識も残りません。
 推理識別が終わりに達しないうちは、人はああでもない、こうでもないと盛んに議論します。推理識別
 が終わると沈黙します。

222・神は一人の人間という性質を持ち、その人は祈りを聞いてくださる。宇宙の展開・存続・還元
(創造・維持・帰滅)を行い、その人は無限の力を持っておられる、という実感があれば、それで充分です。

223・しかし、あなた自身が真実であるあいだは、世界も真実です。神の様々な姿、形も真実であり。神は
 人間である人格を持つと言うことも真実です。

224・信仰の道が、あなた方の道です。それは非常に良いーたやすい道です。無限である神を知ることはで
 きるでしょうか?
 また、あの方を知ることは必要なことでしょうか?
 このような希有の出生を得て、私たちに必要なことは、あのお方の蓮華の御足に信仰を持てるようになることです。


225・七つの階域とは、心の棲むところの階層のことです。心が世俗性にあるあいだは、性器、肛門、臍が
 心のすみかです。こころにはそのとき天上を振り向く眼差しはありません。こころは、ただ女とお金だけ
 に住んでいます。これが第一〜三までの階域です。


 心の第四の階域は、心臓です。心がそこに達すると、その時初めて霊性が目覚めます。そして至るところ
 に光を見ます。そのとき、その人は、神の栄光の輝きを見て「これは何だ!」「これは何だ!」といいます。
 そのときは心は二度と下に、即ち世俗の対象に向かって行きません。


 心の第五の階域は喉です。心が喉に登ると、その人の無知と迷妄はすべて取り払われ、その人は神の話だけで、
 他のどのような話も話すことも好みません。誰かが他の話をすると、その場から立ち去ります。


 心の第六の階域は眉間です。心がそこに達すると昼も夜も神の姿を見ます。そのときも、少しばかりの
 「私(個我意識)」が残っています
 その人は、神の比較を絶する姿を見て狂喜し、その姿に触れ、抱擁しようと前進しますが、成功しません。
 あかたもランタンの中に灯があるようなものです。その火に触れようと思えば触れられそうです。
 しかし、ガラスという隔てるものがあるので、触れることができません。


 頭のところ、第七の階域、そこに心が到達すると、三昧に入り、ブラフマンの知者が言うところのブラ
 フマンを直接体験します。しかし その状態では、肉体は、幾日も保てません、四六時中感覚はなく、
 何も食べることはできません。口に牛乳を含ませても、流れ落ちてしまいます。その階域では二十一日
 の間に肉体は放棄されてしまいます。それがブラフマンの知者の状態です。あなた方の場合は信仰の
 道です。非常に良い、しかも容易な道です。


226・三昧に入るとすべての活動は脱落してしまいます。礼拝や唱名などの宗教的行為、世間の努めはすべ
 て脱落します。最初は活動の大変な騒ぎがあります。神に向かって進めば進むほど、活動の外的な華麗さ
 は少なくなります
 あなたがそこに入ると、自然とすべての話は止んでしまいます。そのときには御方に会えた、そのことが
 喜びなのです。


227・三昧に達したあと、殆どの場合は肉体は残りません。幾らかの人が、例えばナーラダなどが、人々を
 教えるために肉体を保ちます。またチャイタニヤのような神の化身の場合もそうです。井戸を掘り終え
 たら、人々は鍬や鋤を片付けてしまいます。


228・かれはかって生まれず死せず、過去の生起も未来の滅もない(無始無終)不生、常住、永遠、不動
 で、肉体は殺されても彼は殺されないのです。


229・もし神を見ることができたなら、その人は女性を、もう他の目で見ることはありません。その人は
 女性たちが、母なる神の部分であることを正しく見て、母様と言って、すべての女性を礼拝します。


230・聞きなさい、宗教の教師の仕事は非常に難しいものです。神の直接の命令なしには人を教えること
 はできません。


231・人間のありもしない能力で、どうして他の人を、この世の束縛から自由にすることができるでしょう?
 この世界を幻惑させる幻力はあのお方のものです。あのお方だけが幻から自由にすることができます。
 偉大な教師、絶対の有・智・歓喜以外には避難所はないのです。
 神を得ていない方は、あのお方の命令を受けていないのです。神の力によって強力になっていないもの
 に、ありもしない彼らの能力で人々が、この世で生存を受けている束縛を、どうして取り除くことがで
 きるのでしょうか?


232・人間の自我意識が幻です。その自我意識に幻惑された人は「私は行為者」であると思うのです。
 その自我意識がすべてを覆い隠しているのです。
 自我という私が死ねば苦しみはなくなります。もし神の慈悲によって「私は行為者ではない」という自
 覚を得たのであるなら、その人は生前解脱者になったのです。その人にはもう恐れる者はありません

 
 この私ー自我意識(我性)はあたかも雲そのものです。僅かばかりの雲の為に、太陽を見ることができま
 せん。雲が消えると太陽を見る事ができます。もし師匠の慈悲によって私ー自我意識がなくなるならば神
 を見ることができます。


233・人間は絶対の有・智・歓喜そのものです。しかし幻影或いは私ー意識がいろいろな添性(仮託)をつ
 くってしまい、その人は本来の自分の姿を忘れ去ったのです
 (※仮託とは自分ではない性質を自分の性質としてしまうこと、縄を蛇と思い込むことなど)


234・金も一つの強力な添性です。金ができたら人は変わります。本来の人格は残りません、変わってし
 まうのです。


235・神の知識を得たなら、我性を取り除くことができます。神の知識を得たなら三昧に入ります。三昧に
 入って始めて私ー意識は消えます。


236・心が第七の階域に昇ったら三昧に入ります。三昧に入ることによってはじめて、個我は我性を捨て
 去ることができます。
 心が普通棲むところは何処でしょうか?最初の三つの階域に棲みます、性器、肛門、臍ーこれがその三
 つの階域です


237・もしどうしても「私」がなくならないのであれば、それを「召使いの私」として残しなさい。
 「おお神よ、あなたが主人でわたしは召使いです」そのような気持ち、信仰態度で生きていきなさい。
 「私は召使い」「私は信者」そのような「私」には害はありません。


238・肉体的な自己の感覚が取り除かれない限りは、ブラフマンの知識は得られません。


239・識別の道はきわめて困難です。「ブラフマンが真実で、世界は虚偽である」と実感できるでしょうか?
 「私は肉体ではない、私は心ではない二十四からなる宇宙原理でもない。私は喜怒哀楽を超えている。
 また私の何処に病気や悲惨、老いや死があるというのだろうか」ーそれらを全て実感するのは、非常に難しいです。
 どれだけ推理識別しても、肉体が自己であるという感覚が、どこからともなくやってきて顔を出します。


240・第五の界域と第六の界域の間を、ボート・レースするほうがいいのです。私は第六の界域を越えて、
 第七の界域に長い間とどまりたいとは思いません


241・「私は彼である」という自惚れは、良くありません。肉体が自己であるという意識を持ちながらも、
 そのような虚栄を張るなら、その人にきわめて大きな害をもたらします。向上することもできず、次第に
 堕落します。他の人を騙し、自分を騙し、自分の状態を理解することができません。


242・神のみに執着する熱烈な愛を得ない間は、神を得ることはできません。あのお方に対する、愛がほ
 しいのです。世俗的な考えがまったくなくなり
 あのお方に100パーセント心が向くようになったら、あのお方を得ることができます。


243・神への熱望や強烈な愛が、自分の方からやってきたら、唱名などの宗教的な行為は脱落します。


245・「そのような愛、そのような神のみに執着する熱烈な愛が現れたら、妻や子供に対する迷妄の魅惑は
 残りません。慈悲だけが残ります。


246・神への愛が現れたら、この世への執着−世俗的な智慧は完全になくなります。


247・世俗的な考えがごく僅かでも残っているなら、あのお方を見ることはできません。


248・神への愛、この熱望、この熟した信仰、この愛がもし徹底されたら、神の有形と無形の二つを如実
 に見ます。


249・私は行為者であり、自分の主人であるというこの意識が残っているなら、神を見ることはできません


250・恩寵が下ったら、神を見ることができます。おの御方は明るい智慧の太陽です。あのお方の一つの
 光線によって、この世界に明知の光りが注いでいるから、私たちは互いに知り合うことができ、また
 世界の実に多種多様な知識を得ることができるのです。


251・慈悲は純質から生まれます。純質は維持し、激質は創造し、暗質は破壊します。しかしブラフマン
 は純質、激質、暗質の三つの属性の彼方です。宇宙を創造する、プラクティリティ・根本物質の彼方です。


252・ジャダ・バラタやダッタトレーヤー等はブラフマンを経験しましたが、それを伝えることはできま
 せんでした。ブラフマンの知識を得て三昧に入れば「私」は残りません


253・「私」「私のもの」それが無知です。「私が行為者である。そして私には妻、子供、財産、名声、名誉
 それらの全てがあるのだ」というそのような感情は無知でなければ起こりません。


254・「私がやっている」「私の妻子だ」「私は宗教の師匠だ」これらの虚栄心は、みな「熟さない私」です、
 それを捨てなさい。それをすてて「熟した私」となって生きなさい。私はあのおかたの召使い、わたし
 はあのお方の信者。私が行為するのではない、あのお方がなさるのです。


255・あなたは根源力を認めるべきです。ブラフマンとその力は一つです。ブラフマンであるそれが、
 実はブラフマンの力です。肉体の意識のある間は二つという感覚があります。説明しようとすること
 自体が、二元性です


256・三つの属性を超越するのは極めて困難です。神を実現しないとできません。人は幻影(マーヤー)
 の領域に棲んでいます。その幻影が神を知ることを許しません。その幻影が人を無知にしておくのです。


257・時々、私(ラーマクリシュナ)は、「あなたこそ私、私はあなたである」と言います。ときには「あ
 なたは私そのもの」になってしまいます。そのとき
 には「わたし」を探し出すことはできません。


258・知っているでしょうか、快楽への欲望がある間は、心に神を知りたいという熱望は起こりません。


259・世俗的な享楽への欲望が去って、初めて神への熱望が起こるのです。


260・喜びと悲しみは肉体を持つものの定めです。


261・感覚の対象への執着が減少すればするほど、神への傾斜は深まります。


262・唯一絶対の有・智・歓喜そのものが、シャクティー・力の現れの違いによって、添性の違いによっ
 て、さまざまな姿、形になっているのです。
 「おお主よ、それは実はあなたです。それら全てはあなたです。あなたが行為しています」


263・絶対の有・智・歓喜そのものが、実は根源力であり、そのお方が展開、存続、還元を行います。


264・哲学を学び終えて、学者は自分の無知を悟ります。


265・魚が傍らにある限り、即ちカルマ・欲望がある限り、活動があり、そして活動のゆえに苦悩や心配
 や不安があるという教訓を学んだのです。
 欲望を捨てることができれば、活動は止んで、心は平和になることができるのです。


266・神への愛がやってきたら、仕事の方は自然に成就します。神が彼らに仕事をさせているのですから、
 その人たちは仕事をすればいいのです。あなたは今機が熟したのです。あなたは、全てを捨てて「心よ、
 おまえも、母なる神を見よ。私も見る。そして、誰ものぞき見ることのないように」といいなさい。


267・愛によって、いのちも、心も、神に融合します。


268・その後で強烈な霊的状態が来ます。恍惚状態に入って、人は唖然となります、神経の流れは静かに
 成ります。自然と呼吸が止まります。


269・神への神聖なる愛を得るのは、非常に崇高な話です。聖チャイタニヤは、その聖なる愛を得ました。
 神への聖なる愛を得たなら、外部のことは忘れてしまいます。この上なく、愛おしい自分の肉体ですが、
 それも忘れてしまいます。


270・神人(ラーマクリシュナ)は霊的状態になると、神経の流れが静かになる、と言います


271・精神の集中した状態では神経の流れは静かになり、呼吸は止まります。「見神には、一つの特徴があり
 ます。内部を(脊柱を)大きな霊性の流れが歓喜して上昇、突進して脳天に向かって行きます、そのとき
 もし三昧を得ることができたら、その人は神を見ます。


272・神人は神のみが実在であり、その他一切は非実在である事を確信しておられる。金銭、金属類金属
 製の器などに触れることができない。
 女性の肌にも触れることができない。触ったら最後たちまち魚の針に指されたように、その部分に激痛が
 走るのである。あのお方は金銭や金属類を手をすると、その手がねじれて変形してしまい、呼吸困難に
 陥るのである。それらを捨ててしまうと、以前のように呼吸ができるのである。


273・(先生、この世は非実在、虚偽でしょうか)
 それは、あのお方を知らない間は、非実在です。そのとき
 には、人はあのお方を忘れて「私が、私が」と我を張ります。幻力に縛られ、女と金に惑わされて、さら
 に沈んでいきます。幻力によって、全くの無知になってしまいます。
 残る道があるにもかかわらず、逃れることができないのです。


274・もし、あのお方を、つまり神を得ることができたら、この世をくだらないものとは思わなくなってし
 まうことでしょう。


275・心に地上の喜びや興味を捨てる気持ちが起きたとき、人は識別力を得るのです。その識別力によっ
 て心に真理に関する考えが浮かんできます。
 

276・神に到達しない間は「これではないこれではない」と、捨てて行かなければなりません。あのお方
 に達した人は、あのお方が全てのものー神の幻力、いきもの、宇宙になっておられるのを知るのです、
 そのとき、生き物も、世界も、純粋にあのお方そのものであることを悟るのです。


277・もし自己(魂)が存在するなら、自己でないものも存在するのです


278・永遠不変で、非活動のニティヤであるそれが、活動し、戯れているリーラーです。現象界である
 それが、絶対者です。神と呼ばれて知られている
 そのお方が絶対者です。神と呼ばれて知られているそのお方が生き物と宇宙になっておられるのです。
 ものの真実を知った人は、そのお方があらゆるものに父、母、隣人、人と生き物、善人と悪人、清浄な
 ものと不浄なもの、その他の、あらゆるものとなっておられるのを見るのです。


279・(では罪・徳もないのでしょうか)あります。
 しかしありません。あのお方が、その人の中に我性を残して於かれる場合は、区別の感覚を残し、罪と
 徳の意識を残して於かれるのです。あのお方は、一人か二人のごく僅かな人から、我性を完全に消し去り
 ます。
 その場合には罪と徳、善と悪を超越しています。神を実現しない限りは、区別の感覚、善と悪の意識は
 そのようにして残ります。
 あなたは、「私には、罪も徳と同じものになった。私は、あのお方が、私に行わせようとしているだ
 けだ」と口先で言うことができるでしょう。
 しかし、人は、心の中ではそのような話は全て偽りであることを知っています。悪事を為せば、心臓の
 動悸が激しくなります、神を実現した後も神が望まれれば、その人に「召使いの私」の意識を残してお
 かれます。
 そのような霊的状態になると、信者は「私は召使いで、神様、あなたは主人」と言います。
 これでわかったでしょう、そのような信者には、あのお方は区別の感覚を残しておかれるのです。


280・あのお方は、感覚器官によっても、現在のままの心によっても知る事はできません。
 世俗の執着のない、その清浄な心によって、あのお方を知ることができるのです。


281・もし狂気になるなら、どうしてこの世のものに、狂気にならねばならないのですか。
 もし、狂気になるなら、神の為になりなさい。


282・しかし、あなたの話を聞くと名声欲があるように思われます。そのような自己中心的な態度は良く
 ありません。「私がやっているのだ」というような感情は、無知ゆえにおこるのです。おお神よ、あな
 たがしておられるのです。というのが明知です。神のみが行為者であって、他のものは全ては非行為
 者です。


283・人間も「おお、神よ、私は行為者ではありません。あなたが行為者です・・・私は機械、あなたは
 操縦者です。」といえるようになったらその人の輪廻の苦しみは終わります。


284・(人間の私ー意識はどうしてもなくなりませんとの質問に答えて)
 神を見ない間は、我執はなくなりません。もし誰かが自我意識(アハンカーラ・自己中心的な我性)
 がなくなっていたら、その人は間違いなく見神したのです。


285・ときには、あのお方は、完全にその人の我性をなくしてしまわれます。たとえば三昧の状態などが
 そうです。しかし、たいていの場合は、私ー意識を少し残しておかれます。しかし、そのような我性に
 は害がありません。


286・あなたの人生の目的は神を実現することです。


287・神のみが真実で、その他の全ては非真実です。神を実現したら、あのお方が行為者で、私たちは非行
 為者だと意識出来る様になります。
 そのようになったら、神を捨てて、どうして多くの活動に巻き込まれたりするでしょうか?
 神を見ることができたら、あの方の恩寵によって、多くの病院や施薬所を建てる道具になることができ
 るでしょう。それ故に、私は働くことは第一段階だというのです。仕事は人生の目的ではありません。
 霊性の修行をしてさらに前に進みなさい。修行を進めてさらに前に進むことができたら、最後には神の
 みが実在であり、その他のものは全ては非実在で、神を悟ることが人生の目的であることを理解する事
 でしょう。


288・仕事は、人生の目的ではありません。さらに前に進めば、欲望なしに活動することができます。


289・私とか、私のものと繰り返すのは無知というものです。


290・本を読んで智慧はつくのでしょうか。神から命令を受けた人の智慧に、終わりはありません。
その智慧は神から来るのですー無尽蔵です


291・神を得ない限りは、完全に無執着になることはできません。


292・人間の肉体の寿命は短いのです、さらには肉体意識はどうしても離れません。そして肉体意識が消え
 なかったらブラフマンの明知を持つことはできません。


293・もし病気、悲しみ、快楽、苦痛、それら全てにたいして意識があるなら、あなたはどうして知者に
 なれるでしょう。


294・信者を愛する神が望むのなら、神は、信者にブラフマンの明知を与えることができます。


295・無分別三昧では、分割のない絶対の有・智・歓喜を経験します。そのときには我性、名称、形態は
 残りません。


296・そのように機が熟したら、神への憧れは起こるのです。


297・クリシュナは、「兄弟よ、もし誰かが八大神通力の一つでも持っているのを見たら、その人は私を得
 ることはできない事を知りなさい」といっています。なぜなら、神通力があれば自惚れがあります。
 そして増上慢が、僅かでもあれば、神を得ることはできないからです。


298・ひたすら、あのお方を、思念し仕えなさい。


299・神の明知を得たら、あのお方を遠くに在るものとは見ません。もう、あのお方を、遠くにあるお方だ
 とは思いません。そのときは目の前にいるお方です。自分の心の中に、あのお方を見ることができるの
 です。そのお方はあらゆるものの中におられます。探す人はそれを得ます。


300・感覚の対象に執着して、女と金を愛している限りは、自分は肉体であるという意識は消えません。
 感覚の対象への執着が少なくなるにしたがって、本当の自己の意識にますます近づくことができ、自分が
 自分であるという意識は少なくなります。
 感覚の対象への執着が完全になくなったら、本当の自己の知識を得ます。そのときには本当の私
 (魂の内奥及び魂)とは、肉体とは別のものであることを悟ります。


301・「私が説教しているのだ」というような、そのような考えを持ってはいけません。私は母なる神に、
  「母さんあなたは操縦者で、私は機械です。
  あなたが動かすように私は動きます。あなたが話させるように、わたしは話します」といっています。


302・神は行為者で、私は非行為者なのです


303・ブラフマンである、そのお方がカーリー(母、根源力)です。活動をしていない時には、あのお方は
 ブラフマンと呼ばれます。展開、存続、還元
 のこれらの全ての活動をするとき、あのお方をシャクティ(性力)と言います。


304・いいですか、私は、神の知識もほしくはありませんでした。


305・(あのお方と、あのお方のシャクティ・力は異なるものですか・質問に)
 完全なる明知を得た後には異なりません。
 しかし、その非二元性の意識は完全なる明知に到達しない限りは持つことはできません。完全なる明知を
 得ると、三昧に入ります。
 世界展開における二十四の原理を超えていきますので、我性は残りません。三昧に入ったら、どのよう
 に感じるのかは、口では言うことはできません。
 降りてきたら少しばかり漠然といえるだけです。三昧が終わってから「オーム、オーム」と口唱しますが、
 そのときには百腕尺も下に降りてきているのです。ブラフマンはヴェーダの儀規・命令を超えているの
 で、口で言うことはできません。そこには「私」や「あなた」も存在しません。


306・わたしやあなたがある間は、「私は祈り、私は瞑想している」という意識があります。
 そのときには
 「御方(神)が祈りを聞いている」という意識があります。神は人格を持つものであるという感じもあ
 ります。あなたは主人、私は下僕、あなたは全体、私は部分。あなたは母親、私は子供そのような感覚
 は残ります。そのような私は一つのもので、あなたは、もう一つのものという差別の感覚があります。
 そのような差別を感じさせているのは、あのお方です。
 それゆえに、男と女、光と闇、それらの全てを感受するのです。
 そのような差別の感覚がある限りは、シャクティ・人格神を認めなければなりません。
 あのお方が、私達のなかに「私」を置いておかれたのです。


307・私という水(鏡)で、太陽を見なければなりません。それ以外に、太陽を見る方法はありません。
 そして反射した太陽の映像以外に、太陽を見る方法がない場合は、反射した太陽の映像は100パーセン
 ト真実です。私が真実である間は、反射した太陽の映像も、又真実です 
 その反射した太陽が根源力です。


308・もしブラフマンの明知を求めるなら、その反射した太陽の映像を通じて、真実の太陽に向かって進
 みなさい。
 祈りを聞いて下さる属性を持つブラフマンであるその方に言いなさい。
 そのお方が、属性のないブラフマンの明知を与えて下さいます。
 なぜなら、属性のあるブラフマンであるそのお方が、実は属性のないブラフマンです。
 女性的活動原理・根源力であるそのお方が、実は非活動のブラフマンです。
 完全な明知を得た後は、それは非二元になるのです。


309・あなた方は、知者ではなくて神の信徒です。
 知者である人の確信は、ブラフマンは真実で世界は虚偽、夢のようなものであるというものです。
 私も、あなたも、全ては夢のようなものであると言います。
 あのお方は内制者です。あのお方に素直な心、清らかな心で祈りなさい。
 あのお方は、全てを明かして下さいます。
 自惚れを捨ててあのお方に庇護を求めなさい。
 そうすれば全てを得ることができます


310・あらゆる者がラーマ・神であることを見ます。あなた方はみな座っていますが、ラーマ・神ご自身が
 あなた方の全員の一人一人になっておられるのを見ます。


311・わたしは、あのおかたが、すべての者になっておられるのを見ます。
 あのおかたが、生き物や宇宙になっておられるのです。


312・導師・教師がいなかったら、あのお方に熱望して祈りなさい。
 あのお方はどのようなものか、あのお方自身が教えて下さるでしょう。


313・本を読んでも、正しい悟りを得ることはできません。さとりの体験は、全く異質のものです。
 見神の後には、書籍も、聖典も、科学も、全て塵や紙くずのように思われます。




314・神ご自身が生き物となり、世界の全てのものになっているのを見ました。
 あのお方の存在によって
 すべてのものは真実であるように思われたのです。


315・神が、あなたを世界におかれたのです。
 あなたに、なにができますか?
 すべてを、あのお方に、(自分を)委ねなさい。
 そのようにしたら、もうどのような混乱も残りません。
 そのときには、あのお方が、全てを行わせているのを見るでしょう。
 全ては神の思し召しです。


316・ラーマの思し召しによって、彼は釈放されたのです。
 在家の暮らしをするのか、出家者になるかは、全てはラーマの思し召しに拠ります。
 それ故に、あのお方に全てを委ねて、世俗の仕事をしなさい。


317・在家者が、生前解脱を得たのなら、その人が望めば、容易に世間にすむことができます。
 もし、魂の覚醒を得たら、ここもあすこもありません。彼には全ては同じ事です。
 あの場所の意識のある人には、この場所の意識もあります。


318・ラーマクリシュナは、あらゆる宗教を実践し、すべての宗教を尊敬し、誰とも争わなかったのである。


319・わたしそのものは、ブラフマンの知者でした。それゆえ夢を見ている状態が偽り(非実在)である
 ように、目覚めている状態も偽りであることを見たのです。ただひとつの実体があり、それが自己です。


320・わたしは全てを受け入れます。
 第四位も、そして覚醒、夢眠、熟睡の状態もです。
 わたしは、人間の意識の三つの状態を受け入れます。
 ブラフマンと、その幻影・マーヤ、そして生き物、世界の全てを受け入れます。
 全てを受け入れなければ、目方が足らなくなってしまいます。


321・ブラフマンは、生き物と、世界によって条件付けられています。
 これではない、これではない、と否定するときには、最初は、生き物も、世界も、捨てて行かなければ
 なりません。
 しかし、
 私という意識がある間は、あのお方が、全てのものになっておられる。
 と、そのように感じるわけにはいきません。
 あのお方が、実は二十四の宇宙原理になっておられるのです。


322・絶対であるお方が、実は相対です。
 それ故に、私には絶対も、相対も全てを受け入れます。
 幻影だと言って、宇宙も、この世も否定するようなことをしません。
 そのようなことをしたら、目方が足らなくなってしまいます。


323・最高の信者は、絶対と相対の二つを受け入れます。


324・相対から、絶対に没入します。
 粗大と微細と原因から、大原因に融合します。
 覚醒、夢眠、熟睡の意識状態から第四位に没入します。



325・絶対から相対が始まったのです。
 大原因から粗大、微細、原因の身体を見せたのです。
 あの第四位から、覚醒、夢眠、熟睡の心理状態が集まって来たのです。
 そしてふたたび、大海の波が大海へ帰るのです。
 絶対から相対へ、そして相対から絶対へ、です。



326・わたしに無限の意識の大海が掲示されたのです
 絶対者から全ての相対(戯れ)が起きてきて、再びその絶対者の中に没入するのです。
 絶対の空間の中に、幾百万の宇宙が生起し、再び、その中へ没入するのです。
 あなたたちが言っている書物に何が書いてあるのか、わたしは知りませんが


327・あなたは純粋な自我(真我・アートマンのことを指している)をなぜ、主宰神(根源又はブラフマン
 のことを指している)というのですか?
 純粋な自我は非活動で、覚醒、夢眠、熟睡の三つの意識の状態の傍観者(目撃者)です。
 展開、存続、還元の活動を考えるときは、私はあのお方を主宰神といいます。
 純粋なる自我はどのようなものかといえば
 あたかも磁石が随分と遠くにあるようなものです。そして針は動きますが、磁石は不動で非活動です。


328・わたしの母は、肉体、心、命、自我を与えて、私に触れておられるのである。
 私は何も知りたくない
 もし知る必要があるなら
 あのお方(母なる神)が知らせて下さるであろう。


329・そのような神への愛がやってきたら、聖典で命じられているような儀式を行う必要はなくなります。



330・(このラーマクリシュナの著者が言う)
 神を知ることなく、あのお方を見ることがないのなら、「ラーマの思し召し」と言うことは完全にはわからない。


331・あのお方を得ることがないあいだは、時々それを感じることができるが、すぐに忘れてしまう。


332・完全な信仰心がなければ、罪と徳の意識、自己責任の感覚があるのである。

 そこで神人は、「ラーマの思し召し」であると私たちにわからせて下さったのである。
 鸚鵡のように、口先だけで「ラーマの思し召しである」と言うことは出来ないのである。
 神を知らない間は、あのお方の意志とわたしの意志は、一つになっていない。
 「わたしは機械である」と悟らない間は、あのお方は罪と徳の感覚、喜びと悲しみの感覚
 清浄と不浄の感覚、良いと悪いの感覚を、私たちの中に、残しておかれるのである。
 責任感を残しておかれるのである。
 そうでなければ、あのお方の幻惑的な世界はどのようにして続けられるというのであろうか。


333・あなたは、その人の内部に、神への愛と信仰があるかどうかだけを見ておられるのである。


334・神人(ラーマクリシュナのこと)は、この世界は、夢のようであるとは言われない。
 「それでは目方が足りなくなる」と言っておられるのである。
 幻影論者ではない、被限定不二一元論の聖者である。
 なぜなら、神人は、生き物と世界は、非現実であるとは言っておられないのである。
 心は迷妄である、とは言っておられないのである。
 神は真実であり、そして人間も真実であり、世界も真実であると言っておられるのである。
 生き物と世界は、ブラフマンを含んでいるのである。
 種子と外皮をのぞいたら、ペルノキの実の全部を得ることは、出来ないのであるから。

 偉大な魂たちは、三昧に入って、その常住の最高の純粋精神を見ていると。
 すなわち、永遠不変の遊戯を装ったハリ神を直接体験しているのである。
 神人ラーマクリシュナは、もちろんそれを経験されているのである。
 それは、神人が話しておられたことである、ところがそれは
 この肉体的な目ではない神聖なる目と、言われるものによってである。
 その天眼を得て、アルジェナは宇宙の実相を見たのである。
 その目によって、古代の聖賢たちは、自己(アートマン)を直接経験したのである。
 その真性なる目によって、イエスキリストは、天にいます父を、いつも見ていたのである。
 どうすれば、そのような目を得ることができるであろうか?
 それは熱望によって得られる、と神人から聞いたのである。


345・私(アートマンのこと)をいたる所に、全ての中に見るものは私(アートマン)を失うことはないし、
 私もその人を見失わない。



346・(ラーマクリシュナに対して質問者)
 ナレーンドラはあのお方は私たちの思惟を超えていると言いますが
 (答え)
 いいえそうではありません
 確かに、あのお方はこの心で知ることはできません。
 しかし、浄化された心によって知る事ができます。
 この知性では知る事はできませんが、しかし浄化された知性によって知る事ができます。
 女と金への執着がなくなりさえすれば、その人は浄化された心と浄化された知性になります。
 そのときには、清らかなる心と、清らかな知性は一つのものです。
 浄化された心によって、あのお方を知ることはできます。


347・お母さん!あなたの世界を幻惑する幻影に、あなたの虚構であるこの世に、
 惑わされる事のないようにしてください


348・純粋精神であるその神は
 私たちの言葉と心を超えているのではなくて
 そのお方は、浄化されたこころによって、浄化された知性によって、浄化された自我によって知る事が
 できます。



349・あのお方は、あらゆるものの中におられます。
 しかし、一つ言うことがあります
 あのお方の現れは様々です。
 あるところでは、無知の力として現れ、あるところでは明知の力として現れています。
 ある器には、神の力は多く、ある器には神の力は少ないのです。
 それゆえに、全ての人がおなじだというわけではありません。


350・あのお方は、言葉と思惟を超えている、というよりは、浄化された知性によって知る事ができるのです。
 浄化された知性と、浄化された自我とは同じです。
 古代の聖仙たちは、浄化された知性と、浄化された自我によって、純粋なる自己を直接に体験しました。


351・あのお方は、私たちの内側から教えてくださいます。
 ええ、そうです。あのお方は、内制者(内なる導き手)となって、内側から教えてくださいます。


352・わたしは、すべてのものが、あのお方(神)であることを見ています。
 論議する必要がわたしにあるのでしょうか?
 私は、あのお方が、全てであるのを見ます。
 あのお方自身が、あらゆる者になっておられるのです。
 それも神ですし、また、もう一つも神です。
 もう一つの状態では、私の心と知性は{分割なきもの}に融合します。



353・けれどもこのことは、三昧から二段階は降りてこなければ話をすることはできません。


354・ブラフマンが存在すると言われています、そのものによって生き物も世界も存在するのです。
 絶対であるそれが、相対なのです。
 それゆえにラーマヌージャは、ブラフマンは、生き物と世界によって修飾限定されていると言いました。
 それが被限定不二一元論と呼ばれているものです。


355・わたしは、あのお方が、これらの、あらゆるものになっているのを、見ます。
 あのお方(神)そのものが、生き物と、世界になっているのです。
 しかし、意識の目覚めを得ない限りは、神の意識(制約されない精神)を知ることはできません。
 わたしには、その精神によって、あのお方が、全てのものになっているのが見えるのです。
 神の意識を得ることができたら、その人は三昧に入ります。


356・意識の目覚めを得たら、神の意識を知る事ができます。


357・実はブラフマンであるそのお方が、カーリーです
 カーリーは根源力です。
 無活動であるそのときには、ブラフマンと呼ばれるのです。


358・展開、存続、還元をおこなうときには性力(シャクティ)と呼ばれ、カーリーと呼ばれるのです。
 あなたが、ブラフマンというそのお方を、私はカーリーと呼びます。
 ブラフマンとカーリーは不異です。
 ちょうど、火とその燃焼力の様なものです。
 火を思うなら、その燃焼力をも思わねばなりません。
 カーリーを認めるなら、ブラフマンを認めなければなりません。
 ブラフマンを認めるなら、カーリーも認めなければなりません。


359・君が、あのお方を、推理識別している間は真理を得ていないのです。
 真理を得ていないので神を得ることは出来ないのです。



360・御方の蓮華の御足に、純粋なる信仰が持てますように
 清らかなる無私の、その愛をそして、あなたの世界を魅惑する幻影(マーヤー)に惑わされる事のないようにして下さい。


361・ラーマクリシュナは、次第に肉体としての彼をわすれ、外面的となった人間を忘れてしまわれたのである
 そして、本当の人間を見始められたのである。



362・ラーマクリシュナの心は、分割なき絶対の有・智・歓喜に没入されていた。


363・人気のないところで、神を黙想することです。いつも神を熱望して、神の愛のために祈らねばなりません。


364・完全な神智を得たなら、その人は五歳の子供のようになります。
 そのときには、女とか男と言った区別の意識は残っていません。


365・あのお方は有形です、そして無形です
 けれども、神を得ることができない限りは、それら全てを理解することはできません(観念や概念の
 理解とは理解ではないからです)


366・あのお方は、属性を持ち、そしてまた属性を持っておられません。
 神は有形であり、また無形です。


367・あのお方が、どのようなものなのかを口で言うことはできません。誰が言うのですか?
 言うはずのその人が、いないのです。
 その人の「私」(形)を探し出すことはできません。
 そのときには、ブラフマンは属性のないものです。
 そのときには、あのお方は、ただ覚醒した意識によって経験されるだけです。
 心や知性を通じてあのお方を把握することはできません。


368・推理識別が終わって三昧に入ると、私−意識や、その類いのものは、何一つ残りません。
 しかし三昧に入るのは、このうえなく困難なことです。
 「私という意識」が、どうしても離れたがりません。
 そして、それが離れたがらないので、人はこの世に戻ってこなければならないのです。


369・人が、“「私ではない」「私ではない」、私は何ものでもない、おお神よ、あなたが行為者です、
 私は召使いで、あなたは主人です”と言うようになったら、
 そのときには救われるのです。そのときこそ自由になるのです。


370・三昧の達した後でも、ある人には、「私」即ち「召使いの私」、「信者の私」が残ります。
 シャンカラチャリヤは、人々を教え導くために「叡智の私」を残していました。
 「召使いの私」「叡智の私」「信者の私」それが熟した私と呼ばれるものです。
 「未熟な私」とはなんだか知っていますか?
 それは、私は行為者である。私は大物の息子である。学識があり、私は金持ちである。
 「私に対してあのような暴言を吐くとは」、と言ったような態度と感情です。
 そのような未熟の私は、学識に対する思い上がり、富に対する高慢があります。
 そのような「年寄りの私」は、「未熟な私」です。


371・その人が、もし、一度でも神の恩恵を受けて、一度だけでも神を見ることができれば。
 もし一度でも、本当の自分を直接経験したら、もうどのような恐れもその人にはありません。
 自分たちの力は、すべて神の力、父親の力であって、自分のものは何もない。
 それが、彼らの変わることのない確信です。


372・信仰の道によっても、あのお方を得ることができるのです。
 もし神の蓮華の実足に、ひとたび帰依し、あのお方の御名の栄光を賛美することが好きになったら
 それなら、感覚器官を制御しようとする努力をさらに続ける必要はありません。
 欲情の制御は、自然に成就します。


373・(質問:蛾がもし、灯火を見つけることができたら、そのときには蛾は、焼け死んで火の中に飛び
 込むのでしょうか)
 (答え)いいえ違います
 神の信者は、蛾のように焼け死ぬことはありません。
 信者は、その光りを見て飛び込んでいきますが、それは宝石の光りです。
 宝石の光りは、ものすごくひかり輝いていますが、しかし、それは心を静め、和らげるものです。
 その光りで、蛾は死ぬことはありません。
 その光りで、平安を得るとともに、喜びを得ます。


374・推理識別の哲学の道、ジュニャーナヨガの方法によっても、あのお方を得ることができます。
 しかし、その道は非常に困難です。
 「私は肉体ではない、心ではない、知性ではない。私には病気はない、悲しみはない。苦しみはない」
 「私は絶対の有・智・歓喜そのものである。私は快楽も苦痛も超えている。私は感覚器官の影響下にない」
 という、そのことを口で言うのは非常にやさしいことです。
 しかし、実践して、消化するのは、非常に困難です。
 手が、棘で傷ついて、ドクドックと血が滴り落ちているのに「私の手は棘で傷ついていない。私は無事である」
 というのです。
 しかし、そのように言うのは、正しいことではありません。

 まず最初に、その棘を、神の明知の炎で燃やしてしまわなければなりません。


375・ああ、わたしは何という状態を経験したことでしょう。
 もう眠ることは、できなくなってしまいました。
 眠りは、破られた!どうして再び眠れようか
 ヨーガの精神統一によって目覚めているのに
 今度は、ヨーガの眠り(三昧のこと)をあなたから与えられて
 おお母よ、私は三昧の眠りに誘われた


376・おの御方は、個々のものとなっておられますが
 同時に、あのお方は宇宙の全てと一つである
 ということを理解することは非常に難しいことです。
 あの御方は絶対であり、またあのお方そのものが相対です。

377・神が有限の人間であることができ、同時に全てに遍在する霊であることを理解するのは非常に難しい。


378・ラーマクリシュナのいう「カーリー」の意味は通常の意味とは別のものです
 ヴェーダで、至高のブラフマンと言われているものを、あのお方(ラーマクリシュナ)はカーリーと
 言っておられます。
 イスラム教徒がアッラーと呼び、キリスト教徒がゴッドといっている、そのお方を、あのお方はカーリー
 と言っておられるのです。
 あのお方は、数多くの神を、見ておられるのではなくて、一つのものを、見ておられるのです。
 古代のブラフマンの知者たちが、ブラフマンと言っているものを、またヨーガ行者たちはアートマンと
 言っているものを
 信者たちが神と呼んでいるものを、大覚者(ラーマクリシュナ)は、そのお方をカーリーといって
 おられるのです。


379・もし、その人に、識別と女と金の放棄がないなら、単なる学識がなんになりますか?
 神の蓮華の御足を、思念すると、私は一つの心境になります。
 そのときには、来ている衣服が脱げ落ち、シュロシュロと、何かが足から頭まで昇るのです。
 そのときには、あらゆるものが、藻屑に過ぎないという意識になります。
 もし学者に、真実と非真実との識別がなく、神への愛がないのを見たら、その学者は一遍
 の藻屑の様に思えるのです。



380・私(ラーマクリシュナ)が十一歳の時、自分の内側に、もう一人の人物を見るようになりました。
 祀神を礼拝していましたが、そのときしばしば、手が祀神の方に行かないで
 自分の頭の上に持って来て、私自身の頭の上に花を供えてしまうのです。


381・(ラーマクリシュナ)
 わたしはといえば、馬鹿者です。私は何も知りません。
 では、このような話は全て誰が、言っているのでしょうか?
 私は、母なる神に「私は機械で、あなたは操縦者、私は家の建物であなたは住人です」
 私は、馬車で、あなたは御者です。あなたが行わせるように行い
 あなたが言わせるように話し、
 あなたが動かすように動きます
 私ではない、私ではない、あなたです
 栄光は、あなたのものです
 私は、単なる道具に過ぎません。


382・天竺菩提樹の葉っぱが動くのも、それも神のご意志によるもので
 あの、お方のご意志なしには、一枚の葉も動くことは出来ないのです。


383・人間の「私は行為者である」という自惚れは、「無知」から生じているものなのです。
 神の力によって、人はみな生気があるのです。
 燃えている薪が取り除かれたら、全ては静かになります。
 操られて踊る人形は、実演者の手の中で実によく踊りますが
 その手の中から落ちてしまうと、もう動くことも起き上がることもありません。
 神を見ない間、 
 哲学者の石に触れない間は
 私は行為者であるという間違った態度は残ります。
 私は良い行為をしている、良くない行為をしているという
 そのような差異の意識、その区別の意識はあのお方の虚構そのものです。
 それは、あのお方の、幻影の世界を、運営するために用意されたものです。
 明知の幻影に庇護を求めて、真理の道をたどるなら
 あのお方を、得ることができます。
 その人は、幻影の彼方に超えて行くことができます。
 その人に、あのお方だけが唯一の行為者で、そして、わたしは非行為者であるという
 そのような信念があるなら
 その人は生前解脱者です。


384・どうか、あなたの蓮華の御足に、純粋な信仰をもてますように。
 そして、あなたの世界を幻惑する幻影に、私が惑わされる事のないようにしてください。
 あたかも、神だけをみたくて、富も名声も、肉体の快楽も、他のものは何もほしくはないようにです
 それが純粋な愛、というものです。



385・ラーマクリシュナは、深い(変性意識状態などではない)三昧に没入された
 不動、無言で、石に刻まれた像のように座って、外界の意識はなく、思考機能も、知性も、
 自我意識も、心も全てが内に向いていた。
 もうそれまでの人間ではなかった。



386・いいですか、明知と無知を超越しなさい。
 そうすれば、あのお方を知ることができます。
 多くの知識は、無知と言われるものです
 学者の、学識の誇りも、無知です。
 神ひとつが、全ての生き物の中におられるという
 その不動の智慧が、明知と言われるものです。
 あのお方を、直接親しく知るのが大明知(神についての完全智)といわれるものです。


387・弟よ!(ラーマクリシュナは明知の在る人を弟分であると表現している)
 明知のある人には、無知もあるのです。
 一つのものの知識を持っている人は、必ず多くの知識を持っています。
 光りの知識のある人には、また闇の知覚もあります。
 ブラフマンは、明知=無知の彼方、善(徳)−悪(罪)の彼方、正義(法)−不正義(不法)の彼方
 浄−不浄の彼方です。


388・「解脱するのはいつなのか、それは「私」が全くなくなったとき」という話があります。
 「私が」「私のもの」、その二つが無知です。
 「あなたが」と「あなたのもの」(この場合のあなたとは神の事です)、その二つが明知です。
  本当の信仰者は、「おお神よ、あなたこそ行為者です。」
 「あなたが全てを行っておられるのです。」
 「わたしは、単なる機械(道具)です。」
 「あなたが私に行わせるように私は行います」といいます。
 「そして、それらは全てあなたの財宝、あなたの光輝、あなたの中です
  それは、あなたの家、あなたの身内であって、私のものは、何もありません。私は召使いです
  あなたが、命じられるとおりに、そのように仕えるのが、私に相応しい行為です」



389・この世のある人は「神には、不平等という落ち度がある」といいます。
 なぜなら、あのお方は、ある人を幸福にして、ある人を不幸にしておられる、と
 その言うものたちは、自分の中に有るものを、そっくりそのまま、神の中にも見ているのです。


390・五つの粗大な元素からなっている身体、それが粗大な身体です。
 思考機能、知性、自我意識、そして、心それらからなっているのが微細な身体です。
 その身体によって、神の至福を得るとともに、神と合体するのです。それが原因としての身体です。
 そして
 すべての身体を、超越しているのが「大原因(第四位、無知に制約されない精神)」で、それは口で
 は言えません。


391・それゆえ、わたしはあなたに少し修行をしなさいと言うのです。
 そのときには、粗大、微細、原因、大原因とは誰のことを言うのか、全てを理解できるでしょう。
 神に、祈るときは、あのお方の蓮華の御足への愛だけを祈りなさい。


392・正義をもつなら、不正義も認めなければなりません。
 徳を持つなら、罪も認めなければなりません。
 智慧(明知)を持つなら、無知も認めなければなりません。
 清浄をもつなら、不浄も認めなければなりません。
 たとえば、光りの知覚があれば、また闇の知覚もあります。
 その人に、一つの意識があれば、彼にはおおくの意識もあります。
 その人に、善の意識が有れば、その人に悪の意識もあります。


393・弟子を造るのに奔走しているような人たちは程度の低い連中です。
 そして超自然、すなわちいろいろな霊力、神通力をほしがる人たちもまた程度が低いのです。
 たとえば、ガンジス川を歩いて渡るのも、それも超能力です。
 他の国の人が、何を言っているのかを言い当てることができるのも、それも超能力です。
 そのようなものを、ほしがる連中が、神への愛を持つのは非常に難しいことです。






inserted by FC2 system