「汝自身を知れ」

自分とは誰か?

私は誰か?と尋ねているのは誰か?                 

私を知ること・・これが私の人生です。


シャンカラは「私」に関して次のように言います。

「貪欲と嫌悪という欠点の原因は無明であり、言語活動・

心的活動・身体活動の原因は貪欲と嫌悪という欠点である。

これらの活動から望ましい果報をもたらす業、望ましくない

果報をもたらす業などが蓄積される・・

私は見を本性とし、何ものとも結合せず、変化することなく不動であり、不滅であり

恐れを持たず、きわめて微細である。

私をその対象として、私に触れることは出来ない。なぜなら私は結合しないから。」

「日中の意識状態と夢眠状態とを特徴とする輪廻の原因、それが無明である。その無明を取り除くのが明智

である」、・・とさらにシャンカラは続けて言います。

「外界の対象とはすべて身体の形を取り、またそれを知覚する耳などの感覚器官の形を取り、二つの内容

(苦と楽のような)とその対象の形を取る。なぜならそれは、あらゆる活動の場合に、相互に結合し

複合しているからである。私はその対象ではないからである」と


このようなシャンカラやラーマクリシュナの不二一元の印度哲学を学ぶにつれて

果たして、私とは、それらの「思考」や「観念の私」、「記憶である個人」や「個別の肉体」や「個別の諸身体

の私」であるのだろうか?と思い始めました。


もちろん、肉体や精妙体や思考や感情は究極の素晴らしいものです。

それらは同じように創造されたものであり、そして、これらの肉体の五感や記憶も、脳も全く同じように

素晴らしいものであり、究極の叡智で創造されたものです。

そして全人類とは同じ仕組みから、同じように「私という観念」の記憶であり個人と信じ込んでいる

ものであるものです。

それらの記憶の私とは、この肉体や諸身体と同じように、又万物と同じく、全人類を同一の根源が

全く同じように創造して、それを通じて自らを表現され、行為されているものであり、

全人類のみならず、すべての有情、無情のそれは、根源によって創造されたものであり、根源が、それぞれ

の意識ある個体を通じて”個別のわたし”として生きているものです。

そしてそれらはスクリーンである魂の私によって認識されてるものである

と想いはじめました。



同じ根源から、真の私として、それは、全てがひとつである認識の純粋主体としての私が実在しています

その真の私とは創造されたものではなく、創造するもの自身の分光であると言われています。

その一つが純粋理性として肉体に降下しました。

そして、その純粋理性が、それらの諸身体であり、その「観念の私」、「思考である私」、「個人であり」、「自分

が行為していると信じ込んで、行為している私」に、この肉体に、諸体の私に、

統覚機能として、観照者として、ここ脳の中で出会ったのです、と。



そしてこの統覚機能が、この肉体の私、観念の私、「行為していると思って行為している私」を自分だと間違

ってしまったのです。・・

「この行為している私」とは認識主体でも、経験主体でも、知覚主体でもないのに、脳と結合した意識は、

その「観念の私」等を見て、その行為している私のことを、私であり、自分だと信じ込んだのだと。

さらに、「純粋理性からの自分」がそれに対して、今度はさらに第二次的に行為しているのである、と。


それらを、対象として知覚しているなかで(目が自身の内奥を見ず、外側を見てしまったので)

それらを対象として知覚している意識の私が認識主体で、経験主体で、知覚主体だと、魂の一部が錯覚したのです。

統覚機能とは確かに、知覚主体ではあるけれども、その認識と知覚を成り立たせているのは

本当の意識であるところのさらなる純粋な認識主体が支えているのだと言われています。


すなわち本当の認識主体とは純粋なる意識そのものである「唯一なる私」であると言われているのです。


ですので統覚機能は、自分とは本来は思考ではなくて意識であるのに、(自身の内奥の非二元の純粋意識である

にも関わらず)行為している肉体の私を「私」であると信じ込んで、その「観念の私」を自分であり、

統覚機能の私が行為しているのだと錯覚したのです

統覚機能の自分が、自分は「思考」だと、自分は「心」だと思い込んでしまったのです。それに巻き込まれた統覚

機能の私が行為に関与し始めたのです。・・・・と、そのように不二一元論・アドヴァイタの聖賢方は言われます。


行為とは、根源こそが「私が行為していると信じ込んで行為している私」を通じて行為しているのだと。

私達、自我は私と言う観念のように見えますが、真の私から観れば、全ては一つなる至高の実在なのです。

「私と言う観念」は自分は自我で真我は別にあると考えますが、真我は自我さえも神の演技と見ているのです


ですから、この「現在の私という観念の自分」とは創造され、創造者がその私自身として生きている人格

であり、「自分は個人で、自分が行為していると思って行為している私」です。

そして、それに対して、

本来ならば、純粋理性の私とは、この「自分が行為していると信じて行為している分離した私」

を対象としてではなく、非分離の眼で、愛の中で観照している私であるはずです。

それにもかかわらず、

鏡である純粋理性、鏡である私は、鏡に映っている想念・「私という観念」「世界」を対象として見てしまい、自分

自身で起こしている事を忘れたのです。

アドヴァイタの先達が言うように対象とは鏡を通じて根源から投影されているものではないでしょうか?


これは鏡である心が、鏡に映っている映像(思考・観念)を見て

「それらの想念・思考は対象であって自分ではないのだと、自分は映像ではなくスクリーンだ」と思っている

状態であり、正しくありません。


実はこの映像を映している鏡も、鏡に映っている私という分離している私も、思考や想念も

すなわち大空の青空も、大空の青空に浮かぶ雲も全く一つなるものの顕れのように

非顕現の私が顕しているのであると、不二一元哲学ではいわれております。

真実とは主体も客体も本来一つであり、分離していないのではなのではないでしょうか?



けれども実際には、「私という観念」である思考を正しく見るには、曇りのない鏡のような意識が必要です。

思考が思考をではなく、その一点の曇りものない鏡の意識が思考を見ることが出来るからです。

なぜなら「本当の私」とは思考ではなくて、見るものと見られるもの分離のない純粋な意識だからだと。

意識が意識であるとき、思考は思考としてはっきりと見る事が出来ると言われています。

けれどもその前段階として

透明になった心が思考を対象としてではなく、分離していない主体である私自身と・し・て・、ただただ注視して

いるその沈黙の中に、本来の曇りのない意識が出現するのだと。


心による無限遠点の視座の中に、はじめからその思考を支えていた意識が浮かび上がってくるのだと。


思考を観察しているものは思考であり、観察されている思考は観察している思考であると正しく見ている

その「ただただ判断なく、思考なく“見ている”」状態の中に、変容が起こり、純粋意識が顕れて来るのだと。

クリシュナムルティーは不可能なことを人類に対して語ったのではなく、可能なことを語ったのです。



私たちが真心を持って、純粋に、静かになって、幾重にも重なっている内面の奥へと進み入り

思考・自我を思考・自我として、ただただ、判断なく、非難なく、分離なき愛を持って見る事の中に奇跡が

生じ、はじめから、既にあった意識が顕れてくるのだと、クリシュナムルティーは話したのです。

観察者は観察されるものであり、「見るものは見られるものである」ことを直覚したとき、真実の意識が

出現するのですと。



そのためには思考から始めるのではなく意識から始めなければならないのです。

スタート地点は終着点であり、その頂上から、若しくは基底から始めることこそが肝要なのです。

「思考という私たち」が、私たちである思考の基底である意識と繋がるとき

分離していない一つの私の中にすべての私が「梵我一如」として在ると云われます。

この「正しく見ること」を通じて、私たちは意識であり、思考とは私ではなかったことが正見されるといわれます。

そのためには対象として見るのではなく、対象の中に深く浸透し、対象を愛し、対象と分離せず、対象と一つなり

澄み渡った静寂の中で沈黙して、ただただ見ているとき

そこに本来の私が顕現しているといわれます。




現在、わたしはクラシックバレエで後進の指導にあたっています。

多忙な毎日の中、バレエの根本奥義は茶道や書道や柔道や能とも密接なる関係を

持っているということ

即ち、世阿弥の「風姿花伝書」 の研究を勧めていくうちに、禅の奥義とクラシックバレエ

の真髄とは同じであることを発見し、改めて本格的にこの観点から見たバレエと能と禅

の相互関係に驚き、その後、更なる探求の結果

身体の中心軸である丹田の最奥の中心は心の中枢とも繋がっていることを再確認しました。

西洋舞踊であるクラシックバレエと日本に古来から伝わる禅や能の奥義は同じであるとの

確信に到りました。すべての芸術は洋の東西を問わず同じ根源からきていて、人生を豊かに

するものだったのです。

以降、バレエの真髄の探求と、禅の源流である印度古来の不二一元の哲学の神髄の探求

とは同一線上にあるとの結論から、より深く広範囲に慎重に熟考を重ねてきました。

「踊る」事を通じて「踊るとは何か?」「私とは誰か?」のその本当の私を表現することこそが

バレエの役割なのです。

これが私のライフワークなのです。

このライフワークへの取り組みからこのホームページは生まれており

少しでも「如何に生きるべきか?」「本当に生きるとは何か?」「それは願っている私とは誰か?」

を真剣に探求している学究の徒の方々とそしてバレエを深く学ぶ皆さんに役に立ってもらえれば、

これに勝る喜びはありません。






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