自己想起


今日は自己観察の次のステップである自己想起について考えてみました。


グルジェフは自己観察とそして同時に自己想起を教えていたが

自己想起とは何であろうか?


そのまえに自己観察ということを考えてみたい。


自己観察とは読んで字の如く自己(他己)を非難や判断なく愛し観察することだと思う。


例えば
  
●倒産しそうになり、資金繰りに苦しみ、夜も眠れないで悩んでいる私、超能力者や

神仏に頼んでなんとかしてもらおうと躍起になっている私を、ただただ愛し観察すること。

●癌に罹かってしまい、今後の将来のこと、残してしまう妻や子供のことを考えて

不安で不安で呻吟懊悩してる私をただただ愛し観察すること。

●夫がいるのに別の男性が好きになってしまい、自分の欲望に気づき今後どうし

ようかと悩んでいる私をただただ愛し観察すること。

●やくざに取り囲まれナイフで脅され、もうどうして良いのか分からないで取り乱し

パニックになっている私をただただ愛し観察すること。

●突然襲ってきた災害に巻き込まれ、大きな岩に挟まれ押しつぶされ、誰もいない

なか一人で血を流し、最悪の絶望の中に死んでいく私をただただ愛し観察すること。

●欲望にかき乱され、正しく生きようとしているのに自分のあるがままの現実を突きつ

けられ自分を何とかしようと瞑想したりワークしている私をただただ愛し観察すること。

●人と話しているときに、その話とは別に、自分の心の中でぶつぶつと「こいつは嫌な

奴だが大事な相手なので仕方ないや」等と話している自分のことを排斥したり、非難したり、

自己判断したりしている私をただただ愛し観察すること。

●こんなに修行しているのに、いきなりきた若造が悟ってしまい、なんで私には覚醒

がないのかと絶望する私をただただ愛し観察すること。

●夜中に突然いきなりやってくる恐怖心や、嫉妬心や競争心や暴力心に翻弄されて

いる私をただただ愛し観察すること


・・・などなど  日常の現実の私のあるがままの姿をそのまま批判しないでただ

ひたすらに愛し、愛を以て私(他己)を包み、観察すること。・・・それが自己観察であろうか。



自己観察とは自己・自我から離れて行くことである。それは自他を愛すると云うことであり、

執着から遠離することであり、それは仏陀の言う正しい行い(八正道)なのである。


自分という自己をあたかも映画の中の主人公を見ているような感じで私やその反応を観察

する事が「自己観察」であり・・それは現在の私自身を受容し、愛し、分離しないことであろう。

これが思考に対する心の働きである。(心とは自他に同じ一つであり、分離していないが無明に

より自他は異なっているという錯覚に染まっている)




では自己想起とは何か?



自己想起とは、その自己観察をしている私を観ることである。心を観ることである。

観察者を観照することであり、観察者は観察されるものであることを観る事である。

心が内部と外部、私やあなたという区別や分離という錯覚に陥っていて、行為している

とおもっている私なのだ。

自己想起とはそれら心という現在意識や潜在意識の意識作用ではなくて、この自己意識

にとっては未知なる閃きであり、聖霊の直覚とも言うべき観照者の普遍意識のことだろう。

その観照者の自己想起の意識は違った表現をすれば心ではなくて本当の意味での「意識」

なのだ。



自己観察は意識の表面に現れている自己自我をただただ非難せず同一化もせず愛を以て

一緒にいてあげて抱きしめる事であるけれど、自己想起とはその抱きしめている観察者を

「観る」ことであるとおもう。


これは正直言って私はやったことがない。何故なら自己想起はやることやすることではなくて

起こる事だからだ。為す、行うとは心が思っている独自の実感=錯覚であり、私という錯覚が

ある限りそこに未発達の心が残っている。そしてその心は「私が行為している」と錯覚している。


それは自己観察している自己を思考や心なくして観ることなので、自己観察を充分に訓練していない

限りは無理であるからだとおもわれる。小学1年生に大学生の問題を解けというようなものである。

けれども私達である心は自らが、自らの源泉であるその未知なる聖霊にたいして絶対の帰依と

信頼すること「思いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くして汝の内なる神を思い求めよ」がそのワークであり

それが自己想起を試行することなのであろう。啐啄同時ということでしょう。


思考を見ているのが心であり、その心が自己観察をしている主体である。・・これは自己想起からの言葉だ。


その心を観ているのは、意識(世間一般の意味での意識ではなく超意識のこと)であり、その意識とは

心ではなくて未知なる観照者、即ち松果体に位置し無限に拡がっているといわれる魂のことであろうか。


グルジェフのいう自己想起、Kのいう「見る」とは自己を観察している観察者を観照することであり

それは「思考を見ている『心』」を観ることであろう、そしてその観ているものは心という私ではなく

自己自我である心を観照している意識であり、観照者と言われる普遍的で神聖なる霊魂であることだろう。


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