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ヴィヴェーカナンダの言葉
                (日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
                  「不死」より一部転載させてもらいました)

bS不死

 人間の魂の不死、このことへの問いかけ以上にたび
たび出された問いがあるでしょうか。これ以上に執念
ぶかく解答をもとめて、人びとが宇宙間をさがしま
わった観念があるでしょうか。このこと以上に、人の
ハートに近かく、したしい問いかけがあるでしょうか。
これ以上に、われわれの存在にはなれがたくむすびつ
いている問題があるでしょうか。それは詩人たちや賢
者たちの、聖職者たちや予言者たちのテーマでした。
玉座にすわる王たちはそれを論じ、街頭の乞食たちは
それをゆめ見ました。人類の最善の人びとはそれに近
づき、最悪の人びとはそれを期待しました。このテー
マに対する興味はまだ、きえたわけではありません。
また人間の性質がここにあるかぎり、きえることはな
いでしょう。さまざまの答えが、さまざまの心によっ
て世に提出されました。また幾千人が、歴史のあらゆ
る時期に、論議をあきらめました。それでも問いかけ
はなお、新鮮な形でつづいています。しばしば、人生
の混乱と奮闘の中で、われわれはそれをわすれたかの
ように見えます。しかし、突然誰かが死にます−た
ぶん、われわれが愛していた人、自分のハートにごく
近くしたしかった人がうばい去られます−するとわ
れわれの周囲の世界の奮闘、さわざ、および混乱は一
瞬やみ、魂は、「このあとには何があるのか。魂はど
うなるのか」という、古い問いをといかけるのです。
 人間のすべての知識は経験から生まれます。経験し
なければ、われわれは何ひとつ、知ることはできませ
ん。われわれのすべての推理は普遍化された経験にも
とづいており、われわれのすべての知識は、調和させ
られた経験にはかなりません。周囲を見まわすと、わ
れわれは何を見いだしますか。連続している変化です。
植物は種子から生まれ、樹木に成長し、周期をおえて、
種子にもどります。動物は生まれ、ある期間生き、死
んで周期をおわります。人もそうです。山々はゆっく
りと、しかし確実にくずれ去り、河はゆっくりと、し
かし確実にかわき切り、雨は海から生じて海にもどり
ます。いたるところで、数学的な正確さをもって、誕
生、成長、発展および衰退がつぎつぎにおこり、周期
を完成させているのです。これは、われわれの毎日の
経験です。そのすべての内部に、最低の原子から最高
の霊的人間にいたる、われわれが生命と呼ぶものの幾
百万の形の、幾百万に幾百万が加わる多様性のこの広
大な集団の背後に、ある単一性があるのを、われわれ
は見いだします。毎日、われわれは、一のものを別
のものからわけていると見えていたかべがこわされつ
つあり、すべてのものが現代科学によって、さまざま
の方法でさまざまの形にあらわれている一の実質と
見られるようになりつつある、ということを見いだし
ます。一連のくさりのように、一つ一つの環にあたる
さまざまの形の中を通る、一つの生命です。環に環が
つづき、ほとんど無限にのびているのですが、しかし
同一のくさりなのです。これが、進化evolution(展開)
とよばれているものです。それは古い古い、人間社会
とおなじように古い観念です。ただ人類の知識が進歩
するにつれて、新しくなりつつあるのです。
 ここに、古代人はみとめていたが現代にはまだそれ
ほどはっきりとはみとめられていないもうひとつのこ
とがあります。それは内含involution(退化、衰退)
です。種子は植物になろうとしています。砂つぶは決
して植物にはなりません。子供になるのは父親です。
土のかたまりは決して、子供にはなりません。この進
化は何からくるのか、というのが問題です。種子は何
だったのですか。それは樹木とおなじものなのでした。
将来の樹木の、すべての可能性はその種子の中にある
のです。将来の一人の人間のすべての可能性は、その
小さな赤ん坊の中にあります。どんな将来の生命の可
能性も、すべてその胚種の中にあるのです。これは何
ですか。古代インドの哲学者たちは、それを内含とよ
びました。われわれはそこで、あらゆる進化は内含(退
化)を前提とする、ということを知ります。そこにす
でにあるものでなければ、進化してあらわれるはずは
ないのです。ここでまた、現代の科学がわれわれの助
けとしてやってきます。みなさんは数学的推理によっ
て、宇宙間にあらわれているエネルギーの総量は終始
おなじである、ということをごぞんじでしょう。物質
の一原子も、力の一フートポンドもそこからとり去る
ことはできません。物質の一原子も、力の一フートポ
ンドも宇宙にくわえることはできません。そういうわ
けで、進化はゼロからでてくるものではないのです。
ではそれはどこからくるのか。それはその前の退化(内
含)からくるのです。子供は内包されている大人であ
り、大人は進化した子供です。種子は内含されている
樹木であり、樹木は進化した種子です。生命のすべて
の可能性は、胚種の中にあるのです。問題はすこしはっ
きりとしてきます。それに、最初の、生命の継続の観
念をくわえてごらんなさい。最低の原形質からもっと
も完全な人間にいたるまで、そこには実は、ただ一つ
の生命があるだけです。一つの人生において、原形質
が赤ん坊に、子供に、若者に、老人にと展開してさま
ざまの面をあらわすように、原形質からもっとも完全
な人間になるまで、われわれは一つの連続した生命、
一本のくさりを持っているのです。これが進化です。
しかしわれわれは、おのおのの進化は退化を前提とし
ている、ということを見ました。みずからをゆっくり
とあらわして行くこの生命の全体は、原形質から完成
された人間、この世における神の化身にいたるまでの
それみずからを、展開しつつあるのです−−この連続
の全体はたった一つの生命であり、このあらわれの全
体は、まさにあの原形質の中にふくまれていたにちが
いありません。この全生命、このまざれもない地上の
神はそれの中にふくまれていて、少しずつ少しずつ、
みずからをあらわしつつ、ゆっくりとすがたをあらわ
したのです。この最高のすがたは、微小な形であの胚
種の中にあったにちがいありません。それゆえ、この
一つの力、このくさりの全部は、いたるところにある
あの宇宙生命の内包です。それは、原形質からもっと
も完成された人にいたるまで、少しずつ少しずつみず
からを展開しつつある、この一つの知性のかたまりで
す。それは、成長するものではありません。成長とい
う観念はみなさんの心からとり去って下さい。それは
何かが−すべての生命に潜在する無限者は外界の条
件からは独立している、という真理をいつわるような
外部の何ものかが−Iそとからはいってくる、という
考えにつながっています。それは、決して成長はしな
いのです。それは、つねにそこにありました。そして
それみずからをあらわすだけなのです。

 結果はあらわれた原因です。原因と結果との間には、
本質的なちがいはありません。たとえば、このコップ
をごらんなさい。材料がありました。それに製造者の
意志がくわわって、コップができたのです。これら二
つがそれの原因であって、それの中に存在しています。
どのような形で、意志はそこにあるのですか。固着力
としてです。もしその力がそこになかったなら、各粒
子はばらばらになってしまうでしょう。では結果は何
ですか。それは原因とおなじもの、ただちがった形、
ちがった構成をしているだけです。原因が変化して一
時限定されると、それが結果になるのです。われわれ
はこれをおぼえておかなければなりません。それをわ
れわれの生命の概念にあてはめると、原形質からもっ
とも完成された人間にいたる、このあらわれの一つづ
きは、宇宙生命とまさにおなじものであるにちがいあ
りません。まず、それは内包され、より精妙になりま
した。そして、原因であるその精妙なあるものから、
みずからをあらわしつつ、より粗大になりつつ、展開
しつづけてきたのです。

 しかし、不死の問題はまだ片づいてはいません。わ
れわれは、この宇宙間の一切物は不壊である、破壊さ
れることはない、ということを見てきました。何ひと
つ、新しいものはありません。何ひとつ新しいものは
出てこないでしょう。おなじあらわれの連続が、車輪
のようにかわるがわる来ては行き、彼らみずからを表
現しつつあるのです。この宇宙のすべてのうごきは、
つぎつぎにのぼっては下る、波の形をとっています。
精妙な形の中からつぎつぎに、はっきりとした形を
とったものが出てきて、彼らみずからを展開しつつ、
もっと粗大な形をとり、ふたたび、いわばとけて、精
妙な形にもどります。ふたたびそれらはそれからすが
たをあらわし、ある期間展開して、また徐々に原因に
かえります。すべての生命はそうするのです。生命の
おのおののあらわれは、やってきては、それからまた、
もどって行きます。何が行ってしまうのですか。形で
す。形はこなごなにこわれますが、しかしそれはまた
あらわれます。ある意味では、体も形も永遠です。ど
うしてですか。かりに、いくつかのさいころをとって
なげ、六、五、三、四という数が出たとします。おなじ
ことを幾たびもくりかえすうちにはまた、おなじ数が
でてくるときがあるでしょう。おなじくみあわせがで
てくるにちがいありません。いま、この宇宙にある粒
子のおのおの、原子のおのおの、私はそれをさいころ
と見ます。そしてこれらが幾たびもなげられ、いろい
ろにくみあわされるのです。みなさんの前にあるこれ
らすべての形は、一つのくみあわせです。ここにはコッ
プ、テーブル、水さしおよびその他の形があります。

これは一つのくみあわせです。やがては、みなこわれ
るでしょう。しかし、まったくおなじくみあわせが、
ふたたびやってくるときが、あるにちがいありません。
みなさんがここにおられ、この形がここにあり、この
主題がはなされており、この永さしがここにあるので
す。無限の回数、これはありました。そして無限の回
数、これはくりかえされるでしょう。肉体の形も、お
なじことです。われわれは何を見いだしますか。肉体                    の形のくみあわせさえ、永遠にくりかえされる、とい
うことです。

 この理論から当然でてくる非常におもしろい結論
は、このような事実の説明です。みなさんの中にはた
ぶん、他人の過去を言いあて、未来を予言することの
できる人をごらんになった方がおいででしょう。規則
にあてはめられた未来がそこにあるのでなければ、未
来に何がおこるか、知ることなどどうしてできましょ
う。過去の結果が未来にもどってき、われわれはそれ
がそうであることを知るのです。みなさんはシカゴで、
フェリスの輪(軸が固定されて垂直に立つ大きな車輪
のふちにいくつかの箱がぶらさがっており、そこに人
がのれるようになっている。シカゴ万国博のとき、フェ
リスという人がつくって出した)をごらんになったで
しょう。輪はまわり、小さな部屋はつぎつぎにやって
きます。一組の人びとが、それらの中にはいります。
そしてぐるりとまわったら、彼らはおります。そして、
新しい一組の人びとがのります。これらの組のおのお
のは、最低の動物から最高の人間にいたるこれらのあ
らわれの一つのようなものです。自然は、フェリスの
輪のくさりのようなものです。おわりがなく、かぎり
がなく、そしてこれら小さな乗り物は、魂たちの新し
いグループがのっている肉体または形です。彼らは、
しだいしだいに高くのぼってついに完全になり、車か
らおりるのです。しかし輪はまわりつづけます。そし
て肉体がこの輪の中にいる間は、それらはどこに行く
のか、完全に、そして数学的に予言され得ます。しか
し魂については、そうは行きません。こうして、自然
の過去と未来を正確によむことは可能です。われわれ
はそのとき、ある期間をおいておなじ物質的現象がく
りかえされることを、そして永遠を通じておなじくみ
あわせがくりかえしおこっていることを、知るのです。
しかし、それは魂の不死ではありません。どんな力も、
死ぬことはできません。どんな物質も、絶滅させられ
ることは、あり得ません。それはどうなるのですか。
それは、それが出てきたみなもとについにもどるまで、
あとにもどり、前にすすみ、不断に変化しつづけるの
です。一直線のうごきはありません。あらゆるものは
輪をえがいてうごきます。一直線が、無限にでてきて
輪になるのです。もしそうであるなら、どの魂にとっ
ても、永遠の堕落はあり得ません。それはあり得ませ
ん。あらゆるものはひとまわりを完成して、それのみ
なもとにかえってこなければならないのです。みなさ
んや私やこれらの魂たちは何ですか。進化と退化の話
をしたときにわれわれは、みなさんも私もまきこまれ
た宇宙意識、宇宙生命、宇宙心なのであって、われわ
れはこの一周を完了してこの宇宙知性、すなわち神に
かえって行かなければならないのだ、ということを知
りました。この宇宙知性が、人びとが主とか神とかキ
リストとかブッダとかブラフマンとかよび、唯物論者
たちが力と見、不可知論者たちが、あの彼方にある無
限かつ表現不可能な存在、とよんでいるものなのです。
そしてわれわれはみな、それの部分なのです。
 これが第二の考えなのですが、しかしこれはまだ十
分ではありません。なおそこにはうたがいがあるで
しょう。どんな力も破壊されることはない、というの
はたいそう結構です。しかし、われわれが見るすべて
の力と形は、結合です。われわれの前にあるこの形は
いくつかの構成要素の結合であり、われわれが見るあ
らゆる力は同様に、合成物です。もしみなさんが力と
いうものを科学的に見て、それをいくつかの力の総計
すなわち結果とよばれるなら、みなさんの個体性はど
うなりますか。合成物であるものはすべて、おそかれ
はやかれ、それを合成する部分にもどらなければなり
ません。この宇宙間にあるいっさいのものは物質また
は力の結合の結果であり、おそかれはやかれ、それの
もろもろの成分にもどらなければなりません。ある原
因の結果であるものはかならず、死ななければなりま
せん。破壊されなければなりまりせん。それはこわされ
てしまい、分散し、それの構成要素に還元してしまい
ます。魂は力ではありません。それは思いでもありま
せん。それは思いのつくり手ですが、思いそのもので
はありません。それは肉体のつくり手ですが、肉体で
はありません。なぜそうなのですか。われわれは、肉
体は魂ではあり得ない、ということを見ます。なぜで
すか。それには知性がないのですから。死骸に知性は
ありませんし、肉の一片は肉屋の店頭にあるものです。

知性というのは何でしょう。反応する力です。このこ
とをもう少し深く考えてみたいと思います。ここに水
さしがあります。私はそれを見ます。どのようにして
ですか。光線が水さしからきて私の目にはいり、網膜
に絵をつくってその絵が頭脳にはこぼれます。それで
もまだ見えはしません。生理学者が知覚神経と呼ぶも
のが、この印象をうちにはこびます。しかしここまで
では、反応はありません。頭脳の中の神経中枢が、そ
の印象を心にはこびます。すると心が反応します。そ
してこの反応がくると、心の前に水さしがひらめくの
です。もっと平凡な例をあげましょう。みなさんが私
の話を「心にきいていらっしゃるところに一匹の蚊が
きて鼻のあたまにとまり、例の、蚊があたえる心地よ
い感覚をあたえたとします。しかしみなさんは実に熱
心に私の話をきいておられるものですから、まったく
それをお感じにならないのです。何がおこりましたか。
蚊が、みなさんの皮膚のある箇所をさしました。そこ
にはある神経がきています。それらはある感覚を頭脳
にはこびました。印象はそこにあります。しかし心は、
はかのあるものに占領されているので反応しません。
それでみなさんは蚊の存在に気がおつきにならないの
です。新しい印象がきたときに、もし心が反応しなけ
れば、われわれはそれを意識しないでしょう。しかし
反応がくると、われわれは感じます。われわれは見ま
す。われわれはききます。その他さまざまのことをし
ます。この反応と同時に、サーンキヤ哲学者たちが照
明、illminationとよんでいるものがくるのです。われ
われは、肉体は照明することはできない、と知ってい
ます。なぜなら、注意力がはたらかなければ、知覚は
あり得ないのですから。ある条件のもとでは、ある言
葉を、かつて学んだことのない人がそれをはなしてい
るのが見られた、という事例があります。よくしらべ
て見ると、その人はおさないときにその言葉をはなす
人びとの間でくらしていたことがあり、その印象が彼
の頭脳にきざまれていたのだ、ということがわかりま
した。これらの印象は、何かの原因で心が反応し、照
明がやってきて、その人がこの言葉をはなすようにな
るまで、そこにたくわえられていたのでした。このこ
とは、心だけでは十分ではない、心そのものが何者か
の手中の道具なのだ、ということを示しています。そ
の少年の場合、心はその言葉をうちに持っていました。
それでも彼はそれを知らなかったのです。しかしやが
て、彼がそれを知るときがきました。それは、心のほ
かに何者かがいる、ということを示しています。少年
が赤ん坊であったときには、その何者かはその力をつ
かいませんでした。しかし少年が成長したとき、彼は
それを利用し、それをはなしたのです。第一に、ここ
に肉体があり、第二に心すなわち思いの道具、そして
第三に、この心の背後に人の自己があります。サンス
クリットの言葉はアートマンです。現代の哲学者たち
は思いを頭脳の中の分子の変化と見ていますから、こ
のような事例をどう説明してよいのか知りません。そ
れで通常、それを否定しています。心は、肉体がかわ
るたびに死ぬ頭脳と密接につながっています。自己は
照明者であり、心はそれの手中の道具です。そしてそ
の道具によって、それは外部の道具を支配し、こうし
て、知覚は得られるのです。外部の道具が印象をとら
え、それらを感覚器官におくります。みなさんはつね
に、目や耳は受ける器にすぎず、はたらくのは内部器
官、頭脳の中枢である、ということをおぼえていらっ
しゃらなければなりません。サンスクリットでは、こ
れらの中枢はインドリヤとよばれており、それらが感
覚を心におくります。心はさらに、サンスクリットで
チッタとよばれている、心の別の状態におくりかえし、
そこでそれらは意志にくみたてられます。そしてこれ
らすべては、うちなる王たちの王、王座にすねる支配
者、人の自己に提出されるのです。彼は見て、彼の命
令をあたえます。すると心はただちに器官に、器官は
外部の肉体の器官に働きかけるのです。これらすべて
の真の認識者、其の支配者、統治者、創造者、操縦者
は、人の自己です。


 われわれはここで、人の自己は肉体ではなく、それ
は思いでもない、ということを知ります。それは、合
成体ではあり得ません。なぜですか。なぜなら、合成
されたものは、見ることができ、想像することができ
ます。われわれが想像することも知覚することもでき
ないもの、われわれがまとめることのできないものは
力でも物質でもなく、原因でも結果でもなく、合成さ
れたものではあり得ません。合成されたものの領域は、
われわれの心の宇宙、われわれの思いの宇宙のひろが
りの範囲内にかぎられています。これをこえたら、そ
れは通用しません。それは法則が支配する範囲内にあ
り、もし法則をこえる何かがあるなら、それは合成体
ではあり得ません。人の自己は、因果の法則をこえて
いますから、合成体ではありません。それはつねに自
由で、法則のもとにあるすべてのものの支配者です。
それは決して死なないでしょう。なぜなら死は構成部
分にもどるということなのですから。合成体でなかっ
たものが死ぬことなどは、決してあり得ません。それ
が死ぬなどというのは、まったくのナンセンスです。

 われわれはいま、精妙な、より精妙な分野をあゆみ
つつあり、したがってみなさんの中のある人びとは、
おそらく恐怖なさることでしょう。われわれは、この
自己は物質と力と思いの小さな宇宙をこえたものであ
るから、単体である、ということを知りました。そし
て単体ですから、それは死ぬことはできません。死な
ないものは、生きることはできません。なぜなら、死
と生は一枚のコインのうらおもてなのですから。生は
死のもうひとつの名前、そして死は生のもうひとつの
名前です。あらわれの、あるひとつの様式がわれわれ
が生と呼ぶものであり、おなじもののあらわれのもう
ひとつの様式が、死と呼ぶものなのです。波がしらが
高くのぼったときが生、ふかくくぼんだときが死です。
もし何ものかが死をこえているなら、われわれは当然、
それは生をもこえているにちがいない、と見ます。人
の魂は、存在する宇宙エネルギー、すなわち神の一部
である、という最初の結論を、みなさんに思い出して
いただかなければなりません。われわれはいま、それ
は生と死をこえたものである、ということを知るので
す。みなさんは決して生まれたことはありません。ま
たみなさんは決して死ぬことはないでしょう。われわ
れが自分の周囲に見るこの誕生と死は何ですか。これ
は肉体だけのものです。魂は遍在のものなのですから。
「どうしてそんなことがあり得よう。こんなに大勢の
人びとがここにすわっている、それなのに、魂は遍在
であるなどと言うとは」と、みなさんはおたずねにな
るでしょう。私はおたずねします、法則をこえたもの
を、因果の法則をこえたものを限定するものがどこに
ありますか。このコップは限定されています。それは
遍在ではありません。とりまく物質がその形をとるよ
う、強制しているのですから、ひろがることをゆるさ
ないのですから。それは、周囲のいっさいのものによっ
て条件づけられ、したがって限定されています。しか
し法則をこえたもの、それに影響をあたえる何ものも
ないところ、どうしてそれが、限定をうけることなど
あり得ましょう。それは遍在でなければなりません。
みなさんは宇宙間いたるところにおられるのです。私
は生まれる、そして私は死のうとしている、というよ
うなことすべては、では何ですか。それは無知のおしゃ
べり、頭脳の幻覚です。みなさんは生まれたこともな
ければ、死にもしないでしょう。誕生もなければ、転
生もなく、生命もなく、化身もなく、何もありません。
きたり行ったりとはどういうことなのでしょう! す
べてあさはかな、ナンセンスです。みなさんはいたる
ところにいらっしゃるのです。ではこのきたり行った
りとは、何ですか。それは、みなさんが心とよんでお
られる精妙な体の、変化から生じる幻覚です。それが、
見えているのです。
一片の雲が大空をすぎて行く。そ
れはうごくにつれて、空がうごいている、という幻想
をおこさせるでしょう。ときには、月の前をすぎる雲
を見て、みなさんは月がうごいている、と思います。
列車で走っているときには、地面がとんで行くように
思われるでしょうし、舟で行くときには、水がうごい
ている、とお思いになるでしょう。実は、みなさんは
行きもしなければ来もしない、生まれもしなければ、
生まれかわろうともしてはおられないのです。みなさ
んは無限、遍在、すべての原因結果をこえ、永遠に自
由であられます。そのような問題は場ちがいのもの、
まったくのナンセンスです。誕生のないところに、ど
うして死ぬということがあり得ましょう。

 論理的な結論に達するためには、われわれはもう一
歩すすまなければなりません。そこで妥協はゆるされ
ません。みなさんは形而上学者なのですから、泣いて
すませるわけには行かないのです。もしわれわれがす
べての法則を超越しているなら、われわれは全知で、
神聖そのものでなければなりません。すべての知識は、
そしてすべての力もきよらかさも、われわれの中にな
ければなりません。ありますとも。みなさんは宇宙の、
全知かつ遍在の生きものなのです。しかも、そのよう
な生きものが、たくさん存在することができますか。
百億もの全知の生きものが存在するということがあり
得ますか。そんなことはあり得ません。では、われわ
れすべてはどうなるのですか。みなさんはたったひと
つなのです。そこにはたったひとつの自己があるので
して、そのひとつの自己がみなさんなのです。この小
さな自然の背後に立つ、われわれが魂と呼ぶものがあ
ります。そこにはたったひとつの生きもの、ひとつの
存在、永遠にきよらかな、遍在の、全知の、不生の、
不死の存在があります。「彼の支配によって空はひろ
がり、彼の支配によって空気はいきづき、彼の支配に
よって太陽は輝き、彼の支配によってすべては生きる。
彼は自然の中の実在、彼はあなたの魂の魂、いや、そ
れ以上に、あなたは彼である、あなたは彼とひとつで
ある」
 二つのあるところにはかならず、恐怖があり、
危険があり、たたかいがあり、あらそいがあります。
すべてがひとつであるとき、誰をにくみましょう、誰
とたたかいましょう。すべてが彼であるのに、みなさ
んは誰とたたかうことができますか。これが、生命の
真の性質を説明します。これが、存在の真の性質を説
明します。これが完成であり、そしてこれが神です。
みなさんが多を見ておられるかぎり、みなさんは幻覚
に支配されていらっしゃるのです。「この多者の世界
の中で、一者を見るもの、このつねに変化する世界の
中で、決してかわらぬ彼を、彼自身の魂の魂として、
彼自身の自己として見る者、彼は自由で会う、彼はめ
ぐまれている、彼は目標に達したのである」ですから、
汝は彼である、汝はこの宇宙の神である、ということ
をお知りなさい“Tat Tvam Asi。(それが汝である)
私は男であるとか女であるとか、病気であるとか健康
であるとか、つよいとかよわいとか、私はにくむとか
愛するとか、すこしばかり力を持っているとか、これ
らすべては幻覚にすぎません。そんなものはすててし
まえ! 何がみなさんをよわくするのですか。何がみ
なさんをおそれさせるのですか。みなさんは宇宙問唯
一の存在なのです。何がみなさんを恐怖させるのです
か。では立ちあがり、自由におなりなさい。この世界
でみなさんをよわくするあらゆる思いと言葉だけが、
存在する唯一の悪なのである、ということをお知りな
さい。人びとをよわくし、おそれさせるものすべてが、
さけるべき唯一の悪です。何がみなさんを、おそれさ
せることなどができますか。たとえ太陽がおちて来、
月がちりとくだけても、世界につぐ世界がほうり出さ
れてほろびても、それがみなさんにとって何でしょう。
岩のように立っていらっしゃい。みなさんは不壊の存
在なのです。みなさんは自己、宇宙の神なのです。おっ
しゃい−「私は絶対の存在、絶対の至福、絶対の知
識、私は彼である」と。そして、おりをやぶるライオ
ンのように、くさりをちぎって永久に自由におなりな
さい。何がみなさんをおそれさせ、何がみなさんをお
さえつけるのですか。無知と妄想だけです。他の何も
のも、みなさんをしばることなどできはしません。み
なさんはきよき一者、永遠に祝福された者なのです。
 おろか者たちはみなさんにむかって、みなさんは罪
びとであると言い、みなさんは片すみにすわって泣き
ます。みなさんは罪びとであるなどと言うのは、おろ
かさであり、悪であり、まぎれもない悪党のしわざで
す! みなさんはすべて、神なのです。みなさんは、
神を見ないで彼を人と呼ぶのですか。ですから、もし
神と見るなら、それに立脚なさい。みなさんの全生活
を、それに立脚して形成なさい。もしある男がみなさ
んののどを切っても、ノーとはおっしゃるな。なぜな
らみなさんがみなさん自身ののどを切っておられるの
ですから。まずしい人をたすけても、少しのプライド
も感じてはなりません。それはみなさんが自分を礼拝
しておられるのであって、高慢の理由とはなりません。
全宇宙がみなさんなのではありませんか。どこに、み
なさんでない人がいますか。みなさんは、この宇宙の
魂なのです。みなさんは太陽であり、月であり、星で
あられます。いたるところで輝いているのはみなさん
です。全宇宙はみなさんです。誰をにくもうと、誰と
たたかおうと、しておられるのですか。汝は彼なり、
ということをお知りなさい。
そして、みなさんの全生
活をそれに応じて形成なさい。これを知ってそれに応
じた生き方をする人は、もう、やみの中をはらばうよ
うなことはしないでしょう。

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