この私は誰か?



この「私とは誰か?」といっているのは誰なのであろうか?

それは自己意識を持つ現在の私であり、夢の中でも私・自己を意識している私のことだ。

この現在の私とは「自分が行為しており」、「自分が知覚認識している」と信じて疑わない。


しかしながら、よくよく観察すれば分かることだが

この現在意識の私とは決してその私のものではなく、心が起こしている思考、

脳の条件反応の結果、それらは起こっている思考であり、その記憶の反応であるもののこと。



思考やマインドが神から生じているのだから、私とは

神によって生じている私、即ち神のものである私だ。

神の演技が私やあなただ。

(※この場合の私という自己意識とは肉体自体ではないことに注意して下さい)




極言すれば、あなたと私という一人一人の私とは、神の演技なのではないか?

肉体は神のものだ。脳は神のものだ。

思考や行為や感情や記憶も神のものだ。

ただ「神の演技である心の私達」が肉体と結合した結果、自分を肉体や行為や思考と

同一視していることが問題の根源ではないだろうか。

「現在の私」とは肉体ではない!肉体に結合した「魂と繋がっている全人間」なのだ。



私達は神のものであり、地球人類の全ての人々は神のものである。

私達というこの私やあなたとは神の演技である。

私達の私とは「私という観念」が私だと思っているものだ。

(※肉体は神のものである、自我も神のものである)


それは肉体や諸霊体とは魂と同様に神のものであるように、

肉体や頭脳を含め、その感情や感覚や思考や記憶を含め

一切は神のものである。私達・私という観念も神のものである。



この一切を神だと思っている私、即ちこのマインドも神のものである。

マインド=私=神の道具なのだ。

そしてこの心が肉体を自分だと錯覚しているのである。


肉体も、そしてその肉体を私だと思っている「心」も神のものである。

さらに、その心を超えている未知である気づきとは神そのものである。



では心臓の鼓動や胸の呼吸を見てみよう、

驚くことに、神が肉体とその心臓や呼吸を脳と同じくあらしめておられるのだ。

私が生かされているのではなくて、ここには神が生きておられる。


何と素晴らしいことだろうか!!

何と美しいことであろうか!!



血液や内臓や神経を含め、これらは私のものではなく私が創ったのでもない、

またそれらは私が動かし、私が管理しているのでもないのだ。

神がここに生き、そしてかくの如くに生かして、あらしめ維持しておられる。

神が御自らが生きておられる。



では内部・内面を見てみよう。

脳や思考は五感や知覚と同じく私達のものではない、

心が私達のものではないように。

心とは私という観念のことであり、その心は神によって引き起こされ

神によって使用されているものであり、神の演技である。

意識そのものが私に因って生じたのではなくて起きているものなのだ。




では私とは誰か?

ここにある「霊・魂・心・体」と言う複合体が私だ

「霊・気づき・心・思考」という私達、そして

この複合体である私達のマインド部分は「私であると言っている私という観念」であるが

その私達である私という観念とは私という観念のものではなく神のものだ。

その私という観念は神のものであり、神が使用し、神が演技しているものである。


私達とは神のものであり。神の演技なのだ

神以外には実は何も存在していないのである。

神以外には何も存在していない。



無限の苦しみや悲しみとは、肉体と同一化している私達である私という観念

の状態であり、その私という観念の姿であり、私達とはその私という観念そのものである。

だが その私という観念は愛の中にあり、それは神の中にある。



・・・と私は思っている。


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