エレブナについて



エレブナでは一般的に共通の意味で通用している言葉でも特殊な意味で使っているので

エレブナを読まれる方は誤解のないよう最初にこの独特の用語の使い方に精通して下さい。

特に「エゴ」「自我」とは通常の用語の意味とは全く逆に使用しており、アドヴァイタ
での“「私という観念」の主体である「統覚機能という個別的霊魂」”が、心と自己
同一化していない状態である「I-I」という肯定的な意味合いで「自我・エゴ」とい
言葉を使用されているので非常に注意を要します。
エレブナでは通常の自我をエゴイスムと表記し、個人を超えている大我を「エゴ・自我」
と表記してます
またエレブナでは現象界のことに関しては非常に詳しく正確な言語を用いて詳細に説明し
ています




エレブナでの「エゴ・自己」という言葉の意味は神の自己すなわち真の主体・真我のことです
魂・統覚機能の内奥の「I AM THAT」です

エレブナの教えを詳しく知りたい方は是非とも 叢文社・エドコム発行のダスカロス「真理の言葉」をお買い
求め下さい


エレブナ・ダスカロス「真理の言葉」より抜粋


用語集  第1章  第2章   第3章 第4章 
 第5章 第6章 第7章  第8章  第9章 
 第10章 第11章  第12章 第13章  第14章
 第15章 第16章 第17章  第18章  第19章 


ダスカロスの 「真理探究のシステム」においては、用語や概念が特定の意味で使われています。訳

者は英語版原著、及び使われているギリシャ語の表現に極力近づけるよう最善を尽くしました。他の

思想体系や修養法で使われている言葉・専門用語との混同を避けるためにも、また本書内容の理解を

深めるためにも、この用語集をご参照下さい。



 なお、原著には用語集が記載されておりません。この用語集は、日本語版刊行にあたり、パナヨツ

タ・セオトキーアテシュリ女史のご了解の下で『光界への門』 (エドコム刊) の用語集を参考として

本書用に編纂し直したもので、ダスカロスの基本用語が含まれています。



●用語1 アチューンメント (Attunement)

 私たちの波動を他の存在や永遠の存在の周波数に合わせること。これにより、対象とするものの本

質を観察、学習することができるレベルのことを言う。アチューンメントは 「一体化」 (アットワン

メント) の前段階である。


●用語2 イエス・キリスト/ジョシュア・イマヌエル (Jesus The Christ Joshua Immanuel)

用語「キリスト・ロゴス」を参照。


●用語3 意志の喜び(will-plesure)

 絶対存在は、天地創造としてご自身をご自身の中に表現している。ギリシャ語で「意志の喜び」

を意味する(エバレスキア)という言葉は、「温かい寛大さと、豊かな源から惜しみ

なく与えることによって生じる喜び」という意味が含まれている。創造性における神の喜び。


●用語4一時的な存在(Existing)

 用語「永遠の存在と一時的な存在」を参照。


●用語5一体化/アットワンメント(At・One・ment)

 自己超意識のレベルに到達し、永遠の存在である人間が他の永遠の存在や一時的な存在と完全に一

つに融合することをいう。そして、「自己意識-エゴ」を捨てることなく、絶対存在と一体化するこ

とを「テオーシス」という。


●用語6 イデア/神聖なるイデア(Ideas Divine)

 用語「原因七イデア」および、「形態と原型」を参照



●用語7 内なる自己 (Inner Self)

 「永遠のパーソナリティー」として投影されている「自己認識-魂」を示している言葉


●用語8 宇宙意識/宇宙の記憶(Cosmicc consciousness  Memory)

 全宇宙の過去から現在に至るあらゆる出来事は、「宇宙意識」の中に記録・保存されている。「宇宙

意識」 は、永遠の今にいつも生きているエレメンタルによって構成されている。この 「宇宙意識」の

中に、〝アカシック・レコード″と呼ばれる「宇宙の記憶」 が含まれるが、これはすべての人間の印象、

行動、思考、感情、要望が記録された 「天のアーカイブ」 (記録保管所) のようなものである。


●用語9 エーテル (Ethers)

 エーテル・ダブルに取り込まれたエーテル・バイタリティーは、「創造エーテル」、「感覚エーテル」、

「刷り込みエーテル」、「運動エーテル」と呼ばれる、機能が異なる四種類のエーテルに分かれる。「創

造エーテル」 によって、私たちの生命現象が組成され維持されている。「感覚エーテル」は、私たち

に〝感覚″ を与え、「刷り込みエーテル」はエーテル・バイタリティーに形を与え、サイコーノエティ

カル・イメージとして具現化させ、「運動エーテル」は私たちの体の動き、活動を可能にさせている。

これら以外に三種のエーテルがあるが、ここでは明かされていない。


●用語10 エーテル界(Ethereal world)

物質の中には個体よりはるかに純化され精妙な状態で、肉眼で捉えたり感じ取ることが出来ない物

質、エーテルが存在している。これが存在する領域を指す言葉で、広くは物質界のエーテル対応体と

しての領域をいう。恒星(太陽)であっても、惑星であっても、エーテル対応体を備えている。


●用語11エーテル・センター(Etheric Centers)

私たちの三つの体のエーテル・ダブルの各部にあるエネルギー及び、活動のセンターのことで、サ

ンスクリット語では「チャクラ」と呼ばれている。

これらのセンターは、エレメンタルの出入口、そして倉庫としての機能を併せもっている。私たちの

肉体のエーテル・ダブルにあるセンターは〝教会〟と呼ばれ神聖な場所とされ、サイキカル体にある

ものは〝燭台″と呼ばれサイキカル体に光を与え、ノエティカル体にあるものは〝星〟と呼ばれノエ

ティカル体上で輝いている。


●用語12エーテル対応体(Etherlc Counterpart)

人間の三つの体にエーテル・ダブルがあるように、物質界に存在するあらゆる原子、細胞から天体、

すなわち恒星(太陽)や惑星に至るまでエーテル対応体が存在する。


●用語13エーテル・ダブル(Etheric Doubles)

最も単純な単細胞から複雑な生命体まで、存在するすべての形態のある生物は、やや肉体からはみ

出した領域に広がるエーテル・ダブルを持つ。完壁にして不滅のエーテル・ダブルは、三つの体の鋳

型であると同時に、それぞれの健康を維持するために機能している。エーテル・バイタリティーは、

このエーテル・ダブルの中に貯蓄され、体の各所に分配される。エーテル・ダブルは、三つの体のい

ずれかが投影されている限り存在し、肉体が死んだ時に初めて肉体のエーテル・ダブルは溶解される

が、他の二つの体のこれは残る。


●用語14 エーテル(マインド)・バイタリティー(Etheric Vitality Mind Viitalitey)

 私たちの 〝日々の糧″ である 「エーテル・バイタリティー」 は、ある一定の周波数をもつマインド

であり、私たちは太陽、呼吸、食べ物、休息などを通じて、このエーテル・バイタリティーを受け取っ

ている。このバイタリティーが地球を包み浸透し、すべての現象に生命と栄養を与えている。私たち

はエーテル・バイタリティーの海の中を泳いでいるようなものである。


用語15 永遠の今/永遠の現在(Eternl NOW.Eternal-Present)

 分離の世界を超えた領域が 〝永遠の生命″ の世界であり、「永遠の今」 の世界である。「時間と場所」

という概念は、分離の世界で生じる印象から発生し維持されているものである。これらの概念とそれ

ぞれにおける経験は、各次元により異なってくる。存在の世界は、「永遠の現在」 にある高次の天国

の内にある。存在の世界における私たちの経験は、現在、過去、未来が「永遠の今」 に溶け込んでい

る 〝永遠の生命″ の世界、すなわち、より大きな全体性から見れば、ほんのわずかな一片にしか過ぎ

ないのである。


●用語16 永遠の原子(Permanenl Atom)

「永遠のパーソナリティー」の一部であり、空間・場所・時間の世界で得たすべての経験と学びが

記録されている。「永遠の原子」は三つのエーテル・ダブルのエーテル・ハートに同時に存在し、三

つの世界で起こった感情・思考・反応などあらゆる経験を記録している。



●用語17 永遠の存在と一時的な存在(Being and Existing)

永遠の存在とは、私たちの神聖なる本質であり、広大無限かつ始まりも終わりもなく永遠に存在す

る霊をいう。一時的な存在とは、永遠の存在の投影として、「時間-場所-空間」の領域に制約され、

始めと終わりがある一時的な現象をさす。



●用語18永遠のパーソナリティー(Permanent Personality)

 分離の世界や、それを超えた世界における「自己認識-魂」の活動的で表現豊かな部分をいう。「永

遠のパーソナリティー」は、現在のパーソナリティーからの情報を濾過して昇華し、智恵として蓄え

ている。


●用語19エクスタシー(ecdtasy)

意識の拡張、アチューンメント、そして神との一体化(テオーシス)を通して天の王国に入ること。

っまり、「エクスタシー」とは、「時間・場所」という制約やあらゆる概念的思考を思した心の状態

といえる。通常のエクスタシーではなくてむしろ三昧やサマディーに近い



●用語20エゴとエゴイズム(ego and EGOism)

本書ではこれら二つの用語を、現代の心理学用語とは異なった意味で使っている。私たちが利己的

な感情、敵意、妬みなどによって利己的欲望を生み出す時、「エゴイズム」はマインドを誤った目的

に使っている。「エゴイズム」とは野放しになっているエレメンタルの総計であり、一人ひとりのパー

ソナリティーから国家に至る世界中の混乱や病気の根源といえる。

一方「エゴ」とは永遠の存在、すなわち「自己認識-魂」としての私たちの本質であり、理性と

愛に満ちたパーソナリティーを通して現れる。「エゴ」という本質は、愛、憐れみ、理性的思考と行

動を私たちにもたらす。(久保注:これはラマナ・マハリシのいう私という観念が何にも同一化していない

状態のことであり「私という観念」が本源に帰っている状態を指している「I-I」である)


●用語21エレメンタル(Elementals)

あらゆる思考、感情、欲望は、それ自身の存在を運ぶ〝思考形態〟と呼ばれる「エレメンタル」を

意識的に、あるいは潜在意識的につくり、送り出している。私たちは二つのタイプの「エレメンタル」

をつくり出し、それらを再活性化している。私たちが思考する際、ネガティブな感情が理性的な思考

を抑え込む時、感情優先的な思考形態がつくり出される。これを「欲望-思考型エレメンタル」と呼ぶ。

この意志の流れとは逆に、私たちの考えや感情や欲望が理性と愛のフィルターを通して現れるとき、

理性的な思考形態がつくり出さる。これを「思考-欲望型エレメンタル」と呼ぶ。

 いずれの場合も、一度つくり出された 「エレメンタル」を、決して消滅させることはできない。そ

れらは、もしエーテル・バイタリティーが与えられなければ、非活性化された状態になるだけである。

また、同種の「エレメンタル」は集まって強力な「グループ・エレメンタル」を形成する性格がある

ため、個人であれ団体であれ、同じような周波数で波動している場合、こうした「グループ・エレメ

ンタル」に引きつけられる。

 ちなみに、大天使たちは 「神聖なる計画」を遂行するために、さまざまな自然界の精霊や天使といっ

た.「エレメンタル」を創造している。


●用語22 蓋然性の循環(Circle of probabilities)

 「実現性の循環」は完璧かつ逃れられない成長の循環だが、「蓋然性の循環」という原理は、あらゆ

る出来事を可能としている。なぜなら、人間は自分の人生の道を選ぶ自由が与えられている。種は発

芽しないこともあれば、若木が病気で枯れることもある。一つひとつの 「実現性の循環」の中には、

数知れない「蓋然性」 が見出される。


●用語23 神(God)

 用語「絶対存在、絶対無限の存在、神、全能の神、父」を参照


●用語24 カルマ(Karma)

用語「原因と結果の法則」を参照。


●用語25 観察/観察力(Observation)

観察は、私たちの「神聖なる本質」の一部である。それは、緊張のない意識であり、完全な集中力

である。詳細な観察力と観察したものを思い起こす能力は、生命の理解のために不可欠である。

●用語26基本元素(エレメント)の大天使(The Archangels og the elements)

私たちの人生で日頃最も接している大天使たちで、火・水・土・気という基本元素(エレメント)

を支配している。彼らはあらゆる波動領域でマインドを使って世界や宇宙を創造し、イデアと形態を

表現している。もちろん、人間のあらゆる体を創造し維持している。光と火を支配するミカエル、水

とあらゆる液体を支配するガブリエル、エーテル・バイタリティーと呼ばれる電磁生命エネルギーを

支配するラフアエル、秩序と調和の普遍法則を司るウリエル、大地のエレメントを支配する天使シャ

マエルが、私たちのすべての体で休むことなく働いている。土の天使シャマエルは、大天使ルシファー

のエレメンタルで天使である。


●用語27 共通の自己性(Common selefhood)

 「現在のパーソナリティー」としての私たちは、互いに対立しやすいもので、その間の溝は深いよ

うに感じられる。しかし、共通のロゴス的意識の下では、私たちは一体化され、分割できない関係で

ある。このことを、キリストであるジョシュア・イマヌエルは、「かの日には、わたしが父の内におリ、

あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」 (新約、

ヨハネによる福音書14:20)と述べている。さらに、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」

(新約、ヨハネによる福音書15‥5)とあるのは、このことである。


●用語28 キリスト・ロゴス(Christ Logos)

 神聖なる共通の自己性であるロゴスは、絶対存在であり、「超自己意識」として顕されている。(アドヴ

ァイタではこれを神我と称している)ロゴスは、〝言葉″ を意味するギリシャ語から訳された言葉である。

新約聖書、ヨハネの福音書、第一章一節に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」

とある。しかし、ダスカロスによるギリシャ語の聖書原典からの翻訳では、〝初めに″ と訳されているギ

リシャ語には 〝権威″という意味もあり、「ロゴスは権威の中にあった。ロゴスは神と共にあった。ロゴ

スは神であった」

と訳すことを支持している。また、ヨハネの福音書、第一車九節に、「その光は、まことの光で、世

に来てすべて・の人を照らすのである」とあるように、ロゴスは〝まことの光″である。キリストであ

るジョシュア・イマヌエルが、「わたしは神の子だ」(新約、マタイによる福音書27‥43)という時は

キリスト・ロゴスとして話し、「わたしは人の子だ」(新約、マタイによる福音書)という時、

人間として話している。ジョシュアは、二千年以上前にパレスティナで、ロゴスからの直接的で純粋

な光として、処女懐胎で肉体を与えられた。新約聖書に保存されている彼の神聖なる教えは、意識の

進化に計り知れない導きを与え、私たちが生きる普遍的で永遠なる道で大切にされてきている。


●用語29形態と原型(Forms and ArcheIypes

何であれ存在するためには、「形態」が必要となる。あらゆる生命現象の源は、コーザル・ステー

トにあるイデアにあり、ノエティック形態にならって形態化される。存在の世界には数え切れないほ

どの原型的な形態が反映されている。各々の形態は、その独特な「実現性の循環」という原理を内包

し、それが他の存在から明確に区別している。聖霊の管理の下、大天使たちは生命現象を創造し維持

するために、形態を通して働いている。


●用語30原因とイデア(causes and Ideas)

絶対存在性は、原初の「原因」である。そして、絶対存在の意志の喜びは、天地創造の「原因」であり、

その他あらゆる「従属的な原因」も生み出している。「原因」が、原型としての「イデア」を生じさせ、

それが次にノエティック形態を生み出す。大天使は「イデア」を適して創造し、それぞれの形態に全

なる智恵を適用している。それぞれの「イデア」は、これから形態として現れるための原理、実現性

の循環と蓋然性の循環とを備えている。


●用語31 原因と結果の法則(Law of Cause and Effect)

「原因と結果の法則」は、神秘主義者だけでなく、科学者にも認知されている法則。この成長、調和、

バランスをもたらす神聖なる法則は、作用(原因)に対して、必ず何らかの反作用(結果)を引き起

こす。つまり、あらゆる行い、思考、感情は、良かれ悪しかれ何らかの結果として戻ってくるのである。

 東洋で知られる「カルマ」という言葉は、こうした「結果」の総計を意味する。ただし、東洋の宗

教ではしばしば 「カルマ」という言葉を使い、この法則を決定論的な観点で教えているが、私たちは

他の人の〝借り″を引き受けることも、あるいは悔い改めや償いによって超越することも可能だと信

じている。

 この指導的な法則は短い期間だけでなく、三次元の物質界を超えて、いくつもの転生に渡って作用

し続ける。

●用語32 原型(Archetypes)

 イデアと同意語として使われている。用語集の 「形態と原型」 および、「原因とイデア」 を参照。


●用語33 現在のパーソナリティー(Present-Day Personaity)

  転生ごとに成長していく、いわゆる「ジョージ」や「メアリー」などと呼ばれるパーソナリテイー

 のこと。分離の世界における「永遠のパーソナリティー」の投影である。この小さな自己は五官から

得られる情報にとらわれ、そこから派生するエレメンタルの総計に等しい。「現在のパーソナリ

ティ-」の学びは、謙虚で道徳的で、愛に満ちた人格を養うことにある。


●用語34 コーザル・ステート(Causal States)

 ノエティック・ステートより波動的に上位にある領域で、純粋な愛、原因、法則、原理の世界。二

 元性や分離を超えた世界であり、高い階級の大天使によって管理されている。五番目以上の天国とし

 て知られている。

●用語35個別化された自己(Individuated Selfthood)

「自己認識-魂」を指す。いわゆる、魂としての自己であり、本質的な自己であり、不滅で永遠な

る存在である。用語「個別化された自己性」を参照。



用語36個別化された自己性(Indviduated Selfhood)

源を一つにする神聖なる存在である私たちの永遠のパ-ソナリティー。「自己性」とは「霊-エゴ-存

在」としての聖なるモナドの頂点から、「自己認識-魂」(久保注:魂のこと)、「永遠のパーソナリ

ティー」、(久保注個別的霊魂又は観照者)そして狭量な「現在のパーソナリティー」(久保注:一般

的な用語で自我若しくは意識的自己、又は現在の私)まで、四つの「自己」を含む総称である。;ひと

つの「自己」としての表現の中で、低く評価されるものは一つもなく、それぞれが必要で大切なものである。

私たちの「霊-エゴ-存在」は、自分の「自己性」の中に自分を表現することで、ご自身をご自身の中

に表現している絶対存在と意思の喜びを共にしている。

●用語37 サイキカル界/サイキカル体(Psychical world \Psychical body)

 四次元の世界で、「感情の世界」として知られている。私たちのサイキカル体は、意識的および潜

在意識的な感情や欲望の混合によって構成されている。従って、あるものは有益であり、あるものは

有害である。私たちのサイキカル体が存在する、超感覚的なサイキカル界は、七つのプレーンから構

成され、一つのプレーンがさらに七つのサブ・プレーンに分かれている。体外離脱を経験するとき、

私たちのサイキカル体が最初にいく場所である。また、三次元の物質界で死を迎えた時に、最初に戻っ

ていく世界でもある。

●用語38 サイキカル・ライト/ノエティカル・ライト(psychical /Noetical Light)

それぞれ四次

元と五次元を照らしている光。これらの次元では、物質の原子であり、細胞である一つひとつが自ら

光を発している。これらの光の波動は対象物を照らすものではなく、心を満たす感覚を提供する。

●用語39 サイコセラピー(Psycho Therapy)

 キリストの秘儀的教えに基づく「サイコセラピー」は、ヒーリングに関するすべての領域を合んで

いる。パーソナリティーの中に生じる問題を扱うだけでなく、本来の「サイコセラピスト」はノエティ

カル体、サイキカル体、肉体の健康すべてを判断し扱えなくてはならない。従って、意識の高い「サ

イコセラピスト」 は、四つの状態にあるエーテル・バイタリティーの意識的活用、視覚化、人体解剖

学の総合的知識(エーテル・ダブルも含め)、潜在意識の理解、神聖なる法則への認識など、多くの

分野で修練を積んでいなくてはならない。

 「サイコセラピスト」によるヒーリング効果は、「サイコセラピスト」自身のハートの清廉性と意識

に大きく影響される。自分自身を 〝ヒーラー″として捉えるのではなく、むしろ〝聖霊のためにふさ

わしい導管″ として捉える必要がある。「サイコセラピスト」 の意識の中心が慈悲や深い関心や受容

性になくてはならず、これらを超えて、〝愛″ が最大の価値観でなくてはならない。たとえ患者が時間・

場所・空間という三次元に起因する数々の問題を抱えていても、共通の自己性における「霊-魂と

しての自己」として捉えられなくてはならない。

●用語40 サイコーノエティカル(Psycho Noetical)

 サイキカル界(感情の世界)とノエディカル界(思考の世界)との関係は、しばしば密接に絡み合っ

ているので、あるレベルの領域においては、ほぼ一つのものと考える必要がある。なぜなら、感情が

まったく入らない思考は稀であり、あらゆる感情には多少の思考が含まれるからである。そのため、「サ

イコーノエティカル(界)」という表現を使う必要がある。

●用語41 サイコーノエティカル・イメージ(Psycho noetical images)

 サイコーノエディカル素材による多次元イメージのことで、ノエティック・ライトを使う視覚化

により形成される。他のエレメンタルと同様に、これらのエレメンタルは永遠に存在することになる。


●用語42視覚化(Visualization)

視覚化は神の言葉であり、天の王国への「鍵」(新約、ヨハネの黙示録3:7)である。深い観察と

完全な集中力を習得すれば、意識的に視覚化する能力が身につく。私たちはサイコーノエディカル・

イメージからすべてのシーンに至るまで、エーテル・バイタリティーを使ってエレメンタルを創造す

ることができる。ヒーリング・ワークでは、視覚化を使って物質化と非物質化を学ぶことになる。従っ

て、視覚化は〝思考〟を建設的方法で利用するプロセスであると言える。

●用語43自己意識/超自己意識(Self consciousness Super Self- Consciousness)

「霊-エゴ-存在」(久保注:魂の内奥即ち真我のことをさしている)の状態から「現在のパーソナリティー」

まで、私たちの個別化された自己性である、様々な段階にある意識をいう。

真剣に内省や瞑想などの修練を重ねていくことによって、「自己意識」は、絶対存在からその表現である

一時的な存在を含む全認識、つまり「超自己意識(テオーシス)」へと拡大することができる。



●用語44自己実現(Self-Realization)

 分離の世界における人生経験の最高到達点。意識進化の七段階(ヤコブの段階)で「自己意識」

の段階に到達した後に、「自己超意識」へ向って進む中で、私たちが神であることを認識できた時に

「自己実現」に到達する。そうすると、現在のパーソナリティーは永遠のパーソナリティーと統合され、

「自己認識-魂」に同化する。この状態になると、テオーシスの中で 「霊-エゴ(久保注:I AM THAT I AM)

-存在」と一体化する準備ができたことになる。

●用語45 自己允足/自己充足性(Self-Sufficiency Divine)

 絶対存在の基本的な特質の一つ。完全なる豊かさ。至福。あらゆる必要性から完璧に自立した状態。


●用語46 自己認識/自己認識性(Self-Awareness)

 神聖なる計画の中における「自己」を、目覚めた意識レベルで認識すること。私たちは意志の力に

より内省や瞑想などの修練を重ねることで、眠っているような日々の意識状態から目覚め、拡張され

た自己認識の状態へ入ることができる。自己認識性とは、人生の目的として自己を認識する道に戻り、

歩むことを意味する。この「自己認識の遺」を進化と呼ぶこともできる。


●用語47 自己認識-魂/魂(Soul Self-aware)

 聖なるモナドの一条の光が天なる人間のイデアを通過すると、一つの魂が形になる。「魂」(自己認

識-魂)はつくられたものではなく、霊からもたらされた小さな「真珠」(新約、マタイによる福音

書13‥45~46)のようなもの。聖パウロが「霊の体」(新約、コリント一、15:44)と呼んだ不滅の魂は、

霊として形のない状態だが、人間のイデアを保っている。そして、神のもとへ戻る時、魂は花嫁が花

婿と結婚するように(新約、マタイによる福音書25:1~10)超自己意識の状態にある「霊-エゴ-

存在」と〝結婚″すなわち一体化する。


●用語48 自己無量性(Self abundance)

自己充足性、多重性、永遠性、偏在性などと同様に、生命である絶対存在の本質を表す言葉で、「有

り余るほどある」、「量り知れないほど多い」の意。


●用語49 実現性の循環(Circle of posibilities)

一時的な存在はその形態に、「実現性の循環」として知られる原理を内包している。この原理は「全

なる知恵」の具現化であり、すべての生命現象という表現を正確に描く。あらゆる形態は、種から木

へと、あるいは子供から大人へと絶えず成長を重ねる。生命は必ず動き、変化し、そうした循環の中

でさまざまな経験を得る。一つひとつの生命現象は違っても、その本質に変わりはない。永遠の今に

おいて、形態には「実現性の循環」が備わっている。どのような形態であれ、この原理から逃れるこ

とはできない。つまり、人間は常に人間として転生するのであって、一つの形態が別の形態に転生す

ることはあり得ない。


●用語50 守護大天使(Guardian Archangel)

転生の始まりにおいて、人間のイデアを通過した直後から、私たちの「自己認識-魂」は一人の「守

護大天使」によって護られ、導かれている。私たちが分離の世界に一時的に滞在している間も含めて、

この大天使は永遠のパーソナリティーの計画をサポートし、決して私たちの自由意志に干渉すること

なく、貴重なレッスンである一つひとつの転生を経験できるように助けている。私たちの最も忠実な

友である守護大天使は、私たちのエゴと一体化した存在であり、トロウンズ(座天使)の階級からき

ている。


●用語51 信仰(Faith)

 さまざまな宗教の教義上の真理を、個人的に、また理論的に信仰するだけでは足りない。絶対存在

に対する愛と理解、包括的な結びつきがあってこそ「信仰」といえる。こうした真の「信仰」に至る

には、私たちの現在のパーソナリティーを完全に変容させる必要がある。そうすることによって、私

たち人間は神へと戻っていくプロセスに入り、やがて〝テオーシス″(神との一体化)を体験するこ

とができる。つまり「信仰」とは、このように実践してこそ生きる行いなのである。新約聖書、ヤコ

ブの手紙2章26節に「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだもので

す」と書かれているのは、このことをさす。


●用語52 神聖なる計画(Divine Plan)

 「天地創造」の青写真のようなもの。それは完全にして、完壁な青写真であり、森羅万象、あらゆ

る出来事の原因となっている。この最も賢明なる絶対存在の「神聖なる計画」に、私たちの思考・行

動を調和させていくことが、私たち存在の目的である。


●用語53神聖なる原理/神聖なる法則(Principles and laws divine)

神聖なる原理と法則は、時間・場所・空間におけるすべての表現を支配している。それらは「神聖

なる計画」の基本的な仕組みであり、すべての世界や宇宙の秩序と調和を保っている。私たちがこれ

らの法則(たとえば、原因と結果、調和、秩序、成長、愛の法則など)や原理(たとえば、実現性の

循環、蓋然性の循環などの原理)を理解して、自分と一致させると、霊的に進化させることができる。

用語「原因とイデア」を参照のこと。


●用語54神聖なる慈悲/神聖なる恩寵(Mercy and Grace, divine)

 この二つは、ほとんど知られていないが、天地創造の中で最も憐れみ深い力であり、いわゆる「原

因と結果の法則」に対して例外となるような奇跡的なことを引き起こす〝許しの力〟である。私たち

に〝自由意志″という恵みが与えられていることは、まさに「神の恩寵」である。また、新約聖書、

マタイによる福音書5章に「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも

太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくれるからである」と示されているは、

 「神の慈悲」である。さらに、ヤコブの手紙2章13節にも「憐れみは裁きに打ち勝つのです」と著

 されている。

用語55神聖なる瞑想(Divine Meditation

 「神聖なる瞑想」とは、言葉で表現することは困難であるが、「天地創造」の前段階と考えられる。

すなわち、絶対存在がご自身をご自身の中に表現するときの黙想状態とざれている。しかし、”神聖

なる逆説〟として、「天地創造」が起きていなければ、時間が存在していないという考えもある。


●用語56真理探究のためのシステム(System for Research of Truth)

秘儀的なキリストの教えによるこのシステムは、すべての偉大なる宗教的伝統として知られる永遠

の真実を讃えると同時に、「神人」キリストであるジョシュア・イマヌエルの教えと、新約聖書に

その基礎を置いている。私たちは、はっきりとした目的をもつ学び、エクササイズ、瞑想を通して、

私たちの全存在にとってバランスのとれた進化と統合の道を探求し、道徳的、倫理的、精神的、神秘

的側面を育てる。その方法は順序立って、安全かつ自明のものである。


●用語57スーパーライト/メンタル・ライト(Super Light/mental Lightt)

これらの光は分離の世界を超えた六次元や七次元からの光であり、消えることのない光と言われ、

対象物の印象を得たり理解する手段ではなく、光そのものが全なる理解であり、啓示といえる光であ

る。

●用語58聖なるモナド/聖なるモナドとしての自己(Holy Monad ,Holy Monadic Self)

 「霊-エゴ-存在」としての私たちの本質であり、真のアイデンティティー。一つの「聖なるモナド」

は、絶対存在の多重性と自己充足性の内にある、無数の細胞の一つと考えられる。神聖なる愛は絶対

存在であるので、それは「聖なるモナド」の本質でもある。

●用語59 聖霊(Holy-Spirit)

 絶対存在が全能であることを表現し、宇宙の創造と維持を可能にしている「非人格的な超意識」の

こと。全なる知恵、全なる力としての絶対存在の動的な側面の顕れ。私たちは「聖霊」を普遍的な知

恵、ヒーリング・パワーとして経験している。


●用語60 絶対存在性、絶対無限の存在性(Absolute Be-ness/Absolute Infinite Be-ness)

 神の特質であり、それは人間や大天使の理解を完全に超えたところにある。

 それは究極の源であり、神聖なる神の計り知れなく、筆舌に尽くしきれない深速さを示している。

さらに、それは表現を超えたものであり、新約聖書に「いまだかつて、神を見た者はいません」(新約、

ヨハネの手紙一4‥12)と著されている。


●用語61 絶対存在、絶対無限の存在、神、全能の神、父なる神(Absolute Beingness Absolute

 Infnite beingness God,The Almighty.The father)


 神の本質を表す言葉で、すべて神を意味する。唯一の永遠の存在。私たちが知ることのできる神は、

外面的あるいは内面的な証として、表現された投影物から知るのみである。愛と光と生命は、絶対存在

の本質である、全なる愛、全なる知恵、そして全能性に帰属するものである。神の愛は、普遍的で

あり、止むことがなく、そして無条件である。 天地創造の中心的な恩寵として表現されているのが、

愛である。光は、純粋で光り輝く超自己認識性である。永遠の命とは、永遠の運動であり、天地創造

における発生と再生である。

 絶対存在は、偏在性と無限の力と全知をもっている。その特徴は、多重性であり、自己充足性であり、

そし.て天地創造としてご自身をご自身の中に顕している意志の喜びである。絶対存在は、ご自身をキ

リスト・ロゴスと聖霊として顕在化し、「これら三つは一つである」 (新約、ヨハネの手紙一、5‥7)。


●用語62 潜在意識(Subconscious)

 真理の探究者は、「潜在意識」の特性としての三層構造を理解しなくてはならない。「潜在意識」の

第一の部屋は、私たちのパーソナリティーを構成するすべてのエレメンタルの倉庫。第二の部屋は、

生命力を与えるエーテル・バイタリティーの倉庫。第三は最も価値のある、ロゴスと聖霊の部屋。ロ

ゴスと聖霊は、「潜在意識」を通して、全なる愛、全なる智恵、全なる力を授けている。


●用語63 全なる愛、全なる智恵、全なる力(Total Love, Total Wisdom ,Total Power)

 絶対存在とあらゆる永遠の存在の基本的特質。聖なる三角形(三位一体性)を形成し、それぞれの

本質が正しく表現されるために、互いに助け合っている。


●用語64存在の世界(The Worlds of Existence, Manifestations)

絶対無限の存在である神の「意志の喜び」により表現が始まると、マインドを使って創造が始まり、

法則とイデアによってさまざまな世界が現われてくる。「存在の世界」とは、絶対存在の「神聖なる

意志」により創造されたすべてのものが存在する世界を指す。それは永遠に存在しながら、同時に一

時的にも存在する部分も含む。たとえば、私たちの「霊-魂としての存在」(Spirit –soul-Being)は、

永遠の存在でありながら、人間として創造され、一時的に存在している部分(転生のごとに変わるパー

ソナリティー)も含まれる。


●用語65 体外離脱(Exosomatosis)

 体外離脱を意味するエクソソマトシスというギリシャ語に一番近い英語

表記は「体の外」(Out of body)である。この体外離脱には、第一段階として肉体からの、第二段階

としてサイキカル体からの、第三段階としてノエティカル体からの離脱がある。私たちは誰でも毎晩、

睡眠中に肉体から離れ、潜在意識レベルで他の次元に旅している。真理の探求者の目的の一つは、こ

のような潜在意識レベルの体外離脱ではなく、自己意識を維持したまま肉体を離れ、自由に活動でき

るようになることである。



●用語66 大天使/天使(Archangels Angels)

 大天使たちは、ロゴス的かつ聖霊的な存在として、あらゆる世界の創造と維持と恩寵を担っている。

 絶対存在の中に大天使の階級があり、それぞれの階級は、同種の無数の永遠の存在であふれている。

私たちは12の階級があることを知っている。それらは、トロウンズ、オーソリティーズ、ドミェオンズ、

プリンシパリティーズ、オーバーローズ、セラフィム、セルビム、そしてその他名のあるもの、名の

ないものを含む彼らは、全なる知恵、全なる愛、全なる力、受して絶対的な自己認識性を有してい

る。また、天使は大天使のエレメンタルである。


●用語67 大天使的人間(Archangel-Man)

 大天使的人間とは、大天使の階級に帰属するイデア(原型) の一つである。

 聖なるモナドの放射が大天使的人間のイデアを通過すると大天使となり、次に天なる人間のイデア

(人間のイデア)を通過すると、人間の魂となる。この意味で、大天使は人間と兄弟関係にある。


●用語68 他界(Passing Over)

 他界は「死」に対する椀曲的な表現である。これは人間が「実現性の循環」の中で、現在のパーソ

ナリティーが一つの次元における存在を終え、次の次元で生き続けることを示唆している。従って、

「死」は最後ではなく、次の次元での始まりであり、新たな誕生である。


●用語69多重性(MultipliciIy\Plurality)

ご自身をご自身の中に多重的に顕している絶対存在の本質の一つ。新約聖書、エフェソの信徒への

手紙、第1章23節に「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場所です」と著され

ているように、生命のあらゆる多様性は、神である絶対存在の中に存在している。


●用語70魂-自己意識(Soul-Self-Consciousness)

自己実現に到達した意識段階を指し、「私は私である」(I am I)の状態である。すなわち、現在のパー

ソナリティーである自分が真の自己である「内なる自己」と統合され、「自己認識-魂」と一体化

した状態を言う。



用語71魂-超意識(Soul –super consciousness)

絶対存在からの一条の光が「霊-自己-超意識」として、人間のイデアを通過すると同時に与え

られる魂を持った人間形態としての超意識を表す言葉。


用語72 テオーシス(Theosis)

唯一の神である絶対存在との一体化であり、私たちの究極的な到達点。放蕩息子が今、超自己意識

を得て、彼が最も愛する父のもとに帰った、その瞬間。

用語73 天なる人間(Heavenly Mann)

「人間のイデア」とも呼ばれる。私たちの三つの体は、原因の法則の中にある「天なる人間」の形

態によってつくられる。

用語74 天地創造(Creation)

絶対存在が、ご自身の中に宇宙として顕したご自身の一部である。そこには高次の天国から存在の

世界までが含まれる。「天地創造」にあるすべてのものは、聖霊とキリスト・ロゴスによる監理のもと、

「神聖なる計画」と調和している。

用語75 超知性(Super-Intelligence)

永遠なる生命である絶対無限の存在を表す言葉で、あらゆる知性を超越し、知らないことが全くな

い全知性を指す。

用語76 内省(Introspection)

 私たちの言動を引き起こしている源に遡る〝内なる探求〟のこと。その源が、私たちのパーソナリ

ティーや潜在意識の自意識的な形成を決定づけている。

内省の目的は、新約聖書、ヘブライ人への手紙、9章14節に「私たちの良心を死んだ業から清めて…」

と示されているように、自己をエゴイズムの呪縛から開放することである。日々の内省は、Looking

within:(内観、あるいは、内在するものを観る)とも著され、〝自分自身を知る″ための内なる探

求であり、自己診断プロセスのことである。これは、あらゆる真理の探求者、自己実現を目指す人々

にとって中心的なプラクティスである。

用語77 人問の形態(Human Form)

 用語「天なる人間」および、「形態と原型」を参照。

用語78 ノエティカル界/ノエティカル体(Noetical World\Noetical Body)

 思考と、思考を司る「ノエティカル体」 の故郷である五次元の世界が「ノエティカル界」。三つの

分離の世界では、最も波動が高くピュアな世界。この世界で、絶対存在の全なる智恵は、銀河から単

細胞生物に至る、マインド超素材でつくられた想念形態を二元性の世界で表現する。この世界は七つ

のプレーンに分かれ、一つのプレーンが更に七つのサブ・プレーンに分かれている。

用語79 ノエティック・ステート/超ノエティック・ステート(Noetic State/Supernoetic state)

 分離の世界とコーザル・ステートをつないでいるイデアの世界。そこは「永遠の今」にあり、まだ

形態が表現されていない世界で、すべての形態の鋳型となる様々なイデアが存在する六次元の世界。

大天使たちは、この「ノエティック・ステート」から形態を引き出し、生命現象を創造し、維持して

いる。私たちが転生と転生の間に休みにくる世界である。また、超ノエティック・ステートとは、ノ

エティック・ステートを超えて、よりコーザル・ステートに近接した世界を意味する表現である。

用語80 人-天使/人-悪魔(human angels\human demons)

 前者は善性で理性的なエレメンタル、すなわち「思考-欲望型エレメンタル」をさし、後者は悪

魔的で悪いエレメンタル、すなわち「欲望-思考型エレメンタル」であるエゴイズムを意味する。

用語81 物質界/肉体(Gross Material World Gross Material Body)

 マインドが最も低い波動数によって固体を形成することで、三次元の重い 「物質界」と「肉体」が

できる。このため、重く鈍く粗い(波動が低い)物質的な肉体という表現があえて使われている。

用語82 分離の世界/二元性の世界(Worlds of Separation.Worlds of Duality)

 存在の世界のうち、三つの世界(物質界、サイキカル界、ノエディカル界)をさす。そこで、私た

ちは絶対存在から分離しているように感じられる期間を過ごす。

これらは二元性の世界であり、私たちが毎回、転生しては経験する空間・場所・時間の世界である。

用語83 法則(Laws)

 用語「原理と法則」を参照。

用語84 マインド(Mind)

「マインド」は、あらゆる生命の担い手である。存在するものすべては、「マインド」からできてい

て、その振動数の違いによって「超素材(マインド超素材)」、「素材(マインド素材)」、「固体」と形

態を変えているに過ぎない。

「マインド」は、神ご自身ではないが、絶対存在から放射されたもので、全なる愛、全なる知恵、

全なる力、そして創造主の純粋性が吹き込まれている。「マインド」は、その源では〝神聖なるもの〟

であり、それが表現された状態でも〝聖なるもの〟なのである。エーテル(マインド)・バイタリティー

を参照。

用語85 マインドーライト(Mind-Light)

すべてのものはマインドから創られ、マインドであると言える。そのため、マインド-ライトは

存在の世界や、そこを超えた世界においても、異なる周波数レベルの光として存在する。マインドが、

形態のない超素材、素材、超物質、そして物質まであるように、それらの段階に対応した周波数の光

があることになる。用語「マインド」を参照。

用語86 瞑想(Meditation)

内省による内的な到達は、瞑想により意識をより拡張された領域へと運ぶ。その探求は、現在のパー

ソナリティーの個人的な経験を超えて、普遍性と永遠性の領域に向けて、無限に広がる〝マインドの

海″に自己だけで乗り出して行くことである。

用語87 霊-エゴ-存在(Spirit-Ego-Being)

 神聖なる永遠の存在としての私たちの自己であり、広大無辺かつ永遠で、不動のもの。私たちの 「霊

-エゴ-存在」は、聖なるモナドとしての自己であり、超自己意識性と発光性をもっている。そして、

神の自己充足性と多重性とに一体化した中にある。ご自身の中にご自身を顕している絶対存在の意志

の喜びは、自分の自己性の中に自身を表す、私たちの「霊-エゴー存在」の意志と同じものである。

用語88 霊-自己超意識(Spirit-Self-Superconsciousness)

 人間の存在に関わる三つの表現の内の一つで、永遠の存在を表す言葉。これ以外に、人間のイデア

を通過し、永遠の存在でもあり、一時的な存在でもある「魂-自己超意識」と一時的に存在する「現

在のパーソナリティー」がある。自己認識の道を歩む人間が、絶対存在との一体化(アットワンメン

ト)によって到達できる最も高い意識段階である。









 第1章

全なる智慧、意志の喜び、ライフ-ライト、大天使、天使、観察

愛、マインド、マインド・バイタリティー、エゴイズム


        
絶対無限の存在性(私たちが神として理解している) は、それ自身の自己充足性の中にあると述べ

てきました。これは何も必要としないことを意味しています。自己充足性の的確な本質を理解するこ

とは不可能なことです。(久保注:これは心や思考や個別的霊魂ではという意味)また、絶対無限の存在

性の中には、全なる智恵(まだ、表されていない状態)、

全能性と、ご自身をご自身の中に表す意志の喜びがあります。この絶対無限の存在性、すなわち絶対

無限の真実というものは、ご自身の偏在性の中にあります。場所や空間という感覚はなく、絶対無限

の存在性がないところはどこにもないのです。無限の存在性がご自身をご自身の中に表すために、ご

自身の中で意志の喜びを表すときに、存在の世界が創造されます。

では、宇宙は何によって創造されるのでしょうか? 全なる智恵の最初の

現れは、絶対無限の存在性とそれと共に波動しているあらゆる永遠の存在たちからのマインドの放射

です。こうして私たちは、絶対無限の存在(絶対無限の存在性にある意志の喜びの現れなので、絶対

無限の存在となる)の全なる智慧が、その宇宙を創造する手段としてマインドを理解することができ

ます。数はどうなるのでしょうか? それを知る方法はありません。私たちが人間として知り得るこ

とは、たとえ神聖なる本質を陶冶できたとしても、存在の世界のことに限られているのです。

 絶対無限の存在性は、その多重性の中にあります。その中には無数の永遠の存在たちがいます。

〝賢者たち″はそのことを何世紀にもわたり話してきています。永遠の存在とは何なのでしょうか?

 永遠の存在とは、すべての領域において、過去にも、現在にも、そして未来にも存在するものです。

だから私たちは、〝永遠の存在″と言う言葉と、〝一時的な存在″という言葉を区別しています。これ

らの永遠の存在たちは、神々なのです。ここで明確にしなければならないことは、唯一の神であり、

父が存在していることです。しかし、その父なる神の中に、その神と類似したたくさんの神々が存在

し、その全体性、あるいは多重性を構成しているのです。

 さて、私たちは、これらの神々が、神の意志の喜びと共に波動していることが理解できます。それ

は、顕現するためでしょうか? 全部ではありません。なぜ、あるものは共振し、他のものは共振し

ないのでしょうか? おそらく、この理由は神聖なる計画と呼ばれているものの中にあるのです。

 ここまでで、私たちは絶対無限の存在性に意志の喜びがあることを知り、それが絶対無限の存在と

して顕現され、現われてくることを理解できたと思います。それから、絶対無限の存在が意志の喜び

を表し、聖なる大天使達が共振して、マインド超素材を発します。

 私達は、顕現させる意志の喜びを光と比較することができます。それは光です。生命も光です

もし光、神聖なる光、そしてあらゆるものを顕現化する光がないとしたら、生命が現れることはあ

りません。生命と光という言葉は同義語です。

さて、光について分かってきましたが、光にはまだ色がありません。実際、私達は光自身や光の

色を見ることはできません。しかし、光がプリズムを通ると、赤、紫、青、緑、黄色の光として分光

され、初めて光を色として見ることが出来ます。

神聖なる光とは、絶対無限の存在におけるこれら永遠の存在たちの本質なのです。光には色がない

と言いましたが、しかしこれらの永遠の存在たちは彼ら自身の色を表すことになります。このことが、

これら永遠の存在たちを大天使の階級に分類します。なぜそうなるのでしょうか? どのようにして

分類されるのでしょうか? その答えは誰も知りません。彼ら自身も答えを知らないのです。彼らに

「あなたはどうしてミカエルなのですか? また、あなたはどうしてラファエルなのですか?」と尋

ねたとき、彼らから返ってきた質問は「あなたはどうして私たちの間の違いを理解できるのですか?」

というものでした。彼らは彼ら自身の間に、何も違いを見ることができないのです。しかし、私たち

は人間の観点から、その違いを見ることができるのです。このように、大天使は自分たちを大天使の

階級に分類しているのです。一つひとつの階級は、その役割を完全にやり遂げ、宇宙を創造するため

に互いにつながり協力し合っています。ノエティック・ステートや超ノエティック・ステートでは、

ミカエルとラファエルを区別することができません。そこで彼らは全員同じで、類似した、色のない

白なのです。彼らが次元を下りてくると、それぞれの色を得ることになります。

 色と音の関係は、何でしょうか? 色は7つの基本的な色調(七つの波動周波数)に分類され、音

は7音階(波動周波数)に分類されます。聖なる大天使たちは、彼ら自身の光を表現し、彼ら自身の

音を創造します。これらの音を互いに調和させて、宇宙を創造していきます。大天使たちは、創造の

ための手を持っていないので、彼らの波動を使います。音と光の色は、大天使たちが創造をするため

の手段なのです。最初に彼らは自らがつくり出し、私たちも聞くことができる音から彼らの名前を知

り、それから彼らは宇宙を創造するために音と光を利用します。

 私たちは、人間が理解できる範囲で、大天使たちを分類してきました。従って、どのような説明も

不十分であり、不完全と言わざるを得ません。私たちが彼らの中で生きることができるようになった

とき、はじめてこれらの真実を知ることになります。そのために、あなたの意識とパーソナリティー

をもっと高次のレベルまで上げていくと、いろいろの階級の大天使たちとコミュニケーションが取れ

るようになります。彼らは多くのことを教えてくれます。そして、彼らのように行動し始める人間に、

進んで智恵を伝達してくれます。事実、私たちは彼らに類似しているのです。大天使たちは、人間の

持つパーソナリティーの罪深さや意地悪さを見ることができません。彼らは人間の善性を把握します。

すなわち、人間のパーソナリティーのどこかにある彼らと類似した部分、「魂-霊」を受け入れます。

私の経験から言えることは、大天使たちは「魂」ではありません。彼らは、私たちが「魂」と呼んで

いるものを表現していません。彼らが表現しているものは、「エゴ」(久保注:これはI AMという意味)

で、これは彼ら自身の本質を表している一種の個別性です。従って、彼らは 「大天使のエゴ」を持

っていると言えます。「エゴ」は、絶対無根の存在から切り離されていません。言い換えれば、彼ら

は私たちが 〝ワンネス″ と呼んでいる状態からまったく離れていないのです。

 では、人間の「エゴ」と大天使の「エゴ」との違いとは何でしょうか?人問の「エゴ」は「魂」となり

分離の世界に入っていますが、大天使はそのようなステップを取ってはいません。ですから、人間は

「霊-魂一エゴ」であり、一方大天使は「魂」の表現を持たず、単純に「霊-エゴ」なのです。いろ

いろの大天使の階級間の違いを説明することは困難です。その違いは隔たりと言うよりは、むしろ一

種の質の違いであり、それはある大天使の階級に属するための適性のようなものでしょう。大天使は、

一つの階級から他の階級に移ることができるのでしょうか? 彼らが希望する限り、それは可能です

が、彼らは彼らの本質的な階級に戻る性質を持っています。このことは、彼らが彼ら自身の中に、私

たちが〝一体化″と呼んでいる状態を持っていることを意味しています。これは私たちにとって容易

に理解し難いことですが、彼らは〝一体化″の状態にあり、同時に彼ら自身の本質を持っていること

になります。私も理解できませんが、それが事実であることを確信しています。私は大天使たちとコ

ミュニケーションが取れますが、なぜそれを理解できないのでしょうか? なぜなら、私も分離の世

界に存在する「魂」であり、人間としての「エゴ」を持っているからです。

                                          

 私たちの本質としての「霊-エゴ」と大天使の本質としての「霊-エゴ」は、〝観察力〟であると

言えます。この〝観察力″が何を意味しているかを説明することは、かなり困難です。それは、完全

な集中力であり、同時に完全に知ることを意味しますが、適切に表現できる言葉がありません。です

から、それを〝観察力″と呼びましょう。すなわち、私たちの本質も彼らの本質も、私たちが〝観察

力″と呼ぶ何かなのです“人間として私たちは、本質の中に〝観察力″を持っています。しかし、私

たちはそれを表現しなくてはなりません。そして、私たちの中に「内なる真実」の本質を陶冶できた

ときに初めて、それを表現できるのです。大天使たちは既にそれを知っています。彼らはその完全な

〝観察力″を使って、如何なる誤りもなく、全なる智恵を生み出し表現します。聖なる大天使たちは、

彼らの仕事で如何なる誤りも起こしません。なぜなら、それが彼らの本質だからです。ここでもう一

度、これらの生命の状態、特に大天使に関して表現するために、言葉は充分ではないことを述べてお

きます。

 大天使たちは、私たちが 「エレメンタル」をつくり出すのと同じ方法で、「エレメンタル」を創り

出します。しかし、大天使の「エレメンタル」は、完全で創造的で、誤りがありません。彼らの 「エ

レメンタル」は、「超知性」とも表現できますが、私たちが〝天使″とか〝自然霊″ と呼んでいるも

のです。

〝自然霊″はかなり賢い存在です。私たちはこのことを、彼らが監督し、その中に存在している生

命現象における示現の中に見て取ることができます。植物界から鉱物界まで、あらゆる生命現象、す

なわち地上のあらゆる金属、岩石の中のあらゆるクリスタル(結晶体)などは、それらの中に監督を

している〝自然霊〟が存在しています。彼らが最も賢いという意味は、彼ら自身が賢明であり、すべ

てを統治する「超知性」の智恵を完全に顕在化することにかけて最も賢明であるからです。「超知性」

とは、大天使の階級の一つなのでしょうか? それはわかりませんが、可能性はあります。しかし

私たちが知っていることは植物界や動物界であっても、それらの顕在化が完璧で、最も賢明である

とです。

 私たちは、神聖なる本質である〝観察力″を使えるように訓練する必要があることを述べてきまし

た。そのためには、マインドを正しい思考として使い、全なる智恵を識別し理解することが求められ

ています。たとえ私たちが今住んでいる物質界が生命の顕在化している最も低い領域であっても、依

然として全なる智恵が存在していることを知ることになるでしょう。私は〝観察力″を使わなくては

ならないと言いましたが、その理由は、これらのものを見ることができるようになるからです。私た

ちが意識を高い次元まで陶治することができたとき、特に「自己意識」のレベルまで育成できたとき、

大天使のエレメンタルである天使や自然霊とコミュニケーションが取れるようになります。それと同

時に、自分自身のエレメンタルも見ることができるようになるでしょう。そうすると、私たちの善い

エレメンタルである「人-天使」に感謝できるようになります。さらに、私たちの悪いエレメンタ

ルである「人-悪魔」をコントロールできるようになり、またそれらを非物質化することさえもで

きるようになります。私たちは自分自身の中にある悪いエレメンタルに対してだけでなく、他者の中

にあるものに対しても制御や非物質化をする事が可能となることでしょう。この段階に到達するには、

多くのワークと訓練が求められますが、一方で完全な〝集中力″と〝観察力″を絶えず顕在化するこ

とが必要となります。あらゆるものを観察しましょう! 何も私たちの注意から逃してはいけません。

私たちの周りにある永遠なるものと、一時的に存在しているものを完全に識別できるように、私たち

の思考を使い果たすまで注意を向け続けなくてはなりません。

これらの天使たちや自然霊たちは、植物界において全なる智恵を感受性として使い、動物界におい

ては、全なる智恵を感覚能力と本能として使います。私たちは、このような全なる智恵をどのように

して観察できるでしょうか? 植物界の場合、植物や木がどのようにして成長し、開花させ、繁殖す

るかを観察し学ぶことができます。バラの木は、どうして棘があるのでしょうか? それは動物に食

べられたり、滅ぼされたりしないようにするためです。また、棘がたくさんあるサボテンの美しさを

学びましょう。それぞれのサボテンは自分たちを守るために、それぞれの構造の棘を持っているのが

分かります。

 自然霊たちは、感受性や感覚能力や本能により支配していく彼らの生き方を楽しんでいるのでしょ

うか? もちろん、彼らは楽しんでいるに違いありません。私たち人間は、自然霊たちと意識を通じ

合わせ、彼らの超知性を理解することができるのでしょうか? もちろん、私たち自身の中で自己意

識を発達させることができた時には、自然霊たちと交流することができます。しかし、先ず最初に、

彼らを支配している大天使たちや天使たちとの交流ができてからになります。彼らは、私たちを理解

できるのでしょうか? しばしば、地の精や妖精などと呼ばれる自然霊たちは、私たちを理解する知

性を持っているのでしょうか? 答えはイエスで、彼らは充分に知性的で、私たちを理解してくれま

す。植物界と動物界の自然霊たちや天使たちは、大変に賢いものです。もし、あなたが彼らに愛を示

ぬせぼ、彼らもあなたに愛で応えてくれます。

 私は一時期、300種を越えるサボテンを育てていました。私は彼らを愛し、コミュニケーシヨン

を取ることができました。彼ら自然霊達は、私と積極的に交流し、私からの愛を楽しみ、私の愛に

応えてくれました。さて大変に敏感で小さな棘を持った一つの種類のサボテンの話をしましょう。

もし、何かが、例えば手がその棘に触れたとしましょう。その棘はすぐに手に刺さり、刺さったとこ

ろに鉤となって留まり、すぐに毒を出します。私はこの種類のサボテンを種から育てていましたので、

その性質を良く知っていました。ある日ガーデン・ショップで、私は同種のサボテンのかなり大きな

株を見つけました。そのショップのオーナーは、その毒の話をしてくれて、触れないように注意して

くれました。しかし、私はそれを手に取り、やさしく撫でました。ショップのオーナーは失神しそう

に驚きましたが、何も起こりませんでした。私は笑いながら言いました。「私はサボテンを愛してい

るんだよ。サボテンも私を愛してくれるんだ。私がサボテンに近づくとサボテンは自分を守ろうとす

るけれど、私はサボテンと心の中で交流を始めながら、愛しているので怖がる必要がないことを伝え

たんだ。サボテンはそれに従ったまでだよ」ショップのオーナーは疑いの日を向けましたが、「なぜ

人々があなたを〝マギ″と呼んでいるか、今、分かったよ」 と言いました。

 私は彼に、現代の人類は自然をあまり愛していないので、自然も私たちを愛していないこと、もし

あなたが自然を愛すれば、自然もあなたを愛することを伝え、このことを理解した上で、自然を楽し

むように説明しました。

 〝愛〟とは、何でしょうか? 物質界の低いレベル、例えば鉱物界において、人々は生命現象を愛

しているのでしょうか? 人々は、ダイヤモンドや宝石を愛していると言うかもしれません。彼らは

そういう宝石を所有したいのでしよう。しかし、彼らはそれについて一体何を知っているのでしょ

うか? 彼らは、鉱物を愛するという意味を知っているのでしょうか? いや、彼らは何も知りませ

ん。

 動物界において、動物は生き方を本能として表していますが、動物のエレメンタルは人間への愛を

示すことができるのでしょうか? もちろん、自然というものは、人間が自然を愛すれば、いつでも

人間を愛する準備ができています。しかし、私たちの波動が、例え潜在意識的な波動であっても、動

物に敵意を持っていれば、彼らは自身を守ろうとします。多くの人々は継続的に多くの生命現象を破

壊しょうとしています。なぜなのでしょうか?なぜなら、多くの人間は残念なことですが、まだ彼

らの肉体の動物的な本能を超えたものを育成できていないからです。

 ここまで話してきたように、物質界における動物界では、すべての生命現象は、私たちが本能と呼

んでいる彼らの生き方を表現するために〝マインド″を使います。これらすべての生命現象において、

自然霊と天使がそれらの中に存在し、背後で〝マインド″を本能として表しています。

 それをどのようにしたら理解できるでしょうか? 人間を例にとって見てみましょう。人間はこの

本能を持っています。このことが意味することは、人間が本能的に生きているということです。

【訳注】*マギ‥原書では単数形のメイガス(Magus)と著されている。一般的に聖書による「東方
の三博士」をしめす複数形の表現とした。意味的には、占星術師や魔術師の意もあるが、キリストの
誕生を祝福するために東方から星を頼りに訪れた神秘的なマギになぞらえて、敬意を込めて人々がダ
スカロスを呼んでいた名称である。

人間の中には本能を超えるものは何もありません。ですから、人間の肉体とあらゆる動物の身体は

本能で支配されています。では、誰によって、また何によって、本能は支配されているのでしょうか?

もちろん、それは肉体を想像し維持している聖なる大天使たちによってです。さらに、人間の肉休

は、肉体を創造し維持している「基本元素の大天使」の秩序の下に置かれています。彼らが血液循環

をはじめ、あらゆる臓器とそのシステムを管理しています。

 また既に学びましたが、私たちの肉体の生命は、同情に値する小さな「時間-場所のパーソナリ

ティー」としての生命とも異なっています。これは真実なのですが、私たちは肉体の中に生きていま

すが、多くの人間は体についてあまり知りません。

 私たちは〝解剖学〟を学び、それを理解しなくてはなりません。そうすれば、肉体が如何に完全に

創られているか、そしてすべての臓器が理想的に協力し合うことによって、私たちに良い健康状態を

与えてくれているかを理解でき、本当に不思議に思うことでしょう。

 観察からの学びにより、マインドを適切に使うことを知り、私たちは人間の肉体の創造についての

真実を知ることになります。もし、私たちが「観察の仕方」と「学び方」を訓練して、本当の「集中

力」を身につけて、「内なる自己」に入っていけば、時間の経過と共に、肉体の中で働いてくれてい

る大天使たちと意識的なコンタクトが取れるようになり、真実の私たち自身を見つけ出すことになる

のです。

 大天使たちは私たちに敵意を持っているのでしょうか? 彼らは私たちの敵になり得るのでしょう

か?もちろん答えはノーです。想像の聖なる大天使たちは、〝愛″以外については何も知りません

彼らは、善人、悪人に関わりなく、あらゆる人間を同じように愛しています。彼らは 「神聖なる計画」

の本質に調和して働いています。彼らは、私たちの生命に対して説得したり、影響を与えるためにマ

インドを使うことはありません。

 例えば、もし聖なる人と犯罪人が争いとなり、互いに傷を負った場合、聖なる大天使たちは彼らの

パーソナリティーに関係なく、両者の傷を癒し、折れた骨を修復します。犯罪者であっても、聖人と

同じように癒されることになります。なぜなら、大天使たちの立場から見て、彼らが知っていること

は愛すること、そして肉体を創造し維持することだけだからです。彼らは子供の成長を見ることが好

きです。また、彼らの尺度で人間が成長していくことを見るのが好きなのです。

 私たちの肉体の中で、大天使たちはフィーリングと感情を持っていますが、人間が持つフィーリン

グや感情とは異なります。それらの質が異なっています。彼らは憎しみを持つでしょうか? いいえ、

持ちません。愛はどうでしょうか? もちろん、持っていますが、反感や不満のフィーリングをいつ

も心の中に宿らせる人間からは、彼らを理解することはかなり困難なことでしょう。

 私も彼らの愛のフィーリングヘアチューンメントできるようになるのに苦労しました。なぜかと言

うと、それにはかなりの努力が必要で、私自身の中に誰に対しても少しの不満もないことを確信でき

る状態にならなくてはならないからです。

払たちは人間として狭量な「時間-場所のパーソナリティー」で、私たちが ″エゴイズム″ と呼

んでいる暗いベールに自己を何重にも覆い包んでいよすが、そのような私たちを大天使たちは敬遠し

ないのでしょうか? 彼らはそのようなものを回避し、見ようとしません“しかし、彼らは常に私た

ちの〝魂と霊″と継続的なコンタクトを取っているのです。もしあなたが大天使とコンタクトが取り

たいのであれば、あなた自身の中で意識を「自己意識」のレベルまで育てなくてはなりません。その

「自己意識」(久保注:I AM THATの意識のこと)はいずれ「超自己意識」のレベルまで高められ

ることでしょう。いずれにしても、「自己意識」のレベルに自身の意識を陶冶していけば、大天使

たちはたいへん喜び、支援の手を差し伸べてくれることでしょう。

 どうして大天使たちは、現代の人間の狭量なパーソナリティーから彼ら自身の距離を保っているの

でしょうか? それは、現代の人間のほとんどは、自分たちが全てを、例え神や大天使でも支配でき

ると考えるほど自己中心的であり愚かだからです。彼らは教会へ行き、キャンドルに火を点せば、自

分たちが信心深く、善人であると考えています。しかし、彼らが持っている欲望の傾向は、所有する

ことであり、ものを得ることであり、奪い取ることであり、捕えることであり、支配することなので

す。これが分離の世界で、人間が置かれている場なのです。彼らにとって、全てのものが狭量で愚

かで小さな「時間-場所のパーソナリティー」の周りをただ回っているのです。そのようなことが、

どうして人間にとってそんなに大事なのでしょうか? それは自然あるいは神にとって、大事なので

しょうか? 真理の探究者の役割は、生命に関する真理と彼ら自身の命に関する真理を見つけ出すこ

とで、自然の最も低い領域で、彼らが誰であるか、そして自然の中でどのように振舞うべきかを探し

出すことです。彼らは自分自身がもっと与えられる価値があることを自ら証明しなくてはならないの

です。それは、意識的に生きることであり、さらに自然という存在の世界の中の高次元の領域で「自

己意識」(久保注:I AM THAT)を持って生きることを意味しているのです。

  私が既に話したように、あなた方の周りにある鉱物、植物、動物界の生命現象を観察し研究するこ

とにより、あなたは「全なる智恵」を、感受性と感覚能力と本能として発見することになります。マ

インドはこの感受性と感覚能力と本能にのみ顕在化されています。これらの生命現象では、私たちが

〝意識的思考〟と呼んでいるものを育てることはできないのです。従って、彼らは自己を表現しません。

なぜなら、牛や犬は決して「自分は……」(I am)とは言いません。「アイネス」(I-ness)は、私た

ちが「自己性」と呼んでいるもので、神の〝エゴ″なのです。永遠の存在の中に、人間の「アイネス」と、

大天使の「アイネス」が位置づけられています。これにより、人間も大天使もすべて永遠の存在

であり、神なのです。

  私たちの周りにいるすべての動物は、一時的な存在です。彼らは永遠の存在ではなく、魂でもあり

ません。私たちは彼らの生き方に違いを見ることができます。彼らの生き方は本能的であり、それ以

外の何物でもありません。たとえ「全なる智恵」においても、本能は本能なのです。しかし、「全な

る智恵」は、正しい方法、あるいは誤った方法であっても、私たち人間にマインドを利用する自由を

与えています。如何なる動物も、正しい方法でも、あるいは誤った方法でもマインドを利用すること

ができません。

人間と私たちの兄弟姉妹である大天使たちとの違いは、マインドの利用方法です。私たち人間はマ

インドを正しい方法でも、間違った方法でも使えますが、しばしば誤った方法で使っています。一方、

大天使は披ら自身から放射されるマインドを、常に正しい方法で使っています。彼らは愛を表現する

ために、それを創造と維持と愛のために使います。

 もう一つの違いは、マインドの源です。私たちはマインドを借りています。言い換えると、本来私

たちが「思考するパーソナリティー」として使うように、神によって与えられたものです。従って、

私たちのパーソナリティーからマインドは放射されません。一方、大天使は彼ら自身のマインドを放

射します。しかし、人間でも本能をコントロールし支配し、「潜在意識」を完全に理解し、自己のパ

ーソナリティーを浄化することにより、〝意識″を修得し、「自己意識」を得ることができれば、言い

換えると自己の本質としての最も高いレベルに到達すれば、人間として私たちもマインドを放射でき

るようになります。

 このように、人間もマインドを放射できますが、あくまでもそのような高次の意識レベルに到達し

てからになります。そのようなレベル以前では、私たちはマインドを求めなくてはならず、それが日々

の糧として、私たちに与えられるものなのです。

 以上から、大天使たちが彼ら自身から放射するマインド超素材を使って、最も賢くあらゆる宇宙や

生命現象を創造しているかを理解できたと思います。また、私たち人間は、狭い心の「時間-場所

のパーソナリティー」であり、私たち自身がつくり出した「人-悪魔」エレメンタルと呼ばれる暗

いベールに覆い包まれていることも理解できたと思います。では、「エレメンタル」とは何でしょうか?

 絶対無限の存在は、ご自身の御恵みの下で、日々、一瞬一瞬、私たちに一定量のマインド超素材を

与えてくれています。これにより、私たち『霊-魂としての自己』は存在の世界はおいて狭量なパ

ーソナリティーとして生きていくことができるのです。私たちが受け取るマインドの量は、24時間で

一定の最大値になります。その量を100単位と仮定しましょう。その内40単位は、聖なる大天使た

ちが肉体を創造し維持するために使われます。あと40単位は、生活の手段として使われます。例えば、

考えること、動くこと、場所を移動することなどのために、おそらく生活の仕方に応じてマインド・

バイタリティトを消費します。そして、20単位が、私たちが好きなように使う為に残されています。

これが現在の 「時間-場所」の人間に与えられた神の恩寵なのです。

 さて、世界の各地にあるそれぞれの社会で、人間は現在どのような生活をしているのでしょうか?

彼らは生活の仕方によって、与えられるマインド・バイタリティーを使い果たしてしまっています。

では、なぜ使い果たしてしまうのでしょうか? 彼らの生き方をしている内に、自身の中にいろいろ

な〝悪魔″を飼ってしまい、それらがマインド・バイタリティーを食い尽くしてしまうからです。こ

れらの〝悪魔″は人間のエレメンタルで、生きるためにエネルギーを必要とします。他者への恨みや

軽蔑や不満を留めることにより、私たちはそれらエレメンタルを生かしているのです。また、嫉妬し

たり、仕返しをしようとしたりすることも、感情的思考であり、マインド・バイタリティーを浪費さ

せます。もし、私たちの生活環境が悪徳や怒りや争いなどに導くものであれば、私たちのマインド超

素材はほとんど破壊されてしまうでしょう。

 あなた自身を知りましょう。どのくらいのマインド・バイタリティーをあなたが浪費しているかを

知りましょう“あなたの環境を視察しましょう。あなたの周りで、怒って、怒りで怒鳴っている人を

日にした時、真っ赤になっている顔に注目しましょう。このような怒りの触発の後、この人はかなり

消耗しています。あなたは如何にしてエーテルのマインド・バイタリティーが燃え尽きていくかを目

撃し観察することができます。このエネルギーは、私たちが生きるため、また私たち自身を適切に表

現するためのものなのです。

 自然の法則を犯したりすると罪はあるのでしょうか? 神や大天使は答めるのでしょうか? いい

え、何もありません。たとえ私たちが怒りや他のネガティブなエレメンタルで私たち自身を傷つけた

ような場合でも、大天使たちは私たちの健康を治し回復させようとします。では、私たちの犯した罪

に対して、誰か他に罰する人はいるのでしょうか? もちろんいます。それは私たち自身です。私た

ちは自分の行動に応じて、私たち自身に起因する報いを得ることになるのです。このことから私たち

が知らなくてはならないことは、私たちの中に抱えているこれらすべてのエレメンタルは、病の原因

になるということです。エレメンタルの状態に対する責任は私たちにあります。大天使たちは常に私

たちの病や状態を改善しようとしていますが、私たちが彼らと協力しないのです。もし病気になれば、                                                                    

私たちに原因があります。その原因は、現在の行為からのものでしょうか? あるいは、カルマなの

でしょうか? それはカルマである場合もあります。しかし、もしそうであっても、なぜ私たちはそ

のような環境の重荷の下にいるのでしょうか? 観察と正しい思考を使うことによって、病の原因を

見つけ出し、状態を改善しようとする考えになぜならないのでしょうか?

 キリストであるジョシュアは、使徒のみならず、世界に向けて語っています。あらゆる病は、私た

ちの犯した罪の結果であると言っています。このことはキリストが行ったり、言ったりしたことから

証明されます。キリストが誰かを癒す前に、必ず「あなたの罪は許された」と言いました。この言葉

が示していることは、まず罪や背信が許されなければ、癒しは起きないということです。言い換えれ

ば、人が悔い改め、心を入れ替えない限り、その人はまだ心に罪を持っていることになり、奇跡を期

待することはできないのです。だから、私たちはヒーリング・ワークにおいて、何も約束しませんし、

また何も明らかにしません。なぜなら、ヒーリングを求める人自身の協力が必要だからです。

 もちろん私たちはキリストではありませんので、罪を許す権限は持ち合わせていません。しかし、

あなたは自分の周りの人々に、そのように物事を見れるように教えることはできます。そして、正し

い思考としてマインドを適性に使うことにより、物事の見方を変え、彼らを変えることができるので

す。

 教会はこれら全てのことを知っています。最初の教父たちは、私たちが〝悔い改め″と呼んでいる

ものを教えていました。何故でしょうか? それは、私たちが悔い改めない限り、必要な変化や改善

を得ることはできないからです。

 〝悔い改め″という言葉は、教会からきた表現です。それ・に変わる科学的な言葉はあるのでしょうか?

誰もが宗教的な専門用語を好むわけがありませんから。もちろん私たちは科学者も好む言葉を持っ

ています。それは〝自己分析″です。〝悔い改め″において、私たちは自分たちの行動や行為を研究し、

それらが何であるかを理解できるようになります。すなわちそれは、何が否定的な言動であり、何が

建設的な言動であるかを知り、それにより私たち自身が自ら変わる決意をすることを意味しています。

私たちの〝自己分析″でも、これと同じプロセスを取りますが、私たちは〝自己分析〟と呼ぶことに

しましょう。

 良いサイコセラピストは〝自己分析″を使って、告白を聞く司祭が人々を助けるために行なってい

ることと同じことができます。また彼は、人々に正しい生き方や考え方を教えることもできます。

 このように、科学と宗教は手を取り合うことができます。〝悔い改め〟は科学的なものとなります。

この〝悔い改め″あるいは〝自己分析″は、どんなパーソナリティーにとっても人生の目的を達成す

るために必要不可欠なものです。良い精神科医、良いサイコセラピスト、良い聴罪司祭は、皆同じこ

とができるべきです。ですから、良きサイコセラピストは科学者と言えますし、同様に良き聴罪司祭

も科学者であると言えるでしょう。彼らは、「魂としてのパーソナリティー」を取り扱わなくてはな

らないのです。パーソナリティーの一部に〝魂″がない限り、パーソナリティーとして自己を表して

いる男あるいは女というパーソナリティーは存在し得ません。

 ジョシュア・イマヌエルの時代、魂の概念は二つの状態に分けられていました。すなわち、完全な

状態と罪のある状態で、「罪のある魂は、死ぬであろう」と表現されていましたが、これは変わるこ

とを意味していました。

 私たちは、一人のパーソナリティーとして暗いベールに包まれ、「人-悪魔」と呼ばれるエレメン

タルに支配され、時間と場所に制約された「現在のエゴとしての自己」であっても、そのようなあら

ゆる人々の生命といわれている部分に、必ず魂があることを知らなくてはなりません。「罪がある、

あるいは悪魔的」と言われている部分については、どのようにしたら良いのでしょうか?それを殺

すか、あるいは滅ぼした方がいいのでしょうか? それは死ぬのでしょうか? いえ、それは死にま

せん。私たちはそれをその本質に変容させなくてはならないのです。死とか、絶滅の概念は、正しく

理解されていません。人間は男であっても女であっても、あるいは最も邪悪なパーソナリティーであ

っても、その中に「魂としての本質」を備えていて、この「魂としての本質」が遅かれ早かれパーソ

ナリティー全体の汚れを取り除き浄化しなくてはならないのです。このことをジョシュアは 「死ぬべ

きものが、死なないものとなる」と言っています。なぜなら、その本質は不滅性であり、その変容は

永遠となるからです。これが私たちの主、キリストであるジョシュアの言葉が意味したことです。

 さて、結果として、聖なる大天使たちはマインド・バイタリティーを使い、それをマインド・エー

テル・エネルギーへ変容させ、さらに私たちの肉体を造るために、そして彼らの全なる智恵と全能性

を明示し表現するために、物質へ変容させます。それは私たちが学び、その中で生活し、物質界で生

きていくために存在しているのです。誰も全なる智恵が世界を支配していることに疑いを持たないで

しょう。

 私たちは、生命と呼ばれているものの中における私たちの位置付けとしての場所を理解して見つけ

出さなくてはなりません。なぜなら、私たちは「霊-魂-エゴとしての自己」としての生命であり、

そのために、存在の世界における私たちの二元性を理解し学ばなくてはならないからです。

 私たちはそれ白身を私たちの「アイネス」(l-ness)として現している時間-場所における「人-

悪魔」に服従することを止めなくてはなりません。「人-悪魔」は白身を〝光の天使″として現すか

もしれません。そのため、たとえそれらが野獣より悪くても、誰も決してそれが悪いものであると気

付くことはないでしょう。ですから、私たちは私たち自身を見つけ出すためにコントロールカを手に

入れなくてはなりません。私たちが誰であるか見つけ出しましょう。そして、誰がマインド・バイタ

リティーを使うことができ、誰がそれを誤用しているかを見つけ出して下さい。先ず第一に、マイン

ド・バイタリティーが何であるかを知らなくてはなりません。考える時に思考として、感情として、

また欲望として、それらがどのように使われるかよく観察しましょう。それから、私たちがマインド・

バイタリティーをどのように使っているか、そして 「時間-場所のパーソナリティー」としてどん

な行動をしているかを学ばなくてはなりません。私たちのパーソナリティーの部分である潜在意識の

中でつくられる欲望や制御できない感情の奴隷のように行動すれば、私たちを絶対存在の「ワンネス」

(One-ness)からさらに分離させることになります。そのような潜在意識は、弱さや激情や恨みや対

立から成り立っている汚れた水溜りのようなものです。

 特に強調したい点は、私たちが実際は私たち自身ではない影から、私たち自身を分離しなくてはな

らないということです。さらに、私は内在するものを観る「内省」と「自己分析」の大切さを強調し

ます。ジョシュア・イマヌエルは、「天の国へ入るために」と言いましたが、そこは私たち一人ひと

りの内に存在しているもので、すなわち「霊-魂-エゴとしての自己」なのです。この真理については、

過去の多くの聖人や賢者たちが、少なくとも部分的には相対的真理として解き明かしてきていること

で、すでによく知られていることです。

 神から直接に人間化され、ご自身の「ワンネス」から離脱するごとなく物質界に降りてこられまし

た。彼は真理について証言し立証しました。私たちが物質界で生きていくために必要なものは全て与

えられています。私たちの周りの自然を観察することによって、ここが天国であることが分かります。

地球上にいる人が、ここを地獄のように変えてしまいました。言い換えると、私たち自身が私たちの

内や周辺に自身の硬い殻のような地獄をつくり上げ、その中に住んでいるのです。神の全なる智恵に

従って創造されたもの、今創造されているもの、これから創造されるものは、すべて善性のものです。

ですから、私たちはこの偉大な真理を〝観察″と〝正しい思考″を使ってよく認識しなくてはならなく、

この世界における私たちの位置付けを見つけ出すこと、特に狭量な「時間-場所のパーソナリティー」

の位置付けを見つけ出すことが極めて重要となります。私たちは自分自身を〝理性的な領域″にしな

くてはならず、神聖なる贈り物であるマインドを浪費することなく、また誤用しないように注意しな

くてはなりません。なぜなら、そのマインドは考えることや思考や感情の本質だからです。よく調べ

ること、観察すること、理解すること、そしてその結果として決断すること、また状況をコントロー

ルすることができることは、大きな前進です。「私は私である」(I am I)の状態で、私は「神の子」

であり、「神の聖霊」です。この時に、私たちは、悪魔であり、「人-悪魔」であるパーソナリティ

ーのエゴイズムが支配している狭量な「時間-場所のパーソナリティー」から自分自身を分離する

ことができるのです。

 私たちはパーソナリティーのエゴイズムを十字架に掛けなくてはなりません。そして私たちの親愛

なるジョシュア・イマヌエルの言葉を引用すると「……あなたが自分の十字架を背負って、私に従わ

ない限り……」(なぜ、十字架に掛けられるでしょうか?)と表現されています。これが意味することは、

あなたが「時間-場所の邪悪なエゴイズム」を十字架に掛けない限り、あなた自身の自己である真

なる「エゴー魂」を復活させることは望めないということです。これが最も必要な最初の礫刑です。 

「シンボル・オブ・ライブ」〔生命の符号〕においては、それはハート・センターに向い、サイキカ

ル体と向き合う感情領域〔太陽神経叢〕のちょうど上にあたり、見えてくる最初の十字架になります。

もう一度、最愛なる人の言葉を確認しましょう。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分

の十字架を背負って、わたしに従いなさい」 これには偉大な意味が含まれています。

【訳注】 *シンボル・オブ・ライブ(生命の符号)‥古代エジプト時代の高僧が使っていたと言わ
れる図で、ダスカロスが色や符号を加え現代の私たちに理解できるように蘇らせたもの。これは絶対
存在による「神聖なる計画」を図形化したもので、マクロコスモスからミクロコスモスまですべての
生命に関するシステムを示し、ダスカロスがライフワークとして真理の探究者へ遺してくれたもので
ある。

【訳注】 **聖書の引用‥新約聖書マタイによる福音書16章24節を参照。

                  





第2章 マインド、エーテル、集中、観察、瞑想、視覚化



 先ず、集中とは何でしょうか? 瞑想とは何でしょうか? 観察とは何でしょうか? 多くの人々

が、その〝鍵〟について質問してきます。これらが〝鍵″なのです。〝鍵″について述べることは簡

単ですが、〝鍵〟の使い方は簡単ではありません。じっくり腰を据えて、学ばなくてはなりません。

 すべては、マインドです。あなたが何と関わっても、すべてマインドからつくられています。あな

たはマインドが何であるかを知らなくてはなりません。超素材としてのマインド、素材としてのマイ

ンド、超物質としてのマインド、物質としてのマインドがあります。

 さて、私たちは何を持っていますか? 私たちは肉体を持っています……それは物質(固体化され

たマインド)です。私たちはその肉体の中で生きています。そして、物質としての脳を使っています。

それは一種のバッテリーのようなものですが、しかしいつもバッテリーが必要とは限りません。

 ですから、私たちはこの肉体の中でワークをしなくてはならないのです。このことは、すなわち肉

体の中で生きているということであり、「意識の目覚め」と呼ばれているものの中で生きることを意味

しています“そのためにマインドを使わなくてはならないのです。私たちは物質である脳には働き

かけません。なぜなら、それは物質で、物質以上の何物でもなく、充電されていなければ役立たない

単なるバッテリーだからです。そのため、私たちは肉体のエーテル・ダブルと呼ばれているものに働

きかけなくてはならないのです。そのエーテル・ダブルのエーテル自体をカテゴリーに分類すること

ができます。「創造エーテル」は大天使たちと聖霊の権能の下に置かれています。私たちが使えるのは、

「刷り込みエーテル」で、サイコーノエティカル・イメージを形成する時に使われます。それから、「運

動エーテル」と「感覚エーテル」で、両者は一緒に使われます。もちろん、「刷り込みエーテル」に

も運動の要素が含まれますが、運動を時間的観念で捉えることを指しています。この点については後

に別の観点から考えます。

 私たちは、自分の「意識の目覚め」と向き合わなくてはならないのです。その時に、少なくともこ

れら三つのマインドの形態、「刷り込みエーテル」、「感覚エーテル」、「運動エーテル」を使うことに

なります。どのように使うのでしょうか? 私たちは誰でも潜在意識的に「刷り込みエーテル」を使

っていることに気づきます。人間は生まれた瞬間から、サイキカル体の感情の波動に影響を受け始め

ます。すなわち、物を観察し、注意が物へ引き寄せられ、それらをエレメンタルの形態として潜在意

識の中に溜め始めるのです。これは物質界の人生において自然な行動であり反応なのです。人間にと

って、溜められているこれらのエレメンタルを意識の表面に再び挙げてくることはそんなに難しくは

ありません。むしろ逆に、それらが表面に挙がってくるのを止めることは難しいのです。

 このように、誰でもマインドを「刷り込みエーテル」として潜在意識的に使っていることが分かっ

たと思います。すでに人間の潜在意識には、エレメンタルとしての形態が溢れるほど溜められていま

す。これらの一つひとつは、それぞれの人間の生活の仕方、関心、欲望、感情からつくりだされたも

のです。善いものも悪いものも、そこにあります。すべてのエレメンタルは、形態を持ち、色と大き

さもあります。詳細についてはここでは触れません。

 さて、私たちは意識的にマインドと関わり合うのではなく、それぞれの生活を通して潜在意識的に

マインドを使っていることが理解できたと思います。だから、私は人々が潜在意識的に生きていると

言っているのです。それだけに、私たちはマインドと意識的に関わることを学ばなくてはならないの

です。これが意味することは、私たちの中の如何なる感情にも左右されずに、どのようにしたら意識

を一定時間固定できるかを学ぶことなのです。このようにして、マインドと思考をコントロールする

訓練をしていくことができます。これが、「集中」における最初で最も大切なステップなのです。「集

中」は、一定時間、例えば5分とか10分間、あるものに意識や心を固定することから始めます。それ

で何が分かるのでしょうか? 私たちは何千もの思考が私たちの意識を邪魔し迷わすために浮かび上

がってくることに気づきます。なかなか難しいものです。

 私たちはかなり長期間「集中」を訓練しなくてはなりません。潜在意識から表面に挙がってくるあ

らゆる思考に何も影響を受けないと確信するまで訓練をする必要があります。「集中」は最も難しい

作業ですが、これが「瞑想」をマスターするための唯一の手段なのです。

 どのように行ったらよいのでしょうか?何か一つを選びなさい・・・あなたの周りにいろいろなも

のがありますが、何でもかまいません、先ず、完全にリラックスして、意識を固定し、そのものにつ

いて何も考えずに、そのものを凝視しなさい。ただ、そのものの形態と色を見て下さい……何も考え

ません……そのものが何であるかも考えません。ただ形態を凝祝します。あなたの凝視を忍耐強く固定

させ、そのものに意識を持ち続けます。5分間で結構です……それ以上は必要がありません。この

5分を継続的に訓練していくことにより、この5分が「瞑想」の開始を可能にしてくれます。

 「集中」と「瞑想」とには、大きな違いがあります。「瞑想」において、「集中」は必須となります。

あなたがあるものに集中し固定することができることを確認しなくてはなりません。

 「瞑想」とは何でしょうか? それは意識をある考えや概念に固定し、それを学ぶことです。「瞑想」

は適切な方法で行なわれる必要があります。喩えて話しましょう。ここにトウモロコシの種がありま

す。あなたに一つあげますから、手にとって下さい。あなたの手のひらにある種を見て、それに集中

してください。これがトウモロコシの種への「瞑想」となります。これが意味することは、トウモロ

コシの「実現性の循環」を対象として、その道を歩むことを意味しています。さて、「実現性の循環」

が動いています……それで、あなたはそれに対応しなくてはなりません。種を手にとって、それに2

~3分間目を向けます。その2~3分間で、あなたの意識をそれに固定します。次に目を閉じて、そ

れを見て「瞑想」に入ります。肥沃な畑が見えています……「瞑想」が始まります。種を蒔きます

……それが大地に落ちているところが見えます。それから、雨が降ってくるのが見えます。このよう

に「瞑想」と「視覚化」が一緒になって進んでいくことに気づいたと思います。

 雨が大地に滲み込み、種を包んでいるのが見えます。さて、雨が止んだのが見え、再び太陽の陽が

さしてくるのが見えます。そして、土が暖められていきます。

 あなたが望めば、もっと雨を降らすこともできますし、場合によってはもっと湿度を高めることも

できます。「瞑想」において、あなたには選択肢があります。「実現性の循環」をスピードアップさせ

ることもできますし、もっとゆっくりと展開させて楽しむこともできます。

 次に、種から根茎が伸び、二つの小さな芽が大地を押し分けて現われるのが見えてきます。雨が降

り、土が水分を含み……大地をかき分けて、地面から天に向かって成長していきます。それが自然に、

適切に成長していく過程を続けて見ていきます。再び、雨が降り、大地が雨を吸い込み、太陽が大地

を暖め……そして、再び雨がやってきます。

 「瞑想」には、スキルが求められ、出来る限り自然に近い経過で進められる必要があります。トウ

モロコシの穂が現れ、成長していきます。そして、最後に実ったトウモロコシ畑が目に入ってきます。

しかし、あなたの種からのトウモロコシに意識を持ち続けて下さい。長い茎が風にゆれているのが見

えています。季節が変わるとき、それらの色が変わっていくのを見てください。それらは黄色みを帯

びていきます。それから、現代的にコンバインが収穫するところを見ることもできますし、あなたの

好みによって、人々が収穫してもよいでしょう。

 このように、ものごとを見ること、すなわち実際に起きているように、ものごとを視覚化すること

が「瞑想」なのです。

 それから、トウモロコシからどのように種が取れるか見てみましょう。このようにして、あなた

は循環の終りであり、始まりに到達したのです。あなたは一つの種を取り、それを蒔いて、再び循環

を始めることもできます。これは、あなたが瞑想する対象物に関する「実現性の循環」のすべての過

程を取り扱うことを意味しています。

 私たちは同様の瞑想をバラの木についてもできます。また、どんな生物に対しても、「実現性の循環」

を取り扱えなくてはなりません。

 このような「瞑想」に、どんな価値があるのでしょうか? あなたは「視覚化」や「瞑想」に熟達

していきます。そして、時間の経過に伴って、あなたは大きな力を得ることになり、それが物質化に

さえ導いていくことになります。適切な「瞑想」と「視覚化」は大変な訓練ですが、それらが〝鍵〟

なのです。このように、〝鍵″を見つけることは難しくありませんが、それらを使うためには、たく

さんの訓練が必要となるのです。

 今、私たちは「瞑想」の方法を学びました。私たちの周りには無数の生物が存在し、彼らについて

学び、瞑想することが求められています。もし、そうすれば、どこに導かれるのでしょうか? それ

は、直感と予知能力へ導かれます。すなわち、最初は対象物を知らなくとも、自然霊や天使たち、そ

して大天使たちとつながることによって潜在意識的に情報が与えられることを意味しています。そし

て、いずれ直感を使って、あるものに関する必要な情報を得ることができるようになります。

 ですから、「瞑想」を訓練しなくてはならないのです。これは如何なるものにも邪魔されない「集中」

と「視覚化」を指しています。しかし、このようなことは、周りの誘惑物と雑音があふれる環境の中

で本当に可能なのでしょうか? 大丈夫です。あなたは、如何なる雑音にも影響を受けないように習

慣付けることができるでしょう。

 次に、「視覚化」 について考えていきます。「視覚化」を練習するということは、私たちのエーテル・

ダブルの「刷り込みエーテル」を取り扱うことを意味しています。もちろん、私たちのサイキカル体(感

情体)のエーテル・ダブルの「刷り込みエーテル」との協同作業も必要となります。私たちはこのワ

ークが好きです。本当に気に入っています。なぜかと言うと、それには〝感覚″があるからです。そ

して、私たちの成長と共に、形のないマインド超素材を利用することができるようになった時、あな

たは、それを自分の潜在意識から取り出すことが可能となり、また、あなたが理解しているものから

得ることもできるでしょう。そして、それを再活性化し、自分のものとして使えるようにもなるでし

ょう。これが「刷り込みエーテル」に関わるワークです。

 もう一つの研究対象は、私たちのエーテル・ダブルの「運動エーテル」と「感覚エーテル」です。

「運動エーテル」は、動きを可能とし、「感覚エーテル」は感覚を与えるエーテルです。先ず、あなた

のエーテル・ダブルに意識を固定し、集中させて下さい。「運動エーテル」から始めます。あなたの

右足のつま先を感じて下さい。そして、その意識が膝まで上がってくるのを感じてみましょう。膝か

ら意識をさらに上げ、腹部を感じます。それから、左足へ下げていき、膝を通りつま先まで下りてい

きます。このようにして、「運動エーテル」と「感覚エーテル」を使います。この訓練を続けていき

ますと、エーテル・ダブルをコントロールすることができるようになります。

 さて、それをどのように訓練すればよいのでしょう? 先ず、「感覚エーテル」だけを使って一

点に意識を固定します。それを感じて、三回に分けて大きく息を吸い込み、そして同じく三回で息を

吐き出します。この時、あなたは心臓の鼓動を呼吸のリズムとします。最初にお腹に息を吸い込み、

上部に上げていきます。息を吐き出す時もお腹から吐き出し上部に上げていきます。あなたの肉体の

エーテル・ダブルを肉体の各所で感じていきます。次に、約五分、足の両つま先に意識を集中させま

す……右足先でも、或いは左足先でもかまいません。この時、「感覚エーテル」(運動エーテルではな

く)を国定させます。深い呼吸を続けながら、その感覚を保っていきます。この状態で、常にいろい

ろなエレメンタルがあなたの潜在意識から浮かび上がってきますので、難しいですが固定が外れない

ように感覚を維持して下さい。それらのエレメンタルを無視して、関わらないようにするしかありま

せんが、何しろ押さえ込んで下さい! 邪魔をされないように……。次に、膝に意識を集中させ感じ

て下さい。五分経過したら、もう一方の膝に集中し、感じてみましょう。時間はあっても、五分以上

は行わないで下さい。また、血液循環を妨げる可能性があるために、心臓を感じることは避けて下さ

い。心臓は聖霊とキリスト・ロゴスと大天使たちの領域です。肺は大丈夫ですので、集中させて下さ                                                        

い。臍や太陽神経叢も有効です。太陽神経叢はエーテル・バイタリティー(生命エネルギー)の保存

庫です。

なぜ私たちはこのようなエクササイズを行うのでしょうか?それは、生命エネルギーを私たち

のコントロール下に置くためです。もし、私たちがこのエネルギーを肉体のある部位から他の部位へ

移動することができるようになれば、体の外へも移動することができるようになります。遠隔ヒーラ

ーは、感覚と運動エーテルのエレメンタルを意識的に形態化し、そのエレメンタルを感じることがで

きなくてはなりません。そして、それを必要とする人に送ることができます。

 私たちはそれを感じ、それに働きを命じなくてはなりません。これはマジックではありません。そ

れをたとえホワイト・マジックとも呼んではいけません。なぜ、マジックなどという言葉を使うので

しょうか? これは端的に大天使たちの働きなのです! もし、あなたが肉体の各所に意識を適切に

集中させることができれば、この能力をこれからどのように展開することができるのでしょうか?

例えば、あなたの意識を足の傷に集中させることによって、あなたの手を差し向け、エーテル・バイ

タリティーをコントロールし、あるいは不足していれば加えることにより、傷を癒すことができるよ

うになります。もちろん、このようになるには、たくさんの練習が必要になります。自分自身の肉体

に対して主導権を得ることで、発生してくる病を癒したり、痛みを解消したり、健康を改善すること

は、誰にでもできることなのです。そして、誰でもこの訓練を行うことができます。

 これはもう一つの「瞑想」の形態ですが、あなたの潜在意識に「集中」し、「瞑想」することによって、

あなたはパーソナリティーをコントロールすることができます。また、他の「瞑想」の形態では、エ

ーテルの流れをコントロールすることが可能となり、直感力と予知能力により〝マインド・リーディ

ング″(読心術)が可能となります。さらに、「瞑想」は〝アチューンメント〟や〝アットワンメント“

(一体化)に到達するための基本的なエクササイズでもあります。しかし、今はここでは止めておきます。







  第3章

真理、生命、愛


真理とは何でしょうか? そして、その真理へどのようにして近づけるのでしょうか?

私はこの課題が大変に難しいものであることを認めざるを得ません。私はこの課題について個人的

に信じていることを出来る限り簡単な表現で話してみます。私が話そうとしていることは学問からの

ことではありません。これらは東西に拘わらず、書籍や学派・体系からのものでもありません。もち

ろん、私はたくさん学びました。書籍はガイドとして有効かもしれませんが、それ以上の何ものでも

ありません。私が話すことは、私の個人的な経験からのものです。

 真理とは何でしょうか? 私は神学の博士号を持ってはいますが、もちろんここで宗教学の講義を

すれば解決する問題ではないことを知っています。しかし、真理と宗教の関係になった時には、宗教

の側面について触れると思います。

 私たちの伝統的な科学は、まだ初期の段階にありますが、私は科学者たちが偉大で賞賛に値する努

力を果たしたことを認めています。彼らが発見したすべては、本当に価値あることですが、まだいか

なる結論にも到達していません。なぜなら、現在までのあらゆる努力は、固体物質と時間と空間につ

いてなされたもので、それ以外のものはありません。

 現在、数少ない科学者が物質を越えて研究を進めており、ある反物質について語っています。神秘

主義者や真理の探究者は、これを既に知っており、それらに別の呼称を与えています。それは彼らに

とって現実であり、働きかけています。彼らの一人ひとりはそれを働かすことができ、実践的に使っ

ています。

 さて、次に宗教について触れていきます。何世紀にも亘る世界のすべての宗教についてです。それ

ぞれの始まりは、穏やかで、善良で、大きな努力の賜物でした。後に、一定の力を持った人々や権力

と共に力を実行できた人たちは、教会の階級制度に加わりました。彼らは、そのような穏やかで善良

な努力を制限するために彼ら自身に制約を加え、とりわけ研究に関しては如何なるものも制限しまし

た。私たちは東洋、西洋のあらゆる宗教に、この結果を見て取ることができます。

 キリスト教信仰、すなわち宗教として、そして正教の教義としてのキリスト教の実体には大変な深

さと真理がありますが、しかし一体誰がその深みを極めたのでしょうか? ほとんど誰もいません。

 古代ギリシャ哲学、エジプト哲学、インド哲学などがあり、それらはすべて大変な深みを示してい

ます。これらはすべて、真理への道です。キリスト教や、他の体系や宗教において、神話化の方法が

よく取られました。これは素人による利用を回避するためで、真理を隠すようにしてきたからです。

現在はすべてが変わりました。真理とは存在しているもので、必ずあるものであり、すべての人々に

帰属する財産なのです。人間は現在、自分たちの責任に向き合うことができます。さらに、科学が進

歩しています。たくさんの町を一瞬のうちに、破壊することのできる原子物理学者もいます。危機は

今ここにあるのです。

 ですから、現代の真理の探求者は、過去の神秘主義者と異なり、もはや偉大な真理を神話で隠す必

要がなくなったのです。誰かが真実の実体へ分け入り搾取し、その力が同胞たちに対して悪用される

のではないかという恐怖から解放されたのです。それより、私は、同胞たちを騙し搾取する他の多く

の方法や手段を危惧しています。例えば、武器について考えてください。

 真理という言葉はありますが、真理とは何でしょうか? 今まで誰かが何か真理について私たちに

話してくれましたか? 最愛なるジョシュアは、「私は道であり、真理であり、命である」と言いま

した。これら三つは、同意語で、そして彼は「私である」と言いました。そして、使徒であり伝道者

であるヨハネ(ヨハナン)は、キリスト・ロゴスについて、「その光は、まことの光で、世に来てす

べての人を照らすのである」といっています。結果として、この光、すなわち人間一人ひとりの中に

ある〝自己認識″(久保注:IAM THAT)が、道であり、真理であり、命なのです。

 【原訳注】*‥ヨハナン(Yohannan)‥キリストの12人の使徒の一人であり、福
       音書の著者であり、またダスカロスの霊的なガイドであった聖ヨハ
       ネのこと。ダスカロスはアラム語でヨハナンと呼んでいた。





 しかし、それをどのようにして見つけ出すのでしょうか? どこから始めたらよいのでしょうか?

どの真理を見つけるのでしょうか? 真理とは何でしょうか? 三次元の世界、すなわち世俗的な世

界であり、私たちが今生きている世界では、真理を明らかにすることは不可能なのです。私たち

は〝相対的な真理″しか把握することができません。しかし、それは真理ではありません。近年、伝

統的科学が認識し始め、反物質について学んでいる世界、すなわち四次元や五次元の世界で真理を見

つけることができるでしょうか? 四次元、五次元の世界でも、真理の探求者は再び〝相対的な

真理″を見つけることになります。それはもっと輝いていますが、〝相対的な真理″にすぎません。

 真理はどこにあるのでしょうか? 真理は何でしょうか? 人間はどのようにして真理へ近づくこ

とができるのでしょうか? 真理は人間にとって、どのように有益なのでしょうか? 再び、親愛な

るキリストであるジョシュアは、明確に 「あなたたちは真理を知り、真理があなたたちを自由にする」

と述べています。真理は何から私たちを自由にするのでしょうか? 私たちは奴隷で、真理が私たち

を自由にする唯一の手段なのでしょうか? はい、その通りです。真理を知ることだけが、私たちの

幻想や不幸から、私たちが活動する暗い混沌から、そして憎悪や無知から私たちを解放してくれるの

です。

 さて、今私たちが生きている物質界で、どのような真理を語ることができるか考えてみましょう。

もし、私が美しい色の素晴らしい夕日、あるいは素晴らしい色の見事な日の出を賞賛している10人に

「あなたがこの日の出や夕日を見たことは本当ですか?」と尋ねると、間違いなく全員が 「もちろん

ですとも、見ましたよ!」と答えるでしょう。もし、私がカメラも持っていれば、写真を撮るでしょ

う。私たちはカラー写真をとり、全員が美しい色の素晴らしい夕陽、または素晴らしい色の見事な日

の出が存在していることを確信しています。しかしながら、私たちの研究から言いますと、私たちは

見たものを確認することはできますが、真実ではないことをどこかで知っています。なぜなら、もし、

私たちが他の場所、例えば、それが見えた地平線のどこか下にいたとすれば、今私たちは見上げるこ

とになり、同じ雲が目に入ります。それは先ほど綺麗な色に染まっていた雲でしたが、こちら側から

はただの雪のように白い雲にしかすぎません。しかし、その雲は、先ほど地平線に見た雲と同じ雲な

のです。

 私たちは美しい夕陽、あるいは美しい日の出を見たと思っただけなのではないでしょうか? いや、

それを確かに見ました。では、それはそこにあったのでしょうか? 私はあなたに質問します。それ

は本当にそこに存在したのですか? 私たちの物質界で認識できるものは何であれ、一つの現象に過

ぎず、真実の投影のようなものです。

 真理の探求者は、自分を現象だけに制約しません。なぜなら、すべての現象は〝相対的な真理″の

中に隠されているものにすぎず、それらは真理ではないからです。真理とは、現象の裏にある「原因

-法則」の世界にあるものであって、何が真理であるかを知るためには、そこまで潜入し探求してい

かなくてはなりません。車で旅をするとき、あなたは座りまったく動いていないと感じているのでは

ないでしょうか? 木や丘などすべてのものがあなたの方へ近づいてくるような印象を持っていま

す。さて、質問しますので、答えて下さい。「事で旅をしたことがある方で、動いている時に、車の

外のものがその場所に止まって見えたことがある人はいますか?」あなたは動いていないという印

象をもっていますが、しかし外にあるすべてはあなたの方に向かってきます。これは真実ではありま

せん。その場所で車の外にいる人は、車が動いていることと、これらすべてのものがそれぞれの場

所に静正しことをはているっきりと見ることができます。

 では、真実とは何でしょうか? このように一見真実のように感じてしまう現象例をいくつでも示

すことができます。それらは、真実の現象としての現実なのです。私たちがそれらの原因の世界に深

く探求し、それらの深い意味に通じ得たときだけに始めて理解することができることなのです。

 従って、現実として、私たちはこの物質界で真理を見ることはできません。私たちが肉体を脱ぎ去

って、次に自己を発見するサイキカル界も分離の世界にあり真理を見ることはできません。この世界

では時間や場所の観念がかなり異なりますが、しかしまだ時間と場所の領域なのです。たとえ、ノエ

ティカル界であっても、そこはまだ形態と印象の世界であり真理を見ることはできません。

 私たちに印象を与える世界にいる限り、私たちが知り得るのは現象だけで、それらは〝相対的な真

理〟であり、真理の裏で識別されるものとして見えているにすぎないのです。真理の探求者は、現象

の裏にある真実に分け入ることにより、私が話している力を得ることができるのです。

 私は固体と認識されている対象物をあなたに渡します。そうすると、あなたは疑いもなくそれを固

体として受け取るでしょう。なぜなら、あなたはそれを手にとって、固体であると感じることができ

るからです。しかしながら、伝統的な科学は、固体というようなものは何も存在していないと言って

います。

あなたはそれをなぜ固体と感じるのでしようか?なぜならば、その対象物を持っている手が、物

質と呼ばれている対象物の分子の波動周波数とほぼ同じ周波数で波動している物であり、素材である

からです。神秘主義者や真理の探究者は、いわゆる〝エーテルの手〟を投影することができます。サ

イコセラピストも同様なことができます。彼らは、〝エーテルの手〟を投影して、それを患者の体の

中に差し入れ、意志の力を行使します。あなたが奇跡と呼ぶようなことを行うことができます。しか

し、真理として、これらが達成されることは奇跡ではありません。さらに、真理として、これらは粗

く鈍い物質としての肉体の手が行えることと同じょうに大切なことなのです。あなたは、それをどの

ようにするかを知らなくてはならないだけなのです。

 これらのことから、人間の物質としての体は、固体ではありません。なぜなら、その手の〝エーテ

ルの手″は、私たちが蒸気の中に入れるように、固体と呼ばれている肉体の中に自由に入っていける

のです。それでは、固体とは何でしょうか?この見解において、真理の探求者は現代の伝統的科学

の考え方と共通しています。先に、人類は真理を把握することができないと言いましたが、これが意

味することは、三次元の物質界で私たちが一般的に印象から得るような方法では、真理を知ることが

できないということです。もちろん、その方法とは、視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚の五官を指して

います。これらの五官は、神、あるいは自然から与えられているものです。私たちはこの五官を通し

て、印象を得ることができます。光は波動を与え、その波動が振動を生み出します。そして、その波

間が反映して、イメージと呼ばれているものを生み出す何かを表現しているのです。真理の探求者は、

もちろんこれらを含み、すべてを学びます。もし、人間に五官がないとしたら、どのようにして

私たちの環境である世界を甘受するのでしょうか?例えば視覚がないと仮定してみましょう。目の

見えない人を田舎へ連れて行ったとき、彼はその太陽や光をどのように感じるのでしょうか?温か

く、寒さが全くない丁度良い暖かさであっても、彼は自分の周りのすべてを見ることが出来ません。

彼には視覚の恩寵があたえられていませんので、木も色も全く見ることが出来ません。かれに視力

がないということだけで彼の周りには、何も存在していないのでしょうか? もちろん、違いま

す。それらはすべて存在し、彼はそれらを見て喜んでいるのです。

 あなたに言っておきますが、もし人が五官を超えた感覚を持っていたら、もっと明確に言えば、五

官を超えたもう一つの感覚だけを持っていれば、彼は周りのすべてを、五官を通してみるものとはか

なり異なったものとして見ることができるのです。あなたは、五官を使って誰もが同じように見てい

ると思いますか? 答えはノーです。

 動物界の動物たちはそれぞれ大きさが異なりますが、もし彼らが、人間が持っているような意識的

な自己認識性を持っていると仮定して、彼らはあなたと同じように、私たちの環境を捉えていると思

いますか? やはり、答えはノーです。

 私が言いたいことは、真理の探求者はもう一つの感覚を目覚めさせることができ、今あなたが捉え

ることのできない物事を見ることもでき、楽しむことができるのです。これらの物事はそれ自身とし

て存在しているのですが、あなたがただ感受できないだけなのです。なぜなら、あなたがそれらの印

象を感受する手段を持っていないからです。もし、私たちがもっと多くの感覚を持っていれば、私た

ちはもっと、もっと楽しむことができるのです。

 是非、信じてください……私は、人間への印象として、五官が非常に制約されたものであることを

伝えたいのです。

 私たちだけでなく、他の人もこの能力を得ることは可能なのでしょうか? 私は透視能力や透聴能

力について話していますが、それは可能です。もちろん、その人たちもそのような能力や他の能力も

得ることが可能です。あなたは疑問を感じ、次のように質問するでしょう。「なぜ、私たち自身でなく、

彼らなのですか?」私が言いたいことは、誰もそれに対する切望とコミットメント、すなわち最後ま

でやり遂げる決意がなければ成功することはありません。

一旦私たちが自分たち自身に新たな能力を与えることができれば、私たちの周りにもっと多くの真

実が見えてくるでしょう。さて、今ここに粗く鈍い肉体の中に五官を持った人がいます。彼はここで

生まれ育ち、時間と空間の観念の産物であることを理解しています。彼は、ジョンやコスタス、ある

いはマリアやヘレンのような現代の他の人たちと同じです。五百年前、私たちは他の名前を持ち、他

の興味を持ち、そして他の経験をしていたことでしょう。しかし、私たちは五官を持った人間なので

す。状況は変わっていきます。昔は大きなマンション群や自動車やヘリコプターなどはなく、別の世

界でした。しかし、ここに現代人としての彼がいます。

 彼の周りにある真実とは何でしょうか? 肉体としての彼はどんな存在なのでしょうか? 彼の周

りの真実を見ていきましょう。

伝統的な科学は、私たちの科学的性質について生物学的に研究しています。科学者は粗く鈍い物質

的な肉体について多くのことを知っています。しかし、彼らは人間の代謝機能や分泌器官などについ

て、まだまだ学ぶことがたくさんあ。ます。さて、ここに現代の人がいるとしましょう。現在でも、

人は生命現象ですが、周りには他の多くの生命現象もあります。結晶体や植物界や動物界もあり、海

の底にも生命が存在しています。この粗く鈍い物質界において、私たちの周りを見わたせば、数え切

れないほどの形態の生命現象を見て取ることができます。

さて、人間と他の多くの生命形能との違いは、何なのでしょうか?これらの生きている形態を見

ると、それぞれの種類の生命形態が、各々の環境を受け入れ反応していくための、それぞれの方法を

与えられていることが分かります。私は先に、生きている有機体が環境を同じょうには感受していな

い、また人間も同じであることを言いました。人間意識の自己認識性を感受する対応力や能力は、そ

の人の徳性や成長度に寄ります。なぜなら、これには時間が大きな要素になっているからです。

次に、人間を粗く鈍い物質としての肉体として見てみましょう。科学が、まだ生命現象について充

分に説明できないことに驚かせられます。今度は、あなたに生命が何であるかについて質問します。

キリストは「私は道であり、真理であり、命である」と言いました。生命とは何でしょうか?生命

はひとつの真実なのでしょうかて生命は真理なのでしょうか?生命現象は、真理でしょうか?

いいえ、生命現象は〝相対的な真理〟です。私は先に、それはただ感受できるただ一つものであると

言いました。さて、生命とは何でしょうか?魚も、ユウカリ樹も、レモンの木も生命であり、多く

の生命が存在しています。しかし、人間は異なっています……かなり異なっているのです。次に、人

間を物質である肉体と五官を持った機能体という観点ではなく、別の観点から見ることにしましょう。

人間は誰でも、たとえ原子力学者でも路上の靴磨きの少年でも、五官を持っています、既に話したよ

うに、すべての人は環境からの印象を同じようには解釈しません。

次に質問します。人間とは何でしょぅか?彼は五官を持ち、手や腕や、下肢や足があり、肉体を

持ち、その肉体をあちらこちらに移動させることができます。彼は肉体なのでしょぅか?

さて、ここで人間をもう一つの観点、すなわち「自己認識性をもつパーソナリティー」という面か

ら見てみましょぅ。

事実として、物質的な肉体としてのあらゆる人間は類似しており、その個人的な違いは僅かといえ

ます。ある人は背が高く、ある人は背が低くても、彼らはすべて人間です。彼らは全員、人間として

の肉体を持っていて、その粗く鈍い物質としての肉体として、互いに極めて類似しているのです。で

は、彼らのパーソナリティーはどうでしょぅか?この世界に一つとしてまったく同じパーソナリ

ティーを持った人がいるでしょぅか?

私たちは一人の人間の肉体を研究することにより、すべての人間の肉体を知ることができます。こ

こには、この臓器があり、こちらにはまた別の臓器があるというように……これがこの臓器の機能で、

それがあの臓器の機能であるというように。しかし、一人の人間のパーソナリティーを研究すること

により、あなたは人間のパーソナリティー一般を知ることはできるでしょぅか?人間のパーソナリ

ティーの自己認識性は、肉体の産物なのでしょぅか?理論的に答えはノーです。なぜなら、人間の

パーソナリティーは結果として一人ひとり異なりますが、すべての人の自己認識性は、肉体にさほど

大きな違いがないように、それほど大きな違いはありません。

 なぜこのような違いが現われるのでしょうか? 時間と空間の産物である、パーソナリティーの自

己認識性を私たちにもたらすのは何なのでしょうか? 私たちは、このパーソナリティーの自己認識

性をよく学ばなくてはなりません。このパーソナリティーの自己認識性は、どのようにしてつくられ

るのでしょうか? 人間が受ける印象と反応を通して、人間の中にある状態やある状況や欲望がつく

り出され、それらを通して人間のパーソナリティーが、それぞれ個別化されたジョージ、コスタス、

マリア、ヘレンというようにつくられていきます。時間と空間に制約ざれた肉体を越えて、〝もう一

っの生命現象〟といえる人間のパーソナリティーの自己認識性が存在しているのです。

 私たちは前進しています。次に、社会における人間を見ていきましょう。あなたの周りで、人間の

弱さや攻撃性や善い精神性などを見たり、学んだりすることができるでしょう。あなたは、人が性格

をつくり上げているのを目にするでしょう。また、人が遥か彼方の目標を視界に捕えて、パーソナ

リティーに対する本当のコントロールを得るために、パーソナリティーの「自己認識-自己」を今、

制御し始めた人も目にすることもあるでしょう。その人は、自分自身についての真実を知り、いろい

ろな世界における自分の位置づけにも気付いています。さらに、彼は何を知るのでしょうか? 例え

ば、彼を神秘主義者と仮定してみましょう。私たちも彼を神秘主義者とか、真理の探究者と呼び、あ

るいは、真剣に学びの学校に通っている彼をどんな名称で呼ぶにしても、彼にどんな得があるのでし

ょか? また、彼は何を得ているのでしょうか? 彼をもう一人の人と比較してみましょう。その人

はささいなことで激怒し、家庭や社会における態度が愚かで無分別であるとしましょう。その人が大

学の学位を取るために苦労したかどうかは、この際関係ありません。なぜなら、私たちは、その人の

〝行動〟を見ているからであり、高等教育を受けた人か、あるいは教育を受けていない人かを問題に

していないからです。このように、教育や重労働、あるいは学校や大学での勉強は、誰にも性格を与

えるものではないのです。しかし、彼は〝道″に気付いて、新たな状況を理解しているのです。キリ

ストは、特定の〝道″について「私は道である」と話しています。彼はどんな道や真理や生命につい

て述べたのでしょうか? 「私は道であり、真理であり、命である」と述べていますが、彼が「私は

……」という時、それは私たちの一人ひとり、すなわちすべての人類を指しているのです。

 さて、人間の真理とは何でしょうか? 人間は他の多くの動物のように動物なのでしょうか?

人間は戦い、日々殺しあっていますので、動物以下なのでしょうか? ヨーロッパ人であっても、ア

メリカ人であっても、アジア人であっても同様です。あるいは、発展途上国でも、あるいは高度に発

展した国家であっても同じです。何が起きているか、その現状が見えてきたのではないでしょうか?

 人間としての私たちは、一体何なのでしょうか? 私たち人間にとって、真理とは何でしょうか?

 私たちが〝生命〟と呼んでいる偉大な真理に、どのようにして近づけるのでしょうか? それは生

命現象ではありません。生命現象とは、私たちの周りで知覚できるものを指しています。私たちは「原

因と法則の世界」に分け入ることにより、初めて真実の〝生命″を見つけることができるのです。い

くつかのミステリー・スクールは、ある宇宙意識について述べています。宗教も聖霊について述べ、

ほとんどの人がおとぎ話と思っている聖霊の降下についても触れています。しかし、一般の人々にと

って、現実は紙幣のお金であり、建物という形の石であり、輝く金属や宝石なのです。このように、

私たちは大きな幻想を抱え込んでしまっているのです。

 私たちは〝生命〟について話してきました。〝生命″は、真理です。生命は真実でしょうか? 生

命とは何でしょうか? あなたは生命について奥剣に考えたことがあるでしょうか? もし、そうで

あれば、生命とはどのようなものと考えますか? なぜこのような質問をするかというと、あなたが、

生命が何であるかを知ったとたん生命と呼ばれているものに尊敬の念を持たずにはいられなくなるか

らです。あなたが生命であり、生きているということだけでなく、生命現象の裏にあるのが生命だか

らです。

 では、現象としてではなく、「原因」として、〝生命″とは何でしょうか? 私たちは人生に関す

る限り、真実を見ることができます。その人生の特徴とは何でしょうか? 真理の探求者は、〝生命〟

を見つけ出すために、そしてそれを知るために「原因の世界」 へ分け入っていきます。あなたは〝生

命″が何だと思いますか? この〝生命″を「全なる愛」と関係付けることができるのでしょうか?

 さて、あなたは〝愛″をどのように考えていますか? それは多くの場合、単なる性的欲望の表現

としての魅力と幻想以上の何ものでもありません。これは〝愛″ではなく、熟情です。私たちは〝生

命″を「全なる愛」と一緒にすることができるのでしょうか? ここで、「全なる愛」とは何でしょうか?

 私たちは、この世界の中で生命現象を経験しています。私たちは一羽の小さな鳥を見て、学ぶこと

ができます。それを手に乗せて、その心臓の鼓動を感じることができます。試したことがありますか?

もし経験がなければ、何か小動物を手に取り、手で抱きしめて撫でて、その心臓の激動に耳をかたむ

けてみましょう。この心臓の鼓動を、何だと感じますか? これも命であり、愛です。では、誰の愛

でしょうか?「全なる愛」 はどこにでもあります。あなたの周りを探して、動物界や植物界で起き

ていることを観察してみましょう。真理の探求者は、すべての物事に注意を払っています。彼はすべ

てを学び、すべてを探求し、宇宙にある「全なる智恵」 の前でひざまずくことでしょう。彼は真理と

生命と「全なる愛」を理解しています。〝神″という表現は、あなたを混乱させる可能性があります。

私はその言葉をあまり使いません。なぜなら、私たちの世俗的な脳では把握することができず、実際

の「絶対存在」の意味を狭めてしまうからです。

 真理はどこにあるのでしょうか? 真理はあなたの内にあります。また、それはあなたの周りの

どこにでもあります。それはあなたの中にあります。最も親愛なるジョシュアは、的確に述べていま

す。「天の国は、あなた方の内にある」それを発見しましょう。真理の探求者は、それを見つける努

力を重ねてきました。多くの者が、それを発見しました。彼らはあなた方が発見できるように手助け

をする準備ができているのです。







第4章

生命、欲望、感情、マインドの利用、エゴイズム、警戒力



ヒーリングと短いエクササイズ

日々は流れ去っていきます。一日が過ぎ、また新たな一日がやってきます。そして一週間がたち、

Ⅰヶ月がたち、何年もが過ぎ去っていきます。そして私たちは生きています。

 私たちは人間の肉体の中で生きています。そこでは、マインドという基本元素の聖なる大天梗たち

が、肉体を維持し健康を保つために休みなく働き続けてくれています“それは、なぜでしょうか?

そのようなことは、私たちにとって目的のない、意味のないことなのでしょうか? その裏に何か目    、

的があるのではないでしょうか?

 私たちは生きています。家族で、地域社会で、そして国家の中で、人間としてそれぞれの生活をお

くつています。私たちの国家のある地域社会の人々に「あなたたちは、満足していますか?」と尋ね

たら、どんな答えが返ってくると思いますか? あなたは、彼らが満足していると思いますか? い

いえ、大方の人々は満足していません。なぜなら、彼ら自身を悩ませている多くの問題や物事を抱え

ているからです。なぜ、そんなに多くの物事が彼らを苦しめているかを尋ねてみて下さい。それらは、

誰に責任があるかも尋ねてみましょう。彼ら自身がこれらの質問と向き合わなくてはならないのです。

また、私たちもこのような質問と真正面から向き合わなくてはならないのです。しかし、人々は避け

て通る傾向があります。悪いことに、常に責任を誰か他の人のせいにして、自分たち自身に原因を見

つけようとしないのです。いつも自分たちは悪くないと考え、周りの誰かの責任にしてしまい、悪循

環の行動を取る傾向があります。

 あらゆる人々がマインドを使い、考え始めなくてはなりません。「人生とは何か? そして、自分

とは誰なのか? 自分たちの周りで、一体何が起きているのか?」と考えなくてはなりません。私た

ちはマインドを使うことから始めなくてはなりません。そうすれば、少なくとも現象の裏にある〝相

対的な真理〟を学び、理解できるようになるのです。しかし、このような事が本当にできるようにな

るのでしょうか? もちろん可能なのですが、ただやろうとしないのです。なぜでしょうか? それ

は、私たちがもっと他に大切なことがあると考えているからです。しかし、それらは私たちに不安と

問題をもたらし苦しめているだけでなく、決して満足をもたらすことのない生き方なのです。私たち

がマインドを正しい思考に使うために、何をやるべきでしょうか? 若い人々が成人になる前に、何

かを教えなくてはならないのです。

彼らが家庭や社会でただ自動的に物事を受け入れないように、そして同じ失敗を繰り返さないよう

にするにはどうしたらよいでしょうか? もしそうしなければ、同じ愚かな生き方を続け、同じよう

な心配や苦しみがもたらされることになり、どうにもならない個人的エゴイズムが築かれることにな

ります。エゴイズムが何であるかを学ぶ前に、ただ盲目的に自分の感情や欲望に服従することを止め

させなくてはなりません。しかし、なぜ私たちはそれらに従ってしまうのでしょうか? それは何の

ためでしょうか? このように、誰もがマインドを使うことと、自分たち自身のために〝考える″と

いうことの価値を見出せないために、他者のつくった環境の奴隷に成り下がっているのです。では、

何を考えたらよいのでしょうか? 先ずは、私たちが社会における人として誰であるかを考えなくて

はなりません。人生から何を期待しているのでしょうか? 考える時に理性を使いましょう。私たち

の周りの多くの人々があまり幸せではなく、いろいろな苦しみを抱えていることを知っている以上、

あなたの家族や地域社会など、周りの環境からの先例に従わないようにすることが大事です。

 そのために、私たちは欲望が何であるか、どのようにつくられるのか、またどのようにして私たち

を占領し、奴隷化するのかについて知らなくてはなりません。欲望とは一体何なのでしょうか? そ

れが達成された時、あるいは達成されなかった時に、私たちはどうなるのでしょうか? 欲望は私た

ちに何を与えてくれるのでしょうか? このように、私たちは欲望が何であるかを知らなくてはなら

ないのです。先ずは、これらについてじっくりと学び把握する必要があります。それから、〝考える〟

ことが始められるのです。例えば、「私は人生に何を期待しているのか?」、「人生は私に何を与えて

くれるのか?」、あるいは「人生は私に何を期待しているのか?」などについて〝考える〟ことにな

ります。生命あるいは神は、私たちに何かを期待しています。神は目的のない人生をおくるために私

たちに生命を与えることはありません。少しだけ考えて下さい……多くのマインドの大天使たち、ミ

カエルやガブリエル、ラファエルやウリエルたちが、私たちの肉体の中で働き続けていることを。彼

らは肉体の中の各臓器の維持の仕方をすべて知っています。私たちの生命維持だけでなく、私たちに

仕える準備はいつもできているのです。なぜ、これらの大天使たちが私たちのために継続的な重労働

に耐えているのかを、自分自身に問うてみて下さい。

 私たちが肉体の中で生きているのは、権利によるものではなく、神の恩寵によるものなのです。ほ

とんどの人々は、大天使たちにより創造され維持されている肉体の中で生きる価値に答えられていな

いと思います。このことだけでも、適切に考えることの必要性を気付かせてくれます。私たちは人生

にいつも何かをただ求めるだけではなく、人生もまた私たちに求めているものがあることを考えなく

てはなりません。

 ですから、成人になったら、男性でも女性でも、リラックスして、自分たち自身に「私は人生に何

を期待しているのか?」そして「私は人生に何を期待すべきなのか?」について質問することを教育

されなくてはなりません。これらの二つの質問は異なった意味を持っています。

 私たちは、おそらく環境や両親から、あるいは社会から悪影響を受けてしまっており、同じ愚かな

生き方を引継いでいるのでしょう。それは「人生に何を求めるか?」ではなく、「人生から何を得る

べきか?」でなくてはならないのです。

 そのために、私たちは先ず結果に目を留めなくてはならず、それから私たちの周りを見回すことが

必要です。“残念ながら、家族や環境の中に病気の人々を見ることになるかもしれません。しかし、私

たちは健全な身体を求めなくてはなりません。なぜなら、私たちはそれを得る資格を持っていて、自

然なことだからです。自然でないこととは、病のことです。先ず私たちはどのようにして肉体におけ

る健康を得ることができるか、また、どのようにしたら病を寄せつけないですむかについて考え始め

なくてはならないのです。マインドを使うことによって、これらの問題を解決できることを知るべき

です。

 二番目として、私たちは自分自身に「人生に何を期待できるのか?」と問いかけるべきです。それ

は、私たちの家族の環境や経済状態、そして社会状況の観点で、「人生は何を提供できるのか?」と

いう質問になります。今、私たちに与えられているものに準じて、より善き状況のために変えること

ができるでしょうか? 他の場所で暮らすことはできるでしょうか? それも良いと思います……で

きるかも知れません。よく考えてみると、それができない場合もあります。その時は、現在の環境が

私たちに何かを与えようとしていると考えなくてはなりません。なぜなら、その環境の中に、私

たちが学ばなくてはならない何かがあるかもしれないからです

 なぜ私たちは、特定の場所の、特定の地域社会の、特定の家族に生まれてくるのでしょうか? す

べてのものごとには理由があり、偶然で起きることはありません。そのために、私たちは特定の環境

にいるのです。私たちは現在の環境に応じて、ものごとを決めていくべきで、また自分自身と他者の

ために、満足のいく人生を送っていく資格を私たち自身に与えるべきです。例えとして、もし私たち

が実際に良い教育を受ける機会があれば、その機会を得るべきでしょう。現代では、ほとんどの人々

は自分を教育する機会が与えられていますが、このような環境を別としても、人生が与えてくれるも

のは何でしょうか? また、人は人生に何を期待しているのでしょうか? 金持ちになることでしょ

うか? あれになりたい、これになりたいと、いろいろ望みはあるかもしれませんが、それはなぜな

のでしょうか?

 人は物事に対して常にバランスを保つ必要があり、そのために〝理性″を使わなくてはなりません。

私たちには、ある特定のものを得たいと思う欲望があります。そのようなものを自分のものにしなく

てはならないのでしょうか? もしそうなら、何故でしょうか? それは必要性のためでしょうか、

それとも単なる貪欲なのでしょうか? おそらく、それはどちらか一方か、あるいは両方かもしれま

せん。よく考えてみる必要があります。

 人生には、私たちに喜びを与えてくれるものがあり、それらが満足をもたらしてくれます。そして、

更にもっと多くの満足や喜びを与えてくれるものを求めます。逆に、不満や苦悩、悲しみや痛みをも

たらすものや状況もあります。ですから、ここが、私たちが関与しなくてはならないポイントであり、

私たちの人生で、どちらかの状態と対面することになるからです。もちろん、私たちは人生でいつも、

そのどちらかだけを経験するとは限りません。この観点で、私たちは喜びを与えてくれるものを探し

出さなくてはなりません。すなわち、それらは欲望や特定の感情からの満足が喜びを与えてくれるも

ので、この種の喜びや満足について学ぶ必要があります。そして、それらの喜びや満足が継続される

ものであるかを、私たち自身に問う必要があります。もし答えがノーであれば、なぜそうなのかを考

えなくてはなりません。

 もう一方で、私たちに問題や痛み、すなわち不満足をもたらす物事がありますが、これらを回避す

ることはできないのでしょうか? 今までと同じようにやっていれば、結果は押して知るべしではな

いでしょうか? そのような結果として、対立、悲しみ、憎悪、そして時には私たちの中に何か執拗

な頑固さや邪悪性を見て取ることが出来ます。なぜでしょうか? なぜ、そのようになってしまうの

でしょうか? なぜ、そのようにしてしまったのでしょうか?ここに〝理性″を働かせる余地があ

るのです。

 このように害や不調和をもたらす生活の仕方を引き伸ばすことに、何か価値はあるのでしょうか?

 これらの物事は私たちの日々の生活の中でまさに起きていることであり、世界のどの地域社会でも

起きていることなのです。私たちは、そのような生活環境に置かれているもので、それらをはっきり

と確認することもできます。では、そのような環境から、どのようにしたら抜け出すことができるの

でしょうか?ここが重要なポイントで、マインドを使うことが求められています。既に説明したよ

うに、人間はマインドを除いて、身体のあらゆる部位を利用しています。男性も女性も、他の人たち

が自分のために何か考えてくれると期待しています。これこそが誤った考え方で、私たち人間に起き

てくるあらゆる苦痛と不幸の原因となっています。

では、両親や学校は子供たちに何を教えるべきなのでしょうか? 数学はどうでしょうか? それ

はそれで必要でしょう、しかし学校を離れるとその多くは忘れられてしまいます。地理はどうで

しょうか? それは惑星や地球や人間について学ぶのに必要でしょう。しかし、学校を離れると、同

じように忘れてしまいます。代数や幾何をはじめ、教育にとって必要な教科もありますが、歴史の教

育は危険性を含んでいます。戦争や敵意などはすべて学校では教えられるべきではありません。現在、

学校で教えられている教科の少なくとも4分の3は、必要性がないだけでなく、かえって危険なこと

なのです。教育されるべきことは、生命が何であるか、そして私たちが何で、誰であるかについてです。

 心理学や超心理学などの教科も必要かもしれません。しかし、残念なことに、それらはまだ初期の

段階でしかありません。すべての科学は発展して来ましたが、心理学と超心理学だけが取り残されて

きました。心理学と超心理学において、その観察と人格による行動と反応に関してマインドが利用さ

れなくてはなりません。

 有能な精神科医と心理学者は、マインドを利用して、患者の他の人間との関係を再調整することが

求められています。私たちは他者がどのように行動しているかを知らなくてはなりません。また、な

ぜそのように行動しているのかについても知る必要があります。そして、他者とのバランスを取り戻

すために、私たちがどのように行動すべきか、その方法を知らなくてはなりません。

 従って、若い男性も女性も、思考を働かすために、どのようにしてマインドを使うのか、その使い

方を学ばなくてはなりません。今、私たちは学び始めなくてはなりません。そうすれば、現在まで多

やくの人々が思考を感情や欲望に奉仕するために、如何にマインドを奴隷化してきたことに気付くこと

でしょう。それらの感情や欲望が、如何に勝手気ままで、愚かなことであり、ほとんどの場合、非常

に「自己中心的な行為」であるかについて分かるようになります。これらは誤った行動なのです。

 私たちは欲望と感情の奴隷にしてしまっていることから、マインドを解放することを決断しなくて

はならないのです。私たちはマインドを意識的に使い始め、感情と欲望について学び、どちらに正当

性があるか判断することになります。こうして、思考のマスターとして、特定の欲望に対して満足を

与えるためのマインドの使い方を知らなくてはなりません。なぜなら、すべての欲望が悪であり、価

値がないものではないからです。

 このように、私たちは先ず、すべてのもののマスターを目指す者として、マインドの使い方から学

び始め、そして欲望や感情の奴隷としてマインドを使わないようにしなくてはなりません。そのため

に、感情について学びましょう

 感情とは何なのでしょうか? 感情について学ばなくてはなりません。人々が自分地の問題や苦しみ

、そして愛について語っているのを耳にするとき、私たちはそれについて学ぶことかできます。

私たちは何を見つけ出すことができるのでしょうか? 男でも女でも、すべての人々が愛と呼んでい

る感情は、自己中心的な基盤の士に成り立っているもので、到底、愛と呼べるものではあり得ません

このような人々にとっての愛は、相手を奴隷化することを意味しており、それはパーソナリティーの

エゴイズムのようなもので、相手を自分に従属させたり、褒めて欲しいと思うのです。しかし、もし

そうならないと逆に、彼らは互いにさげすみ始め、憎しみや残酷な振る舞いにもなっていきます。

 私たちは冷静になり考え直さなくてはなりません。「私はこの感覚を持っていますが、この感覚の

本質は何でしょうか?どのようにして、それが私を満足させるのでしょうか?」「なぜ私は、自分

の欲望のために、他の生命あるものを従属させたがるのでしょうか? 言い換えると、その人を自分

の思う方法で従わせたく思うのでしょうか?」しかしながら、どんな人でも自分の意志というものが

あり、そのような行為に耐えられなくなるのです。

 私たちの社会で毎日目にすることは、人々が愛し合っていると主張していることです。しかし、彼

らが結婚したり、一緒に住んだりすると、戦いや喧嘩が始まり、別居や離婚になっていきます。別々

に生きること、すなわち人生の犠牲者になってしまいます。

 既に述べたように、私たちは人生に多くを求めます。しかし、人生も私たちに何かを求めているの

です。私たちが子供に生命を与える時、邪悪なエゴイズムや愚かさの祭壇に彼らを犠牲として捧げる

ことはできないのです。それらはまさに若い魂を不幸せにし、自分たちと何も変わらない人生を継続

させるための悪い手本や事例を押し付けることになるのです。

 では、このように世界、国家、あらゆる地域社会で今蔓延している悲惨な境遇を考える時、一体誰

に責任があるのでしょうか? そのすべての責任は、パーソナリティーの個人的なエゴイズムにあり

ます。なぜなら、人々はマインドについて知らず、従って、彼ら自身のマインドを使おうとしていな

いのです。では、どのようにマインドを使ったらよいのでしょうか? それはエゴイズムと呼ばれる、

彼ら白身の中にある怪物をコントロールすることなのです。

 私たちにとって最も大切なレッスンは、私たちの「現在のパーソナリティー」の言動をチェックす

る警戒システムのスイッチを常時入れておくことです。このことが、私たちの言動の裏にあるエゴイ

ズムと呼ばれている怪物を見つけ出すことになります。それが、すべての悲惨な境遇の原因であり、

すべての罪悪の元凶なのです。ある人は、「そんなことは簡単だよ」と言うかも知れません。もしあ

なたが、物事に対してより深く観察し決断する訓練ができていて、自分自身のエゴイズムを本当の自

己ではないと認識できていれば、おそらく簡単なことと言えるでしょう。しかしながら、パーソナリ

ティーのエゴイズムを自己として考えている限り、それはかなり難しいことです。エゴイズムは、か

なり狡猾で、私たち白身のような仮面を付けて私たち自身に成りきっています。そのため、エゴイズ

ムの本質に気付くためには、かなり継続的で深い思考と 〝自己分析″をする意志が必要となり、それ

で初めて真実を見つけ出せるようになります。このことは、私たちにとって最も大きな成長になりま

す。すなわち、私たちは自分が私たちと考えているものではないことを認識することであり、私たち

が単なるパーソナリティーの頑固なエゴイズムではないことを受け入れることです..私たちは本来、

物事に対して自ら考え、決断し、マスターすることができる存在なのです。,このことに気付き認識で

きることは、本当に大きな前進となります。

 このように幻想から醒めると、マインドを適切に使えるようになります。そして、マインドを使っ

て、私たちの人生の境遇や物事に関する〝相対的な真実″を学び、見つけ出せるようになっていきま

す。これこそが、自分自身をあらゆる問題や悲惨な状態や病から救うことができる道なのです。肉体

に起きるあらゆる病は、サイキカル体(感情体)から来ます。このことを〝心身相関″(サイコソマ

ディック)と言います。これらすべては最初、サイキカル領域に発生します。あらゆる憎しみ、文句、

悪い行い、頑固さなどは、肉体への毒となり、一種の〝自己処罰″を引き起すことになります。絶対

存在も大天使も、私たちに罰を与えることはありません。大天使たちは私たちの肉体の中で休みなく

これらの病を癒し、傷を治し、骨を修復するために働いてくれています。私たち自身の生活の仕方や

考え方や行動の仕方によって、私たちの三つの体や私たち自身に害を与えている張本人は私たち自身

なのです。私たちが知るべきことは、嫉妬や憎しみや恨みなどの人間の弱さには、すでに罪が含まれ

ているものであり、このことに充分注意を払わなくてはならないということです。

 さて次に、マインドを使って、私たちの周りの物事や環境について学んでいくと、生命を支配して

いる、ある法則に気付くことができます。また、物質領域における物質的本質やあらゆるものを支配し

ている法則について学ぶことができます。そして、私たちが見つけ出すものは、自然が変えることの

できない法則により統治されていることであり、例えば重力の法則のように、すべての世界や宇宙が

法則によって支配されていることです。

 あらゆる物質が、物質界の物理的法則の下にあるように、肉体も物質界の法則の下にあります。思

考の世界であるノエティカル領域にも法則があります。私たちの肉体はそれら法則に従うべきなので

す。感情の世界や欲望の世界や思考の世界にも、それぞれ法則があります。従って、私たちが自分の

感情や欲望や思考を使って「現在のパーソナリティー」を築き上げている限り、それら法則に反する

結果としてやって来るものに対して当然責任があります。私たちはマインドと観察力を使って、これ

らの法則を発見することができます。これらの法則に反することがなければ、それらは私たちに仕え

てくれるのです“ですから、私たちは考え、観察し、執拗に知るように努力していかなくてはなりま

せん。そうしていけば、それらの智恵は必ず私たちのところにやってきます。

 さて次に、肉体の病について考えましょう。病を捨て去ることができるとおもいますか?もちろ

んできます。どんな種類の病も可能でしょうか? もし手遅れでなければ、どんな種類の病でも問題

ありません。どのようにすれば直るのでしょうか? 私たちの態度を変えるだけです。病の原因にス

トップをかけるような仕方で変えるのです。そうすれば、病も止まります。癌でも可能でしょうか?

 もちろんです。私は癌が人を苦しめるのを止めた事例をたくさん見てきました。なぜ、全員が治ら

ないのでしょうか? なぜなら、全員が変わろうとしないからです。彼らは人々を愛するような善な

る人になろうとしないのです。彼らは変わりたいのかもしれません。一日や二日で性格を変えること

は簡単でないのではないでしょうか? しかし、もし私たちが変わらなければ、苦しまなくてはなり

ません。もし、その人が本気で変容を求めるのであれば、変わることは不可能ではないと思います。

 病の原因は罪であり、潜在意識的に感じているものです。このことを聖書に見て取ることができま

す。先ず第一に、キリストは人を癒す前に、パーソナリティーを罪の重荷から軽くすることが必要と

感じ、常に「あなたの罪は免された」と言っていました。これは一種の暗示で、彼らが治癒されたと

信じる自己暗示なのです。このように、聖書にはたくさんの心理学的教えが含まれています。

第二に、信仰です。信仰とは何でしょうか? それは、信じることです。人は真実でないことを信

じることができるのでしょうか? 信じることとは、学ぶことであり、熟考することであり、知るこ

とであり、確信することです。キリストは「あなたの信仰が、あなたを救った」と言っています。こ

のことから、健康を支配する法則を知ること、すなわち私が意味することは、サイキカル界の法則を

知ることが、男にも女にも安らぎをもたらすことになるのです。マインドを使えば、それらすべてを

知ることができるのでしょうか?いいえ、そうではありません。なぜなら、私たちはマインドを毎

日使うことによって、日々新しいことを学ぶからです。それらは私たちの人生で学ぶべきことなので

す。

 私たちがマインドや観察を使うと自然法則を学ぶことができます。このように、私たちの生命とは、

継続的な学びであるべきなのです。生命を学びなさい……生命が何であるかを学びなさい。私たちの

物質的な肉体が何であるかを学びなさい……そして、どのようにしたら健康が保たれるかを学びなさ

い。私たちのパーソナリティーについて学びなさい……これが最も大切なレッスンです。ここがポイ

ントになります……パーソナリティーを学んでいるのは、一体誰なのでしょうか? 私たちは二重に

なっているのでしょうか?一体誰が学び、集中し、執拗に知ろうとしているのでしょうか? もう

一人とは誰なのでしょうか? 私たちのその自己が、批判され、学ばされ、あまりにも多くの過ちを

犯してしまっているのです。では、誰がこれらの過ちを見ようとしているのでしょうか? これらの

過ちをどのようにして改めるか、誰が決断するのでしょうか? また逆に、これらの過ちを納得させ、

彼や彼女を喜ばすことだけにより、これらの過ちを継続させようと仕向けているもう一人の自己とは、

一体誰なのでしょうか? ここが、私たちが自分たちのエゴイズムを捕らえるポイントなのであり、

自分自身に「いいや、私はあなたではないよ! 私があなたのマスターである。この瞬間まで、あな

たは私を騙し、私であるように見せかけ、私に恥をかかせるように振る舞わせてきたのだ。そのよう

な振る舞いが、私に痛みを与えてきたのだ」と言わなくてはなりません。このエゴイズムはマゾヒス

トのように、痛みを受けることを好むのです。なぜなら、それがエゴイズム自身に生きている感覚を

与えるからです。しかし、決して私たちを満足させるものではありません。

 このように、私たちはマインドを使うことにより、私たち自身のパーソナリティーに関する〝相対

的な真理″を発見することになります。これは〝相対的な真理″であり、パーソナリティーについて

はもっと知るべきことがあります。私たちは、そのパーソナリティーではなく、またパーソナリティ

ーとして行動している自己でもないのです。私たちは、そのパーソナリティーの裏にある私たち自身

が栄光に溢れた輝かしい存在であることを発見することになります。しかし、そうであっても、今、

私たちは「現在のパーソナリティー」としての自己について学んでいきます。ですから、私たちは私

たち自身の自己、すなわち自身をいろいろな段階に表現している真実の自己を見つけ出します。そし

て、認識性、意識、潜在意識、超意識と呼ばれているものについて学んでいきます。これらは、当面

の間、取り組むのがかなり難しい課題です。これは、個人的なエゴイズムから解放されない限りなか

なか困難なのです。なぜなら、エゴイズムはいつも欲望を満足させることを要求し、それが私たちに

奉仕してくれていると信じ込ませる形で私たちを邪魔しているからです。

 ゆえに、もっと深い思考と集中が求められ、特に何ものも私たちの注意から逃すことのないような

観察が必要です。これは、私たちの生命を学ぶことを意味しています。

一般的に、人々は他人の人生を批判したり変えることを求めたりして、干渉したがるものです。彼

らは自分自身をさて置き、他人の誤りを見つけ出すものです。しかし、同じ問題が彼らの中にあるに

も拘わらず、彼らはそれに気付かないのです。時々、彼らは自分の誤りに気付きますが、それらを美

徳として見なしてしまいます。そのため、私たちは適切な物差しを使わなくてはなりません。その同

じ物差しを私たちにも、また他の人々や家族や近隣にも使う必要があります。一つは自分に対する物

差しで、もう一つが他のすべての人々への物差しのような、二つの物差しは受け入れられません。私

たちは適切な物差しを使わなくてはなりません。これは度を越さないことを意味しています。

 私たちは子供たちに厳しくあるべきでしょうか? いいえ、それは良くありません。自分の子供や

他の子供たちを、叱るべきでしょうか? それも良くありません。私はこれらの尺度を認めていませ

ん。私たちは、木や鉄からつくられた尺度ではなく、黄金の尺度を使わなくてはなりません。黄金の

尺度とは、愛のことです。もし、私たちが愛の尺度を、学びや愛の表現や穏やかな方法で指摘するこ

とに使用すれば、なかなか受け入れにくいものであっても、人々は受け入れる準備が出来るようにな

るでしょう。

ですから、私たちは人々の性格を学ばなくてはなりません。彼らを変えようとするのではなく、そ

の性格の違いによって教え導く方法を使い分けなくてはなりません。私たちが行なうべきことは、彼

らを変えることではなく、彼らが人生でもっと幸せを感じ、分別のある理性的な生き方ができるよう

に手助けすることです。もし、私たちが彼らを変えるべきだと信じていれば、誰かに仕えるというよ

りも、自分たちのエゴイズムに仕えていることになってしまいます。このために、私たちは本当に注

意深くあらねばなりません。なぜなら、エゴイズムは自身を〝光の天使″のごとく現す悪魔だからです。

 すでに説明しましたように、パーソナリティーのエゴイズムは非常に校滑であるため、私たちは常

に最善の注意を払う必要があります。注意を払うということは、エゴイズム自身が〝光の天使″とし

て現われたり、あるいは慈善や美徳として表現することによるエゴイズムの干渉を許さないようにし

なくてはならないということです。そうすれば、それらの裏にあるものが見えてくるようになり、人

生で常に注意を払えるようになります。多くの物事は、人を惑わし欺くものですので、十分注意を払い

い騙されないようにしなくてはなりません。

 マインドをいろいろな方法で使うことはできるのでしょうか?あらゆる方法、いやすべての方法

に使うことができます。私たちに必要なこととは、如何にマインドを使うかを学ぶことです。

のようにして理性的な思考として使うかということなのです。そのためには、良いことであっても悪

いことであっても、私たちの注意から絶対に逃してはいけません。私は悪魔という言葉を使うことを

好みません。なぜなら、悪魔的人間は存在しないからです。如何なる人間も悪魔ではありません。愚

かな人や無知の人はいますが、それらが同時にもたらすものは、不幸せや自己懲罰であって、彼らが

悪魔ではありません。本質的に神である人間が、悪魔であるはずがありません。このことを胸によく

刻んでおく必要があります。ですから、もし人を憎めば、神を憎むことになるのです。私たちはどん

な人間も批判や憎しみや敵意で救うことはできないのです。

 私たちの周辺にいる悪魔と呼ばれているような人間は、私たちの愛を求めているのであり、恨みや

非難や批判ではないのです。キリストも私たちに決して批判しないようにと、述べています。

 本質的に人間は、明るい太陽のように愛を放射するハートを持っていて、あらゆる人々の顔を照ら

すのです。太陽が光をもたらす時、私たちが悪魔と考えている人たちに光を止めたり、温かみを拒絶

するでしょうか? そんなことはあり得ません。このように、私たちは自分たちのハートを、愛を放

射する太陽のようにしなくてはなりません。それは誰へもの愛なのです。そして、この愛、すなわち

光を、誰もが〝道″を探し出すために必要としているのです。

 他の人々を罪ある人、犯罪者、泥棒などのいろいろな名称で呼ぶ人々は、概して同種の人間といえ

ます。なぜなら、同種ではない人々は、そのように見ないからです。これらすべての人々は非難を求

めておらず、愛を求めているのです。

 どのようにして指導したらよいのでしょうか? 誰も、子供ですら指導を受け入れないでしょう。

世界で最も偉大な心理主義者であったといえるキリストも、人々を指導するようには述べていません。

キリストは「あなた方がなすこと、すなわち行動で表しなさい。他の人々はそれを見て、従うであろう」

と述べています。また、このことだけでなく、「あなた方の天なる父を崇めなさい」とつけ加えています。

このように、人々は私たちの指導を求めていません。彼らは変わるように求められることを望んでい

ません。しかし、彼らは私たちが行っていることを見て、従うようになるのです。

 では次に、私たちが周りの人々を批判する誤りをどうして犯しているのか、その理由を見つけ出さ

なくてはなりません。多くの人々は、ただ陰口を話すことにより批判をしています。一般的に、社会

には多くの噂話があり、それらすべての裏には原因があります。例えば、ある人の別の人への恨みで

あったり、他の人への想像的な話をつくり上げたり、そして人々はそれらの噂を広げるのが好きなの

です。このような場にいて、噂を耳にして、私たちは本当にマインドや理性を使って、これらの噂話

を拒絶していると言えるでしょうか? このような疑わしげな話をすることによって、私たち自身に

干渉し続けさせておいてよいのでしょうか? しかし、これが現在の多くの地域社会で起きているこ

となのです。私たちは聞いたのだから、それを繰り返してしゃべる権利があると誤った正当化をし

本来の自己を騙しているのです。ここで、止まって考えなくてはなりません私たちは、あらゆる思

考がエレメンタルを創り出していることを知っています。私たしはエレメンタルに取り囲まれていま

す。特に、噂話のエレメンタルは氾濫しています。わたしたちはこれらのエレメンタルにエネルギーを与

え強化すべきでしょうか? それとも、噂話に加わることを避け、それらのエレメンタルを非活性化

すべきでしょうか?

 噂話を広げているような人を攻撃することもまた愚かな行為です。なぜなら、そのようなことをし

ても、彼らはかえってもっと噂を広げることに固執するものだからです。ですから、最善の方法は、

沈黙を護り何も言わないことです。そして、非難する人と、非難される人との両方に、友情のエレメ

ンタルを贈ることです。それは彼らが和解し、互いを愛し合うようになるような願いを贈ることにな

ります。これが正当な行動なのです。

 多くの人が、悪魔にとりつかれてしまったと話しますが、現実には、彼らは自分自身がつくり出し

たエレメンタルの重圧に苦しんでいるのです。そのような状況に対処すべき方法は、彼らの行動や考

え方を変えることです。なぜなら、彼らがつくり出した悪意のあるエレメンタルに最初に攻撃される

のが、それを自らつくり出した本人なのです。このように、私たちは自分のつくり出したものに対し

て責任を負うことになります。一瞬一瞬、人々は誤った方法でマインドを使っています。誰でもマイ

ンドを使っていますが、しかしそれはしばしば誤った方法で使われているのです。これはマインドの

マスターとして正しい思考を使わず、噂話に巻き込まれ頭が混乱してしまい、周りの他人が考えてい

ることに迎合し、さらに話を付け加えてしまうような人たちです。私たちは、聖なる超素材であるマ

インドをどのように使っているか、充分に注意しなくてはなりません。なぜなら、私たちはマインド

をただ思考としてだけでなく、形態をもったエネルギーとして理解しているからです。それがエレメ

ンタルであり、周りの人々の人生に影響を与えていると同時に、その人自身の人生にも大きな影響を

与えているのです。このように、もし私たちが世界を改善しようとするならば、先ず私たち自身がマ

インドの使い方を改めなくてはならないのです。

さて、エクササイズを行ないましょう。

 先ず、心地よい深呼吸をして、身体を完全にリラックスさせましょう。あなたが完全にリラックス

しているか身体の各部を感じてみましょう。足から始め、膝、お腹、胸、そして頭をリラックスさせ

ましょう。さあ、あなたは完全にリラックスしています。

 次に、あらゆる思考や感覚からあなた自身をリラックスさせ解放させましょう……自分が誰である

かも忘れてしまいましょう。そして、あなたが頭の中にではなく、身体全体の中にいると感じましょ

う。あなたの肉体を感じ、あなたがその身体全体の中にいるのです……そして、感情や欲望や思考か

ら解放されています。あなたは今、肉体の中に存在しています……それを感じて下さい。

 さてここで、あなた自身に尋ねてみましょう。「私は自分の肉体の中に生きているのでしょうか?」

 今のこの瞬間、聖なる大天使たちが、私の肉体の中で働いてくれています・…・・あらゆる血液細胞の

中で、あらゆる動脈の中で、あらゆる静脈の中で、あらゆる臓器の中で……あらゆる部分で聖なる大

天使たちが私のために働いているのです。自分を神として捉えましょう……それは、私がこの肉体の

中で感じ、生きるためなのです。私はこの肉体の中で今生きています……私はその中に存在してい

ます……私はこの肉体の中に存在する権利を持っています。「私は肉体を正しい方法で使っています

か?」 「私は自分の肉体に本当に愛を与えていますか?」 「私は子供を抱きしめますか? キスをし

ますか?自分が愛している人を抱き締めますか? そうではなく、叩いたり、蹴ったりしますか?

 私は、この肉体を使って自分自身をいろいろな方法で表現することが認められています。例えば、

目を使って、見ることもその一つです。聖なる大天使たちは、私たちが肉体の眼を適して見える状態

に眼の液体を保っていますが、これは基本元素の大天使たちによる大変に集中力のいる仕事なのです。

 また、口を使っておしゃべりしたり、意志を伝えたりする時、「私は口を正しい方法で使っている

と確信できますか?」「私は愛を与えていますか、それとも言葉で傷つけたり、攻撃したり、侮辱し

たりしていませんか?」 父は動物から言葉という恩寵を取り上げてしまいましたが、「私はこの父か

らの贈り物である話す能力を正しい方法で使っていますか?」

 キリストは「口を通して入ってくるものは害にはならないが、しかし口から出てくるものは大いに

害になる」と述べています。このことからも、言葉には充分な注意が必要です。

 「私は誰なのでしょうか?」「私はどのように行動すべきでしょうか?」「私は自分の行動のマスタ

ーでしょうか、それともエゴイズムの犠牲者なのでしょうか?」今日はここまでとします。









 第5章

愛、神聖なる愛




 愛とは何でしょうか? もちろん、愛という言葉は、それ自身の意味を持っています。しかし、そ

れは誰にとっても同じものなのでしょうか? ある人がこの言葉を使う時、時間と場所の領域で自己

中心的な欲望を満たすことを意味しているかもしれません。では、愛とは一体何なのでしょうか?

 愛と呼ばれるイデアは存在するのでしょうか? 多くの人たちは愛について誤解し、愛をノエティ

ック・ステートに存在するイデアや原因や法則の世界における多くのイデアの一つとして捉えていま

す。しかし、そうではないのです。これらの世界は、宇宙を創造し創り上げろために神聖なる智慧と

善性と力を拡張する必要性に仕えるものですが、愛はイデアではありません。

 愛は絶対存在としての神そのものなのです。愛という言葉はそれ自身の意味を持っていますが、愛

の意味を混同しないために、この愛を〝神聖なる愛″と呼ぶことにしましょう。

 神聖なる愛が、不滅の光であるという時、人間が理解できる〝愛″は、蝋燭の灯りや電灯やスポッ

トライト、あるいは太陽にもたとえることができるでしょう。

 時間と場所の領域における愛は、神聖なる愛の一つの現象に過ぎないのです。私が「愛は光である」

という時、現象としての人間が自分たちの眼で見ることができるということを意味していません。な

ぜなら、サイキカル・ライト、ノエディカル・ライト、ノエティックエフイト、そしてスーパーライ

トがあるように、すべては光であるにも拘らず、人間の眼は、波動周波数の限られた範囲にしか対応

できていないからです。

 愛または神聖なる愛は、絶対存在であり、聖なるモナドは絶対存在の部分であり、そのワンネスの

中にあり、またその多重性の中にもありますので、愛は聖なるモナドの本質でもあります。

 愛をマクロコスモスとミクロコスモスの観点から見ていきましょう。先ず、マクロコスモス的には、

愛は神ご自身であり、絶対存在であり、聖霊としての表現であると同時にキリスト・ロゴスとしての

表現でもあります。絶対存在の本質として、神聖なる愛をどのように言うことができるでしょうか?

それは神聖なる自己充足性でしょうか? もちろん、そうです。

 すべては創造によるものです。すなわち、全宇宙は聖霊とキリスト・ロゴスにより創造されていま

す。もし、キリスト・ロゴスと聖霊の本質が愛でないとしたら、彼らは何によってどのように創造す

るのでしょうか? また、彼らが宇宙を構築し創造するために、どのようにして彼ら自身を現すこと

ができるのでしょうか? だからこそ、最初の原理と権威は、愛の表現なのです。

 私たちはマクロコスモス的に、愛を絶対存在ご自身として理解し、そしてキリスト・ロゴスと聖霊

による愛の表現として捉えることができます。でも、愛とは何でしょうか? それは愛の表現でしょ

うか、それとも愛それ自体なのでしょうか? キリスト・ロゴスは絶対存在と一体ですので、キリス

ト・ロゴスは愛であり、マインドを使って宇宙を創造しています。聖霊や大天使についても同じこと

が言えます。このように、存在の世界において、すべては神聖なる愛の範噂に入ってきますが、しか

し神聖なる愛自身ではありません。それらすべては、神聖なる愛の〝現象″として存在しています。

 次に、ミクロコスモス的に愛と神聖なる愛をみていきましょう。人間は神聖なる愛を感じることが

できないと考えないで下さい。なぜなら、「自己認識-魂」は感じ取っているからです。しかし、「現

在のパーソナリティー」としては、愛を一つの中心、すなわち自身の「パーソナリティーとしての自

己」の周りを回る力として経験します。ここで私たちは、分離の世界における愛に〝中心″があるこ

とを知りました。

 あなたは、世俗的な愛が人間のパーソナリティーとしての自己のエゴイズムを満足させることが

できないものであると考えたことがありますか? 想像できるでしょうか? ミクロコスモスにお

いて、人間が愛と見なしている最も低い動物的な表現から、時間-場所の領域における最も完璧な

愛の表現まで、私たちは常に〝中心″を見つけ出すことになります。その中心とは、人間の「時間-

場所の自己」であり、その周りを愛の現象が回っているのです。しかし、人間が「自己認識-聖な

るモナド」として愛を表現する時、言い換えると「自己認識-魂」として超意識的に愛を表現する

時は、その「時間-場所の自己」を中心とするのでしょうか? この表現は、「時間-場所」のもの

でしょうか? もちろん違います。

 さて、マクロコスモスの観点から、キリスト・ロゴスや聖霊はどのように世界や創造や宇宙に愛を

表現しているのでしょうか? 自己中心的にでしょうか?もちろん違います。マクロコスモス的に、

愛は絶え間なく与えられているもので、無限であり、見返りを何も求めていません。一方、ミクロコ

スモス的には、愛はとるにたらないもので、もっと多くの見返りを求めます。このことを考えたこと

がありますか? このように、私たちの世俗的な愛と神聖なる愛とには大きな隔たりがあります。私

たちの与える愛は見返りを求め、与えたものよりもっと大きな見返りを要求するものです。しかし、

マクロコスモス的には、愛は与えるだけです。愛は、絶対存在により与えられ、それが命である生命

現象をもたらすのです。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と表さ

れているキリスト・ロゴスは、人を如何なる動物からも異なった存在とされましたが、かつて何かを

求めたことがあるでしょうか? 人々はキリスト・ロゴスの存在すら否定するかもしれません。絶対

存在としてのキリスト・ロゴスの存在は、単純に無視されているかもしれません。自分自身を無神論

者であると呼んでいる人で、どれだけの人たちが、宇宙におけるキリスト・ロゴスとしての生命力の

存在を否定しているのでしょうか? キリスト・ロゴスは、このような点について、まったく関与し

ていません。なぜなら、キリスト・ロゴスは、与えるだけだからです。それは常に聖霊的に、かつロ

ゴス的に与えているのです。それは聖霊として一つひとつの細胞の中で、すなわち肉体の一つひとつ

の細胞の中の、さらに一つひとつの原子の中央で働いているのです。それは創造しています。すなわち、

いろいろな方法で休みなく創り上げているのです。その存在を否定しているようなパーソナリティー

であっても、ミクロコスモスの世界で快適に、たとえ愚かであっても生きていけるように、その職場

をつくり上げているのです。キリスト・ロゴスは、何も求めていません。それはただ単純に与え、常

に与えているのです。このようにして、愚かな人間の頭の髪の毛まで一本残らず数えられていて、数

学的正確さで伸びているのです。なぜなら、神聖なる愛があるからです。

 あなたは、神聖なる愛の内にない宇宙、すなわち物質界、サイキカル界、ノエディカル界、そして

ノエティック・ステートなど考えられますか?

 最も恐ろしい地獄は、サイキカル界のある領域であり、実際にサイキカル界のサブ・プレーンに相

当しますが、これらの地獄も神聖なる愛の内にあり、先ず痛みから解放するためにポジティブな力が

彼らに行使され、後に光との同化に導かれることになります。

 神がおられるところには、神聖なる愛が存在しています。神聖なる愛が何であるかを理解する時、

私たちの同胞である人間へ向けられる愛が、どのようにあるべきかもまた理解することができるでし

ょう。その愛は最愛なる主、キリストによって「隣人を自分のように愛しなさい。なぜなら、あなた

自身であるから」と語られています。

 人間が分離の世界の幻想から解き放たれる時、彼らは「自己認識・自己」として、誰とでも一つで

あることに気づきます。物質界で愛と呼ばれている現象が回っている中心として、もはや私たち自身

を見なくなる時、私たちは神聖なる愛に入っていくことでしょう。この時が、おそらく私たちのパ

ーソナリティーがそれぞれの「自己認識-魂」と同化したと、私たちが最初に感じる瞬間でしょう。

無限なる愛の光の中で、パーソナリティーの完全化が実現するのです。すなわち、パーソナリティー

が、その「内なる自己」に入ることを意味しています。

 このようなことから、私たちは次の結論に導かれます。

 一見完璧のように見えても、時間と場所の表現物である愛は、〝中心″を持ち、その中心としての

自己が「現在のパーソナリティー」である限り、愛はその周りを回り続けます。しかしながら、この

中心としての自己の自己認識性が、内なる「自己認識-魂」に向って拡大する時、神聖なる愛の光

が初めてパーソナリティーとしての自己を輝かせることになります。この光は、神聖なる愛の最初の

放射であり、私たちの「自己認識-魂」と同じ本質の光ですが、低次の私たちの自己はその光の中で、

一体どのように感じるのでしょうか? 楽しいのでしょうか、喜びなのでしょうか、それとも充足感

でしょうか? しかし、これらの感覚は、パーソナリティーとしての自己が、いわゆる最初の一体化

の時に得る感覚と比較すると、比べ物にはならないのです。死を免れない人間が神聖なる愛を身に着

ける時、そこには不滅の光が存在しています。すなわち、不滅の光を身に着けた人間は、神聖なる愛

であると言えます。

 すでに示したように、愛とはイデアの世界における一つのイデアではありません。それは、絶対存

在ご自身です。それはまた、本質であり、絶対存在の表現なのです。このように、私たちは神聖なる

愛を、〝原因″と〝表現″と言う二つの異なったステージで捉えることができます。原因は絶対存在

の本質であり、表現はあらゆる宇宙の創造です。

 おそらく、ここで私たちは、なぜ宇宙が創造されたのかということに関する説明に辿り着くことが

できるでしょう。一つの事実が強調されなくてはなりません。それは、神である絶対存在が偏在し、

すべてを満たしているということです。なぜなら、その本質は神聖なる愛であり、絶対存在がいない

部分はなく、また神聖なる愛がない部分もあり得ないのです。理性に基づいて生きている人は、だれ

でも神聖なる愛の恩恵をいつでも受けることができます。すべての大海を泳ぎ回っていても、なお喉

が渇いて水を求める魚のようにならないようにしましょう。また、光溢れる環境にいても、その光を

観取できない人にならないようにしましょう。

 光は、肉体の眼が対象物を見るために必要です。しかし、人間は神聖なる愛の光を通して、存在す

る物質的対象物の知識もまた得ているのです。「自己認識-パーソナリティー」、あるいは「自己認

識-魂」(それ以上の自己性も含めて)にある自己認識性は、神聖なる愛の光を通して、周りにある

すべての存在についての完全な理解を得ることになります。

 それはどのようにして得ることができるのでしょうか? 狭量で小さな自己が中心となって、すべ

てが回っている状態で求めても無理で、それぞれの自己認識性を宇宙やすべての中に拡大していき、

誰でも、あるいはどんなものでも自分たち自身であると感じ、天なる父と共にそれらを楽しみ、喜び

を分かち合えるようになることです。そのようになると、私たちは創造と創造主との両方に同化され

ている状態になります。どのようにすれば、可能となるのでしょうか? 先ず最初に、鋭い集中力と

把握力と知力が必要で、その次に一体化による同化、すなわちテオーシスによって達成されます。

 神聖なる愛の光の下では、金持ちであるか、貧乏であるか、あるいは優秀であるか、劣っている

かはまったく問題にはなりません。求められているものは、時間-場所の表現における〝神聖性の

拡張″だけなのです。

 神聖なる愛を本当に理解することは易しくはありません。なぜなら、たった今まですべてのものが、

パーソナリティーとしての自己を中心として回っていて、それらの現象を通して、私たちが愛と呼ん

でいる満足を得ているためです。それだけに、それを超え、中心の向こう側へ行くこと自体がかなり

困難なことだからです。しかしながら、私たちはこの中心を越えて、「現在のパーソナリティー」であ

ることを忘れ去り、前進しなくてはならないのです。私たちは、あらゆる人類を同胞とする「共通の

自己性」であり、その共通の領域に入って行かなくてはなりません。そこで、人々はパーソナリティ

ーを超えた自己認識性、すなわち「自己認識-魂」として存在することになります。そこに初めて一

度でも入れば、私たちは神聖なる愛の光によって、私たちの目が開かれたことに気づくことでしょう。

 最後に、私は二つの考え方を話したいと思います。最初は、「誠に愛する人は、如何なる許しも持

ち合わせていない」という言葉です。これには深い意味がありますので、熟考して下さい。2つ目は、

神聖なる愛の事例です。それは十字架の上でのキリストの体験です。彼は大変な苦しみの中で、彼の

執行人に哀れみの目を向けて発した言葉が残されています。「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何

をやっているのか知らないのです」







第6章

波動、生命の光、エーテル




 今日は、光やスーパーライト、そしてその源として波動する物質的な対象物を持つ光について話し

ます。私たちがこの光の特徴として理解していることは、対象物に当たり、反射し、その反射の中で

光が最初に当たった対象物のイメージをもたらす力があることです。そのために、事実その対象物の

波動(ヴァイブレーション)である色を反射します。なぜなら、色もまた波動だからです。

 光の源は何でしょうか? それは波動する物質的な根源と言いました。しかし、何が波動させるの

でしょうか?それが光として届けられる前の段階では、波動とは何なのでしょうか?

 物質界における光は、ある一定の周波数の波動なのです。これらの波動は視神経によって翻訳され

ます。このように視神経によって翻訳される光よりも波動が低いものも、高いものも存在しています。

しかし、このようなエーテル波動は、人間の眼で捉えることができません。

 これらの波動と光との間の関係は、何なのでしょうか?もし、私たちがすべての存在する波動を

周波数に従って、高いものから低いものまで分類するとしたら、それらの波動のごく僅かな部分だけ

が、光として人間の眼によって翻訳されていることを発見することになります。他のすべての波動は、

何なのでしょうか? 何か別のものなのです。すなわち、もし人間の視神経や物質的な脳の仕組みが、

現在与えられているものと異なっていたとしたら、たとえ少しだけ異なっていたとしても、今より多

少低いか、あるいは高い場合には、別の領域の波動の光を翻訳できる可能性があると考えられます。

そうすれば、物質的な宇宙は瞬間的に異なって見えることでしょう。このようなことを考えたことが

ありますか? 全宇宙は、波動しています。現在、科学は電気や磁気、そして宇宙線について述べて

います。しかし、宇宙にはまだ科学では解明されていないことや想像さえ出来ないことがたくさん存

在しています。繰り返しますが、物質的宇宙はつねに波動しており、人間は光としての波動のごく一

部を視力によって翻訳することができるのです。もちろん、動物も同様の方法で波動を翻訳していま

す。ある動物は人間より低い波動や、あるいは高い波動を光として翻訳することもできるのです。そ

して、述べたように物質的宇宙は波動しているのです。

 さて、いくつかの質問に答えていきたいと思います。

 誰がこれらの波動を引き起こしているのでしょうか? これらの波動を生じさせているのは、生命

の担い手です。どんな方法で、これらの波動は振動しているのでしょうか? 他のレッスンで既に述

べたように、存在の世界にあるすべてはマインドなのです。これが媒体となっています。何が実際に

波動しているのでしょうか? 物質的宇宙にあるすべては、波動しています。波動とは一体何なので

しょうか? 私たちに生命現象を与えている生命の担い手のことです。これが波動の目的です。

 闇黒の闇の世界と考えられる深海にも生命が存在し、そこにも光は生命のために存在しています。

深海であっても、光を波動として翻訳できる感覚器官があるのですり 人間が生存する環境の中で行う

ことと同様に、これらの生命形態はこういった器官によって、深海でも見ろことができるのです。し

かし、人間にとって、そこにはただ闇黒の闇があるだけなのです。

 私たちの周りには、大天使たちによって捉えられる波動が存在しており、彼らはその光の中で生き

ています。これらの波動は、人間が光として翻訳できる、言い換えると人間が見ることができるもの

よりもっと高い波動です。これらは科学的に測定できる範囲を超えた波動です。このことは電気につ

いても同じことが言えます。人間には説明のつかない電気が存在しています。 この物質宇宙にあるも

のは、私たちが見たり触れたりできるものだけではないことを覚えておきましょう! 私たちは物質

宇宙とそのエーテル・ダブル、サイキカル宇宙とその七つのプレーン、さらに7つのサブレーン、

そしてそのエーテル・ダブルについて、またノエティカル界とノエティカル宇宙について、しばしば

述べてきました。しかし、一般的には、これらの世界についてはほとんど語られることも、取り扱わ

れることもありません。私たちがこの物質宇宙において見たり、触れたり、感覚で捉えられるものは、

実際の存在物のごく僅かな割合にしか過ぎないのです。

 参考にお話しておきますと、物質宇宙には、私たちの周りにある固体よりもっと洗練され、精妙で、

希薄な物質が存在しています。それらは見ることも、感覚的に捉えることもできません。それらは、

エーテル界にあるものでしょうか? また、物質界のエーテル対応物なのでしょうか? もちろん、

その通りです。

                                                

 人間の肉体にエーテル・ダブルがあるように、惑星地球にも同様なエーテル対応体があります。太

陽や惑星を含めたあらゆる天体でも同様であり、それらが燃えていたり、固体であったりしても、そ

れらに備わったエーテル対応体が存在しているのです。私たちは、そのエーテル対応体をそれらの本

質と機能に従って、刷り込みエーテル、運動エーテル、感覚エーテル、創造エーテルと呼びます。し

かし、今述べたこれら四つのエーテルがすべてではなく、実際は七つありますが、これらについては

ここでは述べません。

 私たちは、人間が感知できる物質界について述べてきました。そこには三つのエレメントと四種類

のエーテルが存在しています。三つのエレメントとは、火と水と固体です。実体としては、太陽と海

と地球となります。しかしながら、それら以外にも、惑星の中の世界、惑星の周りの世界、惑星を超

えた世界、すなわち惑星のエーテル対応体が存在しています。このために、惑星の刷り込みエーテル、

運動エーテル、感覚エーテル、創造エーテルに対応する四つの世界を持っていることになります。こ

れと同様な条件が、他のすべての天体にも適用されています。

 洞察力を使えば、惑星の中に存在し、惑星を育んでいる生命の鼓動を観ることができます。それは

惑星の創造エーテルと呼ばれているもので、惑星の四季やエネルギー循環の調整の役割を持っていま

す。それは、動物界や植物界における生命現象の生命を更新していく責任を担っています。地球は、

生命のない物質の塊ではなく、人間と同じように、生きている惑星なのです。

 次に、惑星の運動エーテルについて話しましょう。惑星の内や周りのエーテル・バイタリティー、

すなわち惑星の運動エーテルは、今まで人間の呼吸のためにだけに潜在意識的に使われてきました。

しかし、将来、私たちの肉体を持続させ、維持するために意識的に使われることになるでしょう。私

たちは惑星の運動エーテルについてより理解を深めていくことにより、その領域に生き、天地創造の

ために運動エーテルや感覚エーテルを利用している神聖なる存在たちとコンタクトが取れるようにな

ることでしょう。

 私たちの肉体とそのエーテル・ダブルは、三つの低次のエレメントと四つの高次のエレメント、す

なわちエーテルによって成り立っていますが、そのことを一旦意識的に感じることができれば、あな

たはエーテル・ダブルを適して、サイキカル体の認識性に向けて進むことができるようになります。

これを達成することはかなり困難な仕事になりますが、達成できればもっと力の溢れる、喜びの多い

過程になります。

 あなたが惑星の刷り込みエーテルに入るとき、あなたは最初の直観を得ることでしょう。しかし

これはまだサイキカル界の完全な直観ではありません。その後、あなたは惑星の創造に携わる神聖な

る存在たちとコンタクトが取れるようになることでしょう。また、基本元素の大天使たちともコンタ

クトが取れるようになるでしょう。その大天使たちのエレメンタルである天使たちが、動植物界のあ

らゆる種類、火や水の自然霊たちを監督しているのです。しかしここで、物質、水、空気、火の悪意

をもった存在たちも見ることになることに注意して下さい。彼らはサイキカル界に属していません。

 これらの知識を得ることからのリスクと利点は何でしょうか?

 先ず、リスクについて見ていきましょう。リスクの一つは、もしある人が一定の能力を取得しても、

その力を善性の目的に使えなかった場合や、意識的に悪い目的に使ってしまった場合、それらは黒魔

術となってしまい大変に厳しい成り行きが待っていることになります。もう一つのリスクは、例えば

念力などの現象で、自分の能力を見せびらかすようなことを始めれば、彼は自分のパーソナリティー

のエゴイズムを増幅していることになります。ですから充分な注意が必要で、無益な目的のために見

せびらかしたり、実演したりして、自分のエゴイズムにへつらうような落とし穴に決して落ちないよ

ぅにしましょう。重要なことはそのワーク自体であり「現在のパーソナリティー」を見せびらかす

ことではありません。

 利点について話します。人がこれらの能力を身に付けると、惑星のエーテル・バイタリティーによ

って自身のエーテル・ダブルが豊かになり健康を得ることができ、そして刷り込みエーテルと合わせ

て使うことによって、人々を助けるために近距離でも遠距離でも強力なエレメンタルを送り出すこと

ができるようになります。

 苦しんでいる人の顔に笑顔が花開いたり、青ざめた頬が再び健康な色を取り戻す光景を見ることは

素晴らしいことではないでしょうか? これを創造主は望んでいるのです。病とは、自然に反するも

のを指します。それは自然の法則を侵した結果なのです。神が世界を創造された時、彼の目的はいろ

いろな世界の人々が至福と健康を楽しむことでした。神の共同創造主である私たちは、その法則と神

聖なる意志との調和を築き上げられるように人々を支援しなくてはならないのです。



〔質問〕肉体の維持や持続の過程において、いろいろな臓器は同じ波動で機能するのでしょうか?

   それとも、異なった波動で、機能し始めた後に調和するのでしょうか?

〔回答〕それぞれの臓器に特徴を与えているいろいろな波動があります。すなわち、脳には脳の波動

   があり、肺には肺の異なった波動があります。肝臓、すい臓、心臓、腎臓、筋肉、神経など

   それぞれ異なった波動があるのです。そして、私たちには全体の波動、すなわち調和された

   波動があり、それが私たちに人間の肉体を与えているのです。これらすべての波動を調和さ

   せているのが聖霊です。聖霊は臓器や器官をそれぞれの部位に保ち、互いの波動が機能する

   ように調和させています。そして、神経システム、すなわち交感神経や副交感神経を通して、

   全体として機能するようにしているのです。








   第7章

思考、考えること

マインド、光、高次での利用について



 今日のレッスンのテーマは、「思考」と「考えること」です。「思考」とは一体何でしょうか? こ

の質問をすると、多くの人は次のように答えます。「思考が何であるか知らないかですって? 考え

ることにより、思考が何であるかを知ることになるね」ここで私が敢えて言いたいことは、「あなた

方は思考が本当に何であるか知らない」ということなのです。なぜなら、あなた方はこの質問をまだ

充分に分析できていないからです。

 「思考」の本質とは何でしょうか? あなたは「思考」を何だと思いますか? ある人が考えると

いう時、その人は意識的に考えているのでしょうか、自己意識的に考えているのでしょうか、あるい

は潜在意識的に考えているのでしょうか、それともただ自動的に考えているのでしょうか? このレ

ッスンの目的で考えるかぎり、潜在意識的に考えることは、その人にあまり役立つことはないでしょう

 そこで、「思考」とは何でしょうか? すでにお話したように、すべてはマインドで、超素材か、

素材か、あるいは超物質です。この段階では、マインドの最も低い波動の状態で物質と呼ばれている

ものについては触れません。しかし、すべてはマインドなのです。

 「思考」とは一つの形態であり、「考えること」とは、果てしないマインド超素材の大海の中から、

それを得る方法なのです。マインド超素材は、表現がなされていない形態のないマインドとして、既

に存在しているのです。私たちはそれに所定の方法で形を与えます。すなわち、私たちがそれを〝形

態化″して、私たちの内なる世界であるノエティカル界で、ノエティカル・イメージ、あるいは映像

として表すのです。そして同時に、それらを私たちの周りの環境のノエティカル界へエレメンタルと

して投影するのです。

 このことが、「思考」であり、「考えること」であると今まで考えたことがありますか? 「思考」は、

マインドの形態化であると言えます。それは特定の映像やイメージのように、ある一定の形態のマイ

ンドと言えます。今まで人類は、これらのイメージを完全に自動的に創り出すことを学習してきまし

た。これらのイメージは、その人の人生や環境で発見される目標や希望や欲望の産物なのです。

 しかし、その人は自分の思考が何であるかを分析したことがあるでしょうか? 何が原因となって

「思考」が現われるのでしょうか? 誰が考えているのでしょうか?「考えること」と言われている

作業の目的や結果は何でしょうか?

 誰でも自分の眼に留まってから、すなわち先ず気づくことから考えが起こるものです。それは、そ

のようにしないとできないのではなく、ただそれ以外の方法に習慣付けられていないからに過ぎませ

ん。

 人は現象界の物質レベルにおいて、何かを求める瞬間には、自分自身の中に一定の感情を引き起こ

す必要があり、それがその人自身の中で思考を表現する始まりとなります。

 もちろん、真理の探求者は成長するにつれて、異なる世界(物質界、サイキカル界、ノエティカル

界)の現象から帰結的に、かつ独立した形態で、マインドを利用できることが分かるようになるでし

ょう。しかし、普通の人は、このようなことをまったく知る余地がありません。この方法や手法は、

影響力が強いものです。すなわち、思考とは力であり、それも強大な力となるのです。これを、私た

ちは〝創造性思考″と呼びます。

 思考という現象を創り出すために、私たちは「自己認識」と呼ばれている一つの永遠の存在を持た

なくてはなりません。それが「考えること」であり、「考える人」になります。

 さらに分析をするならば、「自己認識」とは何でしょうか? それは単に一つの永遠の存在を取り

巻く神聖なる思考の形態なのでしょうか?このことを理解するためには、さらなる学びが必要です。

既に話したように、「自己認識」からの如何なる形態も、具体的に言えば私たち自身の表現は、思考

と瞑想と潜在意識の反映の産物であると言えます。

人類はまだ思考を物質化できる段階に至ってはいません。しかし、人は考えることが可能であり、

マインド超素材を使ってそれを思考に形作る(組成する)ことができるという事実は、すべての宇宙

において、私たちの周りのあらゆるものが神聖なる思考の産物、言い換えれば物質化された神聖なる

思考であることを証明するものです。

 現在の世界において、人、すなわち考える人は、父の完全性にはとうてい及ぶものではありません。

天におられる父は完璧ですが、人はまだ完全に至っていません。人が考える人として、マインドを

〝力と意志の力〟として表現するとき、その人は完全となるのです。この結果は物質化であり、考え

る人の到達点なのです。

 人はそのことに気づきもせずに、自分の思考、すなわち〝力の形態″を投影しています。それを、

私たちは〝エレメンタル〟と呼んでいます。キリストであるジョシュア・イマヌエルによると、「そ

れらは霊であり、物言えず、聞く耳をもたないものである」と述べられています。このことが意味す

ることは、彼らは彼ら自身の中にも、彼ら自身にも言葉(ロゴス)に関するどんな智慧も持ち合わせ

ていないということです。「聞く耳を持たない」ということは、「時間-場所」の単なる表現に過ぎ

ず何も内容がないもので、それ以上の何ものでもないということですり

 これはもちろん、マインドを思考へ形づくる目的ではありません。しかし、後に人間はマインド素

材や超素材を「思考の力」、すなわち生命を賦与されたエレメンタルとして使うことを学ぶようにな

るでしょう。

 私たちの周りのあらゆる生命現象を観察していくと、創造され、今、生きているすべての生命現象

の中に、神聖なる思考のまさにそのままの投影が生命として賦与され存在していることに気づきます。

 さて、その「思考」と「考えること」についてですが、思考とは一体何によって引き起こされると

思いますか? 私たちがある状態に気づいたり、あるいは一つの対象物の存在を捉え、把握すること

は、思考の原初に導くために必要なプロセスだと思います。しかし、どのようにしたら良いのでしょ

うか?

 これやあれを知るためや、所有するための興味が生まれてこない場合、思考は起こりません。この

ように、〝興味″が考えることの前提条件となります。

 私たちは考えます。「考えること」とは、私たちのノエティカル体の中にサイコーノエティカル・

イメージや画像を創り出すことを意味しています。そして、思考は存在し続けます。それは、私たち

が考えをめぐらす時に利用して、その後消えて無くなるようなものではありません。あらゆる思考は、

私たちの低次の自己(現在のパーソナリティー)の一部、いわゆる「潜在意識」と呼ばれているとこ

ろに留まるのです。そして、それをどんな時でも、私たちの記憶の表面に呼び起こすことができるの

です。、そうすると、私たちは再び、そのノエティカル・イメージや画像、あるいは状況や状態を見る

ことができます。それらは、以前私たちを興奮させたり、わくわくさせたりしたものなのです。

 ここで、私たちは新た、な要因に気づきました。何か私たちをわくわくさせるもの、すなわち波動を

もたらす状態を創り出します。それを欲望やフィーリングや感情と呼ぶことができます。

 フィ-リングとは何でしょうか? 思考とは何でしょうか? これら二つの関係は何でしょうか?

これらは同じ素材から創られていますが、これら二つの状態を分けて考えなくてはなりません。どの

ような「思考-イメージ」、あるいはエレメンタルにも、それ自体の生命の持続のために結合力が必

要とされています。このことは、それ自体の中にフィーリングや欲望を保持していることを意味して

います。

 次に、エレメンタルを調べてみましょう。なぜ私たちは、私たちが投影した「サイコーノエティ

カル形態」をエレメンタルと呼ぶのでしょうか? なぜなら、それらは四つの形態の基本元素(エレ

メント)から創られている.からです。すなわち、ノエティカル界、サイキカル界、エーテル界、そし

て物質界のエレメントを指しています。

 さてここで、一つの思考を創ってみましょう。一本の木が見えます。私たちはそれを見ています。「私

にはそれが見える」ということが意味することは、私がそれを感受し、それがどこか、ここか、あそ

こかに存在していることを認識している、と言うことです。しかし、どのようにして、この木を見た

り、感受したりすることができるのでしょうか? 私たちには光があり、時空間的な隔たりがありま

す。光はエーテルの波動です。その波動が物の表面に、当たるとと、形と色として表面に順応させ、その

対象物(その木)のイメージを取って、私たちの眼に反射させてきます。考えてみてください……光

が果たす全ての作用が何と驚くべきプロセスであるかを! このように、光が当たる対象物のあらゆ

るポイントからの放射として光は進み、それぞれの異なったポイントから波動する異なった光線が決

して混ざることがないことに気づきます。ざらに説明を加えると、遠くにある木を見る時、それは、は

っきりとは見えません。しかし、これらの光線は私に届いているのです。双眼鏡を使うと、あたかも

もっと近くにあるようにすべての個々の光線を見ることができます。もし私が双眼鏡によってそれら

を分離することができるとすれば、波動する一つひとつの光線を見ることができることになります。

それらは、木からくる光がそれぞれのポイントからの放射として、そのように近い距離に私がいるよ

ぅに感じさせます。あなた方も、このようなことを真剣に考える時がきっと来ることでしょう。

 私がその木を見るやいなや、それについてもっと知りたくなります。これにより、私自身の中で興

味が創造され始めます。一つの思考を取り巻くように現われる、この〝興味〟こそが、さらに他の思

考へ向わせる潜在意識特有のやり方ではないのでしょうか? それらもまた、マインドの産物です。

このことを研究し分析するためには、ある特定の方法や手段が必要となります。その対象は何でしょ

うか?

 それはサイキカル体の低次の波動についてです。

 では、それを別の方法で見てみましょう。その木をもっと知るために、その木に近づき触覚を使っ

てみましょう。私はより近づき、その木に触れます。しかし、その木に限らず、知りたい対象物にも

し近づかないとしたらどうなるか観察して下さい。それはその木の映像であるイメージを単に受け取

ることになります。それは私の眼に留まり、最後に視神経を経由して、脳の特定なセンター(重く鈍

い肉体の脳ではありません)に刺激を与えることになります。その対象物、木であったり、そのイメ

ージであったり、私は何を探っているのでしょうか? それらはまだ思考に転換されていません。な

ぜなら、私がそのイメージに集中し始め、それについて瞑想し、その対象物を知るために通常の熟考

をめぐらす時に、思考が起きてくるのです。

 しかし、私は何に意識を集中させるのでしょうか? そのイメージに対してでしょうか? それと

も、私の中の刺激にでしょうか? あるいは、その木にでしょうか?

 私が「あなた方は思考が何であるか知らない」と言った時に、おそらく同意できない人も、あるい

は感情的になった人もいると思います。しかし、今、再び同じ質問をします。「あなたは質問を分析

しましたか? そして、思考が何であるか理解していますか?」どう思いますか?あなたは波動

という形態のイメージ(イメージそれ自体ではなく)を探索しているのですか? 波動は、イメージ

を引き起こさせ、脳の視神経への刺激もつくり出します。それとも、その木自体を精査しているので

しょうか? 私はその両方だと思います。なぜなら、それに気づかなくても、私たちはその場や環境

のエーテルの中にすでに拡張されているからです。では、私たちは何を探索しているのでしょうか?

 私たちはその場にいて、そのイメージと波動を探索しているのです。

 明日、あなたが対象物を見て学ぶ時、あなたが本当にイメージを探索していることに気づくことで

しょう。しかし、あなたは同時に自分がそこにいて、それを知っているように感じることでしょう。

それは最初、対象物の中にいるような感じですが、後にあなたは対象物の中へ思考を如何にして拡張

するかを学ぶことになるでしょう。言い方を換えれば、あなたはアチューンメントを通して、マイン

ド超素材の持つ奇跡的な特質について分かることになるのです。その信じ難い特質は、私たちが知り、

また利用しているものを遥かに超越するものなのです。思考というものが、現在あなたが思考と呼ん

でいるものを遥かに超えたものであることに気づくことでしょう。

私たちは、思考がどのようにして起こるのか、また如何にして創造されるのかについて学んできま

した。私は自分が「永遠の存在であり、また一時的な存在でもある」ことを潜在意識的に知り、そし

てこのことを明言します。また、私は「考える人」であり、瞑想するものであり、自分の周りの異な

った物事の印象を受け取るものでもあります。

 後に、私たちの自己で、「自己認識」と呼ばれているものについて、「考えること」を通して再び学

ぶことでしょう。この自己を完全に探求することが必要です。

 マインドをミラー(鏡)と言うことができるのではないでしょうか? すなわち、ノエティック・

ミラー、ノエティカル・ミラー、そしてサイコーノエディカル・ミラーであり、どんな願いでも映

し出すことができるのです。私たちが知っている周辺にある光ではなく、ノエティカル・ライトとサ

イキカル:フイトを通して見ることができます。私たちが自分の自己を探求する時、私たちは〝永遠

の存在〟として、自分自身のことを単なる〝情けないパーソナリティー″と考えているよりはるかに

大きな存在であることに気づくことでしょう。そうです……私たちは何かもっと偉大な存在なのです。

 私たちは、今までマインドを潜在意識的に、また機械的に使ってきましたが、最終的には〝永遠の

存在〟として、自分の意志でマインドを意識的に使えるようになるのです。あなたは、このことを認

識していますか?

 今話しましたように、マインドはノエティック・ミラー、ノエティカル・ミラー、そしてサイコー

ノエディカル・ミラーであり、その上に映し出し集中することにより、あらゆるものを探求し知るこ

とができるのです。もちろん、私たち自身も知ることができるのです。





 さて、私たちは思考形態を取る前の、いわゆるマインドに取り組んでいるところです。私たちがそ

れを特定の思考へ形態化するまで、それはとらえどころがなく、表現されていない段階にあります。

私たちが思考をつくり出す時に、その思考の形態化を可能としてくれる超素材から取り込んでいる限

り、その存在を否定することはできません。

 ある人は、思考が物質的な脳の産物であると主張していますが、これ以上に愚かなことはありませ

ん。かつてそのように主張した科学者ですら、今ではそれを否定しています。

 もし私がマインドを思考として形態化しない時、私がもはやいかなる印象も受け取れない状態に入

っていることを意味しています。おそらく、私が深い睡眠状態のときは、このような状態になってい

る時でしょう。しかし、数時間経って目覚めた時、私は全体として機能し、潜在意識にある自己の映

像や過去の出来事から引き出すために、再びマインドを使い、思考へ形態化する準備ができているの

です。そのような時の無意識状態、すなわち完全な忘却の数時間を不思議に感じませんか? 今、私

が記憶から引き出している、これらすべての思考は、どこに存在していたのでしょうか? なぜなら、

このような時間の間、もしこれらの思考が存在していなかったのであれば、どのようにして再び創造

されたのでしょうか? もし、この現象がないとしたら、私たちはどのようにして自己を「自己認識

-パーソナリティー」として認識することができるのでしょうか? また、私たちはどのようにして

「現在のパーソナリティー」が完全で無傷の「自己認識」であることを理解することができるのでし

ょうか? 私たちは一定時間の間、ある時間数、眠りあるいは深い睡眠と呼ばれている状態に入り、

すなわち非存在の状態になります。しかし、後に目が覚めた時、私たちはすべてを持っています。す

なわち、睡眠以前の元の自分に戻ったことになります。

 このことをさらに深く調べていくと、深い睡眠から覚めた直後のパーソナリティーとしての自己を

分析することから始めることになります。これは、私たちがこの完全なシステムを引き出せることを

知ることなのです。すなわち、自分の感情、欲望、弱さ、不完全さや自己流の考え方などを伴ってい

ても、「私は私である」と言うことを知る完全なシステムに気づくことになります。

 誰も睡眠の後、天使として目覚めることはありません。あるいは、罪のある人が睡眠の後に、善人

に変わることはありません。これらは進化の問題であり、その探索も行わなくてはなりません。

 考えることのない「自己認識-永遠の存在」とは、どのようなあなたなのでしょうか? これは

あなたが真剣に考えなくてはならない事柄です。なぜなら、あなたがその答えを得る時、あるいは経

験を通して知る時、「内なる自己」として私たち一人ひとりが、神聖なる存在であり、永遠で、不変で、

そして死と呼ばれる現象とは無縁であることを理解することになるからです。その瞬間から、私たち

は瞑想を通して、死と呼ばれている状態を探索し始めることができ、死が存在していないことを納得

できるようになります。

 私たちはまた、思考がない領域を探索することもできます。この領域に入るには方法があり、そこ

で私たちは考えることなくして、私たちが完全であることを受け入れることができます。すなわち、

私たちの自己を外へ表現することはなく、外から印象を受け取ることもありません。もちろん、これ

らのことを理解することは、現在のあなたにとって困難なことかもしれません。そのためには、多く

の瞑想が求められ、またかなりの期間に亘る内省、そしていろいろな分野への探求も必要となります。

 マインド超素材を〝賢い思考″として今使わずして、あなたはどのようにしてこれらの物事を探索

することができるのでしょうか? 私が〝賢い思考″と表現する時、何を意味しているのでしょうか?

 光があらゆる対象物の存在を私たちにもたらしてくれます。もし、その光に集中すれば、光によっ

て存在を与えられているものを完全に把握することができるでしょう。従って、内省において、いろ

いろな状態を認識できるようになり、もっと多くのノエティカル・ライト (もっと後に、ノエティッ

ク・ライト)が照らされ、内省と探求を通して、対象物に焦点を絞れるようになる時、以前には単に

興味がないために焦点を合わせることができずにいた物事にも完全に焦点が合わせられ深い理解を得

ることができるようになります。この「焦点を絞る」という表現が意味を持っています。

 このように、ある物事に意識を国定することは、物事をもっと完全に知ろうとするときの必要前提

条件となります。この「意識を囲定する」あるいは「焦点を絞る」とは、誰が行うことでしょうか?

どこに意識を固定するのでしょうか? どのような方法で意識を固定することができるのでしょう

か? これらすべては探索されるでしょう。思考を使って、私たちはどのように探索するのでしょう

か? 結果的に、私たちは循環の中を回り続けています。そして、私たちが同じ超素材を絶え間なく

使い続けていることが分かります。その同じ超素材から、私たちの自己認識である自己、そして「現

在のパーソナリティー」を創り出しています。そして、最後にその同じ素材から、私たちが今の瞬間

に身に付ける汚れたぼろ着が創られているのです。また、その同じ超素材が、信じられないほどの美

しい光で輝く衣服になります。それは「自己認識-魂」が身に着けるものです。この詳細にある深

い意味に意識を向けて下さい。

 このように、私たちの探求はマインドと、そのマインドを思考へ形態化する私たち自身の能力の内

でなされるもので、その思考が私たちに仕えてくれるのです。私たちは、思考が鏡のようなもので、

それを通してあれやこれを見ていることを理解していなくてはなりません。

                                                

 しかし、これは初期の段階であり、後に私たちは別の領域、すなわちもう一つの探求方法に入って

いきます。その時、私たちはどんな対象物にも意識を固定しません。かえって、その対象物から離れ

ても、それを理解しなくてはなりません。このことは、私たちがマインド超素材を通して、対象物の

知識を得ることだけではなく、別のさらに優れた方法があるということ意味しているのです。それは、

私たちが如何なる対象物とも一つになれ、それから意識を固定することができるということです。私

たちは、これを「アットワンメント」(一体化)と呼んでいます。この「アットワンメント」は、知

識に導くものではありません。その初期段階を「アチューンメント」と呼び、後の段階を「アットワ

ンメント」といい、これが智恵へつながるものなのです。従って、智恵は知識ではありません。知識

とは智恵へ導くものです。このように、智恵が知識と異なることを理解しておきましょう。

では、対処物の知識がない不完全な立場から見て、対象物を観察もせずに、理解もせずに、どのよ

うにして知識を得ることができるのでしょうか? それは時間と空間の観念を超えた能力である「同

化」によって行われます。時間と空間を超えるとは、どのようなことなのでしょうか? 例えば、あ

なたが木というものを知ろうとする時、その木があなたからどのぐらい離れているかは問題ではあり

ません。また、その木は存在しているのですから、あなたが肉体の目で見るかどうかも問題ではあり

ません。私たちが知っている通常の光を超えた別次元の光も存在しています。もし、その木が発する

通常の光を超えた光の波動にアチューンメントできれば、あなたはその木の存在を感知することがで

きるのです。

 真理の探求者は、この方法を使えなくてはなりません。例えば、今ここにいる探求者は、自分が知

らない木であっても、また百科事典で調べたことがなくても、探索できなくてはなりません。たとえ、

その木がアマゾンでも、他のどこかに存在していても、その対象物である木にアチューンメントし、

その木が放射する波動を捉えることができなくてはなりません。その対象物が彼から何万キロ離れて

いるかどうかはまったく関係がないのです。

 ノエティック領域とノエティカル領域には別の光の放射があります。

 それらは 「ノエティカル・ライト」 と呼ばれています。この光は私たちの知覚に届いていますが、

その人が感知できるレベルにならないと、対象物に自身をアチューンメントできません。アチューン

メントするということは、通常の光が対象物の表面だけに当たり、その情報を眼にもたらすという範

囲で、対象物を知るということではありません。アチューンメントとは、時間と空間を超えて対象物

に入っていくことを意味しています。

 このような感知力が身につくと、空間は存在しなくなります。では、時間はどうでしょうか? 対

象物の詳細一つひとつを学ぶ時間は不要となります。なぜなら、「アットワンメント」は瞬間で、あ

なたの目のまばたきより早く起きるものだからです。植物学者が何百年かけてもまだ知ることのでき

ない、この木のあらゆることを知ることができるでしょう。

 繰り返しますが、これらすべてはマインドからくるもので、言い換えると「思考」の別の形態に過

ぎません。しかし、これもある種の「思考」とも言えるのですが、その違いに注意しなくてはなりま

せん。では、この一種の「思考形態」は、私たちの知っている「思考」とはどのような違いがあるの

でしょうか?  

 それは、もっと後になって、あなたがまた別の形態である「マインド超素材」を「超意識-自己認識」

としての印象を感受するために、利用できるようになったときに理解できるでしょう。この印象とは、

「自己認識-パーソナリティー」からのものではなく、〝魂″〔自己認識-魂〕からのものです。これらは、

あなた方が将来知ることになることなのです。

 あなたの可能性を拡大しなさい。そうすれば、その成長している能力があなたのものではないこと

に気づくことでしょう。それは、あなたの存在自身、すなわち「内なる自己」としての崇高性へのよ

り豊かな認識なのです。









 第8章

ヒーリング、エーテル・バイタリティー

サイキカル・ヒーリング、スピリチュアル・ヒーリング



 サイコセラピー〔精神/心理療法〕とは、何でしょうか? サイコセラピーとは、誤った言葉です。

それは、ギリシャ語で魂を意味する〝サイキ″(または、プシュケ/psyche)から発生しています。

魂とは神であり、セラピーを必要とはしません。

 多くのヒーラーたちは、自分たちが癒し手であると主張しています。これまた、誤りです。如何な

る人間も、ヒーラーであると言うべきではありません。なぜなら、聖霊が癒しを行っているからです。

人間は道具であり、聖霊や基本元素の大天使たちの媒体にしかすぎません。その彼らがヒーリングと

呼ばれている現象を生じさせているのです。

 完全な神であり、完全な人間であったキリストでさえ、「人の子」として話をする時、「私自身は何

も行なうことができない」と述べ、「業を行なっているのは、私の中の神である」と付け加えております。

このことからも、いわゆるヒーラーが、そのワークにおいて聖なる知性や聖霊による聖なる御業に使

われるということは、大きな栄誉に値することなのです。

 私たちは、いわゆるヒーラーと呼ばれている人たちを、サイキカル・ヒーラーとスピリチュアル・

ヒーラーとの二つのカテゴリーに分けます。サイキカル・ヒーラーは、主にエーテル・バイタリティ

ーに係るワークを行なっています。一方、スピリチュアル・ヒーラーは、自身の意識を「共通の自己

性」における〝アットワンメント″まで高めています。

 私たちは最初、サイキカル・ヒーラーに専念しなくてはなりません。私たちは人間の肉体が一種の

電磁エネルギーを持っていることを観察し、学ばなくてはなりません。私たちはそれをエーテル・バ

イタリティーと呼んでいます。ヒーラーは、それが何であるか、どのようにして得るのか、どのよう

にして保つのか、どのように処理するかを知らなくてはなりません。伝統的な科学でさえ、このエネ

ルギーの存在を認めています。1734年から1815年まで生きたメスメルは、彼が〝動物磁気″

と呼んだエネルギーを発見しました。

 このように、私たちの肉体に浸透した部分や周りには、エーテル・バイタリティーと呼ばれるエネ

ルギーが存在しています。これが神から与えられる日々の糧なのです。私たちは毎日彼に日々の糧を

与えてくれるように求めています。この生命エネルギーが、私たちの日々の糧なのです。キリスト

が「わたしは命の糧である」と言ったように、このエネルギーはキリストご自身の表現でもあります。

 このことから、私たちはこのエネルギーを聖なるものとして扱わなくてはならず、同時に肉体もまた

聖なるものと考えなくてはなりません。

 多くの自称ヒーラーたちは、彼らのパーソナリティーが充分に陶冶されていない場合は特に、この

エネルギーを潜在意識的に利用しています。彼らは時には成功し、時には上手くいきませんが、その

理由が分かりません。ですから、私たちは、このエネルギーを意識的に使うことを学ばなくてはなり

ません。すなわち、このエネルギーについて、もっと多くのことを知らなくてはならないのです。

エーテル・バイタリティーが、肉体を生かしています。そして、健康を保っています。このエネル

ギーは、私たちの肉体の内や周りのどこにでも存在しています。それは呼吸や食べ物、そして次元の

異なる世界からの同化という他の手段を通して得ることができます。私たちの肉体の内や周りにある、

このエネルギーを「エーテル・ダブル」と呼んでいます。また、このエネルギーの保存庫は、太陽神

経叢にあります。

 キリストは、このエネルギーについて話しています。ある女が、キリストの衣服に触れるだけで病

が癒されると信じていました。そして、彼女は彼に触れ、癒されました。信仰は驚くほど偉大なパワ

ーなのです。その時、キリストは「わたしの服に触れたのはだれか? わたしの身体から力が出て行

ったのを感じたのだ」と言われました。

 また、他の状況でキリストは「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の腹から生

きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。これはヨハネによる福音書からですが、「彼

の腹から流れ出る生きた水の川」とは何のことでしょうか? これが太陽神経叢から出てくる生命エ

ネルギーを指しています。



 私たちは、自分たちが全能なる知性から日々、一定量のこの生命エネルギーを与えられている、と

いうことを認識していなくてはなりません。私たちは、それをどのように使っているのでしょうか?

 私たちは、それを無駄に燃焼させ使い果たしています。乗り物である車の場合、走り回るためにガ

ソリンが必要になります。一方、人体は生きるために生命エネルギーが必要です。次に、あなたが毎

日100単位のエーテル・バイタリティーを与えられていると仮定しましょう。この内、40単位は聖

なる基本元素の大天使たちが、肉体を持続させ、良い健康状態を保つために毎日必要なのです。あと

40単位は、私たち自身が動き回ったり、考えたりなど生活をしていくために必要とされます。これに

より、自由に使える20単位が残ります。しかし、現実に人間はどのように使っているのでしょうか?

 私たちは、80単位以上を燃焼させているのですが、その利用というより、謝った目的のために誤用

しているのです。結果として、与えられる量より多くを浪費していることになります。このように、

肉体はエネルギー欠如状態となり、病が現われてくるのです。何にエネルギーを浪費しているのでし

ょうか? 反射的にかっとなる怒りは多くのエネルギーを浪費させます。自分自身の中にネガティブ

な気持ちや感情、嫉妬や恨みや敵意のようなものを抱え込むことは、継続的なエネルギーの燃焼を引

き起こします。このため、病の80%は、患者の責任と言えます。しかし、ある人が他の人の重荷を肩

代わりしている場合は、状況が異なってきます。例えば、他の人が払うべきであったものを、彼が進

んで代わりに払うような場合は別となります。

サイコセラピストは、癒しを行う時に、自分自身のエネルギーの一部を費やしているのでしょうか?

 それによって、一目の終わりにぐったりと疲れてしまうのでしょうか? いいえ、そんなことはあ

りません。彼は自分のエネルギーを全然使っていません。〝彼″がヒーリングを行っているのではなく、

聖霊と聖なる大天使たちがサイコセラピストを、ただチャネル〔伝達経路〕として使ってヒーリング

を起こしているのです。もし、そのサイコセラピストが本当に人類を愛し、神を愛し、完璧な理解を

持っていれば、彼はまったく疲れることなく、一日に百人でも癒すことができるのです。強力な愛の

エレメンタルを創ることができ、患者が回復することを真に信じ願う者は誰でも、ヒーリングのプロ

セスにおいて良い結果を得るものです。

 では、患者はどのようにして癒されるのでしょうか? 私たちは彼にエーテル・バイタリティーを

与えます。そのエーテル・バイタリティーが癒しを起します。しかし、私たちも、高次のパワーと呼

んでいるものを使って、聖なる大天使たちと協働することもできるのです。それには、視覚化、創造

的視覚化、そして物質化や非物質化などの高次のパワーが必要となります。それを〝私たち″が行う

のでしょうか?いいえ、私たちは何も行いません。私たちは自分たちのものではなく、神に帰属す

ることを行っているのです。なぜなら、私たちの肉体も私たちのものではありません。私たちのパー

ソナリティーでさえ、私たちのものではないのです。すべてのものは、絶対権威からのものであり、

すべては絶対的真実を賛美するためのものなのです。

 今日では、多くのサイコセラピストたちは自分たちが人を癒せると信じ、患者に対して、彼らの潜

在意識からエネルギーを放出できると信じています。彼らは患者に手を当てることによって、自分た

ちの身体から患者にエネルギーが流れると信じているのです。もちろん、ヒーリングの成功は彼らの

信仰の深さによります。すなわち、信仰心によるのです。しかしながら、彼らは彼ら自身のものを何

も与えていません。真の癒し手は、ロゴスと聖霊、そしてロゴスが偏在している母なる自然なのです。

たとえ、ヒーラーが干渉しなくても、例えば、足の傷はそれ自体によって自然に癒されるのです。

 サイキカル・ヒーラーと呼ばれている人たちは、エーテル・ダブル、そして生命エネルギーの本質

を知らなくてはなりません。彼らはそれを肉体のエーテル・ダブルに、どのように保存し、いつもエ

ーテル・ダブルがその生命エネルギーで溢れているような状態に、どのようにして保つのかを学ばな

くてはなりません。彼らは、どのようにして自分自身をエネルギーの保存庫にアチューンメントする

のかを知らなくてはなりません。そのためには、自分自身を訓練し、潜在意識について理解し、それ

を浄化して、ヒーリングに有効なエレメンタルを再活性化し、病を引き起こしているエレメンタルを

患者から取り除くことに役立てなくてはなりません。これには潜在意識や生命エネルギーに対処する

上で、長年にわたる瞑想、集中、視覚化の訓練が求められています。誰もが両手を利用できるように、

エーテル・ダブルやエーテル・バイタリティーを意識的に利用できなくてはなりません。私たちがい

つも教えているこれらのレッスンは、いわゆるサイコセラピストと呼ばれているようなセラピストに

なりたい人たちのためだけでなく、あらゆる人々の霊性の向上を願う人たちのためのものでもありま

す。

エーテルダブルの活用における私たち自身の訓練の一つの方法は遠隔ヒーリングに使われる光

のボールのつくり方を学ぶことにあります。

 私たちが観察や経験から知っていることは、思者を愛し、健康を取り戻すことを真に願うことが、

私たちの肉体から患者へエーテル・バイタリティーの流れを促進するエレメンタルを創り出すことに

なるということです。

 キリストであるジョシュア・イマヌエルは、彼の使徒にヒーリングの真髄を教えていました。これ

は一定のエクササイズにより、彼らの肉体、むしろ肉体のエーテル・ダブルをそのエネルギーで溢れ

る程に満たす方法でした。それらは呼吸法であり、エーテル・バイタリティーへの集中方法であり、

もちろん信じることや視覚化の訓練も合まれていました。私たちの周りには、科学者が酸素と呼んで

いる空気だけではなく、エーテル・バイタリティーも存在しているのです。これは本当に適切な言葉

で、〝エーテル″という表現がその本質を与えてくれ、〝バイタリティー″はそれが何であるかを教え

てくれます。このエネルギーは思考でしょうか? そうです。それは思考でもあります。それ自身の

中に知性が含まれているのです。そのため、エーテル・バイタリティーからつくられているエレメン

タルには、それをつくった人や他の人からの知性が含まれているのです。このために私たちは、この

生きているエネルギーをエーテル・バイタリティーと呼んでいるのです。バイタリティーが生命を与

えています。ですから、エレメンタルはそれ自身の知性を持ち、その生き方を持っているのです。良

いものであっても、悪いものであっても、これらのエレメンタルの総体はエーテル・バイタリティー

からつくられ、私たちのパーソナリティーを構成し、すなわち私たち人間としての本質で潜在意識と

呼ばれている部分を組成しています。

 しかし、エーテル・バイタリティーからつくられている潜在意識は、パーソナリティーの潜在意識

的行動だけでなく、このエネルギーの倉庫でもあります。このエーテル・バイタリテ、イーは、永遠の

存在として、また一時的な存在としての道において、一定の状態で見出されます。それらはサイキカル・

バイタリティーとして、またノエティカル・バイタリティーとして現われます。内省を通して観察し

見出すことができますが、このエーテル・バイタリティーを思考する時、感じる時、行動する時に使

うことができます。私たちの三次元の世界、すなわち物質界では、朝起きて、歩き、働き、いろいろ

なことをするのに使われています。このような行動は、物質領域において物質である肉体を使うため

のものです。もし私たちがサイキカル体を潜在意識的に利用する方法を身につければ、サイキカル領

域における行動方法を知ることになります。そして、あなたがマインドを意識的に使える段階に到達

した時、ノエティカル領域で行動していることになります。これが私たちにそれぞれ別のエーテル

ダブルがある理由です。肉体のエーテル・ダブル、サイキカル体のエーテル・ダブル、そしてノエテ

イカル体のエーテル・ダブルというように。私たちはこれらと意識的にコンタクトが取れるように学

ばなくてはなりません。私たちの意識をそれらと自己意識的につなげられるようになるということは

自己がパーソナリティー(エゴイズム、すなわちエレメンタルの総体)ではなく、「魂としての自己」

になったことを意味するものです。

良いサイコセラピストは、肉体の解剖学の完全な知識を持っているべきです。人間の解剖学につい

ての良書がたくさん出版されています。肉体の臓器を良く知り、エーテル・ダブルのエーテル・バイ

タリティーを如何に機能させるかを知らなくてはなりません。また、病の原因を見つけ出せなくては

なりません。必要がある時は、医師とも協力しなくてはなりませんりエーテル・ダブルのすべての特

性についての詳しい知識こそが必須なのです。

 サイコセラピストはパーソナリティーの潜在意識部分を熟知するための訓練を受けなくてはなりま

せん。なぜなら、肉体のすべての病は潜在意識から来ているからです。必要とされるべきものは、適

切な精神分析であり、この言葉を理解する方法です。なぜなら、肉体はそれぞれ似ていますが、パー

ソナリティーはそれぞれ異なり、それぞれが求めるものも異なるからです。

一番基礎的なルールは、患者に対してサイコセラピストや医師として近づくのではなく、親しい友

人として接することです。先ずは、その患者との信頼を築くことを試みるべきです。丸剤や錠剤が糖

衣されているように、治療方法も愛や慈悲という優しさで糖衣されるべきです。患者と友達になりま

しょう。冗談の一つ、二つも必要でしょう。一般的に心身症を煩っている人々は、非常にネガティブ

になり、いわゆる自分自身の潜在意識の犠牲者になっています。彼らは同じことを何度となく練り返

しますが、サイコセラピストは患者に愛と友情を示し、彼に話をさせるようにしなくてはなりません。

彼が話すことを邪魔せず、何も話す必要もありません。しかし、あなたは病の原因を探し出すために、

集中して注意深く聞く必要があります。想像をめぐらすのは止め、それぞれのケースを注意深く学び

なさい。一つとして同じケースはありません。同じような考え方や同じような感じ方もありません。

 あなたの言葉に充分注意して下さい。時には話さなくても無言の示唆が、患者に自分自身で考えさ

せることで助けになります。他の人の潜在意識的な思いというものは、患者にとって良い友ともなり

ますし、墓場への最悪の敵ともなりえるのです。

良いサイコセラピストは、聖なる大天使たちの協力を求めます。そのような人は、彼らを知り、自

己意識的にコンタクトを取り、協力を得ることができます。キリストであるジョシュア・イマヌエル

はヒーリングを施す時に、人々から罪を取り去ります。「あなたの罪は許された。罪はもはやない」

患者は自分の罪が許されたことを信じなくてはなりません。

 キリストであるジョシュア・イマヌエルは、難しいヒーリングを行う時や死者を起き上がらせる時、

いつもヤコブとヨハナンとぺトロと一緒でした。何故でしょうか? 彼らがキリストを一番助け、支

援することができる使徒だったからです。ですから、サイコセラピストも協力が必要なのです。友人

や良い手助けは、善いエレメンタルでサイコセラピストを支援することができます。それぞれの善い

思考は、エーテル・バイタリティーが患者へ流れることを助けます。どうして、祈りから始めるので

しょうか? 祈りとは何でしょうか? 強力な大天使のエレメンタルは、ネガティブな空気を変えて

しまうからです。

 さて次に、スピリチュアル・ヒーリングとは何でしょうか? スピリチュアル・ヒーラーとはどん

な人なのでしょうか? そのような人は何世紀にも亘り自分自身を鍛錬し、ロゴスに帰属するハート

を持ち、すべての人を照らす愛をもって現世に現われた人です。すなわち、ロゴスにアチューンメン

トすることにより、強力な視覚化と愛と意思の力により働きかけることができるのです。このような

場合、その人は基本元素の大天使たちの許可を得て基本元素を扱うことができ、いわゆる物質化、非

物質化を行えるのです。しかしながら、ヒーリング・ワークを行っているのはそのヒーラーではなく、

そのヒーラーを通してキリストが行なっているのです。たとえスピリチュアル・ヒーラーであっても、

自分自身をヒーラーと捉えるべきではなく、そのような神聖なる計画の導管であること自体に栄誉を

感じるべきです。このことが意味していることは、パーソナリティーのエゴイズムが完全に消滅しな

いかぎり、誰も善いヒーラーあるいはスピリチュアル・ヒーラーであると言うことはできません。

 スピリチュアル・ヒーラーは聖霊と協力し合っているので、彼は権威を行使できるのです。彼は自

分自身の中に聖霊の存在を感じることができ、「私たちが行なった、聖霊と私で」と言うでしょう。

この「私」とは、個人的なエゴイズムではなく、「エゴー魂」なのです。

 キリストであるジョシュア・イマヌエルは使徒を指導するときに、サイキカル・ヒーラーを育てて

いたのでしょうか、それともスピリチュアル・ヒーラーを育てていたのでしょうか? 両方です。そ

れぞれの能力に応じて、全員がスピリチュアル・ヒーラーには無理でも、ほとんどはサイキカル・ヒ

ーラーであったのです。彼らはそのエネルギーを彼らのエーテル・ダブルに保存することができ、聖

霊と大天使たちが肉体の中で使うために保ち、受け渡すことができたのです。

 サイキカル・ヒーラーが最初に学ばなくてはならないことは、呼吸法です。それは健康的で良識の

ある呼吸法で、心臓の鼓動に合せて三回で吸い込み、三回で吐き出す方法です。同様に心臓の鼓動に

合せて四回で吸い込み四回で吐き出す方法、そして六回で行う方法があります。東洋で行われている

呼吸法の多くには、危険性が含まれています。

呼吸により肺だけを満たすのではなく、エーテル・ダブル全体を満たすことが必要です。どのよう

にすれば良いのでしょうか? 呼吸をするときに、集中し色を視覚化することにより呼吸を感じなけ

ればなりません。すなわち、エーテル・バイタリティーがどのように肉体に行き渡り、エーテル・ダ

ブルに保存されるのかを感じなくてはならないのです。私たちは感覚を与えるエーテル、すなわち感

覚エーテルを使って作業しているのです。しかし、サイキカル体のエーテル・ダブルを豊かにしたい

時は、全身の皮膚の気孔を通して呼吸しなくてはなりません。私たちはこれを潜在意識的に行ってい

ますが、観察力を駆使してこれを意識的に行うことを学ばなくてはなりません。

良いサイキカル・ヒーラーは、単なる想像や幻想ではなく、視覚化を使うことにより聖霊の呼吸で

ある形態のないマインド超素材から、好きな形態を何でも創り出すことができるのです。しかし私た

ちはまだ〝そのような方法″で何も得ることができないことを理解しておくべきでしょう。私たちは

すべてを聖霊から得ているのです。ではロゴスの役割は何でしょうか?もし私たちがそれを自己意

識的に行っていれば、ロゴスから得ています。私たちはレッスンの中で、ロゴスの特質は自己意識で

あり、聖霊の特質は意識であることを学んでいます。言い換えると、聖霊の行っている働きは、肉体

上で〝体″として、サイキカル体上でも〝体″として、ノエティカル体上でも〝体〟として行われて

います。一方、ロゴスはそれぞれの体を使うための私たちの〝自己意識〝を育てているのです。私た

ちは聖霊の超自己意識にある高次のレベルまで自己意識を陶冶していかなければなりません。

サイキカル・ヒーラーは自身の感情や欲望そしてパーソナリティーの衝動をコントロールする方

法を学ばなくてはなりません。内省や瞑想は私たちに制御力を与えてくれます。私たちは上から、す

なわちサイキカル・プレーンからの方法でコントロールをしていく必要があります。必ず高次のプレ

ーンから低次のプレーンをコントロールすることになります。物質的なエーテル・バイタリティーの

レベルからは、物質プレーンやそのエーテル・バイタリティーをコントロールすることができないこ

とを覚えておきましょう。必ず高次のプレーンから働きかけなくてはなりません。すなわち、感情を

静かにさせコントロールすることから始めます。なぜなら、その感情が肉体のエーテル・バイタリテ

ィーを浪費させているからです。サイキカル・プレーンと物質プレーンは、ノエティカル界からコン

トロールすることができます。このために私たちは内省のエクササイズを行っているのです。高次か

ら低次に降りてくる時、感覚エーテルを感じることができます。これは四種のエーテル・エネルギー

の一つです。この感覚エーテルは、私たちが生きている感覚を与えてくれています。従って、生きて

いることとは、私たちがその感覚エーテルを潜在意識的に使っていることを意味しているのです。さ

て私たちは、その感覚エーテルを意識的に、かつ自己意識的に使い始めなくてはなりません。この感

覚エーテルを使うことにより、たとえ低次元のプレーンにおいても、私たちの本当の自己意識を築き

上げることができるのです。

良いサイコセラピストは、自らの感情や思考をコントロールすることにより、少なくとも「エゴ-

魂」の意識存在として行動することでしょう。これが意味することは、自己のパーソナリティーのエ

ゴイズムを完全に消し去らなくてはならないということです。それはたとえエゴイズムが自身を純粋

で善なるもののように現しても、エゴイズムはエゴイズムだからです。キリストであるジョシュア・

イマヌエルは「充分注意しなさい。その気質が光の天使のごとく現すから」と警鐘を鳴らしています。

病は最初サイキカル体に投影として現われます。サイキカル体に影響を与えることはありませんが、

サイキカル体のエーテル・ダブルに現われてきます。次にそれは肉体のエーテル・ダブルに投影され

ます。それはエーテル・ダブルを通過するだけで、エーテル・ダブルは冒されることはありません。

病の主な原因は、〝不満足″です。不満足というものは、満たされなかった欲望から徐々にゆっく

りと発生してきます。あなたはどんな欲望であるか患者に理解させなくてはなりません。なぜそれら

がこのような大きな危害をもたらすのでしょうか? ある欲望が単に達成されなかったという事実だ

けでどうしてなのでしょうか? 問題の本質的な原因は何なのでしょうか? 不満足は、パーソナリ

ティーの中にあるものです。霊と魂は神であり、何も治療を必要とはしていません。しかし、パーソ

ナリティーとは物質的な肉体を持ち、しばしばコントロールされていないサイキカル体やノエティカ

ル体を持っている一人の人間なのです。また、パーソナリティーはしばしば混沌としたエレメンタル

群の総体なのです。

 従って、サイコセラピストは患者の感情面のプロセスや思考プロセスに目を向けなくてはなりませ

ん。そして、患者が感情の奴隷にならないように、思考をマスターできるようにさせなくてはなりま

せん。

あらゆる種類の病の総体的な原因は感情面にあります。それがどのように作用するかを知らなくて

はなりません。だから私は不満足がパーソナリティーにあると言ったのです。あなたの患者に、なぜ

不満足であることが誤っているかを説明しなくてはなりません。忍耐力が必要でしょう。患者に教え

理解させなくてはなりません。その人のパーソナリティーの本質を説明しなさい。彼が性格を変える

ことができれば、自己中心的な考えが薄れていくでしょう。彼が別の行動を取れるようにさせましょ

う。その際により深く理解をさせるようにしましょう。彼に善いエレメンタルと協働することを教え

ましょう。それらを善い思考、善い考え方、善い感情と呼びましょう。肉体は聖霊と大天使たちによ

り癒される一方で、パーソナリティーは患者白身によって癒され(変えられ)なくてはならないのです。







  第9章

生命、キネーシス、神は生命、私は誰か、マインド

体、パーソナリティー、エレメンタル、自己実現



 もし生命が何であるかと尋ねられたら、誰でも「生命が何であるか知っているよ」と直ぐに答え

ることでしょう。しかし、あなたは生命が何であるか本当に知っているのでしょうか? もし生命が

何であるかを知っているのであれば、あなたは神が何であるかを知っていることになります。では、

もう一度質問します。「生命とは何でしょうか?」 答えは「生命とは理解不能な永遠の存在」となり

ます。それは永遠の存在であると同時に一時的な存在でもあり、二つの異なった状態を示しています。

永遠の存在とは、始めも終わりもなく永遠の今にある永遠不変な状態を示しています。永遠不変性の

中では、常に「今」しかありません。私たちは永遠の今を理解しなくてはなりません。

さて、もう一度質問します。「生命とは何でしょうか?」実はあなたが知っていると思っているも

のとは生命現象なのです。その生命現象ですら、適切に理解していないのではないでしょうか? あ

なたは「私は生きている」と言うかもしれませんが、あなただけが生きている存在ではありません。

周りを見わたせば、数限りない生命現象、あるいは生命形態が存在しているではありませんか! も

ちろん、肉体の目で周りを見渡せば、生命現象が見えます。一滴の水を顕微鏡で見ればどうでしょう

か?一滴の水の中に何が見えてくるでしょうか? それらは生命、すなわち生命現象なのです。伝

統的科学も、あらゆるところに生命現象が存在していることを認めています。それらは微生物あるい

はウイルスと呼ばれています。その内に、強力な顕微鏡、電子顕微鏡によってもっと微小な生命現象

を見ることができるようになりました。では、生命の主な特徴は何でしょうか? それはキネーシ

ス、すなわち動きであり、運動であり、波動です。このキネーシス(あるいは、波動)を除いて、誰

も生命を理解することができません。

 伝統的科学は現在どんなことをしているのでしょうか? 彼らはこの物質界で物質的な手段を使

って真実を探求しています。では、彼らは今までにどのぐらいの真実を発見したのでしょうか? 二

っの事柄を発見しています。すべての存在は形態を持っていなくてはならないということです。そし

て、キネーシス(動きあるいは波動)が生命形態を支配する原理であるということです。これらはま

さにその通りですが、しかし真実の一部にしかすぎません。これらは相対的真理であって、絶対真理

はまだ隠されています。あらゆる生命現象は、存在に至っている原因があります。伝統的科学は生命

が何であるかを学び始めています。彼らは五官や道具を使って生命現象を調べ、人や動物の体が何で

あるかを見つけはそうとしています。私たちは彼らが達成したことが偉大ではないと言っているので

はありません。そうであっても、これらの伝統的科学者の行ったことは賞賛に値します。しかしながら、

学ぶべきことはまだまだあるのです。彼らが認識すべきことは、生命形態が生命自体ではなく、生命

現象であるということです。生命現象は事実、生命の表現なのです。

 さて、生命とは何でしょうか? 私たちは生命現象や、その特徴であるキネーシスや運動にだけ

集中すべきではありません。もっと明確に見なくてはなりません。生命現象を超えた生命とは知性な

のでしょうか? しかし、その知性とは何でしょうか? 人が心を適切な思考に使い相対的真理を理

解する時、その人は知性があるといえます。しかし、この種の知性は生命現象の表現にしかすぎ

ません。それは大変制約されているもので、しばしば誤っているものです。どんな知性的な人でも

誤りをするものです。一方、絶対知性と呼ばれている存在は誤りをするでしょうか? 私たちの周り

のあらゆる生命現象、アメーバから星雲までを見わたすと、そこには秩序が見えてきます。私たちが

気づくことは、あらゆる生命現象がある一定の法則、すなわち実現性の法則に従っているということ

です。いかなる生命現象もこの実現性の法則から逃れることはできません。他に何が見えてきますか?

 実現性の法則に伴って、全能性が見えてきます。私たちは生命現象のそれぞれの表現にロゴスの全

能性を見て取ることができます。これは明白なことです。あらゆる生命現象にある実現性の循環にお

いて、神聖なる知性とその全能性を見つけることができます。何ものも、これから逃れることはでき

ません。

 【訳注】*キネーシス‥生理学的には、光などの刺激を感受し、それに反応する生物
      の動きのことを意味するが、さらにそれは絶対存在が創造された「存在の
      世界」における生命現象の特徴の一つである。

       【訳注】*実現性の法則‥用語集「実現性の循環」を参照。



 では、その神聖なる知性と全能性とはいったい何でしょうか? 神ではないのでしょうか? 存

在の世界に現われている神を想像できるでしょうか? 生命として現われています。神とは生命なの

です。ここで再び質問します。「生命が何か知っていますか?」 生命を持つものは生きています。そ

して動き、成長し、いわゆる存在の世界で自分たち自身を表現しています。また、必ず最初と最後が

あります。このような生命現象をただ観察し学ぶことにより、生命が何であるかを知ることはできる

でしょうか? いいえ、それは無理です。知ることができるのは生命現象の特徴だけです。もし観察、

集中、瞑想を使えば、あなたの周りにある生命現象についてもっと深く知ることができます。伝統的

科学はこれを物質から作られた機器を使って行っています。もし私が「根源なくして、生命現象は存

在しえますか?」と問いかけたら、あなたはエネルギーのもとがなくて動くものを想像できるでしょ

うか?

 ですから、根源がなくてはならないのです。もちろん物質的な脳では生命を把握することは不可

能なことかもしれませんが、生命が何であるかを知ることができないということではありません。と

は言っても、一人の人間としてのあなたはそれを理解できないでしょう。しかし、生命としてのあな

た、すなわちあなたが生命であることを知ることができれば、生命が何であるかを知ることができる

かもしれません。まず最初に、生命としてあなたが何であるかを認識しなくてはなりません。あなた、

すなわちあなた自身で自分の超自己意識を見つけ出さなくてはならないのです。

 キリストは「命を与えるのは霊である。肉は何も役に立たない」と述べ、続けて「神は霊である。

彼を崇めるものは霊と真理を崇拝しなくてはならない」と言っています。霊と真理は同じものです。

このように福音書にある「神-人」 であるキリスト、ジョシュアの言葉は、すべての知識であり、

すべての智恵なのです。あなたはその教えの意味を理解しなくてはなりません。そのような教えを述

べたのはキリストだけだったでしょうか? すべての賢者、そしてアプローチの方法は異なっても過

去に真理に近づいた先達たちは、それぞれ表現は異なっていても同じことを述べてきました。彼らは

皆真理を知っていました。

 あなたは「絶対存在である神は存在するのか? 彼はどこにいるのか?」のような質問をするか

もしれません。何世紀も前、キリストの誕生より何千年も前に、人間は既に真理を探究していました。

なぜでしょうか? なぜなら、彼らは「自分たちが誰であるのか?何のためにいるのか?」という

疑問への答えを知りたかったからです。神が何であるかを知らない限り、あなたはその答えを得るこ

とはできません。

 何千年も前、その探求において人間は「人間と動物との間の関係は何なのか?なぜ人は動物を神

として崇めるのか?」と考え始めました。彼らはそこに誤りを犯していました。古代エジプト人は例

えばアヌビスのような動物を神として崇拝していました。しかし、それは彼らを満足させるようなも

のではありませんでした。彼らは一体どうして動物を神として崇拝するようになったのでしょうか?

なぜなら、動物たちが力強く生き、表現していたからです。生命現象の意味を理解する代わりに、

彼らは単純に動物たちの姿や形態で認知してしまったのです。これが誤りでした。



 ある日一人のヒエロファントの地位にある神官がこの慣習を止めるべきだと感じた時まで、多くの

動物神を崇拝してきました。彼はなぜ太陽がアモン・ラーとして崇められるべきなのか自問しました。

そして生命について考え、なぜ生きているのか、どのように生きるべきかを考え始めました。アメノ

フィス四世〔アメンホデブ四世〕は、超越した意識状態の中で新たな洞察を得ました。彼の甥のコー

ル・アモンも神官の監督者でしたが、彼と同じ考えで共に多くの動物神、そしてアモン・ラーの信仰

ですら排斥することにしました。彼らは「神は命であり、無限の命である」と主張しました。アモン・

ラーの代わりに、捉えようのない無限の存在であり唯一の神、アトンを崇拝しました。古代エジプト

語でアトンは「捉えようのない」ことを意味しています。アメノフィスは白身に新たな名前「アケナ

トン」(Ankh-en-Aton/アンクーエンーアトン/アトンにより愛された者を与えました。そして、

コール・アモンは「コラトン」 (Khor-aton/コール・アトン)として知られるようになりました。

 彼らは唯一の神アトンを崇拝するための新たな信仰制度の制定を宣言しました。この唯一の神はあ

らゆるところに存在し、太陽に光とハートをもたらし、人間や動物に命を与えてくれるものです。し

かし、世界はまだ受け入れる準備が出来ていませんでした。アモン・ラーの高位神官たち〔アモン神

官団〕、アヌビスや他の神々は、彼らの地位や収入を失うことを望みませんでした。そのため、彼ら

は両者を暗殺しました。コラトンは刺し殺され、そしてアケナトンは毒殺されました。これは真理を

明らかにする開拓者にいつも起きてきたことなのです。

 古代文明をひも解くと、たとえばアステカやインカやヒンズーの歴史に同様の物語が多々発見され

ます。アケナトンは超越された意識状態(エクスタシー)で真理の啓示を受け、「私はアトンと共にいる。

そして私に話かけている」(超知性として)と言いました。

 インドの仏陀はどうだったでしょうか? 彼は超越された意識の状態で弟子に言いました。「何年

もの間、私は神を探してきたが、ついに彼を発見した」弟子は 「師よ、どこにいらっしゃいますか?」

と尋ねました。仏陀は「私たちの中におられる」と答えたそうです。

 では、生命とは何でしょうか? 生命は神であると述べましたが、神という言葉により絶対存在を

私たちの理解できる尺度に縮小してしまっています。私たちの尺度は適切ではありません。なぜなら、

私たちは物質的なものを神のように崇めているからです。たとえ私たちが絶対存在を神と呼ぶことで

公正に扱っていなくても、その言葉を使わなくてはなりません。なぜなら、それは人間の知性に何か

特別の意味を持っているからです。しかしながら、私たちは神を霊において見なくてはなりません。

キリストの言葉「神は霊である。そして彼を崇める者は誰でも、霊と真理を崇拝しなくてはならない」

を忘れてはいけません。

 ここまで来ると「どのようにすればよいのか?」という質問が出てくるでしょう。あなたは「神は

霊である」と言うかもしれませんが、私はここでさらに質問します。「あなたは何でしょうか?肉

体だけですか? それ以外はありませんか?」 私に言わせて下さい。「あなたは神なのです! 霊で

もあります。

  【訳注】 *ヒエロファント‥古代エジプトや古代ギリシャ時代に、秘義的な
        教えを書き写し翻訳・伝達することを幼少より選ばれ訓練された
        者で、同時に高位聖職者としての能力と地位を与えられた者。



あなたは「霊-魂』であり、自分自身をパーソナリティーとして表現しているのです。

ここであなたは自分を分析する段階にきました。「私は何なのか?」、「私は誰なのか?」と自分が誰

であるか熟考して下さい。これが真理の探求者の目的であり、真剣な探求でなくてはなりません。し

かし、あなたが相対的真理の梯子を昇らない限り、真理に近づくことはできません。真理の本当の強

味を修得することは、そんなに容易なことではありません。

 真理を見つけ出すために、何から始めればよいのでしょうか? 真理とは何でしょうか? もちろ

ん、私たちは相対的真理を知っています。私たちが知っているのは、時空間場所におけるものについ

てであり、それらを比較することによります。これが人生におけるものごとと、それらの状態につい

ての相対的真理です。あなたが「これに比べてあれは……」と言っていることは、真実ではありませ

ん。これらはすべて相対的真理にすぎません。生命現象の裏にある本当の真理とは何でしょうか?

それをどのようにして探し出すことができるのでしょうか? それを理解しょうとする時、あなたは

何を見つけ出すのでしょうか? それは「私は周りにいるあらゆる動物とは異なった存在である」と

いう感覚です。まず観察力を使いなさい。それにより集中と瞑想に入っていけるでしょう。瞑想とは

何でしょうか? それはあなたが一つの結論に到達するまで、何かについて繰り返し何度も考えるこ

とです。集中とは何でしょうか? 集中のマスターにならない限り、あなたはどのようにして意識を

固定して瞑想を継続できるのでしょうか? この二つのスキル、集中と瞑想を学ばなくてはなりませ

ん。あなたはこれらの言葉を何回も使ったことがあるでしょう。また多くの書籍にも出てくるでしょ

う。すべての物事を分析しなさい。そして、それらすべてにある真の意味を知っているか確認しまし

ょう。

 このように、私たちはまず集中と瞑想をマスターしなくてはなりません。そうすれば、次の段階が

見えてきます。「誰が瞑想しているのか?それは私の脳なのか?それとも私の肉体なのか?肉

体が瞑想しているのか? 瞑想のためにどのような手段を使っているのか?」それからあなたはマイ

ンドに近づいていくでしょう。ここで質問します。「マインドとは何でしょうか?」私たちはマイン

ドを日々、あらゆる瞬間に潜在意識的に使っていますが、マインドが何であるかを知りません。集中、

瞑想、観察を使うと、マインドの本質を見つけ出すことができるでしょう。でも、マインドとは何で

しょうか? それは知性、知覚、感受性、感情という具合に別の呼び方をすることもできます。これ

らは生命現象におけるマインドの表現なのです。しかし、マインドが真に何であるかを見つけ出さな

くてはなりません。何世紀にもわたり、そして現在でも、探求者たちはマインドについて何を発見し

たのでしょうか? マインドはすべてです。超素材であり、形態はなく、形を取ると素材となり、そ

して物質となります。物質とはマインドが固体化したものです。たとえ物質の一原子であっても、そ

の中にマインドがなければ存在できません。ですから、すべてはマインドなのです。私たちの肉体も

 マインドでしょうか? もちろん、そうです。そして、それら自身の生き方を持っていて、あなたの

知性から分離して存在しています。物質的な肉体の中で生きていますが、あなたはそのことをほとん

ど知りません。しかし、肉体は適切に生存しているのです。それ自体によってでしょうか? 現象的

にはそう言えますが、しかし真実はそうではないのです。それは他の存在によって維持管理されてい

ます。すなわち、基本元素の神々と呼ばれている高次の大天使の知性によって保たれているのです。

 このことに対する実質的な証拠はあるのでしょうか? これが探求の目的です。もちろん、可能で

す。しかし、マインドをマスターするには長い時間をかけたエクササイズが必要です。なぜなら、鏡

としてマインドを通して、そこのイメージとして映った真理を見ることができるからです。探求はど

こで終るのでしょうか? どこでも終りません。あなたは何世紀もかけて探求していっても、探求し

尽くすことはありません。終点などありません。

 何年学ばなくてはならないのでしょうか? 七年勉強すれば医師の資格を得ることができるでしょ

ぅ。これらの学びには何年かかるのでしょうか? 何年どころか、何世紀もかかります! 学べば学

ぶほど真理について理解が深まっていき、その真理が生命です。しかし、人は自分自身に対して真摯

でなくてはなりません。「本当に自分が真理を知りたいのか? 肉体の中で今のように生きているこ

とに満足しているのか? その肉体を他者である創造の大天使たちが面倒を看てくれているにも拘わ

らず、私は自分の肉体をほとんど知らない。私たちの周りにいる動物たちとあまり変わらない貧しい

状態で生きていることを本当に望んでいるのか?」と自問しなくてはなりません。どれだけ多くの人々

がこのような生き方をしているでしょうか? 残念なことに多くの人が、動物のようにセックスや飢

えなどの欲求と衝動の下で生きています。しかし、この生き方は人間にとって適切ではありません。

私たちは動物ではありません。私たちの本質はマインドの超知性を使うことであり、私たちが誰であ

るかという真実の自己を見出すことなのです。

 私たちはまず自分自身の探求を最も低いレベルから始めなくてはなりません。私たちがその中で生

きている肉体とは何なのでしょうか? それは私のものでしょうか、それとも無限なる知性の恩寵だ

けによって肉体の中で生きているのでしょうか? キリストは私たちの肉体について何といったでし

ょうか? 「……あなた方の頭髪の一本一本まで数えられている」あなたが住んでいる肉体のことを

知っていますか? 伝統的科学は検査を行いもっと多くのことを解明しようとしています。もちろん

彼らは筋肉や骨、組織や器官の働き、肺や脳、そして五官の機能について多くの解明に成功していま

す。しかし伝統的科学は、誤った方向へ学びを進めてきました。これらの事柄はすでに原始人の肉体

の中で行われてきたことなのです。誰が肉体の面倒を看ているのでしょうか? 彼らは何もしなかっ

たのでしょうか? 私たちが今自分たちの肉体の中で生きているのと同じように、彼らも彼らの肉体

の中にただ生きていたのでしょうか? 誰が面倒を看ているのでしょうか? あなたはどれだけ自分

の体の面倒を看ていますか? 食べ物は摂っていますか? 私たちは食べ物を作らず、作られたもの

を探して摂っていました。それらは自然、すなわち神によって作られたものではないでしょうか?

あなたたちはそれらを採るだけです。ただそれだけでしょう。少しばかりの食べ物を採り、それらを

洗う以外に、あなたの肉体のために何を行っていますか? 何もやっていません。そればかりか、あ

なたは肉体を傷つけるようなある種の生き方しています。多くの原因をつくり出し、それらを病と呼

んでいます。これは伝統的科学を超えた別の分野の研究です。伝統的科学はゆっくりですが、エソテ

リック・ティーチング(秘儀的な教え)に合流しつつあります。

なぜある人はある病に免疫を持ち、別の人は免疫を持たないのでしょうか?私たちは病原菌やウ

イルスや微生物に取り囲まれています。なぜある人はそれらに免疫があるのでしょうか?私たちは

それが肉体のエーテル・ダブルの状態にあることを知っています。そのエネルギー体、言い換えると

電磁バイタリティーの本質も知っています。これが地上の生命の実際の本質なのです。しかしそれは

生命自身ではありません。

もし医者が死んだ人を検視すれば、その肉体の中にすでに生命力がないことに気づくことでしょう。

私たちはその生命力をエーテル・バイタリティーと呼んでいます。しかし、これは生命の根源ではあ

りません。しかしながら、それは根源なるものと聖なる大天使たちの権威の下に置かれています。そ

れは聖なるバイタリティーであり、最も低い周波数、しかし肉体より若干高い周波数で波動している

一種のマインドなのです。私たちはそれを知り、利用できなくてはなりません?

 私たちが既に学んできたように、最初にエクササイズを通して集中と瞑想を学ばなくてはなりませ

ん。すなわち、集中と瞑想のスキルを身に付けなくてはならないのです。次の段階では、自分自身の

肉体に対して「この自分の肉体は一体何であるのか?」と自問します。そして、ここでさらに次の段

階に進みます。肉体に接近しやすくなります。肉体についていろいろ探求していきたいと思うように

なります。しかし、またここで自分自身に「誰が肉体を動かしているのだろうか?」と自問します。

肉体はそれ自体で動いてはいません。「私」が動かしています。しかし、その「私とは誰であろうか?」と。

私は目が覚め、私はベッドから起き、私は着替えをする。このとき、自分の体に洋服を着せる、私の

体を動かすなどと表現しますが、この私とは誰でしょうか?そう考えると、あなたは別の考え方に

辿り着くと思います。そして「私は何か一種のパーソナリティーのようなものである。しかし、その

『私である』ということは何であろうか?私は自分の肉体ではない」ことに気づくことでしょう。

ここから探求が始まります。私とは誰であるのか?この学びは肉体についての学びよりもっと難

しいものです。私とは何なのか?私の周りのこれらすべての人々、私の家族や近隣の人々は一体何

なのでしょうか?彼らの肉体はおおよそ似ていることにはすぐ気づきます。男性は類似した男性の

体を持ち、女性も同様です。しかし、自分は近隣の人に似ているだろうか?あるいは兄弟や姉妹、

そして両親に似ているだろうか?いや、「私は私である」と思う!私はこの「私」が自分の肉体

やその表現の中で物質の鏡に映っているのに気づきます。私はパーソナリティーなのです。重要な勉

強に入ってきました。

 パーソナリティーとしての私とは何なのでしょうか?私は生きていると言えます。寝ている間さ

え生きています。私が存在していないと感じるような期間、それはあたかも消滅してしまったような

期間であっても私は生きています。翌朝、私は自分自身を再構成しています。是はどうしてなので

しょうか?明らかに熟睡のこれらの時間の間、私はどこにいたのでしょうか?それはどんな生命

だったのでしょうか?もしそれが本当に消滅であったのであれば、翌朝にどのようにして自分を再

構成し、引き続き寝る前の自分にどのようにして戻れたのでしょうか?朝起きた時の私は同じ自分

でしょうか?その私は同じ欲望、同じ感覚、同じ好き嫌い、人生での同じ生き方、言い方を換えれ

ば、同じ個別性を持っているのでしょうか?

 さて、私たちは二つの方法で探求しなくてはなりません。それは他人がどのように感じ、どのよう

に行動するかという面と、自分がどのように感じ、どのように行動するかという面で、その両者に共

通の特徴を見つけ出すことです。原因はすべてに共通であっても、表現は異なります。深く考えて原

因を見つけ出します。その原因とは全員に共通の原因で、欲望のようなものです。では、欲望とは何

でしょうか? それは何かを所有したいと思い欲する感覚で、自分の関心の範噂に入ってきたもので

す。それは、あるものを所有する意志であり、それを自分のものと呼ぶことです。これが共通の原因

なのです。それは自分の人生でどのような意味があるのでしょうか? どうしてそのように感じるの

でしょうか?

 忍耐と誠実さをもって、私たちの感じ方や行動の仕方を観察しなくてはなりません。どうして私た

ちは一定の方法で行動するのでしょうか? 怒りとは何でしょうか? 憎悪とは何でしょうか? 弱

さとは何でしょうか? 私を本当に揺さぶるある条件とは何でしょうか? 今、私は誰でしょうか?

 このように考えてくれば、あなたは「そうだ、私はパーソナリティーとしての自分を知っているか

もしれない」と言うかもしれません。あなたが本当に誰であるかを知るために、あなた自身のその自

己をもっと学ばなくてはならないことに気づくことでしょう。ここで、あなたは自分のエーテル・ダ

ブルを刷り込みエーテルとして使い始めます。そして、マインドを使って視覚化を行い、生命現象と

してのあなたの人生の状態を学んでいきます。これが最も重要なことなのです。



 私たちはこれらの要点を学んでいきます。しかし、エネルギーはどこから来るのでしょうか? マ

インドは何でしょうか? 形態のない超素材とは何でしょうか? 視覚化において、私たちは物事と

その状況を学ぶためにマインドを使っていきます。視覚化とは何でしょうか? それは起きたことを

表面まで引き上げ、それを観察し判断することです。もちろんこれも重要な学びです。マインドとは

何でしょうか? 形態を持たず、しかし形態を創造する超素材とは何でしょうか?エレメンタルに

ついても考える必要があります。

 ここで私たちに「エレメンタルとは何であろうか?」という質問が出てきます。「思考形態」とは

何でしょうか? 見ることができるのでしょうか? 最初はできませんが、感じることはできるでし

よう。このようなエレメンタルはあなたの苦痛でもあります。それらが心理学者が呼んでいる固定観

念になる時、パーソナリティーを破壊し始めます。あなたがそれらを見ることができないということ

は、それらが自体の生命を持っていないということにはなりません。もちろん、エレメンタルは必ず

しもあなたに苦痛を与えるだけのものとはいえません。善いエレメンタルや良い思考は、あなたを

助けてくれるでしょう。従って、私たちは悪魔的エレメンタル(人-悪魔)を創り出すのではなく、

天使的エレメンタル(人-天使)を創り出さなくてはなりません。もっと多くの善いエレメンタル

を創り出しましょう。あなたはどうすればそれができるかを学ばなくてはなりません。そして、あな

たが一つの悪魔的エレメンタルを非活性化する時、それを善いエレメンタルで置き換えなくてはなり

ません。すなわち、非活性化した場所を空にしておいてはいけないのです。これは誰でもマスターし

なくてはならない生きる智恵であり技法なのです。残念なことにほとんどの人々は関心を持っていま

せんが、最も重要なエクササイズは内省なのです。これは自己の内側を観察することで、私たちがパ

ーソナリティーと呼んでいる自己のその部分を分析することです。すなわち、自己に正直で偏見のな

い心で、それを見つめることです。このように、行わなくてはならないことはたくさんあります。

私たちの学びからエーテル・ダブルの本質を見出すことになります。それは電磁エネルギーでエー

テル・バイタリティーと呼んでいます。何を見出すのでしょうか? 聖霊の摂理(動的には超知性)

には、基本元素の支配者である聖なる大天使たちがいます。彼らが存在することをどのように知るこ

とができるのでしょうか? 基本元素を学ぶことにより、またエーテル・ダブルを通して肉体内での

創造的な仕事を観察することによって知ることができるでしょう。その背後により高次な知性が存在

すると考えることは理論的でしょう。集中と観察能力を身につけることにより視覚化の技能を開拓で

きれば、あなたはいつかそれらを見ることができるでしょう。そうすれば、大天使たちと忠誠的なコ

ンタクトが取れるようになります。彼らもそれを求めています。あなたの努力の結果として、大天使

たちがあなたのために、すなわち肉体や他の体のために行なっている仕事にあなたが感謝できるよう

になったことを知って彼らは大いに喜ぶことでしょう。時間の経過と共に、あなたの視覚化の技能や

力は拡大していき、やがてあなたの目でただ見るだけでなく、透視能力者と呼ばれるような力を得る

ことでしょう。

あなたが観察を駆使して継続的に学んでいけば、自分の肉体のエーテル・ダブルの本質について知

ることになります。大天使たちは聖霊の権威の下で構築や創造を行っています。彼らの仕事に協力し

てくれるようあなたを説得し指導してくれていることにあなたは気づくことでしょう。そして彼らが

次のように言っていることを聴くでしょう。「あなたはこの肉体を『自分のもの』と言っています。

あなたが自分で面倒をみていないのに、なぜあなたは『自分のもの』と言えるのでしょうか? 私た

ちが創造したり修繕したりしていつも面倒をみているのです」

 このように観察を通してエーテル・ダブルの本質を知ることでしょう。そして一つひとつの原子や

分子から各臓器や肉体までエーテル・ダブルが鋳型であり‥」これらすべてが一つひとつの細胞の実現

性の循環に従って創造されていることに気づくことでしょう。あなたは不思議に感じることでしょう。

「そのことを知らないのに、私のこの体の中でどのようにしてこれらの作用が超意識的に行なわれて

いるのでしょうか? 私が起きている時も、睡眠中で肉体を離れている時でも、あるいは自分の身体

を意識していてもいなくても、なぜ大天使たちが傷や病を治してくれているのでしょうか?」

 このことを真剣に学ばなくてはなりません。そのためには観察が本当に必要であることを断言し

ます。あなたはすべてのものごとに対して常に積極的で鋭敏な観察力と警戒感を怠ってはいけませ

ん。このことが意味するのは、ほとんどの人々が今置かれている潜在意識的状態から、あなたの自

己(I-ness/アイネス)を自己意識状態へ移行することなのです。これには時間と訓練が必要ですが、

結果として「現在のパーソナリティー」としての自分自身を把握できるようになります。

自分のパーソナリティーの真の自己をどのようにして見出すことができるのでしょうか? それは

反射によります。鏡から反射される光がなければ、私たちは光が何であるか知る余地がありません。

私たちの場合、現実を歪めて映し出す三重の鏡を持っています。そしてその鏡の中に、時間と場所の

領域に存在する者としての自分自身を見ています。三重の鏡とは、物質としてのマインド、感情素材

としてのマインド、そして純粋な本質における思考としてのマインドを指しています。さらに説明す

ると、私たちは、その三重の鏡に肉体、サイキカル体(感情)、ノエティカル体(思考)として映って

いる自分自身を見ることができます。三重の鏡に映っている自分自身がいかに歪められているかを見

てください。特に鏡の表面に映っているあなた自身を見てみましょう。それはあなたの「現在のパー

ソナリティー」としての存在の感情面を映し出しています。この鏡に映っている現実は何でしょうか?

 それは私たちの自己(I-ness/アイネス) であり、エゴなのです。鏡の前に立つと、鏡の中のイメ

ージ、すなわち映った影があなたの自己であると捉えてしまう誤りをしがちです。しかし、もし鏡が

壊れてしまったら、鏡に映った自分をもはや見ることはできませんが、あなたには何も起きていませ

ん。たとえ鏡に反射して映った自分自身がなくても、あなたはあなたとして存在しているのです。

 私たちは何を見つけるのでしょうか? 不活性で夢見ているような現在の自己意識は、私たちが誰

であるのかという現実に目覚めなくてはなりません。私たちが夢を見つつ、時間と場所の幻想の下に

いる限り、内在するものを観る内省で自分自身を見ることができないことでしょう。内在するものを

観るとはどのようなことでしょうか? キリストは、私たちの内にある天の国が私たちの本質である

と言いました。そのため、私たちの内にある天の国を探求するべきであり、そうすれば何でも私たち

に与えられると言っています。私はこれらすべての物事が現実化される可能性があることを強調した

いと思います。ですから、本当に得るべきものは自己実現であるということを忘れないようにしまし

ょう。

さて、あなたは内省、すなわち内在するものから自分自身を観ることができます。また、自分が本

当は誰であるかを理解するための真実に触れることができるでしょう。私たちは自分の映った影につ

いて学んできました。そして、マインドを意識的、かつ理性的に使う方法も学んできました。また、

悪いエレメンタルを非活性化し、天使のエレメンタルを創造する方法を学びました。内省や瞑想を通

して、自分自身に対して「私は誰なのか?」、「私は何者なのか?」と問いかけます。もし私たちがこ

れらを真摯に進めていけば、いつか必ず私たちの守護大天使が真実の自己について明らかにしてくれ

るでしょう。

 あなたは生命です。あなたは神であり、霊であり、自身をパーソナリティーとして表現している「霊

-魂」なのです。あなたは神であり、自分の映った影を男あるいは女として見てけます。あなたは神

としての生命を生きているのです。ここであなたに質問させて下さい。「私たちが自己実現と呼んで

いるものに、あなたはどこから入っていくと思っていますか? 空間に移行するのでしょうか? そ

れともある場所からでしょうか? この自己実現はどこに存在しているのでしょうか?」自己実現は

どこにでもあり、今存在しています。あなたが今いるところから離れ、どこかに戻る必要などありま

せん。あなたは今既に無限の存在の中に存在しているからです。



すると、ある人は次のように考えるかもしれません。「だから、私は厳しいワークをして、もっと

もっと成長しなくてはならない。今と同じ状態でただ待つなんてまっぴらだ」

 あなたの希望のいかんに拘わらず、あなたは成長していきます。なぜなら、それがあなたの本質だ

からです。しかし、成長には二つの道があります。一つは運命の鞭(カルマとも呼ばれています)あ

るいは理性による導きの道です。もう一つの道は、観察と瞑想の学びから学習する方法です。この道

であなたはレッスンを学ぶための特定の境遇に耐えるような経験をする必要がありません。しかし、

出来事や物事の魅力や魔法にかけられて、この道を望まなければ、同じ誤りを何度も何度も繰り返し

同じような経験(私はこれを罰とは呼びません)を被ることでしょう。あなたはこれら二つの道のい

ずれかによるレッスンから学ばなくてはならないのです。これは原因と結果の法則に従っています。

 ここで本題に戻り、議論したことや見出したことを再確認しましょう。

1.観察、集中、瞑想、視覚化のスキルを磨くことが必要。

2.生命とは?生命、すなわち永遠の命は神なのです。そして、私たちは生命であり、神なのです。

3.私たちは肉体ではありません。感情でもなく、思考でもありません。

4.日分の感情と思考をマスターしなくてはなりません。すなわち、ネガティブなエレメンタル(欲

  望-思考型)を非活性化し、その空いた場所を善いエレメンタル(思考-欲望型)で充当すること。

5.日分の個人的なエゴイズムを追放し、かわりに愛を行使しなさい。それは、神やすべての人類の

  ための無条件の愛でなくてはなりません。そうすれば、あなたの「現在のパーソナリティー」は、

  ゆっくりと「永遠のパーソナリティー」へ近づいていくでしょう。

6.パーソナリティーとしての自己に注意を向けなさい。同時に、「魂としての自己」にも意識を向

  けなさい。自分自身の意識を「魂-自己意識」へ成長させ、それを活かしなさい。単にマイン

  ドを思考として使うだけでは、真理に導かれないでしょう。私たちは真理と共に生き経験しな

  くてはなりません。

7.あらゆる人間はそれぞれの真の 「内なる自己」を見出すために、それぞれにとって最善の道があ

  ります。自分自身を自分の守護大天使や聖霊の導きに従えるようにしなさい。キリストは 「わ

  たしは道であり、真理であり、命である」と述べています。








 第10章

光、物質界、サイキカル界、ノエティカル界

神、人間のイデア、体外離脱



 神は人間が神と呼んでいるものではありません。神という言葉を使うと、絶対存在である神を低く

評価することになり、神を人間の尺度内に留めることになります。人間はたくさんの神をつくり出し

てきました。古代ギリシャ人はそれらの神々をデミゴッド〔半神半人〕と呼んでいました。エジプト

人も同様でした。彼らは単純にエレメンタルをつくり出していたのです。

エレメンタルとは何でしょうか? 宇宙にはマインドが存在しています。しかし、マインドは神で

はありません。それは絶対存在である神がご自身をキリスト・ロゴスあるいは聖霊として表現する時

に使われる媒体なのです。絶対存在はご自身をもっと多くの方法で表現されますが、人間には二つの

方法しか理解できません。大天使たちは神の表現を理解しています。しかし、人間はそれを知り得ま

せん。私たちが知り得るのは、ロゴス性と聖霊性という二つの神の特質だけです。私たちは唯一の神

を信じています。それは父であり、子であり、聖霊なのです。

 さて、神とは何でしょうか? 神でないものとは何でしょうか? 神とは絶対存在なのです。神を

理解しょうなどと考えることすら無理なことなのです。それは不可能なことです。あなたの肉体の目

で太陽を見つめて光を捉えようとすれば、あなたの目は眩み傷害を受けるかもしれません。あなたの

物質的な脳を使って神を理解しょうとするのは、このことと同じです。しかし、私たちは彼の表現を

観察することができます。その表現を通して、神が何であるかについてある程度まで知ることができ

るのです。

 例をあげて説明しましょう。光を見ることはできません。私たちが光と呼んでいる波動を見ること

はできないのです。しかし、その光線は物体の表面に当たり、輝かせ、反射して人間の目にイメージ

をもたらす能力を備えています。でも、光自体を見ることはできないのです。空を見上げれば、たく

さんの星を見ることができるでしょう。これらの星の多くは自ら光を発し、他の星は光を反射させて

います。私たちが光を見ることができないのは明白です。宇宙で光を感知するためには、光がいわゆ

る天体に当たり、その光を反射させなくてはなりません。そうするとあなたはその星を見ることがで

き、光を見ることができるのです。太陽から放射された光がその星に到達するまでは、光を見ること

はできません。しかし、光がその星の表面に当たると同時に、それは可視となります。神についても

同じことが言え、無限性の範疇では捉えようがありません。しかし、宇宙において、それが物質的に

存在する人間に到達すると捉えられるようになってきます。その人問の中に知性と自己認識として表

現されているのです。

 では、自己認識とは何でしょうか? そして、知性とは何でしょうか? 例えば、物質的な対象物

から反射した後の光は、本物の光、すなわち元の光と言えるのでしょうか? 対象物に、当たる波動と、

物質的対象物に当った後に私たちへ戻ってくる波動とは同じ光の質なのでしょうか? それはもちろ

ん異なります。

 このように見えない光がある表面に当たり、その表面から反射し戻ってきますが、人間の目に届く

まではやはり見えません。従って、反射した光が当たった物質的対象物の一点は見ることができるの

です。このようにして、光は私たちの知性に到達することにより、私たちはそれが光であることを知

るのです。

 同様にして、多重性にある絶対存在である神が、宇宙の中でご自身を表現するために絶対的源泉(神

聖な聖なるモナド)から放射する時、それは少なくとも物質的な脳にはとらえ所がなく、不可視なの

です。

 より高次のノエティック界〔ノエティック・ステート〕に行くと、私たちはより多くを理解するこ

とができます。しかし、それは知性や思考によるものではなく、同化やエクスタシーによってもたら

されます。絶対存在は宇宙の中へとらえ所のない聖霊を放射し、その聖霊がそのご意志に従って〝息

を吹き〟広めます。聖霊が光に当る時、人間のイデアと出会います。この〝出会う″とは何を意味す

るのでしょうか?これは、そのことが神聖なる計画の内にあることを意味しています。すなわち、

これら宇宙の中には、人間のイデアとしての点が存在しているのです。この場合、光は人間のイデア

である私たちを象徴しています。この時点から、この聖霊の一条の光は人、すなわち肉体を持った人

間になるために前進していきます。しかしまだ見ることはできず、とらえ所もありません。

 その時点に到達する前に、一体どの位の人々が「魂-自己認識」としての自己について知ってい

るのでしょうか? 平均的な人間は、魂が何であるかを知っているのでしょうか? 神について知っ

ているのでしょうか? 私たちの真実の自己である神についてはどうでしょうか?その「魂-自

己認識」は降下し、自身に物質、サイキカル物質、ノエディカル物質、ノエティック素材、超素材を

身につけていきます。これら身につけるものは物質です。

 では、物質とは何でしょうか? 私たちは物質について知らないとは言えません。科学的にはどう

でしょうか? 科学では物質は存在していないと言っています。それはエネルギーが凝縮したものと

捉えています。しかし、私はこの机や椅子や人間が存在していることを否定できません。それらに触

れることができ、知っていますし、固体や液体や気体から構成されていることも知っています。

 物質が何であるかを受け止めるために、私たちは同じ周波数で波動する何かを使用しなくてはなり

ません。さもなければ、それを感受することができません。これに対応するものが、私たちの物質と

しての手であり、目であり、脳であり、五官なのです。私たちはテーブルに触れることにより、それ

が存在することを知ります。例えば、このテーブルが1~10の範囲で波動していると仮定しましょう。

そして、私たちの手も同じ1~10の範囲で波動しているとします。そうすると、私たちの物質として

の手は、それが固体であることを感受できるのです。なぜなら、手とテーブルは同じ範囲の周波数で

共振しているからです。しかし、もし私たちの手がエーテル・ハンドのように別の範囲の周波数で波

動していれば、それはテーブルを通り抜けてしまうでしょう。私たちは感覚エーテルや運動エーテル

を利用して、エーテル・ハンドを使い、感じることができます。例えば、エーテル・ハンドが10~20

の範囲の周波数で波動していれば、テーブルはもはや私たちのエーテル・ハンドの障害物にはなりま

せん。サイキカル・ハンドについても同じことが言えます。

 私たちを取り囲む物質界を私たちの方法で、すなわち五官を使って私たちは感受しています。肉体

にある五官は、波動が低く鈍重な物質界と同じ領域の周波数で波動しています。しかし、私たちはこ

の肉体だけを持っているわけではありません。私たちには他にもサイキカル体、ノエティカル体、ノ

エティック体と呼ばれる体も持っています。

 自己認識・自己の中心として五官、物質的肉体、セックス、胃、物質的脳だけを持っている平均的

な人間は、自分の周りの物事に関して制約された認識力しか有していません。そして、粗い周波数で

ある物質だけに対応する1~10の領域を超えた波動を受け取ることができません。しかし、もし私た

ちが自己認識と意識を10~20の領域へ移行することができれば、私たちが感受するであろう波動が別

の世界からのもので、物質界のものとはかなり異なることに気づくことでしょう。その世界をサイキ

カル界と呼んでいます。

では、サイキカル界とはどんな世界なのでしょうか? そこに山や家はあるのでしょうか? もち

ろんあります。すべてが存在しています。しかし、それらを感受することができません。なぜなら、

それらの世界と同じ波動周波数の領域では波動していないからです。私たちが自己認識と意識を次の

段階の波動周波数に移行する時、私たちにとっての真実の世界は物質界ではなく、サイキカル界とな

ります。物質界は私たちから消えていきます。

 1~10の低い波動領域では、物質界を感受することができます。次の10~20の領域では、サイキカ

ル界を感受することができます。サイキカル界と物質界の関係は何なのでしょうか? 物質界で私た

ちは地表の何千キロメートル四方しか見わたすことができません。それ以外はありません。残りの地

表の3分の2は、水面です。私たちの肉体で何を感受することが可能でしょうか? ほんの僅かです。

湖や山脈や雲、街や物質的な状況だけです。それらのあるものは、人間が造ったものもあり、そうで

はないものもあります。

 サイキカル界はもっと広大です。七つのプレーンがあり、一つのプレーンがさらに七つのサブ・プ

レーンに分かれ、合せて49の領域があります。どの位広いと思いますか? サイキカル界の一つのサ

ブ・プレーンにある一点が全物質界に相当します。これらの世界に誰か住んでいるのでしょうか?

もちろん住んでいます。人間より高次の知性を持った存在がいます。波動周波数が低い物質領域は、

人の心を鈍くしてしまいます。

 さて、次にノエティカル界があり、ここも同様に七つのプレーンがあり、さらに七つのサブ・プレ

ーンに別れ、合せて49の領域になります。これらはさらに大きく、豊かで、明るい世界です。

 既に話したように、もし光が一点に当たらなければ、それは感受されません。そのため、もし自己

認識としての私たちがノエティック・ライトやノエディカル・ライト、そしてサイキカル・ライトに

到達しなければ、私たちはサイキカル的な事象を知ることができないのです。

 人間は自己認識であると言えます。これは例えばジョージというような肉体の中にある、いわゆる

自己認識的存在で、大変に制約されていて三次元の波動しか受け止められないのです。

 三次元の世界とは何なのでしょうか? それは私たちに固体や密度、重量や広がりを与えてくれる

世界です。この三次元の世界の法則では、同じ密度や周波数をもった二つのものは同じ場所を同時に

占有することができません。これが物質界の法則です。

 サイキカル界やノエティカル界のプレーンやサブ・プレーンの法則は、かなり異なっています。何

千もの対象物は互いに干渉することなく、同じ場所を占有することができます。これは同調と波動の

問題であり、これ以外の何ものでもありません。物質界でもこれに類似した状況をみてとることがで

きます。例えば、この部屋にはあらゆる放送局の電波が存在していますが、聴くことができるでしょ

うか? いいえ、聴くことができません。しかし、もし私がラジオを持っていて、異なった放送局の

ある一つの周波数に同調させれば、音楽を聴くことができるでしょう。このように、ある瞬間まで私

たちにとって存在していない何かが、同調により現実となって現われるのです。ですから、たとえ物

質界であっても、空間がその中に含む目的や物を混乱させるようなものではないことを、私たちは理

解していなければなりません。特にそれらが三次元を超えている時で、例えばラジオやテレビ信号の

エーテル波動についても理解しておく必要があります。

 私たちは科学的研究を通して多くの事柄を知ることができます。五官を通して与えられるもので、

私たちが現実と思っているものは、真なる現実のごく一部に過ぎないのです。

 サイキカル・プレーンやサブ・プレーンの世界や環境が、どこにあるのかを疑問に思う人がいるこ

とでしょう。それらは、天国であっても地獄であっても、すべてここにあります。これは同調の問題

だけなのです。このように四次元の世界では、空間の影響を受けていないのです。アインシュタイン

はこのことを話し始めましたが、止めました。私たちは敢えて前進し、四次元における空間が物質界

における意味とは異なっていることを言っておきます。テレパシーに関するいろいろな研究が証明し

ていることは、空間がそれが持つ一般的属性に対応していないということなのです。

 真理の探求者が学ぶべきことは、物質界における光が何であるか、それがどのように旅をし、私た

ちにどんな影響を与え、どのように行動しているかを知ることなのです。

 ここで物質界の光について考えてみましょう。既に話したように、光は表面に当たり反射して、私

たちの目にある形やイメージをもたらします。このイメージは物質的な脳の暗闇の部分に刺激を残し

ます。そして不可思議な存在である「私」(この存在については、後で学び研究します)が、これら

の波動を翻訳するのです。

 このようにして私たちは「木が見える」と言います。私たちがその木からかなり離れていると仮定

しましょう。この位置から木と木にとまっている烏が見えるでしょうか? いいえ、見えません。な

ぜでしょうか?

 私たちの所に戻ってくる光線が互いに接近しているために、反射される表面のイメージが劣化して

しまうためです。

 その木が七倍の大きさに見えるところまで近づけば、私たちは鳥が見えます。私たちがいたところ

から移動しなくても、望遠鏡を使えば見ることができます。このことは何を意味しているのでしょう

か? これは望遠鏡が波動を広げる、すなわち光線を広げることによりイメージが拡大されることを

意味しています。望遠鏡を使うと、私たちが物理的にあたかも七倍に見えるところにいるように、光

はそれ自体を私たちのところにもたらしてくれます。それで私たちはすべてを見ることができるので

す。今私が「鳥が見えますか?」と尋ねれば、あなたは「はい」と答えるでしょう。「鳥を見るために、

もっと近づきますか?」と尋ねられれば、あなたは 「いいえ、でも鳥を見ることができます」と答え

るでしょう。もしあなたに望遠鏡を渡していなければ、「鳥を見ることはできるでしょうか?」「鳥が

いることに気づいているのでしょうか?」もちろん、あなたの答えは「いいえ」です。

 物質界の光を学んでいくと、光が私たちに表現する印象を、私たちが受け取り見ることに気づきま

す。その光を注意深く調べていくと、それが私たち自身を創る力を備えていることに気づくでしょう。

光を学ぶことなくして、それらを私たち自身のものとすることができるのでしょうか? それを学ば

なければ、何事のマスターにもなれないことを私たちは知らなくてはなりません。

 さて、空間の概念はサイキカル界において異なってきます。もし私たち自身の自己認識性をいわゆ

るサイキカル体に移行しなければ、言い換えるとサイキカル界を訪れるための体外離脱ということを

行わなければ、私たちはどのようにしてサイキカル界を知ることができるのでしょうか?

物質界を見るのと同じように、私たちはサイキカル界もまた見ることができるのです。そして物質

界を支配する法則があるのと同じように、サイキカル界とノエティカル界にも法則があります。これ

らの世界は野放し状態ではなく、神聖な全なる智恵と全なる力の下におかれています。なぜなら、そ

こには動かされざる法則が存在しているからです。

ここで私たちは神の概念へ入っていくことになりますの私たちの知性で感受する神は、多くの人々

が信じている神、すなわち白いあごひげをはやし、私たちを審判し、悪行を罰する神とは異なってい

ます。

既に説明したように、時間と空間の領域にいる人間は多くの神々、すなわち人の思考投影物である

エレメンタルを創造してきました。多くの人々によるこのような思考投影物は、同じ一点に集中し力

を生み出しました。

私たちにとって、真理の探究の目的とは何でしょうか? 時間を過ごすためのものでしょうか?

いいえ、違います。私たちはいろいろな世界や異なった次元やあらゆる宇宙を知るために学ばなくて

はならないのです。キリストは述べています。「あなたがいるから完全なのである。たとえ天におら

れる汝の父が完璧であっても」と。この言葉は強い説得力をもっていますが、命令とは言えません。

そしてキリストは「神は霊である。彼を崇拝するものは、彼の霊と真理において崇拝しなくてはなら

ない」とも言っています。神は霊なのです。彼を知ろうとする者は彼を霊と真理において近づかなく

てはならないのです。崇拝するということは、〝向って進むこと″を意味しています。

一枚の板に神を見ることはできません。もちろん磁気を使ってイコンや像に植えつけることはでき

るかもしれません。このことについて調べましたが、これらすべては、人に仕えるものなのです。真

実において神は霊であり、私たちは霊と真理においてのみ神に近づくことができるのです。

 では、神でないものとは何でしょうか? イコンや偶像や現象を起こすエレメンタルのように、人

間が神であると信じているものは神ではないのです。もちろん、現象は起こり得ることです。しか

し、それらは何でしょうか? これらは多くの人々によるある形態や思考への専念と集中の結果であ

って、この観念的なものが存在をもたらすのです。しかしこれは自動的に起きてくるため、人々はな

ぜ起きるのか、どのようにして達成したのか、あるいはそれが人々にどのように仕えるのかを知る余

地がありません。このようなエレメンタルは悪魔的で破壊的なものか、あるいは善性をもち有益なも

のですが、決して神ではありえません。

 人間がいろいろな神をつくってしまったと言えるのではないでしょうか? それらをつくり出した

のが、神だと決して言わないで下さい。なぜなら、このことが絶対存在の概念を最小限度に留めてし

まうからです。神は私たちを創造してはいません。私たちは創造物ではないのです。私たちは彼なの

です。私たちは彼の延長体(子/ぶどうの木の枝)なのです。彼はジョージやマリーというパーソナ

リティー、そして肉体やサイキカル体やノエディカル体を創造したのです。

 ジョージやマリーは肉体の中で動き回ります。ある時間が経過すると疲れ、ほとんどの時間は夢も

見ず眠ってしまいます。夢は存在していません。夢を見ていると感じている間、サイキカル界に入っ

ているにすぎません。ただ、そのことに気づいてはいません。なぜなら、物事を区別することができ

ず、すべてに対して混乱してしまい、これらの世界が現実の世界ではないと考えてしまうからです。

 さてここで、ジョージやマリーについて考えてみましょう。彼らは印象を受け取る存在なのです。

多くの場合、潜在意識的に受け取っています。しかし、たとえ意識的な印象であっても、どれだけの

人が五官を通さないで受け取っているのでしょうか? だから私たちがエクササイズを通して訓練し

ていくと、もっと多くの印象や経験を受け取ることができるごとに気づくのです。

 ここまで来ると、私たちは物質界で如何に自動的に生きているかに気づくことでしょう。私たちは

この世界の印象の十分の一しか受け取れていません。しかし私たちは生きていると言います。キリス

トは私たちを〝死んでいる者″と呼び、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と

表現しました。人生とはかなり奮闘的で集中した認知過程であり、〝真実の理解″を意味しているの

です。

 真理の探究者であっても、この物質界で意識的に生きていなければ、彼らに意識の拡大や体外離脱

の方法、あるいはサイキカル界で意識的に生きる方法を求めることはできません。彼らもまた、物質

界の他のほとんどの人々と同じような不健康で取るに足らない生き方をしているのです。

 例えば、私と一緒に散歩に行くとしましょう。あなたは多くの人や店や木々などを目にすることで、

いろいろな形やイメージを目にすることになります。これは光があなたの網膜に像を写し、その光情

報が視覚神経を介して物質的脳の視覚野に刺激を与えます。散歩の後に、私はあなたに見たものを尋

ねます。あなたが受け取った印象のたとえ100分の1でも、あなたは説明できると思いますか?

あなたは関心をもったある程度のものを話すことはできるでしょう。しかし、実際あなたは何千もの

波動を受け取っていて、それらはあなたの潜在意識にすべて刷り込まれています。たとえ潜在意識的

でも、あなたが見た全ては潜在意識に刷り込まれるのです。

 物事を刷り込む手段とは何でしょうか? 考えを一歩前進させましょう。物質的な光は、サイキカ

ル・ライトとノエディカル・ライトの両方を含んでいます。意識に刷り込むことは、物質的な光によ

ってではなく、サイキカル・ライトとノエティカル・ライトによって刷り込まれます。それらが意識

にイメージを残してくれるのです。

 あなたは自分のパーソナリティーがあなたの経験と印象の総合計以外の何ものでもないことを知っ

ています。しかし、あなたはこれらの総合計だけではなく、何か別のものなのです。あなたはこれら

の情報を翻訳したり、あるいは誤訳したりしている存在なのです。また、あなたは知っていても、今

はこれらの物事に魅了され夢中になってしまっているその存在なのです。

 しかしいつか、あなたは自分の経験や印象を認め感謝できるようになり、あなたはそれらとあなた

自身をマスターし操縦できるようになります。真理の探求者の目的は、自己実現に到達することです。

これは真実の内なる自己を見出すことを意味しています。

神は形がなく捉えようのない存在で、生まれることも死することもありませんが、実は私たちもそ

うなのです。あなたは今、重く粗い物質を持ち三重の鏡の構造を持つ存在で、物質形態とサイキカル

物質(感情)とノエディカル物質(思考)から構成されています。それらは同じ鏡ですが、三つの面

を持っています。それらがどれだけ歪めてあなたの形態を映し出しているかを想像してみて下さい。

 私たちは形がないと言いました。それは形態の概念の中の無形態です。人間のイデアは無形態では

ありません。肉体を除けば形態はなくなりますが、無形態ではありません。なぜなら、形態の概念が

存在しているからです。これは法則であり、形の原因なのです。

 神について話を進めましょう。そうすると神とは何でしょうか? 法則でしょうか? 原因でしょ

うか? マインドの特性によって人間の中に知性として表現された全なる智恵でしょうか? 私たち

がマインドと言う時、物質的な脳を意味していません。物質的な脳は機械と同じです。しかし、マイ

ンドは超素材であり、素材であり、また超物質であり、物質であり、これらを通して自己認識、ある

いは非自己認識意識が宇宙を創造しています。

 物質界の宇宙を観察すると、いたるところに秩序があります。もし私たちがユーカリ樹の種を蒔く

と、それはオレンジの実をつけることにはなりません。あるいは、もしある国から種を取って、それ

を他の国で蒔いた時、それは他の種類にはなりません。私たちの肉眼では見ることのできないような

小さな種には、そのすべての法則と全なる智恵と全なる力が包含されています。

 精子はどうでしょうか? その実現性の循環と蓋然性の循環に従って適切な状態にある時、精子は

驚くべき肉体を創造するでしょう。それはサイキカル体とノエティカル体からたぐり寄せ、私たちに

人間のパーソナリティーのための自己認識を与えます。

それを私たちが創造していると言っているのではありません。時間-場所の存在を表現するため

に精子を利用する人は永遠なのです。その人は時間-場所の概念を超越しています。彼は神です。

キリストは「私はあなた方に言っておく。あなたがたは神であり、全能なる方の子なのである」と述

べています。

私たちが体外離脱の練習を行う時にこのことを発見するでしょう。今私たちはこのことを思考、す

なわち論理的説明として受け取ります。しかし、真実において私たちが誰であるかを理解するために、

私たちは体外離脱により肉体の外へ出て行かなくてはなりません。そうすれば、私たち自身がサイキ

カル体の中に存在していることに気づき、サイキカル体としての力を得ることになります。それは肉

体の力と比較すればほとんど無限の力に感じることでしょう。

 私たちがサイキカル体を離れると、次にノエティカル体にいることに気づくでしょう。さらにノエ

ディカル体から出て行くと、私たちはノエティック・ステートにいることに気づくことでしょう。科

学者はこの世界の光をスーパーライトと呼んでいますが、私たちは消滅することのない光〔メンタル・

ライト〕と呼んでいます。この世界に入ると、ノエティック・ステートの超素材と呼ばれている鏡に

映る自分が誰であるかに気づきます。そこにはジョージやマリーとしては見えません。この点に注意

して下さい。あなたは物質としてのジョージやマリーを見ることはありませんが、何世紀もの間ジョ

ージやマリーを特徴付けてきた原型や波動やトーンとして把握することができます。スーパー・ノエ

ティック・ステートで彼らを知っていた人は、彼らを分かることでしょう。ジョージやマリーとして

でしょうか? もしある人が彼らをジョージやマリーとして知っていれば、彼らを確認できるでしょ

う。もしある人が彼らを知らなくとも、充分に発達していれば、その人は彼らの自己認識からジョー

ジとマリーのすべての人生を瞬間的に知ることができます。今回の転生だけについてでしょうか?

いいえ、その人は同時に彼らのすべての転生について知ることになります。

 このように、私たちは真実の自己を知る人であっても、翻訳や誤訳をする人であっても、また分類

したがる人であっても、「私は私である」存在として、形態がなく、不滅で、永遠の存在なのです。

 私はキリストの言葉を繰り返します。「私はあなた方に言っておく。あなた方は神々であり、全能

なる方の子なのである」しかし人間として、あなたは他界します。これは状態を変えることを意味し

ているだけです。聖パウロは「私は毎日死ぬが、まだ生きている」と表現しました。

 八歳の時のジョージとマリーはどこにいるのでしょうか? ジョージは男性となり、マリーは女性

となっています。今はたった一つの分子も原子も彼らの肉体には残っていませんが、ジョージとマリ

ーはまだ存在しています。彼らは今異なった形態を持ち、別の感受性や表現を持っていることでしょ

う。ジョージとマリーの肉体の中には彼らが八歳の時の原子一つですら存在していません。そして、

今彼らの肉体の中に存在している原子は、三十年後にはまったく存在していないでしょう。

印象を受け取る意識のセンター、すなわち自己認識として、ジョージとマリーは同じ存在として残

ります。彼らが宇宙のどこに散在しても、あらゆる宇宙のどこで認知されても、あるいは原子に入っ

て印象を受けようとも、彼らは完全なのです。彼らは自己認識として小さくも大きくもなりません。



今多くについて話してきました。ここで座ってじっくりと意識的に考え結論に進みたいと思います。

瞑想を通して、私たちは神の意味や私たちの真実の自己に入っていかなくてはなりません。そして私

たちであるものや私たちではないものへ、また神であるもの、神ではないものへも入っていかなくて

はなりません。

 その結果は何でしょうか? 正しい思考としてマインドを使うことによって、また集中と熟考とい

う手段によって、より大きな力を得ることができるかもしれません。いつか私たちはあるレベルに到

達し、私たちの環境や外の世界から受け取る知識にもはや頼る必要がなくなるでしょう。私たちは新

たな力を得ることになります。これらは集中や同調やアチューンメント、そして一体化の力なのです。

あるもの、例えば花への簡単な集中で、私たちは花となり、目を閉じて開く間にその花についてすべ

てを知ることができるのです。知るために何年もの学びが必要なものであっても、このようにすると

私たちは多くのことについて瞬間に何でも知ることができるようになります。ここでは、さらに高い

エクスタシーの力については触れません。



 私たちが学ばなくてはならない神の簡潔な説明は愛です。私たちは自分たちの中にたくさん持って

いて、それを表現しています。私たちは少し変な方法で表現していますが、それは愛です。神は愛な

のです。私たちがいろいろなレベルの愛の意味を理解しようとする時、それも真理へ導いてくれるも

う一つの道だと言えます。真理と光は一つの道だけでは到達されないでしょう。すべての小道は一つ

の大きな道へつながるものです。









 第11章

父である神、霊-エゴ、魂-エゴ、内省

意志の力、光-生命、意識




 私たちが信じるものについて簡単な修正をすることになるでしょう。私たちが信じているものは、

単なる想像ではありません。それは知識と経験です。過去何世紀にも亘り賢明なる人々が人間性につ

いて教えてくれたことを私たちは知っています。私たちの最愛なる主であり、「神-人」であるジョ

シュア・イマヌエルが立証してくれたことを知っています。それをどのようにして立証したのでしょ

うか? 会話と説教とによってですが、主に彼の模範と行い、すなわち不思議なことや奇跡によって

示しました。私たちの肉体や他の体(いわゆる、サイキカル体やノエティカル体)は私たちの真実の

自己ではないことを証明してくれました。私たちはジョシュアがよく神と呼んでいたアラハから生じ

たものであり、神なのです。これが真実なのです。ジョシュアが2000年前に教えたことを、今日

のレッスンで聞くことになるでしょう。

絶対無限の真実とは、絶対無限の存在であり、私たちが神と呼ぶ存在性なのです。私たちが絶対無

限の特質として理解しているものは、自己充足性以外に、ご自身の中にご自身を顕すための意志の喜

びもあります。

 そのことをどのようにして理解することができるでしょうか? 生命現象を調べ、学び、研究する

と、その中に無限の存在の全なる智恵や全能性、そしてご自身による天地創造や私たち人間への偉大

なる愛を見てとることができます。

 人間が知ることのできない父である神、すなわち絶対存在性とは何なのでしょうか? キリストで

あり、「神-人」であるジョシュア・イマヌエルは、彼の「弟子-ヒーラー」に説き伝え、ヒーリン

グを教え、真実を教え諭してきました。(彼の弟子は12人の使徒だけではなく、何千ものヘブライ人

やエッセネ派の民もいました)「神-人」であるジョシュア・イマヌエルは、神を「私の父、そして

あなた方の父」と呼びました。

 イエスも彼の家族も、また弟子の多くは、エッセネ派の民でした。ユダヤ人ではなかったのです。

エッセネ派とはどんな民族だったのでしょうか?エッセネ派はヘブライ人とギリシャ人の子孫とし

てエジプトに現われました。彼らは「唯一の霊-神」(OneSpirit-God)である〝アトン〟を崇拝し

信仰していました。アケナトンは〝アトン“が真実の神であると宣言して、他の偶像崇拝を禁止し

ました。何世紀にも亘り続いてきた、偶像崇拝の多神教である昔からの宗教と、唯一神で「霊-神」

であり、天と地の神を信じる新しい宗教との間で争いが起こりました。

【訳注】*弟子-ヒーラー‥キリストの弟子内で、キリストの指導により真のヒーリング
     能力を身に付けていた者

エッセネ派の民はギリシャ語を使っていました。すなわち、エジプトに留まったギリシャ語を話す

ヘブライ人でした。エジプト人もギリシャ語とアラム語を使っていました。アラム語はエジプトの言

語に由来する言葉です。その当時、エッセネ派の民はエジプト、パレスチナ、キプロス、小アジア、

そしてメソポタミアに居住していました。彼らは唯一神であり、父であり、慈しみ深い父を崇拝して

いました。

 当時、三つの宗教がありました。一つは偽の神たちである偶像を崇拝する偶像崇拝者でした。彼ら

はギリシャ人やローマ人でした。それから、唯一の神を信じるエッセネ派がいました。彼らは神をギ

リシャ語で「オ テオス」(O Theos)、アラム語では「アラバ」(Alaha)と呼び、唯一の神であり、

父であり、慈しみ深い父、すなわち愛に溢れた「霊-神」を信じていました。そしてイスラエル人

もまた、唯一の「霊-神」を信じていましたが、それは復讐の神でした。このように、エッセネ派

とイスラエル人との違いは、エッセネ派が慈しみ深い父であるアラバを信じていたのに対し、イスラ

エル人は血による生贅を求め、力による報復的な神を信じていることでした。

 このように、もともと両者は唯一の同じアラハを信じていました。エッセネ派の民は、イスラエル

人を兄弟と見なしていましたが、イスラエル人はエッセネ派を異端者と捉えていました。なぜでしょ

うか?エッセネ派は改革して、血による生贅を止めたからです。彼らは昔からの人の生贅を求める

モーセの神をもはや信仰していませんでした。旧約聖書には生贅について書かれています。イブラヒ

ム、あるいはアブラハムは、息子のイシャク、あるいはイサクを生贅としています。このように、エ

ッセネ派のアラハとイスラエル人のアラハには大きな違いが存在していたのです。

 エッセネ派の民はイスラエル人を愛していましたが、しかしイスラエル人はエッセネ派を異端者と

捉え、何か機会があるごとに石打によって殺していました。これがまさに彼らがキリストであるジョ

シュア・イマヌエルに行ったことです。すなわち、彼を礫刑に処したのでした。礫刑の後、ある人々

はキリストであるジョシュア・イマヌエルが力を失ったただの男だと決めつけ、礫刑が人間の弱さを

示したのだと主張しました。カイアフアでさえ、礫刑にあたってキリストを「おまえは他の多くの人々

を助けたが、今自分自身を助けることができないのだ」と挑発しています。しかし、エッセネ派の民

にとって、これは一人の人間、すなわち人の子としての弱さなどではなく、むしろ「神-人」とし

ての勝利であると捉えました。

新約聖書を読むと分かるように、ジョシュアはいろいろな状況で彼の礫刑について述べています。                                                    

ある折にペテロは彼に「どうしてシリアに行かないのですか?ユダヤの権力やサンへドリンから逃

れることができます」と言った時、ジョシュアは答えて言いました。「私はこの時のために来たのだ

…私の教えが真実であることを証明するためなのだ。この肉体は私ではない、同じようにあなた方

の肉体もあなた方ではない。あなた方の体を殺そうとする者たちを恐れる必要はない、なぜなら彼ら

はあなた方の 「魂-エゴー自己」 には何もできないのだ。ここに肉体はある、彼らはこれを十字架

に掛けるだけなのだ」



 【訳注】=カイアファ‥新約聖書に登場する大祭司で、ローマ帝国に任命されたと考
      えられており、その時代のサンへドリンを支配していたと言われている。
      キリストに対する主要な敵対者であり、偽証をあつめキリストを有罪とし、
      礫刑に処したことにも深く関わっていると考えられている。

 【訳注】=サンヘドリン‥キリストが生きたローマ帝国支配下のユダヤにおける「最
      高法院」で、最高裁判権を有していた 司祭、律法学者など71名の長老か
      ら構成されていた。



 彼が予見し話したように、彼らはキリストの肉体を致命的に傷つけました。彼は「三日の内に癒し、

立ち上がるであろう」と言いましたが、その通りになりました。ですから、彼は実質的に彼の教えの

真実性を証明したのです。そして、彼は次の50日間、彼の使徒や彼を信じる者たちと共に地上に留まり、

釘でできた傷を示し、彼らと共に食事をしたのでした。「彼らが十字架にかけた肉体はこれだ。だが、

肉体は私自身ではないのだ」

 さて、キリスト信仰者はあらゆる人々に与えられた偉大な教えについての真実を知っているのでし

ょうか? 彼は肉体を過小評価しなかったでしょうか? 彼は肉体に適正な評価を与えました。彼は

肉体を〝神殿″と呼びました。父である神があなた方の肉体の中にいらっしゃることはこの上ない栄

誉であり、またあなたの魂として、すなわち「エゴー自己」としてパーソナリティーの中にいらっ

しゃることも大変に光栄なことです。このように、ジョシュアはすべての真理を説いてくれたと言え

ます。

 ジョシュアがヘブライ人とエッセネ派の民の両方の「弟子-ヒーラー」に教えを説く時に「私の

最愛なる者たち、天なる父であるアラバから生まれた子たちよ」と呼びかけました。彼はエッセネ派

の民にはギリシャ語で、ヘブライ人にはアラム語で同時に述べていました。

 続けてジョシュアは「父である神は、あなたの真実の自己の部分である「霊-魂-エゴ」として

あなたを送り出しました。それは生命の一条の光であり、人間として生きるためです」と述べました。

メタトロンがこのエゴと一体化することにより、あなたの守護大天使となります。あなた方の一人ひ

とり、すなわちすべての人々は、守護大天使を携えています。このことを心に留めて置きましょう。

 それから、アラハはご自身の「意志の喜び」を表現し顕し、人間を創造するために基本元素の聖な

る大天使たちと七つの階級の大天使たちへ「人間を造ろう」と語りかけました。彼は〝創造″という

言葉を使ったのです。ですから、人間は創造物なのですが、今、異なった意味を持っています。すな

わち、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われたように神ご自身としての存在を意

図されたのです。

 これらの聖なる大天使たちは、神の「意志の喜び」と共振して人間を創造しました。もう一度言い

ます。「アラハにかたどり、アラハに似せて、人を造ろう」少なくとも、これ以下ではありません。

そして「神-人」は私たちに導きと説得を与えてくれました。すなわち「あなたがたの天の父が完

全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」これは真に深い導きの言葉なのです。

 このように、彼は聖なる大天使たちにマインドである超素材バイタリティーを物質やエーテル、素

材や超素材として使って人間の形態を造るように命じました。そして、同時に三つの神聖なる状態、

すなわち人間の肉体とそのエーテル・ダブル、サイキカル体(感情体)とそのエーテル・ダブル、そ

してノエディカル体とそのエーテル・ダブルを造るように命じました。これらの体は死すべき運命を

持ち、存在の世界において常に変化し続けていきます。しかしながら、人間は他に二つの別の体を持

っています。それらは不滅で、一つは「霊-エゴの体」で、もう、一つはそのエーテル・ダブルであ

る私たちの「魂-自己」 です。

 人間は「霊-エゴとしての自己」です。しかも同時に、男性あるいは女性として「魂-エゴとし

ての自己」でもあります。両者とも神であり、不滅であり、変わることはありません。では「霊-

エゴとしての自己」と「魂-エゴとしての自己」との違いは何でしょうか?

 例を挙げて説明しましょう。これはあまり良い例とは言えませんが、他により良い例がありませ

ん。何も付いていない窓枠があるとしましょう。太陽の光は窓枠を通って射し込み、床に窓枠の形を

映し出します。この場合、窓までやって来る太陽の光は、窓を通過する光とまったく同じ光です。こ

れは光を変えるようなものが窓に何もないからです。しかし、窓から床に到達する光は床に窓の形を

映し出します。このことから、太陽から窓までの光は、私たちの「霊-エゴとしての自己」(久保注

:真我・普遍の神性)に相当し、神です。次に、窓から床までの光は、私たちの霊であり、すなわち

「魂-エゴとしての自己」(久保注:観照者=個別的霊魂)となります。そして、床に投影された光が、

私たちのパーソナリティーとしての自己(久保注:記憶コーザル体の私・現在のパーソナリティー)

なのです。

 パーソナリティーとしての自己は、存在の世界を統治している法則に添って変化し続けます。この

世界とは、ノエティカル界とノエディカル体、サイキカル界とサイキカル体、そして肉体とそれらの

エーテル・ダブルであり、すべては二重になっています。これは存在の世界の法則で、すなわち止む

ことのない変化であり、それにより死に対する感覚を引き起こさせます。なぜなら、肉体はそんなに

長い年数を生きることはありません。私たちの肉体は毎日死んでいて、毎日再活性化しています。私

たちの人体、すなわち肉体は母親の子宮の中では精子で、女の子か男の子の赤ちゃんでした。成長を

繰り返し成人し、若い男性あるいは女性となり、そして中年となり、老人となっていきます。彼らは

単純に人間の実現性の道に添って進んでいかなくてはなりません。私たちはその道に添って行かなく

てはならず、それが私たちの実現性なのです。そこを通らなくてはならないのです。

 聖パウロは「私は毎日死んでいる。聖なる基本元素の大天使たちは毎日私を再生している」と述べ

ています。

 伝統的科学は現在何と言っているでしょうか? 肉体では七年経つと何も同じ物は残っていないと

いわれています。肉体が消滅するまで、あらゆるものは変化し続けていきます。しかし、私たちの肉

体は私たち自身ではありません。それは私たちのパーソナリティーのエゴとしての自己ですらありま

せん。いつもレッスンで言っているように、すべての人間の物質的肉体は、物質や素材として全く同

じです。女性の肉体や男性の肉体を学ぶことにより、私はあらゆる男性の、またあらゆる女性の体が

どのようになっているか知っています。そして、もし人のパーソナリティー、すなわちその人のエゴ

ーパーソナリティーが、物質的人間の産物であるなら、あらゆる女性やあらゆる男性は同じであると

思われます。しかし、そうではないようです。

一人の女性や男性の体について学ぶと、あらゆる女性や男性の体を知ることになると私は言いまし

た。しかし、一人ひとりの男性も女性も異なったパーソナリティーを持ち、それぞれが生命現象の中

で異なった自己を表現しています。

 時間と場所の自己であるパーソナリティーは、私たちの真実の自己なのでしょうか? 答えは、は

いともいいえともいえます。私たちの個人的な自己で四六時中変化しているもの、すなわち休みなく

変わる感情や欲望、弱さや思考などは真実の自己ではありません。それがパーソナリティーのエゴイ

ズムを構成しているのです。なぜなら、エゴイズムを備えたパーソナリティーが、私たちが造り出し

ているエレメンタルの総計だからです。そして、これらのエレメンタルは私たちの自己ではありませ

ん。しかしそれは、その中にある真実の自己にとっては、この個人的な自己を生かしていくために必

要なものなのです。

 では、どのようにしたら真実の自己と、そうではない自己とを区別することができるのでしょうか?

そして、私たちが誰であり、何であるのかを知ることができるのでしょうか? 私たち「真理の探求

者のシステム」では、特定のエクササイズを行なっています。それらは自己に内在するものを内観す

る「内省」と、適切な方法でマインド・バイタリティーを使うことによって、私たち神聖なる本質

である「観察」と「意志の力」を訓練することです。

 人のパーソナリティーには、「意志の力」がないのでしょうか? 人のパーソナリティーが示して

いるものは、頑固さと愚かさでしょう。どうも、神聖なる「意志の力」にはほど遠いものです。パー

ソナリティーの頑固さを使っても、人は何も生み出すことはできません。しかし、「神-人」は「意

志の力」を使ってマインド・バイタリティーをパンや魚に物質化し、女と子供を別として、五千人の

男の飢えを凌がせることができたのです。また別の状況でも、女と子供を別として四千人の男に食べ

物を与えたのでした。これら二つの出来事は新約聖書〔マタイ14・13~21及び15・32~〕で述べら

れています。ジョシュアが、このようなことをたくさん行っていると、私は確信しています。これは

「意志の力」、すなわち神聖なる「意志の力」によるもので、人間の頑固さとは何も関係がないことな

のです。

 私たちにはこの人間的な頑固さがありますが、「意志の力」はないのでしょうか? パーソナリテ

ィーにはありません。しかし、あなたが「エゴとしての自己」を花開かせる時、この「意志の力」を

表現し現実化することができます。これがあなたの「霊-魂-エゴとしての自己」の本質の一つな

のです。

 キリストであるジョシュア・イマヌエルが行ったことを、私たちはできるのでしょうか? 彼の言

葉に耳を傾けましょう。「私を信じるもの、私の教えを信じるものは、私の行うことができる。私の

業よりもっと偉大なこともできるであろう」なぜなら、私たちは全員、彼の父であり、私たちの父で

もある神につながる者だからです。

 キリストであるジョシュア・イマヌエルが彼の弟子でありヒーラーたちに述べた言葉についてもう

一度考えましょう。あなた方の中には、「アラハ」(Alaha)という言葉を好まない人もいるかもしれ

ません。しかし、それは誤りです。なぜなら、この言葉「アラハ」は古代エジプト語とアラム語に由

来する一つの完全な文章なのです。“AL”は神を意味し、“La”が神の意志の喜びを意味し、”ha”は

神聖なる計画と神の意志の喜びを表しています。一つの言葉の中に、このようなすべての意味が合ま

れた言葉を他の言語で見つけることができるでしょうか?



エッセネ派の民は神を「テオス」(Theos)あるいは、「アラハ」と呼んでいました。そして、「エロヒム」

(Elohim)は、多重性にある神を表しています。なぜエロヒムは、単数なのでしょうか? それは多

重性にあっても神は、まだ彼の〝ワンネス″におられるからです。このようにすべてがそれ自体の意

味を持っているのです。

 ジョシュアは、神あるいはアラハが生命であり、不滅の光であると言っています。この光とは何で

しょうか? それは私たちが水で満たされた二つの球体、すなわち眼球で見えるものとは異なります。

何かそれ以上のものです。ジョシュアは生命の光について語り、そしてすべての七つの天国、すなわ

ちすべての存在の世界とその中にあるすべてのものが、聖なる基本元素の大天使たちによって創造さ

れていると述べています。

 不滅で神聖なる生命の光は、あらゆるレベルの光輝の拡散であると言えます。この輝度の格差が、

天地創造の各部分、たとえば石や岩、水や海や大海などを私たちにもたらしています。他の輝度の違

いにより、私たちに美しい植物界、木々や花々がもたらされます。また他の輝度のレベルにより、生

命すなわち生命現象の中でも豊かな動物界がもたらされます。また別の光の輝度により、別の本質的

なもの、すなわちエーテルやサイキカル界がもたらされます。さらに他の輝度がノエティカル界とそ

の中に存在するものをもたらします。このように、多様な明るさの輝度をもった生命の光が、七つの

天国を創造しています。

私たちは物質について話してきました。植物界についても話してきました。異なった明るさの輝度

についても触れてきました。そして、動物界や、さらに異なった輝度の生命の光についても話してき

ました。エーテル領域やサイキカル界やノエティカル界における物事についても触れてきました。

 人間とは何なのでしょうか? 人間にはどんな種類の生命の光があるのでしょうか? キリストは

述べています。「あなた方に言っておく。あなた方は神である。皆、全能なる方の子である。そして、

天の国はあなた方の中、すなわちあなた方の『霊-魂-エゴとしての自己』の中にある」

 これが、なぜ私たちが神であるかの理由なのです。これは大変に偉大な論理です。「神-人」であ

るジョシュア・イマヌエルは、彼の教えを実践的な言葉で表現しています。キリストは「あなた方は

今、私の『弟子-ヒーラー』となった。あらゆるレベルの明るさや輝度があなた方の中にあること

を知らなくてはならない。そして、私たちが〝意識″と呼ぶものの中に顕在されている」と述べまし

た。彼は感受性と感覚性について述べました。物質は熱さや冷たさや光に敏感です。私たちは肉体の

中の骨や筋肉に感受性と感覚性を備えています。

 彼は、感受性や感覚性について、またそれらと潜在意識の中間的なものである本能についても話し

ました。物質や植物界の中に感受性と感覚性があります。それから、潜在意識について述べました。

さて、動物界は本能を持ち、また潜在意識とも言えないような何かを持っています。

 人間は私たちが〝潜在意識″と呼んでいるものを持っています。今、地球上で生きている人間の80

%は潜在意識的に生きていることを知ってほしいのです。それと同時に、人間には私たちが〝覚醒し

つつある意識″と呼んでいるものを持つことも可能なのです。しかし、一体どれだけの人々がこの

〝覚醒しつつある意識″というものを表現し、自分たちが何を行っているのかを知っているでしょう

か? そのような人はどの位いるのでしょうか? ほんの僅かにしかすぎません。

ジョシュア・イマヌエルは、私たちの中に〝覚醒しつつある意識〟を花開かせる道を示してくれま

した。そして、私たちもまた、パーソナリティーとしての自己に係わる自己意識を持っているのです。

それは、私たちが明るさにおいて四次元の輝度を持っていることを意味しています。そのため、私た

ち自身の内に真実の自己を花聞かせなくてはならないのです。これは真実の自己意識を意味していま

す。そして彼が言っていることは、私たちが自ら陶治することにより、自分自身の中に「自己-超意識」

を花開かせなくてはならないということなのです。では、どのようにしたら良いのでしょうか?

父である神、アラハは、あなたに肉体を与え、五官を使えるようにしてくれました。五官があなた

に認識性をもたらしてくれます。すなわち、物質界で大天使たちがあなたの周りに創造したものをあ

なた自身の中で認識することを可能としてくれます。あなたは物質界を本能的に、また潜在意識的に

経験することになります。



 私たちは五官以外に他の感覚を持っているのでしょうか? 水でいっぱいの二つの球体、すなわち

眼以外で、見ることは可能なのでしょうか?


 もう少し分かりやすい表現で言うと、あなたの自己意識を空間に拡大することです! ジョシュア

はそれを行っていました。彼はフィリボへも教えていました。彼の聴衆のある者は、この聖霊の力

に気づいていました。今日、私たちはこれを「肉体から出る経験」と呼び、ギリシャ語でエクソソ

マトシィス(Egsomatosis/体外離脱)と呼んでいます。ジョシュアがエルサレムにいた時、フィ

リボとナタナエルはベトサイダにいました。そこはフィリボとナタナエルの故郷でした。フィリボは

ナタナエルに「私たちはメシアを見つけた」と言いました。彼らがエルサレムに着いた時、ジョシュ

アはフィリボに「あなたがナタナエルとイチジクの木の下にいた時、私はあなた方をみつけ、話して

いることを聞いていた」と言いました。ベトサイダはエルサレムから何十キロメートルも離れていま

す。これが意味することは、ジョシュアが自己意識を拡大、すなわち場所-空間の領域へ「自己意識」

を拡張したということです。彼はフィリボや他の弟子にも教えていました。これ以外にも記録が残さ

れています。

使徒言行録を読むと分かりますが、エルサレムにいたフィリボは肉体を離れ、エルサレムから何十

キロメートルも離れたエジプトとの国境に近い場所で肉体を物質化しています。彼はエチオピアの女

王の全財産を管理していた高官〔官官〕が乗っていた馬車に現われたのです。その時、その高官は預

言者イザヤの書を朗読していました。すなわち、フィリボはエチオピア人の高官の脇で自身を物質化

し、自己意識的に「読んでいることがお分かりになりますか?」と彼に尋ねたのでした。自分の脇に

突然人間が現われたこの高官のことを想像して下さい。彼はフィリボに答えて言いました。「手引き

してくれる人がなければ、どうして分かりましょう」 そして、フィリボは彼にキリストであるジョ

シュア・イマヌエルについて説明し、「ご自身を救うために、あなたは父と子と聖霊の御名のもとで

洗礼を受けなくてはなりません。これが主からの福音です」と伝えました。彼らは水のあるところに

来たので、馬車から降りて水に入り、フィリボはそのエチオピア人の高官に洗礼を授けました。そし

て、その直後にフィリボは肉体を非物質化しました。



 これらのことが意味していることは、私たち個人として「エゴー自己」の中に、いわゆる超自己

意識と呼ばれているものを自ら開花させなくてはならないということです。そうすることによって、

私たちは第五の天国に入っていけるのです。さらに意味があります。このことはまた、あなた自身を

拡張し、自己意識として存在し、集中により見たり聞いたりすることが可能となることを意味してい

ます。それは学ぶことからではなく、あなたと共にある存在対象との「アットワンメント」(一体化)

からもたらされるものです。

 これがどんな自己意識なのか想像ができるでしょうか? 私たちが自己意識、あるいは超自己意識

と呼んでいるものは、私たちの現在の天国でアチューンメントによって知り得る力を指しています。

アチューンメントとは、適切に共振することであり、存在の世界にあっても、同時に二つの存在であ

ることを意味しています。

 私たちのいわゆる「霊-魂-エゴとしての自己」にとって、次に来る二つの天国とはどんなとこ

ろなのでしょうか? ジョシュア・イマヌエルは何と言っているのでしょうか?「あなたは真実の

自己を花開かせ、アットワンメントあるいはアチューンメントと呼ばれているものにより神聖なるワ

ンネスの世界に入っていかなくてはなりません」と述べていますパしかし、この領域は地上的で世俗

的な世界ではありません。そこは神聖なる世界であり、あなたの帰るべき故郷なのです。



 キリストであるジョシュア・イマヌエルの時代以来、何人ぐらいの人間がこの段階に到達したので

しょぅか? たくさんいます。しかし、これには炎で焼かれるような〝通過条件〟があります。その

ためには、神や「神-人」とのアットワンメントに入ることができる特定の「霊-魂-エゴ」が存

在しているのです。それでは、「神-人」であり、最愛の方であり、最も親愛なる方の意志の喜びと

は何なのでしょうか? この天の国はあなたのためのものではありません。キリストは何と言ってい

るでしょうか? 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従

いなさい」と述べています。よって、この段階に到達した人は彼に自分自身を明け渡し、兄弟姉妹で

ある人間に奉仕するために物質界に降りてこなくてはならず、たとえ最も暗い地獄であってもいとわ

ないのです。それは犠牲なのでしょうか? いいえ、そうではありません。なぜなら、最も暗い地獄

であっても、そこには光が存在しているからです。人間の兄弟姉妹に奉仕するこれらの存在は、彼か

らそんなに離れていないのです。彼らは父の遍在性と呼ばれているものの中に自己意識を持って存在

しているからです。すべてのものは父である神の中に存在しているのです。

 あなたには、それができますか? あなた自身の中にこのような自己意識を受け入れることができ

ますか? あなたもできるはずです。なぜなら、あなた方すべては神につながる子だからです。

 しかし、人間は今潜在意識的に生きています。「放蕩息子のたとえ話」によれば、あなた方は好む

と好まざるによらず、「霊-魂-エゴとしての自己」として遅かれ早かれ神聖なる本質に戻らなくて

はならないのです。しかし、そこに向けて努力しなくてはなりません。どのようにすれば・艮いのでし

ょうか?

 神は私たちに完全な肉体をお与えになり、造り上げ、そして基本元素の鞘なる大天使たちによって

維持させています。解剖学の本を開かない限り、私たちはその肉体についてあまり知りません。その

肉体は基本元素の聖なる大天使たちの管理下に置かれています。

 「霊-魂-自己としての自己」の一条の光は、時間と空間における死すべき運命の自己を創り上げ

ました。私たちにはマインド・バイタリティーであるサイキカル素材と超素材が与えられています。

私たちは、それを使って一体何をつくり上げているのでしょうか? 尽きることのない欲望で、勝手

きままで抑制の効かない感情が愚かな表現で、愛と呼ばれているものを汚しているのではないでしょ

うか? 私たちは奪い合いと嫉妬にあふれた、このようなものを生命と呼んでいます。私たちは悪い

エレメンタルをつくり出すことにより、マインド素材を大いに誤用しています。これらのエレメンタ

ルは「人-悪魔」と呼ばれ、私たちのパーソナリティーを構成しているのです。しかしながら、私

たちのパーソナリティーのハートや生命の鼓動が、「魂-存在としての自己」なのです。



 私たちにはマインド・バイタリティーが思考として与えられています。それを使って理解に至り、

知識と智恵を得ることになります。しかし、私たちはどのように行動しているでしょうか? 私たち

は残念なことに思考を抑えることのできない感情の奴隷にしてしまっているのです。

 私たちが行うべきことは何なのでしょうか? 先ず最初に、肉体の中に自己意識を開花させなくて

はなりません。その次に、私たちのサイキカル体を適切な状態にしてから、その中に自己意識を花開

かすことができます。それから、ノエティカル体を形づくることになります。そうすると、思考をコ

ントロールできるようになり、思考のマスターになることができます。そうすると、私たちは「魂-

自己意識」をもっと開花させることができ、私たちの神聖なる力を現すことができるのです。その力

をアチューンメントと呼んでいます。さらに神聖なる存在とのアットワンメントによって、私たちの

「自己-超意識」を花開かすことになります。そうすると何を発見するのでしょうか? 私たちが皆、

神であり全能なる方の子であることが分かります。


 ある人は「私は自分のパーソナリティーを犠牲にするのでしょうか? 辛い人生ですが、それでも

好きなんです」と質問するでしょう。しかし、あなたは何も失うものがありません。なぜなら、あら

ゆる転生の美徳と悪徳、そして善行と悪行はエレメンタルの総体であり、生きています。生きた総体

と言えます。過去のあらゆる人生をかえりみても、何も失われていません。あなたのすべての経験の

生きた総体、すなわち宇宙メモリーにおけるエレメンタルが存在しているのです。それらは生きてい

るのでしょうか? もちろんです。それはマインド・バイタリティーからできたマインドだからです。

 ですから、あなたがそのような段階に到達するということは、キリストの言葉「あなたがたの天の

父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」が指し示していることです。

 それぞれの転生において、あなたは一冊の本を書いています。それは宇宙メモリー図書館の棚に置

いてあります。もしあなたが書き手で、いろいろな本を書いたのであれば、その図書館に入って行き、

全巻を手に取り、それらを再び読むことを一体誰が禁じるのでしょうか? それを読むことにより、

あなたは楽しかったことでも、悲しみにくれたことでも今は楽しむことができるでしょう。それらは

神の思みによって、もはやあなたに影響を与えることはありません。なぜなら、あなたはこれらの悪

徳からすでに自由になっているからです。このように、完全に到達しても、あなたは何も失うものが

ないのです。あなたにとって大変に貴重な「現在のパーソナリティー」を失うことはありませんよ!

 
あなたは、過去のあらゆる転生であなたが書いた全書を自分の中に発見することになります。この

ことは、あなたが完全において得ることを意味し、失うことはないのです。何も失われません。マイ

ンド・バイタリティーで創られていないものは何もありません。だから、思考も感情も欲望も失われ

ないのです。あなたが対象物にアチューンメントできる段階になれば、あなた自身をあなたの過去の

どの転生にもアチューンメントできるのです。

 アットワンメントによって、過去のパーソナリティーの生きているエレメンタル総体に入ることが

できるのでしょうか? あなたが望めばできますが、なぜそうしなくてはいけないのでしょうか?

アチューンメントで見たり知ったりすることでは不充分なのでしょうか? 私は自分自身に対してそ

うしたいとは全く感じませんでした。



 アチューンメントとは、キリストであるジョシュア・イマヌエルと共にあることです。それは神と

共にあることでもありますが、過去のエレメンタルとあることではありません。あなたが神と共にあ

るときはアットワンメントを使い、他のすべてのものに対してはアチューンメントを使います。しか

し、あなたが「自己-超意識」という最も高い意識状態に到達していなければ、このようなことは

不可能なことなのです。では、どのようにすれば良いのでしょうか? 〝視覚化〟のマスターになる

ことです。それは内省と適切な瞑想を通して、観察というあなたの神聖なる領域を現実に顕すことで

す。


 マインド・バイタリティーは日々の糧としてあなたに与えられています。それを適切に使ってあな

たを養いましょう。そして、あなたが肉体のために食べたり飲んだりしているように、あなたのサイ

キカル体とノエティカル体を創るために使いましょう。ジョシュア・イマヌエルは 「人はパンだけに

ょって養われるのではなく、マインド・バイタリティーによってなされる」と言いました。

 あなたの天なる父はどこにでも遍在され、あなた方の「霊-魂-エゴとしての自己」の中にもお

られます。真理の探求者は、動物のような生き方を止めなくてはなりません。私たちは人間として、

大天使として、そして神として生きなくてはならないのです。

【エクササイズ】

  このエクササイズは、私たちの親愛なるお方、ジョシュア・イマヌエルがギリシャ語とアラム語で

  お与えになられたものです。私たちは英語で行いましょう。

  完全にリラックスして下さい。

  肉体はあなたのものですが、あなたではありません。聖なる大天使たちと聖霊が今、それを養って

  くれています。彼らはそれを、あなたが自分のものとして使えるようにしてくれています。肉体はあ

  なたのものです。しかしそれが意味することは、それが神の神殿であるということで、言いかえると

  神とあなた白身の 「永遠の存在としての自己」 の神殿なのです。


 この神殿を天使的エレメンタルの集会の場にしましょう。そして、この神殿から不道徳なエレメン

タルである「人-悪魔」、すなわち嫉妬、邪悪な行為、弱さ、抑制のきかない欲望や感情を追い出し

てしまいましょう。

 この神殿である肉体を善いエレメンタルである「人-天使」の集会所にしましょう。愛の光の下で、

善なるエレメンタルだけを創り出しましょう。

一つひとつの神殿には、聖なるものからの聖なるものがおられます。あなたのハートを神の聖なる

領域の聖なる場所にしましょう。聖なる場所の最も聖なる場所に祭壇があります。あなた自身のハー

トにもその場所を創りましょう。その祭壇には、消えることのない「生命の灯り」(ライフ・ライト)

が燃え続けています。

 聖なる大天使たちが、あなたのハートの中に一つの灯りを点したのです。そして、あなたは生きて

います。これが生命の鼓動です。

 さて、私たちはそのランプのもう一つの灯心に灯りを点します。それはあなたのパーソナリティー

の愛で、神やあなたの周りのあらゆる人々のためのものです。

 あなたのハートの祭壇にあるランプの二つの炎の灯りで生きていきましょう。神を愛し、あらゆる

人々を愛しましょう。炎を揺れさせないように……完全な光を保ちましょう。










 第12章

生命、魂-エゴ、現在のパーソナリティー



 生命とは何でしょうか? 人生とは何でしょうか? 生命と人生とは二つの異なったものです。生

命とは、絶対存在であり、絶対生命であり、絶対的真実です。人生における命とは同じ絶対存在の多

重性にあるもので、表現であり〝生命現象″と言えます。

 生命とは唯一のもので、絶対生命と言えます。その絶対生命の中に、あらゆる生命現象が存在して

います。私たちは絶対生命の中にあるものであり、行動し、存在しています。生命とは大海のような

ものであり、分離の世界ではそこから生命現象(絶対生命ではなく)が引き出されるのです。

 二つの関係をさらに調べていきましょう。生命は一つで、その一なるものが絶対存在であり、絶対

生命であり、絶対的真実であり、自己充足生命であり、真理そのものなのです。一方、私たちの人生

における命とは、多重性にある絶対存在の表現、すなわち生命現象であり、私たちはこの命を多くの

段階と形態において見ることができます。このように、人間の命は一人ひとり異なっています。動物

界の命も同様に異なっています。植物界や鉱物界の命もそれぞれ異なっています。マインドを通して



の表現である天使的な命も異なっています。また、いろいろな大天使の階級に属する大天使たちの命

も異なります。では、キリスト・ロゴスの命もいろいろ異なっていると思いますか?いいえ、異なる

っていません。私たちは意識として「絶対的な聖霊意識」の細胞であり、また自己認識としてロゴ

スの絶対的自己認識」の細胞なのです。


 最愛なる方は光であり、その光がこの世に来るすべての人に光を与えます。この光が自己認識を与

えています。だから私たち一人ひとりは、絶対生命からの一つの細胞的生命を持っているのです。

 ここまでを復習しましょう。意識的細胞として、私たちは「絶対的な聖霊意識」の細胞です。そし

て、自己認識的細胞、すなわち表現としての自己認識を持った現在のパーソナリティーとして、私た

ちはいわゆるキリスト、あるいは「ロゴスの自己認識」の細胞なのです。しかし、私たちは細胞自体

ではなく、人生という命を持ち、同時に永遠の生命を持っているのです。私たちは聖霊的、かつロゴ

ス的な生命なのです。私たちは絶対存在の一部である聖なるモナドとしての生命を持っています。こ

の点をよく留意しておきましょう。

 さて、どちらが私たちの真実の自己なのでしょうか? 私たちの真実の自己は、どちらの形態の生

命を持っているのでしょうか? 私は魂の表現としての命については話しません。なぜなら、これに

は始まりと終わりがあるからです。絶対生命である聖なるモナドとしての生命は、時に時間と運動の

世界の中へ延長されていきます。それが天なる人間、すなわち人間のイデアを通過すると、始まりと

終わりが生まれるのです。ここで、私たちは〝オンドピイシス″(Ontopeisis/ギリシャ語)の起源

にやってきます。(この言葉は翻訳することができません。ギリシャ語で"on"は「永遠の存在」(being)

を意味し、"peisis"は「……になる」(to become)という言葉に由来します。〝オンドピイシス〟は、

テオーシスに関連した近い意味を持っています。テオーシスとは、自分の「霊-エゴ」との啓示と

結合を人間の観点から見た表現ですが、一方〝オンドピイシス″は「霊-エゴ」からの観点であり、

それが人間のイデアを通過し投影されることにより何を得たのか、そしてそれがテオーシスに至るま

での地上でどのような生命を経験するのかを表したものです。私たちがテオーシスを通して〝故郷に

戻る″時、私たちの兄弟であり、善なることだけを知る大天使たちよりも私たちがより完全に近い永

遠の存在になるのです)


 現在のパーソナリティーの「自己認識を持つ自己」として、私たちの人生はロゴス的なのです。し

かしロゴス的と言っても、分離の世界におけるロゴス的人生は自身の経験を得るものであり、悪の意

味でさえロゴス的自己認識性の内に留まっているのです。もしそうでなければ、如何なる制御も成り

立たないことになります。

 
私たちの「永遠のパーソナリティーの自己」としてのロゴス的自己認識性は、生命現象として存在

するとも、存在しないとも言えません。私たちは肉体を持ち、それは誕生から成長し、全なる智恵と

全なる力と善性の中で聖霊的に陶冶していきます。もちろん、肉体は分解され、灰は灰へ帰されます。

肉体とそのエーテル・ダブル、サイキカル体とそのエーテル・ダブル、そしてノエティカル体とその

エーテル・ダブルとして、私たちはパーソナリティーを持った自己認識であり、既に話したように

分離の世界の三次元の世界における生命なのです。肉体、サイキカル体、低次のノエティカル体とし

て、私たちは純粋に聖霊的なのです。この点に留意しましょう。そして、この点についてはギリシャ

正教の教義と完全に一致しています。

 私たちは生命の担い手が聖霊であると言っていますが、同時にキリスト・ロゴスご自身を通して、

すべては過去にも存在し、今も存在し、これからも常に存在し続けるでしょう。そのために、私たち

のパーソナリティーの「自己認識を持つ自己」、肉体、サイキカル体、ノエディカル体は、体として

聖霊的であり、聖霊意識の影響を受け、後に超意識に支配されます。しかし、私たちの内なる自己、

すなわち永遠のパーソナリティーの「自己認識-自己」、そして魂の「自己認識-自己」の表現手段

として、私たちの各体はロゴス的表現を表しています。このために、人間には現在のパーソナリティ

ーとしての自己認識の形態がまさに与えられているのです。それは確かに自己認識性ですが、時間と

場所という領域内における自己認識にしかすぎません。一方、永遠の生命としての自己は時間と場所

という概念の中には存在せず、永遠の今にある絶対性と共にあります。この違いに注意して下さい。




 このような学びのためには、深い瞑想を通してこれらの状態を経験的に知ることが求められます。

それは、あなたが何者であるかを自分の自己の中で認識するようになり、実はあなたが自分だと考え

てきたものではないことに気づき始めた時に、あなたは現在の永遠のパーソナリティーとして最も低

い表現段階にいる自己を見つけることになります。私が〝現在〟を付けた理由は、あなたはまだ自身

を瞑想的、あるいは思索的な存在(現実に対して仮説的な存在)として捉えることはまずないからで

す。あなたは今この瞬間、自分自身を現在のパーソナリティーという自己認識性を身に着けた存在と

して受け入れているからです。


 このように私たちは現在もまだ、現在のパーソナリティーの自己認識性の中に作者不明のパーソナ

リティーの自己認識を持っているのです。まさにこれが、二つの状態が合わさり一体となる点であり、

私たちはいずれ、二つの状態を一つのものとして感受することになるのです。

 他のレッスンで話したように、これは二つの端を持った二本のロープに喩えられます。しかし、私

たちは二つの端に触れない限り、この真実を受け入れないのです。すなわち、私たちは現在のパーソ

ナリティーとしての自己がどこに存在し、どこには存在していないのか、また永遠のパーソナリティ

ーとしての「自己認識-自己」がどこに存在し、どこには存在していないのかについて区別がつか

ないのです。

 私たちの学びと探求を進めるために、私たち自身をこのロープの両端へ拡張していかなくてはなり

ません。私たちが両端まで届くことができれば、ロープの一端のみ、すなわち永遠のパーソナリティ

ーとしての「自己認識-自己」だけに興味を持つことはなくなるでしょう。私たちは光輝くような

端と明るさの少ない端の両端に関心を持たなくてはなりません。光輝く端、すなわち拡張された意識

の真実の自己は、明るさの少ない端の自己へ真実を示すことでしょう。私たちの魂の自己認識、すな

わち永遠のパーソナリティーの自己認識は、真実を知っています。明るさの少ない端にいる現在のパ

ーソナリティーの自己認識は真実を知りません。それを真実の内なる自己から学ばなくてはなりませ

ん。





 私たちは肉体から衣服を区別できなくてはなりません。すなわち、衣服を脱ぎ去り、「これが肉体で、

これが衣服です」と言えなくてはならないのです。しかし、永遠のパーソナリティーについては、同

じことは言えません。なぜなら、さらに完全な自己を知るために、その表現である現在のパーソナリ

ティーの自己認識(衣服とはいえないので)を脱ぎ去ることはできないからです。しかし、私たちが

両端に到達する時に、それを知ることになるでしょう。他にそれを知る方法はありません。

 これが道です。このロープに喩えた線が道であり、真理であり、命なのです。この生命という課題

については、深く瞑想しなくてはならず、それにより真実の自己を確認することができるでしょう。

私たちの真実の自己とは意志と言えるでしょう。それが現在のパーソナリティーの自己を知り、支配

しているのです。

 さて、私たちは前進するためにロープの一端に集中すれば良いのでしょうか? いいえ、そうでは

ありません。ロープの両端へ同時に集中しなくてはなりません。もし、一端だけに集中した場合、ど

のようにして比較することができるのでしょうか? 集中はロープの両端へ同時になされなくてはな

りません。ロープの途中のどこかではなく、両端でなくてはなりません。これ以外に注意すべき点は、

ロープには明るさが少ない点も含まれ、その全長が永遠のパーソナリティーの自己認識であるという

ことです。現在のパーソナリティーの自己認識としての自己は、永遠のパーソナリティーによる時間

と場所における表現なのです。もしそうではないとしたら、どうして現象的に朽ちやすいものが不滅

性を身につけ、あるいは現象的に死すべきものが永遠の命を身に着けることができるようになるので

しょうか?

 私たちに昨日起きたことの記憶は消えていきます。もし現在のパーソナリティーとしての自己が真

実の自己に溶け込んでいかないとしたら、それはどのようにして永遠の命を身に着けるのでしょう

か?


 もう一つ注意しなくてはならない点があります。永遠のパーソサリティーの「自己認識-自己」(魂

の「自己認識-自己」)は、それ自身である永遠のパーソナリティーの自己認識からと同時に、現在

のパーソナリティーの「自己認識-自己」、いわゆる潜在意識的な心から記憶を引き上げます。結果

として、それは今回の転生における過去である昨今の出来事が何であれ記憶しています。

 いわゆる過去へ分け入り、その過去の経験の記憶を表面まで引き上げることができるのでしょう

か?できますが、痛みを伴います。厳しい試練もでしょうか? 試練もそうです。現在のパーソナ

リティーの自己認識は、永遠のパーソナリティーの自己の助けを借りて、過去の転生で感じた絶望で

すら追体験することができます。

 このように、昨日からでも、さらにその前からでも、あるいはこの転生ではるか昔や、何百年いや

何千年前の記憶でも引き上げることができるのです。私たちは引き出すことができると言いますが、

何を引き出すことができるのでしょうか? 記憶だけです。私たちは過去を再生することはできませ

ん。過去の復活はありません。この瞬間、私たちは現在にいて、生命として現在に生きていて、そし

て生命現象としても現在に生きています。私たちは完全なのです。私たちが過去からの記憶と呼んで

いるものは、いわゆる思い出や記憶といわれているものの現在における、すなわち自分自身の中の今

現在、この瞬間の投影なのです。

 投影と言いましたが、私は投影から学ぶことができます。その学習方法には二つあります。それは

思考を利用することか、あるいは過去の投影の体であるノエティカル体へ分け入るかです。これはあ

なたが親しまなくてはならない大切なワークです。

 結局、あれやこれやと私たちはいつも一体何をやっているのでしょうか? 私たちは記憶を現在へ

投影しているのです。そして、この現在において、私たちは影である現在のパーソナリティー以外の

何者でもないのです。しかしながら、私たちは現在のパーソナリティーの自己認識であり、同時に永

遠のパーソナリティーの「自己認識-自己」で、力、意志、意志の力そして理性を備えています。

 
ゆっくりであっても私たちは空間と時間の概念を理解していかなくてはなりません。これは概念の

問題なのです。勉強しなくてはならないのは、生命現象における事実や出来事の創造と、これらの事

実や出来事を記憶する上で、時間の概念と空間の概念の役割が何であるかということです。空間と時

間の概念は、生命現象において最初の役割を担います。


 これら全ての背後に現実として何があるのでしょうか?それは〝動き″(キネーシス)です。こ

のキネーシスが私たちに時間と空間の概念を与えてくれます。しかし、どんな種類のキネーシスでし

ょうか? 誰のキネーシスなのでしょうか? 肉体からのものでしょうか? そうではありません。

キネーシスは出来事の記憶の中にあるのでしょうか? このキネーシスとは思考でしょうか? 私た

ちが一つの思考を持つ時、それは始まりから一つの結果である帰結まで進んでいきます。それは空間

の中におけると同時に、時間の中におけるキネーシスではないのでしょうか? それはどんな空間で

しょうか?この瞬間、私は目を閉じて椅子に座っていて、この思考を持ち、瞑想しています。どん

な空間について話しているのでしょうか? この空間は私に時間の概念と制約された空間の概念を与

えてくれています。


 一つの例を示しましょう。私たちはこの部屋が見えます。私たちはこの部屋が占有する空間を知っ

ています。それはある容積を持っています。私たちは肉体を使い、その空間の中で立ち上がり、歩く

ことができます。この空間がどうなっているのかを完全に知っているので目を閉じますと、私たちは

この空間を意識でき、自分の自己認識の一部にできます。私たちは目を閉じて、ある容積を持つこの

空間の中を動くことができるのです。

建築家が紙に描く前に、ある建築プロジェクトについて彼が思考の中で思い描く時、彼は一体どん

な空間を動いているのでしょうか? 彼が行動している空間は、どのような空間でしょうか? 彼は

空間の概念の中を動き、所定の容積を持つ制約された空間を見ることができるのです。彼の思考の中

では、それを紙に措く前でも、彼はその部屋で生活することができるのです。彼にとって、それは現

実なのです。もし彼が視覚化を適してこの現実を受け取れなければ、神が助けてくれるのです。

視覚化は時間と空間の概念の中の働きです。しかし、私たちが知っている三次元の世界のものごと

からは何か異なっています。しかし、私たちが目を閉じて熟考する時、私たちは二次元の世界の印象

をまだ持っているのではないでしょうか? 私たちが瞑想や内省をする時、これについて学ばなく

てはなりません。これは偉大で科学的な仕事なのです。また、潜在意識から意識の表面に到達するた

めのもので、時間と空間の概念との関連性を知らずして、瞑想やノエティカル・イメージの創造を始

めるべきではありません。

 さもなければ、これらのイメージを拡張することはできないでしょう。それらを知ること、制御す

ることが求められています。もしそれらが、私たちの感受性から逃れてしまったら、あとで私たちが

それらのイメージを物質化しなければならない時にどうなってしまうのでしょうか? 物質化では、

ノエディカル・イメージの移動が大きな役割を果たすことになります。これがキネーシスです。これ

は所定の波動の問題であり、思考の世界であるノエティカル界から、物質界である三次元の世界にや

ってくる、いわゆるエレメンタルと呼ばれているある周波数の波動に関ることなのです。これが物質

化であり、そのメカニズムです。その反対のことを起こすのが非物質化です。










 第13章

信仰、合理性、エーテル、視覚化

                  

 確固たる基盤がなければ信仰を持つことはできません。先ずは真理を知ろうとする強い〝願望〟と

〝意志″ がなければ無理なことでしょう。

 もし真理への真摯で切なる願望やその目的を追求する意志の力がなければ、どのようにして信仰を

持つことができるのでしょうか? 自ら進んで行いたいと思う心、すなわち意志の力は、真理を知ろ

うとする目的を追求することであり、真理という智恵に向けての努力と働きかけであり、信仰の基盤

に不可欠なものなのです。


    【訳注】信仰=信仰という言葉は現代では宗教的なニュアンスに捉えられるが、ダスカロス
        の意味する信仰「Faith」とは宗教を超えたもので、原初から本来人間に備わって
        いる超越した存在やその法則を愛を持って、信じろ力(信力)を指している。それは
        エレメンタル的要素の強い各自の持つ信念とも異なる。用語集を参照





 私たちは鍛錬を積まなくてはなりません。すなわち、常に真理を求めなくてはなりません。これは

必須のことです。なぜなら、信仰は知識と経験の結果だからです。ある何かが真実であるということ

を確信しない限り、私たちはそれを信じることはできません。

 例として、もし誰かが私たちのところにやって来て、あることを信じなくてはならないと言ったと

しましょう。それを真実と盲目的に信じることは、あまり賢いことと言えないでしょう。たとえ彼に

私たちを納得させるカリスマ性があり、それを真実として受け入れたとしても、それは偽の真実で、

最初の疑いが起きるや否や消散するような基盤のない信仰かもしれません。

 ジョシュアが「もし、からし種一粒はどの信仰があれば、この山に向って、『ここから、あそこに

移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」と言った時に意味

した信仰を持ちたいのであれば、私たちにとって必須なことは、合理的思考や経験なのです。

 では、合理性や合理的思考とは何を意味しているのでしょうか? それは私たちがある特定の時間

の下で、論理的に真実であると意識的に判断するものなのです。しかし、この合理性は時の試練に耐

えることはできません。

 今から百年前に、前面がガラスで出来ている箱のコードを、壁にある電気コンセントに差し込みス

イッチを押すと、何千キロも離れたところで今起きている映像や出来事を見ることができるというこ

とを聞いた時、その時代の人は理解できたでしょうか? 彼の時代の合理的思考では、そのことを理

解したり信じたりすることはできません。ある時点における人の合理的思考は、その人がそれまでに

得た経験と知識によるものです。

 私たち真理の探求者は、私たちの時代の、いわゆる合理的思考には依存せず、また私たち自身の現

在の限られた経験にも依存しません。いかなる真理の先生も、自分が知っていることが絶対真理であ

ると言うべきではなく、またすべて知っていると主張するべきでもありません。どんなことを知ろう

とする場合でも、私たちは経験、すなわち自分自身の経験、あるいは充分に信頼のおける先生自身が

経験したことから学ばなくてはなりません。

 未来のサイコセラピストについて発言するとき、私はいつも事故か何か他の理由で肉体が傷ついて

いる人がいる場合を例に挙げます。善きサイコセラピストは、傷をやさしく手でさするか、あるいは

手をかざすことも不必要で、単純に傷を観て強靭な願いを生み出し祈るだけで、傷を完治させてしま

うでしょう。合理性、あるいは一般大衆の合理的思考では、そのことを受け入れることは出来ないで

しょう。また、科学者であっても同様なのです。なぜなら、彼らは何が起きているか分からず、また

そのような癒しに対して科学的な説明が加えられないからです。彼らはエーテル・ダブルが何である

かも知らず、運動エーテルや創造エーテルや感覚エーテルについても何であるか知らないからです。

関与している力が何であるかについて、また視覚化の力について、彼らにどのように説明することが

出来るでしょうか? 彼らは知らないのです。結論として、一般大衆の合理的思考を受け入れること

は、誤りであり、騙されることになります。

 ある人は、そのような現象を目撃したかもしれません。それらはキリストの時代に目撃されたもの

です。私たちの教会の多くの聖人たちもまた、このような現象を起こすことができました。現在のキ

リスト教の信者のどの位の人々が、いわゆる奇跡を信じているのでしょうか? 多くの人々は奇跡を

信じていません。奇跡を見たという人々は、詐欺師とか嘘つきと呼ばれます。しかし、それでも奇跡

は起きるのです。

 そのために、私たちは合理性が信仰の枠組みを作り上げるために不可欠であることを心に留めなく

てはなりません。また同時に、一般大衆の合理性を越えていくのも、合理的思考であることを認識し

ていなければなりません。一般大衆のいわゆる合理的な人の不完全な思考と、真理の探求者によるも

っと合理的でより善い思考との問には違いがあるのです。しかし未来において、新たな経験を得るに

つれて、私たちは誰でも合理的思考の方法を改善することができ、その違いをより小さなものにして

いくことができるのです。

 結論として、私たちは忍耐強くあらねばなりません。なぜなら、私たちはすべてを持っているわ

けではなく、すべてを知っているわけでもないからです。ですから、支援の手を差し伸べましょう。

そしてジョシュアの言葉「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものに

なりなさい」をいつも心に留めましょう。

 現実の合理的思考が、信仰と呼ばれているものを作り上げるために必須であることを既に話しまし

た。さらに、信仰という現象を現実化し利用するためには、強い願望と意志が必要となります。信仰

は経験のみにより強化されます。信仰の力は、現在のパーソナリティーの「自己認識-自己」によ

り表現されます。しかし、永遠のパーソナリティー、そして「自己認識-魂」にとって、信仰に関

する疑問は全くありません。そのため、私たちは現在のパーソナリティーの「自己認識-自己」に

働きかけなくてはなりません。私たちの経験からもっと学ぶように、教育しなくてはなりません。そ

れは最終的に浄化され、永遠のパーソナリティーと同化することになります。これが真実なのです。

 述べてきたことは、先ず第一に、正しい思考や真実の合理性のために意志が必要だということで

す。それから、意志の力を持たなくてはなりません。経験を積まなくてはならず、その経験から

学べば、真実の合理性を得ることができます。そして時間の経過と共に、誰も私たちから奪い取る

ことができない程の信仰を築き上げることになるのです。信仰と呼んでいる強大な信じる力を訓練

に投入することは、最初難しいかもしれません。しかし、本物のサイコセラピストであれば、ヒー

リングワークは時間の経過と、訓練と共にだんだん慣れていきます。最初、あなたは終りがないよ

うなワークを体験して不安に感じるかもしれませんが、訓練を通して、あなたの信仰を強化するよ

うな経験を得るようになっていきます。それは何における信仰でしょうか? 信仰とは何でしょう

か?

 キリストは山をも動かす信仰について述べています。しかし、多くの人々は自分たちを癒し元気づ

けるための信仰について述べています。その信仰が私たちを正しい道に導き、徳性を養ってくれるの

です。

 ある人達は訓練により自己の感覚エーテルや運動エーテルなどを使えるようにしています。自分た

ちが何をやっているか知らなくても、対象物を移動させることができています。このような現象には、

念力や空中浮遊、そして交霊会で行われるいろいろな現象があります。移動する物体を目撃した人は

信じるかもしれませんが、しかし私はこの信じる力を信仰とは呼びません。これは経験的な能力で

催眠術を使い、運動エーテルと感覚エーテルを利用することにより現象を引き出す方法です。このよ

うな現象は信仰がなくても起こります。これらは無益で、私たちにとってはまったく無意味なもので

す。それだけでなく、これらは知らない人々にとってかなり危険なものなのです。
(久保注:無知な人々は奇跡を起こして人々を虜にするということ)


 さて、何を信仰と呼ぶべきなのでしょうか? キリストは山をも動かす信仰について語りました。

彼は弟子に多くの異なった現象を見せました。彼らが見たものは、死者を蘇らせることや、人里離れ

た場所でエーテル・バイタリティーを物質化することにより、五つのパンと二匹の魚だけで五千人も

の人々に食べ物を与え、さらに残り物で12のバスケットを一杯にしたことでした。弟子たちはこれら

を目にして、はっきりと思い知り、また驚嘆しました。

 ある夜ゲッセマネで、彼はこれらがどのようにして起きたのかについて彼らに話しました。彼はエ

ーテルとエーテル・バイタリティー、そしてその力について話し、またこの力が私たち一人ひとりの

中にあることを話しました。これは、ある女が後ろから彼の服の房に触れ、長年の病による出血が癒

された時に、キリストが自分の体から出て行くのを感じた、その力なのです。弟子たちは多くを聞き、

学びました。

 あるものはキリストに注意深く耳を傾け、またあるものは居眠りをしていました。ヨハナンはこれ

らすべてを学ぶ必要はありませんでした。彼は大天使であったので、これらすべてを既に知っていた

のでした。ヤコブやフィリボ、そして他の弟子たちは、理解し学ぶために大いに注意を払わなくては

なりませんでした。ぺトロはどうだったのでしょうか? 彼は信仰を持っていたのでしょうか? 彼

は時々信仰を持ち、時には揺らいでいました。そのため、キリストはしばしば彼に信仰を持つように

躯り立てていました。

 キリストが水の上を歩く現象を示した時、彼らはどのように感じたのでしょうか? 彼らは驚き、

困惑しました。彼らが湖上に出ている時、キリストは水の上を歩きながら近づいてきました。キリス

トは彼らを怖がらせるために行ったのでしょうか? 彼らに感銘を与えるために行ったのでしょう

か? いや、そうではありません。彼らが今までに見たことのない現象を見せたのであり、これは彼

の教えの一部だったのです。

 キリストはどのようにして水の上を沈まずに歩くことができたのでしょうか? ジョシュアは意志

の力を通して、地球の重力を克服したか、あるいは肉体を軽くすることにより水の上を歩くことがで

きたのでしょう。しかし、私たちには三番目の方法が知られています。人は空中浮揚し、空中を歩く

ことができます。すこし訓練すれば、誰でも行うことができます。しかし、これは私たちの目的では

ありません。私たちの目的は別のところにあります。

 エーテル・バイタリティーと信仰は、私たちの同胞である人類に利益をもたらします。そのような

現象が必要とされる時、例えばヒーリング・ワークにおいて、あなたはそれを行う権限を与えられる

でしょう。

 ぺトロはキリストが湖の上を歩いて近づいて来るのを見て、興奮してキリストに「主よ、あなたで

したら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と尋ねました。キリストは

答えてぺトロに「来なさい」と言いました。ペトロは水の上を歩き、キリストの方へ進みました。彼

は突然信仰を失い、沈みかけました。キリストはすぐに手を伸ばし、彼に忠告を与えました“なぜ彼

に忠告を与えたのでしょうか? もしこれが教えの一部でないとしたら、なぜ被はぺトロを叱ったの

でしょうか? そして、なぜ「神-人」であるジョシュアは、ぺトロに水の上を歩くように言った

のでしょうか?

 なぜなら、信仰について述べているからです。信仰の強さは、確かな理由と意志の力と相まって、

〝経験″から得られるものなのです。私たちの中にある信仰をさらに強めるために、この力を使います。

私たちにとって、意志の力と信仰の力は同じものです。訓練を積んでいくと、あなたにとってこの二

つの力が同じものであることに気づく時がきます。

 もし私たちが誠実にエクササイズを行い、私たちが教える方法でヒーリング・ワークを実行する時、

私たちは何を得、何を達成できるのかを自分自身に尋ねて下さい。

あなたが得るものは、まさにこの信仰であり、その信仰の確かさと堅固さであり、同胞である人類

の善性のためにそれを使う意志なのです。

【訳注】忠告‥新約マタイ14・31に示されているように、キリストはぺトロに「信仰の薄い者よ、
    なぜ疑ったのか」と忠告を与えた。




 第14章

サイキカル体、霊-魂としての自己、パーソナリティー

エゴイズム、視覚化、大天使



 人間は男か女、何れかの赤ちゃんとして物質界に生まれてきます。その子はまだパーソナリティー

としても、人としても何も知りません。その肉体は生きています。ただ本能的に生きています。そし

てミルクを得るためにお母さんの乳房を探します。男でも女でも、小さな赤ちゃんの肉体を見ると、

それが肉体、すなわち生きている物質的な肉体であることが解ります。それは生きていて、生命現象

であり、物質から出来た人間の形態の中で生きています。そして、成長を繰り返していきます。人は

誰でも赤ちゃんでした。子供となり、成人し、大人となります。私たちは皆、物質界に入ってきたの

です。私たちは本能的に生きてきましたし、今も生きています。

 本能的とは何を意味しているのでしょうか? 本能とは何でしょうか? 私たちの肉体は、幼年期

から他界する老齢期前後まで本能的に生きていきます。これは鈍く粗い物質である肉体の生涯であり、


本能的に生きているのです。しかし肉体は私たち自身ではありません。私たちの表面に出てこない
本当の生命、すなわち「霊-魂-エゴとしての永遠の存在」として真実の生命は、ゆっくりではあ

りますが、この肉体の中で少しずつ大きくなり現われてくるものなのです。

 それは現われてくると表現されますが、どこから現われてくるのでしょうか? 何かが現れ、は

っきりと出現することが意味するのは、この何かが〝永遠にある″ものであり、そして〝一時的に存

在している〟ものだということです。すなわち、これらは二つの異なったものなのです! 私たちの

永遠の存在、すなわち「霊-エゴー魂としての自己」の一部が肉体の中に存在し、時間と場所にお

けるパーソナリティーをつくり上げているのです。


 男でも女でも肉体は基本的に同じです。背が高い低いなどに関係なく、肉体は基本的にその骨、組

織、皮膚、臓器、血液、体毛などすべてを含めて、同じ形態を備えています。さらに、重く粗い肉体

はその組成と造られ方について言えば、他の動物の肉体とも大きな差はありません。

 私たちが理解をしてきたように、私たちは肉体ではなく、私たちは本能的に成長している肉体を

所持しているのです。誰によってでしょうか? それは基本元素の大天使たちによって、人間に関す

る神聖なる計画に従って精子から始められ、肉体が創造され維持されています。これが意味すること

は、人間はその存在と「実現性の循環」に支配されており、それから決して逃れることができないと

いうことです。すなわち、私たち人間は誰でも、肉体の中で生きている限り、人間の「実現性の循環」

に従って生きなくてはならないのです。


 ここで、新たな条件を理解できたと思います。それは肉体というものが基本元素(エレメント)の

主、すなわち創造の聖なる大天使たちの庇護の下で本能的に生き統けていくということです。しかし、

人間は自己、すなわち時間と空間における自己を肉体の中に現し始めます。もちろん、人間の目には

見えない他の体の中でも同じです。

 さて、肉体は単に男性又は女性の人体にすぎず、名前は必要ありません。肉体を識別するための名

前など必要ないのです。しかしながら、この粗く重い肉体の中で自身の生命を始めている新たな時間

-場所のパーソナリティーは、存在するために名前が必要となります。そのために、男であっても女

であっても、子供の時から女性は女性名を、男性は男性名を得ることになり、それにより応答し、そ

の名前を中心に集中させ、いろいろとつくり上げていきます。もちろん、このような時間-場所の

自己が成長していくと、男でも女でも粗くて重い肉体に意識を向けるようになります。

 
時間と場所という条件の下での人間形態の創造に伴って、人間は与えられた名前は別にして、その

本当の自己を潜在意識的に表現するようになります。それは自分の名前に〝私″を加えることなのです。

そのため、幼児から少年、少女に成長してきた人やもっと人生の後で、「あなたは誰ですか?」と尋

ねれば、男でも女でも、「私は……」(l am・・)と答え、その後に名前を持ってくるでしょう。この「私

は……」はあらゆる人類に共通のものなのです。これを私たちは「共通の自己性」と呼んでいて、男

女それぞれの名前で包まれています。この男あるいは女の名前で覆い包まれたその人が、ある種の一

時的なパーソナリティーをつくり上げていきます。それは時間と場所の領域における新たな存在であ

り、一人ひとりかなり異なったものとなっていきます。




 さてここまで、私たちは人間のパーソナリティー間の違いについて学び理解してきました。すなわ

ち、人間の潜在意識的な生き方と実現性について学んできました。何における実用性でしょうか?

私たちには人間の「実現性の循環」があります。誰のための実現性でしょうか?肉体のためのもの

でしょうか? もちろん、肉体は生き続け、肉体としての「実現性の循環」を完了させなくてはなり

ません。これはすべて人々に共連なもので、例えば病や変化や成長なども同じです。私たちは、ある

男性や女性の「実現性の循環」を学び知ることができ、男性の循環と女性の循環の間には小さな違い

しかないことが分かります。しかし、私たち一人ひとりは真の「実現性の循環」を持っています。そ

れは人生の中で私たち白身を顕す実現性です。何として顕すのでしょうか? 他のすべての動物のよ

うに肉体としてでしょか?どんな動物でも、あるいは動物界に現れれた如何なる物質的形態であ

っても、その「実現性の循環」を学ぶことが出来ます。

 では、私たち自身、すなわち人間の「実現性の循環」を調べ学ぶことができます。それでは、次の

ような質問をしてみましょう。「私たちは何者なのでしょうか?」「真実において、私たちは何なので

しょうか?」 「私たちは誰なのでしょうか?」人間の「実現性の循環」は、僅かな人だけに知られて

います。なぜなら、それには神としての人間、そして人間、すなわち「人の子」としての「実現性の

循環」が含まれているからです。私たちは神であり、すなわち私たちの「霊-魂-エゴとしての自己」

は神なのです。そして、これが私たちの「実現性の循環」なのです。これがまさにキリストであるジ

ヨシュア・イマヌエルが弟子たちに教えていたことです。そして特に「弟子-ヒーラー」に対して、

彼らの実現性が人間として如何に偉大であるかを示すためでした。


 人間の「実現性の循環」を学ぶと、何を発見することになるのでしょうか? それは私たちの現在

のパーソナリティーであり潜在意識と呼んでいるものを構成し、多岐にわたる存在とその存在様態を

発見することになります。この存在のあり方を分類し、学ぶことができるのでしょうか? これは動

物にはできないことです。どのように進めたら良いのでしょうか? 私たちにはマインド超素材の利

用が神であるアラハによって恩恵として授けられています。それを正しい方法で、また理性的に利用

すれば、私たちが何者であるかについての真理へ到達することができます。私たちがやらねばならな

いことは、マインドを意識的に使うことであり、もっと正確に言えば自己意識的に、かつ真剣に使う

ことです。「私たちはマインドをいつも使っていないのでしょうか?」という質問が出るかもしれま

せん。もちろん、使っていますが、どのように使っているのでしょうか? 男でも女でも、私たちの

周りにいる多くの一般的な人々が生活しているように、ただ潜在意識的に使っているのです。しばし

ば、その存在も知らないままで潜在意識的に使っています。私たちもマインド超素材を使っているこ

とを知りませんでした。それが存在していることすら知りませんでした。そのため、あなた方は潜在

意識的に生きているのです。どのようにでしょうか?

 それは生きている人間にある実現性の一つの枝を表すことなのです。それが何かというと、感化や

欲望であり、その欲望を持ったり表現することです。それは何のためなのでしょうか?

この質問こそが、私たちが徹底的に学ばなくてはならない問題なのです。まず第一に、欲望とは何

でしょうか?なぜ求めるのでしょうか?私たちは一体何を求めているのでしょうか?あれやこ 


れやを自分のものにしたいと思う自分の欲望を理解していますか? 人は本当にあれやこれやを求め

ているのでしょうか? いいえ、そうではありません。人は単純に求めるだけなのです。それらは欲

望がもたらすものなのです。このように欲望に仕えることは、神聖なるマインド超素材を隷属化して

いることになります。なぜなら、欲望に奉仕し、自分が欲していると思い込んでいる物事を所有する

ための方法や手段を見つけ出すことに手を費し、それらを所有し、”自分のもの″と呼ぶことが目的

となるからです。このため、私たちは〝所有欲″と呼ばれている人間の生存に関るこの枝について学

ばなくてはならないのです。



 この分枝の学びをさらに深めていき、〝感覚や感情″と呼ばれているものを理解しなくてはなりま

せん。感情と欲望は同じものでしょうか? 正確には異なります。両者は同じ本質に由来しますが、

同じではありません。欲望は私たちが感情と呼ぶものではありませんが、時々同じ影響をもたらすこ

とがあります。

 先に話したように、私たちはマインドを使って感情を学ばなくてはなりません。(欲望の奴隷とし

てではなく)そうすると、何を発見できるでしょうか? 先はどのケースでは、欲望がマインドのマ

スターになってしまったかのようでしたが、今度は私たちの感情や感覚をマインドのマスターにする

ことになります。私たちが自分たちの感情を学ぶ時、特に人間関係において学ぶ時、私たちはそれを

時間と場所の個人的な自己、すなわち〝エゴイズム″と呼ばれている非本質的な自己の現れとして見

ることになります。ここに危険性があります。なぜなら、私たちは偶像をつくり上げているからです。

そして、私たちは最悪の種類の偶像崇拝の盲目的崇拝者となってしまっています。私たち自身がつく

り上げている偶像を自己と呼んでいるのです。もちろん、それは私たちの自己ではなく、パーソナリ

ティーの〝エゴイズム″に過ぎないのです。しかし、私たちはそれを理解できず、ほとんど知ること

もできません。そのために、その偶像(私たちは「人-悪魔」と呼んでいます)が、私たち自身で

あるとみなしています。このことが、私たちを真実に対して盲目にしているのです。しかし今、物事

をはっきりと捉えられることができるようになり、私たちはこの悪魔、すなわち私たちの全人生の「人

-悪魔」に対するマスターになることができます。この悪魔は四六時中それ自身の欲望と感情を満た

そうとしています。(一方、私たちはそれらを私たち自身の欲望と感情であると捉えています)また

同時に、その欲望や感情に仕えることで、マインド超素材を奴隷化しています。


 このことには、もっと学びが必要です。この時点で、私たちはどのようにしてマインド超素材を適

切に使うのかについて見つけ出さなくてはなりません。私たちが使うのです。私たちとは誰でしょう

か?なぜこの質問が出てくるかというと、人間のエゴイズムと呼ばれている「人-悪魔」は、常に「私

があなたである」とアピールしているからです。この状態を理解できますか?それは「私が私である」

とは決して言いません。これにより、「人-悪魔」が私たち自身ではないことを発見するのです。そ

【訳注】 *所有欲‥分離の世界に生きる現在のパーソナリティーである私たちの、生存に関る潜在
          意識として五つの枝分かれをダスカロスが示している。その内の一つが「所有
          欲」で、所有することから喜びや恐れや不満足がさらに分岐されていくと説い
          ている

れは「私があなたである」と言い、私たちを困惑させます。このような時こそ、「私たちが誰であるか?

また「あなたとは誰であるか?」について、〝自己分析″を始めるときなのです。そうすると、私たちは、

この鈍く粗い物質界である存在の世界における二元的自己を発見することになります。そして私たち

は、この物質界のすべてのものが二元性に基づいていることに気づき知ることになります。ですから、

この二元的な自己の一方が本物の自己であれば、他方は陰であり真実ではないことになります。

 私たちの「魂-エゴとしての自己」(まだ霊の段階ではなく)は、エゴイズムを見つけ出して、次

のように言うでしょう。「しばらくの間は時間と空間の自己として、『私があなたである』と言うおま

えは正しいかもしれない。なぜなら、私がおまえの中にいなければ、おまえは存在できないからだ」

 このように、男でも女でも人間のパーソナリティーには魂が存在し、それは表面に現われてこない

神の存在なのです。今現われているものは、罪や過ちを持った時間と場所の狭量な自己なのです。そ

して、私たちの中に隠れている「魂-エゴとしての自己」は、時間と場所の新たな自己の現れを認

めているのです。そのために、誰かがマリーやヘレン、あるいはジョージやジョンとしてのあなたに、

「あなたは何者ですか?」と尋ねた時、あなたの答えは、あなたが「霊ーエゴとしての自己」とパー

ソナリティーのエゴイズムの両方であるということになります。一つの肉体に二つが存在しているの

です。

 では、時間と場所の自己にあるエゴイズムは、この自己の中で一体どの位の割合を占めているので

しょうか?そして、「魂-エゴとしての自己」は時間と場所の自己に対してどの程度のコントロー

ルを行っているのでしょうか?これらはあなたが学習しなくてはならないことです。誰がこれらを

学ぶのでしょうか?


 これらを見つけ出すことは、内省、すなわち〝内在するものを観る″ことを行えば、そんなに難し

いことではありません。あなたの行動や感じ方や考え方をただ念入りに調べ、学びましょう。あなた

の手に〝なぜ〟という名前の松明を携えて、真理が知りたいと自身に命じましょう。その燃え盛る松

明の光を通して、私たちは真理を知ることができるのです。自分自身に問うてみましょう。「なぜ私

はあれが欲しいのか?」、「なぜ私はあれを求め、自分のものにしたいのか?」「なぜ私はそのように

考えるのか?」この〝なぜ″が燃える松明なのです。しかし、注意して下さい。あなたの狭量な自

己は「なぜ、こんなものを持たなくてはいけないのか? なぜあの男は私より運が良いのか?」と言

って、あなたの手から〝なぜ″を取り上げようとするからです。ですから、十分に注意しなくてはな

りません。私たちが〝なぜ〟と呼んでいるマインドの燃える松明を、あなたの手、すなわちあなたの「魂

-エゴとしての自己」から取り上げることを、現在のパーソナリティーのエゴイズムに許してはなら

ないのです。

 私が今示そうとしていることは、あなた自身の真の状態なのです。すなわち、あなたは自分が誰で

あるかを見つけ出すために、自分の潜在意識の中を注意深く調べなくてはならないのです。誰が学び、

調べ、真理を探し出そうとしているのでしょうか?

 真理の探求者として、あなたには内省のエクササイズが与えられています。夜一日のすべてが終わ

り、独りになり、静かなところで、完全な静寂を求めましょう。すべての感情、すべての欲望、あら

ゆる種類の思考を静めましょう。そして、ただ一つだけの思考を抱いて下さい。それは「今までは忘

れていましたが、私の神聖なる力を使って、今真理を知りたいのです。私は今その力を使っています。

それは視覚化です。視覚化とは、私の周りの人たちや出来事、場所や物事を観ることです」という思

考です。あなたはその力をいつも使っていますが、しかしあなたの魂のその神聖なる力から学んでい

ません。今、あなたはそれを意識的に使わなくてはなりません。視覚化によって、あなたの潜在意識

にあるものを心に上げてこなくてはなりません。数時間前に、家やスーパーや事務所などで起きた出

来事があることでしょう。おそらく、あなたは人と出会い、口論や誤解が生じ汚い言葉を交わしたか

もしれません。さて、あなたは私の言う「すべてを思い出す」ということを理解できたかもしれませ

ん。しかし、エゴイズムがあなたのところにやって来て、こう言うでしょう。「あなたが考えている

ことは、あなたの興味からであることを思い出しなさい。あなたが耳にしたきつい言葉は簡単に思い

出しますが、あなたが自分自身に言ったきつい言葉は思い出さないものです」。あなたは「いや、いや、

そうではありません」と抵抗し、「私は出来事のすべてを見たいのです。起きた出来事のありのまま

を見たいのです。私の言ったこと、そして相手が言ったことすべてを聞きたいのです」と主張しなけ

ればなりません。

 すべての出来事、人、顔、情景、場所、そしてそこに来る人たちを明白に観るための内省を学びま

しょう。あなたはやればできますが、現在のパーソナリティーのエゴイズムとしてではないことに注

意しましょう。エゴイズムはそれをすることができません。今あなたは、自身の「魂-エゴとして

の自己」として動いています。あなたはコントロール下にあります。しかしながら、あなたがその状

況や関係した人たちを観る時に、エゴイズムは繰り返し現れ、その行動があなた自身の行動だったよ

うに見せかけるために言い訳を並べ、事実に対して反論するでしょう。そのため、あなたの二元的な

自己である、パーソナリティーのエゴイズムと真実の「魂-エゴとしての自己」とを分けて捉えら

れるようにならなくてはなりません。そのために、継続的な内省が必要なのです。この段階で、あな

たは大変注意を払わなくてはなりません。あなたにとって最も貴重な一瞬になります。内省において、

「私は自分に投げかけられた汚い言葉を聞きました。そして、その言葉に対して私が返した言葉も聞

きました。私はあれやこれやと言いましたが、私はそれを言うべきだったのでしょうか?それを言

ったことの結果はどうだったでしょうか? 更に混乱させ、問題をもっと大きくしてしまったのでは

ないでしょうか?」ここでエゴイズムが現われ、このようにあなたに言います。「ええ、もちろんそ

うかもしれない。しかし、あなたは彼の言葉を聞いた。なぜ彼はあなたにそんな言葉を吐いたのだ?

 あなたは彼にその言葉を返す権利があるのではないか?」(ここで私が言っておきたいことは、あ

なたのエゴイズムはそれなりに賢いが、しかし真実においては愚か者であるということです。それは

あなたが追い詰めていることを疑わないのです)

捕らえなさい!「今、お前を捕まえたぞ。お前は私ではない。そして私はお前ではない。その瞬間に

私のように振る舞っていたのは、私ではなかった。今、私は物事をはっきりと見ることがで、理性

を働かすこともできる。あの瞬間、お前は自己を表現していない私をただ見ていたののだ。お前は私を

文配して、脳かな行動をさせたのだ」

 
このように、内省において最も大切なことは、考える存在として、また理性を働かせる存在として、

本当は自分が誰であるかを学ぶことなのです。あなたは考える力を持ち、理性を働かせる「魂-エゴ」

であり、調べ学ぶことにより、あなたのパーソナリティーである「人-悪魔」を支配することがで

きるのです。

 「人-悪魔」の質は、人によって異なります。なぜなら「人-悪魔」、すなわちエゴイズムは一人

ひとりすべて異なってくるからです。それは悪人から極悪人まで、犯罪者もいますし、少しだけ悪い

人までいろいろです。今すぐにあなたのエゴイズムの質を調べ出してみましょう。事前に話しておき

ますが、エゴイズムは非常に賢くて、争ってきます。誰と争うのかと言うと、それはあなたに対して

です。絶対に許してはいけません。エゴイズムはその態度を悔やんだり、喜んだりとあなたになりす

ましたような姿を見せるものです。あなた自身をこのように、あたかもマゾヒストのように表現させ

ることを決して許してはいけません。


 内省の各段階で十分に注意して下さい。なぜなら、言っておきますが、あなたのパーソナリティー

のエゴイズムだけでなく、あらゆる人間のパーソナリティーのエゴイズムは、それ自体愚かなもので

す。しかし、悪知恵を持っていて、非常に校滑です。それと戦うべきでしょうか? 殺すべきでしょ

うか? それは絶対にだめです。なぜなら、どんなエレメンタルであっても殺すことはできないから

です。それらは一度つくり出されれば、永久に存在し、宇宙意識の中で活性化されているか、あるい

は非活性化されているかのどちらかです。あなたがつくり出したどんなエレメンタルであっても、そ

れらはあなたの個人的なエゴイズムと呼ばれているエレメンタルの総体であって、エレメンタルを殺

すことは不可能なことなのです。それでは、どのようにしたら良いのでしょうか? パーソナリティ

ーのエゴイズムをあなたの自己の中に変容させれば良いのです。なぜなら、結局その生命はあなたな

のですから。


 あなたがしなければならないことは、あなたのパーソナリティーの中で、いわゆる悪魔的あるいは

ネガティブなエレメンタルと呼ばれているものを非活性化し、あなたの「魂としての自己」の中へ変

容させることです。これはキリストであるジョシュア・イマヌエルが述べている教えで、現在の個人

としての自己である死すべき者が、不滅性を身に着けることになる、すなわちあなたの不滅の「魂と

しての自己」であるあなたの自己へ変容することを示しています。そして、変わるべき者が変わらざ

るべき、永遠の存在になるのです。

そのため、あなたの個人的な自己と呼んでいるものを殺す必要はなく(いずれにしても、殺すこと

はできないので)、それをただ変容させるだけなのです。言っておきますが、始めはかなりひどく反

応してくるものです。しかし、あなたがその個人としての自己、すなわちエゴイズムを、あなたの滅

びることのない「エゴとしての自己」に変容させることが実は善なることであることを納得させれば、

“それはもはや抵抗せず身を委ねることでしょう。


あなたの個人的なエゴイズムと呼ばれているどんなエレメンタル、あるいはグループ・エレメンタ

ルと決して戦ってはいけません。理性を使って説明しましょう。時間がかかるものですが、個人的な

自己はあなた白身の「魂-エゴとしての自己」へ変容させることができるのです。これが私たちの

個人的なエゴイズムと呼ばれている潜在意識にあるエレメンタル、すなわち私たちのグループ化され

た「人-悪魔」へのエネルギー供給を止め、非活性化する方法なのです。

 キリストであるジョシュア・イマヌエルの時代には、人々は自分である現在のパーソナリティーを

魂として捉えていました。彼らの信仰に従い、現在のパーソナリティーを魂と想定して、ジョシュア

は「自分の魂(時間と場所の狭量な自己)を愛する者は、間違いなくその自己を失うことになるlと

述べていました。なぜなら、その本質は変化であり、止むことのない変動だからです。それは常に変

化し続け、長くは続かないものです。だから、確実に失うことになります。「しかし、それを愛さな

い者(彼はそれを憎しむ者とは言いませんでした)は、それ〔永遠の命〕を得ることになる」と述べ

たように、その人は本来の自己がその中に存在することに気づくでしょう。これがジョシュアの教え

が意味することです。私たちは、いずれ自己の真の実現化、すなわち「自己実現」と呼ばれているも

のに到達することでしょう。


 「自己実現」へ向かうためには、内省によって自己を学ぶことが必須となります。どの自己でしょ

うか?始めは、時間と場所の自己と呼ばれているパーソナリティーの自己からです。それには分析

も必要となります。その際、ネガティブな面とポジティブな面との二元性の中で捉えていくことが必

要です。その中で善い物事を理解できなくてはならず、悪いものは非活性化し、自己の中へ変容させ

ていかなくてはなりません。

 このように、私たちは先ず始めに自分自身の時間と場所の自己について学習しなくてはなりません。

なぜなら、これは私たち自身にも必要なことだからです。この学びにはある程度の時間が掛かります

が、しかしその次に、「霊-魂としての自己」として「自分が誰であるか?」についての学びに入っ

ていかなくてはなりません。あなたは鏡に映った自分を見て、あるいぼ静寂な水面を覗き込み、そこ

に映った自分(肉体)を見ることにより、自分の肉体がどのようなものかを知ることができます。

あなたは自分の「魂-エゴとしての自己」をどのようにして見ることができますか? 何かに映

し出すのでしょうか? そうなのですが、しかし外にあるものからではなく、内から外へとなります。

このことについて、聖パウロは内省をギリシャ語で「エソプトロ」(esoptro)と表現し彼の書簡の一

つで述べています。彼は鏡を「カトプトロ」(katoptro)と呼び、私たちの内側を観ること、すなわち「霊

-魂としての自己」を観ることを「エネソプトロ」(enesoptro)と呼びました。それはどのようにす

るのでしょうか? 私はその方法を〝内省″として示しています。学んでいくうちに、いずれあなた

はどんな力が関与しているか、すなわち物事を視覚化する力を理解できることでしょう。

視覚化を使い始めている生徒たちは、物事をイメージしたり、心に描くことの観念が分かるように

なるでしょう。それは真実なのでしょうか? 想像とか空想というものは存在するのでしょうか?

もちろん、存在します。では、どのように存在するのでしょうか? 静寂な水溜りの表面を覗き込む

と、そこに見えるものはあなたの周りの全てが映し出されたものです。もちろん、見えるものは本物

の反射にしか過ぎません。映し出されたものは、本物ではなく、本物の陰にしか過ぎません。

 肉体の目で見たあなたの周りの全ては、近づき、触れることができ、それらが存在し、そこにある

ことを確信できます。さて、内省において、私たちが単に想像しているだけではなく、いわゆる想像

や空想と呼ばれているものの下に置かれてはいないということを、どのようにして知ることができる

のでしょうか? この質問はたびたび問われます。それを観たり、観察することはかなり難しいので

しょうか? 観察は、あなたの「霊-魂-エゴ」の神聖なる力の一つです。静寂なる水面に映った

ものは真実ではなく、反射に過ぎないことを理解して下さい。



 観察を使い注意を払えば、見つけ出すことができるでしょう。どのようにするのでしょうか?

いわゆる、視覚化により創り出される形態を学ぶことからです。あなたの「魂-エゴとしての自己」

と一緒に時間と場所の自己であるあなたにとって、物事を観始めるのに時間が必要です。あなたの魂

の力を使い、今はあなたの自己に変容された現在のパーソナリティーの自己を使って、観て学びまし

ょう。個人的な時間と場所の自己の傾向は、想像力です。しかし、その傾向が示していることは、そ

れ自身の内側に物事を観る力を持っているということです。しかしながら、その反射だけです。

 このように、あなたは物事を分析し、見て、理解しなくてはなりません。どのようにすれば良いの

でしょうか?よかったら、物事を想像してみて下さい。また、見て下さい。あなたは時間の経過に

つれて、見ることができるようになるでしょう。そうすると、あなたはサイキカル領域やノエディカ

ル領域にある真実の物事を見ることができるようになります。私たちの周りの三次元の世界からの表

出を受け、その印象を受けるように、サイキカル界やノエティカル界においても、大天使たちによっ

て創造され維持されているその世界の真実の物事の現れが私たちにもたらされます。物質界で私たち

がその存在を目にしているような山や海や木々はサイキカル界にも存在していますが、そこでは物質

界で目にすることのないもっと多くのものを発見することになるでしょう。

 物質界であなたの周りの物事を見るとき、あなたはそれらの存在を確証しています。では、物事を

想像する場合はどうでしょうか? あなたが物質領域で見たことのないものを想像することはできな

いのです。想像とは、あなたの潜在意識の中で既に投影されたものをただ繰り返すことなのです。そ

うです。あなたが好きなだけ想像を廻らしても、それは想像に過ぎません。しかし観察を伴うと、そ

の投影を真実の物事から識別し始めることになるでしょう。もちろん、始めは物事を見ることから入

り、それらを学ぶことでしょう。そしてある日、あなたはある状況にいる自分自身を発見することに

なります。その時あなたは「今、私は想像を超えた世界に存在している。これが現実なのだ。私はこ

の中で移動できる。すなわち、この中で動き回れる。私が物質界において肉体の手で物事を利用して

いるのと同じように、ここでも同じように使うことができる。さてここで、私はどんな種類の手を使

っているのだろうか? ここはサイキカル領域と呼ばれているところなのだろうか?」と自分白身に

言うことでしょう。さらに、あなたが想像したこともない物事を見ることになります。それらはどこ

から来たのでしょうか?

さて、私は内省で起こりそうなことについて話しています。それは粗く鈍い肉体から抜けでるこ

とを意味しているのでしょうか? また、それは「体外離脱」(エクソソマトシス/exosomatosis)

すなわち肉体からの離脱体験(OBE)なのでしょうか? 答えは、イエスでもあり、ノーでもあります。

なぜなら、あなたがこれらすべての力を開拓できた時、それを行うために、意識を拡張したり、自分

自身でそこに行ったりなどいろいろな方法があることを知るからです。

 だから、私は観察という言葉を使います。すなわち、魂の神聖なる力(東洋哲学では決して使われ

ない表現)によって、あなたは真理を見つけることになります。そして、特別な努力なしにあなたの

自己も発見することになります。それは、この物質界で意識的に(自己意識の段階までは行っていま

せん)生きるだけで、また同時にサイキカル界でも意識的に生きるだけでよいのです。あなたにとっ

て、サイキカル界とはあなたの家の中の隣の部屋のようなものだからです。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。……あなたがたのために場所を用意しに行く……」

とキリストであるジョシュア・イマヌエルは述べました。彼は〝場所″と言いましたが、それは私た

ちが生命現象として一時的に現われてきている存在、すなわち人間として生きるための場所が必要だ

と言うことを意味しているのでしょうか? お分かりのように、私たちはまだ「人間として、私たち

は何者なのであろうか?」という問いにこだわっています。場所はまだ必要なのでしょうか?場所

において生きるという感覚は、物質界にあるものなのです。それはサイキカル界にもありますが、し

かし異なったものとなります。それは物質界での生き方とそんなに大きく異なっていません。なぜな

ら、その世界は四次元の世界だからです。そして、ノエティカル界での生活における場所の観念は、

大きく異なってきます。その違いとは何でしょうか? それは空間(場所ではありません)と時間の

観念になります。これらの世界の間での違いでしょうか?あるいは物事の捉え方に、違いがあるの

でしょうか? それはあなたがその世界で生活を始める時に分かることなのです。両方とも可能性が

あると言えるでしょう。あなたが知らなくてはならないことは、〝いつ″ そして〝どこで″というこ

とです。それは簡単でしょうか? もちろん、あなたがこれらの世界で意識的に生きる状態に到達す

れば、可能なことなのです。

 意識的に生きることが最初の一歩ですが、しかし「魂-エゴ-永遠の存在」としてのあなたの力

をもっと開拓しなくてはなりません。このことが意味していることは、あなたの自己が何であるかに

ついて学ばなくてはならないと言うことです。その自己とは狭量な時間と場所の自己ではなく、魂と

しての真実の自己なのです。あなたは今、あなた自身を自己意識的に現さなくてはなりません。しか

も、最初に地上で行わなくてはならないのです。あなたの周りの人々は自己意識的に生きているでし

ょうか?いいえ、90%の人々は潜在意識的にしか生きていません。到底、意識的〔意識認識性の段

階〕に生きているとすら言えません。

 【訳注】*自己意識的‥ダスカロスは人間の意識の成長を七段階で捉え、これを進化と呼んで
       いる。感受性、感覚性、本能、潜在意識、意識認識性、自己意識、自己超意識の7
       段階でヤコブの階段と呼ばれている。



 あなたは注意を払い意識的に生きなくてはなりません。それらの物事が物質界で実際はどんな意味

を持っているかを理解し、よく観察しなくてはならないのです。そうすることよって、あなたが自己

忠誠的に生きるための魂力〔魂の神聖なる力〕を陶冶できるのです。あなたはヘレンやメアリー、そ

してジョージやジョンとして自己意識的に生きる必要はありません。なぜなら、あなたの真実の自

己には「私はある」(l am)もの以外の名前はないからです。「私はジョンあるいはメアリーである

の後の部分を今は外しておきましょう。あなたの「魂としての自己」には性別はなく、むしろ両性と

言えます。あなたに性別がないということではありません。しかしそこには、あなたが感じる何かが

あります。それは物質界で男性あるいは女性が陶治しなくてはならないすべて、すなわち感情と思考

を調和するためのものが、その自己の中で完成することなのでしょう。

 このように、あなたは今「魂-自己意識」の中で調和していきます。そうすると、あなたは真実

の自己が何であるか、あなたが何者であるかを理解すろことができるのです。それから、あなたは自

分が神であることを理解しますり あなたや私たちすべてが例外なく「霊-魂-エゴ-永遠の存在」

として神なのです。私たちは一人残さずアラハにつながる子なのです。



 さて、このように感じ、解り、存在する状態は表現できないほど大変にすばらしいことです。しかし、

私たちは神やアラハ、あるいは存在の世界における神の現れであるロゴスのワンネスに入ったのでし

ょうか? いいえ、あなたはまだ、「魂-エゴとしての自己」の中に「霊-エゴとしての自己」を花

聞かせなくてはなりません。「霊-エゴとしての自己」は人間としてのあなたのものでしょうか?「魂

-エゴとしての自己」は、人間としてのあなたのものでしょうか?はい、そうです。なぜなら、人

間として自己を現しているのが「魂-エゴとしての自己」だからです。そして、それは神聖なる人

の光なのです。キリストであるジョシュア・イマヌエルは、受肉することにより自身を人間として現

され、人に栄誉を与えられました。-そして、彼ご自身を「人の子」と呼ばれたのです。

 このために、私たち一人ひとりが「人の子」であることは、私たちの授かりものなのです。そうで

あれば、私たちは今、ある種の超自己意識を育てることができないのでしょうか? それにより、「霊

-永遠の存在」としての私たち自身を感じ、存在し、そのように生き、表すことができないのでしょ

うか? それはできないのです。何故かと言えば、私たちは常に自分自身を 「霊-魂-エゴとして

の永遠の存在」として表すことになるからです。一旦自分の自己を人間として表せば、私たちは常に

神である光の中で人間化された「霊-魂-自己」であり続けるのです。私はそれを超えた個人的な

経験を持っていませんので、それ以上詳しくは述べようとは思いません。しかし、更に陶冶すること

はできるでしょう。しかし例えそうしても、私たちの最愛の存在であるロゴスの腕の中に、なぜ留ま

ってはいけないのでしょうか? 絶対無限の存在性がどのような状態なのかを誰もあなたに話すこと

などできません。



 私たちは大天使たちと接触できるのでしょうか? 大天使たちと私たちとの関係は何なのでしょう

か? 大天使たちは「魂-エゴとしての自己」を持っているのでしょうか? いいえ、持っていま

せん。では、彼らは「エゴとしての自己」を持っているのでしょうか? 彼らは「魂-エゴとして

の自己」は持っていませんが、「エゴとしての自己」は持っています。なぜなら、彼らは.人ひとり

白身のアイデンティティーを持ち、絶対無限の存在の中における彼ら自身の存在だからです。彼らは

ロゴスのワンネスから一度も離れたことがないために、「魂-エゴとしての自己」ではないのです。




 私たちの「魂-エゴとしての自己」は、ロゴスのワンネスから逃れてきたと、私たちに考えさせたり

信じさせたりすることに責任があるのでしょうか? 正確にはありません。しかし、その一部であり、

時間と場所の自己はその反映であり、その状態に責任があることになります。

 このように、基本元素の大天使たちや大天使の階級のすべてのものたちは魂を持ちませんが、「エ

ゴ-大天使としての自己」を備えています。どの階級の聖なる大天使であっても、人間が知ってい

ることや、真実においてどんな存在なのかを彼らは知ることができるのでしょうか? 人間の「霊

-魂-エゴ」へと、アチューンメントすることによって、大天使たちは知ることができます。すなわち、

彼らはアチューンメントとアットワンメント(彼らはこれらのマスターです)によって、人間が何で

あるかを確実に知ることができます。事実、彼らは神聖なる知恵を使ってすべてを創造しているため

に、私たちの肉体と他のすべての体に完全にアチューンメントしています。言い換えれば、私たちが

その中で生きられるように、それらを維持し与えてくれているのです。少なくとも、三つの大天使の

階級、すなわちすべてのミカエルたち、すべてのガブリエルたち、そしてすべてのラフアエルたちは、

アチューンメントとアットワンメント(彼らはこれを好み、愛しています)によって、私たちの「霊

-魂-エゴとしての自己」に接触しています。

 では、私たちの現在のパーソナリティーとはどうでしょうか? 彼らは接触しょうとはしません。

なぜなら、彼らは分離の観念による悪影響を受けたくないからです。彼らは接触を持てるのですが、

決してそうしようとはしません。彼らはそれを好まないのです。彼らは人間にある現在のパーソナリ

ティーが嫌いなのでしょうか? 彼らはそれを失われた息子、すなわち放蕩息子と呼んでいます。も

ちろん、私たちを愛していますし、それをも愛しています。しかし、彼らはいわゆるジョージやメア

リーやジョンにアチューンメントすることに関心がありません。

 私が大天使たちと接触を取ろうとする時、彼らは私の名前を知っているのでしょうか? 彼らは知

ろうとはしません。彼らが聞き、理解できる名前は、「魂-エゴとしての自己」がつくり出している

波動なのです。彼らはそれを愛し、もちろん知っています。これらの聖なる大天使たちの理解力はど

のようなものなのでしょうか? 私はそれがどのように機能しているかを知っていますが、言葉では

説明できません。


 聖なる大天使たちは言葉を持っているのでしょうか? 型パウロですら大天使たちの言葉を知って

いました。なぜなら、彼は自分の自己意識を第三の天国、すなわち純粋な思考の領域であるノエティ

ヵル界まで引き上げてもらったからです。彼らは異なった言葉を持っています。言葉とは何なのでし

ょぅか? 私たちの人間の言葉とはどのようなものでしょうか? 英語、ギリシャ語、ドイツ語、日

本語、中国語などがありますが、これらの言葉や音の響きの背後に意味があります。このために、人

間の言葉には混乱があります。すなわち、音と意味が不明確になり、それぞれが異なった形になって

いるからです。これが人間の言葉のあり方であり、地上での人間の言葉なのです。

 しかし、聖なる大天使たちの言葉はただ波動であり音なのです。すべての波動は光と音です。聖な

る大天使たちは、彼らの間で異なった言葉を使っています。ミカエルは、ガブリエルの言葉やラファ

エルの言葉や他の大天使たちの言葉を知っているのでしょうか? 知っていますが、それは神のワ

ンネスに存在していても、異なった波動で、異なる色を伝達します。彼らは互いが表現していること

を知っています。なぜなら、彼らの言葉は愛の言葉だからです。ロゴスの愛の光を通して、彼らはす

べてロゴスのワンネスに同調され、互いを知り理解し合っています。

 
人間は大天使の言葉を理解することができるのでしょうか? できます。なぜなら、人間にはその

恩寵が授けられているからです。どのようにするのでしょうか? それはアチューンメントによって

行います。しかし、彼らへのアットワンメントは大変に困難です。いずれ人は知ることになるでしょう。

いつでしょうか? 聖書に 「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神をみる」 〔新約マタイ5・

8〕と示されています。大天使たちの言葉は、あなたの耳から伝わるものではなく、あなたの心を通

して伝わってくるものです。



 あなたが自己意識の段階に到達すれば、「自己-超意識」に行く必要はなくなります。彼らとの継

続的な接触があれば、あなたは彼らに関する全てを知ることができ、また彼らもあなたの「魂-エゴ」

レベルにおける人間としてのあなたの全てを知ることになるからです。彼らは人のパーソナリティー

に干渉しようとはしません。なぜなら、それは彼らには最悪に臭いものだからです。

 さて、私たちは人間として何なのでしょうか、大天使なのでしょうか? 彼らが神であるのに対し

て、私たちは魂を持った神なのです。そして、私たちは大天使でもあります。すなわち人間化した大

天使であり、「霊-魂-エゴとしての自己」を現しているのです。

 ある人が、私が人間の体の中で「魂-エゴとしての自己」として存在することに満足しているか

どうかを尋ねた時、「私は人間の重く粗い肉体の中で生きることにはもちろん満足していない」と答

えました。さらに「私は決して好きではない」と付け加えました。しかしながら、素材(重く粗い物

質の中ではなく)や光の中で人間として、すなわち「人の子」として存在することは、本当に栄誉の

あることなので、〝人間の形態〟の中で生きることに満足していないとは言えませんでした。


 しかし、私たちはこの重く粗い肉体の中で生きています。「自分はこの肉体なのだ」と信じてしまい、

私たちの「魂としての自己」の部分を、現在のパーソナリティーと呼ばれている自己中心的な自己に

隷属させるべきではありません。しかしこのことは、私たちが人間の形態を愛するべきではないとい

う意味ではありません。人間の肉体の死によっても、それを決して失うことはなく、私たちが失うの

は肉体だけなのです。これが、ジョシュア・イマヌエルが述べ伝えてきたことです。すなわち、あな

たは肉体と全く同じ形態のサイキカル体を持った自分自身を発見することになります。そして、あな

たの肉体のすべての特質は、あなたのサイキカル体に存在しています。あなたが気に入っている肉体

にある小さなしるしであっても、サイキカル体の同じ場所にあります。なぜなら、あなたの肉体は、

あなた自身のサイキカル体とノエティカル体の投影に過ぎないからです。

 あなたの人間としての本質である〝人間の形態″を愛しなさい。そして、あなたの重く粗い肉体の

中でもまたそれを愛するようにしましょう。






 第15章

過去の神々、エレメンタル、全なる智慧、病、生命、感情

人間の形態、視覚化、瞑想、自己実現


                                                      

 復習していきましょう。私たちは、自己充足性や自己無量性や永遠性にあるのが絶対存在であると

述べました。この絶対存在は生命です。神は生命なのです。

一時的に存在し、また永遠に存在するものは、存在の世界です。存在とは何でしょうか? そして、

なぜ存在の世界があるのでしょうか? 存在の世界とは、絶対存在の意志である神聖なる意志のこと

です。これは生命である無限の存在の本質にある特質の一つなのです。


 人間の知性と呼ばれているもので、私たち人間は絶対存在の本質にある特質のいくつかを探求し知

ることができます。私は人々に「あなたは、絶対存在、ロゴス、聖霊という言葉を使いますが、なぜ

神という言葉を使わないのですか?」と度々質問されます。神という言葉によって、私たちは何を理

解することができるのでしょうか? 神は通り過ぎたあらゆる時代に存在してきました。これらのす

べての人々は、神という言葉から何を理解したのでしょうか? 洞窟に暮らした原始人から現代の人

頬まで、これらの人々がつくり上げてきたものは、一人の神であり、また数々の神々ではないでしょ

うか? おそらく、人々より高次の知性が存在すると感じる必要性が、人々を護ってきたのでしょう。

 それは恐怖の結果だったのでしょうか? そうかもしれません。しかし、それだけではなかったと

思います。時間と場所の現在のパーソナリティーである全ての人間は、自身の中に「私が感じるよう

な弱い存在ではない」という思い、すなわち現在のパーソナリティーが感じていたような思いを持っ

ていたのでしょう。おそらく、人間が一人の神、あるいは神々をつくり出した理由は恐怖だけではな

く、内なる衝動や必要性もあったからでしょう。


 過去の神々とはどんな存在だったのでしょうか? 多くは、人々が恐れた対象である、雷、暴風雨、

洪水、火山の噴火、地震などで、それらに対する守護神をつくり出さなくてはならなかったのです。

昔の時代の人々は、どのようにして守護神をつくり出したのでしょうか? 私たちがマインド、ある

いは思考と呼んでいるものを潜在意識的に使ってつくり出していました。

 動物は神をつくり出さず、また神を信じることもありません。彼らは単純に生きるのみです。とこ

ろが、人間は何か、あるいは誰かが彼らより上に存在し、自分たちを護ってくれると信じ始めた (言

葉の意味について考えること) のです。

 これらの過去の神々の必要条件とは何であったのでしょうか? 過去を学ぶと見えてくることは、

すべての人間が神々に彼ら自身の美徳、あるいは悪徳を与えていたことです。当時のユダヤ人がエホ

バを神としたように、彼らは復讐をするための神を必要としました。他人に対して嫉妬心を感じるた

め、彼らは自分たちの神がねたむ神であると考えました。このように私たちは過去のあらゆる文明の

すべての神々が、その時代に生きていた人々の特徴によって条件付けられていたことが分かります。

 これらの神々は存在したのでしょうか? また、今も存在しているのでしょうか? それらは存在

していましたし、今でも存在しています。アトランティスやレムリア、古代エジプトやギリシャ、ヒ

ンドゥー、そしてアステカやインカのすべての神々は、それぞれの時代に存在し、今も存在している

のです。なぜでしょうか? それらは単純にエレメンタルであり、マインドと人間の解釈と自然から

の創造物なのです。

 これらの神々はその時代の人々を助けていたのでしょうか? その神は一人の人間の概念だけによ

るものではありません。その神が一人の人間により取り上げられても、多くの人々がそれに賛同し、

それらの人々が、私がグループ・エレメンタルと呼んでいる神を創造することになります。このよう

に、何千何万という人々が、自分たちに仕えさせるために、そのエレメンタルにエネルギーを与えて

きました。

 これについて、もう少し話しましょう。古代アトランティス人は、私が創造的思考と呼んでいるも

のを使っていました。これは、彼らの神々が物質化さえでき、特定の仕事を処理できることを意味し

ています。しかしながら、それらは単純にエレメンタルであり、非常に力を持った集合的エレメンタ

ルなのです。

 私たちが自分の潜在意識を内観し、エレメンタルに顔を突き合わせて、それがどんなプレッシャー

の下にあるのかを学ぶ時、私たちはこれらのすべてのエレメンタルが如何に力とエネルギーを持って

いるかを理解することでしょう。過去の神々は存在していました。そして、それらは今も宇宙意識に

存在しています。





神という言葉を使うことによって、私たち自身の本質と尺度という観点で絶対存在を矮小化してし

まいました。これでは無限の存在への敬意とはなりません。このために、私は神という言葉を必要以

外にはあまり使いません。教会にはそれを使わせましょう。彼らは絶対存在である神を父、神の子で

ある表現をロゴス、そして神を聖霊と呼んでいます。これらは正しいのです。過去のことを胸に留め、

なぜ彼らはより良い言葉を使わないのでしょうか? 私たちが使っているような〝生命である絶対存

在″のような言葉を使うべきではないでしょうか? また、その主要な特徴を与えるべきではないで

しょうか? すでに話してきたように、その主要な特徴とはキネーシス〔動き〕とモーション〔運動〕

とバイブレーション〔波動〕です。これらはまた生命の主要な特徴です。

 今、モーションという言葉を便いましたが、これは父である神にある動きです。さて、今はこの表

現を使いますが、この動きとはまだ何も動きが発生していない状態におけるモーションであり、法則

であり、原因なのです。しかしながら、そこに絶対存在の本質としてのモーションがあるのです。そ

のモーションはどこにあるのでしょうか? 私たちはそれをご意志として発見するのです!

 父である神、あるいは絶対存在を何によって信じることができるのでしょうか? 私たちはすべて

がその中にあることによって信じることができるのではないでしょうか? それは彼とか彼女を超え

た、宇宙のように巨大で、大文字の〝それ″で表現されるものなのです。すべては〝その〃中の存在

しています。なぜなら、絶対存在はご自身を全なる智恵と全なる愛と全なる力として表現しているか

らです。


 他の教義では、キリスト教の教義ですら、父なる神を脇に追いやり、その表現であるロゴスだけを

崇敬するものがあります。しかし、ロゴスはその根源である絶対存在の表現なのです! そして、そ

の表現が根源より賢いとは言えません。キリストは「私の父は私より偉大である」と述べています。

キリストはこれらの言葉を自ら言ったのです。ですから、私たちは原初の原因である絶対存在を軽視

し、その啓示だけを崇拝するような姿勢を正さなくてはなりません。啓示もまた絶対存在であると言

えます。ロゴスは啓示における絶対存在であり、生命、意思、愛、全なる智恵と呼ばれるものを表現

しているのです。

 絶対存在の中に全なる智恵があるということを、私たちはどのようにして理解し、受け入れること

ができるのでしょうか? 存在するもの、すなわち啓示されたものを学ぶことにより理解できるでし

ょう。

 私たちは原因を探索し(思うだけでは不十分です)、その啓示である結果を学び観ることができます。

このことは、私たちが宇宙におけるすべての生命現象を学ぶことができることを意味しています。そ

れらは物質的宇宙であり、いわゆるサイキカル宇宙であり、ノエティカル宇宙、あるいはマインド宇

宙などの中に存在しているものです。

 どのようにして全なる智恵を探索し、学ぶことができるのでしょうか? 私はこの前、アメリカの

ある大学の学長からこのような質問を受けました。彼は「あなたは全なる智慧について話しています.

この全なる智恵に関して、あなたはどのようにしてその確証を持てるのでしょうか?」と質問しまし

た。私は「先ずあなたは神を信じていませんね」と言いました。彼は「その通りです。なぜ信じなけ

ればならないのでしょうか?」と答えました。私は話を続けました。「私たちがなぜ神を信じるのか

ということは、また別の問題です。もちろん、絶対存在はあなたが神について考え、愛し、認識する

ことを求めているわけではありません。しかし、そのようにする必要があなたにあるのです。それは

あなた自身の善性のために、その原理にあなた自身を調和させることなのです。あなたは絶対存在を

愛していないかもしれませんが、絶対存在はあなたを愛しているのです。なぜなら、あなたが生きて

いるからです。今あなたは全なる智恵に疑問を持っていますね。あなたもまた医学博士であると理解

しています」彼は大学の学長であったので、このように尋ねました。「人間の肉体と機能を学ぶだけ

で、全なる智恵を見つけ出せるでしょう。なぜなら、人間の生命やあなたの周りに存在するあらゆる

生命形態が波動システムとして機能し、その調和の下に成り立ち、彼ら自身を存在させているからで

す。ですが、それらの調和の背後に何があるのでしょうか? あなたが人間の肉体や動物の肉体、あ

るいは樹木について学ぶ時に、それを発見するのです。あなたも気付いているように、その背後には

神聖なる計画があります。私はそれを全なる智恵と呼んでいるのです。一時的存在と実現性の循環を

学び、そしてあらゆる物質的な生命形態にとって、それが誰も逃げることのできない支配力と分かれ

ば、あなたは全なる智恵を理解できるはずです」彼の返答は「はい、わかりますが、それな自然の智

慧と呼ばないのですか?」というものでした。私は彼に次のように言いました。「自然の智慧とは何

を意味しているのでしょうか? 確かに、そのような智恵は自然にあります。しかし、もし神という

言葉を好まず、自然に神の特徴を与えるのであれば、なぜあなたは〝無限の存在の表現″という言葉

が嫌いなのですか? もちろん、確かに法則が自然を支配しています。しかし、法則を与えろものが

なければ、どんな法則もあり得ません。誰が法則を維持しているのでしょうか?」もちろん、この男

性を少し困惑させてしまいましたが、彼は神を信じることを認めませんでした。しかし、これは彼の

問題です。


 真理の探求者は、人間が何を学ぶことができるのかを知り学ぶために、マインドを理性として使わ

なくてはなりません。人間を学ぶのです! しかし、私たちは人間だけではありません。人間として

私たちは存在しますが、同時に「私たちはある」のです。ここでは神という言葉を使いましょう。誰

でも「魂-エゴー自己意識」としては神なのです。


 大海からの一滴の水、それは大海の本質的な構成要素ですが、それ自体を大海と呼べるでしょうか?

それはできません。しかしながら、一滴の水は大海の水と同じものです。私たちは神であり、全能な

る神の子であると、イエス・キリストは言っています。私たちすべては神なのです。よって、私たち

は神であり、そして人間としても存在しています。二つの異なった次元、すなわち永遠の存在の世界

と存在の世界があります。永遠の存在の世界は、永遠であり、変わることがありません。絶対存在と

すべての永遠の存在は、自己多重性と自己充足性の状態にあります。何と、自己多重性と自己充足性

です!

 この惑星のあらゆる時代に存在したすべての人間は、物質形態、サイキカル形態、ノエティカル形

態の人間として、自己多重性や自己充足性を感じることができたのでしょうか? もちろん、それは

無理なことです。なぜなら、存在の世界には自己充足性がないからです。なぜでしょうか? 分離の

世界に存在する人間は、決して自己充足になり得ません。彼らは自らの生き方によって、自己充足性

を楽しむ権威を失ったのです。たとえ人間形態を持っていても失ってしまいました。これが人間の肉

体に数え切れないほどの病が起きている理由なのです。言い換えれば、神聖なる法則を冒している結

果なのです。

 そこで、真理の探求者は深い瞑想や集中、観察や熟考を通して何を発見できるのでしょうか?一

人の人間が一体何を見つけ出せるのでしょうか? 最も大切なことは 「私はマインドと呼ばれる聖な

る超素材を使っている。そして、それを使えば、真理を知ることができる。もしそれを誤用すれば、

もっと深く幻想と分離の世界に入り込んでしまい、肉体やサイキカル体やノエディカル体に帰結をも

たらすことになる」という自覚を持つことです。


 しかし、それは永遠に続くものでしょうか? いいえ、そうではありません。なぜなら、私たちは

常に法則の下に置かれているからです。現代の科学はそれを進化と呼んでいます。しかし、この言葉

は私には何も意味がありません! 進化とは何でしょうか? 私たちが進化と呼んでいるものは、マ

インドを正しい方法で使うための過程に戻ってくることを意味しています。これが、私が進化と呼ん

でいるものです。





  【訳注】 *私たちはある:私たちは人間として一時的に存在する (existing)と同時に
        内なる自己としてはもともとあるもの(Being)で即ち永遠の存在としての部分を
        持っていることを意味している。


 私たちはいつも暗闇の中にいることはできません。なぜなら、私たちには光を見る必要性があるか

らです。光を見るために、どうしたらよいのでしょうか? 私たちは五官を使って外側から光を見よ

うとします。ところが、私たちは「魂-超意識」として光なのです。私たちは光です。私たちの自

己は光なのです。しかし、その光は物質形態によって覆われています。そして、私たちの自己の新た

な顕れは、光を切望しています。それは光を探し求めます。外の世界で見つけようとします。

 キリストは「天の国はあなた方の内にある」と言いました。あまり多くの人は次のようには考えま

せん。「私の内にある天の国とは何だろうか? 『私の内にある』とは何を意味しているのだろうか?

現在のパーソナリティーとして「私の内」を見れば、それは肉体であり、たくさんの物体があるだけ

です。私が一つひとつの臓器を分け調べても、私に見えるのは肉体です。私が「私の内に」と言うと

き、これは私の肉体の中にあると思うかもしれません。しかし、この「私の内に」は、肉体を指して

いません。なぜなら、魂としての私たちは、たくさんの物体だけに制限されていないからです。

 私たちの表現の一つ、すなわち人間としての存在より、私たちは何か異なるものなのです。私たち

がエゴイズムと呼んでいる偶像に脆いている限り、私たち自身、すなわち内にある真実の自己を見る

ことはできません。私たちは物質と感情と思考の三層の鏡の投影によって私たちの自己を観ることが

できます。私たちは意識を内に向けなくてはなりません。そこは無限の空間で、永遠の時間が流れて

います。幻想は場所と時間によるものです。もちろん、私たちは今かなり深いところまで入ってきま

したが、ここで主題に戻りましょう。


 では、私たちは何者でしょうか? 私たちが肉体ではないことを認識しなくてはなりません。肉体

とは、私たちがまったく手を貸すことなく、聖霊と創造主と基本元素の聖なる大天使たちによって最

も賢明に創り上げられたものです。それとは逆に、私たちはいつも彼らの創造的作業を妨げ、現在の

パーソナリティーとしてエゴイズムに満ちた生活をおくることにより肉体に病を招いています。

 このような生き方では、マインドを適切に利用して意識的に、さらに自己意識的に生きているとは

いえません。私たちは一体何をしているのでしょうか? 私たちはマインドを潜在意識的に使ってい

るだけなのです。そのために、生命における大切なものの獲得が何もなく、満足すら得ることができ

ないのです。私たちには満足がありません。なぜなら、生命が何であるか、肉体の中や他の体の中で

生きることがどのようなことなのかを理解していないからです。その結果は私たちの周りで目にする

ように、多くの自殺者、計り知れない悲惨や痛みや病となって現れています。これらはすべてマイン

ドという素材であり、超素材の誤用によるものです。



 しかし、少し考えをすすめると、私たちにはマインドを好きなように使う特権が与えられているこ

とに気づきます。すなわち、私たちはこの水で純粋でクリーンに保ち、のどの渇きを癒すために飲むこ


ともできますし、それを泥と混ぜて悪臭を発することもできるのです。これには特定の感情が関係し

てきます。


私たちが望めば、この幻想を捨て去ることもできます。誰も私たちが苦しむこと、あるいは物質や

サイキカル状況からの奴隷になることを強制していません。では、どのようにしてこれらの境遇を捨

て去ることができるのでしょうか? それは理性的に考えることです。このような境遇は今まで私た

ちに何を提供したのでしょうか? 現在のパーソナリティーと呼ばれている生命現象でそれらは満

足を与えてくれましたか? 彼が今生きている人生を、誰が本当に満足しているのでしょうか?そ

して多くの人の質問は、「人生の目的とは何か?」です。


 もちろん、人生には目的や目標があります。それを理解しなくてはなりません。原因や理由がなければ

何も起こりません。私たちは無限の存在の全なる智恵を侮辱すべきではありません。なぜなら、それが

私たちの住んでいる肉体を創造し、その偉大な智恵で良い健康状態を保ってくれているからです!

 現代科学は肉体における生命が何であるかを理解しようとしています。しかし、まだ闇の中にあり

ます。近年まで彼らは血液循環についてすら知りませんでした。今彼らは新陳代謝や分解代謝や物質

合成代謝がどのようなものかを知るに至りました。


 私が度々耳にする質問は「人間の形態とは何でしょうか?」というものです。私は、人間の形態と

は鋳型であり、それで肉体が形つくられ、絶え間なく創造されているものですと答えています。人間

の形態は神である無限の存在の全なる智恵の中に存在し、私たちはそれを天なる人間と呼んでいます。


たとえあなたが、それを捨てようとしても、それは不可能です。あなたが物質的形態の中に存在して

いるのは、あなたが物質的な形態になったからです。あなたが肉体やサイキカル体やノエティカル体

を脱ぎ捨てても、原因と法則の世界でコーザル体の中でも、あなたは人間の形態の中にいることにな

るでしょう。しかし、あなたはもはや人間の形態に隷屈することはないのです。あなたは人間の形態

を維持していますが、神としてどのような形態も取ることができるのです。

人間の形態は、イエス・キリストが自らを「人の子」と呼ぶことにより栄誉を与えられました。

 復誦します。キリストは自分白身を「人の子」と呼びましたが、これはジョセフの子という意味で

はありません。なぜなら、彼はジョセフの子ではなかったからで、「神の子」でした。このことは多

くの人々から誤解されています。彼は自分白身を「人の子」と呼ぶことにより、人間のイデアに栄誉

を与えたのでした。


 私たちの本当の宝とは何なのでしょうか? 如何なる物質的なものも私たちの真の宝とはなりませ

ん。それは〝人間の形態〟です。山ほどの世俗的な物事から離れて、それは原因であり、イデアであ

り、力なのであり、物質的な存在の形態とも異なります。また、かなり深いところまで潜ってしまっ

たようです。



 深い瞑想と集中と観察によって、人はいずれ「熟考を超えたエクスタシー」と呼ばれる段階に到達

するでしょう。そこであなたは真理と向かい合い、私が天なる人問のイデアにより意味すること、ま

た時間と場所の影響から離脱し人間の形態が意味することを理解することになります。

                               

 「あなたが今述べている人間の形態とは何なのでしょうか? ダスカレ」とあなたは質問をするか

もしれません。そして、「私の人間の形態は、精子から始まり、成長に成長を続け男児あるいは女児

として幼児となり、成人して若者となり、大人として成熟期を向かえ、熟年となり、やがて老人とな

ります。また、あなたは人間の実現性の循環についても話していますが、その成長のどの段階に、私

が携えることのできる人間の形態があるのでしょうか?」と質問を続けることでしょう。

すべての実現性の循環すなわち人間の本質に存在するすべて、私たちはこれを自然と呼んでいま

すが、これがその形態なのです。そして、これは時間と場所を超越しています。あなたは、自分として、

また人間として存在しうるもの、あるいは存在したものの全てなのです。あなたの人間の形態は、肉

体の中でのあなたの人生のある特定の時間だけに制約されるものだけではありません。それでは、私

たちが望めば、例えば20歳の若者にもなれるのでしょうか? そして次の瞬間、40歳の賢い人になれ

るのでしょうか? そうです、もしあなたがその発達段階に到達すれば、あなたはすべてであり、あ

なたが望むすべての自分を表現することができるのです。これは当然のことです。



 あなたは人間のイデア、あるいは「魂-超意識」として今存在する人間の形態を理解しなくては

なりません。人間のイデアとは、「魂-超意識」と「霊-自己超意識」としてのあなた自身との違い

のことなのです。

 人間のイデアの特徴は、魂として、すなわち神としての表現であるということです。あなたは、た

とえ魂であっても神聖な存在なのです。



 既に話してきたように、絶対存在は三つの表現において、永遠の存在であり、また一時的な存在で

もあります。おそらく、もっとたくさんの表現があるのかもしれませんが、私たちにはそれ以上を理

解することができません。私たちが理解できるのは、私たちの存在に関わる三つの表現だけです。もし

かすると、大天使たちは異なった方法で物事を理解しているかもしれません。私たちは、私たちの存

在を通してのみ理解できるのです。


 私たちは「霊-エゴー自己超意識」として永遠の存在であり、また「エゴー魂-自己超意識」と

して永遠の存在であり、一時的な存在でもあります。さらに、その間に永遠のパーソナリティーを備

え、時間と空間の表現である現在のパーソナリティーとしてこれらの世界に一時的に存在しているの

です。

 これまでのレッスンを要約しましょう。全てのものは、私たちがマインドと呼んでいる超素材によ

って、永遠にあるものであり、また今存在するものでもあります。全ての宇宙、すなわちノエティカ

ル宇宙、サイキカル宇宙、そして物質宇宙はマインドから創られています。物質宇宙、銀河系全体、

そしてすべての星雲や空間と呼ばれている領域は、私たちがマインドと呼んでいる大海の中を動いて

いる小さな分子のようなものです。

 それらは動いています。なぜなら運動は生命の特質だからです。マインドは頭蓋骨の中のひとつか

みの脳ではありません。マインドは、無限の存在のご意志であり、全なる智恵なのです。しかしマ

インドは神ではありません。また、それはロゴスとしての無限の存在の表現でもありまけん。しかし

ロゴスと聖霊はマインドを使って創造しています。



 存在するすべてはマインド、すなわちマインド物質、マインド素材あるいはマインド超素材から

創られています。それらは偶然なのでしょうか?いいえ、そうではありません。それはすべての存

在の原因として、無限の存在の全なる智恵に従っているのです。

 ここで、マインドがどのようなものであるか分かったと思います。これ以外に知るべきことはある

のでしょうか?それは、私たちがマインドを利用できるということです。しかし、平均的な人々は

マインドを意識的に使えていないのです。


何か他に知っておくことはあるでしょうか?それはすべての階級の聖なる大天使たちがマインド

を使っているという事実です。彼らはいわゆる創造的思考というものを利用して、あらゆるものを存

在させているのです。あらゆる階級の聖なる大天使たちは、神聖なる存在として神であり、永遠なの

でしょうか?そのとおりです。彼らは大天使的自己意識を持っています。

なぜ人間は創造的思考を使い、大天使たちが行っていることを出来ないのでしょうか?すなわち、

それはエレメンタルである思考形態を物質化することを意味しています。人間もまた大天使たちに相

当する神なのに、なぜ出来ないのでしょうか?


どんな人間も大天使なのです。教会は人間を「堕ちた天使」と呼んでいます。私はこの表現には賛

成できません。私たちは堕ちてはいません。なぜなら、私たちが故郷に戻るときには、基本元素の大

天使たちの誰よりも優位な立場になるからです。

大天使たちは思考形態を物質化し、私たちが住んでいる世界や見える世界を創造していますが、私

たちはものを物質化する思考形態としてマインドを利用できないのでしょうか?ごもっともな質問

ですが、実はある時代まで私たちもその権限を持っていたのです。しかし、私たちがそれを誤用した

ため、その時以来その権限を取り上げられてしまったのです。歴史を遡ればそれが見えてきます。彼

らは自分たちの間で基本元素を使い、思考の砲火をあびせ合い戦った過去がありました。これらは旧

約聖書から読み取ることができます。これらは思考という創造的力の大変悪い利用手段なのです。

誰によりその権限を取り上げられたのでしょうか?彼らは悪用したために、その権限を失ったの

です。いつかそれを取り戻すことができるのでしょうか?もちろん、人間がそれを再び利用する上

で相応しい状態になった時に取り戻すことができるのです。


人間はマインドからものを物質化することができるのでしょうか?イエス・キリストはこの世に

来て、次のように言いました。「はっきり言っておく。もしからし種一粒ほどの信仰があれば、山を

も動かすことができる。私にできることはあなた方にもできる。もっと偉大なことでもできる」この

一節はキリストの言葉として新約聖書に書かれています。彼は私たちが本当は誰であるかを伝えるた

めだけに来たのです。これが真のキリスト信仰(クリスチヤニティー)が意味することなのです。現

在の教義としてあるキリスト教信仰を指していません。犯罪や殺人について述べることを避けるため

にも、これ以外のどんな特徴にも触れないことにします。


しかし、そのような認識の段階に、私たちはどのようにしたら到達できるのでしょうか?先ず第一に

、私たちが誰であるかを認識することです。それは、自分が自己として考えているエゴイズムと

しての自分ではないということを知ることです。すなわち、私たちの現在のパーソナリティーのエゴ

イズムというものは、私たちが投影し、再活性化しているエレメンタルの総体であるということを知

ることです。また、私たちが感情と呼んでいるエレメンタルの本質を知ることでもあります。今日私

たちにあるような感情は、私たちに再活性化を説得するエレメンタルなのです。


 このように、私たちが自分と考えているものは自分ではないことに気づき、すなわちまともではな

い行動を取っている「時間と場所のエゴイズム」を表現している現在のパーソナリティーであること

を見つけ出した時に、私たちの本来の道を発見することになります。



 その道はどこへの道でしょうか? 宗教では、人は「故郷」へ戻ると言います。「故郷」に戻るとは、

何を意味しているのでしょうか? その「故郷」とは何処にあるのでしょうか? どこか別の惑星に

あるのでしょうか? 他の惑星で進化が起きていると考えている人がたくさんいます。しかし、他の

すべての惑星も地球と同じように物質的な天体であり、それ以上の何ものでもありません! 外的な

環境としての場所を変える必要はなく、私たちの内にある天の国へ場所を変えることが必要なのです。

 おそらくあなたにとって「私たちの内にある場所へ帰る」という言葉を聞くのは初めてだと思い

ます。私たちの外側に、すなわち私たちの肉体の外に、私たちが生きている場所があり、そして私た

ちの内に時間と場所があるという時、それは何を意味しているのでしょうか? それは肉体の中、す

なわち肺や脳や腹部という場所ではありません。これは「私たちの内」ではありません。


キリストは「天の国は私たちの内にある」と言っています。このことは私たちの肉体のどの部分に

限定しているわけでもなく、あるいは肉体の中のどんな場所にも特定しているわけではありません。

 私たちが誰であるかを知るために、私たちは幻想としての時間が何であるか、幻想としての空間が

何であるか、そして私たちの内にあるもの、すなわち魂の本質が何であるかを理解しなくてはならな

いのです。まずはじめに、私たちの現在のパーソナリティーの行動を注意深く学ばなくてはなりませ

ん。これを行う時、エゴイズムを責めることなくはじめる必要があります。なぜなら、エゴイズムは

私たちを道から外すことに喜びを感じるマゾヒスト的な傾向を持っているからです。しかし、私たち

の真の「魂-エゴとしての自己意識」は、自立した真理のマスターなのです。



 私たちは学ぶことから始めなくてはなりません。「私たち」 とは一体誰なのでしょうか? 私たち

の本当の存在とは、男とか女という問題ではなく、時間と場所の影響を越えた現在の一時的存在なの

です。しかしながら、真理を知ることができる最も力のある知性と言えるでしょう。しかし、それは

外部からの反射によるものではなく、内省によりマインドを使って行われるものです。あなたの内な

る空間は、あなたが理解できる限度の外的空間より狭いことはあり得ないことを知らなくてはなりま

せん。


 故郷に戻るということは、私たちが誰であるかを知ることにより、自己実現に入ることを意味して

いるのです。ですから、私たちは身体をどこかに移動したり置き換えたりする必要は全くないのです。

 動くということ、すなわち「場所において」ではなく、「時間における動き」が何を慮昧している

か解っていますか? あなたは深い瞑想や集中や観察、そしてエクスタシーを経験すると、その意味

が理解できるでしょう。もちろん、内省も必要です。これらを通して、あなたは「自分の中の空間」

や「自分の内の時間の動き」が何であるかを理解できるようになるでしょう。これは、五官を通して

自分の外側で起きている出来事から受け取る時間とはかなり異なっているものです。あなたはその違

いをどのように理解できるでしょうか? もちろん、私はそれをあなたに説明できません。あなたは

それを自分で行い、その知識を自分自身から得なくてはならないのです。先生、マスター、グル、ア

バターなど呼び方は何であっても、あなたに道を示すことはできます。しかし、その道を歩むのはあ

なた自身なのです。


 今までのレッスンで話したように、ガイド(これは先生より適切な言葉だと思います)があなたに

手を貸してくれることでしょう。その手を取りなさい。彼はある距離をあなたと一緒に歩いてくれる

でしょう。しかし、彼はあなたを背負って運んではくれません。それを期待すべきではありません。

あなたがこれらの物事を自ら行わなくてはならないのです。もちろん彼は手に松明の灯りと真理を携

えてくれています。それを利用することは少しも悪いことではありませんので、真理を見つけ出すた

めに歩みましょう。

 真理とは何でしょうか? 誰も真理が何かを言ってはくれません。あなたがそれを見つけ出さなく

てはならないのです! もちろん私が言えることは、あなたが「霊-自己超意識」として真理その

ものだと言うことです。しかし、あなたがそれを実感しなくてはならないのです。あなたが自ら一体

化(アットワンメント)により見つけ出し、真理と一体化しない限り、それが何であるか誰もあなた

に説明することができないのです。



             

いろいろな段階の意識や自己意識があると言うことはできるのでしょうか?その点に注意を払っ

てほしいのです。もちろん、いろいろな意識の段階があります。それらには、本能や感覚能力を含む

潜在意識があり、物事を理解し始める段階の意識があり、そしてもちろん私が超意識と呼んでいる段

階があります。これらが意識の段階です。

しかしながら、自己意識はただ一つしか存在していないのです。自己意識に二つの段階はあり得な

いのです。自己意識とは、「私は私である」(IamI)ことを悟り実現することなのです。すなわち、「私

は私である」ということは、あなたが「魂としての自己意識」であることを悟ることを意味していま

す。そして後にエクスタシーを適して、あなたは自分が「霊-自己超意識」であることを感じるこ

とでしょう。このことが意味することは、あなたがどこか特定の場所ではなく、どこにいても自己意

識として存在できるということです。そして、それは現在や過去や未来においてではなく、私が永遠

の今と呼んでいるすべての時間に対してなのです。これはあなたが神であることを認識することなの

です。大海とは何でしょうか?あなたが大海であると感じる必要はありません。あなたが大海の一

滴の水であると感じることで十分です。そうすれば、大海とは切り離せない実体性を理解できること

でしょう。


この課題については別の機会に譲り、マインドに戻りましょう。私たちには形のないマィンドとい

う超素材を利用する恩寵が与えられています。それを使ってエレメンタルと呼ばれている形態すな

わち理性的思考形態、あるいは感情的思考形態を形づくり、私たち自身の感情の本質と質を学ぶこと

になります。これが道なのです。そして、これが自己実現に到達するための唯一の道なのです

しかし、誰もがこの真理を探究する道に踏み入り、空間と時間の幻想から自らを開放することを望

んでいるのでしょうか?シェークスピアは「無知が至福をもたらすものなら、賢くあることは愚か

なこととなる」と述べています。もし人が愚かでありたければ、そうさせなさい。しかし、言ってお

きますが、無知は決して至福などもたらすことができません。それどころか、一時的な満足すら得る

ことができないでしょう。



 「ダスカレ、始めるための実践方法を教えてください」これは率直な質問ですね!先ず、あなた

の感情を調べることから始めなさい。あなたの現在のパーソナリティーの言動を知るために調査しな

さい。これにより、あなたのエゴイズムの質を把握することになります。なぜなら、他にエゴイズム

を取り除くための良い方法がないからです。

 「エゴイズムを殺すだけではよく分かりません。具体的なやり方を教えて下さい」当然ですが、エ

ゴイズムを殺すことは、剣を取り誰かを刺すことではありません。エゴイズムに対して、そのような

ことはできません。しかし、あなたがそれらから幻想の力を取り去れば、エゴイズムを殺すことがで

きるのです。エゴイズムにそれ以上生き延びるためのエネルギ-を与えなければ、エゴイズムの息の

根を止めることができます。


さて、東洋の学派では、いろいろな瞑想を勧めています。それらはある目的には良いのですが、往々

にして目的がなく、何年も同じところをただ回っているようなものもあります。多くの人が書籍に従

い、またヨギや他の人の指導の下で繰り返し訓練しています。私はそのような人に質問してきまし

た。「どんな結果を得られましたか?」、「その方法でマインドをマスターできましたか?」答えはノ

ーなのです。私たちは瞑想法を使って、自己実現に導かれるような積極的な結果を得るべきです。私

たちは瞑想や集中や熟考をはじめ他のいろいろな手法も用意しています。サンスクリット語でいうサ

ムヤナ、ディヤナ、サマディなども含まれています。これらは書籍に出ていますが、しかしその効果

を引き出すためには適切な手法を使わなくてはなりません。

その効果とは何でしょうか?それはマインドを意識的に使うことです。瞑想や集中や観察の目的

は何でしょうか?それはただマインドのマスターになることなのです。あなた自身に視覚化の訓練

を行い、あなたの命令の下で生きている思考形態を生み出し、投影することを意味しています。あな

たは毎日自分の命令の下でエレメンタルを創り出しているのでしょうか?逆に、あなたはそれらエ

レメンタルの命令や影響下に置かれているのでしょうか?



 視覚化とは、利用しなくてはならない瞑想の技法であり、それによりマインドをマスターすること

ができるのです。それにはどんな効果があるのでしょうか?(人間は本質として、今行なっているこ

とから何かを得たいと思うものです)あなたがマインドのマスターになると、あなたはすべてのマス

ターとなります。特に物質化や非物質化が出来るようになります。あなたが物質化したいものは何で

も物質化できるように、何でも好きなことができるのです。しかし、こうなるとエゴイズムを抹消し

たあなた自身の内から声が聞こえてくるでしょう。「それを何のためにやっているのか?」と。

 
大天使たちはあなたの体の中でエネルギーと呼ばれているものから物質化を行なっています。あな

たは最も高い知性的存在による物質化をどこでも目にすることができます。あなたのエゴイズムから

解放されれば、神の意志に従って物質化をすることができます。このことが意味することは、ある人

が罪を払い終えたり、あるいは罪をほとんど償えた時などに他の人々を助けることができるというこ

となのです。あなたは真のメンタル・ヒーラーになるのです。これでも不充分と感じますか? いや、

充分以上です!

 病の肉体の中の生命ある物質に働きかけることは、周りの人々が大事なものと呼んでいる物を物質

化することと同じではないでしょうか? それは、なぜでしょうか? 私たちはあらゆる一歩に理性

の松明をかざし、理性の光の下で働かなくてはなりません。そして、自分自身に「マインドである聖

なる超素材は愚かな目的に使われるべきではなく、無限の存在の意志とその神聖なる計画への正しい

畏敬の念をもって取り組まなくてはならない」と言わなくてはなりません。

 私たちはキリストの教えを信じる者(クリスチャン)です。私たちの現代の生活では、社会に生き

るために大変多くのものを必要としています。私たちほ、必要なものを頂くために、ご好意を無限の

存在やロゴス、あるいは聖霊にお願いすることが許されるのでしょうか? なぜご好意なのでしょう

か? 絶対存在がある人たちへ好意を与え、他の人々をその好意の外に置くことなどありえないこと

です! 誰でも自分が必要とするものをお願いし、無限の智恵を信じることはできます。しかし、私

たちはそのことをあまり信じていないのです。キリストは日々の糧であってもお願いするように言い

ましたが、もちろんそれは一塊のパンを意味したわけではありません。彼が意味したものは、私たち

全員が生きるために必要とする生命エネルギーのことです。「私たちに必要な糧を、今日も与えてく

ださい」と聖書に著されています。神は私たちに日々の糧を与えるために、私たちの求めを必要とし

ていません。なぜなら、神はそれを常に与えているのですから。しかし私たちはそのように言うこ

とによって、それを得られるのだと自分自身を納得させられるのです。私たちが何を祈ろうとも、そ

れらは私たち自身のためのものであり、絶対存在のためのものではありません。

 キリストは次に何と言ったのでしょうか? あなたが欲しいもの、あるいは必要とするものを何で

も求めなさい。そうすれば、与えられると言っています。さらに、門を叩きなさい。そうすれば、開

かれる。探しなさい。そうすれば、見つかるとも言っています。しかし、どうすればよいのでしょう

か? それにはマインドを使うことです! それが門だからです。


 私たちは日夜、潜在意識的に数え切れないほどのエレメンタルを創り出しています。これらのエレ

メンタルがエゴイズムを形成していきます。そして、私たちのエレメンタルの総計が私たちの現在の

パーソナリティーなのです。

エレメンタルとは何を行うためのものでしょうか? それは私たちが求めるものや、欲しいと希望

するものを私たちに与えるためのものです。はっきりと言っておきますが、あらゆる欲望や希望はい

つか必ず達成されるのです。私たちが望んでいるある時期に連成されない場合、その理由はそれが作

用する十分な時間を私たちが与えていないからなのです。私たちはそれらを投影し、戻ってきて再度

投影し、再び戻ってきて、それらを再び投影することを繰り返します。私たちはそのことに疲れてし

まい、エレメンタルに任せてしまいます。そして、エレメンタルは創られた目的のために働き続けま

す。多くの人は「願望は達成されましたが、私が希望した時には起こりませんでした」と言うでしょう。

あなたの思慮分別のある希望は、あなたが希望した時期でなくても、達成されていることに気付く

と思います。時期についてはあなたに原因があります。なぜなら、それらが作用するのに必要な時間

をあなたが与えていなかったからです。

 これを心に留めておきましょう。何かを得るために、適切な欲望や希望を送りたいと思う時、あな

たは視覚化により精確にそれを創り上げなくてはなりません。目を閉じて、それを視覚化します。視

覚化のスキルがなくてはなりません。それは空想や想像ではなく、創造的な思考なのです。これらを

区別できなくてはなりません。あなたが欲しいものを視覚化し、求めます。そうすれば、それはあな

たに与えられます。


以上を心に据えて、何かを求める前に、それが理性的なものであるかどうか、それがあなたのもと

に来た時に、あなたの道でつまずかせる石にならないだろうかということに注意を払って視覚化に入

らなくてはなりません。そうすれば、このエレメンタルを創ってしまったことに後悔しないですむか

らです。なぜなら、もしあなたの希望が今回の転生で達成される時間がない場合、次の転生、あるい

はその次の転生で達成されることになるからです。ですから、あなたが求めている最も大切と考えて

いるものが、未来の転生において足かせにならないように確認しなくてはなりません。欲望について

学ぶと、あなたの一つの欲望が達成された時、何か他の欲望が次から次へと生まれてくることに気付

きます。欲望が全てではないのです。

一つの転生において、聖書を出版することを夢見ていた一人の男がいました。巻物に聖書を書くこ

とは大変に骨の折れる仕事でした。この男は画家で、彼の生徒は何時間も座り、新約聖書を保存して

いくために書き写していました。彼はいかに早く聖書の書き写しをつくり、再生産していく方法を発

見することについて夢を見続けてきました。印刷機械を予見したのはグーテンベルグではありません

でした。おそらく彼は、以前の思索家たちのサイキカル環境の中で準備ができていたものを見つけた

のでしょう。

 何世紀も後になって、この男は人生の33年もの間を印刷の奴隷として過ごしました! このことを

心に留めておきましょう!

 私が言いたいことはこのことです。あなた方が希望や欲望を創り出す時、理性を優先させて下さい。

なぜなら、これらの欲望が達成される時に、それらは時間の浪費になるかもしれませんし、あなたの

道で邪魔な石になるかもしれません。そして、それらにより、あなた方のもっと大切な責務が達成さ

れなくなってしまうからです。ですから、理性を使うことがより善い選択なのです。「それが本当に

必要なのか?」、「それを本当に欲しいのか?」、あるいは 「それらは一体何を私たちに与えてく

れるのか?と自分に問うて下さい。

この画家は後悔しませんでした。なぜなら、被の思考が、何世紀にも亘ってアート印刷の手助け

になったからです。従って、それは無にならず、一つの目的を適えたのでした。

 あなたが何かを素早く実現したいと願うときは、それが作用する時間を与えて卜さい。あなた自身

で自分の部屋に閉じこもり、目を閉じて、あなたが希望しているもののエレメンタルを精確に創り上

げます。すると、あなたの願いが出来るだけ早く達成される環境が整うような状況(エレメンタルが

それらを準備します)になることでしょう。

 私が若かった頃、一人の大変に貧しい男を知っていました。彼は自分だけで住める部屋が欲しいと

夢見ていました。彼はある村からやってきて、他の三人の仲間と一緒に小さな部屋を借り、わずかな

家賃を払っていました。彼が私のところにやって来たころ、二人とも18歳ぐらいでした。彼は仕事を

探していましたので、私は彼に視覚化の手法を教えました。すると、彼は、仕事を見つけました。今

度はもっと良い仕事を望みました。彼はより良い仕事を視覚化し、それを見つけました。それから彼

は狭くても庭のある小さな家を欲しくなりました。そして二、三年後のある日にチャンスをつかみま

した。彼は私に 「あなたを私の家にご招待し、お茶でも差し上げたいと思います」と言いました。そ

の家は彼が夢見た通りでした。そして、新たな機会がやってきて、彼はお金を稼ぎました。彼は私に

このように言いました。「すべてが奇跡的にやってくるんです」それから彼は「最も豪勢な家を手に

入れたい。そしてある程度お金があって、大変な美人と結婚したい」と言いました。彼は金持ちで美

人の女性と教会にいるところを夢見ていました。そして、それもそのようになりました。彼はかなり

大きな家を新築しました。そして、今彼はリマソールで、ある多層階ビルのオーナーになっています。

ある日、彼は私を招待してくれました。そして彼と彼の美しい妻(年齢のいった女性)に会いまし

た。彼には三、四人の息子がいましたが、彼らには「これは必要ない」と言って、必要なものでも取

り上げていました。彼はリマソールのビル賃貸から上がってくる家賃をただ積み上げていただけでし

た。彼に会った時、彼に「いつ何をして楽しんでいるのですか?」、「いつ妻や子供を休日に連れて行

きましたか?自分の人生を楽しまないのですか?」と尋ねました。すると彼の答えは「いや、そん

な時間はないよ。仕事が……」というものでした。

現在、彼は船のオーナーになることを考えているようです。彼は私に「あなたはどう思いますか?」

と尋ねてきました。私は彼へ「あなたが18歳の時より、もっと愚かだと思うよ。このようなもの全て

があなたへ与えられたことについて考えたことがありますか?」と尋ね返しました。彼は「何か示唆

してくれますか?」と言ったので、私は「息子たちにもある程度のお金を与えなさい。そうすれば

彼らももっと良い道へ進んでいけると思うね。あなたは次の世界に何一つ持って行けないのだから。

後何年生きると思っているのかね?千年?」と答えました。すると彼は「あなたは、私たちが生き

続けると言いましたよね?」と尋ねましたので、私は「その通りだが、ここではないのだ。あなたが

生き続ける場所は、別の世界なのだよ。だから、ここから何も持って行くことは出来ないのだ。ただ

し……」と続けました。するとすかさず、彼は「ただし?」と先を促しました。私は「ただし、別世

界であなたが貰うことのできる銀行でそれを現金化しない限り無理なのだよ」と答えました。すると

彼はそれはどの銀行?」と尋ねたので、私は「それは愛と親切の銀行だよ!あなたにはたくさん

のお金があるのだからたとえ彼らが家賃を払えなくても、あなたのマンションから貧しい人たちを

追い出すべきではないのだ。それに裁判に持ち込まないことだね」と答えました。「しかし……」と

彼は言うので、私は「その『しかし』が不要なのだ。ただそうすればいいのだよ」多くの人々が飢

えに苦しんでいる、体の不自由な人も孤児もあふれているのだ。それに難民の問題もあるではない

か? しかし、あなたはひたすらお金を貯めこんでいるだけではないのか。目を見開きなさい。あな

たは友人だが、あなたは今私の敵になろうとしているのだよ」と言いました。彼は「何故なのでしょ

うか? あなたは私に建物を手放させたいのですか!」と言いましたので、私は答えました。「分か

った。それなら手放さなくてもいいだろう。しかし、遅かれ早かれ、あなたが死ねば、あなたの息子

たちがもっと良い利用をするだろうね。私は自分を少しだけ悦ばすために、あなたをここまで導いて

きたのだ。私はあなたに何を与えているのだろうか? それは真理だ。真理が何か分かるかね? 燃

えさかる炎なのだ!」

 これを覚えておきなさい。真理とは燃えさかる炎なのです。私は彼の大切な財産やお金を手放すよ

うに、彼にとって〝悪い″アドバイスをしたので、もう道で出くわしても私には挨拶もしないでしょう。

 理性をもってエレメンタルを創りなさい。視覚化の技法を手に入れなさい。そうすれば、あなたは

豊かになります。なぜなら、視覚化の極意を得ることが豊かさなのです。そしてキリストは何と言っ

たでしょうか? 「あなたがたは地上に富を積んではならない。(彼は物質的なものを意味しています)

そこでは、虫が食ったり、さびついたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は天

に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み

出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」

 彼は天の国(すべての天国)は私たちの内にあると言っています。では、私たちの真の財産とは何

でしょうか? それはマインドで、具体的には私たちが使うことのできるマインドの量なのです!

これにはマインドを適切な方法で使う、すなわち愚かな目的には使わないという条件が付いています。

 もし私たちがマインドである聖なる超素材を適切に使えれば、私たちにもっと与えられるでしょう。

もし私たちが適切な道に使わなければ、私たちがすでに持っているものでも取り上げられてしまうで

しょう。キリストはそのことについてたとえ話で述べています。

 私たちはもっと多くを与えられたり、求めることに値すべきであり、そうであれば、私たちが求め

ている以上のものを与えられるでしょう。聖書ではこのように示されています。「あなたがたの中に、

パンを欲しがる子供に石を与え、また魚を欲しがる子供に蛇を与える親がいるだろうか?」

 ですから、私はあなたの最善の友として新約聖書をお勧めします。そこにはすべての智恵と情報が

示されています。ヒンズー教の経典に飛びつかないで下さい。私たちの手の中には、真実の宝がある

のですから。

 私は東洋の智恵を過小評価していませんが、しかし何か珍しいものや外来のものに飛びつく 〝舶来

品崇拝″は好みません。私たちの庭で咲く花は、隣の庭の花と同等の質を備えています。私たちの花

の方が、色や質の面でより良いかもしれません!私は近隣の庭に咲く花々を過少評価しませんが、

しかし、なぜ自分の庭の花々を過少評価しなくてはならないのでしょうか?

 ここキプロスでも、私のサークルのある人は、この〝舶来品崇拝〟のように感じます。私は彼らに

言っているのですが、真理の探求者は誰でも、彼が見つけられると感じる何処においても、真理を探

究し見つけ出すことが許されているのです。私たちは自由なのです。人間への神の最初の贈り物は、

自由だったのです。そして、誰からでもその自由を奪い取ることは許されていません。誰でも彼ある

いは彼女の自由を保持しなければなりません。

私たちの巣箱からの蜂は、もし遠くまで飛んで行きたければ、周りにあるどんな庭からでも蜜を集

め、私たちの巣箱に持ち帰ることができるのです。ですから、あなたはすべてを読むことができるの

です。ただ、理性を使わなくてはなりません。そして、私が言いたいことは、真理について語り、そ

して真理である唯一の人は、キリストであるということです。








第16章

生命、パーソナリティー、体、個別性、エレメンタル・

自己分析、自己実現



現在、私たちの周りを見渡せば、ほとんどすべての人々がいろいろな問題を抱えていることが見え

てきます。時には、教育ですら人生を満足のいく道に導くことにあまり役立っていないのです。高等

教育を受けた人でも、教育を受けていない人でも人生の問題に直面していることに気付きます。

 このレッスンで、私は誰でもが自分たちの問題に対処できるようにしたいと思います。先ずあなた

は、肉体における生命が何であるかを理解しなくてはなりません。永遠の生命は神である絶対存在で

あり、何か別のものです。それを理解するてめには、深い思考や瞑想や集中を通じて、自己意識を非


常に高いレベルまで上げていくことが必要です。もちろん、それは誰でもできることではありません。

しかし、人間の形態での生命、あるいは人間としての生命とは一体何でしょうか? これは誰もが知

らなくてはならないことで、それにより各自の問題に十分対処できるのです。肉体の中における生命

とは何でしょうか?

植物界で、木々は成長し花をつけ実を結ぶように、物質形態の中には生命があります動物界の肉

体にも生命がありますが、その生命は人間の肉体にある生命とは非常に異なっています“骨や肉、血

液や多くの臓器は機能して働かなくてはならず、それによりこの肉体における生命システムは一時的

に存在し続け、そして生きています。

 私たちは物質的な体に表現されたあらゆる種類の生命を学ぶことができます。しかし、最も必要な

ことは人間の生命について学ぶことなのです。私はこれが誰もの責務だと考えます。

 世界中の学校で、多くの事が教えられていますが、それらのほとんどは不必要なもので、もし関心

さえあれば図書館で見出すことができるものばかりです。しかし、誰しもが知るべきことの多くは、

学校や家庭で教えられていません。子供たちにこの重要な智恵を教えることが、家族や学校の責務だ

と私は考えます。それは「生命が何であるか?」、「人が生命から何を期待できるか?」、「私たちが生

命をどのように評価すべきか?」、「他の多くのパーソナリティーから離れて、一つのパーソナリティ

ーとしての人間とは何か?」ということです。

 男であっても女であっても人としての肉体は、その素材と物質という面で、ある程度類似していま

す。しかし、すべての人々のパーソナリティーは一人ひとりかなり異なっています。何故なのでしょ

ぅか? 人のパーソナリティーは、その人の体の物質的組成の産物でしょうか? それは少し前まで

はそのように考えられてきたかも知れませんが、それは間違いなく人の肉体の産物でも、肉体の組成

でもありません。

 大変健康な人であっても、愚かな人もいます。科学者で大変に健康な人もいます。天才であるにも

拘わらず、大変虚弱で、またある原因でかなり病弱な人もいます。また、虚弱であり、病気の人で愚

かな人もいます。このように、物質的肉体の状態は、その中に生きているパーソナリティーには何の

責任も負っていません。



 真理の探求者は、物質的肉体の生命について学ばなくてはなりません。また、その肉体を健康に導

く条件について知らなくてはなりません。最初に理解しなくてはならないことは、私たちが肉体では

ないということです。肉体は私たちのものではありますが、人は肉体ではないのです。私たちの学び

の一部門は、肉体の生命についてです。肉体の健康状態をどのようにして保つかということです。

 もう一つの部門は、パーソナリティーを学ぶことです。パーソナリティーを学んで行くと、私たち

がサイキカル体と呼んでいるものの状態を学ぶことになります。なぜなら、私たちのパーソナリティ

ーは、それを構成しているエレメンタルの産物だからです。それらはサイコーノエティカル領域の

生き物なのです。なぜ生き物なのでしょうか?私たちにより創り出された生き物なのです。生き物

とは、創造されたものを意味する言葉です。

 だから私たちは臆せず勇気を持ってパーソナリティーの現在の状態と対面するべきです。なぜなら、

私たちはこの方法によってのみ自分たちの問題を学び、対応することができるからです。そして、そ

れらの問題が男性や女性のパーソナリティーを現在あるような深刻な混乱状態に陥らせ、多くの場合

人を自殺にまで追い込むのです。

 それは、なぜでしょうか? 生命は貴重なものなのです! 私たちは生命の価値を判断する方法を

理解しなくてはなりません。しかし、肉体、すなわち人間の体の中における生命が何であるかを知ら

なければ、それをどのように判断することができるのでしょうか?

 すでに話したように、私たちの学びの一部門は肉体についてです。肉体はエーテル・エネルギーと

呼ばれている力とエネルギーによって生かされ、活動が可能とされています。私たちは鋳型であり、

また肉体を生かし、秩序を保つための媒体であるエーテル・ダブルについて知ることでしょう。観察

と正しい思考と理性的判断によって、健康的な肉体にはエネルギーと力の源であるエーテル・ダブル

がなくてはならないものであるという真理を見つけることができます。それがなければ、肉体は死ん

だも同然です。もし肉体からエーテル・ダブルが取り除かれたら、肉体は崩壊していきます。すなわ

ち、自らを消減させていくのです。

 そのために、私たちは肉体に浸透した部分や周りにあるエーテル・ダブルの機能について学ばなく

てはなりません。そして、それをマスターして、使わなくてはなりません。なぜなら、これ以外の方

法でエーテル・ダブルの存在を確認することができないからです。私たちは両手を使っています。こ

れは私たちが使っているので、その存在を認識することが容易です。私たちがエーテル・ダブルを使

わない限り、それが本当に存在するか確証を持てません。私たちはエーテル・ダブルをエーテル・バ

イタリティーと呼びます。それ自身の中に生命のすべてのエッセンスを持っています。それは生きて

います! 私たちのエーテル・ダブルが生きているので、肉体も生きているのです。

 
さて次に、私たちの現在のパーソナリティーを学びます。それは、自身の言動を学ぶことになり、

感情として、欲望として、弱さとして自身を表現する方法であり、また人生においてパーソナリティ

ーが自身を表現する様々な方法でもあります。このように学んでいくと、エーテル・ダブルを持った

肉体以外に、私たちはサイキカル体(感情体)と呼ばれるもう一つの体があることに気付きます。そ

のサイキカル体を学び、観察し、使っていくと、それ自身に力とエネルギーを与えているエーテル・

ダブルがあることが分かります。私たちのサイキカル体とそのエーテル・ダブルの状態を学ぶことは、

最も重要な学びなのです。これにより、私たちは人間の潜在意識の状態と本質を学ぶことができます。

 多くの心理学者は、それについてあまり知ることなく「潜在意識」という言葉を使っています。私

たちは潜在意識が何であるか知るだけではなく、それを健全で健康的な状態に保つために、その中で

ワークをしなくてはなりません。それは私たちのパーソナリティーに溜まった多くの不徳行為を浄化

することを意味しています。このようにして、私たちはエーテル・ダブルを伴ったサイキカル体があ

ることを知ることになります。しかし、どのようにして、それを見付け出せるのでしょうか? それ

は私たちの三番目の体、すなわちノエティカル体(思考体)を発見することによって可能となります。

 私たちは三つの体とそれに伴う三つのエーテル・ダブルを持っています。私たちの肉体は健全な秩

序に保たれなければなりません。そして、そのエーテル・ダブルの機能を学ばなくてはなりません。

先ず、私たちはサイキカル体とそのエーテル・ダブルがパーソナリティーの主要な体であることを知

り、欲望である感情をマスターすることにより、その体の上や内でのワークを通して、私たちの表現

の状態を知らなければなりません。それから、私たちはノエディカル体の存在に気付かなくてはなり

ません。そのために、どうすれば良いのでしょうか? 先ず最初に、その隷属状態から解放すること

が必要です。


 教育や社会的成熟度に関係なく世界中の人々の90%は、彼らの欲望や感情や弱さに仕えるためにマ

インドを隷属化しています。このことが、人間が自分たち自身に見ることのできる混乱の理由なので

す。

 真理の探求者は感情から、道理や理性や正しい思考を切り離さなくてはなりません。それにより、

サイキカル体とノエティカル体の両方を強化することができるでしょう。しかし、感情と思考は非常

に絡み合っているために、ある秘儀的教えにおいては、サイキカル体とノエディカル体を合せてサイ

コノエティカル体と呼んでいます。私たちはそれらを分けて呼び、分けて理解し、個々に働きかけて

マスターする方が好ましいと考えます。

 私たちのほとんどは、クリスチャン(キリストの教えに従う者)です。これらの偉大な真実は、私

たちの宗教である福音書に著されているのでしょうか? その通りです。大変霊的に成長した神秘主

義者であった聖パウロは、それらについて知り、言及していただけでなく、それらを使っていました。

彼は肉体、サイキカル体、そして私たちがノエディカル体と理解しているものをスピリチュアル体と

呼んで話をしています。しかし、私たちはこの関連でスピリット(聖霊)という言葉を使いません。

なぜなら、神は聖霊(スピリット)であり、私たちの真実の自己も霊(スピリット)だからです。私

たちはノエティカル体という言葉を選び、さらに同じ体で高次の意識レベルのものをノエティック体

と呼んでいます。このように、ノエティカル体とノエティック体とは一つのもので、低次と高次とし

て分かれているのです。私たちはそれらを学び、活用することになります。

 以上を由としても、しかし、これらの体は生命に関係しているのでしょうか? 私たちが生きてい

る人生とは、人間の体における生命なのでしょうか? それとも、これらの体からの結果なのでしょ

うか?

 私たちはこれらの体なのでしょうか? これらの体は私たちがマスターし、利用しなくてはならな

い私たち自身のものなのでしょうか? 明確に言えることは、私たちがこれらの体ではないというこ

とです。これらの体は形態を持っていて、その中で私たちは生きていかなくてはならず、生きる存在

として私たち自身を表現していかなくてはなりません。


 「永遠の存在」は、重要な言葉です。私たちは神を永遠の存在と呼びます。さて、一時的な存在と

永遠の存在との違いとは何でしょうか? また、一人の永遠の存在と一人の生きる人との違いは何で

しょうか? これらは大切な質問です。

 私たちはこれらの諸体の機能、すなわちエレメンタルを創造することにより、私たち自身の現在のパ

ーソナリティーを作り上げています。しかし、それは私たちの真実の自己ではありません。それは生

命でもありません。私たちはこれらの生きているエレメンタルが私たち自身であると考えてしまう過

ちを犯しているのです。私たちはこのパーソナリティーとは異なったもので、「個別化された自己」

なのです。


 形態や素材は類似していても、すべての人間のパーソナリティーは質において異なっています。で

は、「個別化された自己」はどうでしょうか? 「個別化された自己」とは魂のことです!これが、私

たちが見出さなくてはならないものであり、私たちが何であるかを知るためのものです。この種のパ

ーソナリティー、言い換えると三つ体の構成をもって、常に変化しているものは死すべき運命をもっ

た存在です。しかし、私たちは「魂・個別化された自己」として異なったものであり、真実の存在と

言えます。それは不滅で永遠の存在なのです。


 感覚を持った男、または女としてのパーソナリティーと、私たちの真実の自己である「魂-霊と

しての自己」との違いは何でしょうか? 私たちはそれを見出さなくてはならず、私たちのパーソナ

リティーをその自己意識へ同化しなくてはならないのです。それにより、私たちは一人ひとりのパー

ソナリティーを失うことにはならないのです。

 「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることにな

ります」と聖書に著されていますが、これは高い地位の聖職者でさえ、最も誤って理解している一節

です。最愛なる「神-人」が何と言われたのかを彼らに尋ねてみても、彼らは説明できないでしょう。

しかし、私たちはそれに真実を見出すことができるのです。


 さて、私は人間の概略図を示してきました。それはパーソナリティであり、三つの体であり、この

ようにパーソナリティーを構成しているものであり、また三つの体としての総体であり、これらの体

を通して受け取った印象なのです。ノエティカル体やノエティック体についても話しました。そして、

これらのものを真実の生命としての自己から分けて考えることにしました。


 私たちは自分のパーソナリティーを自己と呼ぶ誤りをしています。このパーソナリティーとしての

自己は、日々、月々、また年々変わっていきます。どのようにして変わのていくのでしょうか? そ

の表現や興味、感情や欲望の質に応じて変化していきます。また、思考も変化していきます。しかし、

私たちは変化していません。私たちは生命で、生きています。私たちが集中や瞑想、そして観察や内

省と呼んでいるものを実践し、その時間の経過と共に、私たちの自己意識をさらに高い段階やレベル

に引き上げることができるのです。そして、私たちの時間と場所と空間に制約されたパーソナリティ

ーを私たちの真の本質、すなわち「魂-霊」に同化させることが可能となり、真理を見出すことに

なるでしょう。


 私たちはそれをアチューンメントによって同化します。これには私たち自身によるかなりの努力と

学習と真撃さが求められます。それにより、私たちの感受性の領域が拡大されていることに気付く段

階に到達します。パーソナリティーとしての私たちは、物質領域やサイキカル領域やノエディカル領

域の印象で近距離だけのものを、かつ幻想的にしか受け取れません。しかし今私たちは、その幻想の

裏に真実があることを知っています。私たちはその幻想を超えることにより、真実を見出すことがで

きます。そして、この種の学びにより、私たちはいずれ自己実現と呼ばれる状態に到達することがで

きるのです。



 もう一つの大きな問題は、自己が何であるかを定義し、個人的に知ることです。もし誰かが、あな

たに 「あなたは誰なのでしょうか?」また「あなたの自己とは何なのでしょうか?」と尋ねた時に、

次のように答える誤りを犯すかもしれません。「私の自己とは、一人の男(あるいは、女)で、私の

興味や考え方や行動の仕方を持っている、そんな現在の意識状態にあるものです」、これはまったく違

っています! これは私たちの自己の影にすぎません。それはあなたの自己ではありません。なぜな

ら、それは常時変化し続けているからです。私たちは継続的な変化の世界で生きていますが、私たち

の自己は決して変化しないのです。


 「魂-霊としての自己」である私たちは、過去にも存在し、現在も常に存在し、また将来にも存在

し続けます。「霊-魂としての自己」は不滅で永遠の存在なのです!

 あなたは「はい、でも私はなぜそれを知らないのでしょうか?」と言うかもしれません。もしあな

たが少しだけ内側を見ようとすれば、それを知ることができるのです。パーソナリティーとしての自

己は、物事に対する注意をいつも外だけに向けます。内在するものを観ること、それが内省です。そ

れは私たちの自己を見ることであり、また、私たちの真実の自己を観ることになります。それから、

目を外側へ転じることができます。そうすると、場所や空間、環境や局在性、そして私たちの周りの

すべての状況が何を意味しているかを理解できるようになります。外の世界において、人生が私たち

に与えているものは、本当の満足をもたらすようなものではありません。なぜなら、外側からの物事

は一時的な満足を与えるだけのもので、幸福からはほど遠いものだからです。


 私たちに内在するものを観ることにより、物事を学ぶことができます。しかし、このことは、私た

ちが生きることをやめ、理性や修得した新たな力を使って物事を外側から理解することを止めるべき

だと言っているわけではありません。内側を観ることとは、私たちの真の自己を探求し見出すことを

意味しているのです。


 私たちはこの物質界を最初の天の王国と呼んでいます。しかし、それが全てではありません。最愛

の「神-人」であるジョシュアは、何と言ったでしょうか?「天の国はあなたがたの内にある」(七

つの天国を辿ることができます)と言いました。私たちはこれらの天国を見出すことができるのでし

ょうか? 私たちはこれらの天国の内で生きることができるのでしょうか?

 私たちは遅かれ早かれ、真の本質である「霊-魂」という故郷へ戻らなくてはなりません。私た

ちは物質形態の中にいつまでも留まるわけではありません。一つの形態としては留まりますが、物質

形態と同じようにサイキカル形態やノエティカル形態の中に存在していきます。しかし、それは重く

粗い物質の中ではありません。私たちは先ず初めに、私たちの内に天の国を見出さなくてはなりませ

ん。私たちの内と言うことは、私たちの三つの体の中という意味ではありません。それは「霊-魂」

としての私たちの真の本質の内にあります。それは何でしょうか? それが生命自身なのです。私た

ちは「生命は神である」と言いました。このことについて、キリストは何と言っているでしょうか?

「あなた方は神であり、全能なるお方の子である。あなた方すべてが……」と述べ、人問であるす

べての人々が、そうであると言っています。もちろん、これらを理解するためには学びと分析が必要
となります




ただ闇雲に学び信じることは意味がありません。学び、理解し、そのように生きることが必要なの

です。すなわち、真理と共に生きることです。どのようにすれば良いのでしょうか? どのように行

動するのでしょうか? 私たちは内省を通して、それを探索することができます。神が基本元素(エ

レメント)の主である聖なる大天使たちの協力の下で、人間に人間の形態を与えることを決断された

時、神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われました。彼は話したのでしょうか?

 
いいえ、彼はご自身の願いと喜びを波動させたのです。それを聖なる大天使たちがアチューンメン

トにより受け取り、協働して人間の体を創造し始めたのです。

 人間の創造、男あるいは女としての人間の体は、精子から始まり、自然の方法により創造されるた

めに、神は体(他の二つの体も)が女性のお腹の中で創造され、子供として生まれてくることを決め

ました。これは偉大な神秘です。

 母親が出産をします。赤ちゃんは物質界に現れ、呼吸をし、泣き、食べ物を求めます。こうして、

男の子、あるいは女の子の人生が始まります。母親はその子供の体について何を知っているのでしょ

うか? 頭蓋骨の中に脳はどのようにして機能するのでしょうか? 赤ちゃんは呼吸をしています

が、呼吸と呼ばれている動きとは一体何なのでしょうか?

 観察により、誰でもこの偉大な真理を理解することができます。そして、もし適切に考えるならば、

私たちは創造主、あるいは創造者たちを賛美すべきです。これらすべてのことは、意識的に気付かれ

ることなく通り過ぎていくのです。

 私たちは子供がどこから来たかなど気にもせず、成長していくのを目にします。それを知ることは

可能でしょうか? もちろん、それは内省により可能です。私たちは今ここに私たち自身を発見しま

す。なぜでしょうか? 観察により、私たちは答えを必要とする限りない「なぜ」を発見することで

しょう。このことに答えがあるのでしょうか? もちろん、あります。どのようにすれば、答えを見

出せるのでしょうか?

 神が私たちを創造された時、彼は歩くための足を、作業するための手を与えてくれました。彼はま

た利用し働かせるための心を与えてくれました。私たちはそれを使っていますか?心を使っていま

すか? 論理的に考えていますか? 観察において、心を使っていますか? その時に、注意を払い、

この世界の私たちの周りで起きている物事を知り把握しょうとしていますか? この世界での私たち

の本当の役割は何なのでしょうか? 私たちの人生の目的は何なのでしょうか? 人生とは何でしょ

うか? 人間の形態である人体の中にある生命とは何でしょうか?

私が言いたいことは、学ばれるべき最も大切なことが、家庭でも学校でもほとんど教えられていな

いということです。真理の探求者は、私たちの現実についての真理を教えようとしています。現実に

おいて、私たちは何なのでしょうか? 命とは何でしょうか? 私たちは神を信じるようにと言われ

てきました。神とは何を意味しているのでしょうか? 神を信じることとは何を意味しているのでし

ょうか? どの神を信じたら良いのでしょうか? 神は私たちが神を信じることを必要とされている

のでしょうか? もちろん、そんなことはありません。

私はある科学者が「あらゆる神々は間違いなく自分たち自身を惑わす必要があった人間たちによって

て創造されたのである」と言っているのを耳にしたことあります。もちろん、私たちはあらゆる時代

を通して、人々が恐怖や必然性に応じて神々を創造したことに同意しています。それらの神々は存在

したのでしょうか? また、彼らは現在もまだ存在しているのでしょうか? はい、彼らは存在しま

したし、今もまだ存在しています。彼らがエレメンタルと呼ばれているものをまったく知らなくても

関係ないのです。


 聖書でキリストは、このエレメンタルについて語っています。真理に関するすべてを新約聖書の中

に発見することができます。エレメンタルはマインドからつくられ、形態である形を持っています。

それは多くの人々によって保持されることによりその力を増します。これは間違いないことですが、

それらを信じる人々に仕えるためにつくり出されます。それらを偽の神々と呼んでもかまいませんが、

それらは信じる人々に仕えてきたのです。人類の発展と共に、これらの神々のあるものは捨て去られ

てきました。


 もし無神論者が私に「すべての古代の神々は、人間によって創造された」と言うとすれば、私は同

意しますが、一つの質問を付け加えます。「誰が人間を創造したのでしょうか?」と。あなたはあな

た自身を創造した超知性を否定するかもしれません。あなたはそれを単純に周辺の状況と呼びます

か?それを物質と呼びますか? そうであれば、あなたは唯物論者です。なぜなら、あなたは物質

に神聖なる特性を与えているからです。物質から超知性の神聖なる特性を分けて何がいけないのでし

ょうか? なぜなら、物質は利用され、支配されてしまいます。超知性はどうでしょうか? 誰があ

なたの脳をつくり、頭蓋骨の中に納めたのでしょうか? 誰があなたの心臓に鼓動を打たせているの

でしょうか? もしあなたが彼を神と呼びたくなければ、永遠の生命と呼んでもかまいません。ある

いは、生命と呼んでもかまいません。生命とは何でしょうか? あなたが生命現象を学べば、生命が

何であり、神が何であるかを理解できることでしょう。



 神は私たちが生きるための肉体を与えてくれています。愚かな生活の仕方により、いわゆる健康を

害したり、適切な機能に障害を与えない限り、その肉体は完全な状態におかれています。そして、基

本元素の聖なる大天使たちは協力し合って、私たちの肉体を秩序ある状態に保つために休むことなく

働き維持してくれています。私たちは肉体に適切な食べ物を与え、きれいにしている以外、肉体に特

別な世話をする必要がありません。


 すでに話したように、私たちにはサイキカル体を構成するためのサイキカル素材が与えられていま

す。それは形態として、肉体とまったく同じ形をしています。私たちはそれとワークをしなければな

りません。なぜなら、その特質は私たちの現在のパーソナリティーの質となるからです。主にサイキ

カル体に働きかけなくてはなりません。それを知る前でも、利用する前でも、肉体とは独立させた形

でそれを浄化することができます。私たちの感情と欲望の本質を知ることにより、それらがどのよう

につくり出され、どのように対応すべきか、どのようにしたら私たちのパーソナリティーをその奴隷

にさせないか、あるいはどのようにしたら私たち自身のエレメンタルの奴隷にならないようにするか

を学ばなくてはなりません。



私たちはエレメンタルの本質を学ばなくてはなりません。それらは見えなくても、大変な力を持っ


ているからです。透視能力者や予言者を除き、ほとんどの人はエレメンタルを見ることができません。

それらを目にすることができなくても、誰でもその影響下にあります。エレメンタルは私たちを苦し

めています。そのことに気づかず、それらから身を守ることを知らない人々を苦しめているのです。



そのために、私たちは欲望や感情を学ばなくてはなりません。また、エレメンタルがどのようにして

私たちの生命に関係してくるか、どのようにしてつくり出されるかを学ばなくてはなりません。これ

らのエレメンタルが現在のパーソナリティーを構成しているのです。最も慈悲深き神は、理性として

使うためにマインドを与えてくれました。人間にとってマインドを使わないことへの言い訳はありま

せん! マインドを使うことにより、私たちは本当の「パーソナリティー・個別化された自己」と

して、私たちが何であるかについて時間の経過の中で気付くことになるのです。名前を持ちながらも、

私たちが魂であることを感じることができます。これが取るべき最初のステップとなります。



 マインドを使い始めると、あなたはもっと力が与えられます。あなたが手を使い、訓練しない限り、

あなたの手は決して強くならないでしょうし、またどんな技量も身に付けられないでしょう。マイン

ドについても同様です。マインドは人間の脳ではありません。人間の脳は充電器のようなもので、電

気がない限り、それは何の役にも立ちません。ですから、物質的な脳はマインドを使いパーソナリテ

ィーによって利用されるものなのです。それを通して、自分自身を感情的に、また動的に表現するた

めのものです。

 私たちはこのような生き方について学ばなくてはなりません。何を見出すことができるのでしょう

か? 私たちのサイキカル体を開発させていくと、私たちの自己意識を肉体からサイキカル体へ移行

することができるようになります。先に述べたように、サイキカル体とノエディカル体は形態として、

肉体と同じような形です。なぜなら、肉体はこれらの体の結果だからです。では、サイキカル体の頭

には、肉体の頭にあるような脳があるのでしょうか? いいえ、ありまぜん。サイキカル体全体は思

考の源です。私たちの肉体に五官があるように、サイキカル体には視力や聴覚や触覚の器官があるの

でしょうか?

 いいえ、ありません。サイキカル体を構成する一つひとつの粒子が眼であり、耳であり、脳なので

す。しかし、それを使うためにはあなた自身を訓練しなくてはなりません。使い方を学ぶことにより、

時間の経過と共に、あなたは超自己意識と呼ばれているものを得ることでしょう。私たちは肉体のエ

ーテル・ダブルを訓練することによっても、この種の超自己意識を得ることができるのです。

 
肉体は私たちが使っている体の内で一番弱い体です。私たちの意識は、もっと訓練され善なるサイ

キカル体の中で、もっと楽に生きられるのです。ほとんどの人々を苦しめている感情や思考や欲望を

マスターしない限り、私たちは訓練された善なるサイキカル体を得ることはできないのです。

 そのためには、もっと多くの学びと、内省と、そして欲望と感情をマスターするための意志が必要

となります。私が言いたいことは、その最初のステップであり、最も重要なことは、私たちの心を理

性と思考を使って、欲望と感情の奴隷から解放することなのです

   

    【訳注】*思考の源‥サイキカル体は通常感情の体として理解されているが、感情を持つ
         ためには先ず思考が起きなくてはならない。サイキカル体の中で、思考は単に
         脳の中を通過するようなものではなく、サイキカル体全体を通過してくるため
         に深い意味として〝思考の源″と表現することができる。


 これが物質界で私が本当の人生と呼んでいるもので、健全な心と理性を備えたパーソナリティーの

ことです。あなたの周りのあらゆる生命の状態を学べば、人々が直面している非常に多くの問題や、

それにより彼らを絶望と混乱へ追いやっている真の原因が見えてくることでしょう。私が述べたよう

に、観察と学びと瞑想とによって、その原因を見出すことができるのです。それらは、制御できない

ような欲望や感情であり、私たちを不満へ押しやっていきます。そのため、私たちは理性を使って、

これらの欲望や感情の本質を学ばなくてはなりません。これらの欲望や感情がどのようにつくり出さ

れるか観察しましょう。そして、それらが私たちのパーソナリティーを意のままに操り、マインドを

これら欲望と感情の奴隷にさせてしまう前に、それらについて考え、どのようにコントロールするか

を学びとりましょう。


 このことは誰にでも毎日起きていることなのです。人はそれらをコントロール、あるいはマスター

できず、欲望と感情の奴隷になって生きているのです。これこそが人間にとって根源的な問題であり、

人々を混乱と絶望に追いやるのです。そして、私たちの周りに数え切れないほどの他の問題をもつく

り出しているのです。どのようにすれば、この間題に対処することができるのでしょうか? それに

は、正しい思考しかありません。


あなたは問題を心に浮上させなくてはならないでしょう。その分析を始め、それに多くの「なぜ」

を使い質問します。そして、時間の経過と共に、私たちはこれらのエレメンタル(すべての感情や欲

望がエレメンタルです)を非活性化することにより、いろいろな状況のマスターになっていきます。

他に方法はありません。


エレメンタルの虜になり、自分の欲望や感情に溺れることによって、私たちは自身をエレメンタル

の奴隷にしてしまい、私たち自身の内に混乱と不満をつくり上げてしまっているのです。ですから、

私たちに必要なものは私が〝自己分析″と呼んでいるものなのです。これは自己によって行なわれま

すが、この自己とは現在のパーソナリティーのことです。これはある種の自己で、私たちの真実の「霊

-魂としての自己」の影であって常に変化し続けています。私たちは自己のその部分を浄化しなくて

はなりません。なぜなら、いわゆる自己と呼ばれているその部分に混乱が起きているからです。私た

ちの「霊-魂としての自己」は決して混乱することはありません。


 難しさは現在のパーソナリティーを「個別化された自己である私たちの真実の自己」にアチューン

メントすることにあります。パーソナリティーとは、私たちの表現であり時空間場所における一時的

な存在です。しかし、私たちの真実の自己は魂として「個別化された自己」なのです。そのために、

努力は現在のパーソナリティーから始められるべきです。なぜなら、それが利得をこうむるものだか

らです。私たちは先ず、パーソナリティーとしての自己について知り、理解することから始め、それ

からその自己を高次の自己に同化するための欲求を感じることへ進みます。


 これらの欲望や感情の本質を知り、それらが人に満足を与える方法を理解しない根り、人は欲望や

感情を引き起こす欲求や弱さから自己を完全に自由にすることはできません。これが、与えられた状

況と条件における正しい思考と私が呼んでいるものです。このタイプの瞑想は有益ですが、何処にも

導かないような他のすべての瞑想(東洋で提供されている)とは大変異なっています。私は〝内省〟

と呼んでいます。それは内在するものを観ることであり、「自己分析」なのです。患者を苛むエレメ

ンタルの重荷から如何に解放させるか、その方法を知ることがすべての精神分析医の目的であるべき

です。これらのエレメンタル、すなわち「マインドによる感情形態」は、理性で非活性化することが

可能です。そうすれば、私たちはそれから解放されるでしょう。

 
私たちがあらゆる感情をあきらめるべきだと言っているのではありません。精神的に気高い感情も

あります。私たちはこの惑星上で感情をマスターするために存在しています。それは私たちの人生か

ら感情を完全に追放することではありません。私たちはこの惑星上で物質を楽しむために存在してい

ます。絶対存在が私たちに肉体を与えてくれていることをなぜ考えないのでしょうか? なぜ基本元

素の聖なる大天使たちは、これらの肉体の中でいつも働き続け、私たちがその中で生きて行けるよう

に秩序を保ってくれているのでしょうか? その裏に大変崇高な目的がなければ考えられないことで

す。

 あなたの足が被った深い傷から苦しんでいる時、医者は傷が治るように何針か縫ってくれるかもし

れません。また薬をくれるかもしれません。しかし、誰が本当に傷を治しているのでしょうか? 医

者や薬はある程度の助けにはなりますが、本当の回復は生命自身、すなわち神によって行なわれます。

基本元素の聖なる大天使たちは、肉体の中で働き、傷を癒してくれます。聖なる大天使にとっては、


その肉体が最も貴重なものなのです。なぜあなたにとって貴重ではないのでしょうか? それを尊重

しなさい。そうすれば、人生を再評価することになります。あなたの肉体の秩序を保ってくれている

大天使たちに感謝しなさい。あなたが人生を再評価するための最初の一歩です。「神-人」であるジ

ヨシュアは「私たちの肉体は神殿である」と述べています。


現在のパーソナリティーとしていろいろな不徳な行為や弱さや愚かさがあるにしても、私たちは全

能者の子であり、肉体の中で生きることが許されているのです。そのため、大天使たちはその体を良

い状態に維持するために常に働き続けているのです。あなたのすべての体の健康を保ってくれている

彼らに感謝しましょう。そして、彼らに協力しましょう。

 愚かな人生の生き方が病の原因です。すべての病は私たちの罪と自然の法則への背信行為の結果で

す。私たちはそれらすべてを学び、人生の価値を認め、それにかなった人生を送らなくてはなりません。

瞑想

最初に、あなたの肉体の中で完全にリラックスしましょう。まず、足から完全にリラックスさせま
しょう。それから、下肢、もも、おなか、太陽神軽叢を完全にリラックスさせましょう。呼吸を深く
楽に続けて下さい。次にあなたの手、腕を完全にリラックスさせましょう

あなたはあなたのその体の中に存在しています。「あなた」とは何を意味しているのでしょうか?
「わたし自身」とは何を意味しているのでしょうか?あなたはあなたの体の中にある、その感じて
存在なのです



 しかし、今この瞬間、聖なる大天使たちがあなたの体の中で働いてくれています。すべて

の人間の中で、聖なる大天使たちが働いてくれているのです。ミカエルの階級の無数のミカエルの内

の一人が、炎と温かさと光の主として働いています。ガブリエルも液体の主として働いています。ラ

フアエルの階級の無数のラフアエルの内の一人も働いています。また、ウリエルは調整役の大天使と

して、力のバランスを取るために働いてくれています。

 彼らはあなたの三つ体の中で最も賢く協力し合って、体の秩序と生命を持続させるための環境を創

造しているのです。肉体は真実においてあなたの生命ではありませんが、彼らはその肉体の命の世話

をしてくれているのです。そして、あなたはその体の中で生きています。あなたの真の生命は、肉体

の命からはかなり異なっているのです。

 将来、あなたは自分の肉体のマスターとなり、彼らと協力し合えるようになることでしょう。なぜ

なら、あなたも真実において、彼らの一人であり、大天使だからです。

 さて、あなたの肉体でミカエル、ガブリエル、ラフアエルは協力し合って創造性を使って働いてく

れています。あなたは今、肉体を持っています。それを感じて下さい。あなたはその中にいます。心

の中で彼らに感謝しましょう……ただ、あなたの意志の中で感謝を捧げましょう。彼らはあなたのた

めに大変多くのことをしてくれています。血液をつくり、循環させ、呼吸をさせています。ラフアエ

ルはあなたのためにエーテル・バイタリティーを受け取ってくれます。彼らはあなたの消化器官で働

いています。彼らはあなたの脳の秩序を保っています。彼らは体の機能を健康で完璧な方法で維持し

てくれているのです。彼らは協力し合って、全能なる存在が日々あなたに与えてくれるエーテル・バ

イタリティーを無駄にしないようにしています。「私たちに必要な糧を今日与えて下さい」私たちが

求めようとも、求めざるとも、彼らはそれを私たちに与えてくれます。それが生命です。

 では、深く呼吸して、そして絶対無限の知性に感謝しましょう。それが神であり、ロゴスであり、

聖霊であり、そしてあなたの三つの体の中で働く聖なる大天使たちです。今、その聖なる大天使たち

があなたの肉体の中で働いてくれているのです。

そのかけがえのない生命を感じましょう。生命以上に貴重なものは何もありません。

聖なる大天使たちは、あなたに何も求めることなく、あなたを愛しています。もし、あなたがあな

た自身とあなたの体を愛すれば、彼らは喜びを現します。彼らの創造的な働きを評価しましょう。生

命の価値を見出しましょう。







  第17章

肉体の死、永遠の原子、永遠のパーソナリティー、オンドピイシス



 今日は、肉体の死という現象について語りましょう。これは現実のことです。

 何世紀にも亘り、何億人もの人々に恐怖を与えてきた、この現実とは一体何なのでしょうか? 肉

体の死とは何なのでしょうか?

 私たちが述べてきたことは、肉体とは始まりのある体であるということです。帰結的に、始まりの

あるものは終りがなくてはなりません。その始まりから終りまで、それは継続的な変化を経験してい

きます。聖パウロは「私は日々死ぬ」と述べ、死について語りました。彼は継続的な変化を意味した

のです。

 人のパーソナリティーとしての自己認識は自分を肉体と考えていますが、一体どんな種類の変化を

経験するのでしょうか? 先ず最初は、体が成長する中で、肉体の分子や原子や細胞が継続的な変化

をしていきます。私たちが理解していることは、体が成長していく時、神聖なる法則である全知の法

別に従って維持され、生命を保ち、変化していくということです。


 また、何世紀もの間、すべての人々の肉体は全なる知恵と神聖なる法則の下にあることを知ってい

ます。それは存在としての循環を完了することを意味し、神聖なる法則により、賢く前もって運命付

けられているものであり、ある特定の目的に仕えるために決められているものなのです。

 何世紀も前から現在まで、人の誤りは、肉体を持った存在としての循環性の目的を知ろうとする関

心がなかったことです。このことが死の恐怖を説明しています。譬えで説明しましょう。私たちがユ

ーカリ樹の小さな種を目にするとします。この小さな種はこの木の生命の全循環を含んでいます。さ

て、このユーカリ樹をたくさんの小さなかけらに刻んだと仮定してみましょう。

 もし、その木の破片で種ぐらいの大きさのものを手に取り、科学者に渡したとしましょう。彼は種

に発見できるものと異なるものは何も発見できないでしょう。

 私が種ではなくその木のかけらを大地に埋めれば、それらは分解されるでしょう。なぜなら小さな種に含ま

れている神聖なる意志の喜びによる実現性も蓋然性もそれには含まれていないからです。人間が最初

に、全なる智恵、全なる力、全なる愛の下で、聖なるモナドの一条の光として地上に降下した時、人

は三つの永遠の原子を創造しました。

 それらは極小でありながら、その一つひとつは人間の生命に関するすべて、および潜在意識の記憶、

経験として刷り込まれたすべてを包含しているのです。


三つの永遠の原子について

 最初の永遠の原子は低次のノエディカル体の超素材から創られています。それはもちろん四次元に

存在します。二つ目は、サイキカル体とサイキカル界の素材から創られています。それはもちろん四

次元におけるあらゆる実現性を包含しています。三つ目の永遠の原子は、物質素材から創られていま

す。

 それはエーテル素材から創られた物質的原子ですが、しかし永遠であり、不滅なのです。三つの永

遠の原子が揃って、いわゆる永遠のパーソナリティーが私たちに与えられているのです。これも永遠

で不滅です。

 人間が転生のたびに新たな永遠の原子を創造するとは考えないで下さい。何十万年前のある人の最

初の降下の時に、その人が物質素材から永遠の原子を創ったのです。都度の転生で永遠の原子が変わ

ることはありません。



 それぞれの転生はその人の生命を記録した大きな本の新たな一ページとなります。彼の経験はその

本の智恵となります。一つひとつの転生で新たな肉体が、物質としての永遠の原子の回りに造られま

す。同様にして、新たなサイキカル体がサイキカル素材による永遠の原子の回りに造られます。そし

て、新たなノエティカル体がノエティカル素材による永遠の原子の回りに造られます。

 このように、三つの体は変化し機能を失い、そして分解され廃棄されます。そして、新たな体が永

遠の原子のあらゆる粒子の回りに準備されるのです。しかし、次のことに十分注意して下さい。

 永遠の原子の回りにつくられるものは、過去に記録されたすべての産物なのです。過去に永遠の原

子に記録されたものにより、超素材から新たな体を創造するのは、聖霊と四つの基本元素(火、水、

エーテル、大地)の大天使たちです。ですから、あなた自身は基本元素ではありません。

 基本元素とは素材であり、私たちの体を造るための物質なのです。私に言えることは、三つの体が

私たちの神のいます所、すなわち神殿であると言うことです。

 さて、これらの永遠の原子と私たちとの関係は何なのでしょうか?

 さらに、それらと私たちの関係を、自己認識、超意識、意識的そして潜在意識的自己認識の立場か

ら理解する必要があるのではないでしょうか? 時間の経過と共に、完璧で完全な永遠のパーソナリ

ティーとしてのこれら永遠の原子は、「魂-自己認識」としての自己のレベルに到達するでしょう。

そして、「魂-自己認識」へ〝オンドピイシス″を与えることでしょう。

 「オンドピイシス」は目的なのです。それが目的である以上、たった一回の転生で見出されるもの

ではありません。教育や学びの目的は幼稚園や小学校、あるいは高等学校や大学に一日通ったからと

いって達成されるものではありません。もしあなたが一日だけレッスンを受けても、教育の目的を理

解するのは困難でしょう。
   

 【原注】 *オンドピイシス‥この言葉「オンドピイシス」(Ontopeisis)を翻訳することはでき
       ません。ギリシャ語でonはbeing(永遠の存在)を意味し、peisis.はto become(~
       になる)を意味する言葉です。
      「オンドピイシス」はテオーシスと緊密に関係した言葉です。テオーシスは「霊lエゴ」と、
       その人の啓示や一体化を人間の観点から見た表現で、一方、「オンドピイシス」は「
       霊lエゴ」の観点から見た表現です。すなわち、後者は人間のイデアを適して投影され
       たことにより「霊-エゴ」が習得したものであり、
       テオーシスに至るまでの地上でのその生命のことです。私たちがテオーシスを通じて
       私たちの兄弟であり、善だけを知る大天使たちよりさらに完全に近く〝満たされた存
       在〟として戻ってくるのです。

 



 さて、私たちは真理の探求者としての目的が、絶対存在の中における聖なるモナドとしての自己の

「オンドピイシス」であることを知っています。そして、これが神聖なる恩恵なのです。なぜなら
天なる父である絶対存在は彼の子供に自分が完壁であるのと同じように完璧になってほしいのです。

もし、聖なるモナドがすべてのイデアや宇宙のあらゆる知識をマスターし、またマインドによる宇宙

の神聖なる表現をマスターできなければ、聖なるモナドとして完璧にはなれないでしょう。結論的に、

絶対存在の中で十分に準備のできた聖なるモナドが経験するワークは、神聖なる計画を支援するため

であり、お返しに義務を果たすためのものです。


 永遠のパーソナリティーの自己認識は、何世紀にも亘り肉体の中で生きてきているため、重く粗い

物質、サイキカル物質素材、ノエディカル素材、そして超素材のマスターとなっているために、その

体(形態や概念、ノエティカル・イメージや思考を持った)にある智恵の表現であり、もはや〝マス

ター″を超えた存在ではないでしょうか? それはおそらくロゴスや惑星レベルのロゴス、あるいは

それ以上の存在かもしれません。タラントンのたとえ話を思い出して下さい。五袋の金貨を預かった

者が帰ってきて言いました。「御主人様、五袋お預けになりましたが、御覧下さい。他に五袋もうけ

ました」主人は彼に言いました。「忠実な僕だ。よくやった。お前は少しのものにも忠実であったから、

多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」

 キリスト信仰者の何人が、このたとえ話を理解できるでしょうか?さて、肉体の死が起きた時、

一体何が起きているのでしょうか?

 疲れた肉体は捨て去られます。それは無益なもので、永遠のパーソナリティーにもはや仕えること

ができません。永遠の原子は知っていること全て、そしてサイキカル原子とノエティカル原子の経験

の全てを既に記録しているので、それは直ちにノエティック界へ引き上げられます。サイキカル原子

には何が記録されているのでしょうか? 出来事も記録されるのでしょうか? 詳細も記録されるの

でしょうか? 必ずしもその必要はありません。サイキカル原子は、これらの出来事がつくり出す感

情的波動を記録します。それは私たちが精神的な状態と呼んでいるものです。

 出来事のより完壁な記録は、ノエティカル原子に記録されます。なぜなら、それは低次のノエティ

カル体の思考によってなされるからです。人間の生命の完全な記録は、ノエディカル体の永遠の原子

に刻まれます。これらの成り行きから、他の永遠の原子と共に働いてきた肉体の永遠の原子は、もは

や必要がなくなります。なぜなら、提供するものが何もないからです。そのため、それはノエティッ

ク界へ引き上げられてしまいます。


【訳注】 *タラントンのたとえ話‥新約聖書、マタイによる福音書25章14~30節に著されて
        いるキリストのたとえばなし

        タラントンとはローマ時代に銀を計量するのに使われた単位に由来するが、ここ
        では貨幣単位として使われている。この譬えばなしで
        5タウントンとは人間の肉体とそのエーテル・ダブル、サイキカル体とそのエーテ
        ル・ダブル、そしてノエティカル体を指し

        貨幣を増やすとは霊的な意識の成長をさすとダスカロスは解説している。


  

肉体の永遠の原子の座は、赤ちゃんが最初の呼吸をする瞬間から心臓に発生します。吸い込む息と

吐き出す息とは、肉体の永遠の原子の役割です。心臓の鼓動も肉体の永遠の原子の役割です。肉体の


中のひとつの原子や細胞の組成は、この力強い物質の永遠の原子によって促進されます。それは

白銀の糸が始まる点なのです。過去の神秘主義者はこの白銀の糸を〝帯″と呼んでいました。


 肉体の永遠の原子が肉体を離れる時、肉体は分解されます。人の自己認識が体外離脱において、サ

ィキカル界、またはノエディカル界へ行くために引き出される時、肉体は一種の睡眠状態中で生き続

けていきます。それは死ぬことはありません。なぜなら、肉体の永遠の原子が、物質の心臓に留まる

からです。それには、純粋に重く粗い物質における働きがあるのです。

 肉体の新陳代謝や機能は、肉体の永遠の原子の仕事です。物質の永遠の原子は朽ち易くみえます

が、しかしそれは不滅なのです。人が肉体に生きている限り、永遠の原子の回りで作業が継続的に行

われています。これが私たちに生命現象をもたらしているのです。あなたが肉体の永遠の原子につい

て瞑想する時、あなたはそれが絶対的な全なる智恵の中で、どのように働いているか分かるようにな

るでしょう。

 さて、ここで注意をして下さい。肉体の永遠の原子はテレパシー的に聖霊とつながっています。か

って生きた人、今生きている人、未来に生きる人などすべての人類の肉体の永遠の原子は、聖霊とい

う〝有機体″の物質的細胞なのです。


 では、永遠の原子、すなわち生命である自己認識としての神聖なる投影と私たちの関係はどのよう

なものなのでしょうか? それは私たちが経験するすべての記録です。ただし、その記録は他者の事

柄や課題について行われず、自分自身についてのみ行われます。そのために、私たち自身からの事柄

や課題を決して消去することなく、私たちは自身の経験を確かめることになるのです。

 肉体の永遠の原子は、重く粗い物質から創られるのでしょうか? それとも肉体のエーテル対応体

を適してエーテル素材から創られるのでしょうか? これについては既に話したように、肉体のエー

テル・ダブルは視覚で捉えることのできない素材なのですが、物質なのです。この肉体の永遠の原子は、

創造エーテル、刷り込みエーテル、感覚エーテル、そして運動エーテルから組成されています。結果

として、その本質はエーテル性なのです。肉体にある如何なる物質的な原子でも、そのエーテル対応

体によって生かされています。すべての創造的作業は、エーテル対応体の中心から外側に向けて進め

られます。

 私たちの肉体の内でその動きが起きています。出産、すなわち細胞や原子の動きのような出来事の

全知的刷り込みが行われているのです。これらすべては完全な秩序の下で行われています。

 いつか、あなたの肉体の永遠の原子について瞑想して欲しいと思います。なぜなら、それは物質界

における、あなたの生命の総合計だからです。



 肉体の永遠の原子の周りに、あなたの現在のパーソナリティーが造られます。もちろん、サイキカ

ル体の永遠の原子とノエティカル体の永遠の原子の助けを借りてですが。永遠の原子とは、エーテル

の投影体です。一方、一つの転生における現在のパーソナリティーの自己認識は、名前、そして肉体、 

 サイキカル体、ノエティカル体の周りにつくられた創造物なのです。


【訳注】*白銀の糸∴しろがわの糸/silver cordこれは生命の絆を意味する糸と考えられる。肉体
     の死を迎えるとき、ラファエルがこの糸を切断して肉体から離れる。




 第18章

永遠の原子、現在のパーソナリティー、潜在意識



 人間の潜在意識とは、最初に永遠の原子に、そして後に現在のパーソナリティーの自己認識に刷り

込まれた経験の総計です。そのため、人の潜在意識の核は、正にその永遠の原子と言えます。それは

マイクロ・フイルムのようなもので、過去のすべての転生のあらゆる経験の完全かつ詳細な記録なの

です。もちろん、私たちがこのフィルムを現像し利用できるようになれば、私たちの潜在意識にある

あらゆる詳細を見ることができるようになります。それらの経験とは、詳細と反応と結果を基本とし

て、善性のために潜在意識に蓄積されたものです。人間が転生する時、核としての永遠の原子はその

表面に過去のすべての転生を表しています。核の周りにオーラがあり、それらはサイコ-ノエティ

カル・オーラとも言うべきものです。永遠の原子は、サイコ-ノエティカル的であり、エーテル性

を持ち、物質性も備えています。このオーラには経験のすべてが存在しますが、それは詳細ではなく、

長所とか欠点のような性質だけが現されます。



内省をする時、詳細を知る必要はありません。それはあなた自身を知り、それにより自分の利得と

するためなのです。永遠の原子の〝放射″から学ぶこともでき、またあなたのすべての経験が刷り込

まれている、いわゆる現在のパーソナリティーの部分を学べばよいことになります。それはあなたが

改善しなくてはならない部分やものを見つけ出すことであり、またあなたが追い払わなくてはならな

いものを見つけ出すことです。真理の探求者が深い瞑想やサイコーノエティカル・エクササイズに

よって、自身の潜在意識に入る時、彼は現在のパーソナリティーと過去のすべての転生のあらゆる詳

細のマイクロ・フイルムを利用することが可能となるでしょう。しかし、これは本来必要ないのです。

なぜなら、賢い真理の探求者は最愛なる方の言葉に従うからです。それは「鋤に手をかけてから後ろ

を顧みるな、前だけを見なさい」という言葉です。彼の後ろには畝がすでに掘られているので、後ろ

を顧みる必要はなく、前方だけを見るべきことを示唆しています。探求者が霊的に成長し、そして進

化する時、彼自身の書、すなわち彼の転生の全ページが開かれ、簡単に見ることができ、読み学ぶこ

とができるのです。彼の生命の書は、潜在意識に存在しています。

 
すでに述べたように、エレメンタルの総計、言い換えると現在のパーソナリティーとしての自己を

今創り上げている「思考-欲望型」および「欲望-思考型」エレメンタルの総計が、私たちが潜在

意識と呼んでいるものです。私たちはこれについて学ばなくてはならないのです。

 このように、私たちは潜在意識を現在のパーソナリティーと呼んでいますが、しかし現にこの同じ

ものに対し、二つの異なった見方があります。潜在意識と現在のパーソナリティーの共通点は何でし

ょうか? また相違点は何でしょうか? 問題の中心は現在のパーソナリティーであり、私たちがど

のように考え、感じるか、また私たちの印象、経験、興味、試練、痛み、悲しみや喜びを、肉体のエ

ーテル・ダブル、サイキカル体のエーテル・ダブル、そしてノエティカル体のエーテル・ダブルに、

どのように記録するかによります。また、それらがどのように記録されたかが重要であり、すなわち

どの程度の強さで記録されたか、またどの程度の興味や無関心で記録されたかも大切です。問題の中

心は、現在のパーソナリティーと自分の興味を備えたジョージやメアリーとしての自己であることが

分かりましたが、潜在意識においては同じものとして存在しています。では、興味とは何でしょうか?

 
さて、私は二つの先端を持っています。一つは私が監視者と呼んでいる現在のパーソナリティーと

しての自己であり、そしてもう一つは印象を受け取る先端です。しかし、私はどのようにして印象を

受け取るのでしょうか? またどのようにして、それに反応するのでしょうか? ここで、「どのよ

うに反応するか?」は、潜在意識の部分によります。ジョージやメアリーという現在のパーソナリテ

ィーの自己は経験や印象、あるいは五官、すなわち怒りや不快感や喜びという、いわゆる感性を通し

てやってくるすべてに、どのように反応するのでしょうか? 私たちの周りで起きる出来事に対して、

私たちはどうして同じように反応しないのでしょうか? もし、十人が同じ出来事に遭遇すると、そ

れに対して十通りの異なった反応があることでしょう。それらは喜びから、不快感から、そして痛み

までに分散されます。これは大切な問題点です。なぜでしょうか? これにより私たちは.一つの結論

に到達することができます。その原因は外部的なことでもなく、大切な五官からでもありません。そ

れは五官を通しての印象の受け取り方であり、具体的に言えば、それは現在のパーソナリティ-とし

ての自己による反応であって、これは記録されている印象や経験の記憶や回想に誘発されて飛び

出てくるものなのです。


 私たちが現在のパーソナリティー、そしていわゆる潜在意識を学ぶ時、それらが一つで同じものと

考えるべきでしょうか? 私たちは時間の意味を考慮に入れなくてはなりません。潜在意識は過去か

らの記憶や条件付けを引き出し、それらを現在に持ち出します。しかし一方で、現在のパーソナリテ

ィーとしての自己は、現時点の生命現象や五官を通して対応する印象を感受するのです。

 真理の探究者は、これら二つの状況と両者の関係を学ぶことになります。これらの状況を学ぶであ

ろう探求者とは一体誰なのでしょうか? その探求者とは、これら二つの状況のどちらか一人でしょ

うか? それとも、どちらでもないのでしょうか? これら二つの状況が、二つの枝分かれを持った

一つの状態と考えることは可能でしょうか? それが答えです。



 現在のパーソナリティーとしての自己は、その人のエレメンタルの総合計です。すなわち、「欲望

-思考形態」と「思考-欲望形態」で、そのすべてが永遠の原子に刻み込まれているもので、一般的

にはそれを自分と呼んでいます。さて、真理の探求者としての私たちとは誰なのでしょうか? もち

ろん、私たちは現在のパーソナリティーでもなく、その現在のパーソナリティーの一部でもありませ

ん。言い換えれば、潜在意識と呼んでいるところの水の中でもなく、水面でもありません。

 では、私たちとは誰なのでしょうか? 私たちの探求が示していることは、私たちが現在のパーソ

ナリティーとしての自己ではなく、時間と場所における経験でもないという事、またマインドと呼ん

でいるものを学ぶ時、たとえそれが美しくても、私たち自身の一部ではないという事です。もちろん

私たちは刷り込みエーテルを使う能力を持ち、それにより映像や幻想、色や世界、そしてすべての世

界すら創り出せます。そして、私たちの真実の自己ではありませんが、これらの世界でパーソナリテ

ィーが動き回り生活を行い、時間と場所に魅了されているのです。



 潜在意識における時間と場所と、サイキカル界における記憶の世界の時間と場所との間には違いが

あります。さて、私たちは潜在意識を、いつか自分自身を発見するであろうサイキカル界と関係付け

ることになるでしょう。考えてみましょう。私たちがサイキカル界について話してきたように、そこ

には七つのプレーンがあり、それらが更に七つのサブ・プレーンに分かれ、全部で7つの領域を持って

いることを知っています。さてここで問題に向かい合いましょう。潜在意識とはサイキカル界にある

のでしょうか? これについて注意深く考えて下さい。私たちの肉体は、三次元である物質界の基本

元素(エレメント)から組成されていますが、それは物質界でしょうか? いいえ、違います。それ

は物質界から素材を得ていますが、物質界の一部としか言えません。同様な考え方から、現在のパー

ソナリティーのいわゆる潜在意識は、サイコ-ノエティカル界からサイコ-ノエティカル素材を得

ているのです。サイコ-ノエティカル界のプレーンやサブ・プレーン問の関係はどのようなもので

しょうか? これについて考えて下さい。特定の人の純粋さ、清潔さ、完全さに従い、彼又は彼

女はサィキカル界で自己に相応しいプレーン、あるいはサブ・プレーンに自分自身がいることに気付


くことになります。サイキカル界では、誰も強制的に配置されることはありません。自分の価値に見

合った場所に自分自身を発見することになります。

 私たちが肉体を離れる時、私たちがいたことのない天国や地獄に自分自身を発見することは決して

ありません。なぜなら、私たちの潜在意識の状態は魔法によって変わることなどないからです



 すでに話したように、潜在意識の核はサイコーノエティカルで、エーテル性の永遠の原子であり、

その周りに現在のパーソナリティーが存在しています。現在のパーソナリティーとしての自己は、肉

体とそのエーテル・ダブル、サイキカル体とそのエーテル・ダブル、そしてノエティカル体とそのエ

ーテル・ダブルから構成されています。そして、これら三つの体の全体が、現在のパーソナリティー

を構成しています。次に、潜在意識の組成について考えます。不思議に響くかもしれませんが、全な

る智恵、全なる愛、全なる力は銀河の中心、太陽の中心、また惑星の中心に完全な形で存在しています。


そして、丁度同じように、全なる智恵と愛と力は肉体のひとつの原子にも存在しています。潜在

意識もまた、彼らのそれぞれの体とそれらの対応体の中のあらゆる肉体の原子、エーテル対応体の原

子、サイキカル体の原子、そしてノエティカル体の原子に完全な形で存在しています。完全な記録が

ひとつの原子の中に存在し、それは数え切れない数の記録でも、何も失われることがありません。

これら全部を誰が記録するのでしょうか?私たちです。変化はどうなのでしょうか?あらゆる変

化は忠実にひとつの原子の潜在意識に登録されるのです。後に、私たちの内にある天の国と潜在

意識の関係を知ることができます。

潜在意識は三つの扉を通じて私たちを導いてくれます。一つの扉は最も恐ろしい地獄へ私たちを連

れて行きます。二つ目の扉は最も美しい天国へ、そしてもう一つの扉は至福へ導いてくれます。決断

して、選びなさい。








 第19章


創造エーテル、刷り込みエーテル、感覚エーテル、運動エーテル

サイキカル体、ノエティカル体、体外離脱



 肉体のエーテル・ダブルは、肉体とサイキカル体との間をつなぐものです。これはその役割の一つ

で、サイキカル体を肉体に結びつけています。

 聖霊とキリスト・ロゴスは肉体を養い維持させるためにこの関係を使います。彼らはエーテル・ダ

ブルの一部で、創造エーテルと呼ばれるものを使っています。創造エーテルは常に肉体の中に留まり

切り離されることは決してありません。しかし、それはサイキカル体とノエティカル体によって影響

を受けます。別のレッスンで、いわゆる運動エーテル、感覚エーテル、そして刷り込みエーテルにつ

いて学んできました。

 人が自分のサイキカル体とノエティカル体と共に肉体の内にいる限り、エーテル・ダブルがサイコ

ノエティカル体を肉体に完全に結びつけています。また、この連結は肉体のエーテル・ダブルの運

動エーテルと、サイキカル体とノエディカル体のエーテル・ダブルの運動エーテルとの間でも完全で

す。

 それらは完全につながり、一体として働きます。これはまた、肉体のエーテル・ダブルの感覚エー

テルと、サイキカル体とノエディカル体のエーテル・ダブルの感覚エーテルとの間の場合でも同様で

す。人は肉体の中で、自身がサイキカル体とノエティカル体と一体であることを発見します。これは

その人の準備が完全に整っていることを意味しています。

 次に、刷り込みエーテルに進みましょう。直感やテレパシーや他の高次の知覚能力を持っていない

平均的な人は、自分の肉体の中だけで生きています。このケースでは、サイキカル体とノエティカル

体のエーテル・ダブルの刷り込みエーテルと、肉体とサイキカル体のエーテル・ダブルの刷り込みエ

ーテルとの間の結び付きがありません。

 これは、寝ている間に肉体を潜在意識的に離れている人が戻ってきた時に、サイキカル界での経験

の印象や記憶を、なぜ持ち帰ることができないかの理由になります。すなわち、肉体の刷り込みエー

テルと、サイキカル体とノエティカル体の刷り込みエーテルの間に、何もつながりがないからです。

ですから、彼はこの関係に橋をかけ結ばなくてはなりません。

 次に、体外離脱の時に、何が起きているかを見ていきましょう。

 サイキカル体のエーテル・ダブルは、サイキカル体だけに見出されるものです。確かなことですが

肉体にはまったく留まりません。すると、肉体のエーテル・ダブルのどの部分が持ら込まれ、あえて

言えば、サイキカル体によって吸収されるのでしょうか? そして、どの部分が肉体に留まるのでし

ようか?

エーテル・ダブルとは、それ自体を認識や意識として表現するために、人間によって利用される独

立した体ではなく、特定な目的のための連結リンクなのです。すなわち、それは生命現象としての人

間の機能のためのものなのです。


 体外離脱において、サイキカル体の運動エーテル、感覚エーテル、刷り込みエーテル、創造エーテ

ルは、直ちにサイキカル体に同行します。ここで、肉体の運動エーテル、感覚エーテル、刷り込みエ

ーテルの一部は、サイキカル体に伴われます。しかし、肉体の創造エーテルは完全に肉体に留まりま

す。なぜなら、もしそれが離れると、肉体は分解され還元されることになるからです。肉体のエーテ

ル・ダブルは一種の体として、死という現象以外の原因で決して肉体から離れることはありません。

 先程、肉体の感覚エーテル、運動エーテル、刷り込みエーテルの一部が、サイキカル体に同行する

と言いましたが、それほどの部分なのでしょうか? これは探求者の完成度に由ります。もし同行す

る部分が、留まる部分と同じであれば、刷り込みエーテルがその隔たりを埋め、バランスを取ること

になります。結果として、刷り込みエーテルの波動の全体を100%と仮定すれば、50%はサイキカ

ル体に従い、50%が肉体に留まることになります。主に、肉体の脳と神経系統に留まり、全体的には

全神経系統、また太陽神経叢や神経節にも留まります。これにより、記憶に橋が架けられるのです。

 そのため、体外離脱する人は、自分がどこにいるのか、どこに行くのか、何をしているのかを知る

ことになります。そして、自分が戻る時、経験と印象を完全に刷り込むことができるのです。

 刷り込みエーテルの波動は、どのようにしてそのバランスが保たれるのでしょうか? これが、私

たちがサークルで行なうエクササイズの目的なのです。

 次に感覚エーテルについて話します。感覚エーテルと運動エーテルは‥刷り込みエーテルに同行す

る必要がありません。しかし、もしごく僅かな部分が同行しても問題はありません。

 もし、刷り込みエーテルを除き、運動エーテルと感覚エーテルだけがサイキカル体に同行すれば、

肉体にとって大変に好ましくない現象が起きます。例えば、悪夢的状態、夢中歩行、不健康状態、そ

して肉体にとって他の不快な状態などです。


 創造エーテルが肉体とサイキカル体の間の肉体のエーテル・ダブルに完全に留まっている場合、神

秘主義者が肉体の中で生きている時は、運動エーテルと感覚エーテルと刷り込みエーテルを使って、

創造エーテルをコントロールすることができます。彼が体外離脱している時は、彼に同行している感

覚エーテルと運動エーテルの僅かな部分を使い、それをテレパシーによりコントロールします。あな

たが意識的な体外離脱をいつかできるようになれば、それを経験的に知ることになります。

 刷り込みエーテルと呼ばれるものの中にバランス、それも完全なバランスがつくり上げられなくて

はなりません。刷り込みエーテルは記憶の居場所であり、現在のパーソナリティーの自己認識の基盤

と言えるでしょう。

私たちのサークルではエクササイズを通して、私たちが潜在意識と呼んでいる部分を探索します

なぜなら、真理の探求者は徐々に潜在意識というものを学び認識しなければなりません。




 探求者が体外離脱を行いサイキカル体へ移る時、刷り込みエーテルの制御された部分を、サイキカ

ル体のエーテル・ダブルの刷り込みエーテルへ差し向ける必要があります。この方法で、自分のサイ

キカル体をコントロールできるのです。

 もし、そのバランスを確立できない場合、サイキカル界における自分のサイキカル体をコントロー

ルすることができなくなります。そうすると、サイキカル体はサイコ-ノエディカル界の気流、す

なわち強い風のようなものにより、あちらこちらに揺れ動き凧のような状態になることでしょう。

 肉体のエーテル・ダブルの刷り込みエーテルと、サイキカル体の刷り込みエーテルとのバランスが

取れれば、そのバランスが現在のパーソナリティーの手中にある力強い操縦装置となるのです。それ

は永遠のパーソナリティーである内なる自己の導きの下で行なわれます。これを通して、意志の力に

おける完全な準備ができた「個別化された自己」として、望むところにはどこへでも行くことができ、

どこからでも完全な印象を得ることができます。また、サイキカル界のどのプレーンでも、サブ・ブ

レーンでも訪ねることができるのです。このような経験をするかどうか、また体外離脱からの印象を

保つことができるかどうかも、その決断と能力はあなたにかかっているのです。

 さて、サイキカル界では、サイキカル界の刷り込みエーテルとノエディカル界の刷り込みエーテル

とのバランスをつくり上げなくてはなりません。このバランスが力強い導きをもたらします。ここで、

私たちには意志の力と正しい思考が求められます。これが正にノエティカル体のエーテル・ダブルの

刷り込みエーテルの本質なのです。


 次は運動エーテルについてです。サイキカル体の運動エーテルとノエティカル体の運動エーテルと

は連帯して働き、この協力関係は容易に行われます。意志の力と思考はサイキカル界とノエティカル

界における動きを等しくします。しかし、まず最初に、それぞれのエーテル・ダブルにおいて、刷り

込みエーテル間のバランスがとれなくてはなりません。物質界においては、キネーシス(動き)が同

様なもので、すなわち感覚エーテルと運動エーテルにおける意志の力と動きになります。しかし、こ

れは困難なことです。肉体の動きは神経系統を通して行われなくてはならないからです。



 このように、肉体を支配するために、運動エーテルと感覚エーテルと刷り込みエーテルを使うこと

が責務となります。肉体を歩かせたり、一定の作業をさせたりするより、サイキカル体とノエティカ

ル体を別々に動かしたり、あるいは一体として動かすことは難しくありません。言い換えれば、肉体

のエーテル・ダブルの運動エーテルと感覚エーテルを使う方が難しいと言うことです。総体的な困難

さは、肉体上と肉体内の働きにあります。



肉体を離れると、すべての働きは智恵によるものであり、それ以外の何物でもなく、ただ最小の努

力が求められます。その努力とは私たちが肉体の中にいる時にいつでもあるもので、その目的はそれ

はサイコーノエティカル体における体外離脱が行なわれるかどうかを質問する人もいると思います

その際、形態があるのでしょうか? バランスはどのようにして保たれるのでしょうか?バランスは 

は、あなたが肉体を離れる時のあなた自身の能力によります。あなたが体の外にいる時はバランス

があなたを生かし、更なる充足を与えてくれます。聖霊とロゴスがあなたの体を形作ります。彼ら

が肉体も形づくつています。聖霊があなたの肉体の面倒をみてくれ、あなたはそれが準備できている

ことに気付きます。同様なことがサイキカル体とノエティカル体でも作用しています。サイキカル体

の形成は、あなたの視覚化によっては起こりません。もちろん、あなたが完全性に到達すれば、その

完全性があなたのサイキカル体を形成するでしょう。聖霊とあなたの完全性がそれを行うのであり、

あなたが行うのではありません。


 完全性とは何を意味しているのでしょうか? 粗く、物質主義的な人は、大変に固く柔軟性のない

サイキカル体を持っています。その色はその人の感情と思考に対応しています。もしその人が改善し

始め、より善く、より礼儀正しく行儀良くなり、人間性が形成された後に初めて、その結果として何

の努力もなしにサイキカル体やノエティカル体はあるべく形態化されることでしょう。

 もし平均的な人が体外離脱を行い、肉体の外にいる自分自身を発見した時、彼は寝ていますので、

他の世界の印象を何も得ることができないでしょう。それはサイキカル界であたかも盲目になったよ

うなものです。あなたは人々が「私は何も夢を見ない」と言うことを何度も聞いたことがあるでしょ

う。夢とは何を意味しているのでしょうか? どれだけ多くの人々が、「思考が何であるか?」を知

らないことをあなたは知っていますか? そのような人々の思考とは、その人たちの周りで起きてい

ることをまねしているだけなのです。それ以上の何ものでもありません。


サイキカル体やノエティカル体について見ていきましょう。現実として、私たちは二つのサイキカ

ル体とそのエーテル・ダブルを持っています。一つは人間のイデアにアチューンメントされた完全な

もので、肉体の中に存在しています。もう一つのサイキカル体は、私たちの人生の道程の中で形づく

られていくものです。同じことがノエティカル体とそのエーテル・ダブルでも起こります。完全なノ

エティカル体とは、大天使的天なる人間が刷り込まれたもので、絶対的に完全なものです。あなたは

それを動かすこともできず、その中で動くことすらできません。もう一つのノエディカル体とは、あ

なたが個人的に成長させていくもので、その中で生きていきます。それはそれ自身の中にすべての力

を持っています。そして、そのエーテル・ダブルの刷り込みエーテル、感覚エーテル、運動エーテル、

創造エーテルを利用し訓練していかなくてはなりません。


 視覚化により、あなた自身の中にあなたのエレメンタルとしてサイキカル体を一つ、二つ、三つ、

四つ、五つ、六つ創ることを学ぶ時、あなたはこれらのエレメンタルの中に入って行き、刷り込みエ

ーテルや感覚エーテルや運動エーテルを配置して、それらの中にいなくても、それらを動かしたり、

移動したりすることができるでしょう。しかしながら、あなたはテレパシーを使って、それらをコン

トロールし、方向付けしなくてはなりません。それらはあなたのサイキカル体ではありません。それ

らは、あなたのエレメンタルであり、あなたが創り出したものです。

 これらのエレメンタルは、あなたの個人的なサイキカル体のエーテル・ダブルを通じて創作された

ものです。このエーテル・ダブルは必要なくなったすべてのエレメンタルを吸収し、同化しなくては

ならないのです。



 「誰が体外離脱を認識するのでしょうか?現在のパーソナリティーでしょうか?それとも永遠の

パーソナリティーでしょうか?」という質問が出てくると思います。私達が今まで述べて

きたことは、永遠のパーソナリティーがすべてを知り、どんな時にでも何でも行なうことができると

いうことです。そのため、それを体験することにより学ばなくてはならないのは、現在のパーソナリ

ティーです。

このような質問も出てくるでしょう。「体外離脱をするために、自己意識や自己認識性のセンター

であるハート・センターから抜け出さなくてはならないのでしょうか?」その必要はありませんが、

あなたがそう考えるのであれば、それはあなたにとって良い方法でしょう。個人的には、それで良い

と思います。私は肉体のあらゆる細胞の中心から抜け出ることを好みます。また、

四次元では、空間は異なった意味を持っています。












七つの約束

 私は自分自身に約束します。

1.いつどこにいても、私もその一部である「絶対無限の存在」に心をこめて奉仕します。



2.いつどこにいても、私には「神聖なる計画」に奉仕する準備ができています。



3.いつどこにいても、またどのような状況にあっても、私は「神聖なる贈り物」である思考と言葉

  を正しく使います。



4.最も賢明なる「神聖な法則」が与えてくれる、あらゆる試練と苦難に対して、私は不平不満を言

  うことなく、忍耐をもって受け入れます。

5.私に対する人々の行動がどのようなものであっても、私は心と魂の奥底から、誠意をもって兄弟

 姉妹である隣人を愛し、彼らに奉仕します。



6.私のあらゆる思考、願望、言葉、行動が「神聖なる意志」と完全に一致することを目的として、

 毎日「絶対無限の存在」について瞑想し、熟考します。



7.私のあらゆる思考、願望、言葉、行動が「神聖なる法則」と完全に調和したものであるかどうか、

 毎晩、確認します。

何世紀も前から現在まで
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