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利他という方向性について


太陽は私たちに無限に惜しみなく与えてくださっている
ただただ無償で注いでくださっている


命はすべてを生かしてくださっている

何も求めず、何も言わずに、ただただ無限に与えてくださっている


根源は私たちに、ただただより高い人生を生きることができるよう
すべてを用意してくださり、無償で無限に、与えて続けてくださっている


すべてなる、ただひとつなるものは
無限を、完全を、すべてを与えてくださっている
のではないだろうか

それも、ただただ何の見返りもなく、請求することもなく、私たちに与え続けてくださっている


もし私たちが、この人生の真実を求める「覚醒の道」というプロセス自体が

『与えることの本質である「気づき」』に気づこうとすることであるのなら

私たちも、同じような傾向である周波数であるべきであると考えるのはごく自然なことではないか

また、

それは、私たちが当然その「与え続ける働き」と一つの流れになっていなければいけないと思う

なぜなら覚醒の道や解放の道こそ、その「与え続ける方向性」のなかにのみ、あることができるからだ

「無限の愛」がその無償で与え続ける本質そのものであるなら

無償でない「覚醒」や「気づき」とは、いったい何処からきているのか

私たちはそこに、根源の流れではない流れを発見することができる

無償の愛、無限の愛、与え続ける太陽のごとき愛こそが、私たちの未知なる本質であり、その向かうべき方向性なのだ

空気は請求するか?

生命は生かし続けていることで何かを要求するか?

ただただ、与え続けているのが根源の本質なのだ、そしてそれがそれこそが私たちの向かっている方向性なのだ

だからこそ、この覚醒の道は、最初のスタートにまずこの共通の方向性の確認が求められるのだ

与えること、与えること、ただただ与えること、これが覚醒の道の動機である

その人のために、そのもののために、最高のものを、最善のことをあたえることが解放の道の動機なのだ

苦しんでいるひとには、その人の立場に立って、まず何が必要かを理解して

その人のお役に立てるように与えるのだ

(与えようとすることは「自他の分離という認識が根本にある」などという、既に非二元・非分離・非対象の境地に至った者の見地を
この現在の錯覚にとらわれているパーソナリティーの自己に盗用してはいけない。実際のこの現在の自己のステートを見なければならない)

そういうわけで自分のための、自分にとっての「神の道」や「覚醒の道」とは

この「無限に与え続ける」という方向性の存在しない道であり、それは覚醒の道とはいえない

それは、単なる自我の能力の拡大にすぎず、自我の巨大化にすぎない、自分が完全になること(他の人にではない!)、自分がよくなること(他の人が良くなることではない!)でありそれを求めることが畢竟、自我の陥穽に陥っていることである

その動機こそが根本の一番問題なのだ。方向性こそが一番の問題なのだ。

その覚醒の道では、この最初の動機が一番の問題となるのだ。

ではその最初の動機とはなにか

それが、自分のためではなく人のためであるという利他性でない限りは、私たちは結局は決してどこにも行き着かないだろう

知識欲や、自我の能力の拡大欲や、知ることへ、偉大になることへの欲に突き動かされている限りは、私たちは蝕まれているのだ。


お役に立つこと、苦しんでいる人のお役に立つこと、周りの人々の苦しみから解放することの少しでもお役に立てるようになること

これこそが「真我探求」の目的であり、スタートの動機である

だからこそ、不自然ではあっても、不完全で観念的ではあっても、

まず最初に、動機として、方向性として

私たちが自分の為ではなく、人類のそして宇宙のために「世界に愛」を放射することから、この「探求」を開始することが、もっとも肝要なことであるのだ

愛を世界の上に放射すること、私から無償で、まずはじめに人類に限りなく愛を与え続けること

これなくしての「覚醒の道」や「覚醒の方法」とは畢竟するにそれは、覚醒でも解放でもない、狂っている自我の拡張欲に支配されていることなのだ。

だからこそ上江洲義秀先生は、まずはじめに人類に限りなく無償で愛を放射することを勧める


以前は、私は「それは愛がない人類にとっては、自己欺瞞的な行為ではない」かと訝ったが

それはそうではないのだ。最初の動機と目的の方向性をはっきりとさせることなのだ

まず、私たちの常態がいかに愛がなく低次元であっても、その最初の方向性と、その動機において
根源の働きと同調することが一番の必要なることであるのだ

だからこそ無償で与え続ける愛を最初に与え続けようとすることの方向性が上江洲義秀先生から求められるのである

覚醒とは、解放とは何であるのか

それは自分の為に自分が望むことなのか、自分が自分の為に行うことであるのか

そうではないはずである、それは

私以外の人や動物や植物やその他のもののために、自分に望まれていることであり、そのために自分が行うことであるはずだ。

それこそが根源であり、私たちに与え続け、生かし続け、成長しさせ続けている、大いなる一つなるもののお役に立つことでもある。


であるので

私たちは解放を、理解を、この錯覚から抜け出す「真我探求」を、自分のためではなく人類の同胞のお役に立つことなのであるから始めるべきであると思うのである

それが、そしてそれこそがまずはじめの私たちの「真我探求」の切なる動機であらねばならないと考えるのである。




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