アートマン


みなさんの中の多くのかたがたが、マックス・ミュ
ラーの有名な書物「ヴェーダーンタ哲学についての三
っの講義」をよんでいらっしゃいます。あるかたがた
はドイツ語で、同哲学を論じたドイッセン教授の書物
もおよみになったことでしょう。西洋でインドの宗教
思想について書かれたりおしえられたりしているもの
の中には、インド思想の中のある流派が、重点をおい
て説明されています。アドワイティズムという流派、
すなわちインドの宗教の一元論的な面です。そしてと
きどき、ヴェーダの教えのすべてはこの一つの哲学体
系の中にふくまれている、と思う人もいます。しかし
ながら、インドの思想にはさまざまの面があります。
そしておそらく、この非二元論的形式は、他のさまざ
まの面にくらべたら少数派に属するものであります。
もっとも遠い太古の時代から、インドにはさまざまの
思想の流派がありました。しかもそこには、おのおの
の流派の信ずべき教義を支持する機関として組織され
たり公認されたりした教会とか個人とかいうようなも
のは、かつて存在したことがありませんでした。人び
とはまったく自由に自分の形式をえらび、自分の哲学
をつくり、自分自身の宗派をもうけることができたの
です。ですからわれわれは、太古以来インドには宗教、
宗派がみちみちていたことを見いだします。現代にお
いては、幾百の宗派がインドにはあるものか、私には
わかりません。しかも毎年多くの新宗教が生まれてい
ます。この民族の宗教活動は、まさにつきるところを
知らないと思われるのです。


 これらのさまざまの宗派を、まず第一に大きく二つ
にわけることができます。伝統派の部類と非伝統派の
部類です。もろもろのヒンドゥの聖典、すなわちヴェー
ダを真理の永遠の啓示として信じるものは伝統派とよ
ばれ、ヴェーダをしりぞけて他の権威に立脚するもの
は、インドにあっては異端なのです。現代において非
伝統的な流派のおもなものは、ジャイナ教と仏教です。
伝統派の中でも、あるものは、聖典は理性よりはるか
に高い価値を持つと断言し、他のものはまた、聖典と
言ってもそのなかの合理的な部分だけをとりあげ、そ
うでない部分は排すべきである、と主張します。
 
サーンキヤ、ナイヤーイカ、およびミマーンサカと
いう、伝統派の三つの部類のうち、はじめの二つは、
哲学の流派としては存在してきましたが宗派をつくる
ことはできませんでした。いま実際にインドに普及し
ているたった一つの宗派は、後期のミマーンサカ、す
なわちヴェーダーンティストたちの宗派です。彼らの
哲学はヴェーダーンティズムとよばれています。ヒン
ドゥの哲学のあらゆる流派は、ヴェーダーンタ、すな
わちウパニシャッドから出発しています。ただ、一元
論者たちは、ヴェーダーンタを自分たちの専用の名前
としました。他のいっさいをすててヴェーダーンタだ
けを彼らの神学と哲学全体の基礎にしようと欲したか
らです。やがて、ヴェーダーンタは普及しました。い
ま存在するインドのさまざまの宗派は全部、その流派
のうちのいずれかに属するものと見ることができま
す。しかしこれらの流派は、その見解においてかなら
ずしも、全部が一致しているわけではありません。


 われわれは、ヴェーダーンティストたちの間に三つ
のことなるタイプがあるのを見いだします。ある一つ
の点では、彼らの全部が一致しています。それは、神
を信じる、という点です。これらすべてのヴェーダー
ンティストたちはまた、おそらくキリスト教徒や回教
徒の場合とまったくおなじ意味でではなく、非常に特
異な意味で、ヴェーダを、啓示された神の言葉である
と信じています。彼らの考えは、ヴェーダは神の知識
の表現である、そして神は永遠であるから、彼の知識
も彼とともに永遠である、それゆえヴェーダは永遠で
ある、というものであります。そこにはもう一つ、共
通の根本信念があります。創造は周期的におこなわれ
る、という信念です。宇宙は出現して、そしてまたき
える、それは放射されてしだいしだいに粗大になり、
かぞえることのできないはどの長いときをへたのちに
は、しだいしだいにかすかになったあげくに消滅し、
ひいてしまう、それから休息の一時期がくる、と言い
ます。そしてふたたび、それはあらわれはじめ、まえ
とおなじ過程をたどる、と言うのです。彼らは、アー
カーシャと呼ぶ、現代科学者が言うエーテルににたよ
うな物質と、プラーナと呼ぶ、一つの力との存在を仮
定します。このプラーナについては、彼らは、それの
振動によってこの宇宙は生みだされるのだ、と断言し
ています。一つの周期がおわったときには、自然界の
いっさいのあらわれはしだいしだいにかすかになっ
て、見ることもふれることもできないけれども、それ
の中からいっさいのものはつくられるのだという、こ
のアーカーシャの中に解消してしまうのです。重力、
引力、および斥力というような、または思い、感情、
および神経活動というような、われわれが自然界に見
るこれらのさまざまの力は全部プラーナと化し、そし
てプラーナの振動はやみます。つぎの周期のはじまり
まで、この状態がたもたれます。それからプラーナは
振動をはじめ、その振動はアーカーシャに働きかけ、
そしてすべてのこれらの形がさだまった順序にした
がって放射されるのです。


 私がおはなししようと思う第一の流派は、二元論学
派とよばれています。二元論者は、宇宙の創造者であ
りその支配者である神は、永遠に自然とは別個のもの、
人間の魂とは別個の存在である、と信じています。神
は永遠、自然は永遠、すべての魂も永遠です。自然と
魂たちは形にあらわれて変化します。しかし神はかわ
りません。また、二元論者に言わせると、この神は、
肉体を持っているわけではないが、性質を持っている
という意味で人格的です。彼は人間の属性を持ってい
るのです。彼は慈悲ぶかい、彼は正しい、彼は力づよい、
彼は全能だ、彼に近づくことができる、彼にいのるこ
とができる、彼を愛することができる、彼の方からも
愛してくれる、などなどであります。一口に言えば、
彼は人間の神です。ただ、人間よりも無限に偉大です。
彼は人間が持っているわるい性質は一つも持っていな
いのです。「彼は、無限のめぐまれた性質の貯蔵庫で
ある」彼らは神をこのように定義するのです。神は材
料がなければ宇宙を創造することはできません。そこ
で自然は、神がそれから全宇宙をつくりだすところの
原料です。アトミストとよばれる、若干の非ヴェーダー
ンタ的二元論者もいます。彼らは、自然は無数の原子
にほかならない、神の意志がこれらの原子の上にはた
らいて創造をおこなうのだ、と信じています。ヴェー
ダーンティストたちはこの理論を否定します。彼らは、
これはまったく非論理的だ、と言います。不可分の原
子は、部分も大きさも持たない、幾何学上の点のよう
なものでしょう。しかし、部分も大きさも持たないも
のを無限にあつめてもおなじことです。部分を持たな
いものは決して、部分を持つ何ものかをつくることは
できますまい。ゼロはいくつあつめても結局はゼロで
しかないのです。それゆえ、もしこれらの原子が部分
も大きさも持たないというようなものであれば、その
ような原子からは、宇宙の創造は不可能というほかあ
りません。それゆえ、ヴェーダーンタ的二元論者に言
わせれば、分離させることのできない、もしくは区分
することのできない自然というものがあって、そのも
のから、神が宇宙を創造するのです。インドの大衆の
大部分は二元論者です。人間の性質は、ふつうはそれ
より高いものを考えることはできません。われわれ地
球上の住民で何かの宗教を信じている者の九〇パーセ
ントは二元論者であることを見いだします。ヨーロッ
パおよび西アジアのすべての宗教は、二元論です。そ
うならざるを得ないのです。通常の人間は、具体的で
ないものについて考えることはできません。彼は当然、
自分の知性が把握し得るものにしがみつきたがりま
す。つまり、彼自身のレベルにまでひきおろしてきて
はじめて、より高い霊的観念をも心にえがくことがで
きます。彼は、抽象的概念を具体化してはじめて、理
解することができるのです。これが、世界中の大衆の
宗教です。彼らは自分たちとはまったく別の、偉大な
王、高く強力な君主、というような神を信じるのです。
同時に彼らは、神を地上の君主よりも純粋なものにし
ます。神にあらゆるよい性質をあたえ、わるい性質は
とりのぞきます。まるで悪が存在しなくても善の存
在は可能である、やみがなくてもひかりの存在は
可能であると、と言わんばかりに!

すべての二元論的学説にともなう最初の困難は、た
だしく慈悲ぶかい神、無数のよい性質の貯蔵庫の支
配のもとにあって、この世界にこれほど多くの悪がど
うしてあり得るのか、という疑問です。この疑問はす
べての二元論的宗教の内部におこりました。しかしヒ
ンドゥ民族は、決してそれに対する答えとして悪魔を
発明することはしませんでした。ヒンドゥ民族は、一
致して、そのせめを人の上におきました。また、そう
するのが彼らにとってたやすいことなのでした。なぜ
か。たったいま申しあげたように、彼らは魂が無から
つくり出されたものであるとは信じなかったのですか
ら。われわれは、この人生で自分が自分の将来を形成
することができるのを知っています。人は誰でも、毎
日、明日を形成しようと努力しています。今日、われ
われは明日の運命をきめます。明日は明後日の運命
をきめるでしょう。こうして順に未来に及ぶでしょう
この推理は過去にむかつておしすすめることもで
きる、ということはまったく論理的です。もしわれわ、
れが自分のおこないによって自分の未来の運命をきめ
ることができるのなら、どうしておなじルールを過去
にあてはめることのできないわけがありましょう。も
し、無限につづく一本のくさりの中で、一定数の環が
交互にくりかえされるのであれば、その一定数の環の
グループの一つが説明されるなら、われわれはそのく
さりの全体を説明することができます。それゆえ、こ
の、時の無限の長さのなかで、もしその一部分をきり
とってその部分を説明しそれを理解することができる
なら、そして、もし自然は斉一であるということがほ
んとうであるなら、おなじ説明が時のくさり全体に適
用できるはずです。もし、われわれはここで、このみ
じかいひとときの間に自分の運命を一心につくり出し
ているのだ、ということがほんとうなら、もし、現在
われわれが見ているように、いっさいのものは原因を
持っている、ということが真実であるなら、われわれ
がいま、あるところのものはすべて、われわれの過去
全体の結果である、ということもまた、真実であるに
ちがいありません。それゆえ、人類の運命を形成する
には、人間自身以外の何者の手も必要とはしないので
す。この世界に存在する悪はほかでもない、われわれ
自身によってつくられるものであります。われわれが
このすべての悪をつくりました。そして、わるい行為
から不幸が生まれるのをたえず見ているのとまさに同
様に、この世界に現存する不幸の多くは人間の過去の
悪行の結果であるということも見ることができます。
それゆえ、この学説にしたがえば、人間だけに責任が
あるのです。神はせめられるべきではありません。永
遠に慈悲ぶかい父なる神は、少しもせめられるべきで
はありません。われわれが、「まいた種子をかりとる」
のです。
 


二元論者のもう一つの独特の教義は、あらゆる魂は
最後にはかならずすくわれる、というものです。ひと
りとしてのこされる者はありません。さまざまの有為
転変をへて、さまざまの苦しみや楽しみをへて、最後
には一人の例外もなく出てくるでありましょう。何か
ら出てくるのか。すべてのヒンドゥ宗派の一つの共通
理念は、いっさいの魂は、この宇宙から脱出しなけれ
ばならない、というものです。われわれが見たり感じ
たりしているこの宇宙も、また想像の宇宙さえも、実
在のものではあり得ません。なぜなら両方とも、善と
悪とがまじりあっているのですから。二元論者たちに
よると、この宇宙のかなたに、幸福と善だけにみたさ
れた一つの場所があります。そこに到達したら、もう
生まれることも生まれかわることもないし、生きた
り死んだりする必要もないのです。この思想は彼らに
とって非常にしたしみぶかいものです。そこにはもは
や、やまいも死もない。そこに永遠の幸福があり、人
びとはいつも神のみまえにあって永久に彼をたのしむ
ことでしょう。彼らは、最低の小虫から最高の天使や
神々にいたるまでのありとあらゆる生きものは、おそ
かれ早かれ、もはや不幸はひとつもないというその世
界に到達するであろうと信じているのです。しかし、
われわれのこの世界は決しておわりますまい。それは、
波形にうごきながらではあるが、永遠に行きつづけ
ます。周期的にうごきながらではあるが、決しておわ
ることはありません。すくわれるべき、完成されるべ
き魂の数は無限です。あるものは植物の中に、あるも
のはひくい動物の中に、あるものは人間の中に、ある
ものは神々の中にやどっています。しかし最高の神々
をふくむそれらのことごとくが、不完全であり、しば
られているのです。そのしぼりとは何であるのか。生
まれなければならない、ということと、死ななければ
ならない、ということです。最高の神々さえ死ぬので
す。これらの神々とは何であるか。それらは、特定の
身分、特定の役目を意味しています。たとえば、神々
の王であるインドラは、ある役目を意味します。この
周期には、非常に高いある魂が、行ってその地位につ
きました。この周期がおわったのちには、彼はふたた
び人間と生まれてこの地上にやってくるでしょう。そ
して、この周期中に非常な徳をつんでいる人が、つぎ
の周期には行ってその地位をふさぐことになるでしょ
う。他のもろもろの神の場合もおなじです。それらは、
幾百万の魂たちによってかわるがわるしめられてきた
役目であります。その魂たちは、それらの役目をはた
したのちにはまたおりてきて人間になりました。この
世界でよいことをし、他者をたすけるが、むくいを得
ることをめざし、天国に行くことや仲間からほめられ
ることを期待している魂は、死ぬと、それらの善行の
利益を収穫しなければなりません。彼らはこれらの
神々になります。しかし、それはすくいではありませ
ん。むくいをほしがっている間は、すくいはやってこ
ないでしょう。
何であれ、人のほしがるものを、主は
下さるのです。人びとは力をほしがる、彼らは名声を
ほしがる、彼らは神々となる楽しみをほしがる、する
とそれらののぞみはかなえられます。しかし、どんな
働きの果報も永遠ではありません。一定のときをへた
のちには、果報はつかいはたされるでしょう。それは
いく劫という長い時間かもしれない。けれどもそれが
すぎたときには果報も去ってしまっています。そして
これらの神々はふたたびおりてきて人間になり、解脱
へのあらたなチャンスを獲得しなければならないので
す。ひくい動物たちはのぼってきて人間になり、たぶ
ん神々になり、それからまた人間になり、あるいは動
物にまでももどります。快楽へのいっさいの願望、い
のちへの渇望、「私と私のもの」へのこのしがみつき
から彼らが脱出するそのときまで。この「私と私のも
の」が、まさに世界のすべての悪の根元です。もしみ
なさんが二元論者に、「あなたの子供さんはあなたの
ものか」とおたずねになるなら、彼はこたえるでしょ
う、「それは神のものです。私の所有物は私のもので
はない、神のものです」とこたえるでしょう。いっさ
いのものは、神のものとして持っていなければならな
いのです。
 さて、インドのこれらの二元論者たちは、厳重な菜
食主義者であり偉大な不殺生の説教者です。しかし、
このことについての彼らの考え方は、仏教徒のそれ
とはまったくちがいます。もしみなさんが仏教徒にむ
かって、「なぜあなたは、生きものをころしてはいけ
ないと説くのか」とおたずねになったら、彼はこたえ
るでしょう、「われわれは何ものの生命をもうばう権
利をもたない」と。そしてもし二元論者に、「なぜあ
なたは動物をころさないのか」とおたずねになったら、
彼はこう言います、「だってそれは主のお持ちものだ
から」そのように二元論者は、この「私」と「私のも
の」は神に、神にのみむけられるべきである、と言う
のです。彼が唯一の「私」であり、いっさいのものは
彼のものなのです。人が「私」と「私のもの」を持た
ない境地に達したとき、あらゆるものが主にささげら
れてしまったとき、彼が生きとし生けるものを愛して、
一匹のけもののためにさえ、すこしのむくいももとめ
ずに、よろこんで自分の生命をなげだすようになった
とき、そのときには、彼のハートは清浄なものになる
でしょう。そしてハートが浄化されたとき、そのハー
トの中には神の愛が入りたもうのです。神は、あらゆ
る魂にとって引力の中心です。そして、二元論者は言
います、「土でおおわれた針は磁石にひきつけられな
い。だが土が洗いおとされれば、それはたちまちひき
つけられる」神は磁石で、人の魂は針、そのわるいおこ
ないは針をおおうどろやほこりです。魂がきよまるや
いなや、それは本来の引力によって神のもとに来、永
久に神のもとにとどまります。しかし永久に、神から
はなれたままです。完成された魂は、そうしたいと思
えばどんなすがたでもとることができます。のぞむな
ら百個の身体をも持つこともできるし、一個の身体も
持たないでいることもできます。創造することができ
ないことをのぞけば、それはほとんど全能になるので
す。創造の力は神だけのものです。どんなに完全であっ
ても、宇宙の仕事にたずさわれる者はいません。あの
働きは神のものです。しかしすべての魂が完成されれ
ば、永遠に幸福になって、永遠に神とともにくらしま
す。これが、二元論者の声明です。


 二元論者が説くもう一つの思想。彼らは神にむかっ
て、「主よ、私にこれを下さい、あれを下さい」とい
のることに反対します。彼らは、それはなすべきでは
ない、と考えます。もし何か物質的なたまものをこわ
なければならないなら、それはもっとひくい存在にむ
かって請うべきです。かりそめのものは、これらの神々
または天使の中の誰かにむかって、または完成された
魂にむかって請うべきなのです。神は、ただ愛される
べきものです。神にむかって、「主よ、これを下さい、
あれを下さい」などといのるのは冒涜だと言ってもよ
ろしい。それゆえ、二元論者たちによると、人が欲す
るものは、神々(gods)の中の誰かにいのることによっ
て、おそかれ早かれ手にいれることができるでしょう。
しかし、もし彼がすくいを欲するなら、彼は神(GOD
うちなる唯一最高神)を礼拝しなければなりません。
以上が、インドの大衆の宗教であります。


 真のヴェーダーンタ哲学は、限定非二元論者とよば
れている人びとからはじまります。彼らは、結果は原
因と少しもことなるものではない、という声明をしま
す。結果は、別のかたちで再生された原因にほかなら
ないのです。もし宇宙が結果であって、神が原因てあ
るのなら、宇宙は神自身であるにちがいありません。
それ以外のものであるはずがないのです。彼らは、ま
ずはじめに、神は宇宙の動力因であって、同時に質料
因でもある、と主張します。神自身が創造者であり、
同時に神自身が、それから全宇宙が投影されるところ
の原料でもある、というのです。あなた方キリスト教
徒がおつかいになる「創造」という言葉の同義語が、
サンスクリットにはありません。西洋で考えられてい
るような、無から何ものかが出てくるというような創
造を信じる宗派はインドにはないからです。昔あると
きに、そのような思想をもつ若干の人びとがいたらし
いのですが、彼らはじきにだまってしまいました。現
代では、私はそのような宗派をまったく知りません。
われわれが創造という言葉で意味するのは、すでに存
在しているものの投影です。さて、この宗派によれば、
全宇宙は神ご自身です。彼が宇宙の材料です。ヴェー
ダにはこう書いてあります。「クモが自分のからだか
ら糸をつむぎ出すように……ちょうどそのように、全
宇宙はその存在からでてきた」

 もし、結果は原因の再生であるなら、「この物質の、
不活発な、知能のない宇宙が、物質ではない、永遠の
知恵である神から生まれたのはどういうことである
か。」という疑問が生まれます。もし原因が純粋で完
全であるなら、どうして結果がそれとまったくこと
なったものであり得るのでしょうか。これらの限定非
二元論者は何とこたえるのでしょうか。彼らの学説は
非常に特異なものです。彼らは、神、自然および魂と
いうこれらの三つの存在は一つのものである、と言い
ます。神は、いわば魂であり、自然と魂たちは神の身
体なのです。ちょうど私が肉体を持ち、魂を持ってい
るように、全宇宙とすべての魂たちは神の身体であり、
神は魂たち (solus)の魂(The Soul)なのです。こ
のように、神は宇宙の質料因であります。身体は変化
するでしょう。わかかったり、年おいたり、つよかった
り、よわかったりするでしょう。しかし、それは魂には
少しも影響をあたえません。魂は、肉体を通じてあら
われている、同一の永遠の存在です。肉体はきたり去っ
たりしますが、魂はかわりません。ちょうどそのよう
に、全宇宙は神の身体です。そしてその意味において、
それは神であります。しかし宇宙の変化は神には影響
をあたえません。この原料から、神は宇宙を創造しま
す。そして一つの周期がおわりになると、彼の身体は
しだいにかすかになります、それはちぢまります。つ
ぎの周期のはじめにそれはふたたびふくらみ、そこか
らこれらすべてのさまざまの世界が展開するのであり
ます。


 さて、二元論者も限定非二元論者も、魂は本来きよ
らかなものであって、それ自身のおこないによって不
純になるのである、とみとめています。限定非二元論
者たちはそのことを二元論者たちよりもっとみごとに
表現しています。魂のきよらかさ、完全さは減退して
またふたたびあきらかになる。われわれはいま、魂固
有の知慮、純粋性、力をふたたびあきらかにするよう
努力しているのだ、と言うのです。魂たちは無数の性
質を持っていますが、全能ではないし、全知でもあり
ません。あらゆる悪行はその本性を縮小し、あらゆる
善行はそれを拡大します。そしてこれらの魂たちは、
神の部分なのです。「もえるほのおからおなじ性質の
幾百万の火花がとびちるように、ちょうどそのように、
この無限の実在、神、からこれらの魂達はやってき
た」おのおのの魂が同一の目標を持っています。限定
非二元論者の神もやはり人格神であって、無限のよい
性質の貯蔵庫です。ただ、彼は宇宙間のいっさいのも
のの中に浸透しているのです。彼はあらゆるものの中、
いたるところに内在しています。そして経典が、神は
あらゆるものである、と言う場合は、それは、神はあ
らゆるものにしみこんでいる、という意味であって、
神がかべになっている、というわけではなく神がかベ
の中にいる、ということになるわけです。宇宙間に一
微粒子、一原子といえども神のやどっていないところ
はありません。魂はことごとく有限で、彼らは遍在で
はありません。彼らが力を拡大して完成されたとき、
生死のきづなを脱して永遠に神とともにすむことにな
るのです。



さて、われわれはアドワイティズム(不二二元論)
をとり上げることになりました。最後のものです。そ
して思うには、かつてあらゆる国があらゆる時代に生
みだした哲学および宗教の中の、もっともうつくしい
花であります。そこでは人間の思想は最高の表現に達
し、透過不可能と思われる神秘のかなたに行きます。
これが、非二元論のヴェーダーンティズムです。それ
は、大衆の宗教となるには、あまりに深遠であまりに
高度なものです。過去三千年間これに最高の地位をあ
たえてきたその生地、インドにおいてさえ、大衆の中
に浸透することはできませんでした。話がすすむにつ
れて、いずれの国においても、アドワイティズムを理
解することは、もっとも深い思想を持つ男女にとって
さえも困難なことである、ということがおわかりにな
るでしょう。われわれはみずからをそれほどよわくし
たのです。それほどひくくしてしまったのです。りっ
ぱな主張をするかもしれません。しかしごく自然に、
他の誰かによりかかりたいと思います。われわれはつ
ねにそえ木を必要とする小さい、よわい植木のような
ものです。私はいくたび、「安楽な宗教」はないかと
もとめられたことでしょう!ごくわずかの人びとが
真理をもとめます。あえてその真理を学ぼうとする人
はさらに少ない。そして、実際の行動の中でそれを実
践しようとこころみる人にいたっては、まれでありま
す。それは彼らのおちどではない。すべては頭脳のよ
わさのなすところです。新しい思想はいずれも、それ
が高度のものであれば特に、動揺をかもし出します。
頭脳組織の中に、いわば一つの新しいチャンネルをひ
らこうとするので、これが人びとの調子をくるわせ、
彼らにバランスをうしなわせるのです。
彼らは、一定
の環境にならされています。そこで、太古以来の迷信、
祖先伝来の迷信、階級の迷信、住む町の迷信、国の迷
信、などなどの巨大なかたまりを、およびそれらすべ
ての背後にある、人間一人一人に内在する広大な迷信
のかたまりを、克服しなければならないのです。しか
し世の中には、その真理をあえて考える、またそれを
あえてとり上げる、そしてまたそれを究極まで追及し
ようとする、若干の勇敢な魂たちもいます。


 ではアドワイティスト(非二元論者)は何と言明す
るのか。彼は言います、もし神というものがあるなら、
その神は宇宙の質料因であって同時に動力因でなけれ
ばならない、と。彼は創造者であるばかりではなく、被
造物でもあるのです。かれみずからがこの宇宙なのです
どうしてそんなことがあり得るのか。神、このきよき
もの、霊が宇宙になっているというのか。そうです。
外見的にはそうなのです。すべての無知な者達が宇
宙としてながめているところのものは、実際には存在
しておりません。では、みなさんや、私や、私たち一
同がながめているこれらいっさいのものは一体何なの
でしょうか。単なる自己催眠です。そこにあるのはた
だ、唯一の実在、無限なる者で、永遠に祝福された一
者のみです。その実在の中で、われわれはこれらすべ
てのさまざまの夢をゆめみるのです。それは、いっさ
いを超越した、無限なる者、知られたものを超越し知
らるべきものを超越した、アートマンです。それの中
で、それを通じて、われわれは宇宙を見るのです。そ
れが唯一の実在です。
それはこのテーブルです。それ
は私の前の聴衆です。それはかべです。それは、あら
ゆるものから、その名と形をとり去ったものなのです。
テーブルからその形をとり去ってごらんなさい。その
名をとり去ってごらんなさい。あとにのこるのがそれ
です。ヴェーダーンティストはそれを彼とか彼女とは
よびません。彼とか彼女とかいうのは虚構、人間の頭
脳の妄想です。魂には男女の別はありません。幻覚に
支配されている人びと、けもののようになっている人
びとは女を見たり男を見たりします。生きている神々
は男も女も見ません。いっさいのものを超越している
人たちが、どうして性の観念などを持つでしょうか。あ
らゆる人、あらゆる物は性を持たない、純粋の、永遠に
めぐまれたアートマンなのです。自己なのです。物
質的なのは名です、形です。身体です。そしてそれらが
このいっさい差異をつくるのです。もし名と形という
このふたつの差異を取り去るならば、全宇宙はひとつで
す。そこには二つはありません。どこに行っても一つ
です。皆さんと私は一つです。そこには自然もなけ
れば神も宇宙もありません。あの一つの無限の実在
があるだけ、それから、名と形によってこれらすべて
のものがつくり出されるのです。どうして知る者を知
ることができますか、それは知ることはできません。
どうしてあなたがあなた自身の自己を見ることなどが
できますか。あなたは自分をうつすことができるだけ
です。ですから、この宇宙全体はその唯一永遠の実
在、アートマンの映像です。そして、反射体のよしあ
しに応じて、よい、あるいはわるい像ができあがるの
です。
こういうわけで殺人者の場合は反射体がわる
いのであって自己がわるいのではありません。聖者の
場合は、反射体が純粋なのです。自己、すなわちアー
トマンは純粋なのがその本性です。最低の小虫から最
高の完成された存在にいたるまで、そこにそれ自身を
うつしているのは同一の、宇宙の唯一実在です。物質
的にも、心理的にも、道徳的にも、霊的にも、この宇
宙は全体が一つの単一体です。一つの実在です。われ
われはこの唯一実在をさまざまの形の中にながめ、そ
れの上にさまざまの像をつくっているのです。自分自
身を人間という条件によって限定した者には、それは
人間世界としてあらわれます。もう少し高い存在段階
にいる者には、それは天界のように思われるでしょう。
宇宙にはただ一つの魂しかありません。それはくるこ
ともなければ行くこともない。生まれもしなければ死
にもしない、生まれかわりもしません。どうしてそれ
が死ぬことなどができましょう。それがどこに行くこ
とができましょう。これらすべてのさまざまの天界、
これらすべてのさまざまの地上世界、そしてこれらす
べてのさまざまの場所は、すべて心のむなしい想像で
す。それらは存在しません。かつて存在したことはな
かったし、これから存在することもないでしょう。
 私は遍在です、永遠です。どこに行くことができま
しょう。私がまだいない場所などがどこにありましょ
ぅ。私は、自然という、この書物をよんでいます。一ペー
ジ、また一ページとよみおえてめくるたびに、一回ず
っ人生のゆめがすぎ去ります。あらたな一ページがめ
くられます。あらたな生涯のゆめがやってくる、そし
て行ってしまう、めぐり、めぐって、ついに全巻をよ
みおえたとき、私はそれをすててかたわらにたちます。
私は書物をほうり出し、そしていっさいはおわったの
です。アドワイティストは何を説くか。彼は、宇宙間
にいままで存在した、またこれから存在するであろう
すべての神々を王座からひきおろし、そこに人の自己、
すなわちアートマンをすえます。それは日月よりも高
く、もろもろの天界よりも高く、偉大な宇宙そのもの
より偉大な存在です。どんな書物、どんな聖典、どん
な科学も、人としてあらわれる自己の栄光を想像する
ことはできません。かつて存在した中のもっとも輝か
しい神です。いままでに存在した、いま存在する、そ
してこれから存在するであろう、たった一つの神なの
です。それゆえ、私は私自身のみを拝すべきなのです。
「私は私の自己をおがむ」と不二元論者は言います。
誰におじぎをするのですか。私は私の自己に敬礼をす
るのです。誰に救いをもとめるのですか。宇宙の無
限の実在である私を誰が救うことができましょうか。
これらはおろかなゆめ、幻想です。かつて誰かをたす
けた者がいるでしょうか。いません。よわい人間、二
元論者がおいおい泣きながら天の一角からのすくいを
いのりもとめるのは、天界も自分のうちにあるのだ、
ということを彼が知らないからです。彼は天にすくい
をもとめ、そしてすくいはやってきます。われわれは
たしかにそれがやってくるのを見ます。しかしそれは
彼の中からやってきたのであって、彼がそれをまちが
えてそとからやってきたと思っているのです。
ときど
き、ねている病人が、ドアをノックする音をききます。
彼はおきあがってドアをあけ、そこに誰もいないこと
を知ります。彼はベッドにもどり、そこでふたたびノッ
クをききます。おきあがってドアをあけます。誰もい
ません。ついに彼は、ノックと思ったのは自分の心臓
の鼓動だった、ということに気づくのです。このよう
に人は、自分のそとにあるさまざまの神々をむなしく
さがしもとめたのち、周期を完了して出発点、すなわ
ち人間の魂にもどります。そして、彼が山々谷々をさ
がしまわり、あらゆる小川、あらゆる寺院、あらゆる
教会および天国をさがしまわった神、天国にすわって
この世界を支配しておられる、という想像さえもして
いたその神は彼自身の自己である、ということを知る
のです。私は彼であり、彼は私です。私以外に神はあ
りませんでした。そして、この、小さな私は、かつて
存在したことがなかったのです。

 
しかし、どうして、その完全な神がまよったりなど
したのでしょうか。いや、彼は決してまよいはしません
でした。どうして完全な神がゆめなどを見ましょ
う。彼は決して、ゆめなどは見ませんでした。真理は
決してゆめは見ません。どこからこのまよいは生じた
か、などという問いそのものが、ばかげたものなので
す。妄想は妄想以外のものからは生まれません。真理
がすがたをあらわすやいなや、妄想はきえるのです。
妄想はつねに、妄想に依存します。決して神、真理、
アートマンには依存しません。あなたは決して、妄想
の中にいるのではありません。妄想の方があなたの中
にあり、あなたの前にあるのです。一片の雲がここに
ある。もう一かたまりの雲がやってきて、これをおし
のけ、そのあとにおさまります。さらにもう一つかた
まりがやってきて、それをおしのけます。永遠の青空
の前に、さまざまの色あいの雲がきてはしばらくとど
まり、やがてきえさりますが、あとにふたたびあらわ
れるのは、前と少しもかわらない、永遠の青空です。
それとおなじように、みなさんは永遠に純粋で、永遠
に完全なのです。みなさんは、まぎれもない、宇宙の
神々です。いや、二つはありません。一者があるだけ
です。「あなたと私」と言うのはまちがいです。みな
さんは「私」とおっしゃい。幾百万の口でたべている
のは私です。どうして私がうえることなどがあり得ま
しょう。無数の手によってはたらいているのは私です。
どうして私が非活動的であり得ましょう。全宇宙の生
命を生きているのは私です。私にとってどこに死など
があり得ましょう。私はいっさいの生をこえ、いっさ
いの死をこえています。どこに自由をさがしもとめる
のですか。もともと自由に生まれついているのに。誰
が私をしばることができるというのですか
――この
宇宙の神を? 世界のもろもろの聖典は小さな地図に
すぎず、とうてい、宇宙の唯一の実在である私の栄光
を描写することはできません。それでは、これらの書
物は私にとって何なのでしょうか。アドワイティスト
はこう言います、
 「真理を知り、ただちに自由になれ」そのとき、い
っさいのやみはきえるでしょ。人は自分は宇宙の無限
の実在と一体であるということを知ったとき、いっさ
いの分離の意識がきえたとき、すべての男女、すべて
の神々と天使たち、すべての動物と植物、および全宇
宙が一者の中にとけこんだとき、そのとき、すべ
ての恐怖は消滅します。私が自分をそこなうことがで
きますか。私が自分をころすことができますか。自分
にきずをつけることができますか。誰をおそれると言
うのですか。あなたは自分自身をおそれることができ
ますか。そのとき、すべてのかなしみはきえるでしょ
う。何が、私にかなしみをあたえることができますか。
私は宇宙の唯一の実在なのです。そのとき、すべての
嫉妬は消滅するでしょう。誰に嫉妬すると言うのです
か。私自身にですか。そのとき、すべての悪感情は消
滅します。誰にむかって、悪感情をいだくことができ
るというのですか。私自身に対してですか。宇宙間に
は私にほかには誰もいないのです。
そして、これが知
識にいたる唯一の道である、とヴェーダーンティスト
は言います。この「差別」を絶滅をさせなさい。多数
がある、というこの迷信を絶滅をさせなさい。「この
多の世界の中にその一者を見るもの、この非情のかたま
りの中にその一つの有情の存在を見る者、この影の世
界の中にその実在をとらえる者、永遠の平和は彼のも
のだ、他の誰のものでもない、誰のものでもない」
 これらが、インドの宗教思想が神についてあゆんだ
三つの段階のいちじるしい特徴です。われわれはそれ
が、人格的な、宇宙のそとにある神をもってはじまっ
たことを知りました。それは外在するものから、内在
する宇宙体、宇宙に内在する神へとすすみ、そして最
後に、魂自身とその神とを一つのものであると見、宇
宙間のさまざまの現象のすべてをひとつの魂、ひとつ
の統一体とすることによっておわりました。これが、
ヴェーダの最後の言葉です。それは二元論をもっては
じまり、限定一元論を通って、完全な一元論におわる
のです。この世界中でどんなにわずかな人びとしかこ
の最後までは到達することができないかということ
を、いや、それをあえて信じる人さえどんなに少ない
かということを、それにしたがって行動する人はさら
にどんなにまれであるかということを、私たちは知っ
ています。しかし、その中にこそ、宇宙間のすべての
倫理、すべての道徳、すべての霊性の説明がひそんで
いるのです。誰でもが、「他者のために善をなせ」 と
言うのはなぜですか。その理由はどこにあるのでしょ
うか。すべての偉大な人びとが人類の兄弟愛を説き、
もっと偉大な人びとはいっさいの生きものとの兄弟愛
を説いている、というのはどういうわけですか。彼ら
がそれを意識していたかどうかは別として、それら
いっさいのものの背後に、非合理的で個人的なあらゆ
る迷信を通して、すべての多様性を否定する自己(アー
トマン)の永遠の光がかすかにすがたをあらわしてお
り、全宇宙はひとつである、ということを主張してい
たからなのです。
もう一度結論を申し上げると、われわれは一つの宇
宙があることを知りました。その宇宙を、われわれは
感覚を通じて物質と見、知性を通じて多くの魂と見、
霊性を通じて神と見るのです。
世間や罪と悪とよんで
いるところのおおいを自分の上になげかけている人に
とっては、この宇宙そのものが変じて、おそろしい場
所となり、楽しみを欲するもうひとりの人にとっては、
そのおなじ宇宙がすがたをかえて天国になり、そして、
完成された人の前には、いっさいのものは消滅して、
宇宙は彼自身の自己となるでありましょう。
 さて、現にいま、社会が存在しているのですから、
これら三つの段階は全部必要なのです。たがいに他を
否定するものではなく、他をおぎない合って完成にみ
ちびいているのです。非二元論者も、限定非二元論者
も、二元論がまちがっているとは言いません。それは
ただしい見解です。ただ、すこし程度がひくいのです。
それは真理への途上にあるのです。ですから、各人が
彼自身の考えにしたがって、この宇宙の彼自身のヴィ
ジョンをえがきだすがよろしい。他者をきずつけては
なりません。他者の立場を否定してはなりません。相
手の立場は尊重しつつ、もしできるのなら、彼がより
高い境地にのぼるよう、手をかしておやりなさい。し
かしきずつけたり、こわしたりしてはなりません。長
い間にはいっさいが真理に到達するのです。「心のす
べての欲望が征服されたとき、そのときこの死すべき
ものがそのまま、不滅となるであろう」そのとき、人
がそのまま神となるのです。

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