ヴィヴェーカナンダの言葉

(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「マーヤーと自由」より一部転載させてもらいました)

9マーヤーと自由



 「栄光の雲のたなびき、われらきたる」と詩人は言
います。しかしながら、われわれのすべてが栄光の雲
のたなびきとしてやってくるわけではありません。あ
る者は黒い霧のたなびきとしてやってきます。このこ
とにうたがいの余地はありません。しかしわれわれは
一人の例外もなく、この世界に、まるで戦場に行くよ
うに、たたかうためにやってきます。全力をつくして
自分の道をたたかいとるために、そしてこの人生の無
限の大海の中に自分のための一本の道をきりひらくた
めに、泣きながらここにやってくるのです。われわれ
は前進します、長い時のながれを背後にのこし、無限
のひろがりを前方に見て。このようにして生きつづけ
るのです、死がやってきてわれわれをこの戦場からつ
れ去るまで。勝ったのか負けたのか、われわれは知り
ません。これがマーヤーです。


 幼児のハートは希望にみちています。見ひらかれた
子供の目の前に、全世界は金色のヴィジョンです。彼
は、自分の意志が最高であると思います。前方にむかっ
てうごくと、一歩ごとに自然が鉄石のかべとなって立
ちふさがり、彼の将来の進歩の邪魔をします。彼はそ
れをつきやぶろうとして、ふたたび三たびそれにぶ
っかるでしょう。彼がすすめば、理想もそれだけ遠ざ
かります。こうしてついに死がやってくるのです。お
そらくそこではじめて解放されるのでしょう。これが
マーヤーです。


 科学の人が立ちあがります。彼は知識を渇望してい
ます。彼はいかなる犠牲もおしまないし、またあらゆ
る努力に希望をかけています。つぎつぎに自然の秘密
を発見し、彼女のハートのおくふかくから秘密をさぐ
りだしつつ前進します。だが何のために。それらすべ
ては何のためなのですか。なぜ彼に栄光をあたえなけ
ればならないのですか。なぜ彼は名声を得るのですか。
自然はいかなる人間がなし得るよりも偉大なことをす
るではありませんか。しかも自然は鈍い、無感覚な
ものです。鈍い、無感覚なものを模倣することがな
ぜ栄光にあたいするのですか。自然は、あらゆる大き
さの雷電をどんなに遠くまででもなげることができる
のです。もしある人がそれのほんの一小部分にあたる
ぐらいのことをなしとげると、われわれは口をきわめ
て彼を称賛します。なぜですか。なぜわれわれは自然
をまねたと言って、死をまね、鈍感をまね、無感覚を
まねた、と言って彼を称賛しなければならないのです
か。重力はかつて存在したもっとも大きなかたまりを
も、千々にひきさくことができます。それでも、それ
は無感覚なものです。無感覚なものをまねることに何
の栄光があるのですか。それでもなお、われわれはす
べて、そのことのだめに苦闘しているのです。これが
マーヤーです。


 感覚は、人間の魂を外にひきずりだします。人は、
快楽や幸福が決してあるはずのないところに、それら
をさがしもとめます。われわれは無数の年月にわたっ
て、それはむだなこと、むなしい努力である、と教え
られてきました。ここ、この世界には幸福はないの
です。それなのに、われわれはそれを理解することが
できません。自分自身で経験してみなければ、それを
理解することができないのです。われわれはやってみ
ます。すると打撃がきます。それでわかります。それ
でもなお理解しません。ほのおに身を投じる蛾のよう
に、その中で満足が得られることを期待しつつ、くり
かえし、くりかえし、感覚的快楽の中にわが身を投じ
るのです。いくたびもいくたびも、エネルギーをあら
たにしてはもどってきます。このようなことを、不具
にされあざむかれてついに死にいたるまで、われわれ
はつづけて行くのです。これがマーヤーです。


 われわれの知性においても同様です。宇宙の神秘を
解明したいという願望によって、われわれは探求をや
めることができません。ぜひ知らなければならないと
感じ、決して知ることができないと言われても信じる
ことができません。
二、三歩すすむ、するとそこには
始めも終わりもない、時間という、つきやぶることの
できないかべが立ちはだかります。二、三歩行く、す
ると限界のない空間という、つきやぶることのできな
いかべがあらわれます。そして何もかもが原因結果と
いう、変えることのできないかべによってかこまれて
しまうのです。われわれはそれをこえることができま
せん。それでも苦闘します、そしてさらに苦闘をつづ
けなければなりません。これがマーヤーです。


 ひと息ごとに、脈拍の一うちごとに、身じろぎ一つ
するごとに、われわれは、自分は自由であると思いま
す。ところがその瞬間に、そうではないということを
見せつけられるのです。身も心も、思想も感情も、す
べてにおいてしぼられた奴隷です。自然の奴隷です。
これがマーヤーなのです。



 
いまだかつて、自分の子供は生まれついての天才で
ある、もっとも非凡な子供である、と考えなかった母
親はいません。彼女はわが子を溺愛します。彼女の心
も魂もその子の上にそそがれます。子供は成長して、
飲んだくれ、人非人になり、母親を虐待するかもしれ
ません。彼が虐待すればするほど、母親の愛情は増大
します。世間はそれを、母親の無私の愛としてほめそ
やします。母親は天性の奴隷、ほかになすすべを知ら
ないのだ、ということを知らないで。実は彼女は、む
しろこの重荷をすててしまいたいと1〇回もねがって
います。しかし彼女にはそれができない。そこで事実
を花の束でおおい、それをすばらしい愛と呼ぶのです。
これがマーヤーです。
 

われわれはこの世にあって、みなこれににたことを
しているのです。つぎのような神話があります。ある
とき、ナーラダがクリシュナに、「主よ、私にマーヤー
を見せて下さい」 と言いました。数日後にクリシュナ
は、ある荒れ地への旅に同行してくれとナーラダにた
のみました。そして何キロかあるいたのち、彼は言い
ました、「ナーラダよ、私はのどがかわいた、水をもっ
てきてくれませんか」 「すぐに行って持ってまいりま
しょう」 そこでナーラダは出かけました。すこしはな
れたところに村がありました。彼は水をもとめてその
村にはいり、ある家の戸をたたきました。出てきたの
は、たぐいなくうつくしい一人の娘でした。彼女をひ
とめ見るやいなや、彼は師が死ぬほどのどがかわいて
水を待っているのだ、ということをわすれました。何
もかもをわすれて娘とかたりはじめました。その日は
ついに師のもとにかえらず、翌日もまたその家にきて、
はなしつづけました。かたらいはみのって恋となり、
彼は娘の父親に結婚のゆるしをもとめました。そして
二人は結婚し、ともにくらして子供たちをもうけまし
た。このようにして一二年の歳月がながれました。彼
の義父はなくなり、彼はその財産を相続しました。彼
は妻と子供たち、その上に田畑や家畜その他を持って
非常に幸福にくらしている、と思っていました。その
ときに洪水がきました。ある夜、河が増水し、つつみ
を切って全村を水びたしにしました。家はつぶれ、人
びとや家畜はおしながされておぼれました、いっさい
のものが激流の中にうきしずみしました。ナーラダも
にげなければなりませんでした。左手に妻を、右手に
二人の子供たちをかかえ、もう一人の子供を肩の上に
のせていました。そうして彼はこの大洪水をわたりき
ろうとしていました。二、三歩行くうちに、ながれの
力があまりにつよいことがわかりました。肩の上の子
供がおちておしながされました。絶望のさけびがナー
ラダの口からもれました。その子をすくおうとするう
ちに、ほかの子供たちの一人をささえていた手がゆる
んで、この子も行方不明になりました。最後に、彼が
全力をもってだきしめていた妻が激流によってひきは
なされ、彼はひとり堤防にうち上げられたまま、ふか
い悲しみに泣きさけんでいました。すると、うしろに
やさしいこえがきこえました、「私の子供よ、水はど
こにあるのか。あなたは一杯の水をとりに行った。私
はそれを待っているのだ。それにもう三〇分以上もか
えってこない」「三〇分ですって!」とナーラダはさ
けびました。満一二年が彼の心の中ではながれたの
に、これらいっさいの情景は三〇分の間におこったの
です。これがマーヤーです。


 何らかのかたちで、われわれはみな、それの中にい
るのです。それはもっとも複雑な、理解することのむ
ずかしい、ものごとの実態です。それはあらゆる国で
講義され、あらゆるところでおしえられてきたのです
が、ごくわずかの人びとしか信じませんでした。自分
みずからが経験をつむまで、人はそれを信じることが
できないからです。それは何を示しますか。大変にお
そろしいことです。いっさいのものはむだである、時
というあらゆるものの復讐者がやってくると、何ひと
つあとにはのこらない、ということです。聖者も罪び
とも、王様も百姓も、美人も不美人もことごとくをの
みこんでしまって、あとには何ものこさないのです。
あらゆるものは、あのたった一つのゴール、破壊にむ
かって突進しつつあるのです。われわれの知識、芸術、
科学、いっさいのものはそれにむかって突進しつつあ
ります。誰も、この潮のながれをくいとめることはで
きません。一分間といえども、それをおしかえすこと
はできません。
われわれはそれをわすれようとつとめ
るでしょう。ペストの流行する町の人びとが飲んだり
おどったり、その他のむなしいこころみをして心を麻
痺させ、何もかもをわすれようとつとめるのににてい
ます。そのように、われわれはわすれようとつとめて
いるのです。あらゆる種類の快楽によって、いっさい
を忘却しようとつとめているのです。これがマーヤー
です。



 いままでに二つの方法が提案されてきました。誰で
もがよく知っているその一つは、ごく通俗的な方法で
す。「それはたしかに真実であろう。だがそれについ
ては考えるな。ことわざに言うように、『太陽が輝い
ているうちに干し草をつくるがよい』それはすべて真
実であり、また事実であるが、しかしそれを心にかけ
るな。あなたの手のとどくかぎりの、わずかの楽しみ
をつかめ。あなたにできるわずかのことをなせ。もの
の暗黒面を見てはならない。つねに希望にみちた、積
極的な面を見るようにせよ」 この言葉の中にもある種
の真理はふくまれていますが、そこには危険も内在し
ています。真理とは、それはよい原動力である、とい
うことです。希望と積極的な理想とは、われわれの人
生にとって非常によい原動力です、しかしここには、
ある種の危険がひそんでいます。その危険は、われわ
れが絶望して努力をあきらめる、というところにひそ
んでいます。たとえばつぎのような説教をする人がい
ます、「この世をあるがままにうけとれ。できるかぎ
りしずかに、そして気持よくすわり、どんな不幸にあっ
ても不足を言うな。打撃をうけたときは、これは打撃
ではなくて花々である、と言え。奴隷のようにおいま
わされても、自分は自由である、と言え。昼夜、他人
にも眉分の魂にもうそを言いつづけよ。それが幸福に
生きる唯一の道である」と。これが、一般に実用的な
知恵とよばれているところのものです。そして、この
十九世紀には、この思想がかつてなかったほど世界に
ひろまっています。なぜなら、現代においてはさまざ
まの打撃はかつてなかったほどきびしく、競争はかつ
てなかったほどはげしく、人びとはその仲間に対して、
かつてなかったほど薄情なので、したがってこのよう
ななぐさめが提出されざるを得ないのです。このよう
な考え方は、現代においてもっともつよく主張されて
います。しかしこれは失敗します。いつの時代におい
てもこれは失敗せざるを得ないのです。われわれは腐
肉をバラの花でかくすことはできません。それは不可
能です。それは長くはもちません。バラの花はまもな
くしおれてその間に腐肉はまえよりもひどくくさるか
らです。われわれの人生においても同様です。古い、
うみただれたきずぐちを金色の布でおおうことはでき
ましょうが、布がのぞかれてみにくいきずぐちがあら
わになるときは、かならずくるのです。


 それでは希望はまったくないのでしょうか。われわ
れすべてがマーヤーの奴隷である。、マーヤーの中に生
まれてマーヤーの中に生きているのだ、ということは
事実です。それではのがれ道は、希望は、ないのでしょ
うか。われわれすべては不幸であるということ、この
世界は実は牢獄であるということ、われわれのいわゆ
るたなびく美さえも一個の牢獄にすぎないのである。
ということ、そしてわれわれの知性や心さえ牢獄にす
ぎないのである、ということは、幾世紀も幾世紀も前
から知られている事実です。


口では何と言おうと、この事実をいまだかつて感じたこ
とはない、というような人はひとりもいません。
しかも、年をとった人びと
はそれをもっともつよく感じています。彼らは全人生
の経験の集積を持っており、自然のうそによってやす
やすとだまされるようなことは決してないからです。
それでは出口はないのでしょうか。いいえ、これらいっ
さいの事実にもかかわらず、

                眼前のこのおそるべき事
実にもかかわらず、この悲しみと不幸とのただ中にお
いても、生と死とが同義語であるようなこの世界にお
いても、ここ、この場所においてさえも、あらゆる時
代、あらゆる国々を通じて人間ひとりひとりのハート
のうちになりひびく、なおごくかすかな一つの声がき
こえます、「この私のマーヤーは神聖である。性質(注
=属性、三つのグナ)から成り、それをこえることは
非常にむずかしい。しかし私のもとにくる者は、よく
人生の河をよこぎる」、「あなた方、苦役の重荷になや
む者たちは私のもとにこい。私が、あなた方に休息を
あたえよう」これこそ、われわれを前方にみちびく声
です。


無始以来、人はそのこえをききつづけてきたし、
いまもそれをきいています。この声は、あらゆるもの
がうしなわれ、希望は去ってしまったと思われるとき
に、人が自分自身の力に対する信頼をぶちこわされ、
いっさいのものは掌中からうしなわれて、人生は希望
のない廃墟に化したと思うようなときに、きこえてき
ます。そのようなときに、彼はそれをきくのです。こ
れが、宗教とよばれるものなのです。

 それゆえ、一方には、これはすべてナンセンスであ
る、これこそマーヤーである、という無遠慮な主張が
ありますが、それと同時に、マーヤーをこえてそとに
出る一すじの道がある、というもっとも希望にみちた
主張があるのです。さて、実利的な人びとは言います、
「宗教とか形而上学とかいうような無意味なものであ
なたの頭脳をなやますな。ここにすんでおれ。ここは
まったくわるい世界である。しかしそれをできるだけ
利用するがよい」と。これをわかりやすく言えば、偽
善的な、うそつきの生活をせよ、すべてのきずぐちを
できるだけ上手におおい、たえざるいつわりの生活を
つづけよ、というものです。ついにはいっさいのもの
がうしなわれて、あなた自身が膏薬のかたまりとなっ
てしまうまで、膏薬の上に膏薬をはりつづけて行け、
と言うのです。これが、いわゆる実用的な生活という
ものです。この膏薬はりで満足している人びとは、決
して宗教にはこないでしょう。宗教は、事物の現状に
対する、われわれの生活に対する、大きな不満からは
じまります。また嫌悪、人生のこの膏薬はりに対する
つよい嫌悪、詐欺やうそつきに対するかぎりない嫌悪
の感情からはじまります。かつて偉大なブッダがボダ
イジュの下で、この実用性という観念が彼の前にあら
われで、彼はそれが無意味であることを看破しまし
たが、まだそれを超越する道を見いだし得なかったと
きに述べた言葉、それとおなじ言葉をあえて述べ得る
人だけが、宗教的であり得るのです。真理の探求をあ
きらめて世間にもどり、事物を正しくない名でよび、
自分にも他人にもうそをつく、昔のいつわりの生活を
せよ、という誘惑が眼前にあらわれたとき、彼、この
巨人は、それを克服してつぎのように言ったのでした、


「坐食する無知の生活よりは死の方がまさる。敗北の
生活を生きるよりは、戦場で死ぬ方がよい」 これが宗
教の基礎です。人がこの立場をとったとき、彼は真理
発見への途上にあるのです。神にいたる道をあゆんで
いるのです。この決意が、人が宗教的になる最初の推
進力でなければなりません。私は自分の道を切りひら
こう。私は真理を知るか、そうでなければそのこころ
みの中でわが生命を放棄しよう。なぜなら、この世の
生活の中では生命は何の価値も持っていません。




それはすでにうしなわれています。それは日々に消滅しつ
つあるのです。うつくしい、希望にみちた今日の若者
は明日の老兵です。希望とよろこびと快楽とは、明日
の霜によって花々のようにかれるでしょう。それは一
面です。他面、そこには征服という、人生の諸悪に対
する勝利という、生命そのものへの勝利という、この
宇宙の征服という、偉大な魅力があります。この面に、
人びとは立つことができるのです。それゆえ、勝利の
ために、真理のために、宗教のためにあえて奮闘する
人びとは、正しい道をふんでいるのです。そしてそれ
が、ヴェーダがおしえているところなのです。絶望す
るな、道は非常に困難である、かみそりの刃をわたる
ようなものだ、それでも絶望してはいけない、立ちあ
がれ、めざめよ、そして理想を見いだせ、目標を見い
だせ、と。



 さて、さまざまのすがたであらわれている宗教は、
どのような形をとって人類のもとにきても、この一つ
の共通の、中心的な基礎を持っています。それは、自
由、すなわちこの世界を出離する道をといていること
です。それらは決して、世間と宗教との和解をはかる
ことはせず、宗教をそれ自身の理想の中に定住させ、
それが世間と妥協をしないよう、断固たる手段をとる
ためにきたのです。
このことがすなわち、あらゆる宗
教がおしえているところであり、ヴェーダーンタの義
務は、これらの熱望のすべてを調和させること、最高
のものから最低のものにいたる世界のすべての宗教
の、共通の基礎をあきらかにすることであります。わ
れわれがもっとも悪名高い迷信とみなしている宗教
と、最高級の哲学とは、実は、それらが両方とも同一
の困難を脱却する方法を示そうとしている、という意
味で共通の目的を持っているのです。そしておおかた
の場合、この方法は、みずからは自然の法則によって
しばられていないある人、すなわちすでに自由を得て
いるある人の助けによる、というものです。あらゆる
困難、およびその一個の自由な行為者の性質について
のあらゆる意見の相違(その相違は、彼が人格神であ
るとか、人のような有情の存在であるとか、男性であ
るとか女性であるとか中性であるとか) にもかかわら
ず、またそれについての論議は果てしがないにもかか
わらず、根本の概念は同一です。さまざまの体系の間
に見られるほとんど手のつけようのない矛盾にもかか
わらず、われわれは、それらのすべてをつらぬいて単
一という一すじの金糸が通っているのを見いだすので
す。そして、この哲学によってこの金糸はそのあとを
たどられ、われわれの目の前に少しずつすがたをあら
わしました。そしてこの啓示の第一段階としてあきら
かになったのは、すべての宗教は自由にむかってすす
みつつある、という共通の基礎概念です。


 われわれのすべての喜びと悲しみ、困難と苦闘のま
ん中に存在する一つの奇妙な事実は、われわれは確実
に自由にむかってあゆみつつある、ということです。
疑問は実はつぎの通りでした、「この宇宙は何か。そ
れは何から生まれるのか。それは何になるのか」 そし
てその答えは、「それは自由の中に生まれる。自由の
中に憩う。そして自由の中にとけ去る」
というものだっ
たのです。この自由の観念を、みなさんは放棄するこ
とはできません。それなしには、みなさんの行動、み
なさんの生命そのものまでがうしなわれるでしょう。


一瞬問ごとに、自然はわれわれが奴隷であることを証
明します。しかしながら同時に、それでもわれわれは
自由だ、というもう一つの思いが生まれるのです。一
歩ごとにわれわれはマーヤーによってうちのめされ、
自分がしぼられていることを見せられます。それでも
おなじ瞬間に、この打撃と同時に、このしばられてい
るという感じとともに、われわれは自由だ、という別
の感情がくるのです。ある内なる声が、われわれに自
由であることをつげているのです。しかしその自由を
実現しよう、あきらかにしようとすると、うちかちが
たい困難を見いだすのです。しかしそれにもかかわら
ず、それは内部で、「私は自由だ、私は自由だ」 とお
のれを主張しつづけるのです。もし世界中のさまざま
の宗教のすべてを研究するなら、そこにかならず、こ
の思想が表現されているのが見られるでしょう。
宗教
ばかりでなく、(宗教という言葉をせまい意味に取っ
てはなりません) 社会の全生活は自由というこの一つ
の原理の主張です。すべての運動はあの一つの自由の
主張なのです。そのこえ、「あなた方、苦役の重荷に
なやむ者たちはみな、私のもとにこい」と宣言するそ
のこえは、知ると知らぬにかかわらず、あらゆる人の
耳にきこえてきました。言葉や表現形式はことなるか
もしれませんが、とにかく何かの形で、自由をもとめ
る声はつねに、われわれとともにあったのです。そう
です、われわれはそれのためにこの世に生まれたので
ありわれわれの一つ一つの行動は、それのためなので
す。われわれはすべて、自由にむかって突進しつつあ
るのです。知ると知らぬにかかわらず、その声をおい
かけているのです。村の子供たちがあのふえふきの音
楽にひかれて、ぞろぞろついて行ったように、われわ
れもみな何とは知らずに、その声の音楽にひかれてつ
いて行きつつあるのです。


 われわれは、その声について行くときには道徳的で
す。人間の魂ばかりでなく、最低から最高にいたるす
べての生きものは、この声をきいてその方に突進しつ
つあるのです。そしてその努力の中で、たがいに結合
したり、または相手を道のそとにおし出したりしてい
るのです。こうして競争、喜び、奮闘、生活、快楽、
および死がやってきます。全宇宙はこの、その声に達
しようとする狂的な奮闘の結果以外の何ものでもあり
ません。これが自然の現象です。

 それから何がおこりますか。情景がかわりはじめる
のです。あなたがその声をきいてそれが何であるかを
理解したとき、全光景はかわるのです。マーヤーのお
そろしい戦場であったそのおなじ世界が、いまや、善
い、うつくしい何ものかにかわるのです。われわれは
もはや自然をのろわないし、この世はおそろしいとも、
すべてむなしいとも言いません。泣いたりわめいたり
する必要もないのです。その声を理解するやいなや、
われわれはこの世に、この苦闘のある理由を知ります。
このたたかい、この競争、この困難、この残酷、この
わずかの楽しみと喜び、それらは不可欠のものなので
す。それらがなかったら、われわれはその声をおうこ
とをしないでしょう。ところが知ると知らぬにかかわ
らず、その声に到達することはわれわれに課せられた
運命なのです。それゆえ、全人類の生活、全自然界は、
自由を得るための奮闘です。
太陽は目標にむかってう
ごきつつある、地球は太陽の周囲をまわりながら、月
は地球の周囲をまわりながら、いずれも目標にむかっ
てうごきつつある、その目標にむかって遊星はうごい
ているし、風はふいている、いっさいのものはそれに
むかってもがいているのです。聖者はその声のする方
に行きつつあります。彼はそうせずにいられないので
す。それは彼にとって、べつに名誉なことではありま
せん。罪びとも同様にします。慈悲ぶかい人はまっす
ぐにその声のする方に行き、誰もそれをさまたげるこ
とはできません。守銭奴もまたおなじ目標にむかって
行きつつあります。最大の善行者はおなじ声を内部に
ききます。そしてそれにさからうことができません。


彼はその声の方に行かなければなりません。もっとも
悪名高いなまけ者も同様です。ある者はほかの人より
たびたびころびます。より多くころぶ者を悪いとよび、
より少なくころぶ者をよいと呼ぶのです。善と悪とは
決してことなる二物ではありません。本来はおなじも
の、ちがいは種類にではなく程度にあるのです。

 

さて、もしこの自由の力のあらわれがほんとうに全
宇宙を支配しているのなら、それを特にいま研究中の
宗教に適用して考えてみると、そこでは終始一貫、こ
の思想が唯一の主張であった、ということをわれわれ
は知ります。祖霊やある強力残酷な神々を崇拝する最
低の宗教をとってみましょう。祖霊やこの神々の特徴
は何でしょうか。超自然能力を持ち、自然の制約にし
ばられない、ということです。あきらかに崇拝者はご
く幼稚な自然観の持ち主です。彼自身はかべを通過す
ることも空をとぶこともできません。しかし彼が崇拝
する神々はそういうことができます。それは哲学的に
何を意味していますか。自由の主張がそこにある、と
いうこと、彼が崇拝する神々は彼の知っている自然よ
りすぐれた存在である、ということです。もっと程度
の高い存在を崇拝する人びとでも同様です。自然の概
念がひろがると、自然より優位にある霊魂の概念も拡
大します。そしてついに、一神論というものがあらわ
れるのです。それは、マーヤー(自然) があり、また
このマーヤーの支配者であるところの、ある存在があ
る、と主張するものです。


 ここ、すなわちこれらのもろもろの一神論的な思想
がはじめてあらわれるところから、ヴェーダーンタは
はじまるのです。しかし、ヴェーダーンタ哲学はも
う一歩すすんだ説明を要求します。この説明すなわ
ち  マーヤーというこれらすべての現象を超越して
一個の実在がある、彼はマーヤーよりすぐれており、
かつマーヤーから独立している、彼はわれわれを彼自
身の方にひきよせつつあり、われわれはみな、彼の方
に行きつつあるという説はたいへんによろしい、
だがどうも形がはっきりと見えない、正面から理性と
矛盾するわけではないのだが、ヴィジョンがおぼろげ
で霧がかかっている、とヴェーダーンタは言うのです。
みなさんの賛美歌に 「神よ、みもとに近づかん」 とい
うのがありますが、これはヴェーダーンタ信奉者にも
よくあいます。ただ、彼は中の言葉を一つだけかえ
て、「神よ、わがもとに近づきたまえ」 とするでしょう。
はるかかなた、高く自然を声てわれわれをまねきつつ
ある、と考えられる目標は、ひくめることなしにもっ
ともっとわれわれに近づけられなければなりません。


天にまします神は自然の中なる神となり、自然の中な
る神は自然そのものなる神となり、自然そのものなる
神はこの肉体の宮のうちなる神となり、肉体の宮にい
ます神は、ついに宮そのものとなります。魂と人にな
ります − そしてそこで、それがおしえることのでき
る最後の言葉に到達するのです。

賢者たちがあらゆる
場所にさがしもとめてきた彼は、われわれ自身のハー
トの中にいるのです。

あなたのきいた声は正しかっ
たが、その声がくると見た方角がまちがっていた、と
ヴェーダーンタは言います。あなたが見たあの自由の
理想は正しかった。しかしあなたはそれを、あなた自
身の外にあると見た、それがまちがいでした。それを
もっともっと近くに持っていらっしゃい。それはつね
にあなたのうちにあったのだ、それはあなた自身の自
己であったのだ、ということがあなたにわかるまで。



 あの自由は、あなた自身の本性だったのです。そし
てこのマーヤーは、決してあなたをしばったことはあ
りません。自然は決して、あなたの上に猛威をふるう
ことはありません。おびえた子供のように、あなたが、
自然が自分のくびをしめるというゆめを見ていたので
す。この恐怖から解放されることが目標なのです。そ
れを知的に理解するだけでなく、まのあたりにそれ
を見ることです。この世界を見るよりもっと確実にそ
れを認識することです。そのときにわれわれは、自分
が自由であることを知るでしょう。そのときにはじめ
て、すべての困難は消滅し、心のまどいは解決し、ま
がりはただされるでしょう。そして多様性と自然とい
うまどわしは消えるでしょう。そしてマーヤーは、い
まのようなおそろしい絶望的なゆめではなくて、うつ
くしいものになり、この大地は牢獄ではなくて、われ
われの遊園地になるでしょう。そして危険や困難やす
ベての不幸までもが神聖なものとなり、われわれの前
にその本性を示すでしょう。いっさいのものの背後に、
いっさいのものの実体として彼が立っているというこ
とを、そして彼が唯一の真の自己である、ということ
を示すでありましょう。



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