ヴィヴェーカナンダの言葉

(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「あらゆる者の中の神」より一部転載させてもらいました)


7 あらゆる者の中の神

われわれがどんなに抵抗しても、人生の大部分は必
然的に悪にみたされており、しかもこの悪のかたまり
は事実上、ほとんど無限にふえるばかりだ、というこ
とを、われわれは見てきました。開びゃく以来、それ
をなおそうとはねをおってきましたが、それでも、一
切はほとんどもとのままです。治療法を見いだしたと
思うと一層、自分がもっと微妙な悪にかこまれている
ことを知るのです。われわれはまた、すべての宗教が
この困難をのがれる唯一の道として神をすすめてい
る、ということを見てきました。すべての宗教は、もし、
もっとも現実的な人びとがこの時代にはそうせよとす
すめているように、この世界をあるがままにうけとる
なら、われわれのもとには、悪以外は何ものものこら
ないだろう、とつげています。彼らはさらに、この世
界をこえたところに何ものかが存在する、と主張しま
す。五官のこの人生、物質世界の中の人生がすべてな
のではありません。それはほんの一小部分、しかも単
に表面的な部分なのです。それの背後、それをこえた
ところに、その中にはもはや悪はない、という、無限
なるものが存在します。ある人びとはそれを神と、あ
る人びとはアラーと、ある人びとはエホヴァーと、ま
たヨブと、その他さまざまによびます。ヴェーダーン
ティンはそれをブラフマンとよびます。


 宗教があたえる助言からわれわれが最初にうける印
象は、われわれは自分の存在をおわらせた方がよい、
というものです。どのようにして人生の悪をいやすの
か、という質問に対する答えは表面は、人生を見すて
よ、というものです。それは人に、あの昔ばなしを思
いおこさせます。ある人の頭に蚊がとまっていたので
友達がそれをころそうと一撃をあたえたら、人と蚊の
両方をころしてしまった、というのです。悪をのぞこ
うとすると、おなじことをしてしまうおそれがありま
す。人生はやまいにみち、この世は悪にみちている、
それは、世間を知るほどに年をとった人なら誰ひとり、
否定することのできない事実であります。
 しかし、すべての宗教が提供する治療法は、どうい
うものなのでしょうか。この世は何の価値もないもの
だ、というのです。この世のかなたに、非常にリアル
な何ものかが存在する、と。ここで、こまったことが
おこります。治療法は一切のものを破壊することら
しいのです。どうしてそんなことが治療法と言えま
しょう。ではこの困難を脱する道はないのでしょうか。
ヴェーダーンタは言います、すべての宗教が提出する
意見は完全に正しい、ただ説明が十分ではない、と。
もろもろの宗教はしばしば、その意味がはっきりとし
ていないために誤解されるのです。われわれが真に欲
しているのは、結合された頭脳とハートです。ハート
は実に偉大なものです。生命の偉大な霊感が生まれる
のは、ハートを通してであります。私は、頭脳ばかり
でハートがないよりは頭脳がなくても小さなハートを
持ちたいと、百倍もつよく思います。ハートを持つ人
は生きることができ、進歩することができます。しか
し頭脳だけでハートを持たない人は、ひからびて死ぬ
でしょう。


 同時にわれわれは、ハートだけにうごかされている
人はざまざまの病気にかかる、ということを知ってい
ます。ときどきおとし穴におちるおそれがあるからで
す。ハートと頭脳の結合が、われわれにとって必要な
ものであります。私は、自分のハートを頭脳と妥協さ
せよとか、その反対をせよとか言っているのではあり
ません。誰もが無限量のハートと感情を持ち、同時に
無限量の頭脳を持つがよろしい。われわれがこの世の
中で欲するものに限界がありますか。世界は無限では
ないのですか。そこには無限量の感情をいれるだけの
余地があり、無限量の教養と理性をいれる余地もあり
ます。両者を制限なしにともにこさせ、ならんでとも
に平行に走らせるがよろしい。


 大部分の宗教はこの事実を理解しています。それで
も、彼らすべてが、同一のあやまりにおちているよう
に思われます。彼らはハート、すなわち感情にさらわ
れてしまっているのです。この世には悪がある、世を
すてよ、それは偉大な教えであり、たしかに唯一の教
えです。世をすてよ。真実を理解するためには誰もが
あやまりはすてなければならない、ということに二つ
の意見があるはずはありません。誰もが善を持つため
には悪はすてなければならない、ということに二つの
意見があるはずはありません。誰もが生命を得るため
には死であるものはすてなければならない、というこ
とに、二つの意見はあり得ないのです。


 しかし、もしこの理論が、感覚の生命、つまりわれ
われが生命と思っている生命をすてることも意味して
いるのなら、あとに何がのこりますか。また生命とい
う言葉で他の何をさしているのですか。われわれがも
しこれをすてたら、あとに何がのこるのですか。
 このことは、あとでヴェーダーンタのもっと哲学的
な部分を説明したら、もっとよくわかるようになる
でしょう。しかしいまのところは、われわれはヴェー
ダーンタの中だけに、この問題の合理的な解決を見い
だすことができるのだ、ということを言わせて下さい。
ここでは私はただ、ヴェーダーンタがおしえようとし
ていることをみなさんの前に示すことができるだけで
あって、それは、この世界を神聖視すること、であり
ます。ヴェーダーンタは実は、この世界を非難はしな
いのです。ヴェーダーンタの教えにおけるほど、放棄
の理想が高度に達しているところは他にありません。
しかし同時にそれは、自殺をすすめるような、ひから
びた助言をしているのではありません。それは実は、
この世界を神聖視せよ−われわれが思っているよう
な世界、われわれが見ているような世界、われわれの
前にあらわれている世界を放棄せよ−そして、それ
が実は何であるのかを知れ、と言っているのです。そ
れを神聖なものと見よ。それは神以外の何ものでもな
いのです。
もっとも古いウパニシャッドの一つのはじ
まりに、こう書いてあります、「この宇宙間に存在す
るものは何であれ、ことごとく主におおわれるべきで
ある」 と。


 われわはあらゆるものを、主ご自身でおおわなけれ
ばなりません。にせの楽観主義によってではなく、悪
に対し盲目になることによってではなく、ほんとうに
一切のものの中に神を見ることによって、であります。
このようにして、われわれはこの世界を見すてなけれ
ばならないのです。そして世界が見すてられたら、何
がのこりますか。神です。
それはどういうことです
か。あなたは妻を持つことができる。あなたは妻をす
てるべきだ、などと言うのではありません。妻の中に
神を見るべきなのです。
子供たちを放棄せよ、それは
どういうことか。どこの国ででもけもののようなある
種の人びとがやっている、あのように家の外に彼らを
ほうり出すことですか。決してそうではありません。
それは悪魔の行為です。宗教ではありません。しかし
あなたの子供たちの中に、神をごらんなさい。一切の
ものの中に、神をごらんなさい。生の中に、そして死
の中に、幸福の中に、そして不幸の中に、主はひとし
く、やどっておられます。全世界は、主でみたされて
いるのです。目をひらいて、彼をごらんなさい。これ
が、ヴェーダーンタがおしえているところです。
あな
たが推測している世界を、おすてなさい。なぜならあ
なたの推測は非常にかたよった経験に、非常にまずし
い推理に、そしてあなた自身のよわさにもとづいたも
のなのですから。それをおすてなさい。われわれが実
に長い間思ってきた世界、われわれが実に長い間しが
みついてきた世界は、われわれが自分で創造したにせ
の世界なのです。それをおすてなさい。

目をひらいて、
そのような形では世界は決して存在していなかったの
だ、ということをごらんなさい。それはゆめ、マーヤー
だったのです。存在していたのは主ご自身だったので
す。子供の中に、妻の中に、そして夫の中にいるのは
彼です。よいものの中に、そしてわるいものの中にい
るのは彼です。彼は罪の中に、そして罪びとの中にお
られます。彼は生の中に、そして死の中におられます。

 

実にすさまじい断言です! しかしそれが、ヴェー
ダーンタが実証し、教え、説法しようとしているテー
マです。これがまさに、冒頭のテーマなのです。
 このようにしてわれわれは、人生とそれの悪の、危
険をさけるのです。何ものもほしがるな。何がわれわ
れを不幸にするのですか。われわれが苦しむ不幸の、
すべての原因は欲望です。あなたは何かをほしがる、
その欲望はみたされない、結果はなげきです。もし欲
望がなければ、そこに苦しみはありません。しかし、
ここにもまた、私の誤解されるおそれがあります。で
すから、私が欲望をすてて不幸から解放されるという
のはどういう意味であるか、説明をしなければなりま
せん。かべは欲望を持たず、また決して苦しまない。
ほんとうです。しかしかべは決して発展しません。こ
のいすは欲望を持たず、また決して苦しまない。しか
しいすはつねにいすです。幸福には栄光があります。
不幸には栄光があります。あえて言うなら、悪にも効
用があるのです。不幸があたえる大きな教訓を、われ
われはみな、知っているでしょう。われわれはこの生
涯で、しなければよかった、と思うことをたくさんし
てきました。しかしそれらは同時に、偉大な教師だっ
たのです。自分のことをはなせば、私は自分が何らか
のよいことを、そしてたくさんのわるいことをしてき
たのを、よろこんでいます。何か正しいことをし、多
くのまちがいをおかしてきたことを、よろこんでいま
す。なぜならそれらの一つ一つが大きな教訓となって
いるからです。いまあるような私は、私がおこなった
すべてのこと、私が思ったすべてのことの結果です。
あらゆる行為と思いがその結果をもたらしており、こ
れらの結果が、私の進歩の総計なのです。

 

われわれはみな、欲望はわるい、ということを理解
しています。しかし欲望をすてる、とはどういうこと
なのですか。どうして生きて行くことができますか。
欲望をころし、人もころすという、それはおなじ、自
殺的な助言でしょう。答えはつぎの通りです。ものを
持つな、というのではありません。


必要なものを持つ
なというのではないし、ぜいたくなものさえ、持つな
というのではありません。ほしいものは全部お持ちな
さい、もっとお持ちなさい、ただ、真理を知ってそれ
を理解なさい。富は誰のものでもないのです。経営者、
所有者の観念をいだいてはいけません。あなたは何者
でもない。私も何者でもない、他の誰彼も何者でもあ
りません。すべてのものは主のものです。
あのはじめ
の一節が、いっさいのものの中に主をおけ、とわれわ
れにつげたのですから。

神は、あなたが持っている富
の中におられる、彼はあなたの心の中におこる欲望の
中におられる、彼はあなたが買って自分の欲望を満足
させる、品物の中におられる、彼はあなたの美しい衣
装の中に、美しい装身具の中におられる、このように
考えるのです。この光でものを見るようにするやいな
や、すべてが変容するでしょう。あなたがもしあなた
のあらゆる活動の中に、あなたの会話の中に、あなた
の形の中に神をおくなら、全体の光景がかわり、この
世界は、かなしみと不幸の世界と見えていたものが天
国になるでしょう。


 「天の王国はあなたのうちにある」 とイエスは言い
ます。ヴェーダーンタも、あらゆる偉大な教師たちも
そう言います。「見る目を持つ者は見よ。きく耳を持
つ者はきけ」ヴェーダーンタは、われわれが長い間ずっ
とさがしもとめていた真理はここにある、しかもこの
間中ずっと、われわれとともにあったのだ、というこ
とを証明します。無知のゆえに、われわれはそれをう
しなったと思い、真理を見いだそうともがきつつ、さ
けびながらなきながら世界をうごきまわっていたので
した。その間ずっと、それはわれわれ自身のハートに
やどっていたのに!。そこにしか、それを見いだす
ことはできないのです。



 もし、世をすてるということを古い未熟な意味に理
解するなら、こういうことになるでしょうーーわれわ
れははたらいてはいけない、考えることも何をするこ
ともせず、土のかたまりのようにすわってなまけてい
なければならない、あらゆる環境にふりまわされ、自
然の法則の命ずるままにあちらからこちらへとおしな
がされて、運命論者にならなければならない。これが
その結果でしょう。しかしそんなことを言っているの
ではありません。われわれははたらかなければなりま
せん。いたるところでまちがった欲望にかりたてられ
ている普通の人間、彼らが働きについて何を知ってい
ましょう。自分の感情や自分の感覚におされてうごい
ている人、彼が働きについて何を知っていましょう。
自分の欲望にかられているのではない人、どんなかた
ちの利己主義にもかられているのではない人、彼がは
たらくのです。何の下心も持っていない人、彼がはた
らくのです。働きから何の得もえない人、彼がはたら
くのです。


 誰が絵をたのしむのでしょう。売る人ですか、見る
人ですか。売る人は何ほどの利益がこの絵から得られ
るか、という計算にいそがしいでしょう。彼のあたま
はそれで一ばいです。彼は木づちを見つめ、せりに注
目しています。せり値がどう上がるかに耳をすまして
います。買う気も売る気もなしにそこに行った人が、
絵をたのしんでいます。彼は絵を見て、たのしんでい
るのです。そのようにこの全宇宙も一幅の絵であっ
て、このような欲望が消滅したとき、人びとはこの世
をたのしむでしょう。そのとき、この売るとか買うと
か、所有するとかいうようなおろかな考えは、おわる
でしょう。金貸しは行ってしまい、買う人は行ってし
まい、売る人は行ってしまい、この世界は絵になりま
す、美しい絵になります。私はこれよりも美しい神の
概念を、読んだことはありません。
「彼は偉大な詩人、
永遠の詩人、全宇宙は韻をふみ、リズムをもってうた
われるよう、無限の至福のうちに書かれた彼の詩であ
る」欲望をすてたとき、そのときにはじめて、われわ
れはこの神の宇宙を、たのしむことができるでしょう。
そのとき、一切のものは神格化されるのです。われわ
れが暗いけがらわしい場所と思っていたすみっこやも
のかげもすべて、こうごうしい場所となるでしょう。

彼らすべてが彼らの真の性質をあらわし、われわれは
自分にほほえみかけて、いままでの泣いたりさけんだ
りのすべては子供のあそびにすぎなかったのだ、自分
たちはただ、わきに立ってながめていただけなのだ、
と思うでしょう。


 ですから、あなたの仕事をせよ、とヴェーダーンタ
は言います。それはまずわれわれに、どうはたらくか
をおしえます−すてることによって1日に見えて
いる、まぼろしの世界をすてた上ではたらくのです。
それはどういうことか。いたるところに神を見つつ、
です。このようにしてお働きなさい。百年生きたい、
という欲望でもよろしい、もし持ちたければすべての
この世の欲望をお持ちなさい。ただそれを、神聖なも
のになさい。それらを天国におかえなさい。この世で
人をたすける、至福にみちた長生きをしたい、とお思
いなさい。こうすれば、あなたは出口を見いだすでしょ
う。他に道はありません。人がもし、真理を知らない
で世間のぜいたくの中にまっさかさまにとびこむな
ら、彼は足場をうしない、目標に到達することはでき
ません。またもし人が世をのろい、森にはいり、自分
の肉体を苦しめて飢えで少しずつ自分をころし、ハー
トを不毛のきずものにしてすべての感情をころし、き
びしくドライな人間になるなら、その人もやはり、道
を見うしなったのです。これらは両極端、どちらもま
ちがいです。両者とも、道をあやまり、両者とも、目
標を見うしなったのです。


 ですから、ヴェーダーンタは言います、あらゆるも
のの中に神をおき、あらゆるものの中に彼がおられる
と知ってはたらけと。人生を神聖なものと思い、神ご
自身であると思って、またこれが自分のしなければな
らないことのすべてである、これが自分のねがうべき
ことのすべてであると知って、たえずお働きなさい。
神はあらゆるものの中におられるのに、他のどこに彼
をさがしに行きましょう。彼はすでに、あらゆる働き
の中に、あらゆる思いの中に、あらゆる感情の中にお
られるのです。このように知って、われわれははたら
かなければなりませんーこれが唯一の道、他に道は
ないのです。こうすれば、働きの結果はわれわれをし
ばらないでしょう。われわれは、まちがった欲望はど
んなに、われわれが苦しむ不幸と悪の原因であるか、
しかし神によって神聖化されきよめられると、それら
は不幸をもたらさない、それらは悪をもたらさない、
ということを見てきました。この秘密を学んでいない
人びとは、それを見いだすまでは悪魔のような世界に
生きなければならないでしょう。多くの人びとが、ど
んな至福の無限の宝庫が彼らのうちに、彼らのまわり
に、いたるところにあるのかを知りません。彼らはま
だ、それを発見していないのです。悪魔のような世界
とは何であるか。ヴェーダーンタは言います、無知で
ある、と。


 われわれは、大河の岸にすわってかわきで死にそう
になっているのです。食物の山のそばにすわってうえ
で死にそうになっているのです。ここに至福にみちた
宇宙があります。しかしわれわれはそれを見いだして
いません。われわれは常住、それの中にいます。そし
てつねにそれを見まちがえています。宗教はわれわれ
に、それを見いだすようにすすめているのです。この
至福にみちた宇宙へのあこがれは、すべてのハートの
中にあります。それは、すべての民俗の探求でした。
それが宗教の唯一の目標です。そしてこの理想は、さ
まざまの宗教の中でさまざまの言葉で表現されていま
す。このような表面のちがいのすべてをつくっている
のは、言葉のちがいにすぎません。一つの宗教はある
思想をある言葉で表現し、もう一つはすこしちがった
方法で表現します。それでも多分、それぞれが、他が
言おうとしているまさにそのことを別の言葉で言おう
としているのです。


 これに関連して、さらに疑問が出てきます。口で言
うことは実にたやすい。私は子供のころから、一切所
に、また一切物の中に、神を見る、そのときにほんと
うに世をたのしむことができる、ということをきか
されてきました。しかし私が世間とまじわり、それか
ら二、三の打撃をうけるやいなや、その考えはきえて
しまいます。私は神があらゆる人のうちにおいでにな
る、と思いながら通りをあるいています。するとつよ
い男がやってきてつきあたり、私は路上にたおれふし
ます。私はすばやく立ちあがり、こぶしをかためます。
血はあたまにのぼっており、思慮はうしなわれていま
す。たちまち、私は狂気したのです。一切のことをわ
すれて、神におめにかかるかわりに悪魔を見ます。生
まれてこのかた、われわれはすべてのものの中に神を
見よとおしえられてきました。あらゆる宗教が、一切
のもののなか、一切のところに神を見よ、とおしえて
います。新訳聖書の中にキリストがなんと言っている
か、おぼえていませんか。われわれはみな、それをお
しえられてきました。しかし、困難がはじまるのはそ
れが実地の問題となったときです。あなた方はみな、
イソップ物語の中のみごとな雄ジカの話をおぼえてお
いででしょう。雄ジカは池にうつった自分のすがたを
ながめ、自分の子にむかって、「私はなんとつよいの
だろう。このりっぱな頭や足を見てごらん。なんとた
くましいことか。そしてまたはやく走れること」 と言
います。そのとき彼は遠くに犬のはえ声をきくのです。
彼はただちににげだし、数キロ走ったあとであえぎな
がらもどってきます。子ジカは言います、「あなたは、
自分はつよいとおっしゃったばかりです。犬のほえ声
をきくやいなやにげだされたのはなぜですか」と。「そ
うだよ。だが犬がほえると、私の自信は全部きえてし
まうのだ」 われわれの場合もまさにこの通りです。わ
れわれは人間をえらい者だと思います。自分をつよく
勇敢な者と感じ、壮大な決意をします。ところが試練
とか誘惑とかいう「犬たち」がほえると、この物語の
雄ジカのようになってしまいます。そんなことである
なら、このような教えが何の役に立つのでしょうか。
非常に大きな効用があります。それは、忍耐はついに
は勝つ、というものです。何ひとつ、一日でなるもの
はありません。


 「この自己は、第一にきかれるべきもの、それから
熟考されるべきもの、そしてそれから瞑想されるべき
ものである」誰でも空を見ることはできます。地をは
う虫でも、青空は見ます。しかしそれはなんと遠いこ
とでしょう!われわれの理想も、それとおなじです。
たしかにそれは非常に遠いのです。しかし同時に、自
分はそれを持たなければならない、ということを、わ
れわれは知っています。われわれはまさに最高の理想
を持たなければならないのです。不幸なことにこの人
生では、大部分の人びとはまったく何の理想も持たず、
くらやみの中をさぐりまわっています。もし理想を持
つ人が千のあやまりをおかすなら、理想を持たない人
は五万のあやまりをするでしょう。ですから、理想を
持つ方がよろしい。そしてこの理想についてわれわれ
は、それが自分のハートに、頭脳に、血管の中にはい
るまで、それが自分の血液の一滴々々の中で振動し、
身体の毛孔の一つ一つに浸透するまで、できるだけよ
くきかなければなりません。われわれはそれを瞑想し
なければなりません。「ハートがみちあふれて、口が
はなす」 そしてハートがみちあふれて、手もはたらく
のです。


 われわれの内部の推進力は、思いです。心を最高の
思いでみたし、今日もあすもそれらをきき、この月も
つぎの月もそれらをお思いなさい。決して失敗を気に
なさるな。それらはごく当然のこと、それらは−こ
れらの失敗は。人生のうつくしさなのです。失敗がな
ければ、人生は一体何でしょう。もし努力をするため
のものでなかったら、それは生きるかいのないもので
しょう。どこに人生の詩があるでしょう。決して努力
を、まちがいを気になさるな。私はかつて、雌牛がう
そをつくのをきいたことはありません。しかしそれは
ただの雌牛 − 決して人ではありません。ですから、
これらの失敗を、これらわずかの後退を決して気にな
さるな。理想を千たびもかかげ、もし千たび失敗した
ら、もう一度努力をなさい。人の理想は、あらゆるも
のの中に彼を見ることです。しかしもしあらゆるもの
の中に彼を見ることができなければ、ひとつのものの
中に、あなたが一番すきなものの中に彼をごらんなさ
い。そしてそれからまた、別のものの中に彼をごらん
なさい。その調子でつづけて行くことができます。魂
の前には無限のいのちがあります。時間をおかけなさ
い。そうすれば目標に到達します。


 「彼、心よりすみやかに振動する者、心以上のスピー
ドを出す者、神々さえ近づくことができず、思考も理
解することができない者、彼がうごいて、一切のもの
はうごく。彼のうちにすべては存在する。彼はうごい
ている。彼はまた不動である。彼は近く、彼は遠い。
彼はあらゆるもののうちにいる。彼はあらゆるものの
そとにいる − あらゆるものに浸透して!。あらゆ
る生きものの中にそのおなじアートマンを見る人は誰
であれ、またそのアートマンの中にあらゆるものを見
る人は誰であれ、その人は決して、そのアートマンか
らははなれない。すべての生命と全宇宙をこのアート
マンのうちに見ることができたとき、そのときにはじ
めて、人は秘密をあきらかにしたのである。彼のうち
に、もはや妄想はない。宇宙の中にこの一者を見る人
にとって、もはやどこに不幸があろう」


 これは、この生命はひとつ、いっさいのものはひと
つということは、ヴェーダーンタのもう一つの偉大な
テーマです。われわれの不幸のすべては無知からくる、
そしてこの無知は、多様という観念、すなわち人と人、
民族と民族、地球と月、月と太陽は別々のものだ、と
思うことである、ということをそれがどのように実証
するか、見てみましょう。原子と原子は別々のものと
いうこの考えから、すべての不幸はうまれてくるので
す。しかしヴェーダーンタは、このはなればなれは実
在しない、はんものではない、と言います。それは単
に、表面のみせかけなのです。ものの心には、なお単
一性が存在しています。もし表面の下にはいるなら、
あなたは人と人との間、人種と人種との間、高いもの
とひくいものとの間、富める者とまずしい者との間、
神々と人びととの間、人びととけものとの間に、この
単一性を見いだすでしょう。もしあなたが十分にふか
くはいるなら、すべては一者の変化にすぎない、とい
うことがわかるでしょう。そしてこの一者の概念に到
達した人は、もう妄想はいだきません。何が彼をあざ
むくことができますか。彼はあらゆるものの本性を、
あらゆるものの秘密を、知っているのです。

彼にとってもはやどこに、不幸などがありますか。彼が
何をほしがりますか。彼は一切のものの本性をさぐって主に
まで、中心にまで、一点にまで達しました。そしてそ
れが、永遠の存在、永遠の知識、永遠の至福なのです。
そこには死もなければやまいもなく、かなしみも不幸
もなければ不満もありません。すべてが完全な統合で
あり、完全な至福です。では誰の死をかなしむことが
ありましょう。実在の中には死もなく不幸もありませ
ん。実在の中には、誰の喪に服することも、誰のため
にかなしむこともありません。彼、純粋なる者、形な
き者、身体を持たない者、無垢なる者は、あらゆるも
のに浸透しているのですーー彼、知る者、彼、偉大な
詩人、彼、みずから存在する者、あらゆる人に彼がう
けるにふさわしいものをあたえる彼は ー。この無知
の世界、無知からうまれたこの世界を実在だと思って
崇拝している人びとは、やみの中を手さぐりしている
のです。そして全生涯をこの世界にくらし、それより
よいもの高いものをさがしもとめない人びとは、さら
に深いやみの中を手さぐりしているのです。しかし、


自然のたすけにより、自然をこえたそれを見て自然の
秘密を知った人、彼は死を超越し、自然の彼方にある
それのたすけによって、永遠の至福をたのしみます。
「あなた、太陽よ、あなたの金色の円盤で真理をおおっ
ておいでのお方、あなたのうちなる真理を見ることが
できますよう、どうぞ悪をのぞいて下さい。私はあな
たのうちなる真理を知りました。私は、あなたの光線
とあなたの輝きのほんとうの意味は何であるのかを知
りました。そしてあなたのうちに輝くそれを見ました。
あなたのうちの真理を、私は見ます。そしてあなたの
うちにあるそれは、私のうちにあります。そして私は
それです」







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