心とは何だろうか?




まず始めにこのようなことを考える事が出来る脳と、その環境であることを感謝申しあげたい。


思うに、心とは存在の一要素であって、この世界を構成する全てでもなく、決して最高の要素では

ないと云うこと。なぜならこの世界は心なしで実際には維持されているからだ。眠ることや覚めていること

瞼の開閉を始め、循環器、呼吸器、消化吸収、筋肉や内臓など生きている身体の維持運営管理には思考

心は関与していない。関与しているとしても心は一部分であり、心が関与している部分とは表層の部分だ。



話すことに於いても然りであり、心は自分が話しているのだとそう確信しているが、実際には、網膜や

舌やのどや神経やそれに関する脳内の共同作業で、話すことは成立しており、表面の自己意識である思考や

心は自分が言葉を話し、考えて行為しているのだ・・とそのように思っていても、話すこととは実際には心や意識

を使っている「根源」が、であり、意識や肉体や心を使用している「未知なるもの」によって話す行為も

思考も行われている・・とそう言えるのではないか?!




では心とは何か?この現在意識とは何か?

それは思われるに

心とは無限のレベルの段階とステイト・次元がある「現在意識」の事であろう。現在の地球人類の段階のマインド・

意識は「他と分離していると錯覚する私という観念」によって構成されているが、この段階が心の全てではない。

そして、この現段階での地球人類の平均的心の状態とは非常に未発達なので(脳が条件付けられているので)

心は自他に同じで分離していないにもかかわらず、錯覚にとらわれ私は他人とは異なっていると思い込んでいる。

ということなのではないか。



自他は分離していると知覚や感覚や記憶と云った脳の条件付けは言う。

が、しかし、心はその脳と同一化しているが心自体は決して個人のものではない。

脳を通じて機能している心は脳の条件付けには完全には縛られてはいない。

けれども現段階の私達である人類の心は、脳の機能と一体化し、自身を見誤っている。


それなので

心は松果体で繋がっている霊魂と意思の疎通が出来ていないといわれている。

ましてやハートにある霊とは言わずもがなである。

これが現在のパーソナリティーである未発達なサイコノエティック体の現状だ。



心は一見すると魂のように見えるが魂ではなくて、球体の樣であり、心という全体を構成している一細胞なのである。

個別的霊魂が全体性の霊魂を高次元で構成しているように、この球体の自我は全体の地球マインドを構成している。

またその心とは、それぞれの一細胞の心に拠って生み出されたエレメンタル・想念形態ではなくて、自我である

サイコノエティック体という思考体+感情体で構成されており、自分は他人とは全く異なっているとそう思っている。


肉体でさえ自他に差違はなく全体であるものなのに、肉体に結合した心自らは

見られている内部や外部と、私とは分離しているのだ、とそう思ってしまっている。

私は観察されるものではなく、観察されているものとは別の観察者だと思ってしまっている。

自分という心は、観察されている対象と分離していないのに自分は世界と分離していると錯覚している。

それが私という心のことだ。



ではさらに心とは何なのか?

有名な覚者は「見るものは見られるものである」と心を看破している。

自らは自他に分離していないのに、脳と結合した心は「自分は分離している」と錯覚してしまっている。



肉体や霊的諸体は神の道具であり、この現象界をカルマを伴って生きているそれらのものに対して

同じ神の芸術作品である心が自己同一化したのだ。


そのようなカルマと才能を持つ肉体と結合したが故に原因と結果をもつ循環世界に巻き込まれたのだ。

自分は肉体だと信じ込んだ心は肉体のもつカルマを引き受けてしまって喜怒哀楽に巻き込まれている。


また更に心は肉体や霊的諸体とは決して私やあなたという個人のものでも、個人の所有でもないのに、

私の心とか私の体だという嘘八百である「あやかし」に捕らわれている。


心・意識はこのあやかしに混濁され、自分と他者は異なっているという実体感覚を有するように

なってしまった。




心とは決して私のものでも、あなたのものでもない。心がわたしやあなたなのである。

私もあなたも同一の同じ心であり、私やあなたは同じ心である。そしてその心が自己意識である。

分離した私という自己実体感覚・・この錯覚が最大の幻想を生み出しているのだ。・・それが私だ。


この心である自我、私とは「私は個人であり私は他人とは異なっている自分だ」と思っているが、

その思っている私である自己自我は他人の自己自我であり自他に同一なのだ。


心は自分は他人と分離しているとそう思い込んでいるが、実は分離していないマインド・心「私自身」である。


その心とは自分のことを「私は肉体や霊的諸体」であり、他者とは異なっている個人や人格だと思っている。

しかし、心はわたしだけのものだと、私は他人とは違うと思っているが他人とまったく同一の心なのだ。

私は心だと、心が全てだと、心は私独自で、私はすべてと分離している、私は孤独な記憶だと

そのように心は錯覚と同一視して

・・その様に信じ込んでしまっている。


しかし心は自分自身のことをそう錯覚しているだけで、実際は違う。

心は分離していないのである。

実際は心は自他に分離しておらず、自他に分離しているとそのように思っているだけだ。


賢者の言うように「見るものは見られるものである」であり、実際には心とは現実を誤認している。

無知に覆われており、実在ではない霧に覆われている。

青空や鏡のようなものであると言えるのではないか。

心が自分のことを、私は主体であり「客体は自分である主体とは異なっており、自分は観察者である心だ」と・・

そう決めつけているのではないか、本当は「見るものは見られるものである」なのではないか。



事実は、心は見る者であり、そして同時にその見る者によって対象として認識されているものである。と覚者は言う。

恐怖を見ているものは恐怖である。

自他は分離していないのに、「あなたは私と異なっている実体だ」とそのように錯覚する。

そのように知覚し、実感している心とは、心の段階が非常に低いのであり、心が透明化してハイレベルになれば


心は魂やさらなる霊と繋がり、他者と分離していると実感しているその無明から解放されることだろう。


心とは私という観念であり、「自他は分離しており、世界は私ではない」とその様に錯覚してしまっている。

心は肉体やその脳、思考そして諸体と一体化してしまっている。

が心は成長し魂を受け入れることが出来るという。


覚者によれば、心という観察者は、その観察者に拠って観察されているもの・対象であり、実際には

分離や二元は存在していないという。二元分離は心の錯覚なのだと。

分離・二元は心が無明によって生み出した錯覚なのだ。


心は私の心や、あなたの心に分かれているのではなく、現段階の心が非常に低いので、肉体と同一化し、肉体の持つ

カルマに巻き込まれ、脳の働きを自分だと錯覚し、私は個人で、他者ではないとそう思ってしまっているだけだ。



・・・と、本日は以上の様に心について思索してみました。


この事を書いている久保栄治という心の段階は凡人であって、自分は行為しているという実感を持って

おります。現在の私の心のレベル即ちサイコノエティック体のレベルでは「私は行為していない」と

言うことは、自分に対しても嘘をついていることになってしまいます。「私は行為していない」とそう言うことが

許されるのは感覚がこの五感ではなくて、六感を超えた高次感覚である魂レベルの心だけとおもいます。

従って自分が行為しているという実感のある段階の私には「私は行為していない」とは言えません。

久保栄治には”悟った方々は「私は行為していない」と言っております”というのが正しい表現です。

この行為の実感のある段階の私達には、正しい行為の実践が最も正しい道だと思います。

その正しい行為とは正しく心である自己を観察すること即ち、多くのレベルのある自己観察であるとおもわれます。

正しい自己観察とは自他を無条件で愛すること。愛には自他という分離や区別はないからです。

私私と言っている自我は自も他も同じものです。自我に神の愛を注ぐのです。

その実践は自他を愛すること、愛することとは愛する相手のために自分が吸収されゼロになること。

私・自分に愛があるから愛するのは愛ではありません、それは自我の商取引です。

私・自分に愛があるなしにかかわらず自他を愛するのが愛です。

私達は「霊・魂・心・体」であり、心や体だけではありません。






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