戦いは不要




戦いは不要だ、争いは不要だ。

何故に、人は敵と味方に分かれて憎み合い殺し合い争うのか?

敵と味方に分かれてあい戦い、競争し、争うその私とは誰か?相手とは誰か?


論理的に正しく思考した場合

敵は私であり、味方は私なのではないか?

脳は脳であり、決して私の脳ではないし、あなたのものでもない。

この記憶も、知覚も、統覚機能も私のものではなく、あなたのものでもない。

心は心であり、それが自己であり、その自己とは私のものでも、あなたのものでもない。

その私という自己が敵と味方に分断し、相争い、競争し合う、が、この私とは私という心に他ならない。

これは常識だ。世間一般の常識ではないかも知れないけれども、この考えは正しい論理であろう。


思考と行為は肉体と共に生起し、自分が行為し、自分が考え、自分が生きていると

その様に思うように脳・心は条件付けられており

肉体と一体化した「心」はそのように錯覚しつづけることだろうが、その実感は錯覚であり間違っている。



敵と味方で争い、骨肉までもが利益の取り分で争い、隣同士が領土で争う。肌の色が違うだけで

敵と味方で殺し合い、信仰や信念の違いだけで殺し合い、利益の取り分で殺し合い、領土で戦い殺し合う。

この敵とは誰か、また味方とは誰か?相い争いあい、競い合う私とは誰か?またあなたとは誰か?

そして敵と味方という分離区別をしているこの心である私やあなたとは誰か?


ミルダッドは言う

「雲は自らを失わない限りは、自らを見いだすことはない。

死んで雲として消え去らない限りは、自らのうちに大海を見いだすことはない。

この大海こそ、雲の唯一の本当の自己である」と


また

「思考はベールである、心はベールである、私はベールであり、眼を覆っているベールである」

従って

「私が視ているものは全てベールである」

事物を放っておきなさい。事物を変えようと心を砕かないようにしなさい。





「人間は私というこの産着にくるまれている神である」





敵だと思い、味方だと思っている私とは人類の共通の自己意識であり、この肉体と

自己同一化している心・・即ち私である人類の心とは雲なのである、ベールなのである。



自分のことをあなたと異なる私だと思い、私とはあなたなのに、それを敵や味方だと

その様に思い違いし、それを信じているのは、心であり

心とは、あなたであり、私である根源の演技に他ならない。


この現象界は源泉の演技の世界なのである。

人類の全ての自己・私とは地球で一つの心であり、心とは神の演技だ。



殺す者は殺されるものであり、搾取するものは搾取されるものだ。豊かなものは貧しいものである。

それを私は豊かだ、私は貧しいと思っている私とは心であり、心とは実は神の演技なのである。と

殺し合い、憎み合う敵も味方も共に神であるのに、それを私が殺している、私は殺されたと思って

いるこの私とは誰なのであろうか?


それは共通の心であり、その分離していると思っている心とは神を覆っているベールであると

神自身がその様に内側と外側という分離を演技されているのであるのか

それがこの現象界である。


・・・・と私は思索している。

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