思考と心と意識



通常、私達は思考と心と意識とを混同している。しかし、それらはそれぞれ次元が異なっていると思われる。


私は思考ではない。

思考は脳にやってきているもの、脳から起こっているものだ。

脳の記憶の私のことを、心の私は自分だと錯覚するが、その私は心の私ではない

脳に起こっている思考は私ではない。記憶は私ではない。記憶の私は私ではない。私は心だ。

私達が肉体に結合して一体化してしまっているもの、それが脳であり脳が生み出す思考だ。

その思考である私は決して私ではない。思考は精妙な物質である。

その物質・思考は脳が生み出しているが心に拠ってコントロールできるという。


私達は意識とは繋がっているが意識はまだほんの少ししか意識されていない。

意識との通路が塞がれているからだ。




私達とは意識と繋がっている心である。

「私という観念」である心が私だ。その心が生み出しものが思考だ。

しかしこの心は思考や欲望や記憶の反応の私のことを自分自身だと思ってしまっている。

自分はこの特定の肉体だと思っている。自分を個性や人格だと思い込んでいる。

というのも結合した肉体そして三つの脳やその働きを自分自身と思い込み見誤った故であるからだ。

しかし脳に結合した心が私なのだ。脳から生じた記憶の反応という私は心の私ではない。



ではその心とは何か?

それは二元性、分離、分割であり、なろうとすること等に代表されるという内部と外部のこと

二元性とは見るものと見られるもの分離分割、私とあなたの分離分割のこと

私と世界との分離、私と宇宙との分離、私と愛である神との分離分割のこと

「見られるものであり、見るものである心」は脳に入り自分自身を分離してしまった。

心はみずからを見るものと見られるものに分離してしまった・・私と世界に、私とあなたに、・・

「見られるものは見るものである」との直接の覺知・直覚は心ではなくて意識の意識であり

このことを理屈で言えば

見るものは見られているものではないと分離して見ているのが実は両者である心だということ。

実は心が見るものと見れるものの分離、対立、自己関心を引き起こしている。

それは私が心というマーヤである錯覚「私という観念」であるからだ。


この事は心という自我体がかなり成長している段階でないと、それを見分け識別するのは難しいという。

意識と少し繋がりが回復していないと難しいという。(久保栄治は殆ど回復していない)


私達は心であり、そして現在の私として地球人類の私でもある。私達地球人は一体でひとつだからだ。

心は全ての人々で全く同じだからだ(記憶や思考は単体で異なっているが)

しかし私達は思考との結合によって濁ってしまった水であり、この水が澄み渡り透明にならない限りは

心は心を意識出来ない、心は意識を意識できない。

それは

心は思考によって濁ってしまっていて透明という「空」になっていないからだ。


久保栄治はまだこの段階ではないので意識の事は一切知らない。

従って全く話せない。

久保栄治という心はまさに思考や脳や脳の記憶の反応と一体化しており、喜怒哀楽に巻き込まれている。

そして、この肉体と深く一体化し、頭脳の働きに巻き込まれており、自身である心を観察することが殆どない。





だがしかし、私達は決してロボットではない。記憶の反応ではない。

私達は脳の結果でしかないものである個人や複数の人格、ワサナや想念形態ではない。


私達は脳と結合したのでこの脳の作用と一体化しているが、

本当の私達はその脳の作用を認識している観察者という心なのである。

そしてその心は神のものであり、神と繋がっている。

私達は思考ではなくて思考の観察者である。

そして私達・心は観察者は観察されるものとは別だと思っており

さらに観察されている思考さえ自分は思考の観察者だと思っている。

賢者の言うように本当は「観察者は観察されるものである」というのに・・。



私達である観察者には、責任がある。


それは

私達は「愛」と一つになる必要が有るという責任だ。

私達である心が、愛である意識というものと結ばれ再び意識に生まれ変わることだ。

ミルダッドが言うように

愛する者が、愛する相手に永遠に吸収されて、二者が一体となるのでなければ


私達である心は意識と繋がることはないだろう。




私達は意識して「愛」を与えるべきである。意識は愛であるからだ。

自分を捧げるべきである、あらゆる友のために(敵も味方も友だ)。

全ての友の為に、友のお役に立つため、友である「神」のために命を捨てることが愛であり

それが帰還する道であることだろう。・・私はそう思っている。


愛は物質ではなく、思考ではなく、心ではなく、意識であり、霊であるものなので、

未熟の私達ではあるけれども、この通路である自分・心から愛を

与えれば与えるほど愛が多く与えられ、

失えば失うほど豊かになり、愛を全てのものに注ぐことが出来るようになる。

実は心とは万物であるからだ。自己を失えば万物があるがままとして出現する。


私達は物質ではなく思考ではないので、与えることでより多く与えられる。

自分を失えば失うほど豊かになる。それは・・あるがままが顕れるからである。

自分が限定された肉体や個体や自分ではなく

心であることが明らかになり、更に

私とは対象であったことがより鮮やかになっていくからだと。



そして愛を与えることで自分は解消され、大空を覆っていた雲がなくなり、

元々あった本来の青空が(意識が)姿を顕すと。





心である私という観念が透明になり、その私という観念の大元が顕現したとき、

本来の「わたし」である意識はあらゆるそこに元々在ったのだと教えられている。

主体と客体に分離している私とはいなかったのであると。

その時見る者は見られるものであり分離はなく、大空だけがあり、あるがままだけがあったのだと。



・・・しかしそのためには意識である愛の実現のための

自己観察という血の滲むような毎日のワークが必要なのではないか。

自己観察という学校は幼稚園から大学院までレベルと段階があるからだ。

同じ自己観察のワークでも内容は天と地の開きがある。



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