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「私とは」についての教えとその理解


私達が学んでいるアドヴァイタの教えは、言葉で読むことは難しくないし、教えは複雑ではないので、知識として
知ることは簡単ではある。
しかしそれを理解し、自分自身の血肉とすることとは直覚し、実感することであるので非常に難しい事柄である。
この私達のアドヴァイタの教えの「私」に関しての部分を概略すると、大体のところ以下の様になるだろうと思われる。
がしかし、これはあくまで私個人の概念的な理解に過ぎず、正確な意味では理解とは言えないだろう
ここでわたしが書いていることは、どこでも、だれもが言っていることなのであるけれども、実際にこれを高次の知
覚で実感することは別問題である、これを直知することが真の宗教だといえるだろう。



神我:至上我とか、キリスト意識とか、ブラフマンとか、「サット・チット・アーナンダ」とか、仏意識とか言われている。
    あらゆる次元とあらゆる空間と時間に遍満している最内奥の私である。究極の真実在の私である。この神我は
    シャンカラによって詳しく説明されている。
    この状態であるのがキリストや仏陀や、名前の知られていない真人であり、老子やシャンカラだと言われている。
    この神我のことを、プラマートマーと言うこともあるしブラフマンと言うこともある。
    真我を一つの細胞にたとえるならば神我はその全体であり、全てをならしめ、あらしめている根源の根源である
    といえる、その私とは純粋主体の根源、絶対主体とも、非顕現の神ともいわれる最内奥の私であり、決して
    対象や客体ではないし、対象化も客体化もすることはない。
    言葉を超えているものを言葉という媒体で伝達することは不可能であり、思考ではない状態を思考することは
    できない。ラーマクリシュナは三昧でこの究極の意識とひとつの状態だったのである。
    ラマナ・マハリシにおいて「私は誰か」と問いかけたのは、この私である。



真我:本当の私、魂の内奥の私、全体であり、全宇宙である神我を形成している一つの細胞とも形容されるわたしである。
   この真我のことをインド哲学ではアートマンと言われることもある。
   非対象、非思考の私でありエレブナでは少々難しい言葉でもって「ソウル・セルフ・エピグノーシス」と言っている。
   この私こそが、真実の意味で私といえる私である。
   この私は思考しておらず、自他に分離しておらず、判断せず、評価せず、溢れる愛の中で、非対象の「あるがまま」
   を見ている。この私に繋がっているものが「統覚機能である魂の私」であり、魂からの派生している現在の私である。
   さらに、その魂と魂の一部である現在のパーソナリティーを覆っているものが、「私という観念・マーヤ」である。
   神の幻術である「私という観念」が脳を覆っており、その「私という観念」が「自分は肉体だ」と信じ込んでいるのである。
   自分ではないこの「私という観念」を自分だと思い込み、肉体や諸身体を自分だと思い込んだのは現在の私である。この
   ように錯覚してしまった魂の部分の現在意識の私と魂に、私だと言う「自己意識たる観念」の私などがサングラスとして、
   魂を覆っているのである、はっきり言えば魂の私の目(神道でいわれている鏡のこと)を幻術マーヤが覆っている。
   
   クリシュナムルティーが「思考なくして見よ」と言っているのは、この「真我の目で見よ」とのことであり、真の私はいつも
   思考なくして、「非分離・非対象のあるがまま」という完全完璧を見ている。
   私達が、その「思考なくしてみること」の状態であり、「私と言う観念・マーヤ」が存在していない目を、本当に心の底から
   願っているとき、「開眼」という真の私からの働きかけが行われないことがあろうか。
   人類は真我を求めることなく(最内奥の自己である神我を求めることなく)安定と安全、安楽と自己満足を、即ち
   自己・自我の満足を求めたのである。人類は神を求めていないのである。御利益に関心があり、御利益を求め
   ているかぎり神を、真我を求めることは始まらない。私ではないものを私と錯覚したのである。私達は一つであり
   意識であり、分離しておらず、愛と慈悲と叡智に溢れ、全てである私であり、肉体や諸体や、限られた感覚や
   限定されている心ではないのである。“私とは私を愛している私”なのである。

   この真実の目のオープンの作業は、絶えず真我側から行われているのである。ドアをたたいているのは真我であり
   現在のパーソナリティー側が心の底からそれを求めていないのが、目(ドアー)が開かないことの原因なのである。
   キリストの言葉にあるように「求めよ、されば与えられん」「ドアをたたけよさらばドアは開けられん」である。
   神を求めないで御利益を求めているのである。神を利用してはならないし、決して利用することはできないのだ。

   この真我の目であるとき、非思考、非対象の状態の中で分離しているものは何もなく、自我もなく、従って他己もなく
   非分離の実在の状態であり、「あるがままはあるがままで完全完璧に美しい」と表現されている真我の状態である。
   この状態とは思考ではないので従って記憶ではなく、記憶ではないので、心と知覚は汚されておらず、全ては日々新た
   であり、新鮮で感動に満ちた真我の実感の世界が拡がっているといえよう。クリシュナムルティーはこの状態を
   詳しく語っているのである。
   大古からの哲人や賢者達、聖人達がこの状態のことを、それぞれが自分のオリジナルな言葉で語っている。



: 永遠のパーソナリティーとか、観照者とか、輪廻している主体とか、松果体に下った私とか言われている私である。
   真我が自らを顕現し、現象界と言われる三界で輪廻している世界に現れ、接触しているのが魂であり
   真我の一部分である魂である。この魂とは統覚機能ともいわれており、自らを主体だと信じているが、本当の意味での
   主体であり、認識している私といえるのは真の私であって、魂ではない。魂は真我の分光なのである。
   この魂が、輪廻の三界の幻影に触れて自分自身である「真の私」という私を忘却している状態が、まさに現在の人類の
   状態であるといえる。
   魂が物質界を去るとき、諸体を引き連れ「息」である生命と共に肉体から離れるのである。「息を引き取って逝く」のである。
   そしてまた、魂が新たなる肉体に宿るときは、天使達が蓄積されたコーザル体の情報に基づき創造するあらたな
   精妙諸体を身に纏い、前世から引き継いだ才能や特性や個人の傾向などのサムスカーラを持って肉体と結ばれ
   今世も同じような人生を歩み始めるのである。
   魂は新たなる精妙体を身に纏い、カルマとDNAに限定され条件付けられた頭脳に結ばれて、そこで記憶が白紙に
   なった状態で新生児として、錯覚のマーヤと直面するのである。その新生児の意識・・これが現在のパーソナリティー
   の意識である。肉体を離れたこの現在のパーソナリティーは転生に際しては魂の中のコーザル体に成果が吸収され
   現在のパーソナリティー自身はサイコ・ノエティック体(アストラル・メンタル体)として、それぞれの元素へ分解される。
   現在のパーソナリティーがこの物質次元に実存しているときに、魂と肉体脳及び諸体の結合の不具合やずれが生じた
   場合に、精神障害や精神疾患、認知症などが発生する。魂こそが生命であり、呼吸を正常にあらしめ、肉体を始め諸
   体の維持をさせているにもかかわらず、このことを人類はそれを逆に見ており、真実のシステムに気がついていない。
   魂があるので、諸体も肉体の脳も正常に働くことができており、心も、五感や思考も働いているのである。
   
   この魂である私から投影されているのが、魂の一部分である(魂の現在意識部分の)現在のパーソナリティーであり、
   この現在の私と共に真我に帰還することが魂の役割であるとも、俗義の立場からは、そのようにいえよう。
   しかし勝義の立場から、究極の神我の立場から見ている場合は決してそうではない。実際にその次元に立ってい
   る場合は、老子やラーマクリシュナのように「行為は神が為している」「行為は起こっている」というような見解に至るのである。
   けれどもこの「神が行為している」と言うことを理解すると言うことは、三界の輪廻を脱したこととなるのである。逆に言えば
   浄化された心ハートで非顕現の根源者である神我に触れたとき、その「行為は私が為しておらず神が行為している」の
   理解がされるのであり、それを文章で読んでも思考が、無知に汚染されている、現況の肉体の脳や諸体の脳である限
   りは、条件付けられているので理解することはできず、この言葉を逆に誤解して、自我の行為が神の行為だと勝手に
   自分にとって都合の良いように正当化してしまうのである。「聖戦や殉教」を見てもわかるように、この誤解がどれほど
   の害をもたらしているかわかるというものである。


   この魂の事に触れない一部の賢人もいるが、この魂とは、ハートとも、ソウルとも言われ、私達のこの分離した実人生
   の中で重要な役割を演じているのであり、決して省略したり無視したりすることはできないのである。

   転生時には肉体は火葬されており、諸体もその元素にもどり、現在のパーソナリティーも人生の成果だけが原因体に
   サムスカーラとして引き継がれて消滅しているので、普通の意味でも私といえるのは魂だけである。
   魂は意識の座であり、純粋なる意識、純粋なる心、純粋なる認識でもある鏡であり、この意識の座とは物質界や死後
   のバドル界やアストラル界にあるのではなくて、これらの次元での時空間よりも、さらなる高次の次元にある。
   私とは思考ではなく、勿論身体ではなくて、純粋なる心である。汚されていない認識、純粋なる主客に分離していない
   意識それが魂の私である。
   自己観察とは、私ではない思考に焦点を当てることではなくて、私であるこの純粋なる意識と純粋なる心と純粋なる
   認識に、焦点を当てることである。

   この意識の座・自他の分離のない純粋主体・真の認識である心に、「私と言う観念」が覆い被さり、この覆い被さっている
   「私と言う観念」が自分が行為している、私が自分自身であると実感して、神が行為している肉体や諸身体のことを
   自分自身であると錯覚し、同時に他者のことも肉体だと錯覚しているのである。そしてその錯覚している「私と言う観念」
   のことを、鏡である魂の私は、(鏡に映っているその思考を(観念を))さらに自分だと思い込んでいるのである。

   真の私とは、この魂の内奥にあり、決して対象や客体としてあるものではない。真の私とは自我の奥にある魂の、さらに
   内側の内奥あるのが真の私であるから、オーバーシャドウやチャネリングなどによって、神や天使として出現したりして
   言語で語ったり、さらには肉眼や霊眼で見る事のできるような、対象である天使や神として現れることはないのである。
   神聖なる次元とは内部にあり、意識の中核に在るのであり、決して客体や「対象認識している似非主体」という外部に
   あるのではない。肉眼や霊眼や思考の知覚対象とは神でも天使でもない。

   また魂自身もアストラル体やメンタル体ではないのでアストラルの目やメンタルの目で見ることはできない。次元がより
   高次であるからである、玉響は魂ではなくて精霊であり、これらの写真に撮られたり計測できるものは高次元の魂ではない
   五感や六感自身がそれぞれ肉眼や霊眼なので、対象を見ることができるだけである。対象ではないものを見るには
   それらの次元の目ではできない。「対象ではない意識」の座である(鏡である)魂は知覚対象ではない。魂は意識の座であり
   現在意識や潜在意識の座、即ち日中の覚醒と夢見の意識を成立させている意識の座である。真我は熟睡を見ている
   純粋意識であるといえる。

   この魂の事を、神道では鏡と言い、ラマナ・マハリシなどによってスクリーンとも言われているように、魂とは意識の
   座であり、この意識の座があるからこそ映像は投影されており、神の物語も上演することができているといえる。
   この魂の状態とは、鏡の状態でもあり、この意識の座が無知である「私と言う観念」に覆われているのである。
   私達の現況では魂と繋がっているシルバーコードの状態が汚れて(水道管が詰まって流れが良くないように)
   現在のパーソナリティーの意識状態も混濁して透明ではないのである。
   これは鏡が汚れて太陽である真我を映せないような状態になっているのである。
   この状態とは、鏡の表面が低次思考・低次感覚・思考の条件反応などのサングラスで覆われており、自分自身で
   ある太陽を見ることができない状態が続いているともいえる。 
   私とは「意識の座」である魂であるのに、その意識の座に現れている「私と言う観念」や肉体や、諸身体や、思考を
   魂とその魂の一部である現在のパーソナリティーは私だと錯覚しているのである。魂自身が外側に捕らわれてしまい
   魂自身の内奥を見る事を忘れているのである。



現在の私:個我、人格の私、現在のパーソナリティーとも、サイコ・ノエティック体とも、現象我とも、自我とも、観察者とも
      言われている私。
      この現在の私とは、魂の部分として、魂から投影されている魂の現在意識部分であり、魂の先端部分でもある。
      所謂、この輪廻の三界で「ああだ、こうだ、失敗した成功した、良かった悪かった、嬉しい悲しい、愛してる憎んで
      いる、もっとこうしなければいけない、もっと良くならなければいけない・・等々、内省し、反省しているわたしである。
      思考による自己観察を、「見ている」と錯覚し、「自己想起」を自己観察と錯覚し、動機と目的を持っている瞑想を
      瞑想と取り違えている私である。真の私とは動機も目的も持っておらず、反省も、自己観察もしていないのである。
      真の私には観察する対象もないし、観察するという分離している思考行為も存在していないからである。
      観察したり、動機や目的を持つことは、“「私と言う観念」と同一化している私であるところのこの現在のパーソナリ
      ティー”の特徴なのである。
      現在のパーソナリティーとは、魂が肉体の誕生時に、身体に宿るとき、高次の意志によって、過去生の記憶か
      らは遮断され、自らの努力によって真我である自分自身に戻るように促され要請されている私なのである。
      この現在のパーソナリティーこそが魂の私との繋がりを回復し、魂と共に内部に気がつくことが人生の目的
      なのである

      この現在のパーソナリティーのことを記憶の私という場合もある。現在の私とは魂の記憶の反応なのであると。
      クリシュナムルティーなどはこの現在の私とは、脳で受信された思考や感情や想念の記憶であって、この記憶が
      自己という感覚を持っていて、やってきている思考や感情に反応している・・とも言っている。しかしそれは
      現在のパーソナリティーではなくて現在のパーソナリティーを構成しているアストラル体とメンタル体の働き
      なのである

      これらをさらに高次元の観点から見た場合には、ラマナ・マハリシやラーマクリシュナやシャンカラの云うように
      この個我の自由意志を通じて、根源が行為を為されている。とも云うことが出来る。この現在の私とは神の道具であり
      魂が新たなる肉体を得たときに、魂からコーザル体を経て脳下垂体などの脳内の部位に放射されている魂の
      一部分でもあり、その記憶である私が、自分が肉体を動かし、自分は肉体であると思い込んでしまっているのである。
      というのも、それは無知と言われる「分離している自己意識の観念」と全く同一化した結果なのであり、脳内にや
      ってきているそのような「私と言う観念」を現在の私が自分自身であると思い込んでしまったからなのである。
      
      この現在の私とは脳内の複雑なる機能を通じて、そして脳の条件付けやDNAによって起こっている根源からの
      思考や感情を、自分が起こしていることと錯覚しており、肉体と自己とを同一視して、行為は自分がしていると思い
      込んでいる私である。脳と結合して脳の条件付けに汚染され、脳の条件付けに従って知覚し、思考し、欲し、
      願っている私でもある。この私とは「本当の私によって愛されている私」であり、魂の私、真の私に繋がっている。      
      またこの私とは自由意志で行為していると思い込んでいるが「自由意志である根源によって」行為が為されて
      いる私でもある。
      自分が行為していると思い込んでいるが、行為が為されている肉体と結びついている動物魂などの私を、自分
      自身と取り違えてしまっている自己である。
      そしてまた、この現在の私とは、行為が行われている中で、その行為に対して如何なる態度で接してるのかを
      問われている私でもある。
      さらには、この行為が為されている中で、(自分が行為していると思い込んでいるので、それに対する反応が)
      自分から発せられ、それに対しての、自分からの思考や感情がさらに想念形態・エレメンタルを生み出している
      ことに気がつかないでいる私でもある。
      現在のパーソナリティーとは自身の内奥である魂、さらにその魂の内奥の真我へと続く道程を歩んでいる私であり
      この現在の私こそが重要なる鍵を持っており、神の道具として、「御心のなるがままにならしめ給え」と思う主体でも
      あるのである。この現在の現在意識の私によって、魂の内奥への帰還が為されるのである。なぜなら真我は既に
      神と一つであるからである。既に帰還しているからである。神から離れたという夢を見ているのは魂と
      現在のパーソナリティーなのである。



諸体の私:肉体を含め諸体の私とは、神我からの根源によって投影されているものであり、天使達によって維持運営され
      ているものである。この現象三界においての根源である神の演じておられる道具、根源である神の行為しておら
      れる媒体である
      現在の私が同じように、「自分の感じている自由意志」を通じて根源が自由意志によって行為されているように
      根源はこの肉体をはじめとした諸体を使って行為され、演じておられる。
      この肉体の所有者とは、根源であって、現在のパーソナリティーや統覚機能である魂のものではない。
      この肉体や諸体の行為主体は根源であり、決して現在のパーソナリティーである個人や人格ではない。
      この肉体や諸体は現在の私のものではなくて天使方によるもの、神のもの、根源の贈り物である。
      この肉体や諸体の創造、維持、運営は根源による天使方によって為されており、私たちが、自己の意志で生き
      て、身体を維持したり、形成したりしているのではない。諸身体は全くの借りているものである。
      この肉体には肉体としての意識もあり、肉体としての私の自己意識もあり、この肉体を使って進化を続けている
      地球霊の動物魂達と相まって、魂である私の「意識の座」には、多くの私という自覚と意識を持っている自意識が
      立ち現れて来ているので、魂である私は、その思考や欲望を自分のものだと思い込み、私ではないものを
      私と誤認してしまう結果となるのである。但しこの肉体を使って進化の道程を歩んでいるものは下記のエレメ
      ンタルや、憑依している精霊達ではない。(殆どの精霊達は独自の進化を歩んでいるものであり、人間に
      憑依したりはしない)
      



エレメンタルの私
      ワサナとか想念形態とか言われ、個人の低次記憶や自己意識を持っているもので、このエレメンタルとは個人や
      人格とよく間違って思われることも多いが、決して個人や人格ではない。個人から発せられた想念形態である。
      このエレメンタルの私とは、単なる記憶の集合体なのである。エレメンタルの私、想念形態の私とは、現在のパー
      ソナリティーの反応によって生じた思考や感情が集束して、あたかも個人や人格のように自己意識をもっているも
      のであり、それが「意識の座」にやってきて、現在のパーソナリティーの思考や感情や願望に多大の影響を与え
      ている。この低次の記憶こそがエレメンタル、想念形態である。
      このエレメンタルとは、同じ波長を持っているものが、さらに集束して巨大化して、人格や個人であるかのよ
      うな自己意識を持っており、印象を与えることができるが、それらは決して個人や人格ではない。
      このエレメンタルはエレメンタルを生み出した、その現在のパーソナリティーに戻ってくる。さらなる仲間を引き連れ
      増殖して、それを発生させた現在のパーソナリティーに戻ってくるのである。
      このエレメンタルに対しては、逆の想念形態を以て当たり、そのエレメンタルを弱めるか、焦点を向けないことである。
      現在の私の波動を浄化し、高める事によって、そのエレメンタルの影響を最小限にとどめることである。
      現在のパーソナリティーが魂の内奥と一体となって、「あるがまをあるがままに見る目」が在る場合は、そのエレメン
      タルを解消することができる。即ち、その段階とは思考なくして見ることができている真我に触れている段階である。
      けれども、その段階に現在のパーソナリティーが達していない段階で、恐怖や不安などのエレメンタルに集中したり
      自己観察と称して、それらに焦点を当てることは、それに取り囲まれ、さらにそのエレメンタルに力を与える結果と
      なることが多いのである。
      このエレメンタルは、精霊などの憑依と非常に紛らわしいのであるが、憑依現象とは異なっており、あくまで現在の
      パーソナリティーが作り上げた想念形態であり、現在のパーソナリティーが原因となって招き寄せた憑依とは異なっ
      ている。オーバーシャドウやチャネリング、自動書記やテレパシーなどは憑依現象なのである。
      これらの憑依現象は一見すると高次の内容を語っているように見えるが、その内容とは思考や言語を使っている
      思考段階の状態なのであり、分離している。それは決して純粋意識でも純粋理性でもなく魂の内奥の真我の状態
      ではない。
      それらは私達を自我の次元へと引き戻す作用はすれども、思考を超えた高次の意識へと引き上げることはないの
      である。
      脳内の麻薬様物質や変性意識とは肉体脳や諸体の脳による一時的な似而非高次意識状態であり、それらは決して
      魂の内奥の意識ではない。魂の内奥の意識であるなら、それは必ず内側であり、内側からであり、その内側とは
      外側と一つであるからである。変性意識は、内部の意識ではなく、外部の知覚と体験の世界であり、私たちを内側と
      外側の分離にない次元へと導かない。それらの脳による意識の変性状態では、意識の変革をもたらさないのである。
      それは現在のパーソナリティーの意識の段階を決して上昇させることはないし、魂と現在のパーソナリティーを繋い
      でいるシルバーコードの透明化に寄与することはないのである。といわれている。
   
      








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