ヴィヴェーカナンダの言葉

(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「多様の中の単一」より一部転載させてもらいました)

14多様の中の単一


 「自存の一者は感覚をそとにむけた。それゆえ人は
自分のうちを見ないでそとを見る。あるかしこい人は
不死をねがい、反対にむけた感覚をもってうちなる自
己を見た」すでに申しあげたように、われわれがヴェー
ダの中に見いだす最初の探求は、外界の事物を対象と
するものでした。それからやがて、ものの実体は、外
界に見いだされるものではない、そとを見ることに
よってではなく、文字どおり、目をうちに転じること
によって見いだされるものである、という新しい思想
が生まれたのです。そして魂、the Soulをあらわすた
めに使われている言葉は、非常に意味がふかい。それ
はうちにはいった彼、われわれの存在の深奥の本質、
中心であるハート、いわばいっさいのものがそれから
でてくるところの核心、という意味です。心、肉体、
感覚器官、およびその他われわれが持ついっさいのも
のはそれから発する光線にすぎないところの、中心の
太陽なのです。「おさない知性の人びと、無知の者た
ちは外界の欲望を追求し、遠くまでおよぶ死のわなに
かかる。しかしかしこい人びとは、不死性を理解して、
決してこの有限のものの人生の中に、永遠なる者をさ
がしもとめない」有限のものにみちているこのそとの
世界に、無限者を見いだすことはできない、というお
なじ思想が、この言葉の中にもあきらかにされていま
す。無限者は、無限であるものの中にのみ探求されな
ければなりません。そして、われわれのまわりで唯一
の無限であるものは、われわれのうちにあるもの、わ
れわれ自身の魂です。肉体も心も、われわれの思いさ
えも、われわれが自分の周囲に見るこの世界も、無限
ではありません。見る者、これらすべてのものが属し
ているところの彼、人の魂、内なる人の中にあってめ
ざめている彼、ひとり彼のみが、無限なのです。
そし
て、この全宇宙の無限の原因をさがすためには、われ
われはそこに行かなければなりません。無限の魂の中
にのみ、われわれはそれを見いだすことができるので
す。「ここにあるものはあそこにもある。そしてあそ
こにあるものはここにもある。多様を見る者は死から
死へとゆく」
われわれはすでに、まず最初には天国に
生まれたいというねがいがあった、ということを学び
ました。これら古代のアリアン人が自分をとりまく世
界に満足しなくなったとき、彼らは自然に、自分たち
も死後には、どこか幸福ばかりでまったく不幸のない
ところに行こう、と考えました。彼らはこのような場
所をたくさんこしらえて、それらを−スヴァルガ−天
国と訳したらよいでしょうか  とよびました。そこ
ではよろこびは永遠であり、肉体も心も完全になり、
人びとは彼らの父祖たちとともにくらすのです。しか
し、哲学がやってくるや否や、人びとは、これは不可
能であり、不合理である、ということに気づきました。
ひとつの場所というものはときの中ではじまってつづ
かなければならないものですから、場所の中にある無
限、という観念そのものがすでに矛盾でしょう。それ
ゆえ、彼らはこの考えはあきらめなければなりません
でした。これらの天国にすんでいる神々はかつては地
上で人間として生きていたのであり、善行の功徳に
よって神になったのである、ということを彼らは発見
しました。そして彼らが神格とよんでいるものはさま
ざまの状態、地位であって、ヴェーダの中で説かれて
いる神々はいずれも恒久的な個体ではないのです。
 

たとえば、インドラやヴァルナは特定の人格の名で
はなく、総督とか長官とかいうような、地位の名です。
かつて生きていたインドラは、今日のインドラとおな
じ魂ではありません。彼はすでに去ってしまい、地上
からきたほかの魂がその地位をしめているのです。他
の神々の場合も同様です。これらはみな特定の地位で
あって、神々の状態にまでみずからを高め上げた人間
の魂たちがつぎつぎにそれをしめるのですが、しかし
彼らといえども死ななければなりません。古いリグ・
ヴェーダにはこれらの神々のために 「不死」 という言
葉が使われているのを見ますが、後代になると、この
言葉はすてられています。時間と空間を超越している
「不死性」 を、どんなにかすかなものにせよ、とにか
く身体と称するかたちとむすびつけて語るわけには行
かないのです。どんなに精妙なものであっても、それ
は時間と空間の中にはじまらなければなりません。か
たちの成立にかくべからざる要素は空間の中にあるの
ですから。空間なしに一つのかたちを考えようとして
ごらんなさい。それは不可能です。空間はいわばかた
ちというものを形成する材料の一つであり、これはた
えず変化しっつあるものなのです。時間と空間はマー
ヤーの中にあります。そしてこの観念は、「ここにあ
るものはあそこにもある」という言葉に表現されてい
ます。もしあそこにこれらの神々が存在するなら、彼
らはここに適用されているのとおなじ法則によってし
ぼられているのでなければなりません。そしてすべて
の法則は、くりかえしくりかえされる、破壊と更新を
ふくんでいます。これらの法則は、物質をさまざまの
姿に形づくっては、またそれらをおしつぶし、去って
行くのです。生まれたものはことごとく死ななければ
なりません。それゆえ、もし天国があるならそこにも
おなじ法則が適用されるはずです。


 この世界ではすべての幸福は、そのかげとして不幸
をともなっている、ということをわれわれは知ってい
ます。生はそのかげである死を持っています。それら
はともに行かなければなりません。それらはたがいに
矛盾するものではなく、二つの別々の存在ではなく、
生死、悲喜、善悪などという、それぞれひとつのもの
のことなったあらわれなのです。善と悪はふたつの
別々の存在であって両者とも永遠に存続する、とする
二元的な概念は、見ただけで不合理なものです。両者
は、あるときは悪、またあるときは善とあらわれる、
同一事実のさまざまのあらわれです。
ちがいは種類で
はなく、程度の中にあるにすぎません。それらはつよ
さの段階でたがいにことなっているのです。われわれ
は一つの事実として、同一の神経組織がこころよい感
覚と不快な感覚とをおなじようにはこぶのを見ます。

そして、神経がそこなわれれば、どちらの感覚もつた
わってこなくなるのです。もし特定の神経がまひすれ
ば、われわれはいままでそれをつたわってきていたこ
ころよい感じをうけなくなります。それと同時に、く
るしい感じもうけなくなります。それらは決して二つ
のものではなく、同一のものなのです。また、同一の
事物が、人生のことなる時期に快と苦をもたらします。
同一の現象がある者には快をあたえ、他の者には苦を
あたえるでしょう。肉食は人間には快感をあたえます
が、たべられる動物にはくるしみをあたえるのです。
すべてのものに一様に快感をあたえるようなものは、
かつて存在したことがありません。ある者たちはよろ
こび、他の者たちはよろこばない。すべてそうです。
それゆえ、この存在の二元性は否定されるのです。そ
れでは何がきますか。私はこのまえの講演の中で、
局はこの地上の、わるいものは全部なくなってよいも
のだけがのこる、などということは決してあり得ない、

と言いました。それはみなさんの中のある人たちを失
望させ、びっくりさせたかもしれませんが、どうも仕
方がありません。反対のことを示されればよろこんで
それを信じるのですが、それが証明され、正しいとい
うことがわかるまでは、私にはそう言うことはできな
いのです。


 私の宣言に対する一般の反論、しかも一見非常に
もっともらしく思われる反論は、われわれが周囲に見
るすべての悪は進化の過程でしだいに淘汰されつつあ
る、もしこの淘汰が幾百万年もつづけば、結果として
すべてのわるいものは根絶し、よいものだけがのこる
であろう、というものです。これは見たところはまこ
とに健全な議論です。それがほんとうだったらよかろ
うに! しかしその中にはあやまりがあります。それ
は、善と悪とは永久に固定されたものである、とはじ
めからきめてかかっていることです。百という数でし
めしてよいような一定の悪の集団と、これとおなじよ
うな善の集団とがあって、善の方だけをのこしつつ、
悪の集団は毎日へりつつあるのだ、というようにきめ
ているのです。しかしそういうものでしょうか。世界
の歴史は、悪が善とおなじように量をふやしつつある
ことを示しています。最低の人間をとりあげてごらん
なさい。彼は森の中にすんでいます。彼の楽しみの感
覚は大変にせまい。不幸を感じる力も同様です。彼の
不幸は感覚世界のことにかぎられています。もし十分
の食物が得られなければ、彼は不幸です。しかし彼に
十分の食物と、うごきまわって狩をする自由とをあた
えてごらんなさい。それで彼は完全に幸福です。彼の
幸福は感覚のみからなりたっているのです。彼の不幸
も同様です。しかしもしその人間が知識をませば、彼
の幸福もふえるでしょう。知性が彼にひらけ、彼の感
覚的なよろこびは知的よろこびにまで進化するでしょ
う。彼はうつくしい詩をよむことによろこびを感じ、
数学の問題が彼にとってわれをわすれるほどたのしい
ものとなるでしょう。しかし、これらとともに、もっ
と洗練された神経が、野蛮人が考えつきもしないよう
な心理的苦痛を、より敏感に感じるようになるでしょ
う。非常に簡単な例をあげましょう。チベットには結
婚がありません。したがって嫉妬もありません。しか
しわれわれは、結婚はもっと非常に高い状態であるこ
とを知っています。チベット人はあのすばらしいよろ
こび、なわち純潔の祝福、貞節で徳のある妻が、純
潔で徳のある夫を持つ幸福をあじわったことがありま
せん。これらの人びとは、それをあじわうことができ
ません。そして同様に、彼らは純潔な夫や妻の感じる
強烈な嫉妬心、どちらかの半身の不実によってひきお
こされる不幸、その他夫婦の純潔の信仰者たちが経験
するすべてのうらみや悲しみも感じないのです。後者
は一面では幸福です。しかし他面では、彼らは不幸も
受けるのです。


 世界中でもっとも富み、他のいずれの国よりもぜい
たくをしているみなさんの国をとり上げて、欲望が強
烈であるというだけの理由から他の人種にくらべてい
かに狂人が多いかを見てごらんなさい。人は高い生活
水準を維持しなければならないのです。一人が一年間
についやす金額は、インドの人間にとってはひと財産
でしょう。彼に質素な生活を要求することはできませ
ん。社会が高い水準を要求しているのですから。社会
という車輪はまわりつつあります。それは、寡婦の涙
やみなし児の泣きごえによってとまるようなことはし
ません。これはあらゆる社会の実状です。享楽に対す
るみなさんの感覚は発達しています。みなさんの社会
は、ほかのある社会にくらべてはるかにみごとにでき
ています。みなさんは、はるかに多くの楽しみを持っ
ておられます。しかし、もっと少ない楽しみしかもっ
ていない人びとは、もっと少ない不幸ですんでいるの
です。考えている理想がたかければたかいほど、楽し
みも大きく、そして不幸もより深刻であると言いきっ
てさしつかえありません。一方は他方のかげのような
ものなのです。悪は淘汰されつつある、ということも
真実でしょう。しかし、もしそうならよいものも消滅
しつつあるにちがいありません。だが、もしそう言っ
てよければ、悪は急速に増加し、善は減少しつつある
のではないでしょうか。善が等差級数的に増加すれば、
悪は等比級数的にふえる。これがマーヤーです。
 

これは楽観論でもなければ悲観論でもありません。
ヴェーダーンタは、この世界はただ不幸なものだ、と
いうような見方はしないのです。それは真実ではあり
ません。同時にこの世界は幸福とめぐみとにみちてい
る、と言うのもあやまりです。それゆえ、子供たちに
むかってこの世界はすべて善である、花とミルクと蜜
ばかりである、とつげるのは無益です。これはまさに
われわれが夢想してきたことなのですが。同時に、一
人が他者より不幸であったからと言って、すべては悪
である、と考えてしまうのもあやまりです。われわれ
の経験の世界をつくっているのは、この二元性、この
善と悪との遊戯なのです。同時に、ヴェーダーンタは
こう言っています、「善と悪とは二つのもの、二つの
別々の実体であると思うな。それらは同一のもの、そ
れがさまざまの程度に、またさまざまのすがたにあら
われておなじ心の中にことなる感情を生じさせるの
だ」と。それゆえ、ヴェーダーンタの最初の思想は、
外界の単一性の発見です。あらわれの中でどのように
さまざまのすがたを示していようとも、唯一実在がそ
こにそれ自身をあらわしているのだ、ということの発
見です。
古代ペルシャ人の未開の説を考えてごらんな
さい。二はしらの神々がこの世界を創造し、善神がよ
いもの全部をつくり、悪神がわるいもの全部をつくっ
たというのです。ひとめ見ただけでその不合理が判明
します。もしそれが実現するなら、あらゆる自然法則
は二つの部分を持たなければなりません。その一部
分が一はしらの神によって操作される、それから彼が
去って、もう一はしらの神が他の部分を操作するので
す。そこにはむずかしいことがおこります。つまり二
神がおなじ世界ではたらいている、しかも、その一部
分を害し、他の部分に幸福をあたえることによってこ
の二神がなかよくやって行こうというのです。これは
もちろん存在の二元性を表現する学説の中でももっと
も幼稚なものです。しかし、この世界は、ある程度よ
くて、ある程度わるいとする、ややすすんだ、やや抽
象的な学説をとり上げてみましょう。これもやはり、
立場をおなじくする議論であって、不合理です。われ
われに食物をあたえるのは単一の法則であり、事故や
災難によっておおぜいの人びとをころすのも、おなじ
法則なのです。


 そこでわれわれは、この世界は楽観論的なものでも
なければ、悲観論的なものでもない、ということを発
見します。それは両者の混合です。そして、すすみ行
くうちに、全責任は周囲の自然からはとりのぞかれ
て、われわれ自身の双肩にかかっているのを見いだし
ます。同時にヴェーダーンタは、それをのがれる道を
もおしえます。ただし悪の否定ではありません。なぜ
ならそれは、あるがままの悪を大胆に分析し、何もの
をもつつみかくそうとはしないからです。それは、絶
望的なものではなく、不可知論でもありません。それ
は療法を発見しますが、その療法を堅牢無比な基礎の
上におこうとします。二、三日すれば子供が見やぶる
ようないつわりの何ものかでその子の目かくしをした
り、口をおおったりするようなことはしないで。私は
おぼえていますが、私の若かったとき、ある若者の父
親が死に、扶養すべき大家族とともに、彼を貧窮の中
にのこしました。しかも父親の友人たちは彼をたすけ
ることをこのまない、ということを彼は知りました。
彼はある牧師と会談をしましたが、そのとき牧師がこ
のようななぐさめの言葉をのべました、「おお、それ
はすべて善です。すべては私たちのしあわせのために
あたえられたのです」 これは例の、ふるきずの上に一
片の金箔をのせよう、というふるくさい方法です。そ
れはよわさの、不条理の告白です。若者は去りました。
そして半年ののち、その牧師に男の子がうまれ、彼が
祝賀パーティーをもよおしたので、若者もまねかれて
行きました。牧師はいのりました、「神のお慈悲に感
謝いたします」すると若者は立ちあがって言いました、
「おやめなさい、これはすべて不幸です」牧師が言う、
「なぜですか」 「だって私の父が死んだときにあなた
は、わるく見えるけれどもそれはよいことだ、とおっ
しゃったでしょう。ですからいま、これはよく見える
けれどもほんとうはわるいことです」 このようなのは
不幸をなおす道ではありません。苦しむ人びとに対し
ては親切に、そして慈悲心をお持ちなさい。つぎをあ
てるようなことをこころみなさるな。何ものも、この
世をいやすことなどはできはしないのです。それを超
越することです。

 

この世界は、善と悪との世界です。善のあるところ、
かならず悪がしたがいます。しかしこれらすべての
あらわれ、これらすべての矛盾の背後に、これらすべ
てをこえたところに、ヴェーダーンタはあの単一性を
発見します。それは言います、「わるいものをすてよ、
そしてよいものをすてよ」 と。
すると何がのこります
か。

善と悪との背後に、あなた自身のものであるとこ
ろのもの、すなわち真実のあなたが、あらゆる悪をこ
え、またあらゆる善をもこえて立っています。そして
それが、みずからを善および悪として表現していると
ころのものなのです。まずそれをお知りなさい。
それ
ではじめて、あなたは真の楽天家になれるのです。そ
れまではだめです。なぜならそうなったときに、あな
たはいっさいのものを支配することができるのですか
ら。これらの現象を支配なさい。そうするとあなたは
ほんとうの「あなた」を表現する自由を得るでありま
しょう。第一に、あなた自身の主人とおなりなさい。
立ちあがって、自由におなりなさい。これらの法則の
柵をおこえなさい。これらの法則は、あなたを絶対に
支配しているものではないのです。それらはあなたの
存在の一部であるにすぎないのです。第一に、自分は
自然の奴隷ではない、かつてそうであったこともない
し、将来そうあることもないのだ、ということをお知
りなさい。

この自然を、あなたは無限だと思うかもし
れませんが、それは有限なもの、大海の一滴にすぎま
せん。そしてあなたの魂が、大海なのです。あなたは、
星々と日と月とを超越した存在なのです。それらは、
あなたの無限の存在にくらべたら単なるあわのような
ものです。



そのことをお知りなさい。するとあなたは、
善と悪との両方を支配するでありましょう。そのとき
にはじめて、全展望はかわり、あなたは立ち上がって
言うでしょう、「善のなんとうつくしいこと、悪のな
んとすばらしいこと!」と。




 これが、ヴェーダーンタがおしえていることです。
それは、きずぐちを金箔でおおい、きずぐちが悪化す
るともっと金箔をふやす、というようなずさんな療法
はいっさい提供しません。この人生はきびしい事実で
す。鉄石のようであるかもしれないが、大胆にあなた
の道をつらぬきなさい。大丈夫、魂の方がもっとつよ
いのです。それは、ちっぽけな神々に責任をおわせる
ようなことはしません。なぜならあなたが、あなた自
身の運命の製作者なのですから。あなたが自分自身を
くるしめ、あなたが善をつくり悪をつくったのです。
そして、わが手で眼をおおいながら、くらい、くらい
と言っているのはあなた自身なのです。手をのけて光
をごらんなさい。あなたは光り輝いています。あなた
はすでに、最初から完全なのです。われわれはいま、
つぎの詩句を理解します、「ここに多者を見る者は、
死から死へとゆく」その一者を見て、そして自由にお
なりなさい。

 

どのようにしてそれを見るのか。この心、これほど
まよいがふかく、これほどよわく、これほどやすやす
と誘惑されるこの心でさえも、つよくなることができ、
われわれをくりかえしくりかえし死ぬことから救済す
るその知識、その一者をかいま見ることができるので
す。山頂にふる雨がさまざまの流れになって山腹をな
がれくだるように、あなたがここに見るすべてのエネ
ルギーは、そのひとつなるものからきます。それがマー
ヤーの上におちて、多数となったのです。多数のもの
のあとをおいかけてはなりません。一者の方においで
なさい。「彼はすべてのうごくものの中にいる。彼は
すべてのきよいものの中にいる。彼は宇宙をみたす。
彼は犠牲の中にいる。彼は家をおとずれる客人である。
彼は人の中、水の中、けものの中、真理の中にいる。
彼は偉大なる者である。火がこの世界にくるとさまざ
まのかたちにみずからをあらわすように、まさにその
ように、あの宇宙のひとつの魂は、彼自身をこれらす
ベてのさまざまのかたちにあらわしている。空気がこ
の世界にくるとみずからをさまざまのかたちにあらわ
すように、まさにそのように、すべての魂、すべての
生きものの中の唯一の魂は、すべてのかたちの中に彼
自身をあらわしている」
あなたがこの単一性を悟った
ときにはこのことがあなたにとって真理となり、それ
までは、そういうわけには行きません。悟ったときに
は、ことごとく楽天主義です。彼がいたるところに見
えるのですから。


 問題は、もしそのきよい一者が、すなわち自己が、
無限者がこのすべてのものの中にはいっているなら、
その彼が不幸になるのはどういうわけか、その彼がみ
じめになったりけがれたりするのはどういうわけか、
ということです。ところが、彼はそんなことにはなら
ない、とウパニシャッドは言うのです、「太陽があら
ゆる生きものの視力の源泉でありながら、何者の目の
さわりによってもその光がそこなわれることがないよ
うに、まさにそのように、すべてのものの自己は、肉
体の不幸によっても、またはあなたの周囲にあるいか
なる不幸によっても影響されることはない」
私はある
病気にかかってあらゆるものを黄色く見るかもしれま
せん。しかし太陽は何の影響もうけてはいないのです。
「彼は一者、すべてのものの創造者、すべでのものの
統治者、生きとし生けるもののうちにある魂〜みず
からの単一性を多様につくりなす者である。このよう
に彼を自分たちの魂の魂として自覚する賢者たち、永
遠の平安は彼らのものである。他の誰のものでもない、
他の誰のものでもない。はかないこの世界に、決して
かわることのない彼を見いだす者、この死の宇宙にあ
のひとつの生命を見いだす者、この多様の中にひとつ
なるものを見いだす者、そして彼を自分たちの魂の魂
として自覚するあのすべての者たち、永遠の平和は彼
らのものである。他の誰のものでもない、他の誰のも
のでもない。そとの世界のどこに、彼が見いだされよ
う。日月星辰の中のどこに、彼が見いだされよう。そ
こでは、太陽は輝くことはできない、月も星も輝くこ
とはでぎない、いなずまもあたりをてらすことはでき
ない。まして、この死すべき火は問題ではない。彼が
輝いて、他の一切物は輝くのだ。彼らがかりたのは彼
の光だ。彼らを通して彼が輝いているのである」ここ
にもう一つのみごとな比喩があります。みなさんの中
で、インドに行ってパンヤンの木が「本の根からひろ
く四方にひろがる様子を見たことのある方々は、これ
を理解なさるでしょう。彼はパンヤンです。彼はいっ
さいのものの根であって、ついにこの宇宙となるまで、
枝をのばしてしげったのです。どれほどはるかに彼が
のびても、これらの幹や枝の「本一本は、彼につながっ
ているのです。


 ヴェーダのブラーマナの部分には、さまざまの天国
のことが書いてあります。しかしウパニシャッドの哲
学的な教えは、天国に行くという思想はすててしまっ
ています。幸福はこの天国、またはあの天国にあるの
ではありません。魂の中にあるのです。場所は何の意
味も持ってはいません。ここに悟りのさまざまの状態
を示す、もう一つの章句があります、「父祖たちのす
む天国においては、ちょうど人がゆめの中でものを見
るときのように、そのように実在の真理が見える」ゆ
めの中ではものが霧の中のように不明瞭に見えます
が、そこでは実在がそのように見える、というのです。
ガンダルヴァとよばれる、もう一つの天国があります。
そこではもっとぼんやりとしています。人が自分のす
がたを水にうつして見るときのように、実在が見える
のです。ヒンドゥたちが考えている中の最高の天国は、
ブラマロカとよばれます。ここでは真理はかなりはっ
きりと、光とかげのように見えますが、しかしまだ十
分に明瞭ではありません。


 しかし、人が自分の顔をかがみの中に見るように、
完全に、くっきりと、明瞭に、真理は人の魂の中に輝
いています。それゆえ、最高の天国はわれわれの魂の
中にあるのです。礼拝のためのもっとも偉大な聖堂は、
人間の魂である、すべての天国よりも偉大である、



ヴェーダーンタは言っています。どの天国に行こうと
も、この人生において、われわれ自身の魂の中で理解
するほどにはっきりと実在を理解することはできない
のですから。場所をかえるのは、あまりたすけになる
ことではありません。私はインドにいるとき、ほら穴
にはいったらもっとはっきり真理が見えるだろうと思
いました。しかしそうではないことがわかりました。
それから、森がよかろう、いやベナレスがよかろう、
と思いました。しかしどこに行っても、おなじ困難が
ついてまわりました。そのはずで、われわれはつね
に、自分の世界をつくっているのです。もし私がよこ
しまなら、全世界は私に対してよこしまです。それは
まさに、ウパニシャッドが説いているところです。そ
して、おなじことがすべての世界に通用します。もし
私が死んで天国に行っても、私はおなじものを見いだ
すでしょう。私が純粋になるまでは、はら穴に行って
も、森に行っても、ベナレスに行っても、あるいは天
国に行ってもききめはないのです。
そしてもし私が自
分のかがみをみがけば、自分がどこにすもうと、それ
は問題ではありません。私はそこであるがままの実在
を獲得するのです。それゆえ、あちらこちらと走りま
わって、かがみをみがくことだけについやされるべき
エネルギーを浪費するのは、むだなことです。おなじ
考えがここにも表現されています、「肉眼をもっては、
誰も、彼を見ない。誰も彼のすがたを見ない。彼が見
られ、そうして不死が得られるのは心の中、きよい心
の中においてである」



 
ラージャ・ヨーガについての夏期講演に出席された
方々は、あのときにおしえられたのは別種のヨーガで
あった、ということを知って興味をおぼえられるで
しょう。いまここでとりあげているヨーガは、感覚の
制御をおもな内容とするものです。感覚が人の魂に
よって奴隷のように支配されるとき、それらがもはや
心をみだすことができなくなったとき、そのときに、
そのヨギは目標に達したのです。「心のむなしいねが
いがことごとく放棄されたとき、そのときに、このま
さに死すべきものが不死となる、そのときに彼はいな
がらにして神と一つになる。心のすべてのむすび目が
きれぎれにたちきられたとき、そのときに、この死す
べき者は不死となる。そして彼はここでブラフマンを
たのしむ」 ここで、つまりこの地上でであって、他の
どこででもありません。


 ここでちょっと言っておかなければならないことが
あります。みなさんはよく、このヴェーダーンタとい
う哲学およびその他の東洋のシステムは、何やら彼岸
の世界ばかりを展望して、この人生の楽しみや努力
をおろそかにする、ときいておられるでしょう。この
考えは完全にまちがっています。みなさんにそんなこ
とを言ってきかせるのは、東洋思想について何も知ら
ず、それの真の教えを理解するだけのあたまを持って
いない、無知な人びとです。実はその反対であって、
経典をよむと、われわれの哲人たちは、他の世界に行
くことを欲せず、むしろそれらを、人びとがただしば
らくの間泣いたり笑ったりしてくらし、やがて死んで
去って行くつまらないところとしてひくく見ているの
です。われわれがよわい間は、このような経験をも通
過しなければならないでしょう。しかし、ほんとうの
ものはすべて、ここにあるのです。こことは、人間の
魂です。そして、このことも強調しておかなければな
らないのですが、われわれは、自殺することによって、
さけられないものをさけることはできません。それを
のがれることはできないのです。しかし正しい道を見
いだすことは非常にむずかしい。インド人は、西洋人
とまったくおなじように実用的な民族です。ただ、人
生観がちがうのです。一方は言います、りっぱな家を
たてよ、よい着物を着よう、よい食物をたべよう、知
的教養を身につけよう、などなど、これが人生のすべ
てである、と。そして、このことに関しては西洋人は
非常に実際的です。しかしインド人は言います、この
世の真の知識は魂の知識、形而上学のことである、と。
そして彼は、その生活を楽しみたいと思うのです。ア
メリカに、非常にえらい不可知論者がいました。非常
に高尚な人であり、非常によい人であり、そしてたく
みな講演者でもありました。彼は宗教に関して講演し、
そんなものは無用である、と言いました。なんで他界
のことなどについてあたまをわずらわせるのか、とい
うのです。彼はつぎのような比喩を用いました。われ
われはここに一個のオレンジを持っている。そのオレ
ンジから、あるだけの汁をしぼり出そうとしているの
だ、と。私はあるとき彼に会ってこう言いました、「私
は完全にあなたに同意する。私はある果実を持ってい
る。そして私もやはり、それから汁をしぼり出そうと
欲している。われわれの間の相違は、その果実の選択
にあるのだろう。あなたはオレンジを欲する。私はマ
ンゴーをえらぶのだ。あなたは、この世界に生きてた
べて飲んで、そして多少の科学知識を持てばそれで十
分だと考えている。しかしあなたは、それが万人の趣
味にあうだろうと断言する権利は持ちあわせてはいな
いのである。そんな考えは、私にとっては価値のない
ものである。もし私が、リンゴはなぜ地におちるかと
か、電流はどのようにして神経をゆさぶるのかとか、
いうようなことしか学ぶことができないのだったら、
私は自殺してしまうだろう。私はもののハートを、も
のの真髄そのものを知ろうと欲するのだ。あなたの研
究は生命のあらわれの方、私のは生命それ自体に関す
るものだ。私の哲学に言わせれば、あなたは以上のこ
とを知って、心の中からその天国とか地獄とか、その
他のすべての迷信的な思想をおい出してしまわなけれ
ばならない。それらのものは、この世界が存在するの
とおなじ意味においてはたしかに存在するものであ
ろうけれども。私は、この人生がどのようにはたらく
か、どのようにあらわれるかを知るばかりでなく、そ
れのハートを、それの本質を、それが何であるかとい
うことを知らなければならない。私はいっさいのもの
の、なぜを知りたいのだ。どのようにという方は子供
たちにまかせておく。あなたの同国人の一人が言った
ように、『シガレットをふかしている間にもし一冊の
本を書くとしたら、それはシガレットの科学であろう』
科学的であるのはよいことだし偉大なことである。神
よ、彼らの研究を祝福したまえ。しかし、もし人がそ
れがすべてであるというなら、彼はおろかなことを
口ばしっているのだ。生命の存在理由を知ろうという
気もおこさず、存在そのものの研究はまったくしない
で。土台がなくてはあなたのすべての知識は無意味で
ある、と私はあえて言おう。あなたは生命のあらわれ
を研究している。そして私が生命とは何であるかとた
ずねると、あなたは、自分は知らないとこたえる。あ
なたがあなたの研究をなさるのは結構だ、だが私には
私の研究をさせておいてくれ」



 私は私自身の道において実用的、非常に実用的なの
です。それゆえ西洋だけが実用的だというみなさんの
考えはナンセンスです。人にも心にもさまざまのタイ
プがあるものです。もし東洋で一人の男が、一生涯片
足で立っていたら真理を見いだすだろう、とつげられ
たら、彼はその方法を実行するでしょう。もし西洋で
人びとが、ある末開国のどこかに金鉱があるときいた
ら、幾千人が金塊を得ることを期待しつつ、危険をお
かしてそこに出かけるでしょう。そしておそらく、たっ
た一人が成功するのです。これらのおなじ人びとは、
人には魂がある、ときいたのですが、その方の心配は
教会にまかせて満足しています。最初の男は、未開人
たちの近くには行かないでしょう。それは危険だろう、
と彼は言います。しかし、もしわれわれが彼に向かっ
て、ある高山のいただきにすばらしい賢者がすんでい
て、彼に魂の知識をさずけることができるはずだとつ
げるなら、たとえそのこころみの途中で死ぬかもしれ
ないとしても、彼はそこまでのぼって行こうとするで
しょう。どちらのタイプも実際的です。しかし、この
世界を人生の全部であると見ることはあやまりです。
みなさんのは、感覚の楽しみの消滅点です。恒久的な
ものはすこしもありません。しだいに多くの不幸をも
たらすだけです。私のは永遠の平和をもたらすのです



 私は、みなさんの考えがまちがっているとは言いま
せん。それで結構です。大きなしあわせと祝福とがそ
こから生まれるでしょう。しかし、それだからと言っ
て、私の考えをきめつけてはいけません。私のはまた
それなりに実用的なのです。みなでそれぞれのプラン
にしたがってはたらこうではありませんか。ねがわく
は、われらすべてが両面においてひとしく実用的であ
るように! 私は、科学者としても霊的な人間として
もおなじように実用的である何人かの科学者たちを見
てきました。そして、やがては人類全体が、そのよう
な形で有能になるよう、大きく期待するものです。湯
わかしの水が沸騰しようとするときに見ていると、最
初に一つのあわが上昇し、つぎにもう一つ、またその
つぎとつづいて、ついに全面あわとなり、すごい大騒
動が持ちあがるのです。この世界もたいへんによくに
ています。各個人はおのおののあわ、民族は多くのあ
わのようなものです。次第にもろもろの民族が参加し
つつあります。そして、分離は消滅し、われらすべて
がめざしつつある、あの一体性があきらかになる日が
くるであろうことを私は確信します。あらゆる人が、
科学の世界においても霊の世界においてもおなじよう
につよく実際的であるときがかならずくるにちがいあ
りません。そうすればあの一体性、一体性の調和は全
世界にゆきわたるでしょう。人類全体がジヴァンムク
タ、生きながら解脱した人になるでしょう。われわれ
の嫉妬と憎悪を通じ、われわれの愛と協力を通じて、
われわれはすべてこの一つの目的にむかって苦闘しつ
つあるのです。一つの巨大な流れが、われらすべてを
はこびつつ、大海にむかってながれています。そして
われわれは、ときにはわらくずか紙きれのようにあて
どなくただようかもしれませんが、ながい間にはかな
らず、あの生命と至福の大海にくわわることは確実な
のです。





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