ヴィヴェーカナンダの言葉

(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「マーヤーと神の概念の発展」より一部転載させてもらいました)

11マーヤと神の概念の発展

  一八九六年一〇月二〇日、ロンドンで

 われわれは、アドワイタ (非二元) ヴェーダーンタ
の基礎的教理の一つを形成していると言ってもよい
マーヤーの観念のめばえが、すでにサムヒクー(注、
おのおののヴェーダの内容は、サムヒターとブラーマ
ナの二つの部分に大別される。前者は賛歌や聖語をふ
くみ、後者にはそれらの意味や用法がのべてある) の
中に見いだされるのを見ました。また、ウパニシャッ
ドの中で展開されるすべての観念は、何らかの形です
でにサムヒターの中にあらわれている、ということも
見ました。みなさんの大方はいまやマーヤーの観念に
よくなじまれ、したがって、この言葉はときどきあや
まってまぼろしと訳されるので、宇宙はマーヤーであ
ると言うと、宇宙も幻影であるという意味に解釈され
てしまうのだ、ということもご存じです。この言葉の
このような翻訳は、適切なものでも正確なものでもあ
りません。マーヤーは学説ではなく、あるがままの、
宇宙に関する事実の宣言です。そしてマーヤーを理解
するためには、われわれはサムヒクーまでさかのぼ
り、この概念のめばえとともに出発しなければなりま
せん。



 われわれは、デヴァたち (神々) という観念がどの
ようにして生まれたかを見ました。同時に、これらの
神々は最初は強力な生きもの以上の何ものでもなかっ
た、ということを知っています。
みなさんの大方は、
ギリシャのにせよ、ヘブライ、ペルシャその他のにせ
よ、古い聖典をよむとき、古代の神々がときおりわれ
われに非常な嫌悪の念をおこさせるようなことをし
ているのを見てぞっとなさるでしょう。しかしこれら
の書物をよむときわれわれは、自分は一九世紀の人間
であり、これらの神々は幾千年の昔の存在であったの
だ、ということをすっかりわすれているのです。われ
われはまた、これらの神々を崇拝した人びとは彼らの
性格の中に何ら不愉快なもの、おそろしいものを感じ
なかったのだ、なぜならそれらは彼ら白身にそっくり
であったのだから、ということをわすれています。そ
れはわれわれがこの人生を通じて学ばなければならな
い、一つの大きな教訓である、と言ってもよいでしょ
う。他者を判定するにあたって、われわれはつねに、
自分自身の理想を基準として判断をくだします。これ
はなすべきことではありません。各人は他者の理想に
よってではなく、彼自身の理想によって審判されるべ
きです。なかまの人びととの交渉にあたって、われわ
れはつねにこのあやまりをおかしつつ、はねをおるの
です。


私が思うに、われわれ相互のあらそいの大多数
は、ほかでもない、われわれがつねに他人の神々を自
分たちの神々によってさばこうとし、他人の理想を自
分たちの理想によって、また他人の動機を自分たちの
動機によって判定しようとするという、このたった一
つの原因から生まれるのです。
私は、ある環境のもと
にあることをおこなうかもしれません。そしてもう一
人の人間が私とおなじことをしているのを見ると、彼
も自分とおなじ動機によってうごかされているのだと
思い、結果はおなじであるかもしれないが、ほかのさ
まざまの原因もおなじ結果を生みだすことがあるの
だ、というようなことは想像もしないのです。彼はこ
の行為を、私の場合とはまるでちがった動機にかられ
ておこなったのかもしれません。それゆえ、古代の宗
教を判定する場合に、われわれは自分勝手の立場をと
ることなく、その時代の思想と生活の中に自分自身を
おくべきです。



 旧約聖書の中の残酷無情なエホバの観念は多くの
人びとを恐怖させましたが、なぜですか。古代ユダヤ
人のエホバが現代の型にはまった神の概念とおなじで
なければならない、などときめてかかる、何の権利を
彼らが持っていましょう。またわれわれは、自分たち
が古代人の宗教や神の観念を笑うのとおなじような形
で、後代の人びとが現代の思想を笑うときがくるであ
ろう、ということをわすれてはなりません。しかしな
がら、これらすべてのさまざまの概念の中をつらぬい
て、「ひとつ」 という一本の金糸が通っています。こ
の糸を発見するのが、ヴェーダーンタの目的です。「私
は、ひとつひとつが真珠の珠にたとえられるべきこれ
らすべてのさまざまの思想を、つらぬいて通る糸であ
る」と主クリシュナは言っています。そして、これら
の思想が今日の概念によってさばかれたときにどのよ
うに不適当な、または嫌悪すべきものに感じられよ
うとも、それらをこの一本の糸でつづることがヴェー
ダーンタの義務なのです。
これらの観念は、過去の時
代という背景の中にはよく調和しており、決して現代
のわれわれの思想よりおそろしいなどというものでは
ありませんでした。おそろしさがめだつようになるの
は、われわれがそれらを本来の背景からとりだして自
分たちの現在の環境にはめこもうとするときだけで
す。古い環境は死んで、去ってしまっているのです。
ちょうど昔のユダヤ人がするどい、近代的な、敏捷な
ユダヤ人にまで発達し、古代アーリヤ人が知的なヒン
ドゥに成長しているように、エホバは成長し、神々は
成長しているのです。


 大きなあやまりは、われわれが「崇拝の対象」の進
化をみとめないで崇拝者の進化だけをみとめていると
ころにあります。彼、すなわち「崇拝される者」が、
彼の信者たちが身につけた進歩を、彼自身の進歩とし
てみとめられていないのです。すなわち、みなさんも
私も思想的に成長しました。これらの神々もまた、思
想的に成長したのです。
神が成長する、などと言うと
みなさんは不思議に思われるかもしれません。彼は成
長するはずはありません。彼は不変です。おなじ意味
で真の人間は決して成長はしないのです。しかし、人
間の持つ神の概念はたえず変化しつつあり、拡大しつ
つあります。われわれはやがて、人間というあらわれ
のひとつひとつの背後にある真の人間が、どのように
不動であり、不変であり、純粋であり、そしてつねに
完全であるか、を知るでありましょう。
また同様に、

われわれが神として心にえがく観念は、単なるあらわ
れです。われわれ自身の創作です。それの背後に決し
てうつりかわることなく、つねに純粋、つねに不変の、
真の神が存在するのです。しかしあらわれは、背後の
実在を次第にあきらかに啓示しながら、つねに変化し
つつあります。それが背後の事実をより多く示すとき、
それは進歩とよばれます。背後の事実をより多くかく
すとき、退歩とよばれるのです。このように、われわ
れが成長するにつれて神々も成長します。ごく普通の
意味で、われわれがみずからを開発するのとおなじよ
うに、進化するのとおなじように、神々もみずからを
顕現するのです。



 われわれはここで、マーヤーの説を理解することが
できるでしょう。世界のあらゆる宗教にあって、かな
らず論議される疑問はこれです − なぜ宇宙に不調和
があるのか。 なぜ宇宙にこの悪があるのか。われわ
れはこの疑問を、原始的な宗教思想のそもそものはじ
まりには見いだしません。原始的な人間には、この宇
宙が不調和のものとは見えなかったのです。環境は彼
にとって不調和ではありませんでした。そこには意見
の衝突も、善悪の対立もありませんでした。彼自身の
ハートの中に、イエス、という何かと、ノー、という
何かが感じられるだけでした。原始人は衝動の人でし
た。彼は心にうかんだことをおこない、思ったことを
かたはしから自分の筋力によって実現させようとしま
した。決して判断のためにたちどまることをせず、自
分の衝動をおさえようとつとめることもまれでした。
神々もそうでした。彼らもまた衝動の生きものでした。
インドラはやってきて、悪魔たちの力を粉砕します。
エホバはある人間を寵愛し、ある人間をうとんじます
が、その理由を誰も知らないし、また誰もたずねよう
とはしません。
質問の習慣は当時はまだ生まれておら
ず、彼のすることはなんでも正しいと思われていまし
た。善悪の観念はなかったのです。神々は、われわれ
が悪事と呼ぶさまざまのことをしました。再三、イン
ドラやその他の神々は非常にわるい行為をしました。
しかしインドラの崇拝者たちには、罪や悪の観念は思
いうかばなかったので、彼らはそれを問題にしません
でした。


 倫理観念の発達とともに、たたかいがはじまりま
した。すなわち、さまざまの言語、さまざまの民族に
よってさまざまによばれてはいますが、とにかくある
一つの感覚が人間の中に生まれたのです。それを神の
声とよんでもよいし、過去の教育の結果、またはその
他、みなさんのこのみによって何とよんでもよいので
すが、いずれにせよ結果として、それが人間の自然の
衝動の上に、一つの抑止力を持つことになりました。

われわれの心中に、せよ、と命じる一つの衝動があり
ます。その背後に、するな、と命じるもう一つの声が
あがるのです。われわれの心中に、感覚という通路を
通ってそとに行こうとつねにもがいている一組の観
念があります。そしてその背後に、ほそく、よわいか
もしれませんが、そとに出るな、とつげる、無限に小
さな声があるのです。これらの現象を言いあらわす二
つの美しいサンスクリットの言葉があります。プラヴ
リッティ、すなわち 「前方への旋回」 と二ヴリッティ、
すなわち「内方への旋回」です。宗教はこの「するな」
とともにはじまります。「するな」 がそこにないとき
には、宗教はまだはじまっていないのです。そしてこ
の 「するな」 は、彼らが崇拝していた、たたかってい
る神々を問題とせずにやってきて、人びとの思想を成
長させました。


 人類のハートの中に、ごくわずかの愛がめざめまし
た。それは実にごくわずかのものでした。またそれは、
いまでもたいしてふえているわけではありません。最
初は、それは一つの部族の中に限定されていました。
おそらくおなじ部族のメンバーだけにおよぶものだっ
たのです。これらの神々は自分の部族を愛し、おのお
のの神は部族神、すなわち特定の部族の保護者でし
た。そしてしばしば、一部族のメンバーは、自分たち
をその部族神の子孫であると考えるのでした。ちょう
どさまざまの国の中の多くの氏族がその氏族の創立者
を自分たちの共同の祖先であると考えるように。また
古代には、自分たちをこれら部族神の子孫であるばか
りでなく、太陽と月との子孫でもある、と主張する人
びとがいました。そのような人はいまでもいます。み
なさんは古代のサンスクリットの書物で、太陽および
月の王朝の、偉大な英雄的帝王の物語をお読みになる
でしょう。彼らは、はじめは太陽と月の崇拝者だった
のです。それからしだいに、自分たちを太陽神の子孫
である、月の神の子孫である、などなどと考えるよう
になったのです。このように、これらの部族的観念が
成長しはじめたとき、そこにわずかばかりの愛、ある
かすかな相互間の義務の観念、小さな社会組織の観念
が生まれました。それから、当然、つぎの思いが生ま
れました、「どうしたらわれわれは辛抱することなし
にともにくらすことができるか」自分の衝動をときお
りおさえることなしに、自分白身を拘束したり、自分
がしたいと思うことをしないで辛抱するようなことな
しに、どうして一人の人間が他人といっしょにくらす
ことなどができましょう。それは不可能です。こうし
て抑制の観念が生まれます。全社会構造は、抑制の観
念の上になりたっています。そしてわれわれは誰でも、
忍耐するという大きな教訓を学んでいない男女はもっ
とも不幸な生涯をおくる、ということを知るのです。



さて、これらの宗教観念がやってきたとき、人類の
知性の上にもっと高い、もっと道徳的なあるものの片
鱗が、しだいにあきらかになりはじめました。古い
何々、これらのあらあらしい、戦闘的な、酒のみの、
肉をくう古代の神々、肉のやけるにおいや強い酒の献
上をよろこぶような神々はこのましくない、というこ
とがわかりはじめました。ときどきインドラは、酒を
したたかのんで地上にたおれふし、わけのわからぬこ
とをしゃべりました。このような神々には、もうがま
んすることができませんでした。動機をしらべようと
いう意見がだされており、神々はきて、それぞれが尋
問をうけなければなりませんでした。これこれの行動
の理由は何であったか、と質問されましたが、答えは
十分ではありませんでした。そこで人びとは、これら
の神々をあきらめた、というよりはむしろ、彼らは神々
に関するもっと高い観念を開発しました。彼らはいわ
ば、神々のあらゆる行為と性質を点検し、自分たちが
同調できないものをすて、理解できるものをのこし、
それらを一つにまとめて、デヴァ・デヴァ、すなわち
神々の神という名をつけたのです。崇拝されるべき神
は、もはや単なる力の象徴ではありませんでした。そ
れ以上の何ものかが要求されました。彼は道徳的な神
でした。彼は人間を愛し、人間のためによいことをし
ました。しかし、神(デヴァ)という観念はやはりのこっ
ていました。人びとは彼の遺徳的意義をふやし、また
彼の力をもふやしました。彼は宇宙間でもっとも道徳
的な、そして同時にほとんど全能の、存在となったの
です。


 しかしこのようなつぎはぎ細工は、やくに立ちませ
んでした。説明がより大きな比率をしめるにつれて、
それが解決しようとする困難のしめる比率もふえまし
た。神の性質が等差級数的にふえれば、困難とうたが
いとは等比級数的にふえました。エホバにおける困難
は、宇宙神の場合のむずかしさにくらべればものの数
ではありませんでした。この問題はいまもなおつづい
ています。全能で無限の愛である宇宙の神の支配のも
とに、なぜ極悪非道なことが存続をゆるされているの
か。なぜ幸福よりも不幸の方がこんなに多いのか。ま
た善より悪の方がこんなに多いのか。これらすべての
事実に目をとじているとしても、この世界はおそろし
い世界だ、という事実は依然としてのこります。少な
くとも、それはタンクロス (ギリシャ神話から-ゼ
ウスの子。神々の秘密をもらした咎で地獄におとされ、
水と食物を目前にして飢餓に苦しめられる) の地獄で
す。ここにわれわれは、つよい衝動と、もっとつよい感
覚的享楽への欲望とを持っているのですが、それらを
満足させることができません。そこには、われわれ自
身の意志にさからってでもわれわれを前におしだそう
とする波がおこります。ところが、われわれが一歩前
進するやいなや、一撃がくだるのです。われわれはす
べて、タンクロスのようにしてここに生きて行くよう、
運命づけられています。感覚的理想の限界をはるかに
こえて、理想がわれわれのあたまの中にはいってきま
すが、それらを表現したいと思っても、それはできま
せん、一万では、われわれは自分をとりまいておしよ
せてくるかたまりにおしつぶされてしまいます。しか
しながら、もし私がすべての理想性をすててただこの
世の中でもがくなら、私の存在はけものの存在となり、
私は退化し、堕落するでしょう。どちらの道も幸福で
はありません。不幸が、生まれたままのすがたでこの
世の中に生きることに満足している人びとの運命で
す。それより千倍も大きな不幸が、真理のために、ま
たもっと高いもののためにあえて立ちあがる人びと、
この世での単なる動物的存在より高い何ものかをもと
める人びとの運命です。
これらは事実です。しかしそ
こには説明はありません。何の説明もあり得ないので
す。しかし、ヴェーダーンタは、出口を示しています。


みなさんはつぎのことを心にとめておくべきです。と
きおり、みなさんを恐怖させるような事実を、私はみ
なさんにつげなければなりません。しかし、もしみな
さんが私の言うことを記憶し、それについて考え、そ
してそれを消化なさるなら、それはみなさんのものと
なるでしょう。みなさんを高めるでしょう。そしてみ
なさんをして、真理を理解し、その中に生きることを
得させるでありましょう。
 さて、この世界はタンタロスの地獄である、われわ
れはこの宇宙について何ひとつ知ってはいない、しか
し同時にわれわれは、自分は知らない、と言うことも
できない、というのは、まさに事実の宣言です。
自分
はそれを知らない、と思っているときには、このくさ
りがある、と言うこともできないはずです。それは、
私の脳髄の完全な妄想かもしれないのです。私は始終
ゆめを見ているのかもしれません。私は、自分はみな
さんに話をしている、みなさんは自分の話にきき入っ
ている、というゆめを見ているのです。誰も、これは
ゆめではない、と証明することはできません。私の脳
髄そのものがゆめであるかもしれないのです。しかし、
いまだかつて自分の脳髄を見た人はいません。われわ
れはみな、それはある、とあたまから決めているので
す。いっさいのものについて同様です。私の肉体も、
私があると決めているのです。

同時に私は、自分は知らない、
ということもできません。知識と無知との中
間にあるこの立場、この神秘的なたそがれ、真理と虚
偽とのまじりあい、しかもどこでそれらがあうのか、
誰も知りません。われわれはゆめのまん中をあるいて
いるのです。半ばねむりながら半ばめざめて、もやに
つつまれた生涯を通りすぎます。これが、われわれ一
人ひとりの運命です。これが、すべての感覚的知識の
運命なのです。これが、すべての哲学のすべての誇ら
かな科学の、すべての誇らかな人間知識の運命なので
す。これが宇宙です。



 みなさんが物質と呼ぶ、霊または心と呼ぶ、その他、
何でもすきな名でよんでおられるいっさいのものが、
おなじことなのです。われわれは、それらはある、と
言うことはできないし、それらはない、と言うことも
できません。それらはひとつだ、と言うことはできな
いし、それらは多数だ、と言うこともできません。


この光と闇との永遠の遊戯 − 識別しがたい、見わけの
つかない!がつねにそこにあるのです。事実であり、
しかも同時に事実ではなく、めざめていて、そして同
時にねむっています。これは事実をそのままのべたも
のであり、そしてこれが、マーヤーとよばれるものな
のです。


われわれはこのマーヤーの中に生まれ、その
中で生き、その中で考え、その中でゆめを見ます。わ
れわれはその中で哲学者であり、その中で霊的な人で
あり、いや、このマーヤーの中で悪魔であり、このマー
ヤーの中で神々であります。みなさんの思いをできる
かぎり拡大なさい。それらを高く、もっと高くなさい。
これを無限とでも、その他何とでも、すきな名でおよ
びなさい。これらの思いさえ、やはりこのマーヤーの
うちにあるのです。ほかにありようはなく、人間知識
の全体は、このマーヤーの総合です。あらわれたすが
たを通じて、それをとらえようとつとめているのです。
これがナーマ・ルパ、すなわち名と形の働きです。

を持ついっさいのもの、みなさんの心の中に想念をよ
びおこすところのいっさいのもの、はマーヤーです。
時間、空間及び因果の法則にしぼられているいっさい
のものはマーヤーのうちにあるのです。



 さて、あの早いころの神の観念にむかって少しも
どり、彼らがどうなったか、見てみましょう。われわ
れはただちに、永遠にわれわれを愛しているある存
在 − 永遠に無私で全能でこの宇宙を支配している存
在−という考えは満足をあたえることができなかっ
た、ということを知ります。正しい慈悲ぶかい神はど
こにいるのか。人間や動物の形をした幾百万の彼の子
供たちがほろびるのを、彼は見ないのか、この世界
で、他者をころさないでは誰も一瞬間も生きることは
できないではないか、と、哲学者はたずねました。み
なさんは、幾千の生命をころさないで息をすうことが
できますか。幾百万が死ぬから、あなたは生きるので
す。あなたの生命の各瞬間、あなたがすいこむ息の一
つ一つは幾万の生命の死なのです。あなたの肉体のう
ごきのひとつひとつは幾百万の死なのです。あなたが
とる食物の一口ずつが、幾百万の死なのです。なぜ彼
らは死ななければならないのですか。彼らは非常にひ
くい存在である、と主張する、古い詭弁があります。
かりにそうであるとしても、問題なのは、アリが人よ
り偉大であるか、人がアリより偉大であるか、誰が
知っているでしょう。そのどちらかを、誰が証明する
ことができるでしょう。その問題は別にして、彼らは
非常にひくい存在だということをそのままみとめると
しても、それゆえなぜ彼らが死ななければならないの
ですか。もしひくいなら、彼らは一層、生きなければ
ならないはずです。そうではありませんか。彼らはよ
り多く感覚の中で生きているのですから、快苦をみな
さんや私より数千倍もつよく感じるのです。われわれ
の中の誰が、犬やオオカミとおなじようなよろこびを
感じながらご飯をたべるでしょうか。そんな人はいま
せん。なぜなら、われわれのエネルギーは感覚の中に
はないのですから。それは知性の中に、霊の中に、あ
ります。ところが動物たちにあっては、その全心魂は
感覚の中にあり、彼らは気ちがいのようになって、わ
れわれ人間どもが想像もできないほど、ものを楽しみ
ます。そして、苦痛は快楽の程度につり合っているも
のです。快楽と苦痛とは等量をわりあてられているも
のです。もし動物たちの感じる快楽が人間の感じるも
のよりずっとするどいのなら、当然、動物たちの苦痛
の感覚は、人間のそれよりするどい、とまでは行かな
くても、おなじようにするどいのです。そこで事実は、
動物たちが死ぬときに感じる苦痛と不幸は、人間の場
合の千倍もつよい、ということです。それにもかかわ
らず、われわれは彼らをころすのです。彼らの不幸の
ことなどは気にもとめないで。これがマーヤーです。

そしてもしわれわれが、いっさいのものをつくった、
人間のような人格神がいる、と想像しても、例の、悪
の中から善が生まれる、と証明しようとするいわゆる
説明および学説は、不十分です。二万のよいことがく
るならきてもよい。どうしてそれらが悪からやってこ
なければならないのですか。この原理によれば、自分
の五感の楽しみを十分に得るために私は他人ののどを
切ってもよい、ということになります。これは理由に
はなりません。なぜ、よいことのために悪が必要なの
ですか。この疑問は、あいかわらず答えが得られない
ままです。そしてそれはこたえられるはずがないので
す。インドの哲学は、このことをみとめざるを得ませ
んでした。


 ヴェーダーンタは、宗教のもっとも大胆な方式でし
た、そしていまもそうです。それはどこでであれ決し
てとまることをしませんでした。そして一つの長所を
持っていました。真理をかたろうと努力している何び
とをも、おしとどめようとする聖職者はいなかったの
です。そこにはつねに、絶対の宗教的自由がありまし
た。インドでは、迷信という束縛は社会生活の中にあ
ります。ここ西洋では、社会がまことに自由です。イ
ンドでは社会生活に関する問題は非常に窮屈です。し
かし宗教上の見解は自由です。イギリスでは、人は自
分のこのむ通りの服装をしてよいし、すきなものをた
べてよろしい。誰も反対する者はいません。しかしも
し彼が教会に出席しなかったら、世間の口が彼をやっ
つけるでしょう。彼はまず、宗教に対する社会の意見
にしたがわなければなりません。そのあとで、真理に
ついて考えることをゆるされるのです。他方インドで
は、ある人がもし彼自身のカーストに属していない人
と食事をともにすれば、社会はそのおそるべき力をあ
げておそいかかり、即座に彼をおしつぶします。もし
彼が幾世紀も前の自分の祖先の風習と少しばかりちが
う服装をしようとすれば、彼はたちまちやっつけられ
ます。私は、最初の鉄道列車を見るために、数キロを
出かけて行ったという理由で社会から追放された男の
話をきいたことがあります。まあ、それはほんとうで
はなかったということにしましょう!しかし、宗教
においては、無神論者あり、唯物論者あり、仏教徒あ
り、あらゆる様相、あらゆる形式の教義、意見、およ
び思索が肩をならべていて、その中には、あっとおど
ろくような性格のものもあるのが見られます。すべて
の宗派の説教師たちがあるきまわって教えをとき、友
持者を獲得し、場所もあろうに神々の宮の門前で、唯
物論者たちが自分の意見をのべるのをブラーミンたち
−彼らの名誉のためにそうよんでおけ−−がゆるし
ています。


 ブッダは天寿をまっとうしました。私は友達の一人、
彼の伝記を読むのをこのんでいたある偉大なアメリカ
の科学者を思いだします。彼はブッダの死に方をこの
みませんでした。十字架にかからなかったのがよくな
いと言うのです。なんというあやまった考えでしょう。
人間が偉大であるためにはころされなければならない
なんて! こんな思想は決してィンドにはひろまりま
せんでした。この偉大なブッダは、全インドを行脚し
て、この国の神々から宇宙神までをも公然と批判しま
した。それでも彼はゆうゆうと、天寿をまっとうしま
した。八〇歳までも生き、国の半分を改宗させたので
 また、実にひどいことを、一九世紀においてさえ公
然と説くことをはばかられるほどの、もっとはなはだ
しい、露骨な唯物論を説く、チャールヴァーカという
一派もありました。これらのチャールヴァーカたちは、
寺から寺へ、都市から都市へとまわって、宗教は無意
味である、それは聖職者たちの政略である、ヴェーダ
は愚者や悪漢や魔神の言葉である、神もなければ不滅
の霊魂もない、などと言ってもゆるされていました。

もし霊魂があるなら、どうして死後、妻子の愛にひか
れてもどってこないのか。彼らの考えは、もし霊魂が
あるなら、それは死後もなお愛し、おいしい食物や上
等の着物をほしがるはずだ、というものでした。それ
でも誰もこのチャールヴァーカたちをきずつけはしな
かったのです。


 このように、インドはつねに、宗教の自由というこ
のすばらしい思想を堅持してきました。そしてみなさ
んは、自由は成長の第一条件である、ということをわ
すれてはなりません。自由をあたえられないものは、
決して成長しないでしょう。教師の自由をみずから保
持しながら、他者を成長させ、彼らの成長をたすける
ことができる、他者をみちびくことかできる、などと
考えるのは無意味です。それは危険なうそです。その
ためにこの世界で、幾百万の人類の成長がさまたげら
れたのです。人びとに、自由の光を保持させよ。それ
が、成長の唯一の条件です。


 インドでは、われわれは霊性の問題に自由をゆるし
ました。そしてわれわれは今日でも、宗教思想の中に
巨大な霊性の力を持っています。みなさんはおなじ自
由を社会問題にゆるし、その結果、みごとな社会組織
を持っておられます。われわれは、社会事象の発達に
対していかなる自由をもあたえませんでした。した
がってわれわれの社会は窮屈な社会です。みなさんは
宗教問題にいかなる自由もあたえず、むしろ鉄砲と刀
で、みなさんの信仰を武装しました。その結果、ヨー
ロッパ人の心の中では、宗教は成長のとまった、退化
した植物です。インドでは、われわれは社会からかせ
をはずさなければなりません。ヨーロッパでは、霊的
進歩の足からくさりがとりのぞかれなければなりませ
そのとき、人間のすばらしい成長と発展とが実現
するでしょう。もし、霊的、道徳的および社会的とい
う、これらすべての面の発展を通じてその中をひとつ
のものがつらぬいている、ということをわれわれが知
るなら、もっとも完全な音環での宗教は、社会の中に、
われわれの日常生活の中に生きるべきものである、と
いうことがわかるでしょう。ヴェーダーンタの光の中
で、みなさんは、すべての科学は宗教のあらわれにす
ぎない、この世界にあるいっさいのものはそうである、
ということを理解なさるでしょう。
われわれはそれから、自由を通じて、もろもろの科
学はきずかれた、ということを知ります。そして、そ
れらの中に二組の意見が見られます。一つは唯物的な、
批判的な意見、もう一つは積極的な、建設的な意見で
す。あらゆる社会にこの二つが見いだされる、という
のは実に奇妙な事実です。かりに社会に一つの悪があ
るとすると、ただちに一つのグループが立ちあがり、
懲罰的な形でそれを批判するのが見られるでしょう。
それはしばしば、狂信にまで堕落します。あらゆる社
会に、狂信者はいます。そして女は、その衝動的な性
質のゆえにしばしば、これらの抗議にくわわるのです。
立ちあがって何ものかを非難する狂信者は、かならず
追随者を獲得します。やっつけるのは非常にたやすい
ことなのです。狂人は、何でもすきなものをこわすこ
とができます。しかし、何ものであれ、つくりあげる
ことは彼にとってはむずかしいでしょう。これらの狂
信者たちも、彼らの知能に応じて何ほどかの善はなす
でしょう。しかし害の方がずっと大きいのです。なぜ
なら、社会の制度は一日でなるものではありません。
そしてそれらを変えるというのは、すなわち原因をと
りのぞくということです。ここに一つの悪があるとし
ます。ただそれを非難することは、それをのぞくこと
にはなりません。その根本に働きかける必要があるの
です。まず原因を見いだせ。つぎにそれを取りのぞけ。
そうすれば結果もまたのぞかれるでしょう。単なる抗
議は、実に不幸を生みだすだけで、他にいかなる効果
をももたらさないでしょう。


 世にはこのほかに、心に同情をいだき、われわれは
深く原因をはりさげなければならないのだ、という考
えを理解した人びともいました。これらは偉大な聖者
たちでした。一つの事実を、みなさんはわすれてはな
りません。世界のすべての偉大な教師たちは、自分は
破壊するためではない、成就するためにきたのであ
る、と宣言しているのです。しばしば、このことは理
解されませんでした。そして彼らの忍耐は現存する通
俗の意見へのつまらない妥協である、と考えられまし
た。いまでも、みなさんはときおり、これらの予言者
や偉大な教師たちは卑怯であって、自分が正しいと思
うことを思いきって言いもしなければ実行もしなかっ
た、などと言われているのをきくでしょう。しかしそ
うではなかったのです。狂信者たちは、この世界の住
人たちをわが子とみなしたこれら偉大な聖者たちの、
ハートにあふれる無限の愛の力を、ほとんど理解しま
せんでした。彼らは、あらゆる者に対する無限の同情
と忍耐とにみたされた真の父であり、真の神であった
のです。彼らはたえしのぶことができました。彼らは、
人類社会がどのようにして成長するものであるかを
知っており、人びとを非難したり、おどかしたりする
ようなことはなく、やさしく、そして親切に、一歩ま
た一歩とより高いところに彼らをみちびいて行くこと
によって、辛抱づよく、徐々に、確実に、彼らの救済
策を適用して行ったのです。
このようなのが、ウパニ
シャッドの作者たちでした。彼らは、古い神の観念が
その時代の進歩した倫理観と調和できないことを十分
に知っていました。彼らは、無神論者たちが説くこと
の中にも十分な真理が、いや、偉大な真理の金塊がふ
くまれていることを、よく知っていました。しかし同
時に、珠をつらねる糸をたちきることをねがうような
人びと、空中にあたらしい社会を建設することを欲す
るような人びとは完全に失敗するであろうことを、理
解していたのです。


 われわれは決して、新しくはつくりません。単に場
所をかえるだけです。われわれは決して新しいものを 
持つことはできないのです。単にものの位置をかえる
だけです。種子は忍耐づよく、そしてやさしく成長し
て、木になります。われわれは自分のエネルギーを真
理の方向にみちびき、あたらしい真理をつくろうとは
せずに、存在する真理を成就しなければなりません。


そのようにして、昔の聖者たちは、これらの古い神の
観念を近代にふさわしくないものとしてきめつけるよ
うなことはせず、それらの中にある真理をさがし出す
ことをはじめました。その結果がヴェーダーンタ哲学
であって、彼らは古い神々の中から、また一神論的神
すなわち宇宙の支配者の中から、もっと高い観念、さ
らにもっと高い観念を、超人格的絶対者とよばれるも
のの中に見いだしたのです。彼らは、宇宙に遍満する
一者を見いだしたのです。


この多様な世界の中にいっさいのものをつらぬく、
かの一者を見る人、この死の世界にあの一つの無限の
生命を見いだす人、そしてこの無感覚と無知の世界に
かの一つの光と知識を見いだす人、永遠の平和は彼の
ものです。他の誰のものでもない、誰のものでもあり
ません。








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