ヴィヴェーカナンダの言葉

(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「マーヤと幻」より一部転載させてもらいました)



10マーヤと幻
 みなさんの大方は、マーヤーという言葉を耳にな
さったことがあると思います。この言葉は一般に、実
はこれはあやまりなのですが、まぼろしとか、まどわ
しとか、あるいはそれににたような意味をあらわす
のにもちいられています。しかしマーヤーの学説は、
ヴェーダーンタ哲学がよって立つ柱の一本なのですか
ら、その意味は正しく理解されなければなりません。
私はみなさんに少しばかりの忍耐をおねがいしたいと
思います。この言葉は誤解される大きな危険をはらん
でいるのですから。ヴェーダの文献の中に見いだされ
るマーヤーの最古の観念は、まどわしという意味です。
しかし当時はまだほんとうの学説は完成されてはいま
せんでした。われわれは、「インドラ神は、彼のマーヤー
によってさまざまのすがたをとった」 というような文
句を見いだします。ここではほんとうに、マーヤーと
いう言葉は魔術のようなものを意味しているのです。


そしてこのほかにも、これとおなじような意味を持つ
さまざまの章句が見いだされます。マーヤーという言
葉は、それから一時まったくすがたをけしました。し
かしその間に、この観念は発展しつつあったのです。
のちに、つぎのような疑問が提出されています、「な
ぜわれわれは宇宙のこの秘密を知ることができないの
か」 そしてこの問いに対してあたえられた答えは非常
に意味ふかいものでした。「それは、われわれがむな
しいおしゃべりをするからである。また、感覚の対象
に満足しているからである。そしてまた、欲望を追求
しているからである。そのためにわれわれは実在を、
いわば霧でおおっているのだ」 ここにはマーヤーとい
う言葉はつかわれてはいません。しかし、われわれの
無知の原因は真理とわれわれとの問にはいってきた一
種の霧のようなものである、という思想をくみとるこ
とができます。ずっとのちになって、もっともあたら
しいウパニシャッドの中の一つに、マーヤーという言
葉がふたたびすがたをあらわします。しかしこのたび
はすでに変容がおこっていて、多くのあたらしい意味
が、この言葉につけくわえられています。さまざまの
説が提出されくりかえされ、また別の説がとりあげら
れて、ついにマーヤーの観念が確立したのです。シュ
ウェダーシュワッタラ・ウパニシャッドの中にはこう
書いてあります、

「自然がマーヤーであると知れ、
そしてこのマーヤーの支配者は主ご自身である」
くだっ
てわれらの哲学者の時代になると、このマーヤーとい
う言葉がさまざまの形でその意味をかえられている
のを見いだします。そしてついに、かの偉大なシャン
ヵラーチャーリヤの出現を見るのです。マーヤーの学
説は、また仏教徒たちによっても多少その意味をかえ
られました。しかし仏教徒の手にかかると、それは観
念論とよばれるものに非常によくにたものとなりまし
た。そしてそれが今日一般にマーヤーという言葉の意
味と考えられているものです。ヒンドゥ教徒がこの世
界はマーヤーである、と言うと、人びとはすぐに、こ
の世界はまぼろしである、という意味にとってしまい
ます。仏教哲学者たちの言葉である場合には、この解
釈はある程度当然なのです。そこには外部世界の存在
をまったく信じない哲学者たちの一派もいたのですか
ら。しかしヴェーダーンタでいうマーヤーは、それの
完全に発達したすがたにおいては、観念論でもなけれ
ばリアリズムでもありません。それは一つの学説でも
ありません。それは事実の宣言、われわれがあるとこ
ろの、またわれわれが自分の周囲に見るところの、事
実の宣言以外の何ものでもないのです。


 前に申しあげたように、ヴェーダを残した人びとの
心は、原理の追求に、原理を発見することに対して、
情熱的でした。彼らは細目にまで働きかけるひまを持
ちませんでした。あるいは、それまで待っていること
ができませんでした。彼らは、ものの核心に直入する
ことを欲したのです。いわば、彼岸にある何ものかが
彼らをよんでいました。それで彼らは、待っているこ
とができなかったのです。全ウパニシャッドを通じて、
今日われわれが近代科学とよんでいる問題のこまかい
ところには、非常に多くのあやまりがあります。しか
し同時に、彼らが把握した原理はただしいのです。た
とえば、近代科学の最新学説のひとつであるエーテル
の観念は、今日の科学的エーテル思想よりもはるかに
進歩した形でわれわれの古代の文献の中に見いだす
ことができます。しかしこれはあくまでも原理におい
てでした。その原理の働きを実証しようとする段にな
ると、彼らは多くのあやまりをおかしました。宇宙間
のすべての生命は、普遍の生命原理のさまざまのあら
われにすぎない、という理論は、ヴェーダの時代にお
いてすでに理解されていたのです。それはブラーマナ
の中にみいだされます。サムヒダーの中には、プラー
ナを、すなわちすべての生命現象はそれのあらわれに
すぎないところのプラーナを、はめたたえる長い賛歌
があります。ついでながら、ヴェーダの哲学の中には
この地球上の生命の起源について、近代ヨーロッパの
一部の科学者たちによって提出された学説と非常に
よく似かよった説がある、ということを知るなら、み
なさんの中には興味をおぼえられる人がいらっしゃる
でしょう。生命はほかの遊星からきた、という説のあ
ることは、もちろんどなたもよくごぞんじです。ある
ヴェーダの哲学者たちの間では、生命はこのようにし
て月からくる、ということは定説になっているのです。
 

さて原理にもどると、これらヴェーダの思想家たち
は実に勇気があって、広大で総括的な学説を提出する
ことにおいておどろくほど大胆であった、ということ
がわかります。外界から見た宇宙の神秘に対する彼ら
の解答は、のぞみ得る範囲内でもっとも満足すべきも
のでした。近代科学の細部にわたっての研究業績は、
この問題をそれ以上にはただの一歩も解決にむかって
近づけてはいません。なぜなら根本原理があやまって
いるのですから。エーテル説が古代において宇宙の神
秘に解決をあたえることができなかったのであれば、
そのエーテル説の細部の仕あげをしてみたところで、
それもわれわれをたいして真理に近づけることはでき
ないでしょう。もし、すべてに浸透する生命という学
説がこの宇宙を説明する学説として失敗したのであれ
ば、たとえ細部の仕あげがおこなわれたところでそれ
以上の意味はもたらせられないでしょう。細部が宇宙
の原理をかえることはないのですから。私が言おうと
しているのは、原理の探求においてヒンドゥの思想家
たちは近代人と同様、あるいはそれ以上に大胆であっ
た、ということです。彼らは今日までにおこなわれた
もっとも雄大な総合の、いくつかをやってのけました。


しかもその中のいくつかは今日もなお、近代科学もや
はりこれを学説として採用しなければならないような
理論として、のこっているのです。例をあげれば、彼
らはエーテル説に到達したばかりでなく、さらにそれ
をこえて、心をも、さらに一層純化されたエーテルと
して類別しました。またさらにそれをこえて、彼らは
もっと純化されたエーテルを発見しました。しかしな
がら、それも解決ではありませんでした。それもこの
問題への解答はあたえませんでした。外界の知識をど
れほどつみかさねても、この問題をとくことはできな
かったのです。「しかし」と科学者は言います、「すこ
しわかりはじめたところだ。あと数千年のときをかし
てくれ。われわれは解答をつかむだろう」ところが、
「いや」とヴェーダーンティストは言います。彼はあ
らゆるうたがいを克服して、心には限界がある、とい
うことを、心は一定の限界をこえて行くことはできな
い、時間、空間、および因果のわくをこえて行くこと
はできない、ということを証明したのです。何びとと
いえども彼の自己のそとにとび出すことはできません
が、そのように、何びとといえども時間と空間の法則
によって彼の上におかれた限界を、こえて行くことは
できないのです。因果と時間と空間の法則を解消しよ
うというこころみはことごとく無益です。なぜなら、

そのこころみ自体が、これら三つの法則の存在を前提
としてはじめてなされ得るものなのですから。それで
は、この世界の存在に関するつぎの宣言は何を意味す
るのですか。「この世界は実在しない」これはどうい
ぅ意味ですか。それは、この世界は絶対の存在ではな
い、という意味です。それは私の心との、あなたの心
との、またはかのすべての人の心との関係においての
み存在するのです。われわれはこの世界を五官で見ま
す。しかしもしわれわれがもう一つの感覚を持ってい
たら、おなじ世界の中にもっと何かを見るでしょう。



さらにもう一つの感覚を持っていたら、世界はもっと
ちがったものとしてあらわれるでしょう。それゆえ、
それは真の存在ではありません。不変、不動、無限の
存在ではありません。しかしそれが存在し、そしてわ
れわれがその中で終始はたらかなければならないのを
見れば、それは非存在と呼ぶわけには行かないのです。
それは、存在と非存在との混合です。



 
抽象から人生に共通の日常茶飯事に眼をうつすと、
われわれは、自分の全生涯が一個の矛盾、すなわち存
在と非存在の混合であることを見いだします。知識の
中に、この矛盾があります。人は、もし知ろうと思い
さえすればなんでも知ることができる、と思います。
ところが数歩を行かないうちに、彼はこえることので
きない鉄壁にぶつかります。彼のすべての働きは一つ
の円の中にあり、彼はその円のそとには出ることがで
きないのです。
もっとも身近で切実な難問が彼をかり
たてつづけて日夜解決をもとめるのですが、彼はそれ
らを解決することができません。知性をこえては、す
すむことができないからです。それでも、その欲望は
彼の中にねづよくうえつけられています。しかもわれ
われは、唯一の幸福はそれを支配し、抑止することに
よって得られるのだ、ということを知っているのです。
はく息すう息とともに、われわれのハートは利己的で
あることをもとめます。同時にそこには、よいものは
非利己性のみである、とつげる、われわれをこえたあ
る力が存在するのです。幼児はことごとく、生まれつ
いての楽天家です。彼は金色のゆめを見ています。青
年時代には、彼はなおいっそう楽天的になります。若
者にとっては、死のようなもの、敗北や低落のような
ものがある、ということを信じるのは困難なのです。


老年がきます。すると人生は廃虚のかたまりです。ゆ
めは空中にきえてしまいました。そして彼は厭世家に
なります。このようにしてわれわれは、自然に打ちの
めされ、自分の行くさきも知らないで一つの極端から
別の極端へとさまようのです。それについて私はブッ
ダの伝記、ラリタ・ヴィスタラの中にある有名な歌を
思いだします。その書物によると、ブッダは人類のす
くい主として生まれたのですが、彼は王宮の栄華の中
でその使命をわすれていました。ある天使たちがきて、
彼をよびさますために歌をうたいました。その歌に終
始つくおり返し句は、「われらとどまることなくやす
むことなく、たえずうつりかわる人生の河の流れをた
だよいつつ下る」 
というものです。われわれの人生は
そのようなものです。やすむことを知らず、ただ行き
つづけるのです。
われわれはどうすればよいのですか。
飲みくいものを十分に持っている人は楽天家です。彼
は、不幸をかたるいっさいの言葉をさけます。それは
おそろしいからです。世のかなしみと不幸について彼
にかたってはなりません。彼のもとに行って何もかも
幸福であるとおっしゃい。「そうだ、私は安全だ」 と
彼は言います。「私を見よ、私はよい家にすんでいる。
私は寒さや飢えをおそれない。だからそんなおそろし
い絵を私のまえには持ってこないでくれJしかし他方
には、寒さと飢えのために死にそうになっている人び
ともいます。彼らのところに行ってすべては幸福であ
る、などとおしえても、彼らは耳をかたむけないでしょ
う。自分が不幸なのにほかの人びとが幸福であるよう
にといのることなどが、どうして彼らにできましょう。
このようにしてわれわれは、楽天主義と厭世観との間
を行ったりきたりするのです。


 それから、死というおそるべき事実があります。全
世界は死にむかってすすんでいます。いっさいのもの
は死にます。すべてのわれわれの進歩、われわれのう
ぬぼれ、われわれの改革、われわれの栄華、われわれ
の富、われわれの知識はあのおなじ終末、すなわち死
を持っています。これだけがたしかなことです。都市
はきてそしてさります。帝国はおこってそしてほろび
ます。遊星はこなごなにこわれてちりとくだかれ、ほ
かのもろもろの遊星の大気にふきまくられるでしょ
う。無始の過去以来、このようなことがくりかえされ
てきたのです。死はいっさいのもののおわりです。死
は生命のおわり、美の、富の、力のおわり、また徳の
おわりでもあります。聖者も死ねばつみびとも死にま
す。王さまも死ねば乞食も死にます。彼らはことごと
く死にむかってすすみつつあります。しかも、生に対
するこのすさまじい執着があるのです。とにかく、わ
れわれはなぜか知らないが、生にしがみつきます。そ
れをあきらめることはできないのです。これがマー
ヤです。
 

母親が心をこめて子供をそだてています。彼女の全
霊、全生命はその子の中にあります。子供が成長して
おとなになります。そしてたまたま悪漢、人非人とな
り、毎日彼女をうったりけったりします。それでも母
親はその子にしがみついています。理性がめざめると、
彼女はそれを愛という観念でつつみかくします。それ
は愛ではないということ、それは自分の神経をつかま
えている何ものかであって、自分はそれをふりはなす
ことができないのだ、ということを彼女はほとんど知
りません。彼女は自分をしぼっている束縛をたち切る
ことができないのです。これがマーヤーです。われわ
れはみな、「金の羊毛」をおいもとめています。われ
われはもれなく、これが自分のものになるであろうと
考えています。理性的な人はことごとく、自分にあた
えられた機会はおそらく二千万分の一であろうと見て
います。それでもなお、あらゆる人がそれをもとめて
奮闘するのです。これがマーヤーです。
 

死は昼も夜もわれわれのこの地上を横行していま
す。しかし同時に、われわれは、自分は永遠にいきる
であろうと考えています。あるときユディシュティラ
王にむかって問いが発せられました。「この地上世界
にあってもっとも不思議なことは何であるか」すると
王がこたえました、「毎日、われわれの周囲で人びと
が死んで行きます。それでも人びとは、自分は決して
死なない、と考えています」と。これがマーヤーです。
 

われわれの知性の中には、われわれの知識の中には、
いや、われわれの人生のすべてのできごとの中にはこ
れらのおそろしい矛盾があって、われわれを四方から
とりかこんでいます。ある改革者が立ちあがって、あ
る民族の中に現存する悪をいやそうとします。すると
それらがいやされないうちに、はかの場所に千ものほ
かの悪が発生します。それはちょうど、こわれかけた
古家のようなものです。一ヶ所につぎをあてると、破
損がほかの場所にひろがるのです。インドでは、われ
われの改革者たちが、寡婦制度の強制はよろしくない、
とさけんだり説教したりしています。西洋では、結婚
しないことが大きな悪です。一方では結婚していない
人びとをたすけよ、彼らはくるしんでいる。同時に寡
婦たちをたすけよ、彼らはくるしんでいる。それは慢
性リューマチのようなものです。あたまからおいだす
と胴にくる。そこからおいだすと足にくる。改革者た
ちは立ちあがって、学問や富や教養をえらばれた少数
者が独占してはならない、と説きます。そしてすべて
のものに機会があたえられるように最大の努力をは
らいます。これらは、ある人びとにはより大きな幸福
をあたえるかもしれません。しかしおそらく、教養が
くわわると肉体的幸福はへります。幸福の知識は、同
時に不幸の知識をもたらすのです。ではどちらの道を
とったらよいのでしょうか。われわれがたのしむ最小
限の物質的繁栄は、どこかほかの場所ではおなじ分量
の不幸の原因となっています。これが法則です。わか
い人びとは多分それをはっきりとはみとめないでしょ
う。しかし、長い人生を生きてきた人びとや、十分に
苦闘してきた人びとは、それを理解するでしょう。そ
してこれがマーヤーです。
 

これらのことがらは日夜おこりつつあるのでして、
この難問題の解決を見いだすことは不可能です。なぜ
そうなのでしょうか。この問いは論理的に系統だてて
のべることができないので、それにこたえることが不
可能なのです。実際そこには、「どのようにして」 も
なければ 「なぜ」 もありません。われわれはただ、そ
れがある、ということと、そして自分はそれをどうする
こともできない。ということを知るだけなのです。
それを理解すること、心中にそれの正確なイメー
ジをえがくことさえ、われわれの手にはおえないので
す。どうしてそれを解決することなどができましょう。


マーヤーは、この宇宙の現実、ありのままのすがたの
表明です。



このようなことをきかされると、ふつう人
びとはおそろしがります。けれどもわれわれは大胆で
なければな。ません。事実をかくすのは療法を発見す
る道ではありません。みなさんごぞんじのように、野
ウサギは犬におわれると、頭をひくくさげて自分はか
くれたと思っています。そのように、われわれが楽天
主義にはしるのはこの野ウサギとおなじことをしてい
るのであって、それは救済策ではありません。これに
は反対があ。ます。しかしこれらの反対は主として人
生のよいものをたくさん持っている人びとから出され
るのだ、ということにみなさん気づかれるでしょう。


この国(イギリス)では、厭世主義者になることは大
)変にむずかしい。あらゆる人が私にむかって、世の中
がどんなにみごとにすすんでいるか、どんなに進歩的
であるか、ということをはなします。しかし、彼自身
の状態が彼自身の世界なのです。すでにくりかえされ
た疑問がここにおこります。キリスト教が世界の唯一
の宗教でなければならない、だってキリスト教諸民族
が繁栄しているではないか。しかし、この主張は矛
盾しています。キリスト教民族の繁栄は、非キリスト
教諸民族の不幸の上になりたっているのです。何かえ
じきにされるものがなければなりません。もし全世界
がクリスチャンになったとすると、そのときはキリス
ト教民族も貧乏になるでしょう。なぜなら彼らのえじ
きになるべき非キリスト教民族がいなくなるのですか
ら。こうして、この主張はおのずから解消します。
物は植物をたべて生きています。そして人間は動物を
たべて生きています。もっともわるいことには、人間
同志を、すなわちつよい者がよわい者をたべて生きて
います。これはいたるところでおこなわれていること
です。これがマーヤーです。



これに対してどのような解決を、みなさんは見いだ
しますか。われわれは毎日さまざまの説明をきいてい
ます。そして、長い間にはいっさいがよくなるであろ
う、ときかされています。いちおうその通りであると
して、ではなぜ、善をおこなうためにこのような悪魔
的な方法をもちいなければならないのでしょうか。こ
れらの非道な方法のかわりに、なぜよい方法によって
善をおこなうことができないのでしょうか。現在の人
間たちの子孫は幸福であろう。しかしなぜ、現在これ
らすべての不幸がなければならないのですか。そこに
は解決はありません。これがマーヤーです。


また、われわれはしばしば、悪をのぞくというのが
進化のこの特色であって、この世界から不断に悪が
のぞかれて行くことによって最後には善のみがのこる
のである、ということをきかされます。これはきくだ
けなら非常に結構な説です。それは、この世界のよい
ものを十分に持っている人びと、日々きびしい苦闘に
直面しなくてもすむ人びと、このいわゆる進化の車輪
の下におしつぶされていない人びとにとっては、その
うぬばれをたすける説です。それはこのような幸運な
人びとにとっては実に結構なこころよい説です。一般
大衆はくるしむかもしれない。しかしこの人びとは気
にかけません。勝手に死なせておけ、彼らは重要な人
間ではない、というわけです。結構です。しかしなが
ら、この説はまったくのあやまりなのです。第一にそ
れは、この世界における現象の善と悪とは二つの絶対
的な実在である、ときめてかかっています。第二には、
善の総量は増加しつつあり、悪の総量は減少しつつあ
る、というもっとわるい仮定をつくっています。そう
すると、もし彼らのいわゆる進化によって悪がこのよ
うにのぞかれつつあるのなら、すべての悪がのぞかれ
て善だけが残るときがくるはずです。言うことはまこ
とに簡単です。しかし悪の量がへりつつあると証明す
ることができるのでしょうか。例として森にすみ、心
をやしなうすべも知らず、本を読むこともできず、も
のを書くというようなことなどきいたこともない、と
いう人をとりあげてみましょう。彼は重傷をおっても
じきによくなってしまうのです。われわれはひっかか
れても死ぬというのに。機械は物を安価にしつつあり、
進歩と進化をたすけつつあります。しかし、一人が金
持になるために幾百万人がおしつぶされます。一人が
金持になる一方で、幾千の人びとが同時により貧しく
さらに貧しくなり、人類の大集団が奴隷にされてしま
うのです。このようなぐあいに世はすすみつつありま
す。動物的な人間は感覚の中に生きています。食物が
十分に得られなければ、彼は不幸です。または彼の肉
体に何ごとかがおこれば、彼は不幸です。彼の不幸も
彼の幸福も、ともに感覚の中ではじまっておわるので
す。この人間が進歩するやいなや、彼の幸福の地平線
がひろがるやいなや、それに応じて不幸の地平線もひ
ろがります。森にすむ人間は嫉妬とは何であるかを知
りません。法廷に立つということが、税をはらうとい
うことが、社会から非難されるということが、一人一
人の心の秘密にまで立ちいって詮索するという、人間
の悪魔性がかつて発明した中でもっともおそるべき専
制政治によって日夜支配されるということが、どんな
ことであるかを知りません。人間が彼のすべてのむな
しい知識によって、またすべての彼の高慢のゆえに、
どのようにしてほかのあらゆる動物の千倍も悪魔的に
なり得るか、ということを彼は知りません。このよう
にして、感覚からぬけ出すにつれてわれわれはより高
い享楽の力を開発するが、また同時により高い苦しむ
力をも開発しなければならない、ということになるの
です。神経がより繊細になって、苦しみに対して敏感
になるのです。あらゆる社会において、われわれはし
ばしば、無知凡庸の人がののしられてもあまり感じず、
むしろよいむちうちと受けとるのを見いだします。し
かし紳士はののしりのたったひとことをもしのぶこと
はできません。それほど神経がするどくなっているの
です。幸福の感受性とともに不幸がふえたのです。こ
のことは例の進化論者の説を証明する役にはたちませ
ん。幸福になる力をふやすにしたがって、われわれは
不幸になる力をもふやします。しかもときおり私は、
幸福になる力が等差級数的にふえるなら不幸になる力
は幾何級数的にふえる、と考えたくなるのです。進歩
しつつあるわれわれは、自分たちが進歩すればするほ
どより多く、よろこびと同時に苦しみにむかって通じ
るみちがひらかれて行くのを知っています。これがす
なわちマーヤーです。


 このようにしてわれわれは、マーヤーはこの世界を
説明するための理論ではない、ということを見いだし
ます。それは要するに、われわれの存在のそもそもの
根底が矛盾であるという、どこに行くにもわれわれは
このおそろしい矛盾を通りぬけて行かなければなら
ないのだという、善のあるところにはかならず悪があ
り、悪のあるところにはまたかならず何ほどかの善が
あり、生のあるところにはそのかげとして死がつづき、
そしてほほえむ者はかならず泣かなければならない
し、その逆もまた真であるという、ありのままの事実
の宣言にほかならないのです。この事実は改善するわ
けには行きません。われわれは、善のみで、すこしも悪
のないところや、ほほえむばかりで泣くことのないよ
うな世界があるだろうと、たしかに想像はするでしょ
う。しかしこれは、ことの性質上あり得ないものです。
どこに行ってもおなじで、かわることはないのですか
ら。われわれの中にほほえみを生みだす力のあるかぎ
り、そこにはなみだを生みだす力がひそんでいます。
幸福を生みだす力のあるところにはかならず、われわ
れを不幸にする力がどこかにひそんでいるのです。
 


このように、ヴェーダーンタ哲学は楽観的でもなけ
れば悲観的でもありません。これら二つの見方の両方
を表明し、物ごとをありのままに受け取るものです。
それは、この世界は善悪、幸不幸の混合であって一方
をふやそうとすれば必然的に他方をもふやさなければ
ならない、ということをみとめます。完全によい世界
とか完全にわるい世界などというものは決して存在し
ないでしょう。そういう考えそのものが矛盾なのです。
この分析によってあきらかになる偉大な秘密は、善と
悪とは二つの切りはなされた別々の存在ではない、と
いうことです。われわれのこの世界に一つとして、善
という要素だけでなり立っている、と言えるものもな
いし、悪一色でなり立っている、と言えるものもない
のです。
いま善とあらわれているのとまったく同一の
現象が、明日は悪と見えるかもしれません。ここで不
幸を生みだしているものと同義ものが、あちらでは
幸福を生みだすかもしれません。子供にやけどをおわ
せる火が、餓死寸前の男のためによい食物を調理する
こともあるのです。不幸の感じをつたえるのとおなじ
神経が幸福の感じをもつたえるのです。それゆえ、悪
を絶滅する唯一の方法は善をも絶滅することです。ほ
かに方法はありません。死を絶滅するためには、われ
われは生をも絶滅しなければならないでしょう。死の
ない生や、不幸をみとめない幸福は矛盾です。また
それらが単独で見いだされることもありません。なぜ
なら、いずれの場合にも、両者はそれぞれ同一の事物
のことなったあらわれにすぎないのですから。
きのう
私がよいと思ったことを、いま私はよいと思いません。
私は自分の生涯をふりかえって、さまざまの時期に自
分の理想であったものを見て行くと、まさに右の通り
であることを知るのです。あるとき、私の理想は一対
のたくましい馬をかることでした。またあるときには、
私は、もし自分がある種のキャンデーをつくることが
できれば自分は完全に満足するだろうと思いました。
のちには、妻と子供たちとたくさんの金とを得たなら
自分は十分に満足するだろうと想像しました。今日私
は、これらすべての理想を、単なる子供じみたナンセ
ンスとして一笑に付すのです。


 ヴェーダーンタは言います、われわれをして自分の
個人性を失うことをおそれさせるような理想−われ
われはいつか、自分の過去をふりかえって、自分がか
つてそのような理想をいだいたことがあるのを、おか
しく思うときがくるにちがいない、と。われわれは誰
でも、自分たちは非常に幸福であるだろう、と考えて、
この肉体をしかし、われわれがこの考えを一笑に付すときがくる
にちがいありません。さて、もしこれがほんとうだと
すれば、われわれは手のほどこしょうのない矛盾の中
にいることになります。存在でもなければ非存在でも
ない、幸福でもなければ不幸でもない、両者の混合で
す。それでは、ヴェーダーンタおよびその他の哲学や
宗教は何の役に立つのですか。また、まず第一に、よ
いおこないはなんの役に立つのですか。これが心にう
かんでくる疑問です。悪をなさずに善をなすことはで
きず、幸福をつくり出そうとすればかならず不幸がと
もなう、というのが事実なら、人びとはたずねるでしょ
う、「善をなすのは何のためであるか」と。その答え
は、第一には、われわれは不幸をへらすためにはたら
かなければならないのだ、それがわれわれ自身を幸福
にする唯一の道である、というものです。誰でも、お
そかれはやかれ、その生涯のうちにはこのことを発見
します。聡明な人びとはすこしはやく、愚鈍な人びと
はすこしおくれて発見します。愚鈍な人びとはこの発
見のために非常に高価な代償をはらい、聡明な人びと
はよりすくないあたいですませるのです。第二には、
われわれは自分の本分をはたさなければならないので
す。なぜなら、それがこの矛盾の生活を脱出するたっ
た一つの道なのですから。われわれがついにゆめから
さめてこのどろまんじゅうの製造を放棄するようにな
るまで、善の力と悪の力との両方が、われわれのため
にこの宇宙を生かしつづけて行くでしょう。この課業
を、われわれはおさめなければならないのです。しか
もそれを学びつくすには、長いながいときを必要とす
るのです。


 無限者が有限のものとなった、という考えを基礎と
して哲学体系をつくろうという、いくつかのこころみ
がドイツでなされました。このようなこころみはイギ
リスでもなされています。これらの哲学者たちの見
解を分析するとつぎのようになります。すなわち、無
限者はみずからをこの宇宙に表現しようとつとめて
いる、そして、無限者がこのことに成功するときがく
るであろう、と。それは非常に結構です。われわれも
無限とか、あらわれとか表現とかいうような言葉をつ
かってきました。しかし、哲学者は当然、有限なもの
は無限を完全に表現することができる、という言明の、
論理的な根拠を要求します。絶対者および無限者は、
限定をうけてはじめて、この宇宙となることができる
のです。感覚を通して、または心を通して、または知
性を通してはいってくるいっさいのものは、限定をう
けなければなりません。そして有限なものにとっては、
無限者になるということは不合理以外の何ものでもな
い、絶対に不可能なことです。一方、ヴェーダーンタ
はつぎのように言っています、「絶対者すなわち無限
者が、みずからを有限なものの中に表現しようとつと
めていることは事実である。しかし、それは不可能だ、
ということを知るときがくるであろう。そのときには、
それは退却をしなければならないであろう。この退却
がすなわち、宗教の真のはじまりであるところの放棄
である」 と。ちかごろは、放棄については語ることさ
え非常に困難です。
アメリカでは、人びとが私のこと
を、死んで五千年間うずめられていた土の中から出て
きて、放棄のことをしゃべっている男だ、と言ってい
ました。おそらくここイギリスの哲学者も、おなじこ
とを言っているのでしょう。


しかし、放棄が宗教への
唯一の道である、ということはほんとうです。放棄せ
よ、そしてあきらめよ。キリストはなんと言いました
か。「私のために自分の生命をうしなう者は、それを
得るであろう」くりかえしくりかえし、彼は完成への
唯一の道として放棄をときました。


心が、このながく
荒涼とした夢からさめるときがやってきます。子供は
あそびをやめて母親のそばにかえりたいと思うので
す。「欲望は、欲望の充足によっては決して満足しない。
バターをそそぎこまれた火のように、それはいっそう
もえさかるのみである」 という言葉が真実であること
を知るのです。



 これはすべての感覚的享楽、すべての知的享楽およ
びその他の、人間の心が享受することのできるかぎり
いつまでもたもっておきたいと思います。
のあらゆる楽しみについて言えることです。それらは
何ものでもありません。それらはマーヤーの中に、わ
れわれがとじこめられているこの網目細工の中にある
ものです。たとえその中を無限の時間にわたってはし
りまわっても、われわれはおわりを見いだすことはで
きません。そして少しばかりの楽しみを得ようと努力
すればかならず、大量の不幸が頭上におちてくるので
す。何というおそろしいことでしょう!

そして、
よく考えると、私はこのマーヤーの説、すべてはマーヤー
である、というこの宣言が、最上の、そして唯一の説
明である、と思うほかはないのです。
なんと多くの不
幸が、この世にはあることでしょう。そしてもしみな
さんが諸国を旅行するなら、ある国でその悪をある
方法でなおそうとしていると、はかの国ではそれを別
の方法でなおそうとしているのを見いだされるでしょ
う。まったくおなじ悪がさまざまの民族によってとり
あげられ、それをふせぐためにさまざまの方法がここ
ろみられています。しかも、いまだかつて、このこと
に成功した国はないのです。もしある國において悪が
おさめられると、はかの國に大量の悪があらわれてい
ます。つねにこの調子です。ヒンドゥ民族は、民族の
中に高度の貞節の精神をたもつために幼児結婚をみと
めましたが、ながい間にこのことは民族を退化させる
結果となりました。同時に、私はこの幼児結婚が民族
をより貞潔にするのを否定することはできません。ど
ちらがよいでしょうか。国民がより貞節であることを
欲すると、幼児結婚によって男女とも肉体的に弱くな
るのです。一方、イギリスでは、みなさんはもっとう
まくやっているでしょうか。そうではありません。な
ぜなら貞潔は民族の生命なのですから。みなさんは歴
史の中で、一民族の滅亡の最初のきざしはつねに不倫
であった、という事実を見てはいらっしゃいませんか。
これがはいってくると、民族のおわりは目に見えてい
るのです。それなら、これらの不幸の解決はどこにも
とめたらよいのでしょうか。両親がその子供たちのた
めに夫なり妻なりをえらぶなら、この不幸は最小限に
とどめらるれのです。インドの娘たちは、センチメン
タルであるより、もっと実際的です。彼らの実生活の
中には詩はほとんどありません。また、人びとが自分
でその妻や夫をえらんでみても、それがたいした幸福
をもたらすとは思われないのです。一般に、インドの
婦人は非常にしあわせです。夫婦のあらそいの事件は
そんなに数多くはありません。ふりかえってみて、最
大の自由が通用しているアメリカでは、不幸な家庭や
不幸な結婚の数が多いのです。不幸はここにもあり、
あそこにもあり、いたるところにあります。それは何
を示しますか。これらすべての理想によっても結局、
たいした幸福は得られなかった、ということです。わ
れわれはみな幸福を得るために奮闘しますが、一方に
多少の幸福を得るやいなや、他方に不幸がやってくる
のです。

 それでは、もう善をなすためにはたらくことはやめ
ましょうか。いや、いままでよりもっと熱心にはたら
かなければなりません。しかしながら、右の知識がわ
れわれにあたえるたまものは、われわれの狂信をたた
きこわしてくれる、ということです。イギリス人はも
はや、狂信者となってヒンドゥ教徒をのろうようなこ
とをしないでしょう。はかの諸国民の風習をうやまう
ことをまなぶでしょう。狂信はへり、熱心な働きの方
がふえるでしょう。狂信者ははたらくことができませ
ん。彼らは、そのエネルギーの四分の三を浪費するの
です。はたらくのは、おだやかで平静な、実際的な人
です。それゆえ、この思想によってはたらく力がふえ
るでしょう。これが世のありさまだと知れば、辛抱づ
よくなります。不幸や悪の光景も、われわれに心のバ
ランスをうしなわせたり、かげぼうしのあとをおいか
けさせたりすることは、できないでしょう。したがっ
て、世界はそれ自身の道をすすむはかないのである、
ということを知って、われわれは忍耐力を身につける
でしょう。たとえば、もしすべての人間が善良になっ
てしまったとしても、やがて動物たちが人間に進化し
てきて、おなじ状態を通らなければならないのです。
植物とて同様です。しかし、たった一つのことは確実
です。大河は海にむかって突進しています。そしてな
がれを構成する水滴の最後の一滴までが、やがては無
辺際の大海にながれいるのです。そのように、この人
生において、そのすべての不幸とかなしみ、そのよろ
こびと微笑となみだにもかかわらず、一つのことは確
実です。すなわち、いっさいのものは彼らのゴールに
むかって突進しつつあり、あなたも私も、草木もけも
のも、そしてあらゆる微生物までもが、完全という無
限の大海に達すること、自由に達すること、神に達す
ることはただ時間の問題なのです。


 
もう一度くりかえしましょう。ヴェーダーンタの見
解は厭世主義でも楽天主義でもありません。それは、
この世界はことごとく悪であるともことごとく善であ
るとも言いません。それは、われわれの悪も善におと
らぬ価値があり、われわれの善といえども悪より価値
があるというわけではない
とときます。これらは一
っにつながっているものです。これが世界なのです。

このことを知りつつ、あなたは忍耐をもってはたらく
のです。何のために。なぜわれわれははたらかなけれ
ばならないのですか。これがことの真の状能であるな
ら、どうしょうがありますか。なぜ不可知論者になら
ないのですか。近代の不可知論者もまた、この問題の
解決法のないことを、われわれの言葉で言うマーヤー
の、悪から脱出する道のないことを知っています。そ
れゆえ彼らは、現状に満足して人生を享楽せよと言う
のです。ここにふたたび、あやまりがあります。非常
なあやまりです。もっとも非論理的なあやまりです。
それはこうです。あなたは人生を何だと思いますか。
単に感覚だけのためのものだと思いますか。この点で、
われわれはみな、けものたちとはほんのすこしばかり
ちがうのです。ここにおいでのみなさんの中には、感
覚のみの生活をしているような人は一人もいらっしゃ
らないはずです。それなら、この現在の生活は、それ
以上の何ものかを意味しているのです。われわれの
感情、思い、および熱望はすべて、われわれの人生の
眼目です。 そして、偉大な理想をめざしての、完成を
めざしての努力は、われわれが人生とよんでいるもの
のもっとも重要な構成要素の一つなのではありません
か。不可知論者たちにしたがえば、われわれは人生を
あるがままでたのしまなければなりません。しかし
の人生はまず第一に、この理想の探求を意味していま
す。人生の本質は、完成にむかって行くことです。わ
れわれはそれを獲得しなければなりません。ですから
不可知論者になったり、この世界のあらわれだけをう
けとったりしているわけには行かないのです。不可知
論の立場は、この人生から理想的要素をのぞいたもの
を実在するすべてとみなします。そして不可知論者は、
これに到達することは不可能である、それゆえ探求は
あきらめなければならない、と主張します。これはマー
ヤーとよばれるものなのです。この自然、この宇宙な
のです。



 すべての宗教は、大なり小なり、自然を超越しよう
というこころみです。もっとも粗野なものでももっと
も開発されたものでも、神話または象徴によって表現
されているものでも、神々、天使または悪魔の物語で
も、または聖者か賢者か偉大な予言者たちの物語に
よって表現されているものでむ、または哲学の抽象に
よって表現されているものでも、すべてがこの一つの
目的を持っています。すべてが、これらの限定を超越
しようと努力しています。ひとことで言えば、彼らは
ことごとく、自由にむかって苦闘しているのです。人
は意識的にも無意識的にも、自分はしぼられている、
と感じています。彼は、自分がこうありたいと思って
いる通りの存在ではないのです。このことを彼は、自
分の周囲を見まわしはじめたその瞬間におしえられま
した。まさにその瞬間に、彼は自分が束縛されている
ことを学びました。同時に、自分の中に、肉体のつい
て行けないはるかかなたにとんで行きたいと欲するの
だが、しかしこの限定によってしばりつけられている、
何ものかが存在するのを見いだしました。祖先やその
他の死霊を礼拝するというもっとも低級な宗教思想の
中にさえ、この場合、その死霊たちは大方粗暴で
残酷で、流血や飲酒をこのみ、縁者の家々のまわりに
ひそんでいる、というようなものなのですがーーこの
ような宗教の中にさえ、われわれはあの共通の要素、
自由という要素を見いだすのです。神々を礼拝したが
る人は神々の中に、まず第一に自分が持っているのよ
りも大きい自由を見ます。彼は、扉がしまっていても
神々はそれを通過することができる、壁は神々にとっ
ては限定ではない、と考えます。自由の観念は次第に
増大してついに人格神の理想に到達します。その中心
概念は、彼は自然の限定、すなわちマーヤーの限定を
こえた存在である、というものです。私は眼前に、い
わばつぎのような光景を見ます。例の森の中のかくれ
家で、この問題があの古代インドの賢者たちによって
論議されています。そしてその中の一カ所では、もっ
とも高齢でもっとも尊い聖者たちさえ解決に達するこ
とができないのに、一人の若者が一座のまん中に立ち
あがって宣言します、「ききたまえ、あなた方不死の
子らよ。ききたまえ、最高の場所にすむ人びとよ。私
は道を発見した。やみのかなたにいる彼を知ることに
よって、われわれは死をこえることができるのである」
と。



 このマーヤーはいたるところにあります。それはお
そろしいものです。それでもわれわれは、それの中で
はたらかなければなりません。世の中がすっかりよ
くなってから働き、そして至福をたのしもう、などと
言っている人の成功率は、ガンガーのほとりにすわっ
て、「河の水が全部海に流れこんでしまったらわたろ
う」と言っている男のそれと同程度です。道はマーヤー
とともにあるのではありません。それにさからってい
るのです。これは、学ばなければならないもう一つの
事実です。われわれは自然の協力者として生まれたの
ではありません。自然の競争相手として生まれたので
す。われわれは奴隷の主人です。それなのに自分みず
からをしぼりつけているのです。なぜこの家はここに
あるのですか。自然がそれをつくったのではありませ
ん。自然は言います、「行って森の中にすめ」と。人
は言います、「私は家をつくろう、そして自然とたた
かおう」と。そして彼はその通りにします。人類の全
歴史は、いわゆる自然の法則に対するたえざるたたか
いです。そしてついには、人がかつのです。内面世界
に目をむければ、そこにもまたおなじたたかいがおこ
なわれています。動物的人間と霊的人間との、光と闇
とのこのたたかいです。そしてここでもまた、人が勝
利者となります。彼はいわば、自然を脱して自由にい
たる彼の道をきりひらくのです。



 そこでわれわれは、ヴェーダーンタの哲学者たちは
マーヤーのかなたに、マーヤーにしぼられないあるも
のを発見するのだ、ということを知ります。もしそこ
に到達することができれば、われわれはマーヤーにし
ぼられないでしょう。この思想は、何らかのかたちで
あらゆる宗教にふくまれている共通の要素です。しか
しヴェーダーンタにあっては、それは宗教の単なるは
じまりであって、宗教の究極ではありません。人格神、
この宇宙の支配者兼創造者とよばれる、マーヤーすな
わち自然の、支配者の観念は、これらヴェーダーンタ
の観念の最後のものではありません。それはほんのは
じまりです。この観念は、成長に成長をかさね、つい
にヴェーダーンティストは、いままでそとにたってい
ると思っていた彼は、ほんとうはうちにいる彼みずか
らである、ということを見いだすのです。彼は自由な
者であるのに、限定によって、自分はしぼられている、
と思っていたのです。


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